木曜日, 5月 2, 2024
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《雑記録》5 「国破山河在‥‥山河破国在」

【コラム・瀧田薫】天の底が抜けたのか、この秋、雨が降り続け、堤防の決壊や土砂崩れなど、温暖化による環境破壊のスピードはわれわれの予測をはるかに超えている。 古来、政治の要諦(ようたい)は「治山・治水」にあった。いつの時代も、国家であれ企業であれ、組織体というものは、環境変化に負けない「持続可能性」の獲得を第一義とし、それぞれの時代の制約に縛られながら、効率的な資本や資源の配分を追求し続けてきたのである。現代の国家・政府が、圧倒的な科学・技術力を擁しながら、山川の管理に失敗しているのであれば、その原因・理由が厳しく問われなければなるまい。 政府は東日本大震災を契機に、2013年、「国土強靱(きょうじん)化基本法」を制定した。この基本法では、「大規模自然災害等から国民の生命、身体及び財産を保護し、国民生活および国民経済を守る」ことを国の基本的な責務としている。 しかし、国は法律上の主体ではあるが、大規模災害などに対する脆弱(ぜいじゃく)性を評価し、優先順位を定め、事前に的確な施策を実施するなど、実際上の役割を担うのはむしろ自治体である。国はこの法のための財源を確保する一方、各自治体に対して、それぞれに「国土強靱化地域計画」を策定するよう指示し、その実施を義務づけている。ただし、言うまでもないが、この「地域計画」の中身を審査し具体的な予算をつける権限については、国がしっかりと握っている。 米国のFEMAのような組織が必要 以上を踏まえた上で、この法律が有効に機能しているかどうか確認しておこう。内閣官房の資料によれば、「地域計画」を実際に策定した自治体は、全国でわずかに162自治体(2019年現在)にとどまる。ちなみに、茨城県内自治体の策定状況を見ると、県当局は策定しているが、市町村で策定しているのは古河市だけである。 ただ、自治体の怠慢を責めるのは酷かも知れない。同じく官房の資料を読めば、自治体の消極的姿勢、その理由が分かる。「国土強靱化地域計画」に対する2019年度予算(交付金・補助金)の総額は1兆6,876億円であるが、これが9府省庁それぞれの所管による合計34種の交付金・補助金に細かく分けられており、国が自治体向けに開設した相談窓口(事実上の審査窓口)もこれと同じ数だけある。 つまり、これは自治体に膨大な事務作業を強いる非効率極まるシステムなのである。繰り返すが、組織が環境変化に対応して「持続可能性」を獲得するには、効率的な資本や資源の配分が何よりも優先されねばならない。この国において、米国のFEMA(Federal Emergency Management Agency 連邦緊急事態管理庁)のような、大規模災害時の支援活動を統轄する効率的な組織をなぜ作れないのか。 国が守るべきは、所轄官庁の権益ではなく、国民であり国土である。ともあれ、国に比べれば、自治体の防災行政の方に改善の可能性がありそうだ。ふるさと納税にワンストップ特例制度(確定申告なしで寄附金控除が受けられる便利な仕組み)を導入した自治体である。行政改革の能力はすでに実証されている。(茨城キリスト教大学名誉教授) ➡瀧田薫さんの過去のコラムはこちら

【台風19号】避難勧告で防災への関心高まる つくば市森の里団地

【橋立多美】大型で非常に強い台風19号の到来で避難勧告を受け、つくば市茎崎地区の住宅団地、森の里は防災への関心が高まった。19号に続いてやってきた21号の影響による大雨から一夜明けた26日、森の里公会堂で開催された消防訓練には通常の倍の住民約70人が参加した。 避難所では詳しい情報がつかめない 同団地は1970年代に計画的に整備された住宅街(面積33ヘクタール、約1300世帯)で東は小茎、西は牛久沼に注ぐ谷田川を挟んで茎崎、南は牛久沼を挟んで下岩崎、北は六斗と接している。 入居から40年。2011年の東日本大震災で地盤に液状化現象が発生したり、15年6月、1時間に81ミリの猛烈な雨が降って一部の住居が床下浸水の被害に遭ったが、団地住民は「避難」とは無縁の生活を送ってきた。それだけに避難勧告は予想外の出来事だったのではないか。地域住民の安全な暮らしが双肩にかかる森の里自治会長の倉本茂樹さんに話を聞いた。 同団地で問題となるのが東側の小茎地区との境の里山だ。高さ10メートルほどの緩やかな斜面で、同市作製のハザードマップ(被害予測地図)で土砂災害警戒区域に指定されている。 気象庁の「記録的な大雨になる」という発表を受けて11日夕方、市の危機管理課から里山に最も近い16軒の住民を対象に自主避難所=※メモ=を茎崎交流センターに設けるという連絡があった。倉本さんをはじめとする自治会役員が手分けして1軒ずつ連絡して回った。 翌12日午前9時、自主避難所だった茎崎交流センターは指定避難所となり、ペット同伴可能な避難所が茎崎中学校柔剣道場に開設された。午後2時3分に避難勧告が発令されると茎崎地区の土砂災害警戒区域の住民たちが避難し、森の里住民を含めて計154人が身を寄せた。 午後10時、暴風雨を押して避難所を見舞った倉本さんは「団地住民3人に会った。冷え込みが厳しくなかったのは幸いだった。避難所で最も知りたいのは台風の動きだがホールに行かないとテレビはなく、けたたましいスマホの緊急速報は短文で詳しい情報はつかめないと思った」と話した。 一方、自治会の事務局でもある公会堂には副会長ら5人が万一に備えて待機した。雨風が小康状態になるまで何度も電話が鳴った。防災・防犯部を兼務する副会長の松村健一さんによると「不安で心細い」という住民からの電話や、老親と離れて暮らす人が団地の状況を問い合わせる内容だったという。 森の里は水田を埋め立てた平坦な土地で、雨水は谷田川に直接ポンプで排水している。団地内に10カ所の排水施設があり、1カ所を除いて停電でも稼働する。台風19号と、21号の影響で激しい雨がまとまって降った25日も住宅が水につかる被害はなかった。 避難への質問相次ぐ 大雨が過ぎ去った翌26日午後1時30分からの消防訓練は、市南消防署茎崎分署の職員による「水害」に重点を置いた講話が行われ、集まった住民70人が熱心に聞き入った。その後「避難の判断はどう考えればいいか」「水害時の避難に車を利用するのは危険か」など、迅速な避難や対処について活発な質問が相次いだという。 防災・防犯部を代表して訓練の進行役を務めた松村さんは「昨今は想定外の災害が発生する。台風で不安な夜を過ごした人が多かったが、結果的に防災への意識が高まった」と振り返る。 倉本会長は「これまで重要視されなかったハザードマップに関心を寄せる住民が多くなり、『なくしたので欲しい』という声がある。市から入手して公会堂に置くようにしたい」と話す一方、茎崎地区の区長たちと情報交換して地区全体で災害に備えたいと話してくれた。 ※自主避難所 避難勧告を発令する際に開設する指定避難所とは異なり、自主避難を希望する人が親戚宅や知人宅などの安全な避難先を確保できない場合に利用できる「一時的な避難所」。 ➡台風19号の過去記事はこちら

