土曜日, 5月 18, 2024
ホーム検索

花火 -検索結果

If you're not happy with the results, please do another search.

行ったり来たり 回ったり 《見上げてごらん!》1

【コラム・小泉裕司】「ドンとなった花火だ きれいだな 空いっぱいに広がった」。童謡「花火」(作詞・井上赳、作曲・下総皖一、1941年発表)の歌い出し。打ち上げ花火の轟(ごう)音をオノマトペで、開いた大輪の豪快さや美しさを最短のフレーズで素直に伝えきっている。 この童謡から80年を経た今日、コロナ禍で花火大会の中止が相次ぐ中、煙火(花火の法律用語)業界は、事業そのものの継続性が危ぶまれる厳しい経営が続いている。 こうした状況を受け、土浦市は1月から2月の週末5日間、煙火業界の支援を目的とした日本花火史上初の花火イベント「土浦の花火 後世に伝える匠の技」を開催。全国18都道県から、煙火業者55社が市内の霞ヶ浦湖岸に集い、工夫を凝らした個性豊かな花火を披露した。 打ち上げ場所は非公開の中、会場に近いスーパーの駐車場で、わが子と見たという女性が後日、手振りを交えてそのときの感動を語ってくれた。中でも、周囲から「うおー」と歓声が上がる花火があったという。「最近の花火はすごい。ぐるぐる回るんですね」 「ははーん、あの花火のことか!」と合点した私は、したり顔で彼女に解説した。 「時差式発光花火のことですね。イルミネーションやスライド、ウエーブと名付ける花火師もいます。Time lag(タイムラグ)やGhost(ゴースト)の英語表記も見かけます。実のところ、花火が動いているわけではなく、あたかも回っているように錯覚しているだけなんです」 これを心理学では「仮現(かげん)運動」と呼び、たとえば夜瞬くネオンサインは、ランプが実際に動いているわけではなく、多くのランプを適当な時間間隔で点灯したり消したりの繰り返しによって、まるで動いているかのような印象を視覚的につくりだしているとのこと。 この現象を応用したのが「時差式発光花火」であり、花火玉に仕込まれた光を放つ「星」の燃焼時間や温度をわずかずつ変えることで生じる「ずれ」を応用して発光させるという。 花火の進化は温故知新 そのルーツとされるのは、昭和42年(1967)に登場した三遠煙火(静岡県)の「マジック牡丹(ぼたん)」。通常の火薬に火が見えなくなる特殊な火薬をまぶすことで一瞬消えて、再び夜空に浮かび上がるという花火で、当時、常識を破る革命的なアイデアであり技術であったとのこと。 半世紀も前に原型があったことが驚きだが、同時に、温故知新の精神と豊富な化学知識を融合させた現代の花火師の緻密(ちみつ)な技から編み出された逸品といえる。 理科系男子にもかかわらず、私は化学式が大の苦手。やはり花火は「見せる側」ではなく「見る側」で間違いなかったようだ。 実は、この花火はカメラマン泣かせ。花火を写真撮影しても音は写らないのと同様、肉眼で見た複雑な光の変化は静止画像では表現しきれないので、ご覧になっていない方は、一度、花火会場でサプライズを体感されてはいかが? 本日はこの辺で「打ち止めー」。「ドン ドーン!」。(花火鑑賞士、元土浦市副市長) <花火の動画2つ>▽土浦の花火:2022年1月22日 マルゴーのスターマイン4号玉(実行委員会提供)▽常総きぬ川花火大会:2021年12月12日 マルゴーの10号玉(筆者撮影) 【こいずみ・ひろし】1954年、土浦市生まれ、県立土浦一高卒。工学院大学工学部卒。民間企業を経て土浦市役所に入庁。政策企画課長、市長公室長を歴任。2017年まで副市長1期。在職中、花火審査員係業務に13年従事。現在、日本花火鑑賞士会会員。ラジオやネットTVにも出演。茨城新聞に寄稿(19~22年)。花火セミナー開催や「花火通信」(Facebook)などで花火の魅力を発信中。「花火と土浦」(土浦市、2018年)も一部執筆。同市在住。

土浦市で2年ぶり賀詞交歓会 3団体が地味に開催

土浦市商工会議所(中川喜久治会頭)など3団体主催の新年賀詞交歓会が、7日午後6時から市内のホテルで開かれた。昨年はコロナ禍で中止になっており、2年ぶりの新年の集い。コロナ収束の兆しが見えない中での懇親会ということもあり、例年300人近い参加者は170人程度に抑えられ、万事、地味なパーティになった。 「霞ケ浦に大噴水を」中川会頭 3団体を代表してあいさつした中川会頭は、市活性化のためには①霞ケ浦に水質浄化型の大噴水を設置する ②TXのつくば市以北延伸を実現する ③常磐高速・桜土浦IC-土浦北IC間にスマートICを設ける―が必要だとし、各方面に働きかけていくと述べた。また、昨年中止になった土浦全国花火大会のあり方について、近く会議所の提言をまとめる考えを明らかにした。 来賓として挨拶に立った安藤真理子土浦市長は、市は「サイクリングのまち」として全国に売り出しているが、「歴史と伝統のあるまち」も次の世代に引き継いでいきたいとし、新しさと旧(ふる)さが同居するまちづくりを市政の基本にする考えを示した。 6区の衆院議員らがあいさつ 昨秋再選された茨城6区の国光あやの衆院議員は、元厚労省医官の知見を披露した。近く3回目の接種案内が届くコロナワクチンでは、ファイザー製よりもモデルナ製の方が効くと言い切り、「ファイザー信仰」の見直しを求めた。比例で復活した青山大人議員は「深夜の午前3時半、最後の枠で当選が判明した」と、スリリングな開票だったことを披露。「(私が)議員にいてよかったと思ってもらえるよう頑張りたい」と述べた。 国会議員ではこのほか、7月の参院選不出馬を公表した岡田広議員と、上月良祐、小沼巧参院議員があいさつ。県会議員は、土浦市区の伊沢勝徳、八島功男、高橋直子3議員を代表して、昨年末に県議会議長に選ばれた伊沢県議が登壇、「(議長になれたのも)土浦市民のご指導・ご鞭撻のおかげ」と述べた。 参加会費3000円に引き下げ 主催者代表らの挨拶のあと、小坂博 土浦市議会議長が音頭を取った乾杯で、全プログラムが終了。午後7時少し前に自然解散になった。 今年は参加人数の制限だけでなく、国歌斉唱は声を出さないで会場に流れる「君が代」を聞くだけ、中華・和食・洋食のビュッフェやアルコール類も一切なし、乾杯も小ボトルの緑茶で―という、コロナを意識したものになった。いつもは1万円の会費も3000円に下げられ、お土産が入る大袋の中は、寿司弁当、紅白大福、そば焼酎、会議所75周年記念扇子という、会費を還元する内容になった。(岩田大志)

年越し売り出し中 そば焼酎「土浦小町」【人と仕事の回顧録’21】5

土浦市農業公社企画 明利酒類の製造販売 主原料に土浦産常陸秋そばを全量使用したそば焼酎「土浦小町」は、土浦市農業公社(同市永井)が企画し、明利酒類(水戸市)に製造と販売を委託。11月1日の発売以来、売れ行きは好調で、製造元の明利酒類では歳暮需要期を待たずして12月中旬に早くも出荷終了。残るは各小売店の店舗在庫のみとなっている。 常陸秋そば原料に 商品名の「土浦小町」は、土浦市新治地区に残る平安時代の歌人・小野小町の伝説にちなむ。お披露目が予定されていた土浦の花火大会(11月6日)の開催中止で、当初の思惑は外れたが、商品自体の話題性と品質の高さから滑り出しの売れ行きは上々。問屋筋からも「ぜひ来年もまたお願いしたい」と要望が相次いでいるという。 原料の常陸秋そばは、全国のそば店やそば通に支持される一方、生産量は全国シェアのわずか6%という希少性から高いブランド力を誇る。県の奨励品種であり、主産地の一つ新治地区では、11軒の農家が100ヘクタール弱の作付面積で約100トンを生産。そのうち30トンを市農業公社が買い上げ、玄そばやそば粉にして販売する。顧客にはそば打ち職人グループなどが名を連ねる。 公社主任の露久保浩さんは「手前味噌になるが全国のそばの中で、味わいの豊かさや鼻に抜ける香りが一番高い。最もそばらしいそば」と話す。コロナ禍による余剰在庫を活用し、そば焼酎にして飲んでもらうことで、土浦産常陸秋そばの知名度アップにつなげようと企画した。 製造を依頼した明利酒類は清酒「副将軍」や県内各地の地域産物を使った焼酎・リキュール類で実績豊富。酒類販売部の川口幹夫さんは「良い農産物が揃っている茨城の中でも最高の食材を使い、良い酒を造って地産地消や地域PRのお手伝いをしたい」と引き受けた。 今回は600キロのそばから720ミリリットル詰の焼酎約2200本が造られた。常陸秋そばは実が大きく粒揃いが良いことも特徴で、そのせいか歩留まりも良く醸造は順調に進んだ。白麹(こうじ)仕込みにより素材の持ち味を生かし、抽出には減圧蒸留方式を採用。沸点が低くなるため雑味が抑えられ、クリアで軽快な味わいになるという。 家庭でも楽しめるそば湯割り 出来ばえについては「さわやかでキレがよく、すっきりとした味わいのある焼酎。そば特有の華やかな香りと、口当たりのやわらかさが特に感じられる」と川口さん。飲み方は、キリッとした飲み口を楽しむならロックやソーダ割り、まろやかで優しい味わいにするならそば湯割りが適するという。 11月に土浦駅ビル内の「IBARAKI佐藤酒店プレイアトレ土浦店」で試飲販売会が行われた際は、市内おおつ野のそば店「筑山亭かすみの里」がそば湯を提供した。「当店ではほとんどの方がそば湯割り。焼酎のカドをまるめておいしく飲める」と店主の長峰淳さん。そば湯は濃いめの方が合うそうで、そば本来の甘みと香りが増幅され、料理の味も引き立ててくれる。 そば湯割りは、そば店ならではの飲み方と思われがちだが家庭でも簡単だ。水100ミリリットルにそば粉小さじ1程度を溶いて火にかけ、沸騰してとろみがついたら、軽く温めておいた焼酎と合わせて熱々のところをいただく。割り方はお好みで、ちなみに試飲会では焼酎6に対しそば湯4で提供した。 「土浦小町は地域の名を冠した『おらが焼酎』として多くの方に興味を持たれ、喜んでいただくことができた。今後も製造を続け、県内外に周知を図り、新たな土浦ブランドとして成長させていきたい」と露久保さん。来年度の仕込みへの期待も高く、詳細はこれから協議するが、度数の高いプレミアム焼酎などの方向性も検討したいという。(池田充雄) ◆本格そば焼酎「土浦小町」 720ミリリットル入り1500円(税込み)。取り扱いは県内の大型店、酒販店、土浦市庁舎1階の「きらら館」、同市小野の「小町の館」など約40店。東京では中央区銀座にある県のアンテナショップ「イバラキセンス」など。市のふるさと納税の返礼品にもなっている。通信販売は市農業公社ホームページ [おわり]良い年をお迎えください。

