月曜日, 4月 6, 2026

「26億円損切り」と懸念 つくば市総合運動公園用地売却問題 1社が40億で取得提案

【鈴木宏子】住民投票で事業が白紙になったつくば市の旧総合運動公園用地(同市大穂)約46ヘクタールについて、市が一括売却する方針を固め、4月から事業提案を公募していた問題=4月26日付=で、同市は19日、公募の結果、1社から商業施設や物流倉庫などとして複合的に利用する提案があったと発表した。同日、市議会全員協議会を開き明らかにした。提案事業者の用地取得予定価格は「40億円~」だった。議会からは「66億円で買った。26億円損切りになる」など市がこうむる損失を懸念する意見が出た。 提案事業の内容は①東大通り沿いなどの2区画を商業用地(計約14ヘクタール)とし土地を賃貸して、大手ショッピングモール、スーパー、飲食店、ホームセンターなど大規模商業施設を誘致する②西側約13ヘクタールを物流用地とし土地を賃貸して、物流・倉庫企業を誘致する③南側約10ヘクタールを倉庫用地とし自社で利用する④商業用地の南側約2ヘクタールを老健(介護老人保健施設)・緑地用地とし、土地を賃貸して、緑地、公園設備を敷設し、健康促進の一環としてスポーツジムや運動場、健康センター等を推進する―など。 提案事業者名は公表しないという。事業者の土地取得の希望時期は来年2月ごろ。 公募は4月26日から7月5日まで実施した。市によると、2件の応募があったが、1件は辞退した。 売却に向けた手続きは2段階で実施する。今回はあくまで事業内容の提案を募集しただけ。今回の提案をベースに市が土地利用計画を策定し、さらに不動産鑑定評価を実施した上で市が売却価格を設定し、改めて売却先を公募する。 議会からは「(取得予定価格の)40億円は大きなマイナス(が出る)」などの意見が出た。 これに対し五十嵐立青市長は「(民間に売却すれば)年7000万円を超える固定資産税と都市計画税が市の収入になり、(現在、金融機関に支払っている)利子年3000万円がなくなる」などと説明し理解を求めた。 今後の日程は、9月上旬に市民説明会を実施し、9月までに土地利用計画案を策定し不動産鑑定を実施、10月ごろ都市計画変更手続きに着手し、11~12月に売却先の事業者を公募する。 ➡つくば市総合運動公園問題に関する過去記事はこちら

筑波山の観光客22万7千人増 1人当たりの消費額は減少

【山崎実】茨城県観光物産課の観光客動態調査結果によると、昨年の茨城県への観光入込客数の延べ人数は6183万6000人(前年比0.9%増)で、調査を開始した1970年以降、過去最多を記録した。また入込客数の実人数は4040万9000人(同2.2%増)、観光消費額は2555億円(同2.8%減)だった。 県内44市町村のうち、つくば市は大洗町に次いで観光入込客数が2番目に多く、特に筑波山(つくば市)が22万7000人増加したのを始め、新たに調査地点に追加した宝篋山(同)は7万1000人増えた。 入込客数の延べ人数は県内406の観光地点、行事、イベント等の入込客数の総数で、地域別では県央1989万8000人、県南1387万8000人が他地域に比べ多かった。県南は筑波山、宝篋山のほか、みほふれ愛プラザ農産品直売所(美浦村)も8万5000人増とそれぞれ人気を集めた。県内18カ所の公設海水浴場の入込客数は11万8000人増となった。 入込客数の上位市町村は①大洗町(453万1000人)②つくば市(421万7000人)③ひたちなか市(392万2000人)④笠間市(370万4000人)⑤水戸市(367万6000人)がベスト5。 外国人観光客(実人数)は34万2000人で、前年より4万5000人(15%)増えた。2016年から毎年15%程度増加し続けている。 一方、観光消費額は全国的に旅行消費額が下がっていることなどを反映し、2554億7400万円で、前年比2.8%減となった。全体の入込客数は増えたが、宿泊観光客の減少(対前年16万4000人減)や1人当たりの観光消費額が前年の6645円から6322円と323円(4.9%)減ったことなどが影響した。 利用交通手段は自家用車が圧倒的に多く全体の85.5%を占め、県外からの入込客数では千葉県(678万人)、東京都(641万3000人)、埼玉県(516万4000人)がベスト3。 満足度については「ひじょうに満足」と「やや満足」を合わせ79.3%に達した。 課題も見えてきた。県北臨海、山間地域への入込客数(延べ人数)は両地域合わせても803万人(前年は816万6000人)と伸び悩んでいる。また茨城県は依然として滞在型観光地としての地歩を築いていない。県、市町村は今後、新たな魅力ある観光振興対策を迫られる。

