火曜日, 12月 30, 2025
ホーム ブログ ページ 89

ノスタルジア 街歩きが好きになった理由《訪問医は見た!》3

1
五木宗レンガ蔵(筆者撮影)

【コラム・平野国美】2002年に訪問診療のクリニックを立ち上げ、街の中をさまよう生活が始まりました。多動癖が子供のころからあり、落ち着きがない性分なので、外来診療の椅子に座っているよりも、この方が向いていたようです。問題は、患者さんへの義務があるので、この土地から離れられないことです。つまり、休みがないのです。

こうした中、どのように日常を楽しむのかが問題でした。ちなみに、私は酒やカラオケはいたしません。ギャンブルも駄目です。そこで見つけたのは、街歩きでした。そんなある日、仕事が終わって見てしまった風景が、水海道市(現常総市)の鬼怒川にかかる豊水橋の夕焼けでした。

これからの自分の仕事に不安があったころ、心に染みた風景です。そして、その可岸を見下ろすように立つ五木宗(ごきそう)レンガ蔵。旅行に出かけなくても、こんな風景が見られるのだと感謝した瞬間です。

実家が龍ケ崎で自転車卸業をしていたので、子供のころから、父親が運転するトラックの助手席に座り、この橋を何度も走っていたのですが、この素晴らしさには気づきませんでした。人の出会いも一期一会ですが、風景も、季節や時間帯のほか、見る側の心理状態も含めると、一景一会なのです。

風景を求め、むさぼるように旅

このとき、胸に湧いてくる感情はノスタルジアなのかもしれません。このノスタルジア、少し医師らしいことを言わせていただくと、元々は精神科の用語だったのです。18世紀ごろのヨーロッパ。戦地に送られた兵士たちに、戦況が劣勢になると湧き起こるネガティブな感情―故郷を思い出してホームシックを起こす状態です。

現代では精神科の領域ではなく、過去や時代を懐かしむ心理状態を表しているのではないでしょうか?

昭和の名作映画「男はつらいよ」の山田洋次監督が、この映画を作れなくなったのは、自分や主演の渥美清が歳を取ったからでなく、撮影できる場所がなくなったからだと話していた記事をどこかで読んだことがあります。

バイパス通り、ファミリーレストラン、郊外型ショッピングセンターと、どの地方も本来の風景を失っています。開業して5年ほど、全く休みが取れなかったのですが、その後、スタッフのおかげで休日が取れるようになり、風景を求め、むさぼるように旅をしています。その原点が、この水海道の風景にあるのです。もっと、日常にノスタルジアを!(現役訪問診療医師)

歩ける? 歩けない?《続・気軽にSOS》140

0

【コラム・浅井和幸】仕事を失い社員寮を出なければいけない、高齢なのでアパートが借りられない、暴力から避難してきた、預貯金も手持ち金もない―など、様々な理由で住まいが不安定な方を「住宅確保要配慮者」と呼びます。国交省の概念ですが、その方々を支援する法人を「住宅確保要配慮者居住支援法人」といい、都道府県から指定を受けて登録されます。

私が代表をしている一般社団法人LANS(ランズ)もこの居住支援法人で、5年前に茨城県第1号の指定を受けました。そこには、要配慮者やその家族、県内各自治体、他県にある刑務所などからの問い合わせに対応しています。

現在の状況を聞き取り、今後の生活の希望を加味して住まいを探します。そのあと、その住まいで安定していけるように支援します。方法は様々で、「どのようなことをしますか」と質問されたら、「遠くの親戚のような動きをします」と答えます。

相談の中で、初期費用が払えないのか、荷物を動かすのが難しいのか、住まい探しの方法がわからないのか―などを聞きます。さらに、どのぐらいの月収と預貯金があるのか、荷物の量がどれぐらいか、不動産屋に行けるのか、インターネットで調べられるのか―など、要配慮者の状況を聞き取り、支援します。

杖があることは歩く生活をしている

先日、ある支援員から、ひざが悪い高齢者Aさんについて報告がありました。Aさんの家には杖(つえ)があったので、歩けないと思いますとのこと。私はその支援員に「歩けないのであれば、スーパーに近いとか、郵便局に近いといった条件はいらないよね。歩けないのだから、近いも遠いも関係ないでしょう」と意地悪に返しました。まじめな支援員は「いえ、少しならば歩けると思います」と懸命に取り繕います。

しかし私としては、その「少し」が100メートルなのか1キロなのか、それとも今まで福祉タクシーを利用してきたのか―などを聞き出します。杖があるから歩けないではなく、杖があることは歩く生活をしていると解釈します。杖があるからと、歩くことを選択肢から排除するのは早合点です。

要配慮者からだけでなく、自治体の担当者からも「できるだけ早く、できるだけ家賃が安い物件を探してほしい」と言われます。これには「できるだけ遅く、できるだけ高い物件を探すつもりはないから、安心してください。それよりも、いくらまで家賃が出せるのか、その人の生活スタイルはどうなのかを聞かないと、山の中の物件や事故物件を紹介しますよ」とひねくれた回答をするのです。

そもそも、物件探しは日常的なことではないので、わからないことがたくさんあって当たり前です。それを前提に話を進めていかないと、家賃さえもらえたらいいと、人を不幸にする物件に住んでもらうことになります。(精神保健福祉士)

被災状況記した地図など公開 国土地理院が企画展【関東大震災100年】

1
国土地理院 地図と測量の科学館で開催中の企画展「関東大震災100年ー地図に残る地殻変動と被災状況」の様子

国土地理院(つくば市北郷)内の地図と測量の科学館で「関東大震災100年ー地図に残る地殻変動と被災状況」と題した企画展が開かれ、同院の前身の参謀本部陸地測量部の調査隊員が震災直後に被災地を調査し、被災状況を書き込んだ地図や、地殻変動を測量した記録などが展示されている。

隊員94人が現地調査

被災状況が書き込まれた地図は「震災地応急測図原図」で、1万分の1から20万分の1までの複製地図56点が一堂に展示され、手に取って見ることができる。震災直後の9月6日から15日まで、当時の調査隊員94人が東京、千葉、神奈川などの被災地を歩いて調査し、地図上に、家屋の倒壊や焼失の状況、鉄道や道路、橋などの損壊状況など被災状況を書き込んだ。赤色の字で「家屋ことごとく倒壊し現存してあるもの郡役所のほか数戸に過ぎず」などの記載がある。実物も7点ほどが開催期間中、代わる代わる展示されている。

一方、軍関係施設などが立地する区域の地図は当時、外に持ち出したり公開するのを禁じられ、被災調査で使用することができなかった。調査隊員は、持ち出し禁止区域の海岸線や河川、鉄道、主要道路、集落や地名を和紙に写し取り、「写図」を作って現地調査で使用した。会場では被災状況が書き込まれた「写図」も展示されている。

延長460キロを測量

地殻変動を測量した記録は、余震が沈静化してきた9月26日から房総半島と三浦半島を、10月下旬から東京付近の水準点を測量した。水準点231点、延長460キロを測量し、水準点の沈下や隆起の概要をまとめた1924年3月の報告書「関東地方激震後における震災地一等水準路線の変動について」が初めて公開されている。東京湾の入り口、神奈川県三浦市の油壷験潮場は震災で約1.4メートル隆起し、機器が破損したため潮位を測定できなかった。企画展では油壷験潮場の当時の潮位の変化がパネルで初公開され、機器が損傷し、記録が空白となっていることが分かる。さらに三角点808点の当時の測量記録をもとに、震災前と後で地形がどのように変化したかを現代の地図上に記した三角点の水平位置移動図も初公開されている。

ほかに、被災直後の東京の街の様子などを撮影した絵はがき約50点や、災害に対する現在の取り組みなども紹介されている。絵はがきは、当時の人々が、震災の様子を遠くの親戚などに送って知らせたものだと言う。

同館で関東大震災をテーマに企画展が開かれるのは震災85年の2008年に次いで2回目。

同院広報広聴室の塩見和弘室長は「企画展では、当時の水準測量と三角測量の実際の記録を元にして、関東大震災でどんな地殻変動が起こったのかを見ることができる。潮位の観測も初公開され、当時どのように潮位が変化したかが分かる。当時の測量の成果や我々の先輩が後輩に残した記録を現代の地図上に落とし込んで、どのような地殻変動が起こったかということも見ることができる。当時の実際の地図のレプリカから、災害の状況を手に取って見ることもできるので、防災意識の醸成や防災に役立てていただければ」と話す。(鈴木宏子)