ひとりテントが集まる冬キャンプ盛況【人と仕事の回顧録’21】1

コロナ禍の2021年を駆け抜けた人と仕事にスポットを当てて振り返る歳末シリーズ。22年の展望は見えているだろうか。 田園プラン 根本裕輔さん つくば市 キャンプもテントもバーベキューも、俳句の世界では夏の季語だ。けれど今シーズン、「夏の間、暑くって勢いのなかったテントキャンプが秋から盛り返して、冬キャンプの申し込みは引きも切らずの状態になった」とつくば市吉瀬で「フォンテーヌの森」キャンプ場を運営する根本裕輔さん(38)はうれしい悲鳴をあげる。 きょう日、コロナ禍で密を避けた屋外のレジャーとして、キャンプがちょっとしたブームになっている。「父親がキャンプ場を始めた90年代、オートキャンプに代表されるアウトドアブームがあったのだけど、今回は様相が大分変わってきている」という。 90年代はファミリー客がメーンだったとすると、今回はソロキャンプが目立って増えている。「たとえば3人でやって来てキャンプサイトを1区画申し込む。そこに一人用のテントを3つ張って焚き火を囲み、飲食しておしゃべりをして、夜になるとそれぞれのテントに引っ込む」スタイルだ。1泊して近くの観光地などに出かける様子もみられない。 フォンテーヌの森でいえば、数年前まで土浦の花火大会の見物客が泊まりに来た10月初旬の土曜日を最後に、ほぼシーズンオフに入っていた。ところがコロナ禍以降、働き方も自由度を増しているから、週末にこだわることなく、平日に集まれるようになった。夏場にぎわった那須(栃木)や軽井沢(長野)が冷え込む今の時期、房総(千葉)や茨城県南のキャンプ場に客足が向かう形になっている。 来年はキャンプ場開設30周年 「おかげで空前の売り上げですよ」と根本さん。創業者の先代の後を継ぎ、田園プラン社の社長に昨年就いた。キャンプ場運営事業にはほぼ10年間、携わってきた。売り上げの推移をたどる経年変化の棒グラフを見せてもらったが、2021年の売り上げは7000万円に迫っている。「一昨年初めて6000万円を超えて喜んだのだけど、昨年は新型コロナの影響でさすがに減った。それが一年で盛り返し、過去最高を更新した」 内訳を見てもテントキャンプの伸びが目立っている。「バーベキューも一定のシェアはあるけど、小人数の集まりが主。企業や団体の利用はすっかり止まっている。来年以降に期待したい」という。 この勢いがこの先続く保証はない。「集計をグラフ化するようになって以降、いつもガクッて落ち込む心配が頭をよぎるようになった」と新機軸を考慮中。バカンスとリモートワークをこなす滞在空間「ワーケーション」として利用してもらえないか、など模索している。 「お正月についても問い合わせは多く、予約を受け付ければお客さんには来てもらえるのは確実だろうけど、ごめんなさい」。暮れは27日まで営業、正月は5日までの休業を決めた。フル回転した頭と体を休ませる。来年はキャンプ場開設30周年になる。(相澤冬樹)

霞ケ浦から桜川へ自転車散歩 《ポタリング日記》1

【コラム・入沢弘子】高架道でまちを抜けると霞ケ浦が見えてきました。こんな快晴の日の湖面は透明感のある瑠璃色。沖には数隻のヨットの白い帆がくっきり。今日は湖の近くを走ってみましょうか。 りんりんポート土浦の駐車場は、県外ナンバーでほぼ満車。ロードバイクのサイクリストの間で車から自転車を降ろします。さっき見えた土浦港に行ってみようかな。隣接する三帆ひろばでラクスマリーナのヨットを撮影。見晴らしがよく気持ちがスッとします。 停泊するモーターボートを眺めながら港沿いを行くと、日本三大水天宮の水天宮に到着。水神宮と稲荷大明神と三社が並んで見送ってくれました。近くの出島状に湖に突き出た港町地区には湖岸道があったはず。ジョギングや散歩の人たちがちらほら。岸から釣り糸を垂らす人がたくさん。小さな船だまりの木造船の先に養殖さおや漁網もあるのは、漁をしていた頃の名残かな? 湖面を渡る風は、かすかに潮の香り。 おやつは「りんりんチョコ」 秋は土浦全国花火競技大会が開催される時期。今年も中止だけれど、会場付近の様子を見に桜川を上ってみましょう。桜川堤の右岸は歩行者と自転車のみ通行可能な道が整備され、自動車も通行可能な区間は、河川敷の道に降りられるので安心。約500本の桜並木の堤防は、昔からのお花見の名所で有名です。 港町から水郷橋のたもとを渡り、常磐線の橋梁をくぐり、桜川橋、匂橋、銭亀橋、土浦橋を通過すると学園大橋に到着。この辺りが花火大会の時は桟敷席になる場所です。来年は夜空に咲く大輪の花が見られますように。 広い河川敷で休憩。土浦駅前の老舗・高月堂で買った「りんりんチョコレート」でおやつタイムです。特産品のレンコンのチップ入りチョコは食感が楽しく、まろやかな甘さに癒されます。さあ、この後はどこに行こうか。町なか探検をしようか…。 自転車と泊まれる駅のホテル 日本で2番目に大きな湖・霞ケ浦のほとりにある城下町土浦市。世界に誇る「ナショナルサイクルルート」に認定された「つくば霞ケ浦りんりんロード」の玄関口です。JR土浦駅は日本で唯一のサイクリスト仕様のアトレ(「プレイアトレ土浦」)。部屋に自転車と泊まれる星野リゾートのホテルも開業しました。 サイクルウェアに身を包み、輪行バッグで改札口を通る人も多く、市内の店舗のサイクルラックにも、ロードバイクが停められている「自転車のまち」。 駅前の図書館に勤務していたころは、土浦が「自転車のまち」として変貌するのを他人事のように見ていましたが、次第に自転車ライフを楽しみたくなり、駅ビルの店で自転車を購入。小型自転車BROMPTON(ブロンプトン)は、折りたたんで車に乗せられる気軽さをとても気に入っています。 これから、土浦市やその周辺を自転車散歩した様子を「ポタリング日記」として記していきます。本格的な自転車乗りの方には物足りないと思いますが、ご容赦ください。(広報コンサルタント)