地震の専門家に聞くリスクへの備え つくばで公開セミナー

【相澤冬樹】つくば市マンション連絡会(後藤哲郎会長)は14日、つくば市役所で同市との共催による公開セミナー「地震はどこでも起きる」を開いた。つくばで地震研究に携わる2人の専門家を招き、話を聞いたもの。マンション居住者に限らず市民一般との情報共有を目的にしており、地震のメカニズム解説が中心の講義となった。 講師は筑波大学生命環境系、八木勇治教授、建築研究所国際地震工学センター、横井俊明センター長の2人。1995年の阪神淡路大震災と2011年の東日本大震災をそれぞれ体験した同市在住の市民2人も参加し体験談を語った。 八木教授は、地殻の硬い岩盤が沈み込む際に破砕されて起こるプレート地震と横ずれなど3パターンある断層型地震に分けて、それぞれを解説。活断層が引き起こす直下型地震と首都圏で想定される南関東直下地震とは混同されがちだが、後者は沈み込むプレートのなかで起こる地震で、マグニチュード7レベルの地震が歴史的に繰り返されてきた。県内を震源とするものでは1895年の茨城県南部地震(M7.2)、1921年の龍ケ崎地震(M7.0)が該当するが、つくばもこの直下地震域に含まれるかは「両論あって分からない」という。 いずれにしても、統計的にリスクを割り出すのは地震の場合、極めて困難になっている。継続を大切にする行政に対し、研究者は豹変を恐れない姿勢が大事で、両者の緊張関係を保っていかなければならないとした。 一方、横井センター長は「確率が低いということは地震が起こらないということではない。しばらく起こらないということでもない」としたうえで、自然災害に対してはレジスタンス(抵抗・耐性)からレジリエンス(復元力・回復力)を重視する考え方に改めなければならないと訴えた。 同連絡会はつくばエクスプレス(TX)の開通以降、マンション建設が相次ぐつくば市にあって、マンションの管理組合や居住者相互の交流、情報交換、情報共有を目的に2015年に設立。現在同市内には約70棟の分譲マンションがあると見られるが、うち15棟がメンバーになり、各種研究会や情報交換を行っている。

【葬送】1 墓の管理どうしますか 多様化する墓のかたち

【橋立多美】多死社会を迎えた一方で核家族化が進み、「葬送」を取り巻く状況が大きく変わってきた。墓の維持が困難になったとする「墓じまい」や、家族などの近親者だけで行う「家族葬」、宗教儀礼を行わない火葬のみの「直葬」などだ。まちの声や関係者に聞いた昨今の葬送事情を3回に分けて報告する。まずは墓に関する状況からーー。 我が国の年間死亡数は2015年に130万人となった(厚生労働省)。内閣府は40年に168万人を突破するとみている。墓のニーズが高まる一方で、子どものいない夫婦、離婚経験者、生涯未婚が珍しくない昨今、墓で頭を悩ます人は少なくない。 つくば市漆所在住の60代女性は結婚したことはない。早くに父と離婚した母親と独り身の弟と3人で暮らしてきた。3年前、地域が管理する共同墓地を買っていた母が亡くなった。 この先、子どものいない姉弟で墓を守っていくことは難しいと共同墓地を解約し、火葬した母の遺骨を手元に置いた。同市神郡、つくば道に面した普門寺が宗教・宗派を問わない永代供養墓=メモ=を建立すると人づてに聞いたからだ。今春、永代供養墓が完成して納骨を済ませた。 普門寺は約500軒の檀家(だんか)をもつ古刹(こさつ)。檀家から「高齢になり子どもは離れて住んでいるため、お墓を維持するのが難しくなった」と永代供養墓を望む声が聞かれるようになったのが始まり。遮那誠一住職は「寺も時代のニーズに応えていかなければ」と話す。 ◇弔いのかたちは保たれている 06年、同市新井のサイエンス大通り(県道19号)沿いに墓石展示場「石工房 和」を開設した塚越石材工業社長の塚越和之さん(51)によると、3年前から墓じまいの依頼が舞い込むようになったという。「3年前まではゼロに近かった」と話す。 墓じまいは、先祖代々受け継がれてきた墓を撤去し、家族や親族がお参りしやすい墓地などに移転することで「改葬」ともいう。さまざまな手続きや作業が必要で、墓石の解体や撤去は石材店が請け負うケースが多い。 遺骨の引っ越し先は、寺院や霊園への墓建立、永代供養墓、納骨堂、樹木葬、散骨などがある。費用は移転先によって異なるが、墓じまいの時には閉眼供養(魂抜き)や墓所を更地にする代金のほか、墓を管理してきた寺から離檀料を請求されることもある。 同展示場は、圏央道のつくば中央インター近くにあることから他県の客が立ち寄る。県内の寺に改葬を希望する客の相談に応え、寺との橋渡しや撤去作業に他県まで足を運ぶことがあるそうだ。 塚越さんは「いまに限らず墓守りをどうしようと迷う人は多かったと思う。だが、墓は守っていくもので墓じまいはやっちゃいけないものだと思い込んでいた。テレビや新聞の影響で『やってもいいんだ』という風潮が広がった」と見る。 同社が受注する墓建立は月平均3件。その一方で、墓を維持するための修理やリフォームは月に4、5件あるという。「墓じまいが行われたのは墓地の一部で、従来のお墓を守るという弔いのかたちは保たれていると思う」と話した。 最近増えているのが2つの家の墓を1つの墓に合祀(ごうし)する「両家墓」で、受注した中の約2割が両家墓だという。一人娘が他家に嫁いでしまった場合など、将来的に墓を維持できない時に利用される墓の形態だ。また、東日本大震災で伝統的な和型の墓石の多くが倒壊したことから、震災後は背の低い洋風スタイルの墓が人気を集めているそうだ。 ※メモ「永代供養墓」 家族や子孫が墓を継承して遺骨の管理や供養を行う家墓に対し、永代供養墓は霊園や寺院が管理と供養を行う。墓の継承者がいない人だけでなく、子どもに墓守りの負担をかけたくないという人にも広がっている。寺院や霊園によって異なるが、一定期間を過ぎると合葬される。