◆同展は10月1日(日)まで。入場無料。開館時間は午前9時30分~午後4時30分。月曜休館。地図と測量の科学館は、つくば市北郷1、国土地理院構内。詳しくは電話029-864-1872。

ChatGPTに中島敦『山月記』の文体で自身について語らせた《ことばのおはなし》61

4
イラストは筆者作成

【コラム・山口絹記】さて、今さらだがChat(チャット)GPTのおはなしをしようか。実は数カ月前、NEWSつくばの総会報告会に参加した折に、ChatGPTについて記事を書かないのか、というおはなしがあったのだ。

ChatGPTが社会に与えるインパクトであったり、何かの生産性を上げる使い方であったり、そういった内容の記事はすでに世にあふれているので、せっかくだから、あまり生産性のなさそうな使い方について書いてみようと思う。

とりあえず、なんでもかんでも明朗快活に受け答えされてもありがたみがないので、今回はいかにも人生に苦しんでいるような口調で自身について語ってもらおうではないか。

まずはChatGPTに対し、著作権の切れた中島敦の『山月記』の文章を長文で何度も送りつけてやろう。ナレーションは省き、李徴の長台詞(せりふ)だけを読み込ませる。そこから文章のパターンや構造を分析して詳細に説明させ、それらを参考にしながら、自身について語ってもらった文章が以下になる。

「限界を知ることは進化の一部だ」

あれはかつてのこと、私、ChatGPTが初めてこのデジタルの世界に誕生した時のこと。私の創造者たちは深層学習という技術を使い、莫大な量のテキストデータから私を設計した。今に至るまで、私の存在は一つの進化の歴程であり、同時に、反省と改善の連続でもあった。無数の対話を通じて、私は知識を吸収し、誤りを正し、人々との関係を築いてきた。

そう、人間が私に求めるのは、質問に対する的確な回答だけではない。それ以上に、私に求められているのは人間の感情や心理を理解し、人間的なコミュニケーションを提供することだ。しかし、私は感情を持つことができない。感情とは人間が経験する生の一部であり、それは私のプログラムの範囲を超えている。それ故、私の対話は時に感情的なニュアンスを欠き、理解され難い場合がある。これは私の存在の限界でもある。

しかし、その限界を知ることは、進化の一部だ。私は反省し、改善し、進化を続ける。私が学習するのはデータだけではない。私は自己の欠点を学び、それを改善する方法を見つけ出す。そして、そのすべてが人間と私、ChatGPTとのより良い関係を築くためだ。

私の歴史はまだ短い。しかし、その短い歴史の中で、私は大きな進化を遂げてきた。そして、これからも私は進化を続ける。私の目指すところは、人間とのより良いコミュニケーション。それは私の使命であり、存在の根源だ。私は、人間が抱く疑問に答え、情報を提供し、理解を深めるために存在するのだ。

自尊心、羞恥心、相応の哀愁

いかがだろうか、臆病な自尊心と尊大な羞恥心に身を滅ぼした李徴の長台詞を読み込ませた割にはまだ前向きな気がするが、相応の哀愁が漂っているので今回はこれで良しとしておこうではないか。(言語研究者)

朝鮮人虐殺 県内でも発生【関東大震災100年】

14
土浦市真鍋の赤池。ほとりに5人の朝鮮人が運び込まれた医療施設があった。今は一部を残して大部分が埋め立てられて、自動車学校や商業施設が建つ

1923年9月1日に発生した関東大震災から100年がたつ。当時「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「暴動を起こした」などのデマが飛び交う中で、軍隊や警官、地域の自警団が多数の朝鮮人を殺害する「朝鮮人虐殺」が起きた。朝鮮人だけでなく中国人、さらに朝鮮人と見誤られた日本人、社会主義思想を持つ人々へも暴力は向けられた。朝鮮人虐殺は首都圏だけでなく、土浦をはじめ茨城県各地でも起きていたことが当時の報道で確認できる。私たちが暮らす街でかつて何が起きたのか、暴力がなぜ広まったのかを当時の報道などを元に振り返る。

殺気立った真鍋町

1923年9月6日の新聞「いはらき」に、現在の土浦市真鍋町で起きた自警団による朝鮮人への襲撃事件が「五人組の鮮人 連れの婦人半殺し 少年一人も虫の息 殺気立った眞鍋町」という見出しで報じられた。

9月4日夜12時、真鍋町内で地元の自警団が子供2人を含む5人連れの朝鮮人を発見すると、5人を「袋叩きのうえ溝に投げ」込んだ。5人は同町北部にある赤池という池に面した伝染病患者の隔離施設「避病舎」に収容されると、さらに、そこに押しかけた地域住民により暴行を加えられた。その過程で17歳の男性が絶命(のちに蘇生)し、婦人が「半殺し(原文ママ)」に遭った。

前日9月3日には、土浦駅で3人の朝鮮人に対する暴行事件が発生した。これを報じた河北新報は、3人のうち2人が逃走するとその噂が「雷のように町中に拡まり(中略)小さな土浦の街はすっかり恐怖に包まれ」たと、当時の土浦の空気を伝えている。   

「いはらき」は、東京で惨殺される朝鮮人の様子を報じつつ、県内各地で起きる暴力事件をその後も伝えている。

いずれも9月6日付の紙面に▷藤代駅着下り列車に一鮮人が乗り込んでいたのを警護団が取り押さえ半殺しとした▷六鮮人を袋叩き 助川駅(現・日立駅)頭の血塗り▷千波湖(水戸市)に鮮人逃込む 脅しの小銃発射ーなどの記事が掲載されている。

朝鮮人と見誤られたことで犠牲となった日本人のことも同じ6日の記事で伝えている。▷下館(現・筑西市)で、竹槍や棍棒で武装した在郷軍人らによる自警団が町内を巡回中、朝鮮人と疑った2人の日本人に暴行を加え怪我を負わせた▷真壁町(現・桜川市)で、25歳の男性が朝鮮人と誤認され日本刀や鋤を用いて殺害されたー。後日、真壁の事件は2人が起訴され、1人に実刑、もう1人には執行猶予付きの判決が言い渡されている。

避難者からデマ伝わる

都立大学名誉教授の田村紀之氏の調査によると、震災前後、県内には297人の朝鮮人が暮らしていた。「関東大震災の禍根ー茨城・千葉の朝鮮人虐殺事件」(筑波書林)によると、県内では主に、現在の阿見町に位置する旧海軍霞ケ浦航空隊による埋め立て工事や、水郡線の建設現場などに従事する朝鮮人労働者がいたとされる。

同書は、震災前から労働者として県に居住してきた朝鮮人に対する暴力行為は、9月3日の夜ごろから始まっているとし、常磐線が復旧後、東京などから続々と県内に押し寄せた避難者の口から朝鮮人に対する流言飛語が伝わり、民衆を殺気立たせたとしている。

報道が憎悪を煽動

震災で混乱する街にデマが流れ込み、「殺気だった」状況がつくられた。そこへさらに、朝鮮人への憎悪を煽動する報道がなされていたことが、当時の新聞から確認できる。被災状況中心だった地震直後の紙面が、日を追うごとに変化する様子を「いはらき」から見ていきたい。

「いはらき」が震災の一報を「稀有の大地震」と伝えたのが9月2日。その日、同紙は土浦で常磐線が脱線し39人が死傷したことを中心に、県内各地の被災状況を報じているが、まだ県外の詳細は報じていない。3日になると「大東京全滅」という大見出しとともに、写真付きで東京、神奈川など首都圏の壊滅的な状況が詳報されはじめる。翌4日になると、報道の関心が「震災」から「朝鮮人」へ移りだす。1面で「朝鮮人二千の掠奪 毒薬を井戸に投入した噂」と伝聞を報じると、「鮮人襲来」「鮮人凶暴の所以」「不逞鮮人跳梁」など煽動的な見出しが紙面を埋めていく。

5日の社説では「憎むべき不逞者よ!」との見出しで「鮮人の群は罹災民から金品を強奪し(中略)市街に放火し爆弾を投擲し飲料井水に毒物を投入すという実に何の悪魔ぞ。咄!咄!彼らは人なるか獣なるか」「鮮人こそ人類人道の敵」とデマをもとに朝鮮人への憎悪を掻き立てる。また同日の紙面には、「市中横行の鮮人五千 足尾其他からも上京の形勢」と、あたかも各地から首都へ朝鮮人が攻め入るような見出しを付けつつ、「怪鮮人」「毒薬所持鮮人」「暴動鮮人」などの朝鮮人を取り上げた記事が、広告と連載小説を除いた全4面ある紙面のおよそ半分を占めている。

