最後の一葉《続・平熱日記》129
【コラム・斉藤裕之】冬の初めに1人用の土鍋を買った。その日から今日まで、つまりひと冬の間、鍋を食べ続けた。まず大きな白菜を買って、毎日2枚程度を外側からはがして使う。長ネギ半本、豆腐は3分の1。これを基本として、豚、鶏、魚介などの動物性のたんぱく質と、それに合う、塩、みそ、しょうゆ系の汁のシンプルな鍋だ。
好みで春菊とセリをあしらうことはあっても、キノコや他の野菜は入れない。無駄になるものはほとんどなく、残ったら卵などを落として次の日の朝食とした。
気が付くと、油を使うことも全くなくなり、洗い物も少なく、胃もたれなどもない。しかし、量、質ともに極めて質素な夕食なのだが、なぜか体重が増えた。冬の寒さに体がエネルギーを蓄えようとするのか、あるいは寒いのであまり体を動かさないためか。
多分、現代の食事は何を食べても、基本的に栄養過多になるのだろう。今日はハンバーグだの、明日は中華だのと、おいしいものをこれでもかと食べ過ぎているに違いない。それから、毎日同じような物を食べているわけだが、不思議と飽きることはない。
インドの人が毎日カレーを食べるように、フランス人がパンとチーズを食べるように、私の体は米と汁物でできていることを実感する。
余談だが、フランスのポトフという料理は、金偏(へん)にかまどを表す旁(つくり)でできた鍋という字と一致する。学生のころ、フランスから留学してきたエマニエルが作ってくれたポトフの味は、今でも忘れられない。日本では手に入り難い牛の脊椎を入れたポトフ。その中の髄(ずい)がおいしいと教えられてパンにつけて食べた記憶がある。
みんなで「囲む」「つつく」鍋
こうして今風に言うと、「鍋しか持たん」1人鍋生活は続いているわけだが、本来、鍋はみんなで「囲む」もの、「つつく」ものだ。長い間マスク生活を強いられ、パーティションで仕切られたり、人数制限をされたりしていたので、鍋物はしばらく敬遠されていた。しかし、いよいよというかやっとというか、日本でもマスクから解放される日がやってきた。大手を振って、鍋を囲んでつつくことができる日がきたのだ。
しかるに今日は鶏のブツが手に入ったので、いつものように鍋の用意をする。足元にはパク。もちろん目当ては骨だ。こいつが家に来て、ちょうど2年が経った。
思い立って、先日、かつて過ごした茨城町の古道具屋に連れて行った。仲良しだった犬たちと新たに小さな兄弟の保護犬がいて、最初は警戒していたが、やがて仲良く寝床でくつろいでいた。その中の1匹は3月末にもらわれていくという。
春は別れの季節。そして白菜の旬も終わる。いつまでも鍋というわけにもいかないか。よし、次の白菜の最後の一葉を食べきったら、鍋よ、いざさらば…。そして、春は出会いの季節でもある。とりあえずマスクを外してスーパーに行こう。そして春キャベツを買おう。(画家)
廃校から「文化芸術創造拠点」へ つくば 旧田水山小でアートラボ
廃校となった小学校跡地を「文化芸術創造拠点」として利活用するための試行事業が11日、つくば市水守の旧田水山(たみやま)小学校で始まった。「つくばアートラボ2022-23~田水山でつくる~」で、3人のアーティストが滞在制作を行う。11日は登校日として一般公開型のワークショップが開かれ、12日にはアトリエトークが行われる。
参加アーティストとテーマは、相澤万亀子さん「おりがみインスタレーション」、大井真希さん「枝と毛糸で生まれる田水山の“こだま”」、河津晃平さん「廃校の洗浄と観察」の3つ。昨年11月に公募をし、書類審査とプレゼンテーション審査により選出された。
会場は旧教室棟2階の3教室で行われ、ワークショップに集まったのは、地域の児童や保護者たち36人。相澤さんのおりがみは「広報つくば」を使って、簡単な蝶を折り、一緒に影絵遊びをする。その後、蝶はオープンアトリエの展示作品に取り付け、作品「ゆめ」を完成させる。展示空間を含めて全体を作品として表現するインスタレーションだ。