霞ケ浦から桜川へ自転車散歩 《ポタリング日記》1

【コラム・入沢弘子】高架道でまちを抜けると霞ケ浦が見えてきました。こんな快晴の日の湖面は透明感のある瑠璃色。沖には数隻のヨットの白い帆がくっきり。今日は湖の近くを走ってみましょうか。 りんりんポート土浦の駐車場は、県外ナンバーでほぼ満車。ロードバイクのサイクリストの間で車から自転車を降ろします。さっき見えた土浦港に行ってみようかな。隣接する三帆ひろばでラクスマリーナのヨットを撮影。見晴らしがよく気持ちがスッとします。 停泊するモーターボートを眺めながら港沿いを行くと、日本三大水天宮の水天宮に到着。水神宮と稲荷大明神と三社が並んで見送ってくれました。近くの出島状に湖に突き出た港町地区には湖岸道があったはず。ジョギングや散歩の人たちがちらほら。岸から釣り糸を垂らす人がたくさん。小さな船だまりの木造船の先に養殖さおや漁網もあるのは、漁をしていた頃の名残かな? 湖面を渡る風は、かすかに潮の香り。 おやつは「リンリンチョコ」 秋は土浦全国花火競技大会が開催される時期。今年も中止だけれど、会場付近の様子を見に桜川を上ってみましょう。桜川堤の右岸は歩行者と自転車のみ通行可能な道が整備され、自動車も通行可能な区間は、河川敷の道に降りられるので安心。約500本の桜並木の堤防は、昔からのお花見の名所で有名です。 港町から水郷橋のたもとを渡り、常磐線の橋梁をくぐり、桜川橋、匂橋、銭亀橋、土浦橋を通過すると学園大橋に到着。この辺りが花火大会の時は桟敷席になる場所です。来年は夜空に咲く大輪の花が見られますように。 広い河川敷で休憩。土浦駅前の老舗・高月堂で買った「リンリンチョコレート」でおやつタイムです。特産品のレンコンのチップ入りチョコは食感が楽しく、まろやかな甘さに癒されます。さあ、この後はどこに行こうか。町なか探検をしようか…。 自転車と泊まれる駅のホテル 日本で2番目に大きな湖・霞ケ浦のほとりにある城下町土浦市。世界に誇る「ナショナルサイクルルート」に認定された「つくば霞ケ浦りんりんロード」の玄関口です。JR土浦駅は日本で唯一のサイクリスト仕様のアトレ(「プレイアトレ土浦」)。部屋に自転車と泊まれる星野リゾートのホテルも開業しました。 サイクルウェアに身を包み、輪行バッグで改札口を通る人も多く、市内の店舗のサイクルラックにも、ロードバイクが停められている「自転車のまち」。 駅前の図書館に勤務していたころは、土浦が「自転車のまち」として変貌するのを他人事のように見ていましたが、次第に自転車ライフを楽しみたくなり、駅ビルの店で自転車を購入。小型自転車BROMPTON(ブロンプトン)は、折りたたんで車に乗せられる気軽さをとても気に入っています。 これから、土浦市やその周辺を自転車散歩した様子を「ポタリング日記」として記していきます。本格的な自転車乗りの方には物足りないと思いますが、ご容赦ください。(広報コンサルタント)

本サイトはスタートから4年に《吾妻カガミ》117

【コラム・坂本栄】このサイトがスタートしたのは2017年10月1日。それから4年がたちました。開始数日前の発表会見では、1日に何本の記事がアップされるのかとの質問を受け、平均3本を目標にしたいと答えました。コロナ禍でイベント類の記事は減りましたが、逆にコロナ関連を増やすことで、この目標はほぼ達成できています。これからも、元新聞記者、市民記者、大学生記者による記事、一家言ある識者のコラムをご愛読ください。 大学生記者の記事が大ヒット 9月には筑波大生記者の記事が注目されました。(A)ある団体がつくば市の公園で食料無料配布会を開こうとしたが、コロナ禍を理由に公園の使用が認められなかった、(B)この記事が掲載されたあと、記者が担当課に改めて理由を取材したところ、密回避を条件に使用を認めるとの連絡が団体に入った、(C)万全のコロナ対策をして配布会が開かれ、大学生や市民に大変喜ばれた―以上のような流れの3本です。 詳しくは「『公園が借りられない』 つくば市の食料支援団体」(9月15日掲載)→「一転、つくば市が使用を許可」(9月16日掲載)→「支援団体 感染対策を徹底」(9月25日掲載)をご覧ください。コロナ禍でアルバイト先が減り困っている学生、彼らを助けようとしている団体、規則だから公園使用はNOと言う市、当サイトの記事と取材を受けOKに転じた市。一連の記事は大ヒットし、書き込みコメントも増えました。 3本の記事は、本サイトの編集方針である(1)地域の話題を取り上げる(2)自治体の行政をウォッチする―に沿ったものです。これらに地域の方々が強い関心を持ち、結果、市を動かしたことになります。「NEWSつくば4周年」にふさわしい内容でした。 3コラムニストが再・新登場 土浦市を扱ったヒットコラムも紹介します。コロナ禍で花火大会が取り止められたことを受けて書いた「また中止された土浦の花火を考える」(9月20日掲載)です。私はこの中で、花火大会が事故で2度も中断されたことを踏まえ、打ち上げ場所を変えたらどうかと提案しました。これにはアクセスが多かっただけでなく、賛成論・反対論がコメント欄に書き込まれ、論争になりました。これも本サイトの役割ではないでしょうか。 コラムは原則毎日1本アップされており、こちらも本サイトの「売り」です。10月から、入沢弘子さん(広報コンサルタント、元土浦市立図書館長)とオダギ秀さん(コマーシャルフォトグラファー、土浦写真家協会会長)が復帰、秋元昭臣さん(元ラクスマリーナ=土浦港のヨット/ボート係留・遊覧船運行会社=専務)が新たに参加します。三方には、土浦とつくばを中心に、地域の魅力を全国に向け発信していただきます。 もちろん、つくばの総合運動公園用地問題、陸上競技場新設問題、センター地区再生問題など、市民の関心が強いテーマも引き続き取り上げていきます。また、土浦も現市長が公約した課題が動き出しますので、こちらもウォッチします。本サイトの情報が皆さまのご参考になれば幸いです。(NEWSつくば理事長、経済ジャーナリスト)

本サイトはスタートから4年に《吾妻カガミ》117

【コラム・坂本栄】このサイトがスタートしたのは2017年10月1日。それから4年がたちました。開始数日前の発表会見では、1日に何本の記事がアップされるのかとの質問を受け、平均3本を目標にしたいと答えました。コロナ禍でイベント類の記事は減りましたが、逆にコロナ関連を増やすことで、この目標はほぼ達成できています。これからも、元新聞記者、市民記者、大学生記者による記事、一家言ある識者のコラムをご愛読ください。 大学生記者の記事が大ヒット 9月には筑波大生記者の記事が注目されました。(A)ある団体がつくば市の公園で食料無料配布会を開こうとしたが、コロナ禍を理由に公園の使用が認められなかった、(B)この記事が掲載されたあと、記者が担当課に改めて理由を取材したところ、密回避を条件に使用を認めるとの連絡が団体に入った、(C)万全のコロナ対策をして配布会が開かれ、大学生や市民に大変喜ばれた―以上のような流れの3本です。 詳しくは「『公園が借りられない』 つくば市の食料支援団体」(9月15日掲載)→「一転、つくば市が使用を許可」(9月16日掲載)→「支援団体 感染対策を徹底」(9月25日掲載)をご覧ください。コロナ禍でアルバイト先が減り困っている学生、彼らを助けようとしている団体、規則だから公園使用はNOと言う市、当サイトの記事と取材を受けOKに転じた市。一連の記事は大ヒットし、書き込みコメントも増えました。 3本の記事は、本サイトの編集方針である(1)地域の話題を取り上げる(2)自治体の行政をウォッチする―に沿ったものです。これらに地域の方々が強い関心を持ち、結果、市を動かしたことになります。「NEWSつくば4周年」にふさわしい内容でした。 3コラムニストが再・新登場 土浦市を扱ったヒットコラムも紹介します。コロナ禍で花火大会が取り止められたことを受けて書いた「また中止された土浦の花火を考える」(9月20日掲載)です。私はこの中で、花火大会が事故で2度も中断されたことを踏まえ、打ち上げ場所を変えたらどうかと提案しました。これにはアクセスが多かっただけでなく、賛成論・反対論がコメント欄に書き込まれ、論争になりました。これも本サイトの役割ではないでしょうか。 コラムは原則毎日1本アップされており、こちらも本サイトの「売り」です。10月から、入沢弘子さん(広報コンサルタント、元土浦市立図書館長)とオダギ秀さん(コマーシャルフォトグラファー、土浦写真家協会会長)が復帰、秋元昭臣さん(元ラクスマリーナ=土浦港のヨット/ボート係留・遊覧船運行会社=専務)が新たに参加します。三方には、土浦とつくばを中心に、地域の魅力を全国に向け発信していただきます。 もちろん、つくばの総合運動公園用地問題、陸上競技場新設問題、センター地区再生問題など、市民の関心が強いテーマも引き続き取り上げていきます。また、土浦も現市長が公約した課題が動き出しますので、こちらもウォッチします。本サイトの情報が皆さまのご参考になれば幸いです。(NEWSつくば理事長、経済ジャーナリスト)

