月曜日, 11月 10, 2025
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9世帯の家主が意見交換 つくば「もん主の会」初会合

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「もん泊仕様」に改修する計画が進む塚本さん宅の長屋門=つくば市大

【鴨志田隆之】NPO法人つくば建築研究会(つくば市台町、小玉祐一郎理事長)が主催する第1回もん主の会が27日、つくば市大の塚本康彦さん宅で開かれ、長屋門への民泊機能を付加する「もん泊プロジェクト」の趣旨説明が行われた。会合には研究会の坊垣和明副理事長をはじめ、古民家研究の筑波大学・山本幸子准教授、オブザーバーとしてつくば市都市計画部・大塚賢太次長が出席。家主側では塚本さんほか市内在住の9世帯11人が参加した。

「もん泊プロジェクト」は、古い農家に点在する長屋門を利活用し、イベント会場としての提供や貸店舗展開などを経て、最終的に宿泊機能を実現させることが目的。坊垣副理事長は「関東地方の農家や商家独特の様式である長屋門を地域資源として活かし、文化交流や経済活動を掘り起こすことがねらい。つくば市内には217軒の長屋門が現存しており、江戸末期から大正時代の建築など幅広い歴史的価値が眠っている。これらを改修して維持・宿泊運営するためのビジネスモデルを模索中だが、まず家主の皆さんに主旨を理解していただき、賛同を得なくてはならないと考えている」と述べた。

長屋門の利活用について現状が語られた「もん主の会」

家主側からは現在の長屋門の維持状況がそれぞれ説明され、多くの建物が物置扱いであるか、老朽化が進み維持していくこと自体が負担になっている実態が紹介された。もともと古い建築である上、2011年3月の東日本大震災で大きなダメージを受けたことが老朽化を加速させているという。

「次の代に相続させるとしても、使い道の無い状態では税負担も馬鹿にならない」「土台をなんとか保たせ、何か良い活用のアイデアがないかと年月を消費している状況」といった声が出る中、塚本さんからは「一足飛びに問題が解決できるわけではない。もん主だけでなく、地域との相互理解も必要だと思う」との意見もみられた。

塚本さん宅の長屋門をモデルケースとして「もん泊仕様」に改修する準備を進めている研究会では今後、プロジェクトに参加している建築家や地元工務店の協力を経て、改修内容や費用概算を見積もることにしている。もん主の会については今後も機会を見て継続する考え。11月1日には市民シンポジウムも開き、ビジネスモデルとしてどんなケースが実現可能かなどの討論を行う予定だ。

《食う寝る宇宙》70 新たな太陽活動サイクルが始まった!

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【コラム・玉置晋】2019年12月より新たな太陽活動サイクルに突入していたことが公式発表されました。太陽活動には活発な時期(極大期)と静かな時期(極小期)があります。この欄(コラム67)で「間もなく、新たな太陽活動サイクルの始まりが宣言されることでしょう」と述べましたが、アメリカの航空宇宙局(NASA)からプレスリリースが出ましたので、その一部を抜粋して紹介します。

NASAプレスリリース

太陽サイクル25がここにある。NASA、NOAAの科学者はそれが何を意味するのか説明する。

第25太陽活動サイクルが始まった。火曜日(9/15)のメディアイベントで、NASAと米国海洋大気局NOAAの専門家は、新しい太陽周期に関する分析と予測、そして宇宙天気の活発化が地球上の私たちの生活と技術、そして宇宙の宇宙飛行士にどのような影響を与えるかについて話し合った。

NASAとNOAAが共催する国際的な専門家グループであるソーラサイクル25予測パネルは、2019年12月に太陽の極小値が発生し、新しい太陽周期の開始を示したと発表した。我々の太陽はとても可変なので、このイベントを宣言するには実際の数ヶ月後までかかることがある。科学者は太陽周期の進捗(しんちょく)状況を追跡するために太陽の黒いシミ(黒点)を観測する。黒点は太陽活動に関連しており、太陽フレアやコロナ質量放出などの巨大な爆発の起源として、光、エネルギー、太陽物質を宇宙に噴出す可能性がある。

NASAとNOAAは、連邦緊急事態管理局やその他の連邦機関や部門と共に、国家宇宙天気戦略とアクションプランに協力して、宇宙天気の準備を強化し、宇宙天気の危険から国を守る。

宇宙天気予報は、アルテミス計画の宇宙船や宇宙飛行士を支援するためにも重要である。この宇宙環境を調査することは、宇宙飛行士の宇宙放射線被ばくを理解し、軽減するための第一歩である。ゲートウェイから行われる最初の2つの科学調査は、宇宙天気を研究し、月軌道上の放射線環境を監視する。科学者たちは予測モデルに取り組んでいるので、気象学者が地球上の天気を予測するのと同じように、いつか宇宙天気を予測することができる。

「悪天候というものはない、あるのは準備が悪ことだ」と、NASAの有人探査・作戦ミッション総局の主任科学者ジェイク・ブリーチャーは言った。「宇宙天気とは何か、我々の仕事は準備することである」。

僕らもしっかりウォッチ

アメリカの宇宙天気防災に関する取り組みは本気です。僕らもしっかりウオッチしていきたいと思います。(宇宙天気防災研究者)

天候不順にイノシシ被害、コロナ禍にもめげず 筑波山麓で稲刈り

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鎌を手に稲刈りする参加者たち=つくば市神郡

【相澤冬樹】稲刈りシーズンも最終盤、つくば市神郡の「すそみの田んぼ」で26日、NPO法人つくば環境フォーラム(田中ひとみ代表)による体験学習会「谷津田と森のガイドツアー」が開かれ、市民参加の稲刈りが行われた。筑波山麓の山すそに開かれた田んぼは今年、天候不順やイノシシ被害に悩まされた上、コロナ禍から市民参加による活動もままならず、悪戦苦闘の中、収穫の秋(とき)を迎えた。

学習会で多様な生態系をアピールする田中代表=同

すそみの田んぼは「生きものと共存するコメ作り」を掲げ、同フォーラムが2006年から取り組んでいる谷津田再生事業。例年秋には多くの家族連れを集め、収穫祭を兼ねての体験学習会を開いてきたが、今回は新型コロナ対策から大人限定で呼びかけ、約10人の参加で行われた。

細草川上流の「田んぼ」には、ホタルやカエル、タガメなど水生生物をはじめとする生きものが多数生息する。乾田化することのない谷津田は、多様な生態系を維持する環境だが、大型の農業機械が入らず手間がかかるため、農業者の高齢化に伴い全国的には耕作放棄が広がっている。同フォーラムでは約0.8ヘクタールの田んぼを隣りの山林と合わせて借り、あぜ道を作り、耕起した上で、主に手植えや手刈りによる稲作を行ってきた。田んぼボランティアや田んぼオーナーなど市民参加で通年プログラムを運営している。

今季はコロナ禍で、5月上旬に行う田植えイベントから縮小を余儀なくされ、栽培スケジュールが間延びした。全面無農薬栽培による稲作を実現できたが、天候不順、特に7月の長雨、日照不足が生長に大きな影響をもたらした。稲穂の実入りが思わしくないという。

加えてイノシシの出没時期が例年より早まり、8月から活動が見られるようになった。山側からの進入に備えて鉄製のフェンスを張り巡らしたが、今季は川側から二度にわたり侵入された。特に古代米の被害は甚大という。台風の直撃がなかったことで、倒伏イネは少なかったが、天候不順とイノシシ被害から、「作況指数でいったら50に満たないのでは」(スタッフの永谷真一さん)という最悪の状況になった。

それでも小雨混じりの天気のなか集まった参加者は、稲刈りをそれぞれに楽しんだ。一株ひと株を鎌で刈り取り、イネを束ねて稲木に掛け天日乾燥させる「おだがけ」作業まで取り組んだ。前後に学習会や自然観察、食事会など盛りだくさんのメニューを用意したため、短時間の稲刈り体験になってしまったのが残念な様子。