会場では、見学者らが作品制作を見守りながら、旧小学校の利用について語り合う姿も見られた。
つくば市では、同市文化芸術審議会への諮問を経て、田水山小跡地を「文化芸術創造拠点」として新たに利活用する検討に着手、昨年にはサウンディング型(対話型)市場調査を実施するなどしてきた。市文化芸術課によれば、創造拠点のコンセプトは「出会う・つながる・創造する」。今回はこれを基礎に、人々の出会いからつながりが生まれ、田水山地域において創作する過程で、ひらめきを得て、アートを広げていくことを推進していくトライアルとして計画されたそう。
拠点整備は今年度が試行段階で、23年度に基本・実施設計、24年度に発注、25年度に施設整備となる予定だ。旧田水山小教室棟は1995年築、鉄筋コンクリート3階建て、延床面積2510平方メートル。新耐震の建物だが現在、水道施設が壊れるなどしており、補修をしたり、新たにエレベーター設営するなどのリノベーション費用が見込まれるという。
担当する文化芸術課、佐藤真紀文化振興係長は「廃校を利活用して、文化や芸術の拠点になるようにこの事業を推進していきたい。地域の人々との交流にも利用できるような空間も作り、有効な計画にしたい」と述べた。(榎田智司)
つくばの宿舎で「区切り」の慰霊祭 震災12年
東日本大震災から12年の11日、つくば市並木の公務員宿舎で、福島県双葉町からの避難者ら約30人による慰霊祭が開かれた。2020年以来となる。双葉町は、原発事故による避難指示で、全町民が避難を余儀なくされてきた。
この日、双葉町出身の谷津田光治さん(81)と妻の美保子さんが暮らす自宅前に設けられた祭壇に、集まった一人ずつが線香をたむけ、手を合わせた。参列したのは同町から避難してきた住民のほか、毎週火曜日に近所の公園で行われるグラウンドゴルフや、以前行われていた月命日や夏祭りなどに参加し、親睦を深めてきた同市内の学生や地域住民たち。この日は、現在他県に暮らす人も多数訪れ、旧交を温めた。
宿舎には、双葉町民を中心に、福島から避難してきた47世帯が暮らしてきた。同町民による自治会も発足し、避難先に新たな地域社会を築いてきた。近年は、同市内や周辺地域、福島県などへ転居する世帯が増え、現在は谷津田さん夫妻を含めて4世帯が暮らしている。谷津田さんも今月末でつくばを後にし、故郷に近い南相馬市へと転居する。
交流の筑波大学関係者らも参列
運動の指導などを通じて谷津田さんらと交流し、学生にも避難者との交流の機会を設けてきた筑波大学名誉教授で体操コーチング論が専門の長谷川聖修さん(66)は「12年間本当にお世話になりました。福島の皆さんとはこの場所がなければ出会うことがなかった。慰霊祭ということでは一区切りがつくけれど、これからもよろしくお願いします」と気持ちを述べた。
長谷川さんの教え子で、北海道から参加した工藤実里さん(25)は、学生時代の交流を思い返しながら、「会いたい、帰ってきたいと思える場所。これまで皆さんが築き、守ってきた場所で出会えたことに感謝の気持ちでいっぱいです。ここでの経験は財産。これからも色々な形で関わりたい」と話すと、涙を拭った。
秋田県から訪れた高橋康彦さんは自身の結婚を報告した。かつて月命日の際に振る舞われたカレーライスの思い出に触れながら、「長谷川先生のゼミ生として体操で関わり、皆さんと会う日常が人生の楽しみでした。今日は、皆さんにハッピーニュースを届けることができた。これからもいいニュースを届けられたら」と笑顔で語った。
2017年から、毎週グラウンドゴルフに参加するつくば市の柄津玲子さん(86)は「避難者の方の講演を聞いたのが参加のきっかけ。大切な出会いをたくさんいただきました」とこれまでを振り返った。