うれしくてしんどい大玉 「幸水梨」つくばで出荷最盛期

【相澤冬樹】気象庁アメダスの最高気温で35.3℃(つくば)を記録した猛暑日の17日、旧盆の出荷最盛期にようやく一区切りをつけたナシ農家が取材に応じてくれた。つくば市大砂の塚本忠男さん(71)、朝5時からの収穫作業を終え、自宅わきの選果場に戻ってきた。「今年の夏はおもしろかった。異常気象の年ほど栽培の醍醐味がある」と日焼けした顔をほころばせた。 今の時期、塚本さんが収穫しているナシは、早生の代表品種「幸水」。大砂地区の5カ所に約1.5ヘクタールを持つナシ園のうち、約1へクタールで栽培している主力品種だ。ハウス栽培を止めた塚本さんの出荷は7月から始まるが、ピークはお盆需要が高まる8月中旬。炎天下、収穫作業にひとり黙々励む。 「日中の収穫はしない。日差しの中だと皮が厚くなってしまうので、朝5時ごろから遅くても午前10時には切り上げるようにしている」とこだわりをみせる。収穫したナシを自宅に持ち帰ると妻の待つ選果場へ。ここへ客が次々にやってきて、思い思いのサイズを見つくろって購入していく。庭先には試食のテーブルがあり、客が自ら包丁を入れ、手をべとつかせながら味わっていく。 もちろん市場にも出荷している。「7月は長雨の影響で、市場では幸水が小玉のサイズばかりになった。そこへうちが大玉を持ち込んだものだから、高値で商いできた。そこがナシつくりのおもしろいところ」。収穫時期以外は土壌の世話と樹木のせん定に労力を費やす。その結果が収穫となって結実するのが果樹園芸の醍醐味というのだ。 しかし、脱サラして始めたのが約40年前、箱詰めするナシの重さがこたえる年齢になった。苗木から育てた樹木も老木となり、更新をしていかなければならない。そんななか、県の育成品種である「恵水」の育成にも取り組んでいる。4L以上限定という大玉規格なのが特徴だ。「新しい品種というのは接ぎ木によって育てるのだけど、実が穫れるまで大体5年かかる。それを3年でできるようにするのが腕の見せどころ、年の功だね」と胸を張るが、技術を伝える後継者が不在なのが悩ましいところだ。 幸水の出荷はほぼ8月いっぱい、それから豊水に切り替わり、恵水は中旬からお彼岸にかけて出てくるそうだ。 ◆塚本梨園(つくば市大砂)電話029-865-0855