阿見町から参加の中山広子さん(70)は「小学生時代から約60年ぶりの稲刈り、おもしろくてもうちょっとやりたかった。来年は田植えから参加したい」と汗をぬぐった。

【気分爽快 りんりんロード】4 ヒルクライムに熱中 志賀旭さん

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りんりんロードを走る志賀旭さん

【田中めぐみ】筑波学院大3年の志賀旭さん(21)は、昨年4月、兄の大海(ひろみ)さんに誘われたのがきっかけでつくば霞ケ浦りんりんロードを走り始めた。休日の早朝、つくば市内の自宅から出発して土浦駅まで行き、りんりんロードに入って平沢官衙遺跡(つくば市平沢)まで走る。そこから、つくば市と石岡市の境にある標高294メートルの不動峠、筑波山南東の尾根に位置する標高412メートルの風返し峠、つつじが丘駐車場に上るヒルクライムコースが特にお薦めだそうだ。

坂を上りきる達成感

「ヒルクライムはとにかく体力勝負。余った体力を坂にぶつけている。頂上まで上り切った時の達成感が最高」と志賀さん。「ギアを軽くして上る人もいるが、自分は軽くせず、一度も止まらずに強い踏み込みで上っていく。動いている、確かに前進していると感じられるのがヒルクライムの楽しさ」と顔をほころばせる。

不動峠の平均勾配は7%。途中10%を超える急傾斜もある。風返し峠を過ぎると標高は500メートルになる。兄の大海さんと、どちらが早く着くか競い合うこともあるそうだ。

つつじケ丘駐車場から筑波山神社に向かいダウンヒルで下りてきた後、りんりんロード沿いの筑波休憩所近くにある「松屋製麺所」(つくば市沼田)で食べるラーメンは感動の味だそう。「サイクリスト向けに駐輪用の自転車スタンドが置いてあり、席数もメニューも少ないが、安くてめちゃくちゃおいしい」

お薦めの松屋製麺所でラーメンを食べて休憩する志賀さん=つくば市沼田

バイトしクロスバイク購入

志賀さんが初めてクロスバイクを手に入れたのは昨年10月。大学に進学してから物流倉庫で荷物を仕分けするアルバイトを始め、貯めたお金で購入した。同時にヘルメット、スパッツ、シューズと、ペダルを固定するクリートという器具なども購入し、本格的に自転車に取り組み始めた。

クリートを使ってペダルにシューズを固定すると、ペダルを引き上げたり回したりする動作が安定し、ヒルクライムでもダウンヒルでも効率的な走りができるようになった。しかし、ペダルから足を外すのにコツがあり、慣れないうちは足が外れず何度も転んでけがをした。転びながらコツを覚え、今では自在にペダルを操れるようになったと話す。

どこにでも行ける自由さが魅力

元々自転車で走ることが好きだったという志賀さん。小学校から高校時代まで自転車で通学していた。自宅から高校までは片道およそ13キロあり、自転車通学で基本的な体力が付いたという。

りんりんロード付近には様々な史跡があることから、地域の歴史に興味を持つようになり、在籍する筑波学院大の社会貢献活動「オフ・キャンパス・プログラム(OCP)」では、文化財を案内するボランティア活動を行った。

「自転車で行動範囲が広がると同時に自分の世界も広がったように感じる。自転車さえあれば自分でどこにでも行ける、その自由さに取りつかれてしまった」

観客席2倍、付帯施設も つくば市が陸上競技場たたき台

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つくば市陸上競技場整備基本構想策定検討会議第2回会合の様子=24日、同市役所

【鈴木宏子】陸上競技場の規模や立地場所などを改めて検討する、つくば市陸上競技場整備基本構想策定検討会議(座長・萩原武久つくば市スポーツ協会会長)の第2回会合が24日、同市役所で開かれ、事務局の市スポーツ振興課から施設規模のたたき台が示された。

上郷高校跡地を想定した昨年2月の案と比べ、観客席を2倍の4000席にするほか、付帯施設として雨天走路(室内走路)、多目的広場、セミナーハウスを整備する案が示された。

たたき台は、8レーン(直線は9レーン)の400メートルトラックを整備し、内側のインフィールドは天然芝とする、観客席はメーンスタンド2000席と芝生スタンド2000席の計4000席とするなど、日本陸上競技連盟の施設基準で第3種公認相当規模の整備をする。駐車場収容台数は400~500台程度とする。

一方、昨年の上郷高校跡地案は、トラック内側のインフィールドは人工芝、観客席は計2000席程度、駐車場台数は190台程度だった。

ほかに付帯施設として、3レーンの雨天走路を整備する案のほか、競技場の周囲に、出場選手がウオームアップできる多目的広場、市民が散策できるジョギングコース、遊戯空間を整備する案が出された。さらに会議室や研修室を備え、地元企業と連携した物販などもできるセミナーハウスなどの整備案も盛り込まれた。避難場所とし、防災備蓄倉庫の整備案も示された。市によると、全体面積や総事業費などは次回以降示すという。

委員からは、付帯施設について「サブトラック(多目的広場)を備えた競技場は大きな規模の競技会を誘致しやすい」「雨天走路がある競技場は少なく付加価値が高まる」など好意的に受け止める意見が相次いだ。

一方、施設の公認基準を第4種(加盟団体の大会・記録会に使用)とするか第3種(加盟団体等の対抗競技会等に使用)とするについては委員から「3種でも4種でもやれることが一緒であれば税金なので4種でいい」「4種をとって後から3種に格上げするのはコストがかかるので市民の理解を得るのは難しい」などの意見が出て、事務局が改めて検討することになった。

次回第3回会合は11月上旬に開かれ、規模や立地場所などが検討される予定。

利用想定は年2日?

【取材後記】陸上競技場はだれが、どれくらい利用するのか。24日の会合で市から具体的に示された利用想定は、中学校の記録会(小学校の記録会は取り止め)と、つくば陸上競技選手権大会の年2日間だけだった。委員からは、規模の大きい競技会誘致の期待が語られたが、大会名は出ず、具体的検討はなかった。一方、稼働率について市スポーツ振興課から、大会・イベント開催を月2回として年間10万人の集客が最大目標という考えが示されたが、想定の根拠は明らかにされなかった。

住民投票に至った総合運動公園問題の反省を経て、市が18年9月に策定した大規模事業の進め方には「民意の適切な把握を行い、事業の必要性、妥当性等について、市民や専門家からの意見等を求めた上で、慎重に事業の対応方針を決定する」とある。陸上競技場計画の進め方は、総合運動公園問題の反省がどう生かされるかの試金石だ。注意深く監視したい。

➡同検討会議第1回会合はこちら

《ひょうたんの眼》30 土浦、茨城から始まった地域ケア

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地域ケアの概念図

【コラム・高橋恵一】1987年4月、茨城県の高齢福祉課に高齢化社会対策企画室が設置された。当時、日本の人口の高齢化は、急激に進行しつつあった。全国的には、その現象を単なる老人福祉問題としていたが、県では、高齢化社会問題として考え、新しい組織を設置したのであった。

高齢化社会の行政課題を検討・抽出し、それらの対策の方向をまとめたのが「茨城わくわくプラン」(1988年3月)、茨城県高齢化社会対策である。施策は、高齢者の健康福祉対策から、住宅・交通環境など多岐にわたり、竹内(藤男)県政では唯一といえる、福祉部が主導したソフト政策であった。わくわくプランについては、別の機会に譲りたい。

高齢化の進行で、特に深刻な問題が老人介護であった。有吉佐和子の小説「恍惚(こうこつ)の人」で問題提起されたことが、現実になっていた。そのような状況下で、国内各地でモデル的に老人医療・福祉サービスに取り組んでいる事例があった。その一つが、国立霞ケ浦病院(現霞ケ浦医療センター、土浦市)で整形外科部長の関先生が中心となって取り組んでいた「地域医療カンファランス」である。

足を骨折した老人が、手術治療をして退院しても、帰宅後のリハビリが充分でないため、歩くことができなくなってしまった事例があり、病院スタッフが相談をして、当時、訪問看護が認められていない中で、看護師さんが無償でリハビリ、生活指導に当たった。

治療は、病院だけでなく、家庭や地域と連携しなくては完成しないとして、関係者のカンファランスを始めたものである。参加者は、土浦市内の他の病院や診療所の医師や看護師、リハビリ技術者、保健師や市福祉課の職員、社会福祉協議会の職員など、全員時間外に無報酬の参加であった。先日まで、このNEWSつくばでコラムを執筆していた室生勝先生は、カンファランスの創設メンバーの1人である。