つくば市が1位 2020観光客数 コロナ禍響き県内4割減

茨城県観光物産課は2020年の観光動態調査結果を発表した。市町村別では、272万9000人の入込客数(延べ人数)があったつくば市が県内1位となった。3位だった19年の425万9000人から減少したものの、コロナ禍の影響は、大洗町やひたちなか市の海水浴場、ひたち海浜公園などでより顕著な入込客数の減少となって表れた。 県全体の20年(1~12月)の観光入込客数は3854万4000人で、前年と比べ40.2%減った。観光消費額は2101億円で15.5%減となった。 減少した主な観光地は、国営ひたち海浜公園(ひたちなか市)103万人減、茨城空港(小美玉市)80万人減、イベントでは水郷潮来あやめまつり(潮来市、開催中止)が72万人減、土浦全国花火競技大会(土浦市、中止)が65万人減。 市町村別の入込客数は、2位が大洗町(昨年1位)で271万5000人、3位は阿見町(同6位)の265万3000人、4位は笠間市(同5位)の262万6000人、5位はひたちなか市(同2位)の198万4000人だった。3ランクアップの阿見町はアウトレットモールの集客が大きい 1人当たりの観光消費額は、宿泊が2万3617円(19年は2万5023円)、日帰りは3763円(同3559円)だった。利用交通手段は圧倒的に自家用車が多く全体の84.8%を占めた。(山崎実)

拡張現実下のまつりつくば8月開催 やらないパレードもスマホで見せる

つくば市きっての夏祭り「まつりつくば」は今年、8月7日から31日のロングラン開催となる。新型コロナ対策から、土浦学園線でのねぶた大パレードや、センター広場でのステージイベント、飲食の出店などは実施しない。その代わり、最新のデジタル技術を駆使するなどして、つくばらしい夏祭りの新スタイルを提案する。 つくば市とまつりつくば実行委員会が主催し、毎年8月下旬に約45万人が参加する一大フェスティバルも、昨年はコロナ禍から中止となった。市観光推進課は「2年連続で中止とするのではなく、新型コロナの影響下でも、市民が楽しみ、華やかな気持ちになれるような機会を提供できるように、新しい形でまつりつくばを開催する」と話す。 今回、導入されるAR(Augmented Reality、拡張現実)技術は、スマートフォンの画面越しに、ナビゲーションや3Dデータを現実世界に重ねて出現させることが出来る。つくばセンター広場や土浦学園線で、指定のQRコードを読み込むと、スマホ画面を通して、実在の風景にねぶたやみこしが重なって表示される。まつりつくばのにぎわいが繰り広げられているかのようなバーチャル世界が手軽に体験できるという。 コロナ禍であっても祭りを楽しむための工夫で、アプリなどのインストールは不要。市によると「QRコードが記載されたチラシを全戸配布する。そのQRコードをスマホで読み取ってもらうと、これまで祭りで演出されてきたようなものや演出がARで再現される仕組み」だという。 具体的には「ねぶたやみこし、花火の表示を想定している。例年通りとはいかないが、祭りの雰囲気が感じられるものを用意する。例えば、センター広場や土浦学園線で見ていただければ、これまでのパレードを再現できるような形」だという。さらに「自宅で花火の演出を見ていただくような形」も想定し準備している。 つくばセンター広場を中心に提灯や行灯による空間演出など、お祭りならではの雰囲気を盛り上げる計画もある。 ほかにも、オンラインステージやデジタルスタンプラリーが新たに導入される。オンラインステージでは、おはやしやよさこいパフォーマンスをインターネット上で生中継したり、過去のまつりつくばの映像のオンライン配信が行われる。 デジタルスタンプラリーでは、市内の参加店舗(現在、店舗数は未定)で電子スタンプを集めた人を対象に抽選で賞品をプレゼントする。(山口和紀) 詳細については決定次第「まつりつくば」ホームページで随時発表される。まつりつくばオフィシャルサイトはこちら。

追悼・高橋伍郎さん 霞ケ浦横断遠泳の実行委員長

「霞ケ浦横断遠泳を楽しむ会」の実行委員長をしていた筑波大学名誉教授(体育学)の高橋伍郎さんが6月14日、亡くなった。84歳だった。稲敷市和田岬(旧桜川村)から行方市天王崎(旧麻生町)までの約2.5キロを泳ぐ夏の催し、1987年から2011年まで25回続き、毎回100~125人の泳ぎ自慢のスイマーが参加した。 ただ24回と最終回は、土浦市の田村町 -大岩田の約2キロに変更された。天王崎にあった国民宿舎白帆荘が閉鎖され、遠泳後の入浴、シャワー、懇親の場がなくなったからという。24回と25回が土浦コースになったのは、大岩田の国民宿舎水郷の施設を使うためだったが、同宿舎も閉鎖され、25回が最後になった。 高橋さんを悼み、遠泳イベントの「言い出しっぺ」鈴木明夫さん(元茨城県歯科医師会会長)、会の事務方を務めた糸山直文さん(元ジョイフルアスレティッククラブ社長)に、遠泳会を率いた「伍郎さん」「伍郎先生」の思い出を話してもらった。 ジョイフル本田会長との出会い ホームセンター「ジョイフル本田」(本社・土浦市)が1985年、荒川沖店(同市北荒川沖町)のすぐそばに、「ジョイフルアスレティッククラブ(JAC)」をオープンさせた。同社の本田昌也会長(故人)はJACの目玉施設として50メートルプールをつくった。その設計について助言したのが伍郎さん。米国のスポーツクラブはどうなっているのか、本田会長と伍郎さんは米国まで調査に行った。 完成した本格プールで泳ぎを楽しむうち、クラブ会員の鈴木さん(かすみがうら市生まれ)が伍郎さんに「子どものころ遊んだ霞ケ浦で泳がないか」と提案。水質が懸念されたが、伍郎さんが「湖でとれたものを食べているのなら大丈夫」と遠泳会が生まれた。 霞ケ浦=水質の悪い湖のイメージを修正するのにピッタリと、会の発起人グループが竹内藤男知事(当時、故人)を訪ね、茨城県の支援を要請。知事は即決で初回100万円の補助を約束。その後も毎回60~100万円を予算化。1回目は、竹内知事がスタートのピストル合図を担当した。 「水は想像ほど汚くなかった」 遠泳会は競技ではなく、参加費3000円の「楽しむ会」。25人が1組になり、隊形を維持し、各2メートルの距離を取り、対岸天王崎を目指した。最大5班編成と決め、各班に和船が随伴した。報道船、救急船、カヌーも続いた。実行委員長の伍郎さんも一緒に泳ぎ、各班を回って泳者を励まし、安全をチェックした。 7月下旬~8月上旬に開かれたイベントを両岸の自治体も支援。出発地・和田岬では、出発を天王崎に知らせるために花火を打ち上げた。到着地・天王崎では、泳ぎ手の目標になるようにと連ダコを揚げた。 旧常陽新聞は第8回の様子を「参加者は県内全域から千葉県や東京都などにも及び、年齢も15歳から69歳までと幅広く、親子やカップルの参加者も見られた」「初出場の和知恵子さんは『完泳できてほっとしている。水は想像していたほど汚くなかったが、浄化が進んで魚や水草などが見える状態で泳ぐことができれば、素晴らしいと思う』と語り…」とリポートしている。 プールで水泳マラソン 台風で霞ケ浦横断が無理のときは、JACプールを使う遠泳会に切り替えた。クラブ内に設けられた「筑波スポーツ科学研究所」の所長もしていた伍郎さんは、水球もできる本格プールで、1万メートル、5000メートルの水泳マラソンも開いた。1月1日の正午から2日正午(JAC休館日)まで、6人の泳者が30分交代で泳ぐ「24時間スイム」も企画した。 伍郎さんの泳ぎ好きは半端でなく、猪苗代湖、田沢湖、浜名湖、洞爺湖など、全国の湖に出向いた。那珂川、四万十川などの川上りにもトライ。毎年、ワールドマスターズゲームにも参加した。 「いつも笑顔を絶やさなかった」 掲載写真を接写した「霞ケ浦横断遠泳10周年記念誌」(1997年刊)の編集を担当した亀田優子さん(不動産会社勤務)が、LINEで回覧された筑波大後輩の追悼文を送ってくれた。 「伍郎先生は、どんなときでも笑顔を絶やさなかった。色黒で立派な顎ひげをたくわえた面構えに、初対面の人は面食らう場合もあるだろうが、次の瞬間、人懐っこそうな満面の笑みに触れると、そのギャップもあってか、パッと人の心を開かせる不思議な魅力をお持ちであった」 合掌(岩田大志)