【戦後74年の夏】7 ドローンで見る廃墟 鹿島海軍航空隊跡地の風化 ㊦

【相澤冬樹】病院関係者によって「霞ケ浦分院史」(1992年)が刊行されている戦後の記録に比べ、鹿島海軍航空隊時代の資料は皆無に等しい。海軍は終戦を前に記録類を徹底的に破棄し、機体などは戦後接収した米軍により処分されたという。証言できる人を探しても、村周辺にはまるで見つからなかった。 国立環境研究所の敷地の北側にこんもりとした森があり、誰いうとなく「アベック山」の名がついた。戦時中、航空隊の兵士が訪ねてきた娘との逢瀬(おうせ)に利用した森だというが、真偽のほどは分からない。しかし、地元の人間が好んで語るエピソードは、これくらいしかない。 https://www.youtube.com/watch?v=J6__BEVeE2k&feature=youtu.be 航空隊員が見た夏の空 結局、土木建築群だけが戦争遺跡となった。ツタ草のからまる旧司令部庁舎はコンクリート壁の厚さが30センチ、天井までの高さが4メートル以上あるという頑丈な造りで、雨漏りにも持ちこたえている。霞ケ浦分院時代に内部が改造されたが、一部の部屋はヒノキの板壁でシャンデリアやセントラルヒーティングも完備していたという。煙突直下の建物は「気缶場」と呼ばれた。気缶(汽缶)はボイラーのことで、ここには暖房用石炭ボイラーがほぼ原形をとどめ残存している。 ドローンからだとむき出しになったボイラー棟の屋根の鉄骨越しに内部をのぞける。風雨にさらされ、室内にまで夏草が入り込んでいる。村によれば鉄骨に腐食は見られないことから修復は可能ということだが、耐震性など安全強度までは計られていない。煙突越しに機体を高度100メートル以上で飛翔させると、霞ケ浦の土浦入り北方の青空に筑波山の群青の双峰がとらえられる。航空隊員が見た夏の空もこんな景色だったろうか。 跡地活用基本構想に進展なく 美浦村は17年3月、同跡地活用基本構想をまとめた。①病院跡地②村域③広域-の3つのエリア単位で、それぞれに所在する資源を活用して文化や観光、レクリエーションの振興につなげようとしたものだ。 鹿島航空隊については「遺構を訪ねることができるよう整える」として、現況保全、防水・耐震補強等を施したうえで、見学ツアーや歴史体感イベントを展開するとしている。さらには道の駅やサイクリングステーションの設置、マリンスポーツ拠点、霞ケ浦巡回航路の整備などを提案している。 アイデア素材を列挙してまとめた内容で、事業規模も事業主体も定めないままの構想。2年以上を経過したが具体化に向けての取り組みはない。病院跡地について昨年11月、一般向け、有識者向けに公開する2日間の内覧会を行っただけだ。 内覧会でのアンケートでは、施設の一般公開を望む声が過半数に達したが、公開に先立っての学術的調査や安全性への配慮を求める声は根強くあった。公開方法についても「戦争遺跡である以上、平和学習、平和教育の意味を持った活用が大前提であり、その共通理解のもとで整備などを進めていく必要がある」などの意見が出された。 美浦村企画財政課によれば、「取り壊してソーラー発電所を拡張するようなことはない」そうだが、これらの論点の整理については未着手。どの方向に向かっていくかの見通しも立っていないという。 (シリーズ「戦後74年の夏」終わり) ➡【戦後74年の夏】6はこちら

【戦後74年の夏】6 ドローンで見る廃墟 鹿島海軍航空隊跡地の風化 ㊤

【相澤冬樹】夏がくれば思いだす――のは、霞ケ浦に突き出た美浦村の東端、鹿島海軍航空隊跡地のこと。戦争遺跡があったり、心霊スポットの廃墟があったり、水辺レジャーの基地があったり、夏になると注目を集める場所だ。なかでも霞ケ浦分院跡地と呼ばれる遺構は、解体されるのか保全されるのか、「この先どうなる?」とよく聞かれる。許可を得て敷地内に入れてもらい、ドローン撮影を敢行した。 https://youtu.be/C4orHDQMIUs 病院跡地に立つ旧軍施設 美浦村大山、南に小野川の河口が切れ込んだ半島状の土地約23ヘクタールが、鹿島海軍航空隊跡地である。国交省管理の水防拠点になっている湖岸の約1.5ヘクタールを除けば、ほぼ7ヘクタールずつ3等分できる。北から国立環境研究所水環境保全再生研究ステーション、中央の東京医科歯科大学霞ケ浦分院跡地、南の堤防の内側にある民有地である。戦後すぐに払い下げられた民有地以外の土地は、1946年から霞ケ浦分院が占めたが、1974年に北側部分は環境研(当時、国立公害研究所)に移管となった。 霞ケ浦分院は1997年までに閉院、最終的に中央部約7.6ヘクタールの土地を村が取得した。中央を走る道路の南側部分3.3ヘクタールは村営のメガソーラー発電所となっており、北側部分4.3ヘクタールは周囲をフェンスで封鎖している。分院跡地と呼ぶが、残っている建造物は旧軍時代からのものばかりである。ランドマークになっている煙突とボイラー棟が、深い夏草のなかから立ち上がっている。 許可を得て取材チームが入った8月初め、旧軍時代の司令部、分院時代の本部として使われた鉄骨コンクリート造の庁舎は民間のセキュリティー会社に管理が委ねられていたが、役場職員がその施錠を解こうとしたところ、ドアノブがバールのようなもので破壊されていて、ついに開錠できなかった。ドローンを飛ばすと、夏草は陸屋根になった屋上にも根を張って繁茂している。 いわゆる廃墟マニア、あるいは心霊マニアの関心をひくスポットだけに不心得の侵入者が後を絶たないらしい。建設から80年、無人となって20年、すさまじい風化のなか保全は成り立つのか、今後が注目されているのである。 湖岸のスロープから飛び立つ 鹿島海軍航空隊は、阿見町にあった霞ケ浦海軍航空隊の水上班が移転して1938(昭和13)年に開隊した。水上機の操縦訓練を行う練習航空隊であり、のちに予科練出身の飛行練習生が93式水上中間練習機で猛訓練を行った。いわゆる「赤とんぼ」の水上機バージョンで、滑走のためのフロートが付いていた。第二次大戦末期には特攻作戦の搭乗員として多くを送り出した。 大山地区の突端は、湖に2方向が面していることから、横風に弱い水上機の離陸に適していた。東側と南側の滑走路は、水面に向かって傾斜のついた斜路になっていて、大山スロープ(ゲレンデ)の呼び名がある。 この湖岸施設は現在も国交省管理の水防拠点に位置づけられており、2009年、土木学会選奨の土木遺産に認定された。斜路はプレジャーボートやジェットスキーの船艇搬入に便利なことから近年レジャー客の利用が増え、夏場の週末ともなるとごった返すほどの人出になる。民有地は艇庫が立ち並び、水上飛行機の格納庫も置かれている。(つづく) ➡【戦後74年の夏】5はこちら

