日曜日, 4月 27, 2025
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【戦後73年の記憶】6 顔知らぬ文通相手 突然帰らぬ人に 横田晴子さん(91)

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「大変な時代たった」と話す横田晴子さん=つくば市内

【鈴木宏子】つくば市の横田晴子さん(91)は、太平洋戦争が始まった1941(昭和16)年、旧水海道高等女学校に入学した。4年生のとき、水戸陸軍病院に入院していた友達のお兄さんに俳句を添えて慰問の手紙を書いた。女学生からの手紙だと評判になり、病室で皆が回し読みしたという。

しばらくして手紙を読んだ一人の男性から返事が届いた。埼玉県杉戸町出身の古河地方航空機乗員養成所の教官で、盲腸のため入院していた。すぐに退院したが、その後も文通は続き、横田さんはその都度、俳句を添えた返事を送った。

学校の全校作業の日だった。生徒全員が校庭に出て草取りやごみ拾いなどの作業をしていたとき、下妻の方から飛行機が飛んできた。校庭の上空を何度か旋回し、だんだんと低空飛行になって斜めになり、窓から白いハンカチを振り飛び去った。校庭にいた女学生たちはわあわあと大騒ぎになった。

後日、文通相手から手紙が届いた。「計器測量のため下妻まで行きました。皆さんの姿が豆粒みたいに見えたので、水海道に行きました」と記してあった。学校の上空を旋回しハンカチを振ったのは文通相手だったのだ。「この手紙が最後になるかもしれません」とも書かれていた。

しばらくたって文通相手の妹から手紙がきた。「兄によく手紙がきていた方なのでお知らせします。兄は九州から飛び立ち、帰らぬ人となりました」という内容だった。特攻隊に志願したのだという。顔も知らず会ったこともない相手だった。特攻隊に志願した話は妹からの手紙を見るまで知らなかった。

1944(昭和19)年に女学校を卒業。先生から代用教員になることを勧められたが、子供たちに教えるより工場で働いた方が役に立てると、挺身隊に入り、守谷町(当時)の海老原軍需工場で働いた。飛行機の補助翼などをつくる職場で、部品に打ち込む、焼いて熱くしたくぎを運ぶ係だった。

工場から徒歩10分くらいの距離にある長龍寺が挺身隊の寮となった。杉山に囲まれた寺で、寺は寝るだけ。朝昼晩の食事は工場の食堂でとった。

3食すいとん汁だった。2、3㌢くらいの大きさのうどん粉を丸めた団子が三つか四つ入っているだけ。若かったので辛かった。自宅通勤の友達が「毎日すいとん汁では辛かろう」とふかしたサツマイモを新聞紙にくるんで持ってきてくれたことがあった。昼にごちそうになり、その時食べたイモは最高においしかった。

終戦で挺身隊は解散。戦後は土浦の奥井裁縫所に1年間住み込み裁縫などを習った。姉4人、兄1人の6人きょうだいの末っ子。習い事のため東京に出ていた姉は食糧難で満足に食べられなかったが、土浦の横田さんの住み込み先には、兄が月1回、自転車でコメを運んでくれた。

「大変な時代だった」と話す。=終わり

【戦後73年の記憶】5 谷底に消えた戦友、凍死、餓死の光景まぶたから離れない 大澤彌太郎さん(99)

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東部ニューギニア戦線の地獄の日々を語る大澤彌太郎さん=土浦市内

【谷島英里子】「ジャワは極楽、ビルマは地獄、死んでも帰れぬニューギニア」と言われた東部ニューギニア戦線。「あと1週間遅かったら、第2玉砕命令が出て生きては帰れなかっただろう」と遠くを見つめる。

1919(大正8)年、土浦に生まれた大澤弥太郎さん(99)。旧制県立水戸商業高校を卒業後、家業の文具店を継いだ。39年、徴兵検査に合格し宇都宮の師団に入営、下士官となる。やがて満州へ出征し、その後東部ニューギニアへ渡った。「軍からの命令だけで、この地では地図もない、大砲も弾薬もなく、食糧さえも敵地から調達しろというもので、どうやって戦ったらいいのかわからない状態だった」。

43年8月、第51師団長中野英光中将から玉砕命令が出た。全員自滅するということだ。もはや生きては帰れないと考えた。しかし、これが転進命令に変わった。周りを敵地に囲まれているため、敵のいない方へ退却する。この退却がまた試練の始まりだった。

それは現地の住民でも登らない標高4000㍍を超えるサラワケット山を越えるもの。ジャングルを越えると長野県の日本アルプスのように険しい山が立ちふさがる。濁流が流れる川では工兵が木を切り倒し川に橋をかけ、岩肌の道なき道では工兵が先に垂らしたロープを頼りに進んでゆく。一歩間違えば深い谷底に落ちてしまう。大澤さんは目頭を押さえながら「山頂寸前の絶壁で力尽き谷底へ消えていった戦友、凍死、餓死、その光景はまぶたから離れない。そこはまさに地獄でした」と声を震わせた。

野宿を繰り返すうちに悪性のマラリアを患い毎日40度を超える熱にうなされた。このままでは生きては帰れないと考えた。軍医に責任を取れないと断られたが、無理に頼み静脈注射をすることで幸運にも生き延びた。1カ月の山越えで1000人以上の兵隊が息途絶えたという。険しい山で、軍支給の地下足袋はたった2日で底が抜けた。亡くなった戦友に手を合わせ靴を履き替えたこともあった。生きていくために必死で、食べ物はサゴヤシの根本を鉄板で焼いたりして餓えをしのいだ。口に入るものなら何でも食べた。

45年8月15日、2回目の玉砕命令が出たこの日、米軍飛行機がまいたビラで終戦を知り、思わず「万歳」とかみしめたという。

大澤さんは靖国神社で毎年7月に開催される戦没者慰霊行事「みたままつり」に参加し、30年間お参りを続けている。戦後70年余りを過ぎて戦争を知らない子どもや、大人が増えてゆくなか、2017年に戦争体験やその後の人生を記した本『東部ニューギニア戦の我が半生』を自費出版した。「私は幸いにも日本に帰還できたのだから、戦争の過酷さと愚かさ、そして、戦友たちの無念さを後世に伝えていかなければ」と語気を強める。

幹部候補生のころの大澤さん

【戦後73年の記憶】4 号令に合わせひたすらアルミ板たたいた 栗栖恵子さん(86)

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戦争体験を話す栗栖恵子さん=土浦市内

【鈴木宏子】土浦市の元中学校教員、栗栖恵子さん(86)は、80歳を過ぎてから母校の土浦二高に年1回赴き、後輩たちに戦争体験を伝えている。

栗栖さんは東京大空襲が激しさを増した1945(昭和20)年3月10日過ぎ、自宅があった東京から、父の実家がある土浦に逃れてきた。女子聖学院1年生で13歳だった。

家族は父母ときょうだい4人。小学6年の弟と3年の妹は群馬県伊香保に集団疎開した。土浦には5歳の妹が一足先早く来ていた。両親は東京に残り、家族は3カ所に分かれて戦時下を生きた。

土浦高等女学校(現在の土浦二高)に転校した。運動場はすべて畑になっていて勉強した記憶は一切ない。食糧増産のため毎日、虫掛などの農家に手伝いに行った。

しばらくして右籾の第1海軍航空廠(軍需工場)に勤労動員された。飛行機のどの部品を作っているのか分からなかったが、日の丸の鉢巻きを締め、工員の号令に合わせてひたすらハンマーでアルミ板を成型する作業をした。一の号令で腕を振り上げ、二でひじを曲げ、三でアルミ板をたたいた。