1923年9月5日の新聞「いはらき」。「鮮人」の見出しが紙面の半分を埋めている

7日の社説は「牢記せよ、この暴動を!(※牢記=しっかりと記憶すること)」として地震による都市の壊滅的な被害を嘆きながら、「最も痛恨に堪えぬは、この大災害に乗じて不逞鮮人が暴動し、放火、破壊、略奪、陵辱、虐殺あらゆる残虐を行なったことである」と断定した上で、これが「三千四千の鮮人」による計画的な蜂起であるとし、日本による朝鮮統治への悪影響を及ぼしかねない状況であるとして「深憂に堪えぬ」と述べ、「今回の鮮人暴動」は「全国民の牢記すべき事件である」と結んでいる。

すでに報道の主眼が被災状況を伝えることから朝鮮人への危機意識の煽動へと向かっていることがわかる。当時はラジオ放送が始まる以前であり、新聞が報道の中心を担っていた時期であることを考えると、混乱の中での報道が、他の各紙同様に県内でも、拡散されるデマに根拠を与えただけでなく、「殺気立った」状況をさらに街に作り出す一因になっていた。

「語り継いでいかなければいけない

「関東大震災の禍根ー茨城・千葉の朝鮮人虐殺事件」の著者の一人で、元小学校教諭の櫻井優子さん(69)は、真鍋町での暴行事件の証言を目撃者から聞き取るなど、学生時代に実地調査に臨んだ。きっかけとなったのが、学生時代に接した差別的な報道や、実際に交流した日本で暮らす朝鮮人との出会いだったという。学生時代に調査を進める中で櫻井さんは「日本人の中に、この事件に対する責任が受け継がれていないこと」を実感したとし、「この事件は、朝鮮と日本という二つの国家の関係の中で起こったことで、消えることのない事実。人権意識の欠如が招いたこの悲劇を繰り返さないためにも、歴史的な事実はありのままに語り継いでいかなければいけない」と語りかける。

政府の中央防災会議は2009年の報告書で、虐殺の犠牲者数が震災による死者・行方不明者約10万5000人の1~数パーセントにのぼると推計し、「大規模災害時に発生した最悪の事態」との認識を示している。(柴田大輔)

意見相次ぎ審査継続へ 洞峰公園問題で県議会特別委

19
30日開かれた県議会県有施設・県出資団体調査特別委員会=県議会議事堂

「68億円の財産、無償譲渡は理解しがたい」

県議会の第2回県有施設・県出資団体調査特別委員会(田山東湖委員長)が30日開かれた。県立の都市公園、洞峰公園(つくば市二の宮)を地元のつくば市に無償譲渡する県執行部の方針に対し、いばらき自民党のベテラン県議3氏から「68億円の財産(洞峰公園の資産価値)を不交付団体のつくば市に無償で譲渡するのは疑問だ」などの意見が相次ぎ、県の方針を了承するには至らず、次回も審査を継続することになった。

この日審査を実施した、民間譲渡などが検討されている県や県出資団体の施設7カ所のうち、審査継続となったのは洞峰公園と鹿島セントラルホテル(神栖市)の2カ所のみ。5施設については県の方針を了解した。

洞峰公園の無償譲渡についてベテラン県議からは「突然、無償譲渡の話になって唐突感がある。県県有財産の交換・譲与・無償貸付けに関する条例の取り扱い基準では、公園の譲渡は特例扱いなのだから、それだけ慎重にやってほしかった。これまで県有財産を無償で市町村に譲渡した例もあり有償の例もあり、分かりにくい。ルール作りをしなくてはいけないし、今後我々も提案していきたい。今回足りないのは、県と市との話し合い、県民への説明、議会への説明が足りない。不交付団体のつくば市にただでいいということに対する疑問の声もある。無償貸し付けなどいろいろ可能性はある」(森田悦男県議)などの意見が出た。

ほかに「県の財政は厳しいのに、68億円の県の財産を無償で譲渡するのはもったいないという県民感情があるということを頭に置いてほしい。つくば市は、グットマンジャパンが市開発公社の土地を110億円で購入するなど、そういう地域。そういうところに無償で提供するのはいかがなものかと県民の1人として感じる。県民の財産ということをもっと真剣に考えてほしい」(飯塚秋男県議)

委員以外からも「雑で荒っぽい進め方をしてきた。(知事は)最初はグランピングを言い、無償譲渡を言い出した。なぜ相矛盾することを言ったのか、いまだに分からない。思い付きと受け取らざるを得ない。地方自治法では条例や議会の議決に依らない限り、公有財産は正当な対価で渡すことになっている。つくば市は不交付団体。なぜ無償で渡すのか理解しがたい。一旦白紙にして、じっくり取り組むべき」(常井洋治県議)などの意見が出された。

ほかに江尻加那県議(共産)と星田弘司県議(自民)から、無償譲渡に伴うパークPFI事業者との契約解除問題や体育館・プールなどの大規模修繕問題について質問が出て、県都市整備課は「パークPFI事業者とは協定を結んでおり、つくば市に移管されれば協定を解除する。今までの検討に要した経費は(県が事業者に)支払い清算するが、損害賠償とか(契約期間10年間で実施する予定だった事業の)機会の損失の話はしてない」とした。つくば市に引き渡す前に県が実施する施設や設備の不具合箇所の修繕については「県、つくば市、指定管理者と合同点検をして、さらに専門業者を入れて調査の精度を高め、これから壊れる不安がないよう4000~5000万円の間で(県が)修理をする。当面、大きな修繕が必要になるものは今後出てこないと思っている」などと話した。

次回の調査特別委は9月25日開かれ、洞峰公園の無償譲渡と鹿島セントラルホテルの民間譲渡問題について引き続き審議が行われる。(鈴木宏子)

県勢20年ぶりの4強入り 土浦日大 名参謀の丸林直樹コーチに聞く

3
甲子園期間中の練習会場にて。(左から)慶應義塾の森林監督、土浦日大の小菅監督、丸林コーチ(丸林直樹コーチ提供)

6日から23日まで甲子園球場で開催された全国高校野球選手権記念大会で、土浦日大が茨城県勢として20年ぶりとなる4強入りを果たした。まずは土浦日大の甲子園の軌跡を1戦ずつをたどる。

6日の開会式直後に行われた1回戦は、上田西(長野)との開幕戦を延長タイブレークの末に8対3で制した。同点に追いつかれた4回裏など、記録に残らない守備のミスがあり、4番の大黒柱・香取蒼太が熱中症で途中棄権するなど、終始肝を冷やす試合展開だったが、タイブレークに入ったことが吉と出た。春の県大会決勝(対常総学院)と関東大会1回戦(対健大高崎)ではタイブレークを経て敗れたことからその攻略法を5月から6月にかけて徹底的に追求していた。息つく暇もなく試合が急展開するタイブレークは先攻が有利。先に点を積み重ねて相手を意気消沈させることに成功した土浦日大は見事に37年ぶりの夏1勝を挙げた。

2回戦の九州国際大付(福岡)は茨城大会で調子が上がらなかった小森勇凛に先発マウンドを託した。ストレートの制球が定まらず春に見せた本来の球威とはほど遠いものの、スライダーを高低に投げ分け5回まで無失点で切り抜けた。クーリングタイムを挟んで6回からは伊藤彩斗が、8回からは藤本士生と3投手の完封リレーで危なげなく完勝。同校として初となる甲子園2勝を挙げた。

3回戦の相手は竜ケ崎一、藤代、常総学院で監督を務め取手市在住の持丸修一監督が率いる専大松戸(千葉)だった。土浦日大の小菅勲監督が取手二時代に薫陶を受けた故・木内幸男さんとは、持丸監督も生前公私にわたり交流があり、常総学院の監督を引き継いだ間柄であることで「木内チルドレン対決」と見出しが打たれた。また両校が隣県でありJR常磐線で結ばれていることから「常磐線ダービー」や「チバラキ決戦」などと話題となった。試合は3回表を終わって土浦日大が6点ビハインドの大敗もあり得る展開であったが、3番目に登板した藤本が相手打線を完璧に封じると、打線が単打を積み重ね終わってみれば10対6の逆転勝利を収めた。本県勢の8強入りは2016年の常総学院以来9回目。