イオンモールにツェ伯号飛来! 4日から「飛行船と土浦の物語」

展示「飛行船と土浦の物語」が4日から、土浦市上高津のイオンモール土浦で始まる。6日まで。5月に迎えた同モール開業12周年記念祭の一環で、かつて土浦に巨大飛行船ツェッペリン伯号が飛来した事跡を、資料パネルや映像などでに伝え、地域振興につなげようというもの。協力は土浦ツェッペリン倶楽部、土浦商工会議所、土浦市観光協会。 会場はモール1階東端にある「花火ひろば」。大型ビジョンで飛来時の様子を紹介したニュース映像や、うるの拓也さんのコミック「ツェッペリンが舞い降りた日」などを上映する。パネル展示では土浦ツェッペリン伯号展示館(土浦市中央1丁目)に保管されている史料写真などを紹介、時間によっては土浦ツェッペリン倶楽部のメンバーも来場し、展示解説などしてくれるという。 また個人コレクターの協力により、実際にツェッペリン伯号で運ばれた航空郵便や、飛行船が図案となった当時の記念切手、世界中を飛んださまざまな飛行船の写真など、数々の資料を複写で紹介する。フォトスポットでは全長4メートルのツェッペリン伯号の大型模型や、2005年に再び土浦の空を飛んだツェッペリンNT号のノーズコーン(機首部分)の実物を置き、一緒に写真を撮ることができる。 ドイツの飛行船ツェッペリン伯号が人類初世界一周飛行に成功したのは1929(昭和4)年。その数少ない停泊地に選ばれたのが、阿見町の霞ケ浦海軍航空隊飛行場(現陸上自衛隊霞ケ浦駐屯地)だった。当時の最先端技術で造られた全長236.6メートルの巨大飛行船を一目見ようと、5日間の停泊期間中に押し寄せた人の数は30万人とも40万人とも言われている。 企画を担当したイオンモール土浦の色川晃代さんは「こんなにすごいものが本当に土浦へ来たんだと、皆さんに実感していただけるようにしたいと考えた」と話す。同モールでは毎年、土浦の成り立ちや歴史を紹介する展示を行っており、今回は特にツェッペリン伯号にスポットを当てた。(池田充雄) 「飛行船と土浦の物語」関連イベント ・石原之壽さんの街頭紙芝居「ツェッペリン号物語2」=5日・6日、各日とも午後1時30分、2時30分、4時から・日本ツェッペリン協会会長で、飛行船の歴史・文化史の第一人者として知られる天沼春樹さんの講演=6日。午後1時から「土浦とツェッペリン飛行船」、3時から「ツェッペリン飛行船、土浦をめざす」・ワークショップ「飛び出す飛行船ツェッペリン伯号」=5日・6日。子ども向けのペーパークラフト教室 関連記事はこちら《霞月楼コレクション》12 ツェッペリン伯号霞ケ浦飛来と熱烈歓迎

【土浦市長会見】7月23日から17日間のキララまつり 山車やパレードは中止

土浦市、安藤真理子市長の定例会見が31日、同市役所で開かれた。新型コロナ感染拡大の影響で昨年度中止したキララまつりについて、7月23日から8月8日までの17日間の会期とし、例年と内容を変更して開催する旨明らにした。 まつりのタイトルは「2021土浦の夏キララ~星空へ願いを込めて~」。日程は東京オリンピックの会期(7月23日~8月8日)と重なり、期間中をキララウィークとし、行事を分散して実施する。 新型コロナ感染に配慮し、パレードなど人が集まって3密を作りやすい行事は中止する。市民山車、歩行者天国実施による七夕おどり、防犯パレード、模擬店などのイベントだ。 実施するイベントは密にならないよう配慮し、町の中を回遊する「まちなかキララリー」、「土浦キララ花火」打ち上げなどが予定されている。 土浦港では霞ケ浦湖上遊覧船の無料乗船会を行い、観光帆曳き船は通常の運行に加え朝夕の増便を行う。 期間中は、土浦駅西口うらら大屋根広場、川口2丁目モール川口バス停付近、駅前目抜き通り商店街などを七夕飾りで装飾する。 市観光課によると2018年は16万人、2019年は14万人の人出があったという。 花き農家を支援の「花の産地つちうら」プロジェクト グラジオラスやアルストロメリア、ガーベラなど市で栽培されている花を中心とした展示を6月19日から24日まで、市役所1階で行うと発表があった。 「花の産地」としてのPRと新型コロナ感染拡大に伴うイベントや式典の中止や縮小で収益が減少した花き農家の支援が目的。「父の日(20日)に花を送って」というプロジェクトでもあるという。ツイッターやフェイスブックなどのSNSや広報誌を利用したPRも実施する。 県の花き銘柄産地に指定されているグラジオラスの出荷量は、2019年に355万本だったが2020年は313万本まで減少した。(伊藤悦子)

町歩き5万人を案内 創立20周年の土浦市観光ボランティアガイド協会

観光客はじめ土浦を訪れた人たちに、市内の名所旧跡を案内する土浦市観光ボランティアガイド協会(同市中央1丁目)が創立20周年を迎える。5月20日にはクラフトシビックホール土浦(同市東真鍋町)に関係者を招き、20周年記念式典が開催される。 協会の発足は2001年、市観光協会の「歴史が好きな人」の呼び掛けで集まったのは10人。現在は30人のガイドが在籍している。案内した観光客は当初、年間400人程度だったが徐々に増え2019年には約8000人に上った。 20年間で案内した人数は約5万人に上る。現在はコロナ禍で減っているが、東京や千葉、埼玉のほか九州、青森からも訪れるという。 「とにかく土浦愛」のガイドたち 30人のガイドの年齢層は、50代から80代でメーンは70代。毎月一度はまちかど蔵「野村」(同市中央)で会議を行う。 案内時は最低でも2時間は歩くため、体力のある元気な人ばかりだという。元公務員や元会社員、自営業や主婦などさまざまな人がいるが、共通点は「とにかく土浦を愛していること」だ。 顧問の篠崎修一郎さん(87)は協会設立当初から在籍する。2018年金丸興治さん(80)に引き継ぐまで、会長職には15年以上携わった。「お客さんに土浦の魅力を知っていただききたいという思いで続けてきた。案内してもらってよかった、というお客さんの一言に20年支えられてきた」と話す。 会長の金丸さんは「ガイドは単に建物の歴史を話すだけではない」という。「土浦城主だった土屋家はどういうきっかけで城主になったのか。まちかど蔵の建物に使用されている木材は何か。大徳ではどのような着物を売っていたのかなど、インターネットだけで調べただけでは分からないことを、広く深く伝えることで喜んでもらえる」と語る。 22日に記念のぶらり歩き 発足当初はまちかど蔵「大徳」「野村」についての案内だけだった。しかし観光客からの要望に応えていくうちに、中城通り周辺や亀城公園、市立博物館、さらに同市大手町の東光寺や等覚寺、同市文京にある神龍寺まで範囲が広がっていったという。 ここ数年は小町の里(同市小野)や上高津貝塚ふるさと歴史の広場(同市上高津)、荒川沖まで案内することもあるそうだ。 毎週土日と祝日は、まちかど蔵野村にガイドが1人常駐、観光客の要望があれば案内をする。平日は事前予約があった団体客(3人以上)や市の公民館講座などで案内を行っている。 また土浦全国花火競技大会やかすみがうらマラソン、桜祭りやひな祭りなどイベント時に観光客の案内も行う。 金丸さんは「土浦は城下町であり水戸街道の宿場町でもある。市全体が歴史の町。ニーズがあれば市内どこでも案内する」とし「20周年以降も土浦の歴史や魅力を伝えていきたい」と意気込みを語った。(伊藤悦子) ◆土浦市観光ボランティアガイド協会創立20周年記念「街中ぶらり歩きをしましょう」 5月22日午前9時30分、まちかど蔵「野村」集合で開催。「城下町と商家」「土浦城と寺社」の2コースをボランティアガイドの案内で歩く。申し込み・問い合わせは電話029-824-2810(土浦市観光協会)、詳細はこちら(市観光協会ホームページ内)