真夏日にハスの刈り取り 酸欠の宍塚大池でボランティア活動

【相澤冬樹】土浦市宍塚の宍塚大池で14日、ハスの刈り取り作業が始まった。旧盆の迎え日、猛暑厳しき折にゴム製の胴長を着用し、ため池に浸かってハスを抜き取る力仕事。陣頭指揮のNPO法人、宍塚の自然と歴史の会代表の及川ひろみさん(75)には、湖面を埋めるハスの葉を急いで除去しなければならない理由があった。「ちょうど大学生と高校生がボランティアで来てくれることになった」ため、この日から作業を開始した。 約100ヘクタールのかん養林に囲まれるように、約3.3ヘクタールの広さに水をたたえる宍塚大池。農業用水として利用される。NEWSつくばの9日付けコラム「宍塚の里山」で、及川さんが「大池はピンクの蓮の花が満開です」と書いたように、ハスの群生は水面を埋めるように育って、8月初めには花の見ごろを迎えていた。中旬には花期は終わりに近づいたが、花托(かたく)がふくらんで実をつけ始めており、なお生長を続けている。 見た目には華やかだが、ハスの浮き葉、立ち葉の周囲は水草のヒシが取り囲むように密集し、水面をすっかり覆っている。池の水は酸欠状態になっていると見られ、ここ数日、コイやフナ、オオクチバスなどが次々に水面に浮き上がって、へい死が確認された。「多様な生物相」が大池の魅力だけに放置しがたい水環境になっている。 9月からエアレーション実験を予定 同会の活動と連携し、大池周辺を研究フィールドにしている茨城大学農学部の黒田久雄教授(農業工学)の申し入れで、9月から水質浄化のために空気を送り込むエアレーション実験を行うことになった。水処理専業の大手企業が協力する。 このため、水面がまったく見えない状態は望ましくないとして、及川さんの判断でハスの刈り取りを決めた。堤防道路入口付近の500平方メートルほどの湖面からハスを抜き取って、実験に備えることにした。 ちょうど夏休み中の課外活動で、ボランティア先を探していた同市内の高校生から申し込みがあり、筑波大学院生で同会会員でもある東谷一煕さん(24)のボランティア活動日に当たっていたため、及川さんら4人で作業をすることになった。野生のハスは根や地下茎が地中深く潜り込んで、とても手で引っこ抜くことはできない。装置がないため、レンコン農家のように水圧をかけて掘り取ることもできない。腰まで水に浸かり、水面を覆うハスの葉を根本から、花や実もろとも刈り取る力勝負となった。 生物多様性を研究テーマに、普段から山岳や防災分野でフィールドワークをしているという東谷さんは「大池での作業は息抜きみたいなもの」だそうが、高校生はほとんど無口で作業をこなす。この日の日中の最高気温は31℃、直射日光こそなく猛暑日とはならなかったが、真夏日に初めて身につける胴長の蒸し暑さはこたえる。2時間ほどをかけて、100平方メートルほどの水面がやっと見えてきた。 同会では1990年から毎年、動員をかけ、舟で刈り取り作業を行っていたが、ハスの勢いに押されるように中断、今回6年ぶりの再開となった。作業は断続的に夏休みの間じゅう続く。