「土浦市ふれあいネットワーク」

茨城県では、この取り組みをシステム化・事業化し、対象者一人ひとりについて、それぞれの在宅ケアチームを組み対応する仕組みとした。

さらに、対象者とチーム活動の状態を常に把握し支援するコーディネーターを配置した。事業主体は市町村とし、事業の核となるコーディネーターの人件費を県が補助することとした。1988年度、地域ケアシステムモデル事業を開始し、土浦市は対象市町村となり、「土浦市ふれあいネットワーク」の事業名で今日まで継続している。

県の地域ケアは、2000年度の介護保険制度のスタートに当たって、介護サービスのモデルとなり、さらに、国は2025年を目標に「地域包括ケアシステム」の構築を目標としている。

掲載したイラストは、30年前の手書きの茨城地域ケア概念図である。国の包括ケアの概念図に酷似している。自助ではなく、30年前から土浦や茨城が目指してきた、一人ひとりの高齢者の自立を支援するシステムとして充実するよう期待するところである。(地図好きの土浦人)

街づくりコンサルの伊藤春樹さん サロン開き集大成の提言へ

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きまぐれサロンをスタートさせた伊藤春樹さん(右端)=22日、土浦市中央、井戸端庵

【鴨志田隆之】土浦市やつくば市などで39年間、街づくりを手掛けてきた、街づくりコンサルタント、聚文化研究所(美浦村)代表の伊藤春樹さんが22日、土浦市中央の集会施設、井戸端庵で「きまぐれサロン」をスタートさせた。これまで請け負った調査や施設設計、市民活動の集大成として、コロナ禍を経たこれからの暮らしや働き方、コミュニティの在り方について模索・提言していく考えだ。

第1回会合には、NPOまちづくり活性化土浦の堀越昭副理事長、つちうら亀の市実行委員で琴奏者の高梨美香子さんなど11人が参加し、改めて伊藤さんのプロフィールや、街づくりコンサルティング事例が紹介された。

伊藤さんは岩手県釜石市出身で、東京電機大学工学部で建築を専攻した。その後、筑波大学大学院で環境科学を学び、1981年に株式会社聚文化研究所を設立した。土浦市では歴史的町並み整備再生策定調査や中城通り整備基本設計を担当したほか、第2次つくば市総合計画、つくば市田園居住区調査などに携わった。

伊藤さんは「長く土浦で仕事を続けてきて、県南の要衝というだけでなく、土浦をひとつの拠点とした集落と街並み、霞ケ浦の豊かさを次代に継承していきたいと考えるようになった。それらの話題をきまぐれサロンの主たるテーマにして、2カ月に1度くらいのペースで意見交換したい」とサロン立ち上げの趣旨を述べる。

なぜ今回の活動を思い立ったのかについては「聚文化研究所を設立した当時の、将来の環境変化予測が現実のものとなってきたから」と唱える。「異常気象の多発や、温暖化の影響が顕著になることは、40年前から警鐘が鳴らされていた。少子高齢社会も現実のものとなってきた。そこへ新たな危機として浮上したのが新型コロナ問題。暮らしの在り方を変えていかねばならないと感じ、人と地域社会をつないでいくための提案を残したい」と話す。

提言は主に伊藤代表が関わる市民活動の場でアピールしていく考え。今後は、霞ケ浦流域の歴史・文化・産業について広く意見を集め、街づくり、地域交流への要望を収集する活動に広げていく。

《宍塚の里山》69 最近ヘビが増えた! 人気の親子観察会

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シマヘビの幼蛇とアオダイショウ幼蛇(円内)

【コラム・及川ひろみ】宍塚の里山では、今年はヘビが多く、日に数回見ることもあります。かつてはどこにでもいたヘビですが、最近は少なくなっている―そんな中での出来事です。

ヘビといえば、その言葉を聞いただけで、顔をそむける方もいると思います。しかし、ヘビ好きの方も結構多く、観察会で一番人が集まったのはヘビ観察会。200人の親子がやって来たこともありました。これは、当会が主催する各種観察会の参加者レコードです。

なぜヘビが里山に増えたのか? もちろん、餌になる生き物が増えたからです。以前、カエルが好みそうな湿地や田んぼを増やしたら、赤ガエルが6倍に増えたことがありました。赤ガエルは春先、水があるところに産卵しますが、その卵塊を数えれば大体の生息数がわかります。

カエルは生きているものしか食べないことから、環境の変化を捉えるバロメーターです。卵塊を数えることができる唯一のカエルがアカガエル。6倍に増えたときには、環境保全の意味が実感できました。

里山には3~4年前から、どこからやって来たのか不明なカエル、ヌマガエルが定着しました。その繁殖力は半端でなく、今ではあちこちでピョンピョン、踏みつぶしそうなほどです。その結果、それまであまり見なかったヘビが増え、人前でも見られるようになりました。普通、ヘビは人が近づく前に素早く身を隠しますが、それでも見られるようになったのです。

「マムシって、どんな虫ですか?」

ヘビは、アオダイショウ、ヒバカリ、シマヘビ、ヤマカガシ、マムシなどが見られます。足元によく注意して、藪(やぶ)に足を踏み入れるときには、特にマムシに注意してくださいと話します。先日若いお母さんから、「マムシって、どんな虫ですか」と質問されました。そんな時代になってしまったのです。

そこで子どもがやって来る観察会の開始時には、「マムシ・スズメバチ注意」と熱っぽく語ります。そんな怖いヘビならいない方がいい? いえいえ、生き物は生態系で考えることが重要で、マムシもその大切な一員です。

一番普通のヘビはアオダイショウです。農家や広い庭のあるお宅なら、いまでも結構見られます。アオダイショウの幼蛇はマムシにそっくり。よく似た模様で、近付くと頭も三角にして威嚇、かみつくこともあります。どうしてこのような姿や動作を手に入れたのか、自然界には不思議があふれています。シマヘビも幼蛇と親とは大違いです。

蛇の観察会。子どもは興味津々で、講師が持つ蛇に触りたくてうずうず。そして親は遠巻きに。しかし観察会が終わるころになると、ほとんどの親と子どもは恐る恐る手を出します。すべすべした触り心地、不思議な感触に引き込まれます。(宍塚の自然と歴史の会 前代表)

半年遅れで入学式 筑波学院大

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望月学長を前にアクリル板越しで宣誓する新入生代表の堀江紅音さん(中央)=23日、筑波学院大学大教室

【鈴木宏子】筑波学院大学(つくば市吾妻)で23日、入学式が催された。コロナ禍、4月の入学式を取り止め、半年遅れとなった。2020年度の新入生203人はこの日初めて一堂に会した。

前期はすべての授業がオンラインで行われた。後期から対面での授業が始まるのを前に、式典が挙行された。

感染防止対策として、会場の窓を開け、新入生は座席を1席ずつ空けて着席した。父母らの参加は断わった。

望月義人学長は「皆さんは自宅やアパートでパソコンやスマホに長い時間向き合ってきた。早く大学に行って友達と話がしたい、退屈で仕方ないという声もあった」と話した。さらに300年前、ペストが流行して大学が休校になった1年半の間に、万有引力の法則などを発見したニュートンの創造的休暇について触れ、「やがては陳腐化する知識や技術を単に受け入れるのではなく、課題は何かを考え抜いて、正解のない問題を解決に近づけるにはどうしたらいいか、突き止める力を養ってほしい」と式辞を述べた。

橋本綱夫理事長は「後期からは皆さんを大学でお迎えしたいという思いで、多くの教職員が様々な準備を重ねてきた。大学としても検温システムや学内のネットワークの整備を行い、学食にもパーテーションを設置し、安心安全に過ごせるようさまざまな準備をした。ぜひ安心して勉強に励んでいほしい」とあいさつした。

これを受けて新入生代表の堀江紅音(あかね)さん(下妻二高卒)は「前期は思わぬ形での大学生活スタートとなり、オンライン授業にとまどうことも多かったが、何とか前期を終えることができ、一つの自信となった」と述べ、「これからの情報化社会を生きていくため、正しい情報を選択する力を身に着け、建学の理念である知識、徳、技術を体得し、社会に貢献できる人間として羽ばたけるよう日々精進していきたい」などと宣誓した。

同大では、9月下旬から始まる後期は、4分の3の授業が対面式または、対面とオンラインを組み合わせた授業になるという。一方いまだに来日できず母国でオンライン授業を受ける留学生もいるという。