作家の夢が膨らんだ土浦時代 新川帆立さんインタビュー

【池田充雄】宝島社主催の昨年の第19回『このミステリーがすごい!』大賞を受賞した新川帆立さんの『元彼の遺言状』は1月に刊行されるや、1カ月半で18万部を突破し、今も部数を伸ばし続けている。東京大学法学部卒業、弁護士、そしてプロ雀士としての活動経験もあるという異色の作家だが、高校時代の3年間を土浦で過ごした経歴から、地元にもファンを増やしている。土浦で作家の夢が膨らんだという新川さんに、当時の思い出や自作について語ってもらった。 にぎやかだった駅前の商店街 ―幼少期を宮崎市で過ごし、父の転勤に伴う形で県立土浦一高へ入学。住居は霞ケ浦の近くで、桜川の土手などもよく散歩した。春は桜が一斉に咲いてすごくきれい。湖上にはヨット部の人たちが帆を浮かべていて優雅な感じ。当時は駅前の商店街もにぎやかで、イトーヨーカドーのミスドで友達と一緒に勉強したり、モール505の「かつら」でもんじゃ焼きを食べたり。あと一高前の「特米弁当」が麻薬的なおいしさで、よくお昼に食べていた。 ―2006年から09年にかけての高校生活になる。当時の思い出は。すごく楽しくて本当にいい思い出しかない。小中学生のころは周りから宇宙人みたいに見られていたが、一高に来たら私より変な人がいっぱいいて、それで楽になれた部分もある。大人な人が多く、多様性を認める環境だったのかなと思う。私は好奇心が強い方で、興味を持ったことは何でもやってみようと、囲碁部に入って囲碁や麻雀を覚えたり、趣味とか楽しみが少しずつ広がった時期だった。高校の友達とは今でも一番仲がいい。一高祭でお化け屋敷をやったり、一緒に花火大会に行ったり、青春ぽいことをいろいろ経験した。旧本館へは弦楽部の友人の練習を訪ねて行ったり。明治維新や大正ロマンの香りあるハイカラな校舎で、旧制中学の流れをくむ学校の伝統が感じられた。 漱石好き、『吾輩は猫である』にはまる ―読書歴は。最初にはまったのがハリー・ポッターで、小中学生のときは海外のファンタジーやミステリー、冒険小説などハラハラドキドキするものばかり。純文学は高校に入ってから読んでおいた方がいいかなと義務感にかられ、明治の文豪など有名どころを順番に読んだ。一番好きだったのが夏目漱石。特に『吾輩は猫である』を読んだとき、これはすごいと思い、私も書く側に回りたいと思った。漱石の小説はテーマや作家自身の悩みに重たいものを感じるが、それを重たいまま書かず、ユーモアに転化して表現しており、読者もそれを読むことで悩みが軽くなる。 ―ミステリーを書き始めたのはなぜ?物事を分析したりロジカルに考えるのがもともと好きで、だから囲碁や麻雀も好きなんだと思う。でもミステリーに適性があると気付いたのは今回が初めて。それまではファンタジーを書こうとして全然向いていなかった。ミステリーが書けるのは一つの強みなので、今後も大事にしていきたい。 欠点がありつつ魅力的な人間を描きたい ―『元彼の遺言状』はキャラクターが特徴的。主人公の剣持麗子は波風立てつつわが道を突き進む、漱石で言うと『坊っちゃん』の破天荒さがある。坊っちゃんは男性には一つのあこがれのようだが、女性目線だと「この人何?」って引いてしまうところがある。でもその欠点が結果として愛らしい。だから私もキャラクターにはなるべく欠点を持たせようと、本当に変な人とか問題を抱えた人ばかりを出した。だめなところも含めて魅力的な、多面的な人間を書きたい。 ―人を決め付けるような麗子の口調も坊っちゃん的。今作の主人公は激しい性格の人なので、彼女なりのものの見方や考え方で書くよう心掛けた。私自身は、この子なら世界をどう見るかなという視点で、欠点も含めて人のあり方って面白いなと思いながら書いていた。 ―彼女のモデルは新川さんではという声も多い。女性弁護士は世の中に大勢いるし、本当にいろんな人がいるのに、私自身が主人公に結び付けられることに驚いた。男性弁護士が弁護士ものを書いてもこうは言われない。女性ならではの難しさを感じた。女性が働く中でぶつかる問題とか生きづらさに対し、背中を押せる作品を書きたいと思っているが、その一つのモチベーションにもなった。 元気が出るミステリーに ―主人公の成長も描かれている。即物的な世界に住んでいる女性が、価値観の逆転した世界に足を踏み入れていき、それまでの自分とは違う世界が存在することを知るのが基本のストーリーライン。日本もバブル以降の消費を楽しむスタイルから、もうそれでは世の中は回せないことに若者は気付いてきた。そういう現代的感覚も潜ませている。作者が解説するとすごい寒いんですが。 ―今作は特に、同世代の女性に楽しんでもらいたいと。現在コロナ禍で、社会全体がもやもやとして暗く、気持ちが落ちてしまう状況がある。そういう停滞した空気感を吹き飛ばす、元気が出るミステリーにしたかった。読者の方々にも、生活や仕事で忙しくしている合間の、ほっと一息つける時間にしていただけたら。 ―次作の予定は?今作の続編を書いていて、なんとか形になりそう。やはり法律知識を生かしたミステリーで、剣持麗子も出てくる予定。もう少し時間をかけて、最高の形でお届けしたい。

【震災10年】2 浪江出身と言えなかった 原田葉子さん

【柴田大輔】「つくばに来て、やっと先が見えた気がしました」 夫、功二さん(44)が営む眼鏡店の2階で、原田葉子さん(44)が穏やかに話す。 福島県浪江町から避難中に経験した妊娠・出産、周囲に伝えられなかった自分のこと、未だ整理のつかない故郷への複雑な想い―。 震災は自身を取り巻く環境を大きく変えた。現在、つくば市学園の森の新興住宅地で新しい生活をスタートさせ、夫と長男の3人で暮らす。 「被災者」に後ろめたさ感じていた 「浪江出身」と伝えると返ってくる「大変だったね」「原発のとこだったんでしょ?」という言葉に、負担を感じていたという。葉子さんは、故郷の浪江町から避難し、5回、住む場所を変えてきた。その間、常に自分を「避難している人」だと感じていた。 「周囲の方に心配していただいて本当にありがたかったです。一方で、『被災者』だということに後ろめたさを感じていました」 浪江で約100年続く「原田時計店」に、2人姉妹の長女として生まれ育った。3代目の父が社長を務める同店は、時計やメガネ、貴金属などを取りそろえる老舗として地域に愛されてきた。 「浪江はたくさんの友人、親戚、地域の人とのつながりの中で生活できる『ほっとする街』でした。高校生のころは友人とカラオケに行ったり、浜辺でおしゃべりや花火をしたのが思い出です」 県内の高校を卒業し、東京の眼鏡専門学校に進学した。その後は在学中にアルバイトをしていた都内の眼科に就職する。功二さんとは学生時代に出会い、結婚後に夫婦で浪江に戻り家業を手伝った。 震災の年は、実家の近所に暮らす葉子さん夫妻が両親、祖母と同居できるように、実家の建て替えと、古くなった店舗の改築を予定していた。将来を見据え、新たなスタートを家族で切ろうとしていた矢先に震災は起きた。 故郷への思いと現状の間で葛藤 葉子さんの家は、事故を起こした福島第1原発から10キロ圏内にある。 「正直なところ、原発を危険とも安全とも思っていませんでした。普通の会社というか、工場のように『電気を作っているところ』というような。浪江から働きに行く人も多く、身近な存在でした」 地震翌日、原発事故による避難指示が出た。隣町の親戚宅へ避難すると、テレビに映る1号機が爆発した。隣の父親が「あぁ、だめだ。終わった」と言った。その横顔から感じた絶望に怖さが込み上げた。 その後、喜多方市に暮らす別の親戚を頼り、1カ月後には仕事を探すため夫婦で東京に転居した。 「私たち、財布も持たずに浪江を出てきたんです。別の場所にちょっと待機するくらいの気持ちでした。でも、その後の原発を見ていて『もしかしたら、戻れないんじゃないか』と思うようになりました」 思わぬ避難生活の長期化に不安が高まった。東京の暮らしは1年半。その間に妊娠し、千葉県の夫の実家近くに転居し男の子を出産した。 「息子が生まれるまで、浪江に戻りたいと思っていました。でも、県内に残る友人に話を聞くと、福島での生活に手放しで安心しているわけではない。情報はどれを信用していいかわからず、妊娠中はネガティブな話題を遠ざけました。精神的に余計な不安を除きたかったからです」 故郷への想いと現状の間で葛藤していた。家業の再開は常に考えていた。当時、千葉県内の眼鏡店に勤務していた夫と、何度も福島に住む両親を訪ね今後を話し合った。 「当時、浪江町民で新しいコミュニティをつくるという考えがあり、そこでの再開を考えましたが、難しくなり、県外での出店も選択肢になりました」 知人からつくばを紹介されたのはそんなときだった。諸々の条件が合致し「つくばでやっていこう」と決心した。功二さんが眼鏡店を出店し、父は福島県二本松で「原田時計店」を再開した。新しい生活の始まりに「やっと落ち着き、先が見えた」と安堵した。 それだけ年月が経った つくばに転居する以前、千葉では言えなかったことがある。「浪江出身」ということだ。複雑な当時の心境をこう振り返る。 「『浪江から来た』と言うと、心配してくれる方がほとんどでありがたかったです。一方で、常に『大変』『原発』というイメージで見られてしまう。周囲で、仲のいい人同士が『原発』で意見が分かれる場面も何度も見ました。震災と全く関係ない、『被災者』としてではない人間関係を築きたくなってしまったんだと思います」 福島で被災したある人が心ない言葉をかけられたこと、だれかに自身の車を傷つけられた経験も、葉子さんが過去にふたをすることにつながった。 「だんだん自分のことを話すのが怖くなりました。『もう話すのはやめよう』と思ったんです」 息子が幼稚園に入ると親しい「ママ友」ができた。しかし、友人への隠しごとが辛かった。ある日、福島で活動する葉子さんの父が新聞に取り上げられた。その記事を読んだ友人は、葉子さんの背景を知り「そんなこと気にしないで、普通に付き合っていこうよ」と言ってくれた。 「ずっと言えなかったことが引っかかっていました。彼女の言葉で、すぅっと気持ちが軽くなりました。相手に気を使わせたくないとか、色々考えすぎていたんです。今は話しても、みんな普通に接してくれるのがうれしいです。それだけ年月が経ったということかもしれません」 子どもにどう説明すればいいか 浪江には毎年お墓参りに帰っている。 「浪江は時間が止まっているようで、何年経っても、最近までそこにいた気持ちになります。うまく言えませんが、自分にとって大切な場所です」 だが、8歳になる長男を連れて行ったことはまだない。その理由を、言葉を選びながらこう話す。 「震災のことをどう説明するべきか、まだわからないんです。どうしても原発のことは話さなければいけない。どう伝えるべきか」 ひと呼吸置き、言葉をつなぐ。 「原発に勤めていた知り合いも多かったですし、お店としてもお世話になっていました。全部が『悪』ではないと思うんです。そういうことではない。子どもにどう説明すればいいか、息子が理解できる年齢になる時までに、私の中できちんと整理したい。連れて行くのは、私が自分の言葉で説明できるようになってからと思っています」 震災後の10年は、家族や友人とも離れることになった辛い時間だった。だが、新しい土地でスタートさせた生活に「いろいろな方の支えのおかげです。本当に感謝しています」と話す。 インタビューの最後に、息子さんの将来について質問すると、明るくこう答えた。 「息子は『メガネ屋さんになりたい』って言ってるんです。でも私たちは息子が思うようにやりたいことをやって、元気に育ってくれればいいと思ってます。万が一、継いでくれたらラッキーですけどね」