《くずかごの唄》47 結核療養所「土筆ヶ岡養生園」

【コラム・奥井登美子】紙幣に印刷される顔に、樋口一葉が登場した時、これ以上の貧乏はないような生活をした一葉が皮肉にも、日本中の紙幣に顔が貼り付けられるなんて、本人は夢にも思わなかったに違いない。野口英世も日本ではひどい貧乏暮らし。それなのにお金の顔になってしまった。 薬局で1日何回かレジをたたいて、お札をひっぱり出し、樋口一葉の顔を拝むたびに、なぜか「ごめんネ」と言いたくなってしまう。これは歴史の中の皮肉なのだろうか。 令和元年のお札の顔に、北里柴三郎が登場するらしい。明治25年(1892)、北里柴三郎は7年のドイツ留学から帰ってきて、福沢諭吉が個人的に建てた「伝染病研究所」の所長になる。明治26年、北里柴三郎は福沢諭吉の援助で、「土筆ヶ岡(つくしがおか)養生園」という名の日本で初めての結核療養所を芝の白金三光町につくる。 福沢諭吉も7歳で天然痘、22歳で腸チフスに罹(かか)り、腸チフスでは重症だったらしいが、一命を取り止めたという。そのような体験を通して、慶応義塾を創立して日本を近代化に導いた以上に、医学分野への貢献も積極的に行われ、明治時代の日本に新しい施設をつくった。 明治の薬剤師 平沢有一郎の手紙 明治25年、薬剤師は、それまでは県の認可制度だったのが国家試験になり、茨城県では初めて平沢有一郎が合格し、県で初の国家試験合格者となる。彼は北里柴三郎を尊敬し、土筆ヶ岡養生園に就職したらしい。震災時、わが家の倉が破損して整理をした時、土筆ヶ岡養生園便箋の平沢有一郎の手紙が何通か出てきた。 その手紙を読むと、当時の一般市民のコレラなど伝染病に対する考え方、病原菌とか滅菌などという言葉さえもなくて、ただ消毒、毒を消すと言って、町役場の人や巡査が石灰をばらまく。わけのわからない伝染病で、次々に人々が死んでいく。その中での混乱した市民の姿が浮かびあがってくる。 北里柴三郎先生から直接教育された当時の細菌学と、市民との反応の解離(かいり)に翻弄(ほんろう)された明治人の姿が見えてくる。(薬剤師、随筆家) ➡奥井登美子さんの過去のコラムはこちら

「福島原発事故を忘れないでほしい」 土浦市民ギャラリーで写真展始まる

【伊藤悦子】フォトジャーナリスト豊田直巳(とよだ・なおみ)さん(63)の写真展「叫びと囁(ささや)き フクシマ~尊厳の記録と記憶」が11日から、土浦市民ギャラリー(同市大和町、アルカス土浦1階)で始まった。 豊田さんは、2011年3月11日の東日本大震災の翌日から福島県に入り、8年経った現在も福島の写真を撮り続ける。福島の子供たちの保養キャンプを実施している市民グループ「福島応援プロジェクト茨城」が主催した。 豊田さんは、8年前の3月13日朝、福島第1原発から4キロの双葉町に入った。「住民たちは何が起こったのかわからず、戦場に置いていかれてしまった人たちのようだった」と振り返る。 今もなお、ふるさと福島に戻ることができず、全国各地にばらばらに暮らす避難者がいる一方で、「人々の記憶から福島原発事故が消えつつあり、特に福島原発事故のことがわからない子どもが増えていることを危惧している」と語る。 写真展では、双葉町、大熊町、浪江町など、福島第1原発事故により避難を余儀なくされた人々の写真計50点を展示している。震災から8年経っても毎年、甲状腺検査が欠かせない少女、飯館村で10年ぶりに行われた祭りで笑顔で神輿を担ぐ人々とその向こうに並ぶ汚染土が入ったフレコンバッグ、放射能に汚染されたふるさとの農地を手放し避難先で土地を耕し種をまく老夫婦など。 「写真に放射能そのものは写らないが、写真から放射能を感じて欲しい。目には見えない被害があるということを知って欲しい」と豊田さんは話す。 会場を訪れた常陸太田市に住む80歳の男性は「たくさんの住民に写真を見てほしいと思った。福島の事故を忘れないでほしい」と語った。 ◆写真展は14日(土)まで。入場無料。開館時間は午前10時から午後6時(最終日午後4時まで)。14日午後2~4時は、豊田さんのギャラリートークライブがある。問い合わせは長田さん(090-7845-6599)

《光の図書館だより》22 「100万人達成」という通過点

【コラム・入沢弘子】土浦市立図書館は、8月23日(金)に100万人目の来館者をお迎えしました。100万人目は市内の小学4年生の佐久本蓮くん。中川清市長から、土浦ブランド認定品「飯村牛」のローストビーフと、市のイメージキャラクター「つちまる」のぬいぐるみを記念品として贈呈。拍手が沸(わ)き起こり、「おめでとう!」と声が掛かりました。 蓮くんは本が大好きで、学校図書館だけではなく当館にもよく訪れ、たくさん本を借りているそうです。「この図書館のどこが好き?」と聞くと、「(冒険ファンタジーの)マジック・ツリーハウスがある場所」と答えてくれました。一緒に来ていたお母さんは「前の図書館から利用していましたが、新しい図書館はゆっくり座れて、飲食ができる場所があるのも気に入っています」とのこと。 「すごいよね」「うれしくなっちゃってさ」 当館の移転開館は、市の総合計画の中心市街地の整備事業「土浦駅北地区の図書館を核とした再開発事業」に位置付けられていました。リーマン・ショックや東日本大震災で2度の計画変更を余儀なくされ、長い年月をかけて実現しました。 2017年11月末の開館日、何時間も並んで入館した皆さんが口々に、「おめでとう、本当によかったねぇ」「やっと出来たね、待ってたよ」と声を掛けてくれました。100万人達成後も、館内を歩く私に「100万人だって? すごいよね」「いやぁ、うれしくなっちゃってさ」と、我がことのように喜んでくださいます。 図書館があることで、多くの方が駅前に足を運び、周辺の経済活動が盛んになること、図書館に来ることでうれしく感じたり、元気になることも、当館に与えられた使命だと思います。 100万人達成は通過点。さらに市民に愛され、誇りに感じていただける図書館へ―これからもチャレンジは続きます。(土浦市立図書館長・市民ギャラリー副館長・市広報マネージャー) ➡入沢弘子さんの過去のコラムはこちら

沖縄の現在と戦後を伝える 島唄と美術がつくばでコラボ

【橋立多美】沖縄八重山民謡の第一人者と呼ばれる力強い歌声と、沖縄生まれの写真家と美術家が戦後から今のオキナワを伝える「南風の伝言2019」が、9月につくばで開かれる。島唄コンサートが14日つくばカピオホールで、写真と絵画の二人展が3日から16日まで県つくば美術館で開催される。芸術文化の振興を図り、特定非営利団体(NP)設立を目指している芸術文化振興NPO準備委員会が立ち上げた実行委員会(野口修代表)が主催する。 八重山のリズムで歌う島唄 「沖縄・島唄コンサート」に出演するのは、石垣島生まれの大工哲弘さん。八重山民謡の大家、山里勇吉に師事し、島唄や日本の唱歌を八重山のリズムで歌う。1994年にリリースした「沖縄を返せ」がヒットして注目された。八重山民謡を基本に世界の様々な音楽要素を取り入れて奥行きのある音楽世界を作り出し、海外公演歴も数多い。 大工さんは「終戦後、米軍占領下におかれた民衆が苦しみを吹き飛ばすために作った島唄は、民衆の汗と血の中から湧き出して今も歌い継がれている」と語っている。 写真と絵画が映し出すオキナワ 「鎮魂と不屈の沖縄」と題する二人展は、大戦後に糸満市で生まれた写真家、大城弘明さんとコザ市(現沖縄市)生まれの美術家、与那覇大智さんの計60点を展示する。 大城さんは戦争の爪痕を生活の中に見て育ち、少年の日の記憶をたどりながら沖縄の現状を撮り続けている。写真集「地図にない村」(2010年未来社)などを発表している。 与那覇さんは沖縄が「日本化」する時代に育ち、沖縄県立芸術大卒業後、筑波大大学院を修了してつくば市に在住している。沖縄の歴史に向き合うことがなかったが、東日本大震災の原発事故で変わった。国や東電に対するやり場のない憤りが、戦後の沖縄につながったという。以来、不条理な連鎖が続く沖縄へのメッセージをアートの領域から発信している。 会期中の9月8日午後1時30分から3時まで、大城さんと与那覇さんのアーティストトーク「写真と絵画が映し出すオキナワ」が展示会場で繰り広げられる。 【沖縄・島唄コンサート】 ▽日時 9月14日(土)午後6時30分開場、7時開演 ▽入場料 一般前売り4000円、当日4300円。学生・障害者は3000円(全席自由) ▽会場 つくばカピオホール(つくば市竹園1-10-1) ▽会場ロビーで飲み物や軽食などを販売する予定 ▽チケットのweb予約 https://artsnpo.wixsite.com/home ▽予約と問い合わせ 実行委の野口さん(090-8580-1288) 【二人展「鎮魂と不屈の沖縄」】 ▽会期 9月3日(火)~16日(月・祝日) ▽入場無料 ▽会場 県つくば美術館(つくば市吾妻2-8) ▽開館時間 午前9時30分~午後5時(最終日は午後3時まで、9日は休館) 「南風の伝言2019」の詳細は実行委員会ホームページで。企画のNPO準備委員会では、クラウドファンディングで会場費や運送費などの資金を募っている。申し込みはホームページで。