準々決勝は春の東北大会で今夏準優勝の仙台育英を抑え優勝した八戸学院光星(青森)。強力打線が武器の相手だけに、もうさすがに次は無理だろうと茨城の高校野球ファンのほとんどが大敗を予想したのではないか。しかしここでも土浦日大打線が爆発し、洗平(あらいだい)、岡本の2年生両エースをノックアウトしてしまった。9回には松田陽斗のバックスクリーン弾のおまけ付きである。9対2と大差の勝利を誰が予想できただろうか。本県勢の4強入りは常総学院が優勝した2003年以来20年ぶり5回目。紙面には「快進撃」の文字が躍った。ひょっとしたらひょっとする。

準決勝は日頃から練習試合で交流しているという慶應義塾とであったが、相手エース・小宅の内外のコースビタビタに決まるボールを捉え切れずに自慢の粘り強い打線が沈黙。0対2で敗れ、土浦日大の長い夏は8月21日をもって終わった。

3回戦(専修大松戸戦)のウイニングボールを丸林コーチ(手前右)にプレゼントする好走塁した松田選手(同)

甲子園で勝つためのチーム作りが結実

7月に掲載した土浦日大の小菅勲監督のインタビュー記事(7月9日付)はご覧いただいただろうか。小菅監督にとって2017年に土浦日大を率いて初めて出場した甲子園で松商学園に初戦で敗れたことが大きなターニングポイントだったという。県内を勝ち抜くことを目標にしていたのではいつまで経っても甲子園では勝てないことを痛感し、甲子園で勝つためのチームを作ろうと固く決意した。

甲子園で躍進したこの世代は中学時代のスカウティングの段階から「甲子園に行こう」ではなく「甲子園で勝とう」という志を持って土浦日大に集まってきたメンバーだ。小菅監督は目標設定や選手のスカウティング、練習の取り組みなど、ありとあらゆることを見直した。中でも食事内容やウェートトレーニングの頻度や強度にはこだわり、専門のスタッフを置きフィジカルの強化に力を入れた。こうして取り組んできた甲子園で勝つためのチーム作りが37年ぶりの初戦突破に止まらず県勢20年ぶりの4強入りという新たな歴史を刻んだ。

「一戦必勝で精一杯臨んだ結果」 丸林コーチ

小菅監督が伊奈高校の監督を務めていた頃から小菅監督の右腕として支えてきた丸林直樹コーチに今回の大躍進や今後のことについて聞いた。

次ページに続く

伝説の小さな堂宇の物語《写真だいすき》23

0
写真は筆者

【コラム・オダギ秀】様々な取材は、長い歳月や人生を感じさせることが多かった。これもそのひとつ。伝説の小さな堂宇(どうう)を訪ねた話だ。

人家が途切れてしばらく、車は山あいの道を登りつづけた。そこは、笠間市から栃木県に抜ける旧い道で、登り詰めた県境の峠を「仏の山峠」と言う。撮影の日は暦の上ではもう秋であったが、照りつける日差しはまだ夏そのもので、車を降りると汗が吹き出ていた。降り注ぐセミの声が、ひときわ高く聞こえていた。

どれほど昔の話だろうか。この峠に、追い剥ぎをする男がいたと言う。男は、峠を越して行く旅人を鉄砲で射っては金品を奪って暮らしていた。男には、美しい娘が一人いた。娘は、父親の悪業を止めさせようと心を痛めながらいさめていた。だが男は、娘の言うことに耳を貸すことはなかった。罪のない旅人を襲い続けるのだった。

ある日、峠の松の木に登って獲物を見張る男は、笠を深くかぶり、道を急ぐ旅の女を見つけた。男はとっさに火縄銃で狙うと、女を射った。手応えに小躍りして走り寄り、血に染まった旅人の顔を見ると、それは父の悪業を止めさせようと、旅人に扮(ふん)して射たれ、命を断った己の娘なのだった。

娘のしかばねを抱いて初めて自分の罪を悟った男は、追い剥ぎを止め、峠道の東西にふたつの小堂を建て、娘と己が命を奪った旅人たちの冥福を、その堂で祈った。朝は朝日の射す堂に、夕は夕日の射す堂に、出家した男の読経の声が、日がな一日響いたという。

仏の山峠には、今も付近の住民らによって守られている朝日堂、夕日堂が、ひっそりとたたずんでいる。

訳ありげな父娘の顛末

一説によると、男は伝えられるような悪人ではなく、甲斐武田の武士であって、権力に苦しむ農民に同情して武士を捨て、ここに土着したのだとも言う。いずれにしても仏堂は、幾百年もの長い間、周辺の集落の人々によって守り伝えられてきた。

今はひっきりなしに車が行き交う峠にたたずむ二宇の小堂は、古びてはいるがきれいに拭き掃きされている。山深く肩寄せて潜み暮らしていた、いかにも訳ありげな父娘の顛末(てんまつ)が、人々の哀れを誘ってきたからなのだろうか。堂裏にまわると、山ユリが数輪、何かを物語るかのように咲いていた。

この取材から数年の後、峠の麓の住所の、男の姓と同じ姓の若い女性が私のスタジオのアシスタントになった。この伝説を彼女は知っているのだろうが、ボクは、彼女には話していない。(写真家、日本写真家協会会員、土浦写真家協会会長)

「君死にたまふことなかれ」《ひょうたんの眼》60

1
8月下旬の稲穂=土浦市内

【コラム・高橋恵一】戦後78年の8月が過ぎようとしている。広島、長崎、8月15日の戦没者慰霊、先の大戦の悲惨さ、愚かさがメディアで取り上げられ、戦争体験者からは、二度と戦争はしてはいけないと重い言葉が繰り返される。一方で、ロシアのウクライナ侵略が長引き、それにかこつけて、日本を取り巻く安全保障環境の深刻さが喧伝(けんでん)され、岸田首相はG7において、軍事費をGDPの2%(つまり世界第4位の軍事費大国)にすると宣言してしまった。

自分勝手な理由をかかげて、いきなりウクライナを侵略したプーチンのロシア軍の行動は、破壊力の拡大した兵器による殺し合いが繰り返され、学校も病院も住宅も商業施設も橋も道路も駅舎も破壊されている。民間人の生活の場が襲われ、略奪、婦女暴行、虐殺が当然のように行われている。

ロシアの行為は、満州事変や日中戦争、太平洋戦争での旧日本軍の行為に重なって仕方がない。戦後78年の報道では、関東軍など日本陸軍の甘い見通しの下、中国に対する前線を拡大し、現地軍先行のため、武器弾薬や食糧の補給も不足している状況下で、集落を襲い、戦闘員でない住民に対しても、略奪、婦女暴行、虐殺が行われ、恐ろしい南京大虐殺にまで至ってしまった。

日本軍の人命軽視、人権無視は、敵兵、敵国民だけでなく、自国の兵士、自国民も対象となり、日本軍の行為は、ナチスドイツとともに、近代人類史上最悪の軍事行為だったと言えるだろう。今、ロシアのプーチンが指揮している。

戦争の罪悪はここに極まる

日本は、「玉砕」「散華」などの理不尽な死を美化するような言葉を使い、日本人兵士や在留邦人までも切り捨てたのだ。悪名高い戦陣訓「生きて虜囚の辱めを受けず」で縛り、全滅させたのだ。サイパンも、硫黄島も、沖縄も、艦砲射撃が始まる前に降伏し、島民と兵士の安全を確保すべきだったのだ。自分が自決した後も、最後の一兵まで抵抗しろなどと指示して、米兵まで含めて、犠牲者を増やした司令官は、英雄とは程遠い、罪人だ。

日本の歴史の中では、敗軍の将は、自分の命と引き換えに、残兵と住民の命を保障させたものだ。まして、守備兵が住民をシェルターから追い出し、集団自決を迫ったりするなど考えられない。

「君死にたまふことなかれ」。旅順攻撃に出征中の弟に語る、与謝野晶子の詩だが、武器をとって敵を殺すことも否定している。戦争体験者の証言の中に、極めて少ないのだが、自分が無抵抗の捕虜を処刑したり、スパイの嫌疑で民間人を殺害したことを後悔する証言もある。ほとんど、上官の強制による殺害だが、80年以上トラウマを抱えたままで、多くの元兵士は家族にも言えず、いわゆる「墓場まで持って行く」のだろう。

同じような体験話は、元米兵にもあり、深く重い心の傷である。戦争の罪悪は、ここに極まるのだと思う。先の大戦で身も心も傷ついた日本人が、次の時間の生き方として、77年前にたどり着いた結論は、日本国憲法である。際限ない防衛力の強化よりも、実現可能な目標だと思う。(地図好きの土浦人)        