【土浦市長会見】ワクチン接種、4月12日から 会場にイオン土浦など

【伊藤悦子】土浦市、安藤真理子市長の定例会見が1日、同市役所で開かれた。65歳以上の高齢者や基礎疾患がある市民の新型コロナウイルスワクチン接種について、4月12日以降、開始すると発表した。 接種方法は、個別接種と集団接種の両方とし、個別接種は市内の協力医療機関で受けられるようにする。集団接種はイオンモール土浦と、市保健センターの2カ所で実施する。高齢者以外もその後、順次、接種できるようにする。 高齢者などへのワクチンの優先接種について政府は、4月12日から限定的に開始し、26日の週にすべての自治体に行き渡るようにするとしている。ただしどれだけの量が供給されるかは不明。 接種の予約は、国からのワクチンが確保された後に、接種券を郵送し案内する。事業費は7億7千万円。接種に先立って、ワクチンについての相談を受け付けるコールセンターを22日開設する。 一方、医療従事者約6000人分のワクチン接種は3月上旬を予定している。事業費は約6500万円。 県外在住学生に土浦ブランドを送付 新型コロナ関連の緊急経済対策では、第2弾となる買い物難民支援事業を実施する。食料品など移動販売を新たに始める事業者に運営費を補助するほか、現行の移動スーパーを補完するため、車両購入費の補助を追加する。事業費は約400万円を計上する。 コロナ禍でアルバイトなどの収入が減っている、県外で学ぶ市出身の学生の生活支援のため、土浦ブランド認定品を送付する。さらに卒業後のUターンのきっかけとなるよう既存の市PRパンフレットも送付する。事業費は約320万円を計上する。 新型コロナについての情報や医療・福祉など生活に必要な情報が伝わりにくい外国人市民に対して、市役所に通訳や翻訳者を配置したり、多言語通訳アプリを活用できるようにする。事業費は約530万円。 そのほか、公共施設や救急車への感染拡大対策や、新しい生活様式を踏まえ公共施設のトイレ洋式化などを実施する。 土浦さくら花火を打ち上げ 昨年は新型コロナ感染拡大で中止になった土浦桜まつりは、「今年は静かに桜の魅力を」と称し20日から4月11日まで、亀城公園、桜川堤、新川などでライトアップなどを実施する。 今年は、医療従事者や自粛生活を強いられている市民に元気を届けようと、「土浦さくら花火」と称し、4月3日午後7時から、市内の桜の名所3カ所で、1カ所当たり75発の花火を同時に打ち上げる。打ち上げ場所は3密を避けるため非公表。雨天の場合は4日に順延する。 一方、新型コロナ感染拡大防止のため、亀城公園でのステージイベントや食のイベント、桜の名所をめぐるレトロバスの運行などは中止する。 3月3日入籍カップルは記念撮影を 安藤市長は3月3日の桃の節句についても触れ「今年は令和3年3月3日と3が並ぶため婚姻届けを出す人が多いと思う。祝福する思いで、市役所入り口わきのエスカレーターにひな飾りを設置し、記念撮影のスペースにしている。ここで写真をとって人生の特別な思い出にしてほしい」と呼び掛けた。

《吾妻カガミ》98 新年会で話題にしたかったこと

【コラム・坂本栄】コロナ禍で新年会が吹き飛び、このコラムもネタ不足です。というのは、1年前の「土浦とつくばの新年パーティー風景」(昨年1月20日掲載)同様、今回も両市の賀詞交歓会の様子を取り上げようと思っていたのですが、どちらも中止になりました。 そこで今回は、ビール片手の立ち話で話題にしたかったことアレコレです。 安倍~菅政権は対コロナ作戦で失敗 年末から年始にかけてコロナ禍が深刻になり、菅首相は緊急事態宣言の再発出に追い込まれました。安倍~菅政権の失政のひとつは、コロナの小康に油断し、落ち込んだ経済に活を入れようと、コロナの拡散を助長するGO TOトラベル・イート策を導入したことです。第1次非常事態を解除したあと、特別措置法の追加改定(私権制限や収入減補償などの仕組みづくり)を怠ったことも、いただけません。 私は、「善政? つくば市のコロナ対応」(昨年4月6日掲載)の中で、(1)コロナ禍という「戦争事態」には非常事態法の体系で対処せよ(2)それには「人の移動を抑え」「人を群れさせない」ことが大事(3)その結果生ずる経営や家計のマイナスは財政で回してやるべき(4)その資金は「戦時国債」(100~200兆円)で確保したらよい―と述べました。 GO TO策は(2)と真逆であり、今ごろ特措法をいじっているようでは(1)の有事に対する認識に欠けています。コロナ阻止と経済刺激の二兎(2匹のうさぎ)を追ってはいけません。コロナ抑制こそ経済対策ですから、しばらくはコロナ阻止>経済刺激でいくべきです。新年会に顔を出す衆参議員さんとは、両政権の政策センスについて議論しようと思っていたのですが、残念でした。 土浦のサプライズ花火には強い違和感 土浦市は「人を群れさせない」ために、昨秋の全国花火競技大会を取り止めました。常識的な判断だとは思いますが、その埋め合わせとして、打ち上げの日時と場所を事前に予告しない「サプライズ花火」を実施しました。市長の安藤さんは「市民に楽しみを…」と思ったのでしょうが、この代替策には違和感を覚えています。 私にとって、土浦の花火は「大相撲や歌舞伎と同じように桟敷席で重箱のご馳走をつつき飲みながら鑑賞する行事」だからです。サプライズ花火は由緒正しい花火の姿ではありません。それに、市内の商工振興には何の役にも立ちません。仕事がキャンセルされた煙火会社や花火師を支援したいということであれば、収入減を直接補償する方がスマートです。 市長さん、市議さん、県議さんと、サプライズ花火の是非について話せなかったので、ここで持論を述べました。 つくばのコロナ病床施設は再考したら つくば市の新年会では、昨春、日本財団が市内の研究所跡に設けたいと言ってきた「軽症コロナ患者の病床施設」を話題にしようと思っていました。市長の五十嵐さんが受け入れを事実上拒否したあの案件です。東京が医療崩壊状態に陥っている今、1万7000坪の敷地に複数の大型テントを設置して、9000の病床を用意するというこの壮大な計画、首都(国家)機能維持のために必要性は強まっているのではないでしょうか。 日本財団の打診と市長の対応については、「『大型コロナ病床をつくばに』の是非」(昨年4月20日掲載)をご覧ください。私はこの中で、「つくば市は国との関係で特殊な位置にある自治体」と指摘、コロナ病床を迷惑施設だと断るのではなく、広い視野に立って、協力したらどうかと述べました。国や都に大きな「貸し」をつくれますし、施設の建設と維持に伴う経済効果も大きいと思ったからです。 市長さん、市議さん、県議さん、改めてOKを出したらどうか(もう遅い?)、と提案するつもりでした。(経済ジャーナリスト)