感染防止対策として、建物内に入る際、タブレットに顔を近づけて検温するシステムが新たに導入されたほか、同日オープンした学生食堂も、各テーブルにアクリル板が設置され、4人掛けのテーブルは斜めに2人掛けで座るようにするなどの対策が施された。

〈新刊〉つくばのIT社長がひもとく「ことばがこどもの未来をつくる」

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初上梓の著作を手に仁衡さん=つくば研究支援センター

【相澤冬樹】「ことばがこどもの未来をつくる」は、ラボ教育センター(本社・東京)の創設に参加した詩人、谷川雁(たにがわ・がん、1923-95)がつくったキャッチフレーズだ。そっくり表題に採った『ことばがこどもの未来をつくる 谷川雁の教育活動から萌え出でしもの』(アーツアンドクラフツ)は、仁衡琢磨(にひら・たくま)さん(50)による9月の新刊。著者は、研究開発型のIT企業、ペンギンシステム(つくば市千現)を率いる気鋭の経営者だと紹介すると、何かと飛躍が多すぎて、さらに説明がいりそうだ。仁衡さんに話を聞いた。

全人的な教育は芸術作品

谷川雁は、戦後活躍した詩人・思想家として一般には知られるが、1965年から80年にかけ、文壇を離れていた「沈黙・空白」の15年間があった。実はその間こそ、教育活動に専念した時期で、子どものために生きた「教育運動家」の姿が見られると仁衡さんはいう。

1966年に榊原陽らと立ち上げたラボ教育センターは現在、「ラボ・パーティ」名で、子どもに対し、主に英語を通じてコミュニケーション教育、異文化交流などを行う活動の運営会社になっている。「いわゆるペラペラ英語教室とは違う。英語を中心に学ぶが全人的な教育を目指している。母国語、母国文化を大事にしながら外国文化を学ぶ。その中心に物語とことばがあった」

谷川は「らくだ・こぶに」の筆名で、同センターの『ことばの宇宙』などに執筆、ラボ活動の素材となる「ラボ・ライブラリー」(英語・日本語の朗読つきの絵本)に、オリジナル童話や、世界の童話や日本神話を翻案した作品を発表した。アイルランド民話に基づく「グリーシュ」や「ピーターパン」などの物語がある。

ラボ教育には全国2000カ所以上にパーティと呼ばれる教室があり、毎回数人の子どもたちが参加、「詩的センスあふれる作品が1センテンスずつ交互に日本語と英語両方で語られる。教育が芸術作品になっている」そうだ。

日立市生まれの仁衡さんは1976年から84年、小学1年から中学3年まで約9年間、ラボ教育を受けた。実は母の恭子さん(80)が同センターのテューターだった。ラボ教育では指導者をテューターと呼び、会員をラボっ子と呼ぶ。中学2年でアメリカへ1カ月間のホームステイに参加するなど、多感な思春期時代に受けた教育の影響は大きかった。

母親は今でも現役のテューター。この独創的な手法の民間教育が50年以上も続いていることに意味がないはずがない、と本書は3部構成で谷川の思想をひもといた。仁衡さんによれば「第1部は現代にこそ必要な民間教育の在り方を論じ、それを実際に受けて育った私がどう生きたかを後追い実証研究的に記した。第2部ではラボ・ライブラリー作品を取り上げ、実際的に中身に踏みこんだ」。第3部は谷川雁のほか、森崎和江や鶴見俊輔らの表現者に触れての評論になっている。

理系・文系と分ける馬鹿らしさ

仁衡さんは県立水戸一高卒。1988年、上智大学文学部哲学科に入学するものちに退学。1997年、27歳のとき、都内で暮らしていたアパートの隣人との縁からソフトウェア開発会社であるペンギンシステムに入社。2006年、36歳の時に会社の経営を引き継ぎ、同時に会社をつくば市に移転させ「第2の創業」を図った。東京時代6人だった従業員は現在31人に、オーダーメイド型のソフトウェア開発企業として顧客らに好感されている。

2015年からは研究開発型企業約30社の連合体である一般社団法人茨城研究開発型企業交流協会(IRDA)の会長を務める。2019年には産業の発展に貢献があったとして茨城県から表彰を受けた。

傍目には飛躍の多い経歴にみえても、本書で「理系・文系という馬鹿馬鹿しさ」を説いている。「本来、学びに境界線はなく、全人的な力を養うことが大事なはずなのに、自らの学びの場を限ってしまうのは自分で自分に枷(かせ)をはめているようなもの、もったいない」

◆仁衡琢磨著『ことばがこどもの未来をつくる 谷川雁の教育活動から萌え出でしもの』(アーツアンドクラフツ刊)、A5判並製・カバー装、本文364頁、定価3190円(税込み)

《県南の食生活》17 栗王国茨城 「筑波」「ぽろたん」

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栗の渋皮煮

【コラム・古家晴美】今年は長い梅雨、夏の猛暑と続いたが、ようやく秋の気配が感じられる。先日、旬を控えまだ小ぶりの栗の実をいただき、渋皮煮を作って初秋の味覚を楽しんだ。

茨城県の栗生産量は、10年以上、全国1位を誇っている。県南地域の生産地としては、かすみがうら市、石岡市をはじめ、つくば市、土浦市などが挙げられる。これから秋が深まるにつれ、店頭にも多く並ぶことだろう。

栗は縄文時代の遺跡からも出土され、日本人にとっては馴染(なじ)み深い食べものだ。ニホングリの原生種と考えられているシバグリは、北海道中部から九州南端まで自生しており、それを採取して食用としていた。7世紀末になると、諸国で栽培を奨励する記録が残っており、栽培の歴史も古い。最古の産地は、丹波地方とされている。

茨城県で本格的に栽培され始めたのは、近代に入ってからだ。しかし、1936(昭和11)年には、他県を圧倒して大量の茨城栗がアメリカに輸出されている。では、「栗王国茨城」の礎は、どのように築かれたのであろうか。

下志筑村 (しもしづくむら、旧千代田村、現かすみがうら市)の長谷川茂造は、1898(明治31)年に山林を開墾し、苗産地(川口市安行)から取り寄せた苗を植え付け、栗栽培を始めた。当時、このような形での栗園経営は全国的にも珍しく、周囲の人を驚かせたと言う。

「芋名月」、「豆名月」「栗名月」

その後、丹波栗や栗の接ぎ木法について研究していた水戸出身の八木岡新衛門が、郷里に戻り千代田村の栗栽培を指導した。千代田地方では、1919(大正8)~25(同14)年にかけて、栗の栽培面積が2倍、生産量が1.6倍へと急成長を遂げた。

また、東京帝大農学部で八木岡の後輩、中志築村の大地主・兵藤直彦も、冷害に強い栽培方法を見つけ、新品種の育成に努めた(『常陽藝文』1997年10月号)。このようにして、現在の「栗王国茨城」は、これらの人々の献身的な努力によって支えられてきた。

その後も、大粒の品種「筑波」や渋皮がきれいに剥(む)ける「ぽろたん」など新品種に改良され、茨城の栗は進化し続けている。

ところで、今年の「十五夜」は10月1日だ。供物として、月見団子とススキを飾るが、地域により芋を供えるところも多く、「芋名月」とも言う。これに対し、旧暦9月13日(今年は10月29日)は「十三夜」で、「豆名月」「栗名月」とも呼ばれている。栗や豆を13個ずつ供える。

月の出方を見ながら、十五夜は大麦、十三夜は小麦の作柄を占うものとされてきた。この晩に晴れていれば豊作になるという。十五夜の中秋の名月を鑑賞する慣習は、古代に中国から伝来したが、十三夜は日本独自のもので、十五夜と両方そろわない「片月見」を嫌った。国産小麦の自給率が低迷している昨今だが、今年の占いはどのように出るだろうか。(筑波学院大学教授)

コロナ禍の生活困難者支援団体を応援 市民基金が9団体に助成

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つくば市内の助成団体。左からUDワークの前田亮一代表、LANSの浅井和幸代表、つくば遊ぼう広場の会の活動の様子

【山崎実】茨城のための市民コミュニティ基金「いばらき未来基金」(水戸市、事務局・茨城NPOセンター・コモンズ内)は、新型コロナウイルス感染拡大の影響で生活困難な県民を支える活動を応援する「誰かのために募金」を創設した。

