日曜日, 9月 8, 2024
ホームつくば居場所を求め続けた想い つくばから双葉へ 谷津田光治さん㊤【震災12年】

居場所を求め続けた想い つくばから双葉へ 谷津田光治さん㊤【震災12年】

つくば市並木の公務員宿舎に、福島県双葉町の役場機関である「双葉町役場つくば連絡所」がある。東日本大震災の後、2011年12月に設けられた。同町から避難した人々に向けて住民票などの申請手続きや、町からの連絡事項を伝えるとともに、避難者による自治会活動や地域との交流の拠点になるなど、避難生活を支えてきた場所だ。

福島県内外に避難する双葉町民が、つくばの公務員宿舎へ入居するきっかけを作り、連絡所の設置を進めたのが、元双葉町議の谷津田光治さん(81)。自身も双葉町で被災し、現在、妻の美保子さんと宿舎で生活している。震災から12年がたつ3月末、谷津田さんは宿舎を離れ、故郷に近い南相馬市へ転居する。つくばと双葉の人々を結びつけてきた谷津田さんにとって、12年の時間はどのようなものだったのか。

つくば、公務員宿舎へ入居する

「ここは、見渡すと樹木が多い。双葉の家も周りが山だったから違和感ないんです。なんとなく、双葉を思い出せるんですよ」谷津田さんが自室の窓越しに、敷地に繁るクヌギの木々に目を向ける。谷津田さんが暮らすつくば市並木の公務員宿舎には、以前は48世帯が入居していた。今はそれぞれ別の場所へ移るなどし、4世帯が生活をする。2022年3月の時点で、つくば市には437人の福島からの避難者が暮らしている。その中で双葉町の人々は、最も多い112人。

つくば市並木の国家公務員宿舎

双葉町は、福島第一原発事故による放射能汚染のため町全体に避難指示がだされ、全町民が避難生活を余儀なくされた。震災直後、1400人あまりが埼玉県に一時避難するなどし、先の見えない暮らしに不調をきたす人も多かった。そんな中、当時、町議を務める谷津田さんが耳にしたのが、つくばにある公務員宿舎のことだった。

「知り合いが、『茨城のつくばに空いている公務員宿舎がある。取り壊してるところもあるけど、まだ住めるところもあるから、見てきたらどう?』って言うもんで、見にきたら、びっくりするくらい部屋があったんですよ」つくば市には1970年代、筑波研究学園都市で働く研究所職員らに向けた公務員宿舎が約7800戸建てられた。その後、老朽化などを理由に、国は段階的に住宅の廃止を進めている。

「埼玉では、学校の教室に寝泊まりしていましたし、仮設住宅も長く暮らすには大変なんです。それが、つくばにこれだけまとまった家がある。多くの町民が1カ所で生活できるわけですよ。役場の事務作業だって少なくなる」

「みんながまとまって暮らすのが一番」と考えていた谷津田さんは、各地に避難する人たちに声をかけて下見に訪れ、役場とも交渉し、その後、2011年7月までに希望者の入居が始まった。

連絡所の設置

震災後、双葉町は、集団移住先の埼玉県加須市に役場機能を移転した。しかし、避難者は各地に散らばっていて必要な連絡が行き届かない。町は、避難者の多い場所に、支所や連絡所を置き事務機能を分担させていた。それを見た谷津田さんは「連絡所をつくばにも」と町に掛け合った。「情報があっちこっちすると、間違いが起きる。直接、連絡が来るのが一番だと思ったんです」

並木地区の公務員宿舎につくられた「双葉町役場つくば連絡所」

また、つくばには、生活に必要な支援物資が届いていなかった。「当時、支援物資は加須の役場に行かないと受けとれなかった。でも、個人で行ってもなかなかもらいにくいんです。みんな困ってるのは同じだけど、物をもらうっていうのは気が引けちゃう。だから、私らがライトバンで加須に行って、役場に話をつけて受け取ってきたんです。周りの人に『何かいるのあっかな?』って聞いてまわって。連絡所があれば支援の拠点になれる。そういう考えもありました」

妻の美保子さんは「これだけみんながバラバラになって、知らない土地で心細い中にいて、何かひとつだって町から届けば『見捨てられてない』って思えたんですよね」と連絡所ができたことで覚えた安心感を話す。

始めたグラウンドゴルフ

つくばでの新しい地域づくりが始まった。そこでは避難者同士だけではなく、つくば市民とのつながりも生まれた。

谷津田さんらは毎週火曜日、近所の公園でグラウンドゴルフを楽しんでいる。12年前から欠かさない、大切にしている交流の場だ。今では避難してきた人だけでなく、地域住民も参加している。終わった後のお茶会も楽しみとなっている。