地震が起きた午後2時46分を前に、参列者に向けて谷津田さんは「私の知人にも津波で亡くなった人がいます」と震災当時を振り返るとともに、つくばでの12年間を思い返しながら今回の慰霊祭を「一つの区切り」とした。その上で、「「皆様、12年間の御礼を申し上げます。今後も、皆様が元気で、長くお付き合いをしていただけることを切に願っています」と参列者に呼びかけた。
宿舎に暮らす他の住民も、茨城県内外への転居を予定している。昨年3月の時点で、つくば市内には112人の双葉町からの避難者が暮らしていた。(柴田大輔)
「国策に分断され悲しみ生まれた」福島の自主避難者訴え つくばで市民集会 震災12年
東日本大震災から12年目の11日、「さよなら原発!守ろう憲法!つくば集会」と題した市民集会がTXつくば駅前のつくばセンター広場で開かれた。福島原発被害東京訴訟原告の鴨下美和さん(52)が、子どもの健康被害などを訴える福島県の避難者らが受けてきた中傷や非難などについて話し。「原発は国策だから、たくさんの分断が生じて悲しみが生まれた。放射能に汚染されない未来をつくっていくため、バッシングされても訴え続けたい」などと語った。
つくば集会は、市民団体「憲法9条の会つくば」など11団体が、震災翌年の2012年から毎年開催している。鴨下さんは横浜市出身。震災当時、福島県いわき市から自主避難し、現在、都内に住む。鴨下さんの長男の全生(まつき)さんは高校2年だった18年、ローマ法王に手紙を送り、翌19年、家族でバチカンに招かれ、直接被害を訴えた。
集会で鴨下さんは、震災直後、福島県いわき市から家族5人で実家のある横浜市に自主避難した。当時の状況や、横浜や都内を転々とした避難生活について語り、「避難所や避難住宅ではうちの子に限らず鼻血を出す子が多くいて、綿を詰めても綿が出てきてしまうような大量の鼻血だったり、綿やティッシュでは追い付かずスーパーのレジ袋でぽたぽたと出る鼻血を受け止めて歩く子もいた」と話した。
2014年には、福島第1原発を訪れた主人公が原因不明の鼻血を出す場面が描かれたマンガが出版され、当時の環境大臣が被ばくと鼻血の因果関係は無いなどと発言したことがあった。これ触れた鴨下さんは「子どもに鼻血が出ていると言った人が嘘つきにされてしまい、お母さんたちは子どもに鼻血が出たと言う勇気が無くなってしまった」と語り、「原発は国策なので、世の中がゆがんでいくだけだと思った」と振り返った。
国連人権理事会でも課題に挙がった母子避難の状況についても話し、「いわき市や郡山市などから無数のお母さんが子供を抱えて自主避難しているが、自主避難者は支援を受けられなかったので、お父さんは福島に戻って働かないといけなかった」などと述べ、「12年経っても当時を思い出すだけでつらい。言えばバッシングされたり、ノイローゼだとののしられるので、ほとんどのお母さんは口を閉ざしている」と話した。
長男がローマ法王の前でスピーチをした際、「原発は国策だから、それを維持したい政府によって被害者の間に分断が生じ、傷ついた人同士が、互いに隣人を憎み合うよう仕向けられてしまった」とする一節を、事前に削るよう言われたが、長男は削らないでそのまま読んだエピソードも披露した。
市民集会を主催した山本千秋代表は、原則40年とされていた原発について60年超の運転を認める政府方針に対し「廃炉になるはずの古い原発があちこちで動くことになる。世界有数の地震国で、方針の大転換は決して許されない。一刻も早く自然エネルギーに切り替えるべき」などと話した。
集会では、原発をなくし、憲法を守って、平和で安心できる社会をつくろうなどと訴えるアピールを全会一致で採択した。(鈴木宏子)
マスクを外し涙も つくば国際ペット専門学校卒業式