女学生や土浦中学(現在の土浦一高)の生徒が、街中から航空廠まで砂利道を歩いて通った。遠いので通うのが大変だろうと、土浦中学に機械を移し学校工場とすることになった。初出勤の8月15日、門をくぐると「正午に重大な発表がありますので帰宅してラジオを聞いて下さい」という貼り紙があり、帰宅し玉音放送を聞いた。

敗戦により、カメラマンとして宮内省(現在の宮内庁)に勤務していた父は職を失い、伊香保に学童疎開していた弟と妹も帰ってきた。ばらばらだった家族6人は戦後、土浦でやっと一緒になった。

伊香保から戻った弟と妹はシラミがひどくて、床屋に連れていかれ丸坊主になった。母は2人の衣服を釜でゆでシラミを殺した。疎開先では栗やドングリを食べていたという。2人が持ち帰ったノートには食べ物の絵ばかりが描かれていた。

女学校を卒業後、アルバイトをしながら茨城大学で学び、教壇に立った。父が職を失ったことから、当時もらった奨学金はすべて家に入れた。

現役を退き80歳になったころ、女学校の同窓会で戦争体験が話題に上るようになった。勤労動員された航空廠で空襲警報が鳴り、防空壕に逃げる途中、転んで米軍機に機銃掃射されそうになった話や、目の前で爆弾が爆発した話などだ。航空廠ではたびたび空襲警報が鳴った。栗栖さんは、自分は足が遅くて逃げられないと、いつも工場の中に隠れていた。同級生たちの辛かった体験を80歳になって初めて聞いた。

母校に赴き、戦争体験を後輩たちに話すようになったのはそれからだ。「勉強して、部活動をして、家に帰ると食べ物がある生活が当たり前でない時代があった。それが出来なかったのが戦争」と話す。

宮内省のカメラマンだった父親が1953(昭和28)年に出版した著書「ある日の天皇」を家の中で見付け、2009年に栗栖さんが復刊した。父が間近で見た戦争中の昭和天皇を写真と文章でつづっている

つくば・土浦の2チームが初戦突破 県選抜中学野球

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【土浦二-日立一附】初球から強気で攻めた小松崎のピッチング

【池田充雄】軟式野球の第43回県選抜中学校野球大会が11日開幕し、つくば市金田のさくら運動公園野球場など5会場で1回戦16試合が行われた。同大会は県中学総体の地区大会などで好成績を収めた32チームが15日の決勝を目指して戦う。つくば・土浦市からは計4チームが出場、土浦二中は日立一高附属中を4-0で下し、谷田部東中は牛堀中(潮来市)に13-0で5回コールド勝ちを収めた。一方、土浦三中は大宮二中(常陸大宮市)に6-10で、茗渓中は水戸四中に3-4でそれぞれ敗れた。

土浦二中、4回までパーフェクト

土浦二は谷田部野球場の第2試合で日立一附と対戦。2回表に1死満塁から相手投手の乱れにより3点を奪い、また5回表には1死三塁から六番・横田歩夢の一塁線へのヒットで1点を加えた。守ってはエースで四番の小松崎脩平主将が4回までパーフェクトピッチング。5回は2死満塁とされるが投ゴロでしのぎ、6回からはリリーフの渡邊暁星がランナーを出しながらも無失点で締めた。

小松崎は「ボールから入ると雰囲気が悪くなるので、初球からストライクで攻め、相手に高めの球を振らせるよう意識した。攻撃では、今日は相手のミスから点が入ったので、次は自分たちで攻めて取りたい」と話した。渡邊は「スライダーは良かったがカーブが抜けたり落ちたりした。エースをがっかりさせないよう、リリーフで次の試合も頑張りたい」と気を引き締めた。

菅谷篤監督は「去年は3年生が5人しかおらず2年生がチームを引っ張ったが、総体では思うようにプレーできず、リベンジの思いで1年間頑張ってきた。スターがいるチームではないので、目の前の1戦1戦に集中して戦っていきたい」と抱負を述べた。

谷田部東中、2回に打者15人の猛攻

【谷田部東-牛堀】2回裏1死満塁、江崎が左前へ適時打を放つ

谷田部東はさくら運動公園野球場の第4試合で牛堀と対戦。1回裏1死三塁から三番・鈴木翔太の右前打で先制し、2回裏は打者15人で9点を奪う猛攻。3回にも2点、4回にも1点を加え、相手を完膚なきまでにたたきのめした。投手はエース鈴木が3回を投げ、4回からは捕手の江崎大翔主将がリリーフ。こちらも相手に一塁を一度も踏ませない完璧な継投で試合を終えた。

「立ち上がりを三者三振で抑えて勢いに乗り、回が進むにつれてコースにもよく決まるいいピッチングができた」と鈴木。「変化球が決まって相手が空振りしてくれた。今までで一番いいピッチング。捕手も投手もどちらも楽しい」と江崎。2人ともバッティングでも魅せたが、特に江崎の2回の左前打は、櫻井真一監督が「大量点の口火となるヒットで、チームにとって非常に大きかった」とほめたほど。江崎自身にも「芯に当たって手応えが良く、いままでで一番強い打球が打てた」と印象に残るものになった。

「最初は戦力に偏りがあったが、春から夏にかけて全員が力を付けてきて、守備もバッティングもしっかりできるバランスの良いチームになってきた。総体では県大会を目指したが、県南地区ベスト8で終わった。その悔しさをこの大会にぶつけたい」と、櫻井監督はチームの思いを語った。

12日の2回戦、土浦二は江戸崎(稲敷市)と対戦し0-5で敗れた。谷田部東は中郷(北茨城市)に3-1で勝ったが、14日の準々決勝で石下(常総市)に3-8で敗れた。

将来はプロ棋士に 小中学生が熱戦 筑波大将棋部主催

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小中学生32人が熱戦を繰り広げた将棋大会=つくば市吾妻

筑波大学将棋部が主催する「つくば小中学生将棋大会」が11日、つくば市吾妻のつくばイノベーションセンター大会議室で開かれた。小学4年生から中学3年生まで32人が、盤上で熱戦を繰り広げた。

午後1時から始まった大会では、初心者リーグと上級者リーグに分かれ、スイス式トーナメントで4局対局が行われた。参加者は真剣な眼差しで、一手一手駒を進めた。上級者リーグで優勝した明石晃英さん(松戸市立馬橋小6年)は「危ない局面もあったので、勝ててよかった」と喜びを語り、「将来はプロ棋士になって活躍できるようになりたい」と目を輝かせた。

大会終了後はエキシビジョンマッチもあり、上級リーグ1~5位の参加者が将棋部員と対戦を楽しんだ。

大会は「つくばで子どもたちが将棋に触れ合える場を作りたい」と将棋部の学生らが企画し、今年で4回目。この日運営にあたった将棋部員はOB合わせて15人。部員の小野元さん(21)は「年々参加人数が増えて、やりがいを実感できるようになった」。部長の小山寛人さん(21)は「活動を地域に還元できていることに意義を感じる。大会の知名度が広がり、県外からの参加者も増え、価値ある大会になってきたと実感している」と話した。

◆上級者リーグ入賞者(敬称略)
優勝:明石晃英(松戸市立馬橋小6年)
準優勝:雪野倖太郎(文星芸術大学附属中2年)
3位:前田優斗(墨田区立柳島小4年)
4位:石上雄一朗(石岡市立杉並小5年)
5位:青柳賢治(守谷市立守谷中1年)