これまで集まった寄付約260万円(協力44人・団体)を原資に、つくば市の居住支援法人LANSなど9団体(総額200万円)に助成することを決め、15日水戸市内で助成金贈呈式を行った。

いばらき未来基金は、地域のつながりを育む市民活動と、それらを応援する市民や企業などをつなぐ市民コミュニティ基金で、NPO、労働組合、農協、生協、大学などで構成する運営委員が連携し、コモンズ内に事務局を設置した。

2012年から運営を始め、「誰かのために基金」は未来基金活動内の基金の一つ。

助成金は県内各地で支援活動を行う団体などに贈るもので、「多くの県民からの寄付が地域で役立てられ、団体同士のつながりをつくり、活動を多くの県民に知ってもらいたい」と期待している。

助成団体と活動内容は次の通り。

▽UDワーク(つくば市、38万円)=在宅高齢者のオンラインサロンの普及や、高齢者のITサポートを実施する。

▽つくば遊ぼう広場の会(つくば市、10万円)=同市の流星台プレイパークで、子どもたちが泥んこ遊び、虫取り、木工工作等で自由に遊ぶことを支援する。

▽LANS(つくば市、37万円)=低所得者や被災者、高齢者、障害者、子育て世帯など、住宅の確保に特に配慮を必要とする人に、支援物資を届けるための車両を購入する。

▽ami seed(阿見町、助成額10万円)=地区公会堂で家庭の余剰食料品を持ってきてもらうフードドライブ活動を行ったり、塾に通っていない小中学生の無料勉強会を開催したり、自立支援ホームで暮らす子供たちに月1回、町内の様々な飲食店から購入したお弁当を届ける。

▽NPO法人あっとホームたかまつ(鹿嶋市、助成額25万円)=新型コロナで影響を受けた子育て世帯に、テイクアウト弁当や食材木工キットを配布する。

▽きらきらスペース(牛久市、10万円)=子育て困窮世帯などにお弁当や学習の問題集などを無償で配布する。

▽坂東市生活学校こども食堂(坂東市、10万円)=地域の飲食店から順番に弁当を買い上げ、ひとり親家庭や高齢者世帯など生活困窮世帯に配達する。

▽水戸こどもの劇場(水戸市、30万円)=多胎児や子育て不安がある保護者を対象に、オンラインとリアルの子育てサロンを開催する。

▽グランドワーク笠間(笠間市、30万円)=商店街、市民応援の出前サービスをする。

同基金の問い合わせはコモンズ内(電話029-300-4321)。

《続・平熱日記》70 水戸の歴史館で学んだこと

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【コラム・斉藤裕之】ここ数年でカミさんと県内をよく回った。この日訪ねた水戸の歴史館で茨城の歴史を見ながらそう思った。「魅力のない県、茨城」。私も始めはこの手のランキングに目くじらを立てるのは大人気ないと思っていたが、万年最下位効果?もあってか不思議と茨城をメディアでよく見かけるような気がする。

例えば、U字工事(ゆーじこうじ)のネタがなぜ受けるのか。これが20位とか30位の東京から遠い地方ではつまらない。つまり、茨城は今や「万年最下位のいじられキャラ」としてのおいしい地位を築きつつあるということか。

さて展示も終盤に差し掛かったころ、「廃藩置県」というところに目が留まった。「牛久県、知事、周防(すおう)の守…」? 周防といえば我が故郷・山口県東部。「周防だって」とかみさん。ググってみる。なんと、長く牛久藩を治めた領主は戦国時代に周防の国からはるばる呼ばれた方で、それに因(ちな)んで姓を山口氏としたそうだ。

「そうじゃったんか!」と山口弁で呟(つぶや)きそうになった。ちと大袈裟(おおげさ)だが、たまたま住んでしまったと思っていた牛久に、少しだけ運命的なものを感じた。しかし、この微妙な感動を誰と分かち合えるわけでもなく、とりあえず共感してくれそうなのは、縁あって牛久で2棟の家を建てた山口に住む弟くらいのものか。

「今日は終戦記念日じゃ」

実は歴史館に来たのは、カミさんの同僚の方が企画に携わった展示をやっているとのことで、お供することになった次第だ。35度を超えた気温も手伝って、「茨城と戦争」というテーマはちょいと気が重かったのだが。

私の故郷は海軍の燃料所があったところで(今も数万トン級のタンカーが出入りする)、戦時中は空襲を受け、母はよくその話をした。学校の先生も、よく戦争中の体験を語った。時代は高度経済成長期。忙しくておかずの少ない夕餉(ゆうげ)には「今日は終戦記念日じゃ」、ご飯をがっついて食べる様子を見ると「欠食児童がおるよ」などと、まだまだそんな言葉が日常的に使われていた。

そんなことを思い出しながら見る戦時中の白黒写真に写っているのは、どこかで見かけたような今の若者たちとよく似た顔の青年たちだ。

「茨城? 結構いいところだよ!」

最近気になることがある。震災以降のことだろうか。子供たちまでもが「ぼくらのプレーでみんなを勇気づけたい…」とコメントし始めたことだ。そう、スポーツやエンターテイメントの世界で、よく耳にするようになった。そんなことを考えて試合をされたり、歌われたら堪(たま)らない。頼むから、そんな薄っぺらい大人の受け売りはやめてくれ。

将来に向けて、自分で考えることのできる子供を文科省は育てるらしいが、国や会社にいいように使われないような教育のことかな? 戦争に反対する糸井重里さんの名コピーを思い出した。「とにかく死ぬのやだもんね」。

20年前に、今住んでいる土地を探してきのはたカミさん。帰りに立ち寄った直売所で、新鮮で美味しそうな野菜や果物でいっぱいになったカゴを抱えてご満悦。「茨城? 結構いいところだよ!」(画家)

10カ月ぶり出場の高橋竜也が判定勝ち コロナ禍、声援禁止し拍手で応援

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【高橋竜也―城後響】第7R、城後響(右)の顔面に左ストレートを打ち込む高橋竜也=つくば市竹園のつくばカピオ

【崎山勝功】日本バンタム級7位の高橋竜也(29)=土浦市出身、ヤマグチ土浦=が20日、つくばカピオ(つくば市竹園)で催された「東日本大震災復興チャリティー ダイナミックヤングファイトボクシングinつくば」(ヤマグチ土浦ボクシングジム、ヤマニ主催)に出場し、城後響(26)=大阪府出身、三迫=と対戦、3―0で相川に判定勝ちを収めた。高橋の通算成績は今回の勝利を含め47戦32勝21KO9敗6分。

高橋は昨年11月9日の試合で負傷して以来約10カ月ぶりの出場となった。中盤辺りから積極的な攻めを見せキレのある攻撃を展開、左ストレートを城後の顔面に決めるなど攻勢を強めたが、城後も粘り強く試合を進め、全8ラウンド(R)終了し、判定に持ち込まれた。結果、3人の審判が高橋優位と判定し、勝ちが決まった。

試合後、高橋は「声援が無くても応援してくれる気持ちは伝わった。チャンピオンになってみんなに感謝を返したい」と、今後への意欲を示した。

根本は判定負け、人見は3R TKO負け

同日の試合では、根本裕也(34)=つくば市出身、同=もスーパーウエルター級で足名優太(26)=東京都出身、渡嘉敷=と対戦。出血しながら全6Rを戦い抜き善戦したものの、判定で勝利を逃した。根本の通算成績は17戦6勝1KO9敗1分。根本は「ちょこちょこと相手から(パンチを)もらっていた。相手の方が強かった」と試合を振り返った。

人見信男(35)=土浦市出身、同=は小安慎吾(24)=東京都出身、三迫=と対戦。前回のデビュー戦に敗れたため何としても初勝利を飾りたかったが、小安の攻勢に押され3R49秒でレフェリーストップがかかりTKO(テクニカルノックアウト)負けを喫した。人見の通算成績は2戦0勝2敗。人見は「相手のパンチも良かったし、自分も打ち返すチャンスがあったけど、相手に飲まれて最後はストップ負けになってしまった」と語った。

感染防止対策を徹底

コロナ禍、試合会場では感染防止対策が徹底して行われた。観客はホール入り口前で体温検査を受けた後、連絡先を署名簿に記入して会場に入った。入り口が混雑したため、退場時に記入するように急きょ変更した。