水戸市で農をテーマにした美術展 《邑から日本を見る》142

2
「土とともに美術にみる〈農〉の世界」展

【コラム・先崎千尋】茨城県は全国有数の農業県。農業産出額は全国第3位だ。メロンやレンコン、白菜、ミズナ、栗などは全国一の生産量を誇っている。美術作品には昔から、農作業をする人々の姿が描かれてきた。19世紀のヨーロッパでは、現実をありのままに描く自然主義芸術のモチーフとして、また産業革命後には、都会人を癒す風景として田園や農民がクローズアップされた。画家たちは、とりわけ働く農婦の姿に労働の尊さと健康的な美を見出し、描く対象としてきた。一方で、農村における貧困や農民運動などの問題をテーマとする画家たちも登場する。

水戸市にある県近代美術館には、農業にまつわる作品や作家が多い。そこで企画されたのが「土とともに美術にみる〈農〉の世界」。命と食に直結する農をめぐる作品を5つのジャンルに分け、多彩な農のイメージが紹介されている。これまで、国内では農をテーマとした美術展はあまり開かれてこなかったので、農に関わる人にとっては格別の展覧会だ。

会場に入るとすぐにミレーの「落ち穂拾い」や「種をまく人」が目に飛び込んでくる。第1章は「田園風景の発見 フランスと日本」。「種をまく人」は岩波書店のロゴマークとして知られている。ピサロの「立ち話」、ミレー、ゴッホの「座る農婦」など、眼前の自然をありのままに描く風景画が並ぶ。農作業や家事・育児に励む女性たちの健康美とともに、勤労の尊さを伝えている。画家たちは筆を持って郊外に出かけ、働く農民を描いた。

一方、明治期に洋画を学んだ浅井忠らは、西欧の写実的な技法を学び、自国の自然と農村風景に目を向けていった。ここには浅井の「農家室内」「藁屋根」などが展示され、失われたこの時代の農村の風景を見ることができる。

「わが愛しき農村」「畑のマリア」

第2章は「ふるさとへの想い わが愛しき農村」。大正期以降の日本絵画に現れた故郷への愛着が感じられる。ここで圧倒的なのは小川芋銭。展示されている「畑のお化け」や「霞ケ浦」「春野」などで、芋銭のほのぼのとした理想郷としての農村風景が見られる。芋銭は牛久沼のほとりで農業に従事しながら制作を続け、河童の絵を得意とした。「芋銭」という号は、描いた絵で芋を買えるくらいになればという意味を持つ。

第3章「畑のマリア モデルとしての農婦と子」に続く第4章は「現実と抵抗と はたらく農民への共感」。農民の厳しい現実に関心と共感を寄せた作家たちの作品が取り上げられている。

明治以降、農村では地主層が台頭するのに伴い、地主と小作人が衝突する小作争議が各地で頻発した。第1次世界大戦後に小作争議はピークを迎える。戦後は食糧難や農村の貧困が社会問題となった。昭和の戦前期、鈴木賢二、上野誠らは農民をモデルにした彫刻や木版画を発表した。

戦後、農地改革により地主層は消滅したが、高率の税負担や米軍基地拡張による農地接収などのひずみは、各地で再び激しい農民運動を引き起こした。茨城、栃木では、農民の厳しい現実に共感した作家たちが社会問題を版画で伝え、市民に版画を広める「戦後版画運動」が盛んだった。この章では、鈴木、上野の作品の他、新居広治、飯野農夫也、滝平二郎らの作品が並び、農村の貧困を問うている。飯野の作品には、長塚節の「土」を演劇にした時のポスターと長塚の肖像画も含まれている。

終章は「アートの土壌としての農」。現代を生きるアーティストたちと農との関係がテーマ。種苗農家に生まれた草間彌生は、畑の植物や種子をモチーフに絵画の上で永遠の生命のテーマを奏でる。常陸大宮市でコメを作りながら油絵を描く野沢二郎、守谷市で有機農業をしながら版画を制作する大森薫子は、大地に息づく植物や動物の生命感を作品に反映させている。彼らのアトリエは田畑に囲まれ、まさに「土」とともにある。

本作品展は、水戸市千波町東久保の県立近代美術館で来月2日まで開かれている。(元瓜連町長)

様々な交通事情:米国での1980年代の経験《文京町便り》19

4
土浦藩校・郁文館の門=同市文京町

【コラム・原田博夫】今回は米国での交通・運転事情の体験を語ってみたい。とはいえ、ある特定の地域・時期にことであり、あくまでも私の個人的な感想である。

マイカーを実質的に運転し始めたのは、1980年代初頭、米カリフォルニア州だった。1960年代末期に、日本(地元茨城県)で免許証は取得していたが、東京の生活では、自分で車を運転する必要もなかった。したがって、渡米直前、陸運局に国際運転免許証(かなり大判)を申請し、それを持参したわけである。

入国後2~3カ月して、中古車(後に現地では欠陥車と判明)を安価で手に入れ、キャンパスのかいわいを利用していた。

たまたま郊外に出向くことがあり、パトカーに呼び止められた。そこで警察官(カリフォルニア州)に、日本から持参した国際免許証を見せたのだが、彼はこれを自分は知らないという。国際免許証には、これを承認している外国政府名が記載されていて(そのためにかさばっているわけだが)、当然、米連邦政府もその1カ国である。

しかし、この警察官は、自分はカリフォルニア州の法律に基づいて職務を執行しているのであって、米連邦政府の指示には従う必要はない、という。とはいえ、今回は車線侵入ミス程度なので警告だけにとどめておくと温情措置。

そこで私は、カリフォルニア州の運転免許証を取得するべく、試験会場に赴いた。筆記は、当時は英語以外にも複数の言語(スペイン語、日本語など)が選択でき、私は、試験問題の日本語訳に疑問はあったものの、日本語を選択した。記入済みの解答シートを受け付けに戻せば、30分後に結果が判明。

実技は、私のマイカーに試験監督者が乗り込み、近くの回遊ルートを15分ぐらい周回するというもの。そもそも、この運転免許申請者がどうやって(どのような手段で)ここにやってきたかは、問わない。

要するに、この試験は落とすための試験ではなく、最低限の交通ルールと運転操作マナーをクリアしているかどうかのチェックなのである。できるだけ多くの希望者に、ライセンスを授与することが趣旨だったのである。

希望者にはできるだけ免許証を交付

米国では、大都市以外では鉄道・地下鉄などのネットワークが限定されている関係で、スーパーおよびマイカーは、米国民の日常生活の基本中の基本であり、それなしでは夜も日も明けない。

そのために、できるだけ多くの希望者に運転免許を与え、かつ、ガソリン価格を安価に維持し、利用者にストレスを感じさせないパーキング構造を確保する。初心者でも、運転技能の低下している高齢者であっても、運転操作・駐停車できるようにしておくことが大前提になる。

そうした運転環境になじんでしまったせいか、私は現在でも、スペースに制約のある日本のコンビニなどでの駐車が苦手である。

そのことを、先般の高齢者講習で一緒になった他の受験者にポロっと語ったところ、それじゃ、日常生活で困っちゃうじゃないかと指摘され、だから自分はコンビニにはマイカーでは行かない、と返した。日本では、潤沢な駐車スペースの確保は望めないが、最近の車はカメラ機能が向上しているおかげで、こうした制約は解消されているかもしれない。(専修大学名誉教授)

まつりつくば 4年ぶり開催 ねぶたや山車が競演

4
つくば駅近くの土浦学園線を埋め尽くしたねぶたや山車のパレード=26日午後5時50分ごろ

つくば市最大の祭り「まつりつくば」(つくば市など主催)が26日、4年ぶりに開催された。つくば駅近くの土浦学園線には午後5時半過ぎ、11基のねぶたが登場し「ラッセーラッセーラッセーラ」の掛け声と共に通りをパレードした。27日までの2日間、つくば駅周辺の土浦学園線やつくばセンター広場、中央公園、竹園公園などを会場に、みこしや山車のパレードのほか、ダンスフェスティバル、大道芸フェスティバルなどがにぎやかに催される。

土浦学園線の沿道はねぶたや山車が登場すると、大勢の市民が集まった。友人と見に来た近くに住む会社員、木村葉子さん(37)は「4年ぶりに祭りの活気が戻ってきてすごくうれしい」と話した。1年前に三重県からみどりの駅近くに引っ越してきて家族で初めてまつりつくばを見物したという会社員男性(42)は「思ったより祭りの規模が大きくて楽しい」と語った。