原木シイタケは里山保全のカギ握る つくばで初のサミット

【相澤冬樹】全国・原木しいたけサミットが29日、つくば市内のホテルで始まった。全国で原木シイタケの生産に関わる農業者や関係者が、同サミット実行委員会(飯泉孝司会長)を組織して開く初めての会合。20道県の生産者はじめ、流通関係者ら約220人が集まって、原木シイタケの置かれた現状と未来図について議論した。 全国から生産者ら200人以上参集 コナラやクヌギをホダ木に菌を植えて栽培する原木シイタケ。オガクズなどを培地にハウス栽培する菌床シイタケと区別する。会合冒頭の「サミット宣言」で表明されたように、近年は生産者の減少や消費の低迷などにより、生産量は減少が続いているという。加えて2011年の原発事故以降、東日本の被災地では依然出荷制限・自粛の規制が解けず、風評被害にも苦しんでいる。 それは、一産業の消長のみならず、里山保全、ひいては循環型社会の構築にも影響を及ぼすとの危機感から、実行委員会は行政・消費者にも連携を呼びかけ、2日間の日程で開催した。当初150人規模の想定だったが、200人を超す参加者が集まった。 会場のホテルグランド東雲(つくば市小野崎)には大井川和彦県知事、五十嵐立青つくば市長はじめ衆参議員らが来賓に駆けつけ、原発事故の影響に苦しむ産地の窮状に理解を示した。そのうえで、産業基盤整備や後継者育成、輸出拡大に向けた取り組みに支援を惜しまないとあいさつした。 サミットでは基調講演、パネルディスカッション、分科会で議論した。パネル討議で、大会会長を務めた飯泉孝司東日本原木しいたけ協会代表理事は、つくば市周辺の5人の生産者は震災前、福島県下に合わせて1200ヘクタールの山林を手当し、20年かけて順繰りにホダ木を伐り出す計画でいたが、原発事故で産地を他県に求めざるを得なくなった事例を紹介した。これは山林資源の管理も放置するという意味で、森林の荒廃に直結する。「原木シイタケは里山管理のカギだった」という立場だ。 大分県から参加の阿部良秀日本椎茸農協会長理事も、国東半島宇佐地域の「世界農業遺産」認定に、干しシイタケ産業が果たした役割が大きかったと述べた。消費者はシイタケの購入を通じ地域の持続可能性に寄与してきた。今後の振興は「出口戦略に尽きる」として、食品機能性を絞りこんで健康志向に応えることなどが海外展開を図っていくうえでも大切とした。 「サミット宣言」は、若手・後継者団体の「森のゆかり」長浜隆行代表が読みあげた。「生産者及び関係者は、伝統ある原木シイタケ栽培の技術を受け継ぎ、時代の変化に対応した先進的な経営を取り入れ、日本の豊かな森林資源の有効活用と環境の保全を図り、中山間地の林業者、流通業者、消費者の皆様方すべてに資するように、原木シイタケの発展をめざす」とアピールした。 サミットは2日目の30日、同市中野のなかのきのこ園に会場を移し、原木シイタケ栽培の現地を視察、植菌ロボットの展示、創作シイタケ料理の昼食会などを行い散会する。

《邑から日本を見る》45 生きるための図書館

【コラム・先﨑千尋】皆さんにとって図書館ってなんだろうか。毎日のように通う人もいれば、縁が遠い人もいるだろう。私が住む那珂市の図書館は、暑いせいもあろうが、連日、車が駐められないほどの盛況(?)ぶりだ。 私は、以前は、本は買って読むものだと考えていたので、あまり図書館を利用することがなかった。しかし最近は、週に2~3回は利用している。よく行くのは、那珂市立、県立、茨城大学の図書館だ。蔵書が増え、置くスペースがないこと、一度しか読まない本は借りて読めばいいと考えるようになったからだ。さらに、図書館のレファレンスが充実してきて、わからないことを聞いたり、資料を取り寄せたりができるようになってきたこともある。 そんな私にピッタリの本を、著者でつくば市在住の竹内悊(さとる)さんが贈ってくれた。あえて竹内さんと呼ばせてもらうが、私が町長のとき、瓜連(うりずら)小学校を木造で建て替えるに当たって、どのような学校図書館にしたらいいかを相談した。竹内さんは私より15歳上で、2004年までつくば市にあった図書館情報大学の副学長を務めた方だ。それ以来、困っていることがあると手紙を書き、適切なアドバイスをいただいている。 竹内さんは、60年以上図書館と関わってきたなかで、「図書館とは人が生きる上で一体なんなのだろうか」と考え続けてきた。そして「本というものは、人の感覚と思考と行動の記録なので、人が生きていく上に大きな働きを持つものである。その多彩な本と、人の多様な要求を適切に繋ぐために、図書館がある」というのがその答えとなった。 『生きるための図書館-一人ひとりのために』(岩波新書)はそのことを踏まえ、地域の図書館の事例や、子どもたちに本を届けようとしてきた石井桃子さんらの活動、公立図書館が直面していること、図書館が東日本大震災に遭ったときどうしたか、小中高、大学での図書館の試み、地域でどのような図書館をつくっていくかなど、本と図書館に関心がある人に多くの示唆を与えてくれる。 図書館は「めがね」「ひきだし」「コンパス」 ここでは本書のあらましを紹介できないので、私の印象に残った言葉をいくつか。 ▽ 読書は個人の考えを育て、(授業での)社会科は世の中の仕組みについて知る。さらに、自分を作りながら、人と共に生きる。 ▽ 読書とは、それをしたからこれだけの効果があったとはいえない内面的なもので、数量化はできない。行政がかかわることとは、子どもたちが本を自由に手にする環境を作り、そこで子どもと本とを結びつける人を育てることに力を尽すことだ。 ▽ 図書館法は、利用者が自由に書架の前に行き、内容を確かめてから読んだり借り出したりできる公開書架制に変えた。 ▽ 公共図書館の資料費が削減され、司書の配置転換によるサービス水準が低下してきている。 ▽ 生徒は学校図書館で「めがね」と「ひきだし」と「コンパス」という道具を手にする。 本書を、本が大好きなあなた、図書館で仕事をしている人、さらに図書館行政に関わっている首長、議員、教育委員会の人たちにささげたい。(元瓜連町長) ➡先崎千尋さんの過去のコラムはこちら