腕章をつけた筑波大学将棋部員らが対局を見守った=同

【戦後73年の記憶】3 目に焼き付く引き揚げ体験を仲間と英訳 木村真理子さん(81)

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引き揚げ体験を描いた絵本と英訳冊子を手にする木村真理子さん=つくば市内

【大志万容子】つくば市の木村真理子さん(81)は2歳のとき、満州電信電話(当時)に勤める父の赴任で旧満州東部(中国東北部)の牡丹江省に渡った。家族5人の穏やかな暮らしは、1945(昭和20)年8月9日、ソ連軍が国境を越えたことで一変した。持てるだけの荷物を持ち、牡丹江駅から列車に乗り込み、日本を目指した。

敗戦を迎え奉天(現在の瀋陽市)の避難所にたどり着いたが、2歳の弟が肺炎で亡くなった。遺体を囲んで泣いている部屋に銃を持ったソ連兵が押し入ってきた。悲嘆にくれる家族を見た兵たちは、何もせずその場を去った。毎日大八車で運ばれる死体、裸馬で北に向かう日本兵の集団…。避難先で見た光景は、今も目に焼き付いている。

終戦後、放送局勤務のキャリアを買われた父は中国・国民党軍に雇われ、しばらく北京で暮らした。48年、「息子を亡くしたこの地に骨を埋めたい」という母を説き伏せ、引き揚げ船で帰郷した。

満州からの引き揚げ体験を絵本『子供の目が見た戦争』にしたのは11年前。戦後生まれの弟や自分の子どもに、両親の苦労を知ってほしいと思ったのがきっかけだった。「文章では饒舌(じょうぜつ)になりすぎてしまう」と、水彩画を描いてみたら、次々に記憶がよみがえった。38ページの絵本にまとめた。

昨年、参加する英会話サークル「ヤタベ・イングリッシュ・カンバセーション・クラブ」で絵本を見せると、「訳してみよう」と声が上がった。11月から半年かけて、木村さんと4人のメンバーで分担して英訳し、A4用紙10枚にまとめた。

メンバーの1人、茨木千恵子さん(69)は、「英訳作業を通して、引き揚げの話が遠い話ではないと感じるようになった。なかにし礼さんや藤原ていさんも引き揚げ体験をつづっているが、それらについても知りたいと思うようになった」という。

絵本と英訳冊子を5月末、木村さんが通う水彩画教室の展覧会で展示したところ、韓国人女性が真剣な表情で「読みたい。知り合いにも読ませたい」と求めたという。親しい米国女性にも贈ったところ「とても興味深かった。自分の子どもたちにも読ませたい」と返事があった。

木村さんは「戦争で辛い思いをするのは一般の市民。それはどこの国でも同じ。その思いが通じれば」といい、興味のある人に読んでもらえればと話す。

◆絵本と英訳冊子についての問い合わせは木村さん(tom1024mary@yahoo.co.jp

水彩画教室の展覧会に絵本と英訳冊子を展示したところ、多くの人が手にとった(右端が木村さん)=つくば市二の宮の洞峰公園、筑波新都市記念館・展示ホール

【戦後73年の記憶】2 誰にも言えない軍事機密情報におびえた 秋元君子さん(92)

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戦争当時を振り返る秋元君子さん=土浦市中央

【田中めぐみ】土浦市の秋元君子さんは1926(大正15)年生まれの92歳。13歳の時、千葉県から土浦市に引っ越し、県立土浦高等女学校(現土浦二高)に転入した。戦争拡大に伴う労働力不足を補うために学徒動員が閣議決定され、卒業を前に休学。17歳で霞ヶ浦海軍病院(現霞ヶ浦医療センター)に動員された。庶務で、海軍の人事異動を記録したり、傷病者、戦死者の名簿作成をしたりして軍部に報告していたという。

その中でミッドウェー海戦の極秘情報を知った。「航空母艦『赤城』抹消、『加賀』抹消―」リストから削除していく。詳しい戦況は分からなかったが、航空母艦を失ったことを知った。大本営発表では公にされなかった。「こんなに船が無くなって大丈夫なのだろうか」と不安が募るが、誰にも言うことはできない。

職場には憲兵が頻繁に訪れ、目を光らせていた。母にさえ情報の内容は秘密だったが、察してか「誰にも話すんじゃないよ」と君子さんを心配したという。「今思うと怖いことをやっていたと思う」と振り返る。

父は軍人で、機上整備員をしていた。昭和18年末、「10月6日に戦死」という弔慰電報が届いた。軍部からの公報(死亡告知書)は出ず、問い合わせても情報は錯綜していた。翌年1月に公報が出て3月末の合同葬に間に合った。父の遺骨は帰って来ず、ハンカチや靴下といった遺品だけがきれいに畳まれて戻ってきた。遺骨を入れるはずの箱には石ころが入っていた。「南方だと思うがどこで死んだかも分からない。生死が分からないままの人もたくさん居た。公報を出してもらえただけ良かった」と気丈に話す。一人娘だった君子さんは母一人、子一人になった。

阿見大空襲で病床はいっぱいに

終戦の年、海軍病院の歩哨(ほしょう=見張り)が、霞ケ浦に米軍機がきりもみして落ちていくのを見たという。米兵は脱出、捕虜になったと聞いた。同年6月、土浦海軍航空隊が空襲を受けた。阿見大空襲である。「米兵を捕虜にした仕返しではないかと思った」と話す。病院には死傷者が次々と運ばれて病床はいっぱいになり、担架に乗せられ通路の両脇に並んだ。君子さんはその惨状を茫然と眺める他なかったという。

8月15日、玉音放送があり、午後の仕事はなくなった。それまでは軍艦マーチがかかっていたが、その日は誰が流したか、「波濤を越えて」というワルツが流れた。そこで初めて「ああ、これで平和がきたんだ」という思いがこみ上げた。帰る時、病院から街を眺めると、早い時間なのに街灯が付き、家々の電球も黒布が取れ、街に灯が戻っていた。先行きは全く分からなかったが、しみじみと平和の喜びをかみしめたという。

阿見大空襲の慰霊碑=土浦市大岩田の法泉寺

メモ
【ミッドウェー海戦】昭和17年6月、ミッドウェー島付近での日米海戦。米軍は作戦を早期に察知し、日本側に大きな損害を与えた。この敗北を機に日本は劣勢となったが、国民には知らされなかった。
【大本営発表】戦時中、日本軍の最高統帥機関が発信していた戦況の公式発表。

 

 

【戦後73年の記憶】1 忘れることできない東京大空襲 杉田とよさん(93)

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週の半分を小規模多機能施設で過ごす杉田とよさん。後方の折り鶴はとよさんが折った=つくば市刈間

戦後73年目の夏がめぐってきた。戦後生まれが人口の8割を超え、遠くない将来に戦争体験を語ることができる人はいなくなる。繰り返してはならない悲惨な記憶を伝えるために、戦争体験者に話を聞いた。

【橋立多美】1925(大正14)年に筑波郡菅間村(現つくば市中菅間)に生まれた杉田とよさんは93歳。忘れることのできないのが東京大空襲だという。

当時とよさんは20歳。小石川に住んでいた親戚の家で大空襲に遭った。この家の夫婦には子どもがいなかったので、とよさんをかわいがってくれ、一人で上京していた。45(昭和20)年3月9日から10日に日付けが変わり、飛行機が飛来している音が近くなった途端、ものすごい爆風で窓ガラスが割れて家が大きく揺れた。とよさんは押し入れに逃げ込んで難を逃れ夫婦も無事だった。