つくば国際ペット専門学校(つくば市沼田、高橋仁校長)の卒業式が11日、つくば国際会議場(同市竹園)で行われた。ドッグトリマー、ドッグトレーナー、愛玩動物看護師・動物衛生看護、ペットケア総合の4つのコースで学んだ124人が卒業の日を迎えた。3年制の愛玩動物看護師コースの7人は同コースの1期生で、同コース初の卒業生となった。式ではマスクを外すことを基本とする一方、強制ではなく、半分ほどの卒業生がマスクを外して臨んだ。
東郷治久理事長は、昨年11月に学校の敷地内にオープンした動物医療センターに触れ、「このような素晴らしい実習施設などの現場で培った様々なスキル、制限された中で臨機応変に対応しながら過ごした時間はみなさんの今後の自信につながっていくことと思う」とはなむけの言葉を贈った。
卒業生を代表してドッグトレーナーコースの重黒木綾可(じゅうくろき・あやか)さんが答辞。学校の文化祭「犬友祭」や研修旅行で試行錯誤しながら学んだことを振り返り、「私たちは知識や技術を学び、尊敬できる先生方が様々なことを教えてくれた。仲間、パートナードッグとの出会いは、全てかけがえのない財産であり、これからも心の支えになるものだと思います」と述べた。
式典では卒業生一人ひとりに高橋学長から卒業証書が手渡されたほか、トリマー1級、ペットケアマネージャー1級などの資格試験合格者にライセンスが授与された。式の後には、教職員らがロックバンド、スピッツの楽曲「チェリー」のメロディーに乗せて生徒らへのはなむけの言葉を歌い、卒業生らや保護者らが涙をぬぐっていた。
ドッグトレーナーコースの卒業生、厚木侑花さんと岡本愛李さんは共にマスクを外して式に臨んだ。厚木さんは「友達とマスクを外そうと決めてきた」と話し、岡本さんは「ドッグトレーナーコースなので夏はマスクが暑くて大変だった。卒業できてうれしい」と笑顔を見せた。
つくば市の幸和義肢研究所 《日本一の湖のほとりにある街の話》9
【コラム・若田部哲】様々な別れと出会い、新しい人生がスタートする季節、春。今回は、義手や義足といった福祉機器により、多くの人達の新たな一歩をサポートする企業、つくば市の幸和義肢研究所をご紹介します。
2021年に創業100年を迎え、義手や義足・車椅子などの福祉器具の製造のみならず、ユーザーの生活を多岐にわたりサポートする事業内容について、同社の三浦さん、志賀さんにお話を伺いました。
創業は1921年。現在の常総市でメスやハサミなどの医療器具の販売からスタートしました。1983年、社名を「株式会社幸和義肢研究所」と改め、義肢・装具の製造販売を本格的に開始。現在製造する品目は、義手や義足といった義肢・コルセットなどの装具・車椅子や、靴の悩みを解消するインソールなど、実に多彩です。
同社の心臓部ともいえる製作室には、義手や義足などの元になる様々な素材が並び、ユーザー一人ひとりで異なる身体形状に合わせた義肢装具を製作しています。1点ごとに微妙に異なる形状、要求される性能を満たすため、熟練の手作業により製作・調整がなされていますが、さらなる精度向上のため、ユーザーの身体形状を3Dデジタル化し、切削機で身体形状を再現する最新機材「CAD / CAM(キャドキャム)」を導入するなど、品質向上に余念がありません。
ユーザーを「トータルサポート」
また、アフターメンテナンスについての態勢も万全。常に体をサポートし続けるこれらの器具は、強い負荷がかかるため、数カ月ごとの定期的なメンテンスが欠かせません。ところが通常、義肢装具は病院のカルテに基づき製作されるため、ユーザーは転院・転居などにより、義肢装具の来歴が分からない「装具難民」となってしまうことが少なくないのだそうです。
こうした状況を解消するため、装具の状態を常に把握できるよう、製品状態を管理する「義肢QRコード『ぽーさぽーとシステム』」を開発、製品に添付しているとのこと。さらに、約2カ月ごとにメンテナンス会を開催し、気軽にメンテナンスに訪れることができる機会を提供しています。