文化と観光で平和の種まきを 20日、つくばでスリランカを紹介

https://youtu.be/NJ7vqjWfk7A 【谷島英里子】つくば市吾妻のBiViつくば2階交流サロンで20日、外国人が自国の文化や歴史を紹介する「世界お茶のみ話」が開かれる。土浦市のインターネットテレビ、Vチャンネルいばらきの「NEWSつくばチャンネル」は19日、第32回の講師を務める、スリランカ出身のニルマール・ペレラさん(41)をゲストに招いてインタビューした。 「世界お茶のみ話」はつくば市国際交流協会主催。毎月第3土曜日に各国の講師が自国を紹介しながら、自国のお茶を振る舞うのが特徴で、参加者全員で語り合う。今回は紅茶の国スリランカのミルクティーが登場する。 ペレラさんは、宝石の町として名高い町ラトナプラで生まれた。子どものころからスリランカを走る日本車やテレビドラマを目にしていて、叔父が日本の大学で教授になったことから、日本にあこがれがあった。2005年に来日し、東京都内の日本語学校を経て、龍ケ崎市にある流通経済大学国際観光学科を卒業。その後、旅行業を手がけるセイロン興業を立ち上げた。現在はつくば市に妻と子ども2人の4人で暮らしている。ボランティア活動にも積極的で、東日本大震災の際にはスリランカ大使館の職員とともに、仙台などに行き3日間、がれきの掃除や炊き出しを行ったという。 旅行業も順調だったとき、痛ましいニュースが入ってきた。4月にスリランカで発生した連続爆弾テロ。258人が犠牲となった。ペレラさんは、「スリランカは30年間ほど内戦状態にあったが、それ以来10年は平和が続いていた。内戦やテロのことを忘れかけていた。世界中から観光客が訪れ、観光ランキングも上位だった。本当に大変なこと」。今回、日本人や他国の人にスリランカの話をたくさんしたい。「『文化と観光で平和の種まき』という気持ちで仕事をしているので、世界お茶のみ話がそれのきっかけになれば」と話している。 会場では妻のナディーシャさんによるスリランカ舞踊も披露もある。時間は午後3時45分~午後5時15分。参加無料。

全面建て替え工事完了 ジョイフルアスレティッククラブ土浦 15日オープン

【山崎実】全面建て替え工事が完了した「ジョイフルアスレティッククラブ土浦」(土浦市中村南)が15日、オープンする。 土浦店はつくば科学万博が開催された1985年にオープンした。以来、スポーツコミュニケーションの場として親しまれてきたが、35年の節目を迎え、老朽化が進んだこともあり、全面的に建て替えた。新施設の延床面積は約7400平方メートルで県内最大級。 新施設の主な特徴は、スポーツクラブでは類をみない540平方メートルのアリーナを新設した。プールは子ども用(25メートル、8コース)、大人用(同、6コース)のほか、水中歩行専用のコースを整備。男女とも約30基のシャワー、3種類の浴槽(女性は4種類)を用意した。施設全体を周回できる1周230メートルの室内ウオーキングコースも新設した。 また県内では初出店となる、富士山溶岩石の床プレートから放つ遠赤外線効果と薬石の鉱物ミネラルで脂肪燃料などが期待できるマグマスパスタジオ(店名「J-HOT」土浦店)も同時にオープンする。500台以上の駐車が可能な駐車スペースは。8月に全面オープンの予定。 同店はスポーツ関連のほかにも、現在実施しているカルチャー教室に、9月から英会話教室を開講する予定で、子どもから大人まで幅広い層のコミュニティの場を目指している。 2011年の東日本大震災の際は地域住民に浴室を開放した経験から、7月末には、土浦市と災害時における施設開放協定を締結し、プールやシャワーを提供するなど地域貢献にも力を入れる。 ジョイフルアスレチッククラブ(安達幸生社長)は「コンセプトは『人と人とがつながるクラブ』で、地域の健康づくりとコミュニティの拠点として利用していただきたい」と話している。

6年越しの大同団結 つくばJC・RC・LCが災害救援相互協定

【鈴木宏子】共助の立場から災害時に相互に協力してより効率的な救援活動をしようと、つくば青年会議所(JC、山谷憲司理事長、会員約90人)と、つくば学園ロータリークラブ(RC、大里喜彦会長、会員約90人)、つくばOAKライオンズクラブ(LC、森重英明会長、会員約140人)の3団体が27日、つくば市役所コミュニティ棟で、災害時救援相互協定を締結した。 2011年の東日本大震災と12年の北条竜巻被害の復旧支援活動を立て続けに経験し、6年越しの構想だという。いずれも国際組織である青年会議所、ロータリークラブ、ライオンズクラブが災害協定を締結するのは全国的にも珍しい。 竜巻被害当時、青年会議所理事長で現在は学園ロータリークラブ会員の木村英博さんが、翌年に「つくばのボランティア団体は大同団結しよう」と呼び掛けたのがきっかけ。竜巻被害時、青年会議所はいち早く災害本部を立ち上げ、ロータリークラブやライオンズクラブなどの協力を得て、朝昼晩1日3食を計1000食分、14日間にわたって被災した地域住民に届けた経験があり、協力の重要性を感じていたという。 当時は7団体で相互協定を検討したが方向性が定まらず、いったん話は流れた。その後、全国各地で災害が頻発し、地域の人同士が助け合う「共助」の大切さが改めて認識される中、今回、青年会議所のOBが比較的多い学園ロータリークラブとOAKライオンズクラブとの協定締結が実現した。 3団体のメンバーは主に中小企業の経営者で合わせて300人を超える。市内各地に居住し、業種も多岐にわたることから、日頃から協力体制をつくって、いざという時もネットワークを生かせるようにする。災害時には、行政の支援が届くより前などに、各地域で迅速に機動的な支援活動ができるようにする。 ロータリークラブの大里会長は「実際に役立つよう、温かく大きなものに育てたい」と述べ、ライオンズクラブの森重会長は「これを核として、いろいろな団体が加わっていけたら」と話した。青年会議所の山谷会長は「組織の枠を超えた協力体制を構築し、つくばの防災、減災に貢献出来たら」と語った。 協定締結に立ち会った五十嵐立青市長は「機動性をもって初動で動くことができ、地域の人が継続的に支援をするというのは全国的にも例がない。すごくありがたい」と話していた。

