【谷島英里子】1945年3月9日、フィリピン・ルソン島で戦死した26歳の兵士が身に付けていた日章旗が2016年、つくば市の娘のもとに還ってきた。終戦から71年が経っていた。笈川美起子さん(75)は当時、母のお腹にいたため父の顔を写真でしか知らない。「70年以上も経ってとても驚いた。本当に、本当に家に帰りたかったのだと思う」と美起子さんは今も目頭を熱くする。
米の日章旗返還活動通じ
太平洋戦争の激戦地、ルソン島クラーク地区で戦死した父は、笈川清次郎さん。1920年生まれの秋田県出身。志願兵で、谷田部海軍航空隊で訓練を受け、戦地に赴いた。

戻ってきた日章旗は、カルフォルニア州在住の米国人男性が、元海兵隊員の父から譲り受け、保管していた。男性はテレビ番組で遺族への日章旗返還活動を行う団体「OBON」を知り、返還を依頼したという。日本遺族会、秋田県・茨城県遺族会、つくば市などを通じて笈川さんのものと判明した。墨で「祈 武運長久 笈川清次郎君」という激励の言葉が力強く書かれ、秋田の近隣住民とみられる名前が40人ほど記されている。また、2、3カ所小さな穴が開いているだけで、笈川さんが大切に身に付けていたことをうかがわせる。
母親が亡くなったのは返還の数年前だった。母からは生前、出征前の父が「美起子」と名付けていったという話は伝え聞いた。ほかに、美起子さんが父を感じることができたのは、兵隊姿の写真ぐらいしかなかった。会ったことはないし、もちろんお骨もない。周囲の人から、父は戦地で足を撃たれて死んだと聞いていた。寄せ書きの日章旗を目にすると父が必死で戦った思いを感じ、「とても悔しかったと思うし、やっと家に帰ってこられてよかった」と感慨深く語る。現在、日章旗は仏壇に納めて、毎日線香をあげているという。
美起子さんは戦後、母や親戚に大切に育てられた。衛生状況の悪化で伝染した頭のシラミには苦労したが、家では野菜をたくさん作っていたため食べ物には困らなかったという。テレビなどで戦時中の様子を見ると父を重ねてしまう。「戦争が二度とない世界で安心していきたい。日章旗を大切にし、次世代につなげていきたい」と話した。
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