米軍機B29の焼夷弾攻撃だった。攻撃が止んだまちには火の手が上がり、夢中で近所の人たちと防火用水槽の水をバケツリレーで運んだ。夜が明けると親類の家の2階は吹き飛ばされ、居間の火鉢の上に大きな石が乗っていた。3軒隣で食堂を営んでいた家族4人は、敷地内に穴を掘った防空壕に逃げ込んだが、爆風で飛んできたトタンや瓦などで生き埋めになり、地表に指3本が出ていたそうだ。

とよさんは「筑波山山頂に敵機監視所、作谷には陸軍西筑波飛行場と格納庫があったが、実際に攻撃されたことはなかったから恐ろしかった」と振り返る。

戦後は一層の食糧不足

同年8月に無条件降伏して戦争が終わり、戦地に行っていた兵隊たちが帰ってきた。その一人で、とよさんより1つ年上の次郎さんと翌年同市臼井に所帯を持った。当時2人が通った小学校は男女別学か、同じ学級でも「席は同じうせず」が当たり前。一緒に遊ぶことは厳禁で好きな子がいても遠くから目を見交わすだけだった。

お互いに好きだった2人が再会してとよさんのお腹に命が宿った。「今は珍しくない『でき婚』だった」と笑い飛ばす。

次郎さんは村役場の職に就き、3女1男に恵まれた。だが、食糧不足は戦中を上回って一層苦しいものとなり、4人の子を育てるのに配給米だけでは足りず、高い闇米を買うしかなかった。それでも、大根などの野菜を入れて量を増した「大根めし」が常食だった。「食べ物では苦労した」としみじみ話す。

とよさんは「また年寄りの繰り言かと耳を貸さない人もいるが、こんな時代があったことを知って欲しい」と話を締めくくった。

次郎さんは19年前に75歳で没した。とよさんは80年代、初めて次郎さんと手をつないで訪ねた草津白根山の湯釜で撮った写真を大切にしている。信頼し合い戦後をともに生きた証しだ。

とよさんが大切にしている写真。50代の2人が写っている

※メモ

【焼夷弾】対象物を貫通や爆破で破壊するのではなく燃焼させることを主眼に置いた砲弾や爆弾。戦時中は木造家屋が密集する都市で使われた。

稀勢の里、高安 回復ぶりアピール 大相撲龍ケ崎場所

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鶴竜と対戦する稀勢の里㊧=龍ケ崎市中里の市総合体育館たつのこアリーナ

【崎山勝功】2018年度夏巡業大相撲龍ケ崎場所(同実行委員会主催)が9日、龍ケ崎市中里の市総合体育館たつのこアリーナで開かれ、牛久市出身の横綱・稀勢の里と、土浦市出身の大関・高安が約2500人の来場者を前に復活ぶりをアピールした。

7月の名古屋場所で初優勝した御獄海と対戦する高安㊨=同

高安は7月29日から始まった夏巡業の初日から右膝蓋(しつがい)腱炎(けんえん)で休場していたが、8月8日から巡業に復帰してこの日の龍ケ崎場所に姿を見せた。午前中の公開稽古では、土俵上で精力的にぶつかり稽古に取り組むなど、けがから回復した様子を見せた。7月の名古屋場所で初優勝した関脇・御獄海と対戦し高安が御獄海に突き出しで勝つと、場内から拍手が沸き起こった。

稀勢の里は横綱に昇進後、17年3月の春場所で負傷して以来8場所連続休場しているが、龍ケ崎場所では結びの一番に姿を見せた。横綱・鶴竜と対戦、寄り切りで倒し、小中学校時代を過ごした第二の故郷・龍ケ崎に錦を飾る取り組みを見せた。

観戦した中山一生市長は「稀勢の里は順調に調子を取り戻しているようだ。9月場所が楽しみ。高安もけがからの復活で、力強い相撲を取ってくれたので楽しみにしている」と、2人の活躍に期待を寄せた。

河内町の会社員女性(28)は「勢いがあってすごくかっこ良かった」、つくば市の山成真由美さん(31)は「初めて見たが、迫力があって興味がわいてきた」とそれぞれ感想を話した。

稀勢の里と高安は報道陣の取材に応じ、稀勢の里は、小学校時代に会場近くのたつのこ公園内の「たつのこ山」で遊んだ思い出や、小学4年生のときに少年相撲大会で5人抜きをして金メダルを取ったことなどを振り返った。自身の状態については「しっかり調整して来場所は活躍したい」と述べた。

高安は「茨城のたくさんの方に応援してもらっているので、どこかで恩返しをしなければと思っている。たくさん稽古してまた来場所に向かっていきたい」と意気込みを見せた。

県南地域での大相撲地方巡業は、12月22日に土浦市大岩田の霞ケ浦文化体育会館で「大相撲土浦・牛久場所」が開かれる。

母校の後輩が稀勢の里に花束

稀勢の里の母校、市立長山中学校の野球部員と、稀勢の里が小学校時代に所属した少年野球チーム「龍ケ崎ハリケーンズ」の選手たちが同日、稀勢の里に花束を贈呈した。

選手たちは、稀勢の里が小学生時代に通っていた市立松葉小学校の児童が作った「輝け 横綱稀勢の里先輩」の横断幕を背景に、花束を渡し握手をした。

長山中野球部員の田向陽祐さん(3年)は「非常に光栄。オーラがあった」と感激した様子で「生徒一同で応援したい。頑張ってほしい」と先輩の稀勢の里にエールを贈った。

横綱・稀勢の里と握手をする「龍ケ崎ハリケーンズ」の選手たち=同

土浦日大 甲子園初戦敗退 9回ソロ本塁打で意地見せる

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バブリックビューイングで土浦日大を応援する市民ら=土浦市役所1階市民ラウンジ

【池田充雄】第100回全国高等学校野球選手権大会は5日目の9日、第4試合に本県代表の土浦日大高校が出場。沖縄県代表の興南高校と対戦し2-6で敗れ、昨年に続いての1回戦敗退となった。

土浦市本庁舎(同市大和町)1階の市民ラウンジで開かれたパブリックビューイング(=PV。応援観戦)では、常設のテーブル席や特設のベンチ席に大勢の市民が集まり、通勤帰りや買い物帰りの人なども足を止め、大型スクリーンに見入った。会場には土浦日大のメガホンやTシャツ、野球帽などの応援グッズも用意され、選手の一投一打にたくさんの拍手や歓声、ため息が出た。

試合は土浦日大の富田卓、興南の藤木琉悠、両エースの投げ合いで幕を開けた。土浦日大は藤木のカットボールなどに芯を捉えられず、興南は富田の低めへのスライダーに詰まらされ、4回を共に無得点で終える。

だが5回裏、先頭からの2連打とバントで無死満塁とされると、犠牲フライとヒットで興南に2点を先制される。土浦日大は6回表に敵失2つと盗塁で1死二・三塁とし、三番・小菅康太の内野ゴロで1点を返すが、6回裏に1死三塁から1点を追加され、1-3とリードを広げられる。

試合は終盤に入り、両投手とも疲れが見え始める。7回表、土浦日大は2連打と死球で2死満塁の好機を作り、ここで一番・鈴木健太主将を迎えるが、相手の逃げるスライダーで三振に取られる。逆に7回裏には2死満塁のピンチを作るが、ここは富田が踏ん張って内野ゴロに打ち取った。