そして、同社の事業理念で最も特筆すべきなのが、ユーザーの生活を「トータルサポート」するという姿勢が貫かれている点。その一環として、2016年に障害者就労支援継続支援B型「ワーク・イノベーション・センター(WIC)」を設立しています。
これは、それまでは装具による生活のサポートにとどまり、ユーザーの就労までサポートできていなかった、という思いから設立された施設で、既存の建物を改修している場合が多く使いづらい面がある他の就労施設と異なり、設計に十分余裕をとったユニバーサルデザインとなっています。その広さは茨城県内の同種施設では随一とのことで、そのゆとりと細部まで配慮がなされた室内空間に驚きました。
こうした多岐にわたる取り組みを紹介するため、同社では定期的に福祉機器展を開催し、装具の紹介や業界の啓発活動を行っています。開催の際はぜひご覧になり、福祉にかける真摯な思いをご体感ください!(土浦市職員)
<注> 本コラムは「周長」日本一の湖、霞ケ浦と筑波山周辺の様々な魅力を伝えるものです。
コロナ禍越えて学業修む つくばの語学学校で卒業式
つくば文化学園による日本語学校「日本つくば国際語学院」(つくば市松代、東郷治久理事長兼校長)の卒業式が10日、同市小野崎のつくば山水亭で開かれた。卒業生は、ベトナム、中国、韓国、タジキスタン、台湾の5カ国からの10人で、この日は、欠席した1人を除く9人が、紺碧色のガウンをまとい、四角形の帽子をかぶり式に臨んだ。それぞれ大学や専門学校、就労などへの進路が決まっている。
今年度の卒業生が入学したのは2020年。新型コロナウイルスの感染が拡大する最中だった。その影響から来日の時期が異なり、全員そろっての入学式を行えなかった。
そんな当時を振り返りながら、式典で挨拶に立った東郷理事長は「よく頑張ったという言葉しか浮かばない」と卒業生を労うと、「日本でも多くの人が不安を感じる中、勉強、アルバイトに打ち込んできた皆さんを先生たちは信じています。初心を忘れず、日本での活躍を期待しています」とエールを送った。
「たくさんの経験をした日本語学校の2年間は、成長の場だった」と話すのは、卒業生を代表し答辞を述べたベトナム出身のヴドゥイトゥエンさん(21)。入学時、コロナ禍の影響で来日が半年延びた。その間、いつ日本へ行けるかわからない不安から、留学そのものを諦めることも頭をよぎったという。それでも叶った日本での学生生活は、初めて親元を離れた日々でもあった。いくつもの不安が重なる毎日の中で「様々な国の人と出会い、人見知りだった自分が積極的にコミュニケーションを取れるようになった」と留学生活が語学を学ぶだけでなく、自分への自信を得る機会になったと胸を張った。卒業後は千葉県の大学へ進学し、IT技術を学ぶ。将来は日本で就職し、ベトナムから家族を招待して各地を案内したいと笑顔で語る。
回復傾向にある留学生数
日本学生支援機構(神奈川県横浜市)によると、コロナ禍以前の2019年、日本国内の留学生は、統計を始めた1978年以降最大の31万2214人を数えたが、その後、毎年減少が続き、2022年は23万1146人となった。一方で、日本語学校を含む日本語教育機関への留学生は、2021年の4万567人を境に増加に転じ、昨年は4万9405人となっている。日本つくば国際語学院には現在、約60人が在籍している。(柴田大輔)
居場所を求め続けた想い つくばから双葉へ 谷津田光治さん㊦【震災12年】
避難して、つくばで暮らしてきた谷津田光治さんの生家は、数年前に取り壊されている。それでも月に2、3度、双葉町を訪れてきた。その理由を「双葉に行って、何するっていうのはないんだけど、『ああ、ここに家あったんだな』とか、『あそこの田んぼ、除染して綺麗にしてもらったんだけど、また草生えてきたな。今度来たら刈ってやんないとな』とか、そんな感じでひと回りしてくると、つくばに戻っても、2、3週間はなんとなく安心して落ち着いていられるんだわ」と話す。