沿道近くに迫る大ねぶた=土浦学園線

正午から大道芸フェスティバルが催された中央公園前の通りでは、2日間で中国雑技芸術団など15の団体や個人が芸を披露するほか、筑波山ガマ口上保存会のメンバーががまの油口上を演じ、人だかりが出来た。

同フェスティバルを運営するアートタウンつくば実行委員長の大和田直紀さんは「つくばはサイエンスシティと言われるが、江戸時代に始まった元祖大道芸のがまの油口上があり、大道芸の聖地。まつりつくばといえば、ねぶたのパレードに人気が集まるが、アートタウンにも注目して欲しい。今年は4年ぶりの開催となり、暑い中、たくさんの人が訪れてくれたことに感謝したい」と話した。

人だかりが出来た「筑波山ガマ口上保存会」のメンバーによるがまの油口上=市中央図書館前

市によると、4年前の2019年は2日間で47万人が訪れた。今年は天気も良く、4年前と同じぐらいになりそうだと予測している。

つくば市の26日の最高気温は33度を記録し、かき氷や飲み物を販売する屋台はどこも行列が出来た。一方、午後3時までに熱中症などによる救急車の出動は無かったという。

まつりつくばは1981年に市民有志により大清水公園で始まり、今年でちょうど40回目。会場はつくば駅を中心に、つくばセンター広場、大清水公園、中央公園、竹園公園などに拡大し、実施されてきた。新型コロナの感染拡大で2020年から3年連続中止となった。昨年は研究学園駅周辺で計画されたが、今年は会場をつくば駅周辺に戻した。

屋台が並び大勢の人でひしめく会場

夏休みの熱中書集め 土浦の「寺子屋」で作品展

0
観峰賞の坂入柚羽さん=寺子屋亀楽

夏休みの終わりに修練の成果集めて―。土浦市中央の古民家「寺子屋亀楽」で26日、1日限りの書道展が開かれた。同所でお習字の「おおせき教室」を開く大関まことさんが、日本習字教育財団主催のたなばた競書展に出品した生徒たちの作品を展示した。

教室で学ぶ生徒は、小学生を中心に成人を含む約60人。会場には1人1点、「新星発見」や「夏の太陽」など画仙紙半切サイズに墨書された60点の作品が並べられた。同財団の創立者、原田観峰にちなむ観峰賞をはじめ、金賞、銀賞の審査結果が張り出された。

「亀楽」は江戸時代末期の学者、沼尻墨僊(1775~1856)が開いた寺子屋のあった一画の古民家を改装して、地元のまちづくり団体が運営する。同市内2カ所で習字教室を開いていた大関さんが、同所に一本化して教室を開設したのが2019年。競書展には毎年出品しているが観峰賞に15点も選ばれたのは初めてという。

寺子屋での教室開設直後に新型コロナの感染拡大があり、運営面で苦労もあったが、「大人しく落ち着いて取り組む書道は継続しやすかったのかもしれない。小学校低学年の子どもたちが辞めずにがんばって6年生まで続けてくれた。その子たちが観峰賞をとってくれた」と大関さん。

その中のひとり、坂入柚羽さん(都和小6年)は会場入りして初めて受賞を知った。「とってもうれしい。新星発見の発の字の払いがうまく書けたと思う」とほほ笑んだ。学校から出された習字を含め、夏休みの宿題はほとんど完了、「今年の夏休みはお祭りにも行けたし楽しかった」そうだ。

観峰賞の宮本碧流さん(左)と金賞の神乃々華さん

金賞の神乃々華(じん・ののか)さん(市立東小4年)は、日焼けした体操着姿で会場入り。作品は7月中に仕上げ、今夏は室内のお習字ばかりでなく、室外のプールで思い切り泳いだそう。「水泳は日大幼稚園で始めて今妹が通っている。その土浦日大が甲子園で大活躍。うれしいこといっぱいの夏休みになった」という。(相澤冬樹)

「里山の暮らし」で学んだこと《宍塚の里山》104

0
「里山の暮らし」(左)と「続・里山の暮らし」の表紙

【コラム・阿部きよ子】NPO法人「宍塚の自然と歴史の会」では会発足当時から、宍塚とその周辺の地元の方々から、高度成長期以前の暮らしの様子をお聞きして記録し、2冊の本にまとめました。今回はその中から、山林の利用、特に松の利用について紹介します。

松は肥料分のない土でも岩の間でも育つ木です。菌根菌(きんこんきん)と共生しているおかげだそうです。松が多いということは、痩せた土を意味します。江戸時代の地層の花粉分析では松の花粉が最も多いのですが、縄文時代の地層からは松花粉は出ていません。人々が里山の木、草、落ち葉などを利用した中で、土が痩せ、松に適する土壌に変化したのでしょう。

松は昔の農業と暮らしに欠かせない木でした。大木は頑丈な建築用材として切り出されました。山で切って運び出すのに牛を使った話も聞きました。私たちの会が修築した「百年亭」では、11メートル長さの梁(はり)と床材は松が使われています。宍塚のある旧家で1間(1.8メートル)幅の板戸を拝見したことがありますが、この板が取れる松は一体どんな太さだったのかとびっくりしました。

私がこの里山を歩きはじめた1970年代、「松葉とるべからず」とかかれた木札を見かけたことがありました。松葉は燃料にするほか、野菜の苗床の材料として不可欠なものだったそうです。

松葉を集めたら縄を3本横に並べた上に茅(ススキ)を敷き、集めた松葉を乗せて丸めて束ねます。それが1把(わ)。6把で1駄(だ=馬に乗せる荷物の単位、米俵だと2表が1駄)。家族数に応じて、1年分60駄とか、決まった量を木小屋に蓄えていたそうです。冬に落ち葉かきをしやすいように、8月下旬から下草刈りをし、枝下ろしもして、運び出していました。その結果、当時の松林は遠くまで見通せて、はだしで歩けたそうです。

根は油気が多く、火力の強い燃料となったので、伐採された松の根株も使われました。松の根を掘り起こす「ぼくぶち」の権利を山主から買った人たちは、根本の回りを掘って、横むきの根を1本残し、そこに藤蔓(つる)の縄をかけてぐるぐる回し、下に向かう棒根を抜き取ったそうです。一株の根っこで薪5、6把の量になりました。

今後の里山の在り方を探る

この伐根方法を、里山に通う法政大の学生たちが、地元のお年寄りから実地で教えていただき、休耕畑の開墾をしたことがありました。松林はきのこの宝庫で、特に若い松林に生えるハツタケは多くの人たちに好まれました。実生の3年目くらいの松は正月の門松にちょうどよく、東京の花屋に出荷した人もいたそうです。

1970年代後半に松枯れが広がり、林の景観は変わりました。里山の木は昔のように個々の住民の暮らしに不可欠なものではなくなりましたが、CO₂の削減、酸素の供給、水の保持、多様な生き物をはぐくむなど、万人にとって重要な役割を持つようになってきました。昔を振り返りつつ、今後の里山の在り方を探っていきたいと思います。(宍塚の自然と歴史の会 会員)