次の回は投手交代で差が開いた。8回表に土浦日大が無死満塁のチャンスを作ると、興南は宮城大弥をマウンドへ送り、三振とダブルプレーで火消しに成功。8回裏は2安打と1犠打で2点を失い、ここで土浦日大は清水樹が救援に向かうが、さらに2連打で1点を失う。9回表、土浦日大は代打・磯貝郁人が左翼席へのソロ本塁打で意地を見せるが、追撃もここまで。2-6でゲームセットを迎えることとなった。

土浦日大の誤算は、相手投手が予想していた宮城ではなく藤木だったこと。その変化球にタイミングが合ってきて、ここからというところで宮城にスイッチし、速球でねじ伏せられた。富田は6回ごろから制球に乱れが見え始め、甘いスライダーを捉えられた。また頼りの鈴木が5打席無安打に終わるなど、打線も投手陣を助けられなかった。

泣きじゃくる富田選手に「いい試合見せてくれた」

PVの観戦者の一人で「娘が富田投手の姉と仲良し」という廣瀬譲治さん(54)は、「(相手の15安打の猛攻に)富田選手を中心によく守り、最終回にはホームランで意地を見せてくれた。力はつけているので来年に期待したい」と感想を述べた。

譲治さんの母の寛子さん(80)は、画面の向こうで泣きじゃくる富田選手を見ながら「富田くんも頑張ってくれたが、向こうがちょっと上だった。これも野球でしょうか。いい試合を見せてくれた」と語ってくれた。

僕たちのツリーハウス作ろう 小学生がクラウドファンディングで出資を募る

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ツリーハウスの建設予定地にて=つくば市桜

【池田充雄】つくば市桜の英語学童保育、キッズクリエーションアフタースクールに通う小学生16人が、園庭にツリーハウスを作ろうと、インターネットを通じて支援を募るクラウドファンディングに挑戦中だ。7月7日には国内大手サイト「キャンプファイヤー」にプロジェクトページを立ち上げた。小学生による起案は全国でも初めてという。

活動の発端は、子どもたちが学童の庭をもっと面白くするため、木の上に秘密基地を作りたいと考えたこと。雨風にも耐えられるしっかりしたものを建てたいが、自分たちには知識も技術も資金も足りない。でも絶対にあきらめたくない。その気持ちが周りの大人たちを動かし、プロジェクトがスタートした。

自分たちの思いをどうしたら大勢の人に伝えられるか。そこでもたくさんの試行錯誤があった。プロジェクトページに載せた動画や、報道各社へ送ったプレスリリースも、子どもたち自身が手がけた。キャンプファイヤーつくばの公開イベントでは、聴衆を前に自分たちの言葉でプレゼンテーションし、支援を呼び掛けた。その結果、少しずつ反響が寄せられるようになり、海外からの支援も届くようになった。子どもたちは「すごいな、一生懸命伝えたら、遠くの人にも届くんだな」と喜びとともに驚きの声を上げていた。

「大事なのは夢に向かう力。困難に直面してもあきらめず、困っていることをちゃんと人に伝え、助けを求められること。また、ワクワクする気持ちを伝え、自分たちと一緒に夢を見てくれる仲間を増やし、協働できること。それが大人になったとき、自分自身の人生をデザインし、切り開くために役立つはず。ここがその始まりの場所になってくれたらいい。そんな気持ちで子どもたちの応援をしている」と、キッズクリエーション代表の宮嶋さやかさん。

教室の壁に張った「感謝の木」には、出資者になってくれた人や、励ましのメッセージを送ってくれた人、身近で応援してくれる友達や家族など、みんなの名前を書き込んだ。ツリーハウスが完成したら「お礼の手紙を書きたい」「いっしょに入って遊びたい」など、実現の喜びを分かち合おうと気持ちも高まっている。

「労働したことのない子どもたちには、支援していただいたお金の本当の価値は実感できていないと思う。でも子どもなりの理解でいいから、とても大切なものをいただいているんだよという意識は、常に忘れないでいてほしい」と宮嶋さん。

プロジェクト「ぼくたちは小学生だけどツリーハウスを作りたい」の実施期間は9月11日まで。目標金額130万円に対し、8月6日現在の支援総額は999000円、達成率76%。詳細はhttps://camp-fire.jp/projects/view/77286へ。

教室の壁に張った「感謝の木」の前で=同

ホンモノ!土浦日大㊦原動力は秋の大敗

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準決勝・霞ケ浦戦で2本のホームランを放った主将の鈴木健太㊨

【伊達康】春の準々決勝での敗戦後、土浦日大は夏に向けてどのように準備し、衝撃の3強撃破に至ったのだろうか。

エースの富田卓は昨秋、明秀学園日立に大敗してから体づくりに目覚め、自主的に身体的トレーニングと食事トレーニングに取り組むようになった。その結果は見事半年で結実し、体重が10キロほど増加して球速もいきなり10キロ近くアップした。

ところが、急激な体格の変化に投球感覚が追いついてこず、思うようにボールが指にかからない状態になった。そして練習試合解禁直後の3月には風邪を引いてしまい、しばらく練習ができなくなった。遅れを取り戻そうと焦った富田は春の大会前にいきなり過度の投げ込みを行い、それが原因で肩を故障した。4月はほとんど投げずに回復を待つことになる。春季県大会は準々決勝で霞ケ浦に3対5で敗退。試合後のミーティングで小菅勲監督は「エースが投げずに勝てるほど甘くはない」と富田に発憤を促した。

その後も黙々と下半身強化のトレーニングに精を出し回復を待った。肩の痛みが完全に癒えた6月3日、横浜高校との土浦市長杯招待試合で先発登板。5イニングを投げて無失点に抑える快投を披露し、夏への手応えを感じた。小菅監督のもとで下妻二高時代も含め20年もの間、総合コーチを務めてきた丸林直樹コーチは、「秋の屈辱、冬の鍛錬、春のけが。ターニングポイントを経験する度に富田は心身両面で目覚ましい成長を遂げた」と振り返る。

打線に関しては春の大会以降、5月から6月にかけて相当バットを振り込んだ。平日練習は守備練習を度外視してひたすらバットを振ってばかり。最速144キロの剛球を誇る明秀学園日立の細川拓也対策としてピッチングマシンの速度を145キロに設定して打ち込んだ。さらに打撃投手を通常よりも5㍍手前の13㍍の距離から投げさせ、打者がトップを早くとって準備をし、速球に振り負けない意識を持って取り組んだ。6月下旬になってようやくこの練習の成果が練習試合で形になって現われ、「これはもしかしたらいけるかもしれない」という雰囲気が生まれたそうだ。

やってみないと分からないを体現

8月5日に開幕した夏の甲子園。土浦日大は8月9日の第4試合に興南(沖縄)との初戦を迎える。相手は第92回大会で優勝を収めた超強豪校であり楽に勝てるはずがない。しかも藤木琉悠と宮城大弥の左腕の二枚看板は、右打者のインコースにクロスに入る140キロを超えるストレートと切れ味抜群のスライダーを放る全国でもトップクラスの能力を誇る。こんなピッチャーは茨城にはいない。

興南との対戦が決まってから土浦日大は、藤木・宮城のクロスに入ってくる角度のボールを想定し、ピッチングマシンをマウンドから一塁寄りに3㍍ずらしてバッティング練習を行っている。丸林コーチは「興南の映像を見て正直言って面食らった。ですがやってみないと分からない。勝つための準備をして臨むだけ」と期待感をにじませる。

「常総学院じゃないと夏の甲子園で勝てない」ーちまたではよくこんな言葉を耳にする。茨城の常総学院以外の夏の代表校は、2005年の藤代が柳川(福岡)に勝利して以来、13年間も勝利していないのだからそう言いたくなるのも納得だ。だが、今年の土浦日大はひと味違う。茨城の3強を撃破した非の打ち所がないホンモノだ。実力を出し切って勝利を収め、「茨城は常総学院じゃなくても甲子園で勝てる」ことをきっと証明してくれる。