観客席は1階リングサイド席を通常の約3分の1に減らし、2階は1席おきと2分の1に削減した。報道席もリングサイドからの撮影が禁止され、2階席から望遠レンズで撮影。東京から来たカメラマンは「上からだと迫力がある写真が取れない」と不満を口にした。

1席おきに養生テープで「×」印が付けられた2階観客席=同

選手入場の際に、ファンが選手名入りののぼり旗を立て、隊列を組んでの出迎えは取り止めになった。観客が声を出しての応援も禁止され、観客はマスクを着用して拍手のみの応援となった。メーン試合の高橋竜也―城後響戦では、1R目に2階観客席の子どもたちが「竜也がんばれー」と声を出して応援し、場内アナウンスが注意する一幕があった。

1試合終わるごとに、フェイスシールドとマスクを付けた運営スタッフが、リングに強酸性電解水を散布して消毒した。

会場の感染防止対策について東京から観戦に訪れた久米礼華さん(37)は「ソーシャルディスタンスをみんなで保って感染防止に努められればいいなと思った」と話した。つくばみらい市の井上直人さん(42)は「会場の雰囲気もいいし(感染防止対策を)ちゃんとやっている」と好意的に受け止めていた。

創作版画の草分け 永瀬義郎展 つくばの古書店

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ショーケース内の展示の様子

【池田充雄】県西出身で大正・昭和期に活躍した版画家、永瀬義郎の作品展「創作版画の草分け 永瀬義郎展」が、つくば市吾妻の古書店、ブックセンター・キャンパスで開かれている。展示作品は版画や絵皿など14点。一部は額装されて店頭に飾られている。ほかに表紙画を描いた雑誌や著書、画集なども展示している。

永瀬は1891(明治24)年、現在の桜川市入野に生まれた。県立土浦中学校を卒業後、白馬会洋画研究所を経て東京美術学校彫刻科に入学。ムンクの作品に影響を受け、版画制作を始める。1912(大正元)年、詩人、日夏耿之介や西條八十らが創刊した文芸同人誌「聖盃」(後に「仮面」と改題)に参加。表紙画や口絵を手掛けたほか、小説や戯曲、詩なども発表した。

同人誌「仮面」より、永瀬が表紙を描いたもの

創作版画に対する考え方は「仮面」1914(大正3)年9月号掲載の評論「現今の版画に就いて」に詳しい。当時、自画自刻の版画作品が増えてはいたが「皆装飾的趣味の遊技的産物に過ぎず、版画の独立した芸術としての価値を発揮している者は一人もない」と嘆き、一方で長谷川潔に対しては「白と黒の調和を基礎として簡潔にして偉大な印象」と讃え、広島新太郎については「刀のテクニックにも他の人と違った切れ味」があり「従来の版画と違った近代思想に触れた氏の個性のひらめき」が認められると述べた。

1916(大正5)年、永瀬・長谷川・広島の3人は本邦初の版画結社「日本版画倶楽部」を結成したが、翌々年には長谷川がフランスへ活動拠点を移し、自然消滅した。後に広島は晃甫の名で日本画家として名声を高め、永瀬は山本鼎らが創立した日本創作版画協会に活動の場を移していく。

1922(大正11)年に永瀬は技法書「版画を作る人へ」を上梓。当時の美術書としては異例のベストセラーになり、棟方志功や谷中安規ら多くの版画家に影響を与えたほか、多様な分野の芸術家に斬新な発想の転換をもたらしたという。今展では旧版と新版を展示しており、旧版の方は木版刷りの口絵が殊に美しい。

もう1冊の著書は1977(昭和52)年刊行の自伝「放浪貴族」。谷中安規や宇野浩二ら画人・文人との交遊が興味深い。土浦出身の随筆家で劇作家の高田保も登場する。永瀬は1923(大正12)年の関東大震災の後、東京の子どもたちを人形芝居で慰めようと高田に呼び掛け、坪内逍遙、島崎藤村、北原白秋、武者小路実篤らに援助を仰いだ。宇野宅では永瀬が人形を操って「舌切り雀」のひと踊りを披露し、高田が口笛で伴奏をつけたという。

永瀬は1929年(昭和4年)から7年間の渡仏を経て、帰国後も戦中・戦後を通して精力的に活動した。晩年はシルクスクリーンを改良した独創的な版画技法「ナガセプリント73」を駆使し、代表作「もの想う天使」や「女とこども」など、愛と幻想に満ちた作品を発表し続けた。

再評価の契機に

展示作品の一つ

「今回の展示は戦後が中心だが、戦前の作品の方が評価は高く、特に初期の木版画はかなり斬新。『版画を作る人へ』の口絵などを見ると、その良さがよく分かる」とブックセンター・キャンパス店主の岡田富朗さん。

今展の開催意図については「盟友の長谷川潔は世界的に有名だが、永瀬はいま一つ評価が低い。日本で最初に版画の展覧会を開いたすごい人なのに、今は知る人が少ない。版画のほか油絵や文章などマルチな才能を発揮したことも、日本では逆に軽視されやすい傾向がある」と話し、再評価の契機としたい考えだという。

◆同展は30日まで。会場のブックセンターキャンパスは同市吾妻3-10-12。営業時間は午前10時~午後4時。現在は不定休、来店前の電話確認が確実。電話029-851-8100(同店)。

《吾妻カガミ》90 つくば市長選 際立つ2候補の違い

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つくば市役所正面玄関サイド

【コラム・坂本栄】今秋のつくば市長選挙に、2期目を目指す五十嵐立青さんに挑戦すると、富島純一さんが立候補を表明しました。コロナ禍で選挙戦にならないのではないかと心配していましたが、42歳の五十嵐さんと37歳の富島さんの激突になりそうです。以前のコラム「つくば市長選 2つの風景」(7月6日掲載)でも触れましたように、政治家も政策も選挙で鍛えられます。若い2人のバトルが楽しみです。

挑戦者・富島さんの出馬会見については、「会社経営の宮島純一氏が出馬表明」(8月31日掲載)をのぞいてください。現職・五十嵐さんの続投表明については、「2期目へ、五十嵐市長が立候補表明」(2月27日掲載)をご覧ください。この間6カ月。選挙の構図がやっと整いました。

挑戦者と現職者 それぞれの強み

挑戦者にとって有利なのは現職の「失政」を突けることです。経営者歴16年の富島さんは記者会見で、五十嵐さんの失政(総合運動公園問題が未解決、TXつくば駅周辺整備が停滞など)を念頭に置いて、「1期4年で結果を出せないのでは動きが遅い。経営では毎年結果を出さなければ倒産してしまう」と、現職の力量に疑問を呈しました。

思い起こすと、4年前の選挙では挑戦者だった五十嵐さんも、前市長の失政(総合運動公園計画を発表市民の多くが計画に反対住民投票の結果を受け計画推進を断念)に乗じて、前市長の後継候補を破りました。攻めの富島さんが、今度は守りの五十嵐さんをどう攻めるのか、注目しています。             

出馬表明が遅れた富島さんにとって不利なのは、現職の五十嵐さんに比べ、知名度が低いことです。しかも、新型コロナ禍で大集会や小会合が思うように開けませんから、圧倒的に不利です。富島さんはこうしたハンディキャップを、印刷物の大量配布、ネットの活用などでカバーするそうですが、十分な展開ができるのか、こちらも注目しています。

「合意形成」型と「代表率先」型

五十嵐さんと富島さんのキャリアは対照的です。五十嵐さんは大学院卒で市民運動家・市議上がり、富島さんは中学卒で起業家・会社経営者上がりと、両候補のコントラストは際立っています。

会見で対抗馬との違いを質問された富島さん、「ひとつは学歴。もうひとつは、五十嵐さんはイケメン、私はこんな顔」と、笑いを取っていました。あとで聞いたところ、市長になるまで本格的に組織を動かしたことのない頭デッカチの五十嵐さんと、各種法人を立ち上げ現場を動かしてきた自分とでは地頭(じあたま)が違うと、引け目はありませんでした。

五十嵐さんの市政運営スタイル、富島さんの会社経営スタイルから見て、2人の違いは仕事の進め方の違いだと思います。市長としての五十嵐さんはコンセンサス(合意形成)型でしたが、富島さんはリーダーシップ(代表率先)型になるでしょう。今、つくば市が必要としているのはどちらでしょうか?(経済ジャーナリスト)