「結局私の場合は、子どもの頃からあそこで生活してきたわけですよ。それが、あるときぽっと逃げ出してきた。そこにあるもの全部置いてきて。そういうのは意外と気になるんだ。どうなってるかな。草生えてるかな、この前の地震で崩れてないかなってね」
6号の先にある双葉町への思い
「で、また火曜日になると、グラウンドゴルフやってね。みんなで集まって。それで、その後女房に、『今週、用事あんのか?』って聞いて、『いやぁ、特にないよ』って言うと、『家さ行って、様子見てくっか?』って言って、車で出かけんの。ちょっとしたドライブ感覚。2、3時間。年食ってきて、きついかなぁと思うこともあんだけど、行けんだよな」
離れても、双葉のことが頭から離れることはなかった。つくばより内陸には住もうと思わなかった理由もそこにあるという。「6号国道を行って、海岸通りを走れば俺の家に着くんだなって。この道行ったら家があるっていう安心感があんだわ。今は取り壊してないんだけど、そういう感覚は、頭から抜けない。埼玉からだと、『どう行くかなぁ』って。遠いんだね」
「まして、俺は谷津田の跡取りだから」と話すと、谷津田さんは双葉への思いをこう続けた。「お墓があんだ。俺が建てたってのもあんだけど、あの穴入れば、俺はもうどこにも行くことはないって思うんだ。その土地から離れるっていうのは、ご先祖様に背くような気持ちにもなるんです」
「結局、そういうつながりがあるから、福島に帰りたいとか、行きたいとかっていう感情が出てくるのかもしんないね。まぁ、なんとなく、生まれたところに戻りたいっていうのは、あんでねぇかな」
終わらない避難生活
谷津田さんの自宅には、土ぼこりを舞い上げさっそうと駆け抜ける騎馬武者の写真が飾られている。双葉町がある相双(そうそう)地域の伝統行事、相馬野馬追(そうまのまおい)のワンシーンだ。谷津田さんは、1987年以来、30年以上、野馬追に参加し続けてきた。避難後も、それだけは欠かさなかった。甲冑に身を包む姿は、地域の誇りでもある。
その思い出を振り返りながら、今後については「南相馬に引っ越しても、避難する場所がここから変わるだけ。自分の家とか、自分の住んでたとこに戻ったっていう意識にはならねぇと思うんです。なんていうか、ここが俺の住んでたとこだっていう、その安心感っていうのはないな」と話す。
「やっぱり。あそこ(双葉町の自宅)に戻って初めてなんだろうな。でも結果としては、これで終わりになるんだと思うんだわ。人間終わったら、避難も終わりだからね」
震災から時間が過ぎるほど、ますます「復興」という言葉が頻繁に使われるようになった。2021年には「復興」を冠したオリンピックが開催され、昨年8月には、町内の一部で避難指示が解除された。9月には、双葉町内にできた新庁舎で役場が業務を再開した。12月には、復興予算の一部を防衛費に転用することが政府内で検討されていると報道された。
しかし、依然として、町内の大部分は帰宅困難区域内で立ち入りが制限されているし、住民の大多数が町外に暮らし続けている。「原発も国策。逃げろって言ったのも国。だったら、国策で全部きれいにして我々に『どうぞ戻ってきてください』って言うのが筋だと思います」突然故郷を追われた日から、抱え続ける憤りをそう表現した。
谷津田さんが、ふとした時に思い出す、子どもの頃の記憶がある。「海に行くと思い出すんです。子どもの頃、夏場、7月になったら海に水浴びしに行くぞって、お袋におにぎり2つ作ってもらってね。家から3、4キロくらいのとこだから、ぶらぶら遊びによく行ったんですよ」
「土地には土地の歴史があるんです。私はやっぱり、海の近くがいいんですよね」新居のある南相馬市も福島県の太平洋岸、浜通りにある。(柴田大輔)
急停止から救出までを訓練 筑波山ロープウエー3年ぶり