練習内容を確認しあう小菅勲監督㊧と丸林直樹総合コーチ。伊奈高校時代から20年来の師弟関係は今も続いている

ホンモノ!土浦日大㊤衝撃的だった3強撃破

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準々決勝で明秀学園日立を下して絶叫する富田卓㊨

【伊達康】一体、誰が土浦日大の2年連続優勝を予想できただろうか。春季大会を終えた時点で今年はシードの上位3校の力が抜きん出ており、秋と春の関東大会でいずれも1勝以上を挙げた。優勝した土浦日大には失礼だが、私は春までの結果を受けて夏はこの3校のどれかが優勝するだろうと予想していた。

土浦日大は初戦である2回戦の牛久に対しエース富田卓が完投して4対2で辛くも逃げ切ると、3回戦の勝田と4回戦の鉾田一には2番手格以降の投手が無失点に抑えて7回コールドで大勝。公立校を相手にここまでは順当な勝ち上がりといえよう。しかし、ここからはとてつもなくハードルの高い相手が待ち受けていた。

明秀学園日立・芳賀大成と土浦日大・鈴木健太㊨。力を出し切った両者が笑顔で健闘を称え合う姿に胸を打たれた

準々決勝の相手は、昨秋県大会2回戦で0対16の大敗を喫した第2シードの明秀学園日立だ。春のセンバツ甲子園では2勝を挙げ、プロ注目選手の増田陸や最速144キロの剛球を誇る細川拓也など圧倒的な力を持ち、土浦日大にとって因縁の相手である。

試合は土浦日大が3回に鈴木健太と木原琉位の連続ツーベースなどで3点を先制すると、7回に3点、8回に2点を追加し8点差をつけた。その裏に増田に3ランホームランを浴びたが、昨秋完膚なきまでにやられた相手をあわやコールドにまで追い詰めて、歯が立たなかった相手エースの細川から16安打を放って8対3で勝利を収めた。秋の大敗以降、「打倒・明秀学園日立」を合言葉に臥薪嘗胆(がしんしょうたん)の日々を経て勝利の瞬間を迎えたエースの富田は、まるで優勝したかのようにマウンド上で顔を紅潮させ絶叫していた。

非の打ち所のない破壊力を発揮

続く準決勝の相手は、春季県大会準々決勝で3対5と敗れた第3シードの霞ケ浦だ。土浦日大は前の試合で完投して疲労が残る富田を温存し、左腕の荒井を先発起用した。ところが荒井が霞ケ浦打線に早々に攻略され2点を献上し、予定より早く富田を出さざるを得なくなった。霞ケ浦の先発投手は最速142キロの本格派右腕・福浦太陽だ。春は井上莞嗣の3ランホームランでしか得点できなかった相手であり攻略は容易ではない。

ところが土浦日大はすぐに反撃した。4回表、5番・小澤礼嗣、6番・大賀、7番・鶴見恵大の3連打で同点とすると、9番・石渡のタイムリーで逆転に成功した。さらに7回表は鈴木健太のソロホームランなどで3点を奪い福浦をノックアウト。8回には最速144キロをマークする本格派右腕・鈴木寛人から、鈴木健太の2ランホームランで2点を追加し8点目を挙げた。

最後は霞ケ浦の怒濤(どとう)の猛追に3点差まで詰め寄られるが辛くも逃げ切って勝利。明秀学園日立・細川拓也を粉砕した土浦日大の攻撃陣は、茨城を代表する霞ケ浦の好投手に16安打を浴びせる非の打ち所のない破壊力を発揮して「猛打の土浦日大」を強烈に印象づけた。

「猛打の土浦日大」は決勝でも健在

決勝の相手は春の関東8強入りを果たした第1シードの常総学院だ。今年の常総学院は特に強力打線を武器としている近年まれに見る破壊力のあるチームに仕上がっている。土浦日大は3連投となるエースの富田を先発に据えた。一方の常総学院も、準決勝で1失点完投と結果を残した塙雄裕を連投させる勝負に出た。試合は2回裏に動く。常総学院は先頭の二瓶那弥がセンターのミスで三塁まで到達し、タイムリーで1点を先制する。1点を献上した土浦日大は4回表、相手のエラーに乗じて打者一巡の猛攻で同点、さらに逆転と一気に畳みかけ6点を挙げる。

5点のリードをもらったエース富田はその後、テンポよくストライク先行の投球を続ける。打ち気に焦る常総学院打線を切れ味抜群のスライダーで翻弄する渾身の投球で無失点に抑え1失点完投勝利を収めた。「猛打の土浦日大」は決勝でもやはり健在で、強打を標ぼうする常総学院のお株を奪う11本の二桁安打を放った。

準々決勝からの3試合で、茨城を代表する私学3強を撃破して2年連続の甲子園出場をたぐり寄せたのだった。先述したがあえてもう一度言わせてもらう。この衝撃的な結末を一体誰が予想できただろうか。予想の斜め上を行く土浦日大は茨城大会で実力を十分に証明できた。

常総市民ら30人が提訴 鬼怒川水害で国家賠償訴訟

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「鬼怒川大水害は国による人災だ」の横断幕を掲げ、水戸地裁下妻支部に向かう原告住民と弁護団ら=下妻市下妻乙

【鈴木宏子】2015年9月に発生した鬼怒川水害で、住民が甚大な浸水被害を受けたのは、同河川を管理する国交省の管理に瑕疵(かし)があったためだとして、住宅や家財、車などに浸水被害を受けた常総市の住民ら30人が7日、国交省を相手取って、計約3億5000万円の損害賠償を求める国家賠償訴訟を水戸地裁下妻支部に起こした。

訴えたのは同市若宮戸、上三坂、水海道地区などに住む19世帯と1法人の30人。国家賠償法の時効となる2018年9月を前にした提訴となった。

訴えによると、越水した同市若宮戸地区は、堤防がなく砂丘林が堤防の役割を果たしていたが、国が河川区域に指定しなかったことから規制が及ばず、自然堤防が削られたとしている。さらに14年3月ごろからソーラーパネルが設置され、砂丘林の高さと幅がさらに小さくなり被害を拡大させたなどと強調している。

堤防が決壊した上三坂地区は、法令が定める堤防の高さと幅を大幅に下回っていたと指摘。国は毎年、堤防の高さを測量し、地盤沈下を繰り返して低くなっている事実を把握しながら、かさ上げすることなく放置したとしている。

市中心部の水海道地区は、排水河川である八間堀川排水機場の運転が停止されたなどから水位が急上昇し、水海道市街地に第1波の洪水が押し寄せた。その後も排水機場の運転再開が遅れ、同河川の堤防が決壊して第2波の洪水が発生。排水機場の操作規則に違反して運転再開が遅れたことが被害を拡大させたなどと主張している。

住宅2件が浸水被害を受けた原告団共同代表の片倉一美さん(65)は「これまで国交省との話し合いに参加してきたが、役人は何を言ってもろくな返事をしてくれなかった。なぜこんな被害を受けなくてはならなかったのか、裁判を通して原因を知りたい」と話した。弁護団の只野靖弁護士は「鬼怒川水害は河川管理をしている国の責任が甚大で、人災である可能性がひじょうに強い。全国でいろいろな水害が起きている。そういう人たちを勇気付けられる裁判にし、全国の治水の在り方を見直すきっかけになれば」と語った。

