土曜日, 7月 2, 2022
ホーム 土浦 土浦一高~筑波大卒の若手落語家 リニューアルオープンの幕開け飾る

土浦一高~筑波大卒の若手落語家 リニューアルオープンの幕開け飾る

【相澤冬樹】土浦市制施行80周年記念・クラフトシビックホール土浦(※メモ)リニューアルオープン記念と銘打って、最初のステージとなる「立川流若手落語家二人会」が19日、同市東真鍋町の同ホールで開かれた。幕開けを飾ったのは、地元、県立土浦一高と筑波大学を卒業した立川志のぽん=本名・広瀬敦さん(43)。コロナ禍で「辛抱の時」を過ごしての帰郷公演は、チケット完売の拍手喝采で迎えられた。

3密対策し高座に

楽屋で取材に応じる立川志のぽん=同

「二人会」は市産業文化事業団と同市民会館自主文化事業運営委員会が主催するホール落語。会場の小ホールは座席数288だが、新型コロナウイルス感染防止のため、前方2列を空席とし、3列目以降も間を1席ずつ開けて120席定員でチケットを販売、早々に完売した。

出演は立川志らく門下の立川志ら玉(真打)、立川志の輔門下の志のぽん(二つ目)の2人。それぞれ「目黒のさんま」「谷風情相撲」(志ら玉)、「金明竹」「粗忽の釘」(志のぽん)の2席ずつを演じた。

この日がリニューアル後最初の会館自主事業。客席減とはいえ完売となったのは、2人の落語家の経歴による。テレビ出演などの知名度には欠けるが、志ら玉は茨城大学、志のぽんは筑波大学の卒業という身近さが地元落語ファンの関心を引いた様子だ。特に志のぽんは石岡市生まれ、土浦一高を1995年に卒業しており、会場には同級生の姿もあった。

ステイホームで研さん

高校時代、テレビで立川談志の高座を見て、漠然と落語に興味を持ったといい、現代アート専攻で筑波大学芸術専門学群に進学後は落語研究会に籍を置いた。大学では修士課程を修了しながらも芸術でやっていけるか展望が得られず、東京で広告看板の製作会社に就職した。

その2年半後の2004年、都内の落語会で聞いた志の輔の落語に「衝撃を受けた」そう。弟子入りを志願し履歴書を送るなどして、師匠に会えたのは2005年1月、ほぼ即決で弟子入りが決まったという。

落語を一つ(演目「つる」)だけ覚えて、前座を務めた初高座は同年7月。それから演目50席を覚えて二つ目昇進は2013年4月、必ずしも順調な出世とはいえない。筑波大学出身の落語家には同期の三遊亭朝橘がいるが、17年4月に真打昇進している。

今年は、立川流で真打昇進の条件となる演目100席も手の届くところに迫り、勝負の年となるはずだった。しかしコロナ禍で都内の寄席は3月末までに相次ぎ休演、立川流が活動の場としている落語会や一門会も自粛を余儀なくされた。オンライン会議アプリを使った落語会も早々に供給過多になり、客席の反応のない一方通行の落語に志のぽん自身なじめなかったという。

「いまは辛抱の時期、技量を蓄える時期」と言い聞かせステイホームで研さんに励み、持続化給付金の受給で生活をやりくりしてきた。

6月になって3密対策をとった落語会がようやく開かれるようになった。「席と席の間隔を開け、マスクをしてもらっているので、やりづらさはある。しかし、このソーシャルディスタンスは今後も続いていくものと心得ていかなければならない」

後輩、林家扇兵衛と柳亭市寿による茨城県を活動の拠点とする落語家ユニット「いばらく」にも参加。細面ながら表情の豊かさが笑いを誘う。真打昇進に向けて新作落語を1本作らなくてはならないのが悩みの種で「ずっと難儀している。自分の言葉を探さないと」、まだ辛抱の時が続きそうだ。連絡先:090-9804-3670

  • ※メモ【クラフトシビックホール土浦】土浦市民会館。2019年1月から行ってきた耐震補強を含む大規模改修工事が完了し、20年6月2日に開館した。1019席の大ホール、288席の小ホールなどがある。リニューアル記念の各種公演が予定されていたがコロナ禍から軒並み休止、中止となっていた。指定管理者の同市産業文化事業団が管理・運営を行っている。
誹謗中傷するコメントはNEWSつくば編集局が削除します。
0 Comments
フィードバック
すべてのコメントを見る