国勢調査の世帯一覧表を紛失 つくば市の調査員

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つくば市役所

つくば市は20日、同市沼田地区を担当する国勢調査の調査員が、25世帯の個人情報が記載された調査世帯一覧表1枚を紛失したと発表した。

市によると一覧表には、世帯主の氏名と住所、家族の男女別の人数などが記載されていた。

市企画経営課によると、調査員は19日午後10時ごろ、自宅で、国勢調査の書類の確認をしたところ、調査世帯一覧表1枚が無くなっていることに気付いた。自宅などを探したが見つからなかった。

翌20日朝、前日に調査票を配布するため訪問した世帯や移動経路を探したが発見できなかったことから、同日午前9時30分ごろ、警察に遺失届を出した。

市は21日以降、一覧表に個人情報が記載されていた世帯に状況を説明し謝罪するとしている。

さらに再発防止策として全調査員と指導員に対し、調査書類や個人情報に細心の注意を払い、書類の管理徹底やマニュアル遵守について改めて注意喚起するとしている。

今年は5年に1度の国勢調査の年で、同市では14日から20日まで、調査員が全世帯を訪問し調査票を配布している。

※つくば市は29日、紛失した調査世帯一覧表が発見されたと発表した。28日午前8時30分ごろ、調査票を配布した世帯から、一覧表が紛れ込んでいると連絡があり、調査員が発見者宅を訪問し回収した。

土浦一高~筑波大卒の若手落語家 リニューアルオープンの幕開け飾る

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幕開けの高座を務める立川志のぽん=クラフトシビックホール土浦小ホール(土浦市東真鍋)

【相澤冬樹】土浦市制施行80周年記念・クラフトシビックホール土浦(※メモ)リニューアルオープン記念と銘打って、最初のステージとなる「立川流若手落語家二人会」が19日、同市東真鍋町の同ホールで開かれた。幕開けを飾ったのは、地元、県立土浦一高と筑波大学を卒業した立川志のぽん=本名・広瀬敦さん(43)。コロナ禍で「辛抱の時」を過ごしての帰郷公演は、チケット完売の拍手喝采で迎えられた。

3密対策し高座に

楽屋で取材に応じる立川志のぽん=同

「二人会」は市産業文化事業団と同市民会館自主文化事業運営委員会が主催するホール落語。会場の小ホールは座席数288だが、新型コロナウイルス感染防止のため、前方2列を空席とし、3列目以降も間を1席ずつ開けて120席定員でチケットを販売、早々に完売した。

出演は立川志らく門下の立川志ら玉(真打)、立川志の輔門下の志のぽん(二つ目)の2人。それぞれ「目黒のさんま」「谷風情相撲」(志ら玉)、「金明竹」「粗忽の釘」(志のぽん)の2席ずつを演じた。

この日がリニューアル後最初の会館自主事業。客席減とはいえ完売となったのは、2人の落語家の経歴による。テレビ出演などの知名度には欠けるが、志ら玉は茨城大学、志のぽんは筑波大学の卒業という身近さが地元落語ファンの関心を引いた様子だ。特に志のぽんは石岡市生まれ、土浦一高を1995年に卒業しており、会場には同級生の姿もあった。

ステイホームで研さん

高校時代、テレビで立川談志の高座を見て、漠然と落語に興味を持ったといい、現代アート専攻で筑波大学芸術専門学群に進学後は落語研究会に籍を置いた。大学では修士課程を修了しながらも芸術でやっていけるか展望が得られず、東京で広告看板の製作会社に就職した。

その2年半後の2004年、都内の落語会で聞いた志の輔の落語に「衝撃を受けた」そう。弟子入りを志願し履歴書を送るなどして、師匠に会えたのは2005年1月、ほぼ即決で弟子入りが決まったという。

落語を一つ(演目「つる」)だけ覚えて、前座を務めた初高座は同年7月。それから演目50席を覚えて二つ目昇進は2013年4月、必ずしも順調な出世とはいえない。筑波大学出身の落語家には同期の三遊亭朝橘がいるが、17年4月に真打昇進している。

今年は、立川流で真打昇進の条件となる演目100席も手の届くところに迫り、勝負の年となるはずだった。しかしコロナ禍で都内の寄席は3月末までに相次ぎ休演、立川流が活動の場としている落語会や一門会も自粛を余儀なくされた。オンライン会議アプリを使った落語会も早々に供給過多になり、客席の反応のない一方通行の落語に志のぽん自身なじめなかったという。

「いまは辛抱の時期、技量を蓄える時期」と言い聞かせステイホームで研さんに励み、持続化給付金の受給で生活をやりくりしてきた。

6月になって3密対策をとった落語会がようやく開かれるようになった。「席と席の間隔を開け、マスクをしてもらっているので、やりづらさはある。しかし、このソーシャルディスタンスは今後も続いていくものと心得ていかなければならない」

後輩、林家扇兵衛と柳亭市寿による茨城県を活動の拠点とする落語家ユニット「いばらく」にも参加。細面ながら表情の豊かさが笑いを誘う。真打昇進に向けて新作落語を1本作らなくてはならないのが悩みの種で「ずっと難儀している。自分の言葉を探さないと」、まだ辛抱の時が続きそうだ。連絡先:090-9804-3670

  • ※メモ【クラフトシビックホール土浦】土浦市民会館。2019年1月から行ってきた耐震補強を含む大規模改修工事が完了し、20年6月2日に開館した。1019席の大ホール、288席の小ホールなどがある。リニューアル記念の各種公演が予定されていたがコロナ禍から軒並み休止、中止となっていた。指定管理者の同市産業文化事業団が管理・運営を行っている。

《霞月楼コレクション》8 一色五郎 地域を愛し地域に愛された彫刻家

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霞月楼

塑造のように柔らかな写実表現

霞月楼にある「白鷺(しらさぎ)」は、一色五郎が土浦に帰郷した頃の作品だ。冠羽や尾羽の優美な曲線など、実物かと見まがうほど写実的に表現されている。これは油粘土や石こうで造った原型を、星取り法という技術で木彫に起こしたため。

「白鷺」1947年頃、木彫彩色、高さ26cm、霞月楼所蔵

星取り法は明治期に導入された西洋の石彫技術で、東京美術学校で木彫に応用され広く普及したが、戦後は顧みられなくなった。「身近に残るものではこの白鷺くらいか。素晴らしい出来で僕も大好きな作品。大事にされているのはありがたい」と、五郎の子で牛久市在住の彫刻家・一色邦彦さんは話す。

ちなみに五郎の妻・千代子の実家は当時土浦で名をはせた料亭・日新楼で、霞月楼からは本家筋に当たる。

母の応援で彫刻家の道へ

一色五郎

一色五郎は1903(明治36)年、新治郡真鍋町内(現土浦市西真鍋町)に生まれた。祖父・範疇は土浦藩の国家老を務め、維新後は困窮した元藩士らの生活再建に尽力し、1878(明治11)年に県内初の国立銀行である第五十銀行(常陽銀行の前身の一つ)を設立。父・範叙は範疇の長子で2代目頭取を務めた。

五郎は幼少より手先が器用で、特に虫かご作りが得意だったという。母・鶴の「せめて下の子たちには好きな道を行かせたい」との願いにより、5男の五郎は彫刻家、弟の達夫は報道写真家の道を進むことになる。

1920(大正9)年に上京し、長谷川栄作に弟子入り。栄作は当時31歳の若さながら、この2年後には帝展審査員を拝命するなど、すでに彫刻界の第一線で活躍していた。余談だが長谷川家は江戸詰めの土浦藩士の家系で、乃木希典陸軍大将の母・壽子を出し、栄作は希典の甥に当たる。このため乃木将軍像を出世作としながら多彩な作品を造った。戦前の茨城県庁前庭にあった巨大な農人形像もその一つだ。

真鍋と満州に贈られた獅子頭

1923(大正12)年、五郎は東台彫塑会展で「闇ニ棲ム獣」が一等賞受賞。痩せさらばえた獣が獲物を求めるがごとく首を垂れたこの作品は、フランスの小説家アンドレ・マルローが来日時に「東洋の神秘主義の具現」と激賞したという。1924(大正13)年の「自像」が第5回帝展で初入選、1926(大正15)年には「牛置物」を皇太子に献上するなど、若くして高い評価を得た。