【ひと】夏休み明けの子ども相談に積極対応 土浦 中島隆一弁護士

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マスターズ水泳大会のメダルの前で語る中島隆一弁護士

【田中めぐみ】「さくらパートナーズ法律事務所」(土浦市文京町)所長の中島隆一弁護士(39)は、「学校事件・事故被害者全国弁護団」=メモ=に所属する県内唯一の窓口弁護士だ。

同弁護団は、学校での事故や、いじめ、体罰などで被害を受けた子どもの事件が多発していることを受けて2013年に発足。適切な法的救済を受けられていない現状を改善し子どもの人権を回復できるよう、問題解決に取り組むことを目的としている。

「全国で子どもに関する案件は少なくなく、いじめや事故、家庭内でのトラブル等で問題を抱えている子どもたちは多い。特に夏休み明けなど、新学期が始まるタイミングでは、悩みをもつ子どもたちにはストレスがより大きくかかる」と訴える中島弁護士。昨年は夏休み明けの9月16日に、全国一斉電話相談を行い、その窓口となった。

「責任感からか、ギリギリまで学校と交渉を続け、疲弊して相談に来られる保護者の方が多い」と語る中島弁護士。今年の全国一斉電話相談の実施は未定だが、無料相談日以外も相談は受け付けているので気軽に相談してほしいという。

弱者の人権を守りたい

毎年同弁護団では研究会を開催し、実際にあった案件を例に、解決法について研究を深めている。中島弁護士は「学校での問題に起因する案件は、交通事故などの一般的な案件と異なり、解決法が定型化していない」と語る。

例えば、学校内で子どもたち同士の問題が起こった場合、一番身近な教師や親が間に入り仲裁をする。しかし、教師や親は法律家のように調停のための特別な訓練を受けているわけではない。そのため適切な裁定ができないことが多々あるという。介入しても先入観から偏った判断を下してしまうなど、かえって問題が複雑化するケースも少なくない。どのように解決していくかは、常に実例を通した研さんが必要だという。

一児の父親。法律家を目指す前は教員を志していた。趣味は水泳で、マスターズ水泳大会で入賞するほどの実力。司法試験に向けて勉強をしていた時期は、水泳のインストラクターとして4年間、子どもたちを指導していた。「できなかったことができるようになっていく子どもたちの成長の過程を目の当たりにし、教えることの楽しさや、影響の大きさを実感した」と振り返り、「弱者の人権を守る役割をまっとうしたい」と語る。

さくらパートナーズ法律事務所

▼〒300-0045 土浦市文京町4番8号 コーエイビル205
電話050・1518・6658
ホームページはhttps://sites.google.com/site/sakurapartnerslawoffice/

メモ
【学校事件・事故被害者全国弁護団】1県に1事務所、1弁護士を置くことを目標としているが、関東1都6県のうち千葉、群馬県にはまだ窓口弁護士が備わっていない。同弁護団の顕著な活動例としては、昨年3月、栃木県那須町で登山講習中の生徒7人と教諭の計8人が雪崩に巻き込まれて死亡した事故で、今月、同弁護団の弁護士らが遺族支援のための弁護団を結成したことが挙げられる。同弁護団は事実関係の解明から再発防止策の検討をしているという。

有志による恒久平和への鐘響く つくば市北斗寺

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「平和の鐘一振り運動」で、鐘を鳴らす参加者=つくば市栗原

【崎山勝功】広島原爆投下から73年を迎えた6日、「鐘や太鼓など一振りの鳴り物を鳴らし、核なき世界の平和を実現させるために祈願する」として、市民有志による「平和の鐘一振り運動」が同日、つくば市栗原の北斗寺で行われた。

この運動は、長崎原爆投下の8月9日に合わせて2006年から毎年国内外で行われている。同市でも長崎出身者の「広島・長崎の被爆者を追悼したい」の願いに応えて、毎年8月6日と9日に同寺などで行われている。

同寺や参加者によると、約10年前に「9条の会つくば」の会員が「鐘を突かせてください」とお願いし、同寺が場所を提供する形で始まったという。

この日は数人の市民が、境内で広島平和式典のラジオ放送を流しながら鐘突き堂で鐘をならした。同寺の鐘突き堂は高所にあるため、参加者たちは一人ずつはしごを登って鐘の前に向かい、姿勢を低くして臨んだ。

「人間忘れやすいですから、8月6日の(広島)原爆投下のことを忘れないように、という思いで鐘を突いた」という同市在住の野崎浩司さん(73)は、17年7月に国連で核兵器禁止条約が採択されたことを挙げ「(原爆投下が)風化ではなく世界に広がっている」と語った。また戦争を美化する漫画やネット情報に感化された若年世代に対し、「自分の生活で精一杯なので、目の前の事しか見えていない。目先の事だけでなく長期的な視野で世の中を見てほしい」と話した。

「平和の鐘一振り運動」は長崎に原爆が投下された9日にも、午前10時50分から同寺で行われる。

◆記者も突いてみた。参加者から「せっかく来たのだから鐘を突いてみては」との勧めに応じ、「平和の鐘」を突いて戦争で犠牲になった方々に思いをはせた。「戦争を知らない孫世代」が社会の中核を担うようになった現在、戦争体験をどのように次の世代に継承し、平和な生活を維持していくか考えさせられる。

原爆の悲惨さ、平和の尊さ伝え つくばで朗読劇 「サラダの会」

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朗読劇を上演する「サラダの会」のメンバーたち=つくば市吾妻のアルスホール

【崎山勝功】広島原爆投下の6日を前に、つくば市周辺地域の主婦たちの朗読グループ「サラダの会」主催による、広島・長崎原爆被爆者の体験手記の朗読劇「ヒロシマ・ナガサキ2018」が5日、同市吾妻のアルスホールで開かれた。市民ら75人が朗読劇を鑑賞した。

朗読劇では、5歳のときに長崎で被爆した田栗静行さん(78)=東京都八王子市=の体験手記「あの時、一緒に死んでしまえばよかった… 5歳のナガサキ被爆体験~」や「原爆詩集 峠三吉」などの体験手記や詩集から作品を選んで、「母と子」の視点で構成して同会会員が朗読。朗読に合わせてフルートやギターの演奏が流れ、場内のスクリーンには被爆した子どもたちのスライド写真などが映し出された。

会場には田栗さんの姿があった。田栗さんは上演終了後、「原爆や戦火の中で多くの人が犠牲になった。平和が続くよう、サラダの会の皆さんのように一人ひとりができる範囲で活動してもらいたいのが願い」と訴えた。その上で「今日もたくさんの人が集まってくれた。これは平和に対する努力だと思う。来てくれて(朗読を)聞いてくれたということだけでも大きな平和活動だと思う」と話してくれた。

同会メンバーで阿見町在住の中島八重子さん(74)は、「私たちは聞きに来てくださる方も仲間だと思っています」と話した。

同会は、朗読劇で戦争を擬似体験し、戦争の悲惨さや平和の尊さを感じ取ってもらえればと活動している。1995年から毎年広島と長崎に原爆が投下された8月6日または9日につくば市内で自主上演会を開き、今年で23年目という。また、茨城県内外の小学校や高校にも赴いて朗読劇を披露している。

長崎原爆被爆者の田栗静行さん(前列左から2番目)と一緒に記念撮影する「サラダの会」のメンバーたち=同

【シルバー団地の挑戦】5 あうんの呼吸で夏祭り開催 高齢化配慮し独自の安全対策

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元大工の団地住民が造った山車がバス通りを巡行した=つくば市森の里
サークル「森の里太鼓」がまつり気分を盛り上げた=同