陽性確認者数(公表日ベース)の推移

つくば市

土浦市

スポンサー

注目の記事

最近のコメント

最新記事

「キーパーソン」 《続・気軽にSOS》112

【コラム・浅井和幸】「キーパーソン」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。病院への入院や介護施設に入所するときの手続きや連絡先などの協力をする人を指すことがあります。家族などが担うことが多いですが、身寄りがない方の場合は弁護士や施設の職員などが担うこともあるようです。 それ以外に、地域福祉でも支援時に課題解決のカギを握っている人という意味で使われることがあります。例えば、コミュニケーションの取れないひきこもりの方への支援としてのキーパーソンとして、接する機会が多い家族や友人、すでに支援をしているワーカーなどが挙げられるでしょう。 「悪いのは自分ではない、社会の方だ」という信念から、支援者とは会いたくない、何をされるのか分からずに怖いと感じている方は多いものです。支援を受けるなんて迷惑をおかけして申し訳ないと考えて、かたくなに支援を拒む方もいます。 良い悪いではなく人は支え合い、その多様性の中で生きていくものです。生活上で何か支障があれば、頼れるところを頼ることは大切なことです。 しかし、頼ることに慣れていない人が、そうそう簡単に支援者を利用することを選択できないことは当たり前のことです。心身にある程度の余裕がなければ、新しいことを始めることがさらなるストレスになり、避けたくなるのは不思議なことではありません。 そのようなときに、新しいことを取り入れることができる、周りの少しでも余裕のある方に関わってもらうことは、事態を変化させることにポジティブな影響を与えます。いろいろな関わり方のできる人が周りにいることは、複数の選択肢を得ることになります。

あまり話さない息子と、あまり話さない私《ことばのおはなし》47

【コラム・山口絹記】あなたは、生まれてはじめて自分が発したことばを覚えているだろうか。 まぁ、覚えていないだろう。でも、親であれば自分のこどもが初めて発した意味のある(と思われる)ことばは覚えているのではないだろうか。我が家の上の娘も、最初は「まんまんま」とか「わんわん」とか、おそらく統計的にもよくあることばから話し始めていた。 しかし、下の1歳になる息子があまり話さない。 今年から保育園に通い始めたのだが、ついに保育園の先生に「あまり話さない」ということで心配されてしまっていた。普通はそろそろ「ママ」とか「わんわん」とかいうんですけど、ということらしい。かわいそうに、2人目のこどもということで、だいぶ適当に育てられている彼。母子手帳に書かれているような発育具合のチェックも適当になっていて気が付かなかった。 とはいえ、特に心配していなかったのには一応理由があった。保育園の先生にはなんとなく言えなかったのだが、すでにいろいろボキャブラリーがあったのだ。 一つは「でてって?(出ていけの意)」。何か気に食わないことが起きたり、私の帰宅時に飛び出すひとこと。これは姉のマネである。

日本はプーチンのロシアになるのか 《ひょうたんの眼》50

【コラム・高橋恵一】プーチンのロシアの理不尽なウクライナ侵攻を見て、日本の危機と防衛力の強化が叫ばれている。よくメディアに登場する「専門家」は、防衛省関係者・自衛隊幹部OB、あるいは旧大日本帝国の残影が残る関係者が大半だ。 「専門家」の解決策は、ロシアを押し返して、妥協できるところで停戦するシナリオだろうが、それまでにどれだけのウクライナ人が死ななければならないのだろう。ロシアの兵士は何万人死ぬのだろうか。世界の穀倉地帯の混乱で飢餓に陥る人々は16億人を超すとも予測されている。 プーチン大統領は、核兵器使用もいとわないという、無茶ぶりだ。NATO欧州加盟国は、防衛費をGDPの2%に増額するという。長期戦略として効果的かどうかも疑わしいが、少なくとも今のウクライナには間に合わない。 現在の日本の防衛予算は世界第8位。取りざたされているGDPの2%になれば、米国、中国に次いで、世界3番目の軍事費大国になる。 プーチンの侵略行為が、先の大戦のナチスドイツや大日本帝国軍の行動によく似ていることを考えれば、日本の防衛力強化は軍国日本の復活ともとられ、世界や日本国民が受け入れるとは思えない。世界は、そう見るのだ。 当然、中国もロシアも北朝鮮も、対抗して防衛力を強化する。それどころか、日本を警戒する意味で、韓国、台湾、フィリピンなどとの緊張も高めてしまうかもしれない。米国も、軍事産業部門以外からは、歓迎されないのではないか。

安売りカメラ店 《写真だいすき》9

【コラム・オダギ秀】また昔の話で、ゴメン。でも、店への愛を込めて書きたいのだ。とても若いころ、写真家仲間が頼りにしていた安売りカメラ店のことだ。 新宿の裏通りのその店は、間口が2、3間ほどだったろうか、住宅のような、お店とは思えないようなところだった。ガラスの引き戸を開けて入るとカウンターがあり、商品は並んでいない、カメラや写真の材料を売る店だった。近所にかつて浄水場があったので、その名前が付けてあった。 カウンターで「トライ、長巻き、2缶」のように言うと、無口な細っこいアンチャンが奥の棚から品物を持って来てくれた。貧しいカメラマンたちには、ありがたい安売り店だった。品物は並んでいないから、何というどんな商品か、価格はいくらならいいのか、わかる者だけが出入りする店だった。プロ機材ならまず手に入ったし、価格に不満なこともなかった。安かったのだ。 1年ぐらいしてからか、天井に穴を開け、2階の倉庫から品物をひもで吊り下げるようになって、品ぞろえとスピードが少し増し、店員も2人から5人くらいに増えたと思う。 昔、写真は、フィルムという感光シートか、それを細く巻いたロールで撮影していた。フィルムはパトローネという小さな金属ケースに巻き込まれていて、パトローネには36枚撮影分のフィルム入り、というのが普通だった。 プロやそのタマゴたちはパトローネ入りではなく、ずっと長くてコスパのいい100フィート入りの缶を買い、適当な長さにフィルムを切って、使用済みのパトローネに詰め、フィルム代を安くあげるようにしていた。