初期の代表作「望月」1930年、木彫、高さ44cm、「一色五郎彫刻展」図録より転載

1928(昭和3)年アトリエを王子町上十条(現北区上十条)に構え、1932(昭和7)年に結婚。翌年には師の長谷川栄作と共に芸術使節として満州国へ渡り、五郎は獅子頭を溥儀執政(後に皇帝)に贈った。これに際しては母が桑の苗木を売却し用立ててくれた資金で雌雄一対の獅子頭を造り、うち一つを真鍋町に寄贈した。邦彦さんによれば地元にある方が雄獅子だそうだ。

帝展にはその後も出品を重ね、1932年の第13回展で「軽機兵」が特選になり、以後無鑑査。1936(昭和11)年の文展招待展には「電信兵」を出品し、文部省買い上げとなった。1939(昭和14)年に陸軍美術協会が発足すると、その一員として時局に沿った作品を多く制作した。

県内の彫刻界で指導的立場に

1943(昭和18)年に家族を伴い帰郷。当初は大町に住み、後に若松町へ移った。子どもは4人とも男児で次男が邦彦さん、4男が建築史家で今年物故した一色史彦さん。大町の家は狭くて独立したアトリエは持てず、貧困の中で帯留めやペンダントなども彫って生活の糧にした。

終戦までの2年間は筑波山神社にこもり、山麓から食料を調達して自炊しながらイザナギ、イザナミの両神像を制作。終戦を告げる玉音放送を直立不動で聞き、B29の編隊が低空で飛来するのを見て残念に思う気持ちと、焦土から立ち上がる決意がわき上がるのを感じたという。

1947(昭和22)年の第1回土浦市展開催には中心的役割を果たし、後年まで運営に携わった。県展では1948(昭和23)年の第1回から審査員を務め、以後第10回まで出品を続けた。日展では1949(昭和24)年の第5回展から1967(昭和42)年の新第10回展まで計16回出品した。

1969(昭和44)年に脳血栓で倒れてからは療養生活を送り、1985(昭和60)年に82歳で永眠。「働き盛りの時期に戦争が重なり、いろいろと苦労したはずだが、愚痴や不平不満は一言も言わなかった。明治生まれの精神力だと思う」と邦彦さんは述懐する。

「希望の像」ブロンズ、1983年にカスミストアーが亀城プラザへ寄贈

郷土の偉人らを彫像にして顕彰

五郎は戦前・戦後期に郷土の偉人像を多数制作した。その顔ぶれを一部紹介しておく。藤森天山(弘庵)は幕末の儒学者で、土浦へ招かれ藩校・郁文館の創立に貢献し、後に江戸で私塾を開く。ペリー来航の際には海防論を説き、徳川斉昭に建白書を奉ずるなど活動した。

加藤桜老は笠間藩士で、水戸藩の会沢正志斎や藤田東湖に学び、江戸の昌平坂学問所に入った。笠間城下の隠居所「十三山書楼」には諸国から志士が集まり、後に高杉晋作らの推薦で長州藩校・明倫館の教授に迎えられた。

佐久良東雄は浦須村(現石岡市浦須)出身、善応寺(土浦市真鍋)の第18代住職を務め、天山や桜老らと交わった後、江戸で平田篤胤に国学を学ぶ。尊王論で各地を遊説し、桜田門外の変では幕府の手を逃れた水戸浪士を援助した。

色川三郎兵衛は元貴族院議員。日本鉄道海岸線(現JR常磐線)の敷設ルートを変更させ、線路の盛土を湖岸堤の代用とすることで、土浦の街を水害から救った。また川口川・田町川の逆水門建設にも尽力した。

助川喜四郎は大穂村(現つくば市大穂)出身のウイルス学者。犬への狂犬病の予防注射法を完成させたほか、鶏卵内培養法による天然痘ワクチンの製造に成功し「昭和のジェンナー」と呼ばれた。助川弘之元土浦市長の父。

藤川捨吉は県内の土木工事を多数手掛けた。土浦では海軍霞ケ浦飛行場建設工事、常南電鉄土浦-阿見線敷設工事、川口川埋設工事など。特筆すべきは桜川河口の16ヘクタールに及ぶ干拓事業で、ここが後に宅地造成され港町になった。

●取材協力・参考資料 一色邦彦▽茨城県近代美術館▽図録「一色五郎彫刻展」(1980年、県立美術博物館)▽雑誌「常陽藝文」142号(1995年3月、常陽藝文センター発行)・146号(1995年7月、同)▽新聞「いはらき」1985年12月7日付▽市村壮雄一「藤川捨吉」(1941年、土浦書房)▽真船始編「助川先生とその業績」(1958年、喜誠会)▽茨城県地域学習資料研究会編「茨城の先人たち」(1983年、光文書院)▽ウィキペディア

シリーズ協賛 土浦ロータリークラブ 土浦中央ロータリークラブ

《沃野一望》19 伊東甲子太郎の3 御陵衛士隊長伊東甲子太郎

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かすみがうら市中志筑、恋瀬川右岸から見た筑波山

【ノベル・広田文世】

灯火(ともしび)のもとに夜な夜な来たれ鬼

我(わが)ひめ歌の限りきかせむ  とて。

新選組のなかで「参謀」というナンバー2の地位をあたえられた伊東甲子太郎は、ひとつの隊内勢力、いわば伊東派を構築していったが、甲子太郎の野望は、そこにとどまるものではなかった。新選組全体を掌中(しょうちゅう)におさめ、尊王攘夷へむけ天下を動かす組織ののっとりをねらっていた。

しかし、もともとが京都守護職松平容保(かたもり)支配下の武闘殺人集団の新選組が、伊東甲子太郎の独断を容認するはずがなかった。とくに、もう一方のナンバー2、武闘派筆頭土方歳三は、ことあるごとに甲子太郎を排斥し、その旨を局長近藤勇へ注進した。

「このままでは新選組は、あやつに牛耳られてしまいます。斬りましょう」

近藤勇は、思案した。土方の憤懣(ふんまん)はもっともだ、さりとて、甲子太郎の組織力と舌鋒(ぜっぽう)は使い方次第だ。近藤は、他人を論破してゆく弁舌への秘かな憧れをいだいている。

そんな折も折、孝明天皇が崩御された。御山陵(ごさんりょう)が東山に築かれた。御陵を守備する兵が必要とされた。

ふってわいたこの役目に、裏で薩摩藩と連絡をとりあっていた伊東甲子太郎がとびついた。朝廷に、衛士の大任を志願した。

慶応三年六月、朝廷より拝命が下される。

伊東甲子太郎は、同志15名とともに新選組を“脱退”し、京都東山高台寺月真院(こうだいじ げっしんいん)へうつった。俗に「高台寺組」とよばれる。御陵衛士隊長伊東甲子太郎の誕生だった。

事実上の新選組脱退

新選組は、武闘殺人集団の性格上、組織維持のため、脱退者に極めて厳格な処分、すなわち、追撃し惨殺をもって対処する方針を堅持してきた。しかし、伊東甲子太郎たち15名にたいしては、当座の表面上、何の咎(とが)めもしなかった。

甲子太郎は、近藤勇に釘をさして去った。

「朝廷より、われらにたいし御陵衛士のご下命がありました。新選組を脱退するものではありません。高台寺で衛士の役目を務めるものです」

「仕方ないでしょう」

江戸深川から同志8人で新選組へ加盟した伊東甲子太郎は、新選組隊内活動で、あらたに賛同をえた者もふくめ、新組織の首領として京で動きだす。朝廷との連絡、薩摩藩との連携など、組織の基盤作りにぬかりはなかった。

しかし、大儀名分はどうあれ、事実上の脱退にちがいはない。土方歳三は、許せなかった。理屈をかざし脱退してゆく者を認めてしまえば、新選組はなりたたない。

さらに、隊内に残った隊士のなかにも「高台寺組」と連絡をとりあっている者の存在が発覚した。土方は、それらの者を、有無をいわせず斬り捨てた。

「伊東という黒幕を斬らねば、第二第三の裏切り者がでる。新選組は内部崩壊する」

土方の強腰に、局長近藤勇がおれる。

「わしにまかせろ。わしが始末をつける。隊内には、極秘だ」(作家)