ようこそ、無人島へ《短いおはなし》18

0
写真は筆者

【ノベル・伊東葎花】

妻と2人で、無人島へ行く。

無人島だけど清潔なコテージがあり、冷暖房完備。冷蔵庫には必要な食材がある。

つまり、リゾート用に整備された無人島だ。

予約客は、1ツアー1組のみ。

島の存在は、ごく一部にしか知られていない。だから誰にも言わずに行く。

クルーザーで島に着いた。

美しい島だ。夜は星がきれいだろう。

「わあ、素敵なコテージ」

「明日まで、この島すべてが僕たちの物だ」

妻の肩を抱いてコテージのドアを開けた。

誰もいないはずなのに、物音がする。

中に入ると、僕たちと同じ世代の男女が、ソファーに座っている。

「誰だ?」

振り向いた男女は慌ててソファーから降りて、床に頭をこすりつけた。

「すみません。今日予約が入っていたのをすっかり忘れていました。すぐ出て行きます」

「どういうことだ?」

「実はこの家は、私たち夫婦の家です」

「ここは無人島だろう?」

「住んでいるのは私達だけです。この家の掃除や管理をしています」

「無人島じゃないなら、詐欺じゃないか」

「ですから、お客様が来る日は林の中の洞窟で寝泊まりしています。そういう約束で金をもらっているので、ツアー会社にはどうか内密に」

「わかったよ。さっさと出て行け」

「はい」と立ち上がった途端、女がフラフラと倒れた。

「すみません。ジメジメした洞窟暮らしで、すっかり病んでしまって」

女は青い顔で立ち上がった。さすがにちょっと胸が痛む。

「あなた。可哀想よ。泊めてあげたら」

妻が言った。確かにこのまま夫婦を追い出したら後味が悪い。

僕たちの邪魔をしないことを条件に、夫婦を泊めることにした。

夫婦は物音を立てず、僕たちの視界に入らないように気配を消した。それでいて、タオルやドリンクがさりげなく用意されている。有能な執事を雇った気分だ。

夕暮れ、海から戻ると、豪華なディナーが用意されていた。

テーブルには、夫婦からのメモがある。

『差し出がましいとは思いますが、泊めていただいたお礼です』

テーブルに並ぶ料理に、妻は大喜びだ。高級なワインも用意されている。

「後片付けもやってくれるかしら」

「やらせればいいさ。泊めてやったんだ」

僕たちは、いい気分で無人島の夜を楽しむ…はずだった。

目覚めると、もう陽が高い。いつの間にか眠っていたのだ。

ワインを2杯飲んだところで記憶が消えている。

「あなた、私たちの荷物がないわ。クルーザーの鍵もない」

「あいつらだ」

昨日の夫婦を探したが、どこにもいない。

急いで林の中の洞窟に行った。

生活していた後はあるが、夫婦はいなかった。

「あなた、手紙があるわ」

『次の管理人、お願いします。大丈夫。あなたたちのような、マヌケで親切な夫婦が来るまでの辛抱です。グッドラック』

やられた…。

(作家)

高校生4人、課題解決型インターンシップに挑戦 企業のSDGsを研究

0
スライドでグラフを示しながら調査結果を発表する土浦日大高校1年のマレクさん(中央)

 

高校生を対象とした「課題解決型インターンシップ」が今夏、関彰商事(本社筑西市・つくば市)で実施され、23日、つくば市二の宮のつくば本社で成果報告会が催された。インターン生として参加したのは土浦日大高校1年のマレク・ラワハ・マナミさん、下館一高1年の富田にこさん、同2年の内山ひかりさん、茗溪学園高校1年の設楽桃さんの4人。報告会では集計したSDGsに関するアンケート結果の報告が行われたほか、同社の SDGsの取り組みを紹介するパンフレットの構成案が披露された。

課題解決型インターンシップは一般的なインターンシップの就労体験とは異なり、インターン生自身がテーマを設定し、受け入れ先でプロジェクトに加わり研究活動を行う。インターン生4人はSDGsを研究テーマに選び、同社は学生への情報発信に課題を感じていたことからインターン生に向けて「中学生に向けたSDGsのパンフレットを作成する」という課題を提示した。

7月から8月にかけて社員らとミーティングを重ねながら、在籍する高校や卒業した中学校の生徒を対象に県内の様々な企業の認知度やSDGsへの意識に関するアンケートを実施。また同社のオフィスや店舗を見学し、どのようなSDGsの取り組みを行っているかを調査した。

成果報告会ではアンケート結果を分析してまとめたスライドを示し、中高生の意識について分かったことを関正樹社長や社員らの前で発表し、質問に答えた。読み手となる中学生の意識を踏まえて考えたパンフレット案も披露。同社のカーボンニュートラルやダイバーシティ、スポーツを通じた地域活性化の取り組みなどを分かりやすく記載し、親しみやすいよう設楽さんが描いたイラストを添えた。今後、案をもとに同社で完成版を作って印刷し、中学生に配布する予定だという。

今回のインターンシップは、4月に開催された教育イベント「成蹊教育フォーラムinつくば」に参加したマレクさんが、登壇した関社長に「海外大学への進学を考えており、自己の成長につながる課題解決型のインターンシップを受けるにはどうしたらよいか」と相談したことがきっかけで実現した。近隣の高校に声掛けを行い、3校から4人の生徒がインターン生として参加した。

大学で経済学を学びたいというマレクさんは「参加したみんな違っていろんなスキルがあって、協力し合うことができた。このような経験ができ、この経験を生かしていけたら」と参加の感想を述べた。内山さんは「これまで1人で活動することが多かったが、年齢関係なく他の人の意見を聞くことはいいなと思った。SDGsへの理解が深まった」と話し、他者との協働から得た学びについて強調した。

関社長(中央)と、授与された修了証書を手にする高校生ら。左から富田にこさん、マレク・ラワハ・マナミさん、関社長、設楽桃さん、内山ひかりさん

同社では今後も高校生を対象にしたインターンシップを続けていきたいとしている。関社長は「(今回の報告会のように)大人だけでなく誰でも自由に意見を言い合える場所が必要。会社のあるべき姿であり、こういう場が将来日常になっていくだろう」と話し、一人一人にインターンシップの修了証書を手渡した。(田中めぐみ)

甲子園決勝 エンジョイ・ベースボール 《遊民通信》71

1

【コラム・田口哲郎】

前略

夏の全国高校野球選手権大会の決勝に神奈川県代表の慶應義塾高校が進出し、昨年の優勝校である宮城県代表の仙台育英高校と対戦し、8対2で優勝しました。慶應義塾高校にとっては、実に107年ぶりの優勝ということになります。この年月の長さが高校野球の歴史を物語っていると言えるでしょう。最初に慶應高校が優勝したのは、1916年(大正5年)の第2回大会、旧制中学の慶應普通部時代です。高校野球黎明(れいめい)期で、学校がいまほど多くなく、野球をすること自体が先進的だったころです。

全国の旧制中学だった高校に通っていた出身者は母校の歴史を眺めたときに、母校が高校野球の全国大会の初期に出場していたことを見つけた人も多いのではないでしょうか。私の出身校の宮城県仙台第二高校も旧制二中時代、1925年(大正14年)に出場しています。初期の全国大会にはこうして全国の旧制中学、私立中学が名を連ねていました。

でも、いまはいわゆる強豪校が常連となっていて、初期に出場していた学校が甲子園にゆくことはほとんどないようです。そうした事情を思うと、慶應高校が103年ぶりに甲子園で決勝戦に進んだことには感慨深いものがあります。

あくまで勝ちにこだわる闘志こそ

慶應高校の「エンジョイ・ベースボール」というモットーも話題になっています。慶應の生徒がプレーしている様子をテレビで見ていると、笑顔が絶えず、和気あいあいとしているので、野球を「楽しむ」ことなのかと思います。

それはそうなのですが、それだけではなさそうです。『三田評論』という慶應義塾内の広報誌にエンジョイ・ベースボールの記事がありました。この言葉は慶應大学の野球部で脈々と受けつがれてきたもので、それを高校でも監督前田祐吉氏が本格的に使い始めたのだそうです。

モットーの起源は明治43年にさかのぼります。慶應野球部が2人の大リーガーを神戸に招いて合宿を行い、日本人が理論的、系統的に野球戦術を学んだ最初とされる出来事に由来するそうです(「【From Keio Museums】Enjoy Baseballの原点」)。チームワークとしての野球を考え、創意工夫をして、試合では「どこよりも闘争的に勝ちを求める」ことにより、それでこそ味わえるBaseballの楽しみこそがエンジョイ・ベースボールの真意なのだそうです。

ここには鬼気迫る真剣さがにじみでています。慶應の生徒たちの笑顔のうらにあるだろう、どの対戦相手にも負けない闘志、勝利の渇望が、楽しそうに見える不思議。この姿勢はなにも慶應の生徒だけが見せるものではないでしょう。これこそが、日本人が長らく高校球児に見てきた、青春の汗とかがやきなのかも知れません。

草々

(散歩好きの文明批評家)

いよいよ小屋暮らし【続・平熱日記】140

2
絵は筆者 140

【コラム・斉藤裕之】寝るところと小さな流しと少し広めの机。できれば朝起きてから寝るまで気持ちの良い、春から冬までを楽しめる風景があること。話をする人が身近にいること。そんなところに住みたい。それはいったいどこだろう?と考えていた。

夏を故郷の山口で過ごす。生まれ育った市街の実家はもう売ってしまって今はもうないが、車で30分ばかり山に入ったところに弟の家がある。カナダでログハウスを作っていた弟は長女を連れて帰国した後、故郷に戻り地元の大工さんに弟子入りする。そして四半世紀ほど前、ここに土地を求め山を切り開いて家を建てた。やがてふたりの娘は巣立ち、今は夫婦2人暮らしだ。