花火の光束で絵筆のように描く 黒沢富雄さん つくばで写真展

【池田充雄】日本写真家協会会員の黒沢富雄さんが、つくば市豊里の杜のギャラリー夢工房で写真展「花火 Fireworks Flowers」を開いている。黒沢さんは常陸大宮市に写真工房を構える。花火を撮り続けて35年。多重露光やアウトフォーカスなどさまざまな技法を駆使しながら、驚きのある独自の花火写真を作り出している。 花火の撮影スタイルは「カメラを筆代わりにして描いていく」というもの。たとえば光の渦のように見える作品は、スローシャッターでカメラを回転させながら作り出した。赤いチューブがうねうねと四方八方へ伸びたような写真は、星の飛び散る様子をクローズアップでとらえたもの。400ミリの超望遠レンズによる手持ち撮影で、打ち上がっていく花火の玉を追いかけ、開いた瞬間に手を止めてシャッターを切っている。 「最初にどういう撮り方をしようかと考え、デッサン帳にイメージを書き入れながら練り上げていく。だが思った通りに撮れるのは2、3割ほど。花火は偶発的要素が多い。構図やバランスがなかなかうまくいかないし、色や明るさも開いてみるまで分からない。そこが難しさでもあるし醍醐味でもある」 出合いは1985年の水戸の千波湖花火大会。偶然に撮れたススキの穂のような形の写真に新たな可能性を感じ、そこから花火との対話の日々が始まった。最初の個展開催は95年の東京・キヤノンサロン。その後は99年のフジフォトサロンなど。1週間の会期で8000人の来場者を集めたこともあるそうだ。 今回の展覧会では30点を展示しており、その多くは90年代に撮影した。最近の作品も数点あるが、鮮やかさが違うという。「当時はリバーサルフィルムで撮っているが、デジタル写真と比べて透明度が高い。花火の色自体も昔と今とでは若干違う。今の花火はパステルカラーのような淡く透明感がある色彩。写真にするには色が濃い方が深みや重みが出せる」 今後考えているのは、茨城県内の全ての花火大会を写真で網羅すること。「小さいものも含めると40カ所くらいある。芸術的な撮り方ではなく一般的な撮り方で、なるべく早い時期にまとめたい」という。ほかにも久慈川の冬の風物詩のシガや、地元・常陸大宮市の文化遺産である「西塩子の回り舞台」、東日本大震災被災地の復興の様子など、追い求めているテーマは多岐にわたる。 ◆写真展は30日(日)まで、つくば市豊里の杜2-2-5 ギャラリー夢工房で開催中。開館時間は午前10時30分~午後5時30分(最終日は3時まで)。入場無料。30日午後1時30分から黒沢さんによる写真教室が開かれる(参加費1000円、コーヒー付き)。問い合わせは電話090-4676-9623(同夢工房)

《続・平熱日記》40 ログビルダーの弟が茨城でまた仕事

【コラム・斉藤裕之】ある日、家族にも他の誰にも内緒でただ漠然とログハウスに憧れ、なんのつてもないままカナダに渡った弟。偶然、現地で有名なログビルダーに巡り合い、修業すること数年。その後、子供も生まれ帰国。故郷山口の山を切り開いて、作業小屋や住まいを建てながら、大工の棟梁(とうりょう)について修業。そして、茨城で我が家を手掛けたのが20年近く前。 できるだけ新建材を使わず、シンプルで木を生かした家は住み心地がよく、我が家を訪れる友人にも好評。ついに一昨年、私の友人に頼まれて茨城で2棟目となる新築を手掛けることとなりました。柱や梁(はり)は山口で墨付けや刻みをしてトレーラーで運び、その他の建材は現地で調達。梁や柱を「人形束」という木製の接合部品でつなぎ、「こみ栓」という杭のようなもので留めていく工法は、茨城ではこの1棟だけでしょう。 金物を使わないことなども含め、建築基準をクリアーするのに建築士さんにもご苦労をいただき、無事にかわいらしい平屋が完成しました。施主の友人曰く、「ストレスフリーで本当に住みやすい」とのこと。 話はその家の建築中に遡(さかのぼ)ります。別の友人が実家を改築したいから一度見て欲しいとのことで、弟と出かけました。農村部にある大きな敷地のお宅。一見新しそうに見えた洋風の母屋は入ってみると、震災の影響でしょうか、少し傾いている様子で雨漏りもしています。これはなかなか厄介。 と、母屋の左手には立派な納屋が。入ってみると、それほど使われた様子もなく、太い柱や梁に漆喰(しっくい)壁、深い下屋(げや)や土間が魅力的な物件。弟と私の意見は一致。「母屋は止めてこっちの納屋を住まいにしましょう!」。 母の夕食はいつも残り物だった というわけで、3度、茨城にやってきた弟。私もたまに手伝うのですが、大事な仕事として、久しぶりに弟のために弁当を作っております。私が一番早く帰宅するので、夕餉(ゆうげ)の支度は私の仕事。弟が加わり、いつもよりにぎやかな食卓。 そこでふと思い出しました。母は家族と一緒にご飯を食べなかったことを。父や私たちが食事を終えた後に、さっさっと1人で食べていました。いわゆる残り物を。そういう時代だったのかなあ、ぐらいに思っていました。 でも先日、弟とかみさんと食卓を囲んでいるときに思ったのです。母は残り物で十分だったのではないかと。実際、今の私は2人が美味しそうに食べるのを見ているのがうれしくもあり、その残りで十分満足なのです。今問題の食品ロスもなくなるし。 さて、毎日現場で汗を流す弟。順調に改築が進んでいるようですが、目下の悩みはたまに様子を見に来る近所の親戚のおじさん方の茨城弁だとか。「なにをはなしよるんかわからんちゃ」。どっちもどっちだっぺよ。(画家) ➡斉藤裕之さんの過去のコラムはこちら

ウェブ上に「自然災害伝承碑」表示 国土地理院が新しい地図記号

【相澤冬樹】天災は忘れたころにくる――から、被災地では被害を伝える石碑などを建て後世に引き継ごうとしてきたが、その存在を忘れたころにやってくるのが天災ともいえ、残された教訓が役立たないケースもあった。つくば市の国土地理院は、防災意識の向上につなげようと、「自然災害伝承碑」という新しい地図記号を作り、19日から運用を開始した。過去の災害情報と合わせ、インターネット上の「地理院地図」に表示している。 「自然災害伝承碑」の地図記号は、石碑をイメージした形のデザインで、洪水や津波、火山の噴火など過去に起きた自然災害について書かれた石碑やモニュメントの位置を示している。新しい地図記号が作られるのは13年ぶりという。 地理院によると、昨年7月の西日本豪雨で被災した広島県坂町には、1907年に起きた大雨で犠牲者が出たことを伝える石碑があったが、地域の住民にあまり知られておらず、教訓が十分に生かされなかったことが被害を大きくした。同様のケースは2011年東日本大震災での津波対策や緊急避難にもみられた。 そこで、新たな地図記号を設定しつつ、自治体などと協力して設置場所や碑文の情報を収集した。まず48 市区町村の自然災害伝承碑158 基について公開準備が整ったため、19 日からウェブ地図「地理院地図」に記号を掲載した。死者数や建物被害などを示す情報を補足し、100字程度に要約したページともリンクしている。記号はこの先、2万5000分1地形図にも掲載される予定だ。 茨城県内からは今回3市計5カ所が登録された。2015年9月の関東東北豪雨で鬼怒川が決壊し、市域の3分の1が浸水した常総市の2カ所はじめ、龍ケ崎市の2カ所、行方市の1カ所、いずれの碑にも水害が記録されている。 地理院では、住民の防災意識の向上、学校での防災教育などに役立ててほしいとしている。今後、約150市区町村について、準備が整いしだい順次公開するとともに、引き続き情報を収集し、定期的に更新、公開をしていく。 ➡地理院地図の初期表示画面へのリンク 左の情報リストから「自然災害伝承碑」が表示される