筑波山つつじヶ丘(つくば市筑波)の筑波山ロープウエー山麓駅付近で9日、ロープウエーが故障により急停止したとの想定の下、救出訓練が行われた。
同市消防本部北消防署筑波分署のほか、ロープウエー運行の筑波山観光鉄道、つくば警察署、茨城県防災航空隊の関係機関合同による。従来2年ごとに行われていたが、コロナ禍の影響で3年ぶりの訓練となった。
訓練は、ロープウエーの急停止により、ゴンドラ内に数人が残され、その内の1人が病院への搬送が必要な状況を想定、ゴンドラから救出後、警察と協力してピックアップポイントで搬送し、防災航空隊に引き継ぐまでの手順だった。しかしこの日、福島県白河山系で森林火災があり、県防災航空隊のヘリコプターの参加が出来ず、ゴンドラから救出、搬送するまでの訓練となった。
ロープウエーは全長1296メートル。山麓駅から女体山駅へ約200メートル向かった地点が訓練場所となり、山麓駅で542メートルの標高がある。ゴンドラの底から、救助袋を降ろし、地上と行き来し、遭難者に扮した隊員がタンカで搬送されるまでを実践した。総勢20人ほどの消防隊員らが、真剣な表情で取り組んだ。
消防署筑波分署の山岳救助隊員、杉山弘之さん(47)によれば、「筑波山は低山ながら、遭難者もおり、昨年だけで35件(うち宝篋山で5件)あり、今年になっても4件あった。近年、ロープウエーでの事故は起っていないが、訓練を通し、登山客や観光客の安全のため、任務をはたしていきたい」と語った。(榎田智司)
居場所を求め続けた想い つくばから双葉へ 谷津田光治さん㊤【震災12年】
つくば市並木の公務員宿舎に、福島県双葉町の役場機関である「双葉町役場つくば連絡所」がある。東日本大震災の後、2011年12月に設けられた。同町から避難した人々に向けて住民票などの申請手続きや、町からの連絡事項を伝えるとともに、避難者による自治会活動や地域との交流の拠点になるなど、避難生活を支えてきた場所だ。
福島県内外に避難する双葉町民が、つくばの公務員宿舎へ入居するきっかけを作り、連絡所の設置を進めたのが、元双葉町議の谷津田光治さん(81)。自身も双葉町で被災し、現在、妻の美保子さんと宿舎で生活している。震災から12年がたつ3月末、谷津田さんは宿舎を離れ、故郷に近い南相馬市へ転居する。つくばと双葉の人々を結びつけてきた谷津田さんにとって、12年の時間はどのようなものだったのか。
つくば、公務員宿舎へ入居する
「ここは、見渡すと樹木が多い。双葉の家も周りが山だったから違和感ないんです。なんとなく、双葉を思い出せるんですよ」谷津田さんが自室の窓越しに、敷地に繁るクヌギの木々に目を向ける。谷津田さんが暮らすつくば市並木の公務員宿舎には、以前は48世帯が入居していた。今はそれぞれ別の場所へ移るなどし、4世帯が生活をする。2022年3月の時点で、つくば市には437人の福島からの避難者が暮らしている。その中で双葉町の人々は、最も多い112人。
双葉町は、福島第一原発事故による放射能汚染のため町全体に避難指示がだされ、全町民が避難生活を余儀なくされた。震災直後、1400人あまりが埼玉県に一時避難するなどし、先の見えない暮らしに不調をきたす人も多かった。そんな中、当時、町議を務める谷津田さんが耳にしたのが、つくばにある公務員宿舎のことだった。
「知り合いが、『茨城のつくばに空いている公務員宿舎がある。取り壊してるところもあるけど、まだ住めるところもあるから、見てきたらどう?』って言うもんで、見にきたら、びっくりするくらい部屋があったんですよ」つくば市には1970年代、筑波研究学園都市で働く研究所職員らに向けた公務員宿舎が約7800戸建てられた。その後、老朽化などを理由に、国は段階的に住宅の廃止を進めている。