《吾妻カガミ》98 新年会で話題にしたかったこと

【コラム・坂本栄】コロナ禍で新年会が吹き飛び、このコラムもネタ不足です。というのは、1年前の「土浦とつくばの新年パーティー風景」(昨年1月20日掲載)同様、今回も両市の賀詞交歓会の様子を取り上げようと思っていたのですが、どちらも中止になりました。 そこで今回は、ビール片手の立ち話で話題にしたかったことアレコレです。 安倍~菅政権は対コロナ作戦で失敗 年末から年始にかけてコロナ禍が深刻になり、菅首相は緊急事態宣言の再発出に追い込まれました。安倍~菅政権の失政のひとつは、コロナの小康に油断し、落ち込んだ経済に活を入れようと、コロナの拡散を助長するGO TOトラベル・イート策を導入したことです。第1次非常事態を解除したあと、特別措置法の追加改定(私権制限や収入減補償などの仕組みづくり)を怠ったことも、いただけません。 私は、「善政? つくば市のコロナ対応」(昨年4月6日掲載)の中で、(1)コロナ禍という「戦争事態」には非常事態法の体系で対処せよ(2)それには「人の移動を抑え」「人を群れさせない」ことが大事(3)その結果生ずる経営や家計のマイナスは財政で回してやるべき(4)その資金は「戦時国債」(100~200兆円)で確保したらよい―と述べました。 GO TO策は(2)と真逆であり、今ごろ特措法をいじっているようでは(1)の有事に対する認識に欠けています。コロナ阻止と経済刺激の二兎(2匹のうさぎ)を追ってはいけません。コロナ抑制こそ経済対策ですから、しばらくはコロナ阻止>経済刺激でいくべきです。新年会に顔を出す衆参議員さんとは、両政権の政策センスについて議論しようと思っていたのですが、残念でした。 土浦のサプライズ花火には強い違和感 土浦市は「人を群れさせない」ために、昨秋の全国花火競技大会を取り止めました。常識的な判断だとは思いますが、その埋め合わせとして、打ち上げの日時と場所を事前に予告しない「サプライズ花火」を実施しました。市長の安藤さんは「市民に楽しみを…」と思ったのでしょうが、この代替策には違和感を覚えています。 私にとって、土浦の花火は「大相撲や歌舞伎と同じように桟敷席で重箱のご馳走をつつき飲みながら鑑賞する行事」だからです。サプライズ花火は由緒正しい花火の姿ではありません。それに、市内の商工振興には何の役にも立ちません。仕事がキャンセルされた煙火会社や花火師を支援したいということであれば、収入減を直接補償する方がスマートです。 市長さん、市議さん、県議さんと、サプライズ花火の是非について話せなかったので、ここで持論を述べました。 つくばのコロナ病床施設は再考したら つくば市の新年会では、昨春、日本財団が市内の研究所跡に設けたいと言ってきた「軽症コロナ患者の病床施設」を話題にしようと思っていました。市長の五十嵐さんが受け入れを事実上拒否したあの案件です。東京が医療崩壊状態に陥っている今、1万7000坪の敷地に複数の大型テントを設置して、9000の病床を用意するというこの壮大な計画、首都(国家)機能維持のために必要性は強まっているのではないでしょうか。 日本財団の打診と市長の対応については、「『大型コロナ病床をつくばに』の是非」(昨年4月20日掲載)をご覧ください。私はこの中で、「つくば市は国との関係で特殊な位置にある自治体」と指摘、コロナ病床を迷惑施設だと断るのではなく、広い視野に立って、協力したらどうかと述べました。国や都に大きな「貸し」をつくれますし、施設の建設と維持に伴う経済効果も大きいと思ったからです。 市長さん、市議さん、県議さん、改めてOKを出したらどうか(もう遅い?)、と提案するつもりでした。(経済ジャーナリスト)

《霞月楼コレクション》10 山本五十六 真珠湾攻撃直前に届いた手紙

【池田充雄】霞月楼2代目の堀越正雄・満寿子夫妻は、山本五十六の土浦での親代わりのような存在で、日頃から親身に世話し、転出後も交流が続いたという。 ある日2人の下に山本から手紙が届く。正雄が贈った成田山のお札への礼状だ。日付は昭和16年(1941年)12月5日。太平洋戦争開戦となる真珠湾攻撃の3日前で、北方航路では真珠湾に向けて機動部隊が進軍、山本が座乗する旗艦「長門」以下主力部隊は、退却支援のため山口県岩国市の柱島泊地に待機していた。 手紙にある「最後の御奉公に精進致し居り候」の文言が暗示的だ。もはや生きては帰らぬ覚悟を示したか。海外経験が豊富で彼我の国力の差を知る山本は、対米戦争にはもとより反対の立場だったとされる。1940(昭和15)年9月の近衛文麿首相との会談では「是非やれと言われれば半年や1年は随分暴れて御覧に入れるが、2年3年となれば全く確信は持てぬ」と答えていた。 航空軍備の重要性を認識 山本は1884(明治17)年、新潟県長岡市坂之上町に旧長岡藩士・高野貞吉の六男として誕生、当時の父親の年齢から五十六と命名された。日露戦争中の1904(明治37)年、海軍兵学校を卒業。翌年、装甲巡洋艦「日進」に配属され、5月27日の日本海海戦に参加した。砲弾の炸裂により左手の指2本を失い、左大腿部に重傷を負った。 その後は乗艦勤務を経て、海軍砲術学校教官や海軍省軍務局員などを務める。1916(大正5)年、旧長岡藩城代家老職の山本家を相続。1619(大正7)年、旧会津藩士の娘・三好礼子と結婚した。 1919(大正8)年4月から約2年間米国に駐在し、ハーバード大学で学ぶ。1923(大正12)年6月から9カ月間、ワシントン軍縮条約下の欧米各国の情勢を視察し、日本海軍の将来には航空戦力の充実が不可欠との信念を抱く。 断髪令で隊の風紀を刷新 1924(大正13)年9月1日、自らの強い希望により霞ケ浦海軍航空隊に赴任。12月1日に教頭兼副長(後に副長兼教頭)に就くと、初日の朝礼で号令台から総員を見渡し「下士官兵にして頭の毛を伸ばしている者は皆切れ。一週間の余裕を与える。終わり」と宣告した。 霞ケ浦航空隊は1922(大正11)年11月の創隊で、隊員の間では英国教官団の影響から長髪の者が多く、腕一本で空を駆ける職人気質と、命知らずのやくざ気質が表裏を成し、遅刻や脱営も日常茶飯事だったという。そこでまずは軍紀風紀の刷新に着手し、勘や名人芸に頼らぬ合理的な飛行技術の確立を目指した。 土浦在勤中の山本の住居は、「山本五十六伝」(朝日新聞社)によると長岡中学の後輩・大崎教信少佐が建てた家だそうだ。神龍寺(土浦市文京町)の参道右手、今は墓地がある辺りにあった。なお当時の参道は桜並木が覆っていたが、1938(昭和13)年の大洪水で枯死している。 神龍寺の秋元梅峯住職とは意気投合し、1925(大正14)年9月に土浦で最初の花火大会を2人の私費で開催した。目的は海軍航空殉難者の慰霊、2年前の関東大震災の犠牲者の追悼、不況にあえぐ土浦の商業振興、農業収穫への感謝など。これが現在の土浦全国花火競技大会の基礎となった。 ブーゲンビルの空に散る 山本の霞ケ浦在任は1年3カ月で終わり、1926年(大正15年)1月から2年間、駐米大使館付武官を拝命。帰国後は空母「赤城」艦長などを経て、1929年(昭和4年)11月少将に進み、以後は海軍航空本部長や海軍次官などの要職を歴任。1939(昭和14)年に連合艦隊司令長官、1940(昭和15)年に大将となる。 1941年(昭和16年)10月に成立した東條英機内閣は、米英蘭3国に対する開戦方針を推し進め、11月26日に対米交渉が決裂すると、12月8日の真珠湾攻撃で戦端を開いた。山本率いる連合艦隊は、初期の南方作戦では良好な戦果を挙げたものの、翌年6月のミッドウェー海戦で大敗を喫し、以後戦況は悪化の一途をたどる。 1943(昭和18)年4月18日、東部ニューギニア・ソロモン群島での戦いの最中、山本は前線視察のためラバウル基地を飛び立つが、ブーゲンビル島上空で米軍機の待ち伏せに遭い撃墜された。享年59歳。 下半身像を56年ぶりに発見 山本には元帥の称号が遺贈され、同年6月5日に日比谷公園で国葬が執り行われた。また12月8日には土浦海軍航空隊(現陸上自衛隊武器学校、阿見町青宿)第1練兵場の号令台横に、コンクリート製の立像が建てられた。像の高さは3.6メートル、台座を含めると6.3メートルに達した。 1945(昭和20)年8月に終戦を迎えると、進駐軍の狼藉を恐れて、山本の像は胴から半分に切断され、霞ケ浦に沈められた。上半身は1948(昭和23)年に湖底から引き揚げて神龍寺に安置され、1952(昭和27)年に菊池朝三元少将らが海軍殉職者のための慰霊祭を開いた。菊池は山本の部下で終戦時の海軍総隊参謀副長。梅峯の長女と結婚し、1959(昭和34)年から12年間土浦市議を務めている。 上半身像は1958(昭和33)年に生家跡の山本記念公園に移されたが、風雨による傷みから1970(昭和45)年に青銅の複製像に置き換えられた。原像はいま海上自衛隊第1術科学校(旧海軍兵学校、広島県江田島市)の教育参考館にある。 下半身像も湖底にあるものと考えられてきたが、2002(平成14)年の調査で台座近くの地中に埋まっていると判明。56年ぶりに掘り出され、雄翔館前に新しく建てられた山本像の台座下部に収められた。号令台横の古い台座には今、山本の揮毫による「常在戦場」の碑が置かれている。 ●取材協力・参考資料陸上自衛隊武器学校▽陸上自衛隊霞ケ浦駐屯地▽土浦市立博物館▽神龍寺▽阿川弘之「山本五十六」(1994年新装版、新潮社)▽三和多美「海軍の家族」(2011年、文芸春秋)▽阿見町歴史調査委員「海軍航空隊ものがたり」(2014年、阿見町予科練平和祈念館)▽「霞月楼百年」(1988年、霞月楼)▽「阿見と予科練」(2002年、阿見町)▽阿見町民話調査班「爺さんの立ち話」(2003年、阿見町)▽「花火と土浦」(2018年、土浦市立博物館)▽常陽新聞2002年6月11日付▽長岡市山本五十六記念館ウェブサイト▽土浦商工会議所ウェブサイト▽ウィキペディア シリーズ協賛 土浦ロータリークラブ 土浦中央ロータリークラブ

Most Popular