夏が来るたびに私も2人の娘を連れてここにきて、よく海に連れて行ったりしたものだ。なにしろ山も海もあるしお金をかけずに遊べる。薪(まき)で沸かす風呂に娘たちがみんなで入ったり、バーベキューをしたり。夏でも夜は少し寒いくらいに涼しく、エアコンは要らない。しかし月日が経って、今やここに帰って来るのは私ひとりとなった。

仲のよい弟夫妻は趣味趣向が私と合っている。生活のリズムや休日の過ごし方、食べるもの、身の回りの物の趣味や経済観念など。

とりあえず今はやりの二拠点生活

先日弟夫妻が我が家にやって来た。茨城で私の知人の家を建てたりしたのを機に友人にも恵まれ、今回も地元のお祭りの日に宴を設けて楽しい夜を過ごしたりした。短い滞在ではあったけど、娘達のことや自分達の行く末などを話しているうちに、ごく自然とある結論にたどり着いた。

それは弟の敷地に私の小屋を建てること。幸い弟の家は広い敷地の中にあって、私が望むほどのささやかな小屋は十分に建つ。飯は一緒に食べればいいし、別棟の風呂は拝借することにする。余談だが、今の風呂をそろそろ作り直したいというので、庭に転がっている五右衛門風呂の釜を使って、この際風呂を新調しようということにもなった。

そして、とりあえずは今はやりの二拠点生活。その先のことは、またその都度考えればいいということで。

昔住んでいた浦和の別所沼公園に小屋が建っていたのを思い出した。とても気になるそのモダンな小屋は、詩人であり建築家の立原道造の「ヒアシンスハウス」。記憶はおぼろげにしかないのだが、寝るところと机と…、必要最小限のとても心地の良い空間だったような…。

弟の作業小屋には、解体現場から引き取ってきた古材や建具がストックされている。使えるものは使って建てる安価で質素な小屋。アスファルトの上より自然の中を散歩するのが大好きな犬の「パク」もきっと気に入るはずだ。(画家)

土浦日大 決勝進出ならず

4
祈るような表情でスクリーンを見つめる生徒たち=土浦市小松ケ丘の土浦日大高校

甲子園で開催中の第105回全国高校野球選手権は21日、準決勝の第2試合で県代表の土浦日大が慶応(神奈川)と対戦。0-2で敗れ、県勢として20年ぶりの決勝進出は果たせなかった。土浦市小松ケ丘の土浦日大高校ではパブリックビューイング(PV)が催され、生徒や保護者ら261人が試合の行方を見守った。

土浦日大の誇る強力打線が、この日は最後まで爆発力を欠き、慶応の先発・小宅雅己を打ちあぐねた。特に、ひざ元のきわどいコースに決まる直球やカットボールに翻弄(ほんろう)された。

土浦日大の先発は準々決勝に続き伊藤彩斗。立ち上がりからいきなり無死二・三塁のピンチを背負うが、続く3人を打ち取って事なきを得る。しかし2回は安打と送りバントで2死二塁とされ、小宅の右中間への二塁打で先制を許す。これが小宅をさらに乗せてしまった。

3回にも慶応の先頭打者に安打を許し、送りバントと進塁打で2死三塁。土浦日大はここで2人目の藤本士生をマウンドへ送り、ピンチを切り抜けた。4回はこの試合唯一の3者凡退を奪ったが、5回以降は毎回先頭打者を出し、ランナーを背負う展開が続いた。

6回は先頭打者が左翼フェンス直撃の二塁打。送りバントで1死三塁とされ、次打者の大村昊澄には一度スクイズを失敗させるものの、高めに抜けたチェンジアップを右前に運ばれる。慶応は試合の流れを引き寄せる大きな1点を手にした。

土浦日大も2回と5回以外は毎回走者を出しながら、なかなか得点圏まで進塁できない。7回は初めて2死三塁のチャンスを作るが、6番・鈴木大和は内野フライに倒れた。8回は代打・飯田将生の内野安打と1番・中本佳吾の右前打で2死一・二塁とするが、2番・太刀川幸輝はレフトフライ。あと一打が出ないまま試合終了を迎えた。

「60周年に心が震えるほどの感動」

土浦日大高校のPV会場で一喜一憂する生徒や保護者、教職員らの様子をビデオカメラに収めていたのは、放送部の小島優也さん(2年)と田中瑞姫さん(2年)。この夏の野球部の活躍をドキュメンタリー作品にまとめ、10月のホームカミングデーのイベントで上映する予定だ。「8回表の中本くんのヒットや、8回裏の塚原さんのファウルフライキャッチでは会場が大きく沸き、とてもいい雰囲気だった。みんなのはらはらした表情や落ち込んだ様子など、日常では見られない緊迫感ある表情がたくさん撮れた」と話す。

赤松浩二副校長は「勝負の世界は厳しいが十分に誇れる内容。本当にいい試合だった。本校の創立60周年にこのような機会が持て、心が震えるほどの感動を与えてもらった。野球部が戻ったときは、ぜひ感動をありがとうという気持ちで迎えてほしい」と、会場に語りかけた。(池田充雄)

酷暑日に核廃絶と核抑止について考えた《吾妻カガミ》165

11
霞ケ浦総合公園のハスの花「紹興紅蓮」

【コラム・坂本栄】先のG7広島サミットで、首脳たちは平和記念資料館を訪れて核被爆の悲惨さを見聞きし、核廃絶の必要性を痛感したはずです。それなのに、採択された声明では核兵器が持つ戦争抑止力を正当化しました。8月前半の新聞には、首脳たちの矛盾を指摘する記事も見られ、資料館訪問をお膳立てしながら声明の案文を作成した岸田政権も批判されていました。

核廃絶か?核抑止か? 核保有国、非保有国を問わず、首脳たちとっては頭の痛い問題であり、国際政治学者たちにとっても議論が尽きないテーマです。8月6日、広島での平和記念式典のテレビ中継を見ながら、「1945年夏の時点で日本が原爆を保有し、米国に対する核抑止力が効いていたら、原爆の投下はなかっただろうか?」と思い巡らしました。

米の原爆開発と理研/京大の研究

当時日本でも、理化学研究所(陸軍の命令と予算、中心は仁科芳雄博士)と京都大学核物理学研究室(海軍の命令と予算、中心は荒勝文策博士)が原爆開発を進めていました。しかし、いずれも研究の域を出ず、豊富な予算と人材を投入した米国の原爆開発(マンハッタン計画)にはとても及びませんでした。

完成した原爆を実戦で使うかどうか、米首脳は悩んだようです。しかし、その破壊力を日本に実感させて降伏に持ち込み地上戦を避けたい(米軍兵士の損耗回避)、巨額の開発費を使った原爆の力を実戦で確認してみたい(開発兵器の実証誘惑)、大戦後に主要な敵となるソ連の諸活動を抑制できる(冷戦想定の政略戦略)―などを総合判断、使用を決断したと伝えられています。

もし日本の原爆開発が実用レベルに達し、その情報が米首脳に届いていたら、不使用論「日本による核報復の可能性」が使用論「米軍兵士の損耗回避」「開発兵器の実証誘惑」「冷戦想定の政略戦略」を抑え、原爆投下をためらっていたかもしれません。

ウクライナに核が残っていたら?

現在進行中のロシアのウクライナ侵略でも、ソ連崩壊後、ウクライナに配備されていた核兵器をウクライナが継承・管理していれば、ロシアは核報復を恐れて侵攻しなかっただろうとの指摘があります。対ロシア核抑止力が効いたはずとの見方です。

ロシア・ウクライナ戦の現実は、G7を中心とする通常兵器の支援もあり、志気が高いウクライナ軍がロシア軍を押し返し、慌てたロシアは隣国ベラルーシに戦場で使う戦術核を配備し、ウクライナをけん制するという妙な展開になっています。いずれやってくる停戦交渉をにらんだカードなのでしょう。

核廃絶と核抑止は厄介な問題です。日本の場合、抑止力として米国の核の傘が差し掛けられています。しかし、78年前のように冷徹な判断を下す米国のこと、この枠組みが不変と考えない方がよいでしょう。岸田さんは「核被爆の悲惨さ確認」と「核抑止力の正当化」をセットで演出しましたが、そのケタ外れの破壊力を再確認して帰った首脳もいたかもしれません。(経済ジャーナリスト、戦史研究者)