【戦後74年の夏】5 引揚者住宅から始まった土浦の戦後 ジオラマで蘇る少年時代

【相澤冬樹】この春、土浦市立博物館で開かれた特別展「町の記憶―空都土浦とその時代」、海軍航空隊や戦前の町の記憶をたどる展示に、入場者が思い思いに見入る会場で、ほとんど全員が足を止めるコーナーがあった。同市原の前にあった引揚者住宅の模型、街区全体を住宅地図のように復元したジオラマで、見下ろす来館者たちが「これあそこじゃない?」などと記憶を呼び覚ますシーンが見られた。 戦後生まれが大多数となった来館者に、戦争や銃後の暮らしの「記憶」はない。だから戦前を引き継ぐ風景や地図は思い出を語る糸口になりやすい。しかし模型製作者の同市中(なか)、大貫幾久男さん(71)を訪ねると、旧海軍航空廠(しょう)の兵舎跡とされる引揚者住宅に、戦前の生活は刻まれていなかったというのである。 同市右籾の第一海軍航空廠(現在の陸上自衛隊霞ケ浦駐屯地)は終戦に前後して取り壊され、その現場作業に就くため父親が栃木県藤岡から土浦にやってきたのは1947年のこと。翌48年に生まれた大貫さんは5人きょうだいの末弟だった。当時の土浦には、戦争終結に伴い引き揚げてきた無縁故の(国内に身寄りのない)在外邦人を収容する「引揚寮」が数多く設けられていた。空き家となった海軍住宅や航空廠の工員宿舎が多数あり、転用されたためだ。その戸数約800という。 6畳一間に7人が暮らす 原の前の引揚者住宅もその一つ。大貫さんの入居した住宅は47年に払い下げられているが、「真っ先だったから、一番南の見晴らしのいい住戸に入れたと聞いた」という。43年ごろ工員宿舎用に接収され建設されたが、戦局の悪化で入居者を迎えないまま終戦に至った。復員軍人や引揚者向けに入居者募集が行われたのは戦後になってからだった。 住宅は6畳の和室一間と板敷3畳の台所に土間のついた間取りで、4軒を一棟に連ねた長屋状の建物だった。これが南北に最大16棟並んで、全93戸があった。杉板を張り合わせた外壁、杉皮で葺かれた屋根、4軒共用の井戸があった。長屋の両端の家は地続きの畑が使えたが、内側の2軒は離れた区画に畑を持ったそうだ。 原の前はかつての字名で中村、今の住居表示で中の一部にあるが、93戸の住宅は周囲から孤立して立地していた。父親の職場だった霞ケ浦駐屯地は常磐線の通る谷津地形をはさんだ対岸にあり、東京通勤者は谷津のあぜ道を歩き線路伝いに荒川沖駅に出たのだった。 地区内に商店はないから、畑を耕し、鶏を飼う「自給自足」の生活となった。住宅に風呂はなく、1キロ以上離れた右籾や大房の銭湯に通う日々だったという。両地区とも引揚者住宅から街区形成が進んだ町内だ。 大貫さんは常磐線に向かって立つ広告看板の下でよく遊んだ。白髪染めの「君が代」と清酒の「白雪」だけは覚えている。6畳一間の住宅に一家7人が暮らしたが、高校進学を機に単身東京の親戚宅に身を寄せたそうだ。のちに原の前に戻って、以前は畑だった場所に自宅を建てたが、少年時代の原風景に年々郷愁を募らせた。 原ノ前公民館に展示 約60年前の記憶をたどる形で模型を作り始めたのは2015年からだった。古い家に長く暮らした姉や周囲の人たちに聞き込みをするなどして、まず4棟長屋を作り、それから概ね200分の1の縮尺で全住戸を配したジオラマを作った。自身は建設関係の仕事に就いていたが、技術職ではなく、柱や梁の建て方など見様見真似での製作となった。 それぞれ1年ほどを掛けて16年には2点が仕上がった。「ほとんど我流。子供のころ好きだった住宅模型の工作を思い出しながら作業した」そうだが、趣味の日本画で培った筆遣いが役立った。田畑や台地の植栽はもとより、井戸や鶏小屋のディテールにまでこだわった。「君が代」と「酒の白雪」も書き入れた。その鮮やかな再現性が特別展で評価されたのだった。 原の前の引揚者住宅は水道が引かれると各戸こぞって家風呂を設け、敷地いっぱいに増改築を繰り返し、やがて周辺にも戸建て住宅が張り付いた。4棟長屋から分離された当時のままの家屋が今も1、2棟残っているが、住む人はいない。「戦争の記憶が薄れるように、僕らが生きた戦後の時代も忘れかけられている。そういう作業を一緒にしたいという人がいれば、また模型を作ってもいいと思っている」と大貫さん。2つの住宅模型は今、原ノ前公民館に展示されている。 ➡【戦後74年の夏】4はこちら