運動の指導などを通じて避難者と交流し、学生にも交流の機会を設けてきた筑波大学名誉教授で体操コーチング論が専門の長谷川聖修さん(66)は「交流の場として、私たちにとっても貴重な場です」と話す。また長谷川さんの活動を通じて谷津田さんたちと知り合い、6年前から毎週グラウンドゴルフに参加している筑波大大学院の松浦稜さん(27)は「いつも楽しみにしてきました、ここに来ると、まるで実家にいるような気持ちになります」という。

グラウンドゴルフを楽しむ美保子さん(右)と参加者たち

グラウンドゴルフの始まりは、当事者同士の気遣いからだった。谷津田さんは「最初は、ばあちゃんの引きこもり防止だったんです。『あそこのじいちゃん、ばあちゃん、部屋から出てこないから』って。週に1回でも引っ張り出してっていうのがあったんです。何をやるにも、48世帯に声かけてやってました」と話す。

震災の月命日もそうだった。「みんなどこにも頼るところがないし、『月に1回、みんなで集まっか』って意識があった。その後も、年に1回、3月11日に慰霊祭を続けていました」

市内に借りた畑にもみんなで行った。「なんでも作りましたね。白菜からキャベツ、じゃがいも、里芋。収穫する時は、双葉の人、近所の人にも声かけて、弁当持って行ったんです。みんな喜んで、ピクニックみたいにね」

互いの様子を気遣いながら、共に暮らせる場所を作っていった。美保子さんは「つくばに来て、何もないところからの始まりだったんです。同じ双葉でもそれぞれ違うところに住んでいたので、双葉にいたら顔を合わせることもなかったかなって思います。その人たちが、ここで親しくなったんですよね。みなさん本当に親切にしてくれて。自分の家族のような人もできました」と振り返る。

今年3月末で、谷津田さんは、双葉町にほど近い南相馬市に建てた自宅に転居する。12年暮らしたつくばを離れる日が近づいている。つくばでの人とのつながりが、福島への転居をためらわせていたと美保子さんは言う。(㊦につづく、柴田大輔)

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

コメントをメールに通知
次のコメントを通知:
guest
最近NEWSつくばのコメント欄が荒れていると指摘を受けます。NEWSつくばはプライバシーポリシーで基準を明示した上で、誹謗中傷によって個人の名誉を侵害したり、営業を妨害したり、差別を助長する投稿を削除して参りました。
今回、削除機能をより強化するため、誹謗中傷等を繰り返した投稿者に対しては、NEWSつくばにコメントを投稿できないようにします。さらにコメント欄が荒れるのを防ぐため、1つの記事に投稿できる回数を1人3回までに制限します。ご協力をお願いします。

NEWSつくばは誹謗中傷等を防ぐためコメント投稿を1記事当たり3回までに制限して参りましたが、2月1日から新たに「認定コメンテーター」制度を創設し、登録者を募集します。認定コメンテーターには氏名と顔写真を表示してコメントしていただき、投稿の回数制限は設けません。希望者は氏名、住所を記載し、顔写真を添付の上、info@newstsukuba.jp宛て登録をお願いします。