【橋立多美】つくば市の森の里団地で4日、団地最大のイベント「夏まつり」が催され、住民800人が山車巡行や盆踊りなどを楽しんだ。自治会の負担が大きく高齢化のため4月時点では開催が未定だったが、役員から中止しようという声は出ず例年通り開催。高齢化を考慮し独自の安全管理計画を策定して準備にあたった。今年はとりわけ猛暑だったが、長年培った仲間意識やあうんの呼吸で乗り切った。

森の里団地は1979年に入居が開始された1300戸の住宅団地で、高齢化率は2017年5月現在で49%。つくば市全体の19%を大きく上回っている。

自治会は会員相互の親睦を目的に、引き継がれてきた夏まつりや餅つき大会、文化祭などの行事を毎年行ってきた。中でも役員の負担が大きいのが夏まつり。とりわけ今夏は命に関わるほどの猛暑の中で準備を行った。

75歳以上は高所に従事させない

6月初めに夏まつり実行委員会が始動した。総務、会計、広報、食品調達、イベント推進、模擬店管理など11の部門に分かれて準備が始まった。団地脇を流れる東谷田川の河川敷きで花火を打ち上げるため、県竜ケ崎工事事務所への申請や団地内に乗り入れているバス路線の路線変更要請、模擬店のための保健所申請、チラシやポスター作製などだ。

各種許可申請の手続きを終えた7月22日、自治会公会堂で実行委の全体会議が行われた。まつり会場の設営など、本格的な準備作業を確認し合うための最終会議で40人が集まった。会議の終盤、倉本茂樹会長(76)が高齢化を考慮した独自の「安全管理計画書」を示して、舞台や看板などの組立解体作業への注意を促した。

同書に「原則として75歳以上には高所作業は従事させない」とあるのに気づいた70代後半の男性が「俺は(作業)できないなぁ」とジョークを飛ばした。すかさず「これからは80歳以上だよ」の声が上がって笑いが広がった。

作業前に血圧測定など徹底

この会議を境に準備作業は本格化、まつり前日まで続いた。高温注意情報が出され、熱中症に対する備えが必要になったことから、作業参加者記名表を作成して作業前に血圧と緊急連絡先を記載することを徹底した。

修理が特技で音響機器の設置や電気の配線を一手に引き受けている遠藤邦明さん(84)は「子どもたちの夏の思い出作りの大義のもと、まつりの準備で顔を会わせる仲間との一体感がいい」。

みこしの組み立てや掲示物の設置を担当した副会長の渡部友吉さん(67)は「実行委には、これまでまつり運営に関わった住民が自主的に参加してくれ、あうんの呼吸で事が運ぶ。森の里独自の仲間意識がある」と話す。

会場設営は長年ゼネコンに勤めていた工藤哲也さん(72)に負うところが大きい。屋根付きで高さ1㍍だった舞台を、3年前に屋根を外して高さ70㌢にした。また今年から団地入り口に掲げていた照明付き看板の設置を止めた。「高齢化して作業は困難になる。年々改良を加えて縮小していくことになるだろう」と工藤さんは話してくれた。

今後の在り方検討へ

4月の総会で倉本会長は、住民の意向を考慮することを前提に「負担の大きい夏まつりは中止も考えている」と述べた。森の里団地と同時期に入居が始まり、高齢化が進む近隣団地が夏まつりを中止または縮小していること。また、経費が会費収入の約3割を使うことから中止を求める意見があるという。

今年の役員会で実施反対意見が出ることはなく、従来通りに最大イベントを盛り上げようと一致した。倉本さんは「高齢化が加速していく中で、6月に発足した当自治会の高齢化検討委員会の検討課題になるだろう」と話した。

日中を避け、朝8時から始まった舞台資材の運びだしと組立作業=同

光と音で土浦の花火を投影 キララまつり

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花火が映し出されたプロジェクションマッピング=JR土浦駅前のアルカス土浦

【谷島英里子】「土浦キララまつり2018」が開かれたJR土浦駅前のアルカス土浦で4日夜、花火をモチーフにしたプロジェクションマッピングが初めて行われた。同市のイメージキャラクター「つちまる」が自転車に乗って市内を散策する様子や、花火が次々と打ち上がる映像が投影され、訪れた人たちは次々と変化する映像を楽しんだ。

キララまつりの熱気が残る中、プロジェクションマッピングを見ようと、アルカス土浦前の広場やペデストリアンデッキには、家族連れや浴衣姿の中高生などが集まった。

映像は、アルカス土浦の外階段(ステップガーデン)と図書館3階空中ラウンジのガラス部分に6分間投影された。

自転車に乗ったつちまるが土浦駅前を出発し、中心市街地の観光施設、まちかど蔵「大徳」や桜が満開の桜川の土手、亀城公園、帆引き船などを紹介していった。さらに日本三大花火といわれる秋田県大曲、新潟県長岡と、土浦の花火が次々に打ち上がった。

つちまるの映像が現われると、見ていた子ども達から「あ、つちまるだ」という声が上がった。

市内に住む20代男性は「花火の映像が色鮮やかできれいだった」と感想を話していた。

土浦キララまつり2日目の5日は同会場で午後7時30分、8時、8時30分、9時の計4回投影を行う。

家庭訪問せず転居2年間把握できず つくば市生活保護ケースワーカー

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つくば市役所

【鈴木宏子】つくば市は3日、生活保護ケースワーカーの市社会福祉課職員が2016年度から17年度にかけて、生活保護を受給していた男性について、実際には男性宅を家庭訪問していないのに、訪問したと報告書に不適切な記載をしていたと発表した。男性は2年前の16年4月にアパートを転居していたが、市は把握できていなかった。

今年4月、ケースワーカーの担当者が代わり、男性宅を訪問したところ、別人が住んでいて転居が判明した。その間、市は男性に生活保護費の支給を続けていた。男性の住民票はつくば市にあるが、現在、男性とは連絡がとれず転居先は不明という。市は不正受給に当たるかどうか調査している。

ケースワーカーは定期的に受給者宅を家庭訪問し、生活状況を把握することが義務になっている。一方受給者も転居や就労など生活状況に変更があったときは市に報告する義務がある。家庭訪問の回数は、月1回から年数回など人によってさまざまという。

17年度まで男性を担当していたケースワーカーは、担当期間中、何度か男性宅を実際に訪問したが不在だったという。この間、男性から電話や来庁があり生活状況を聞き取ったのを、「来庁」や「電話対応」と記載するのではなく、「家庭訪問」と報告していた。男性は病気を抱えていたことから転居を想定しておらず、見抜けなかったという。

さらに、市がほかのケースワーカーの報告書を調査したところ、5人が7件について、実際は家庭訪問をしていないのに、訪問したと不適切な記録をしていたことが新たに分かった。受給者宅を訪門した際、子どもが留守番をしていて、翌日、世帯主が来庁したり、訪問時は留守だったが、数日後に本人が来庁したなどのケースがあったという。

不適切記載が発覚したのを受けて市は、再発防止策としてケースワーカーに研修を実施するほか、実際に家庭訪問を行ったことを確認するため公用車の走行距離を報告書に記載するよう改めるとしている。

今年3月現在の同市の生活保護受給者は889世帯1073人。市のケースワーカーは11人。17年度の生活保護費は19億9400万円。

五十嵐立青市長は「この度の行為は信頼を損なう行為であり、市民の皆様にお詫び申し上げます。引き続き十分な調査をし実態をきちんと解明していきます」とするコメントを発表した。