閣僚声明を採択し閉幕 つくば開催のG20会合

【相澤冬樹】つくば市で開かれた20カ国・地域(G20)貿易・デジタル経済相会合は9日、デジタル経済分野と貿易分野をまとめた閣僚声明を採択し閉幕した。世界貿易機関(WTO)改革の在り方や、米中が追加関税の応酬を繰り広げる中で、保護主義への対応について議論がなされた。世耕弘成経産相は「意見一致を見なかった点で議長声明を追加したが、ほとんどの点で合意にもとづく閣僚声明に至った」と成果を強調した。 議長を務めた河野太郎外相、世耕経産相、石田真敏総務相の3閣僚は採択後、会場となったつくば国際会議場で会見した。世界経済の成長を鈍化させる貿易摩擦で、WTOの紛争解決制度がうまく機能していないことが問題をこじらせている。米国とEU(ヨーロッパ連合)との間で意見が対立しており、最近では韓国による水産物の輸入禁止措置をめぐってWTO上級委員会で日本の主張が退けられた―などを背景に、G20は「切迫感をもって」その改革の必要性で一致したという。 保護主義への不公平感は表明されたものの、あくまで「ルールに基づく解決」が望まれた。「貿易と投資の便益が十分に行き渡っていない中小企業や女性たちが参画してこそSDGs(持続可能な開発目標)がいきる」(河野外相)、「人間中心の考え方に立つ『AI原則』で合意できたが、開発や利活用がもたらす生産性向上という果実を十分に行き渡らせることが重要」(石田総務相)などの点でも合意がみられた。 声明に文言こそなかったものの、河野外相は「地元の食材でもてなしていただいた茨城県に感謝」を表明した。「震災から8年、その安全性は確認されているのに、茨城産を含む海産物を依然規制する国がある。その解除に向けて働きかけていきたい」と述べた。 同じく議長会見で、石田総務相は「つくばの高校生のプレゼンテーションに感動した」と並木中等教育学校生徒の提言を記憶にとどめ、28,29日開催の大阪サミットにつなげていきたいとした。 1000人規模がつくばに 会期中、20カ国の閣僚のほか、招待国や国際機関の代表、メディアなど1000人規模の参加者がつくば市を訪れた。夜には歓迎レセプションやカクテルパーティーが開かれ、茨城県産の食材をつかった料理や日本酒などがふるまわれた。 各国の閣僚らによる市内視察も行われ、ロボットスーツを開発する筑波大発の企業サイバーダインやJAXAつくば宇宙センターなどを訪れた。 ➡7日の歓迎レセプションの記事はこちら 2日間、つくば市で開かれたG20茨城つくば貿易・デジタル経済大臣会合を写真で振り返った。

「あっぱれ伊賀七」初公演前に公開稽古 舞台はつくば市谷田部の旧呉服店

【橋立多美】つくば市谷田部が生んだ発明家・飯塚伊賀七(※メモ)を題材にした芝居「あっぱれ伊賀七」の公演に先立って、谷田部内町の旧呉服店、アラキヤで1日、劇団「伊賀七座」の公開稽古と制作発表が行われた。集まった住民らが拍手を送り、店頭の駐車場では町内商店による露店販売でにぎわった。 かつての商業中心地ながらシャッター通りと化した谷田部内町に活気を取り戻そう、と伊賀七をシンボルにした町おこしが動き出すなかで、地元在住の劇作家・沼尻渡さん(70)が芝居公演を提案。今春、アラキヤを会場に地域住民の交流拠点となる「よりあいや伊賀七庵」と「伊賀七座劇場」を柱にする活性化プロジェクト「わわわやたべや」(長塚俊宏代表)が始動した。 座長の沼尻渡さん(ペンネーム北野茨)は、高校教師のかたわら脚本を書き、生徒に演劇を指導していた。50歳で退職し東京で演劇活動に打ち込んだが、東日本大震災で活動を支えていた地方巡業が次々にキャンセルになり、失意を胸に故郷に腰を落ち着けた。しかし今年、内町区長会の副会長になったことから「町おこしに協力を申し出た。焼けぽっくりに火がついた」と話す。 「あっぱれ伊賀七」は、浅間山の大噴火や飢きんが続く江戸期に、農民の暮らしを楽にする大時計を発明した伊賀七が、自らの命を賭けて百姓一揆に打ってでる物語。沼尻さんは「自然災害や社会不安のある現在にからめて1週間で書き上げた」という。 座長以外は初舞台 22日、23日に初公演 劇団員は黒子(くろこ)を含めて地域住民7人で、座長を除く4人は今回が初舞台となる。演出家でもある沼尻さんから指導を受けてきた。伊賀七の奉公人・加助を演じる中村壮志さん(22)は大学時代に演劇サークルに属していた経験を生かした活躍ぶり。「客席への目線や発音などの指導を受けた。同年代の出演者を増やして町おこしを若い世代に広げたい」 こけら落とし公演は22日、23日。会場の収容人数は60人で両日とも半分が埋まり、追加公演を検討している。年4回の公演を予定しており、1公演4枚の入場券で年間16枚の入場券が利用できる1万円の特別協力券の購入を呼び掛けている。劇団員、裏方への参加は随時募集しており、問い合わせは電話090-3341-7351(沼尻さん)。 8日(土)の午後1時からは同所で「よりあいや伊賀七庵」を開催。町内外の住民が自由に集まれる場を目指し、趣味の作品展示やおかずのレシピ紹介などを企画している。 ◆「あっぱれ伊賀七」 6月22日(土)、23日(日)午後3時から。大人1000円、中高生500円、小学生300円。チケットの問い合わせは電話090-5535-2845(八木下さん) ※メモ 飯塚伊賀七 江戸時代後期の発明家(1762-1836)。谷田部藩領の常陸国筑波郡新町村に生まれ、生涯を谷田部で過ごした。名主を務めるかたわら、建築や和算、蘭学などを学び、からくりや和時計の製作や五角堂を設計して村人を驚かせた。高さ2メートルの和時計の復元模型が谷田部郷土資料館に展示されている。

