月曜日, 10月 12, 2026
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作家の夢が膨らんだ土浦時代 新川帆立さんインタビュー

【池田充雄】宝島社主催の昨年の第19回『このミステリーがすごい!』大賞を受賞した新川帆立さんの『元彼の遺言状』は1月に刊行されるや、1カ月半で18万部を突破し、今も部数を伸ばし続けている。東京大学法学部卒業、弁護士、そしてプロ雀士としての活動経験もあるという異色の作家だが、高校時代の3年間を土浦で過ごした経歴から、地元にもファンを増やしている。土浦で作家の夢が膨らんだという新川さんに、当時の思い出や自作について語ってもらった。

にぎやかだった駅前の商店街

―幼少期を宮崎市で過ごし、父の転勤に伴う形で県立土浦一高へ入学。
住居は霞ケ浦の近くで、桜川の土手などもよく散歩した。春は桜が一斉に咲いてすごくきれい。湖上にはヨット部の人たちが帆を浮かべていて優雅な感じ。当時は駅前の商店街もにぎやかで、イトーヨーカドーのミスドで友達と一緒に勉強したり、モール505の「かつら」でもんじゃ焼きを食べたり。あと一高前の「特米弁当」が麻薬的なおいしさで、よくお昼に食べていた。

新川さんもロマンを感じた、土浦一高の旧土浦中学校本館

―2006年から09年にかけての高校生活になる。当時の思い出は。
すごく楽しくて本当にいい思い出しかない。小中学生のころは周りから宇宙人みたいに見られていたが、一高に来たら私より変な人がいっぱいいて、それで楽になれた部分もある。大人な人が多く、多様性を認める環境だったのかなと思う。私は好奇心が強い方で、興味を持ったことは何でもやってみようと、囲碁部に入って囲碁や麻雀を覚えたり、趣味とか楽しみが少しずつ広がった時期だった。
高校の友達とは今でも一番仲がいい。一高祭でお化け屋敷をやったり、一緒に花火大会に行ったり、青春ぽいことをいろいろ経験した。旧本館へは弦楽部の友人の練習を訪ねて行ったり。明治維新や大正ロマンの香りあるハイカラな校舎で、旧制中学の流れをくむ学校の伝統が感じられた。

漱石好き、『吾輩は猫である』にはまる

―読書歴は。
最初にはまったのがハリー・ポッターで、小中学生のときは海外のファンタジーやミステリー、冒険小説などハラハラドキドキするものばかり。純文学は高校に入ってから読んでおいた方がいいかなと義務感にかられ、明治の文豪など有名どころを順番に読んだ。
一番好きだったのが夏目漱石。特に『吾輩は猫である』を読んだとき、これはすごいと思い、私も書く側に回りたいと思った。漱石の小説はテーマや作家自身の悩みに重たいものを感じるが、それを重たいまま書かず、ユーモアに転化して表現しており、読者もそれを読むことで悩みが軽くなる。

―ミステリーを書き始めたのはなぜ?
物事を分析したりロジカルに考えるのがもともと好きで、だから囲碁や麻雀も好きなんだと思う。でもミステリーに適性があると気付いたのは今回が初めて。それまではファンタジーを書こうとして全然向いていなかった。ミステリーが書けるのは一つの強みなので、今後も大事にしていきたい。

欠点がありつつ魅力的な人間を描きたい

宝島社発行『元彼の遺言状』

―『元彼の遺言状』はキャラクターが特徴的。主人公の剣持麗子は波風立てつつわが道を突き進む、漱石で言うと『坊っちゃん』の破天荒さがある。
坊っちゃんは男性には一つのあこがれのようだが、女性目線だと「この人何?」って引いてしまうところがある。でもその欠点が結果として愛らしい。だから私もキャラクターにはなるべく欠点を持たせようと、本当に変な人とか問題を抱えた人ばかりを出した。だめなところも含めて魅力的な、多面的な人間を書きたい。

―人を決め付けるような麗子の口調も坊っちゃん的。
今作の主人公は激しい性格の人なので、彼女なりのものの見方や考え方で書くよう心掛けた。私自身は、この子なら世界をどう見るかなという視点で、欠点も含めて人のあり方って面白いなと思いながら書いていた。

―彼女のモデルは新川さんではという声も多い。
女性弁護士は世の中に大勢いるし、本当にいろんな人がいるのに、私自身が主人公に結び付けられることに驚いた。男性弁護士が弁護士ものを書いてもこうは言われない。女性ならではの難しさを感じた。女性が働く中でぶつかる問題とか生きづらさに対し、背中を押せる作品を書きたいと思っているが、その一つのモチベーションにもなった。

元気が出るミステリーに

―主人公の成長も描かれている。
即物的な世界に住んでいる女性が、価値観の逆転した世界に足を踏み入れていき、それまでの自分とは違う世界が存在することを知るのが基本のストーリーライン。日本もバブル以降の消費を楽しむスタイルから、もうそれでは世の中は回せないことに若者は気付いてきた。そういう現代的感覚も潜ませている。作者が解説するとすごい寒いんですが。

―今作は特に、同世代の女性に楽しんでもらいたいと。
現在コロナ禍で、社会全体がもやもやとして暗く、気持ちが落ちてしまう状況がある。そういう停滞した空気感を吹き飛ばす、元気が出るミステリーにしたかった。読者の方々にも、生活や仕事で忙しくしている合間の、ほっと一息つける時間にしていただけたら。

―次作の予定は?
今作の続編を書いていて、なんとか形になりそう。やはり法律知識を生かしたミステリーで、剣持麗子も出てくる予定。もう少し時間をかけて、最高の形でお届けしたい。

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