「埼玉では、学校の教室に寝泊まりしていましたし、仮設住宅も長く暮らすには大変なんです。それが、つくばにこれだけまとまった家がある。多くの町民が1カ所で生活できるわけですよ。役場の事務作業だって少なくなる」
「みんながまとまって暮らすのが一番」と考えていた谷津田さんは、各地に避難する人たちに声をかけて下見に訪れ、役場とも交渉し、その後、2011年7月までに希望者の入居が始まった。
連絡所の設置
震災後、双葉町は、集団移住先の埼玉県加須市に役場機能を移転した。しかし、避難者は各地に散らばっていて必要な連絡が行き届かない。町は、避難者の多い場所に、支所や連絡所を置き事務機能を分担させていた。それを見た谷津田さんは「連絡所をつくばにも」と町に掛け合った。「情報があっちこっちすると、間違いが起きる。直接、連絡が来るのが一番だと思ったんです」
また、つくばには、生活に必要な支援物資が届いていなかった。「当時、支援物資は加須の役場に行かないと受けとれなかった。でも、個人で行ってもなかなかもらいにくいんです。みんな困ってるのは同じだけど、物をもらうっていうのは気が引けちゃう。だから、私らがライトバンで加須に行って、役場に話をつけて受け取ってきたんです。周りの人に『何かいるのあっかな?』って聞いてまわって。連絡所があれば支援の拠点になれる。そういう考えもありました」
妻の美保子さんは「これだけみんながバラバラになって、知らない土地で心細い中にいて、何かひとつだって町から届けば『見捨てられてない』って思えたんですよね」と連絡所ができたことで覚えた安心感を話す。
始めたグラウンドゴルフ
つくばでの新しい地域づくりが始まった。そこでは避難者同士だけではなく、つくば市民とのつながりも生まれた。
谷津田さんらは毎週火曜日、近所の公園でグラウンドゴルフを楽しんでいる。12年前から欠かさない、大切にしている交流の場だ。今では避難してきた人だけでなく、地域住民も参加している。終わった後のお茶会も楽しみとなっている。
運動の指導などを通じて避難者と交流し、学生にも交流の機会を設けてきた筑波大学名誉教授で体操コーチング論が専門の長谷川聖修さん(66)は「交流の場として、私たちにとっても貴重な場です」と話す。また長谷川さんの活動を通じて谷津田さんたちと知り合い、6年前から毎週グラウンドゴルフに参加している筑波大大学院の松浦稜さん(27)は「いつも楽しみにしてきました、ここに来ると、まるで実家にいるような気持ちになります」という。
グラウンドゴルフの始まりは、当事者同士の気遣いからだった。谷津田さんは「最初は、ばあちゃんの引きこもり防止だったんです。『あそこのじいちゃん、ばあちゃん、部屋から出てこないから』って。週に1回でも引っ張り出してっていうのがあったんです。何をやるにも、48世帯に声かけてやってました」と話す。
震災の月命日もそうだった。「みんなどこにも頼るところがないし、『月に1回、みんなで集まっか』って意識があった。その後も、年に1回、3月11日に慰霊祭を続けていました」
市内に借りた畑にもみんなで行った。「なんでも作りましたね。白菜からキャベツ、じゃがいも、里芋。収穫する時は、双葉の人、近所の人にも声かけて、弁当持って行ったんです。みんな喜んで、ピクニックみたいにね」
互いの様子を気遣いながら、共に暮らせる場所を作っていった。美保子さんは「つくばに来て、何もないところからの始まりだったんです。同じ双葉でもそれぞれ違うところに住んでいたので、双葉にいたら顔を合わせることもなかったかなって思います。その人たちが、ここで親しくなったんですよね。みなさん本当に親切にしてくれて。自分の家族のような人もできました」と振り返る。
今年3月末で、谷津田さんは、双葉町にほど近い南相馬市に建てた自宅に転居する。12年暮らしたつくばを離れる日が近づいている。つくばでの人とのつながりが、福島への転居をためらわせていたと美保子さんは言う。(㊦につづく、柴田大輔)