《続・気軽にSOS》38 噛む犬 吠える犬 脅える犬

【コラム・浅井和幸】犬と猫の保護や譲渡活動をしている団体は、茨城県内にもあります。その一つのNPOが運営しているシェルターに、週に数回のペースで、犬の世話のボランティアにうかがっています。私の場合、単なる犬好きが高じて、できる範囲で行っているので、大変どころか、そこの犬たちに会えることが生活の喜びの一つになっています。 東日本大震災のときに、福島の犬猫保護のために始まったこのシェルター。私は、不登校やひきこもりの方たちの活動の場になるかもしれないなという理由から、震災の次の年の初めぐらいから、少しずつ関わるようになりました。今では、福島から来た犬猫は、仮設住宅から次の住まいに移った飼い主のもとに帰り、県内で保護されたものがほとんどを占めています。 それまでは単なる犬好きでしたが、ドッグトレーナーが進める本を読み、インターネットで情報を集めながら、犬たちと接して勉強してきました。もともと学んでいた、人間相手の心理学やコミュニケーション方法が活かされた部分もありますし、犬たちと接することが、人間に接することへの学びにもなってきたと考えています。 そのうち、人を見ると震え出したり固まってしまう野犬や、人や犬を見ると唸(うな)ったり噛(か)んだりする、虐待されてきた犬と接することが多くなりました。その中で、たまたま上手くいった部分もあるかもしれませんが、脅(おび)える犬、危険な犬の扱いをお願いされることも増えてきました。 犬も人も心の動きに共通するものがある 私は人間への接し方が専門で、犬の方は全くの素人です。それでも、様子を見ながら接してみて、さらに様子を見て、こちらの対応方法に反映するというコミュニケーションは、心の動きには共通するものが犬にも人にもあると感じています。 先ほど、脅える犬と噛む犬がいると書きました。噛む犬は強気な犬だ、人間を馬鹿にしていると捉えられがちです。しかし、その様子を見てみると、やはり脅えているところがうかがえます。強気に吠(ほ)え噛む犬とみられている犬の中には、ビニールのガサッという音にびっくりしている犬がいます。 また、シェルターに新しい犬が入ったり、新しいボランティアがいると、挙動不審になったり、下痢をしてしまうという犬もいます。それらを観察すると、吠えるのも、噛むのも、怖いからだと捉えたほうが妥当だと感じることが多いのです。そう捉えられると、怖がらせないようにする距離の詰め方や信頼関係をつくる方法、安心感を与える接し方が工夫できるのです。 強気な犬は人間をなめているからという間違った解釈では、人間が上であることを教えてやろうと怖がらせたり、抑え込んだりしてやろうとしてしまうでしょう。そうすることは、それこそ犬の精神的な疾患やひきこもり状態をつくってしまうことに繋がります。 ドラマや小説のように短期間にパッと変化することもありますが、何年もかけてじっくり変わっていくケースもあります。スピードなどの程度の差はありますが、こちらのアプローチで変化があるのは、人も犬も同じなのだと日々感じています。(精神保健福祉士) ➡浅井和幸さんの過去のコラムはこちら

原発事故を超えて つくばの原木シイタケ生産者 全国サミット開催へ奔走

【相澤冬樹】茨城県の原木シイタケ生産量は2016年に401.6トン、福島第一原発事故後の出荷制限・自粛下にありながら静岡、鹿児島、群馬に次ぐ第4位となったことはあまり知られていない。さらに年間150トンを出荷するという生産者がつくば市にいることはもっと知られていない。「おそらく日本一のはず」と胸を張るのは、なかのきのこ園(つくば市中野、飯泉厚彦社長)の創業者、飯泉孝司さん(71)。事業を子息に任せ、自身は全国の生産者らに参集を呼び掛けて、8月につくばで「原木しいたけサミット」を開催すべく東奔西走の日々を送っている。 県内19市町で続く出荷規制 2011年東日本大震災時の原発事故に伴う放射性物質の影響により、県内産原木シイタケは大打撃を受けた。19市町で出荷制限・自粛の規制がかかり、10市町村で一部解除になったものの、現在も19市町すべてで継続中だ。「規制と風評被害に耐えかねて廃業してしまったものも多く、生産者が再出荷に向け線量検査など申請手続きを行わなければ出荷規制だけが残ることになる」(飯泉さん)。事故当時県内に約500人いた原木シイタケ生産者は150人ほどになった。 被ばく線量の基準値を下回ったつくば市は規制の対象から外れたものの、飯泉さんは原木のホダ木約200万円分を廃棄処分にした。このため丸1年、生産できない時期が続いたが、再開には次のハードルが待ち受けていた。原木の高騰である。 きのこ園では原木にコナラとクヌギを用いているが、つくば周辺の生産者5人で共同購入グループを組んで、調達先を福島・阿武隈山地に確保していた。1本の木からホダ木7本が取れる。グループの年間使用量40万本のためには1ヘクタール約7000本として、60ヘクタール分が必要。植林から伐採まで約20年かかるのを見込み、1200ヘクタールもの広さを手当てしていた。福島県内の、その調達先が消えた。 当座は在庫でしのぎつつ、長野県産に切り替えるなどの措置をとった。7センチ径で長さ70センチの原木1本が事故前は200円だったのが、今は倍の400円以上している。東電の震災復興基金からの助成が入るが、これも19年度までで打ち切りとなる。この先原木調達が生産コストを押し上げるのは必至だ。 「今後の活路見出す」 川上に自前の原木調達先を持たず、川下に安定した流通経路を確保していない産地には苦境が待ち受けている。飯泉さんは、生産、販売に関わる課題と情報を共有し、今後の活路を見出すべく、全国の産地に連携を呼びかけた。 所属団体の東日本原木しいたけ協会(古河市)を社団法人化する過程で知り合った大分県の阿部良秀さん(現日本椎茸農業協同組合連合会長)らと協議を重ね、実行委員会形式で初のサミット開催を打ち出した。行政に協力を求める一方、消費者も巻き込んで、森林や山村の豊かな環境を保全するなかで成長戦略を描く道筋を考えた。「全国規模となると原発問題は扱えないし、第1回とも打ち出せない。しかしSDGs(持続可能な開発目標)に懸ける思いは強くある」という。 「原木しいたけサミット」は8月29、30日、つくば市小野崎のホテルグランド東雲をメーン会場に開催。全国から約150人の参加を見込み、パネルディスカッションや6分科会での討議を予定している。2日目の現地視察はなかのきのこ園が会場、付属のレストランでシイタケ料理の試食会を行う計画でいる。 菌床栽培全盛の中で スーパーなどに並ぶシイタケには、生(なま)と干しの2種類あるのはご存知だろうが、生産の仕方でも2通りに分けられる。短く切った樹木に菌を植え付けて林地やハウスに並べて栽培する原木栽培と、粉砕した樹木のオガクズなどから作る菌床を用いてハウス栽培する菌床栽培である。人工的なシイタケ栽培が始まったのは大正年間で、そんなに古いものではないが、昔からの手間ひまかけて作るのが原木栽培で、近代化されたオートメーション促成型が菌床栽培といえる。 シイタケ菌を植え付けた原木をホダ木といい、これを寝かせて生育を待つだけで1年以上を要するのに対し、菌床なら3~4カ月で収穫でき、同じ面積のハウスなら4倍以上生産可能という。だから、今日では両者の生産量に圧倒的な差がついた。林野庁統計によれば、16年の生シイタケ生産量は全国で6万9707トン、うち原木栽培は7322トンに過ぎない。天候や気温の影響を受けやすい原木栽培は生産量が上下しがちだが、概ね全体1割前後にとどまっている。 1975年から一貫して原木シイタケ栽培に取り組んでいる飯泉さんによれば、見た目はもとより、食品成分を調べても両者の間に明確な差は認められないそうだ。それでもなぜ原木栽培を続けるかといえば、「食べれば分かる」という味覚へのこだわりにほかならない。大口出荷先の生協からも、飲食店からも原木シイタケ以外の取引はしないと言われている。

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