若手テニス選手の登竜門 19日からつくばでセキショウ国際女子

【崎山勝功】本県唯一の国際女子テニス大会、第33回セキショウ国際女子オープンテニストーナメント(関彰商事主催、つくば市共催)が19日から25日まで、つくば市北原の筑波北部公園テニスコートで開かれる。 県出身の選手も参戦 大会には、主催者推薦枠(ワイルドカード)で、県出身のアマチュア選手が出場を予定している。シングルス予選に、茨城国体予選準優勝でつくば市出身の佐藤久真莉さん(17)=富士薬品=、同国体予選優勝で牛久市出身の川村茉那さん(18)=フジキン=、筑波大学の阿部宏美さん(19)、筑波大OGの牛島里咲さん(23)=マサスポーツシステム=らがエントリー、20日からの本戦出場に挑む。 同大会は1987年に第1回大会を開催。2005年からつくば市内に会場を移して実施している。これまでにクルム伊達公子選手(1988年ダブルス優勝)や、リオ五輪代表の日比野菜緒選手(2013年シングルス優勝)も出場するなど、若手女子テニス選手の登竜門となっている。 大会期間中の20日~22日には関連イベントとして、小学生向けの「第7回セキショウチャレンジカップ2019」を、つくば市花室のNJテニスクラブで開催する。 猛暑対策 プロ教室が中止に 例年、大会期間中の最終日に開いてきたプロテニス選手によるテニスレッスン教室は、今年の開催中止を決定した。猛暑による健康被害へのリスクを考慮したため。関彰商事の広報担当者によると、昨年は気温が37~38度の猛暑日が続いたという。今年は猛暑対策として、観客にかき氷や氷のうを無料提供、屋外用のエアコンや大型ミスト扇風機を導入するなど、観戦の安全対策に力を入れている。 入場は無料。詳細、問い合わせは大会公式サイトで。

【戦後74年の夏】4 飛行場があったと零戦が伝える 筑波学園病院のモニュメント

【大山茂】「今の若い人たちに戦争の悲惨さを知ってもらい、平和の尊さをかみしめてもらいたい」。元つくば市長で、筑波学園病院(つくば市上横場)を運営する筑波麓仁会の理事長、藤沢順一さん(78)は同病院の敷地内に5年前に建立した戦闘機のモニュメントの前で若い職員たちにこう語る。 病院は戦前の谷田部海軍航空隊(谷田部飛行場)跡地内に建つものの、今ではその面影を失い、過去を知る人は少ない。ところが兵士たちが出撃の際に祈願したという『谷田部神社』が今も病院近くにひっそり佇(たたず)んでいる。毎年桜の咲く時期に元航空隊員たちがこの神社に参拝しているとの話を伝え聞いた藤沢さんが「後世に飛行場が存在した事実を伝えなければ」と、象徴的な零戦像の建立を思いたった。 モニュメントが設置されているのは病院の正面入り口に近い緑地の一角。すぐ隣に飛行場時代から花を咲かせているという桜の老木が2本、まるで零戦を守るかのように枝葉を広げている。御影石のモニュメントは台座を含め高さ約2メートル、零戦の長さは約60センチ。400万円をかけ、笠間市の伝統工芸士に製作を依頼した。 市教育委員会の資料によると、谷田部飛行場は病院の敷地に本館が建ち、常磐自動車道をはさんで向こう側にある農研機構(同市観音台)の研究施設群には芝生の滑走路が、さらにその奥には飛行機を格納する掩体壕(えんたいごう)があった。太平洋戦争の最中には九三式練習機(通称・赤とんぼ)の飛行訓練が行われた。しかし戦局が悪化すると実戦機、零式艦上戦闘機(ゼロ戦)が配備され、10代後半の若い兵士が特別攻撃隊(特攻隊)として南方の戦線に送り出された。 モニュメントの除幕式には元航空隊員や霞ケ浦の予科練生、谷田部神社の世話人、地元関係者らが多数出席した。同航空隊の卒業生で千葉県在住の元海軍中尉は「多くの若者がこの地から出撃して命を落とした。生きながらえた者で慰霊祭を行ってきたが、当時を偲ぶ構造物はなく、寂しい思いだった。記念碑が建立されたことで戦友たちの心の拠り所ができた」と紅潮した表情で語ったという。 今回、藤沢さんとモニュメントの前で撮影に応じた病院の女子事務員たちは、妻子を残して戦艦に突撃する特攻隊員の苦悩を描いた百田尚樹原作の映画『永遠の0(ゼロ)』の話題に触れながら、「平和な時代に生きていて良かった。これからも日本は平和でいて欲しい」と神妙な面持ちで語っていた。 ➡【戦後74年の夏】3はこちら

【戦後74年の夏】3 遺品の日章旗還る 比で戦死のつくば市笈川さん

【谷島英里子】1945年3月9日、フィリピン・ルソン島で戦死した26歳の兵士が身に付けていた日章旗が2016年、つくば市の娘のもとに還ってきた。終戦から71年が経っていた。笈川美起子さん(75)は当時、母のお腹にいたため父の顔を写真でしか知らない。「70年以上も経ってとても驚いた。本当に、本当に家に帰りたかったのだと思う」と美起子さんは今も目頭を熱くする。 米の日章旗返還活動通じ 太平洋戦争の激戦地、ルソン島クラーク地区で戦死した父は、笈川清次郎さん。1920年生まれの秋田県出身。志願兵で、谷田部海軍航空隊で訓練を受け、戦地に赴いた。 戻ってきた日章旗は、カルフォルニア州在住の米国人男性が、元海兵隊員の父から譲り受け、保管していた。男性はテレビ番組で遺族への日章旗返還活動を行う団体「OBON」を知り、返還を依頼したという。日本遺族会、秋田県・茨城県遺族会、つくば市などを通じて笈川さんのものと判明した。墨で「祈 武運長久 笈川清次郎君」という激励の言葉が力強く書かれ、秋田の近隣住民とみられる名前が40人ほど記されている。また、2、3カ所小さな穴が開いているだけで、笈川さんが大切に身に付けていたことをうかがわせる。 母親が亡くなったのは返還の数年前だった。母からは生前、出征前の父が「美起子」と名付けていったという話は伝え聞いた。ほかに、美起子さんが父を感じることができたのは、兵隊姿の写真ぐらいしかなかった。会ったことはないし、もちろんお骨もない。周囲の人から、父は戦地で足を撃たれて死んだと聞いていた。寄せ書きの日章旗を目にすると父が必死で戦った思いを感じ、「とても悔しかったと思うし、やっと家に帰ってこられてよかった」と感慨深く語る。現在、日章旗は仏壇に納めて、毎日線香をあげているという。 美起子さんは戦後、母や親戚に大切に育てられた。衛生状況の悪化で伝染した頭のシラミには苦労したが、家では野菜をたくさん作っていたため食べ物には困らなかったという。テレビなどで戦時中の様子を見ると父を重ねてしまう。「戦争が二度とない世界で安心していきたい。日章旗を大切にし、次世代につなげていきたい」と話した。 ➡【戦後74年の夏】2はこちら

Most Read