0 Comments
フィードバック
すべてのコメントを見る
スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho




spot_img
spot_img

最近のコメント

最新記事

中村哲医師写真展 13日からつくばで 元JICA職員「遺志継ぎ国際支援の考え広めたい」

女性の人権考えるトークセッションも パキスタンやアフガニスタンの人道支援に従事し、2019年に銃撃を受けて亡くなった医師、中村哲さんの活動を紹介する写真展が、13日から16日まで、つくば市高野台、国際協力機構(JICA)筑波センターで開かれる。写真パネル50点を展示し、中村さんの活動を伝えるDVDの映写も行う。15日にはアフガニスタンと日本の女性の人権について考えるトークセッションやアフガニスタンの弦楽器ラバーブの演奏会も開かれる。 主催するのは「中村哲医師を偲び思索と活動に学ぶつくば市民の会」代表で、元JACA職員の渡辺正幸さん(85)。2022年から同展を始め、今年で3回目の開催となる。渡辺さんはパキスタンで人道支援プロジェクトに携わった経験を持つ。中村さんの遺志を継ぎ、パキスタンでの支援活動を継続する国際NGO「ペシャワール会」を支え、つくば市民に国際支援の考えを広めたいと話す。 羊の寄生虫駆除から 渡辺さんは1995年から5年間、JICA職員としてパンジャーブ州ドーリ村で支援活動を行った。中村哲さんが活動していた場所から600キロほど離れた、アフガニスタンとの国境近くだ。 ドーリ村の人々に最初に対面した時、人々は銃を携えていた。植物の生えない石と岩だけの谷川沿いの村では、羊が現金と同じ価値を持っており、狭い土地で過剰な羊を放牧していた。牧草が無くなると他の部族の牧草地を奪い、部族同士の争いが絶えない状況だった。そこで渡辺さんらプロジェクトチームは羊の消化管に寄生する寄生虫の駆除薬を投薬することから始め、徐々に村人たちの信頼を得た。牧草地を3つに分割し、羊を入れず牧草を育てる場所を設けてローテーションで放牧する技術や、芋やレモンなどの栽培方法も教えた。 ひどい扱いを受けていた女性の支援にも乗り出した。「女性は雑巾と同じ扱い。人権が無く、女性には教育もしない、病気になっても病院に連れて行かない。死んでもいくらでも替えが効くという考え。そこで(中村さんが現地代表を務めていた)ペシャワールからぼろきれをもらってきて洗って雑巾を縫うということを教えた」。女性たちが作った雑巾が売れるようになり、小金を稼げるようになると、男性が女性を見る目も変わってきたのを感じたという。 村長から「支援を継続」を申し出 5年間のプロジェクトが終わるころ、現地の村長ら10人からプロジェクトチームのメンバーに会いたいと申し出があった。申し出に応じ会場に赴くと、渡辺さんらが現地入りした時には銃を携えていた村人が、その時は誰も銃を持っていなかった。ドーリ村の村長自身も「銃を持たずに村境を超えることがあるのは初めてだ」と驚いた。話は「プロジェクトを続け、隣の村にも支援をしてほしい」という内容だった。武力には武力でという行動原理を、信頼関係を築くことで変えられたことは、渡辺さんにとって大きな経験だった。支援の継続は一存では決められず、日本に持ち帰った。しかし1998年にインド、パキスタンが地下核実験を行い、核兵器の保有を宣言したことから、核不拡散の立場を取る日本政府からは新規の支援協力ができなくなってしまった。 その後、中村哲さんの著作を読み、自分の体験と重なる所が多いと感じた渡辺さん。「撃たれても撃ち返すな。撃ち合いにしたら話ができなくなる」と言い、話し合いで相互信頼関係を築くことを貫いた中村さんに共感し、「力で欲望を満たす、より大きな武力を持つことが敵対する力の抑止になるという歴史がある。それを逆転させる考えを広めたい」と、2年前から中村さんの写真展企画を始めた。 戦争体験が原点に 国際人道支援への関心は、渡辺さん自身の戦争体験が原点にある。渡辺さんは満州生まれで、7歳の時に日本に帰還した。6歳の時に生まれた弟がおり、背に負ってよく世話をしていた。しかし、生まれたばかりの弟は日本に引き揚げた直後に亡くなってしまった。 「1946年8月、満州からの引き揚げ船で広島に到着し、船から降りてDDT(白い粉の殺虫剤)をかけられて払い落し、もう殺される心配はないと安堵(あんど)した時、弟は飢餓で亡くなった」。少年がぐったりとした幼児を背負い、まっすぐ立っている様子を撮影した写真「焼き場に立つ少年」を示し、「この少年は私そのものだ」と話す渡辺さん。「焼き場に立つ少年」は、アメリカの写真家ジョー・オダネル氏が撮影し、長崎原爆資料館に展示されているものだ。同じような悲劇が当時数多くあったと話す。「貧困が戦争につながる。安心して食べられる社会、不自由になっても助け合う仕組みを作り、戦争の恐怖、家族を失う悲しみをもう二度と繰り返してはいけない。そのためには平和を望む人々の声が大きくならなければならない。若い人たちに展示を見てそのことを考えてほしい」と語り、写真展への来場を呼びかける。(田中めぐみ) ◆中村哲医師写真展「アフガニスタンにあと50人の中村哲さんが居れば世界が変わる」は9月13日(金)から16日(月)、つくば市高野台3-6-6、国際協力機構(JICA)筑波センターで開催。開催時間は全日午前10時から午後4時まで。15日(日)午後1時からは、ラバーブ演奏と「女性と人権―アフガニスタンと日本―」のトークセッションが行われる。入場無料。主催は「中村哲医師を偲び思索と活動に学ぶつくば市民の会」。

健康寿命のこと《ハチドリ暮らし》41

【コラム・山口京子】母の介護サービスを通所から入所に切り替えて半年が過ぎました。家族が同居していれば家で暮らすこともできたのでしょうが、1人暮らしは不安が多く、私たち子どもの方から入所を勧め、納得してもらいました。 母は、施設や職員の様子、食事のこと、介護されている人との会話などを、よく話してくれます。施設に入所している人の年齢は90代が9割近くで、通所している人は80代後半の人が多いそうです。重い病気やケガで、70代で介護サービスを利用している人がいるものの、多くは90代だと。  その話を聞きながら、疑問に感じたことがあります。それは健康寿命についてでした。平均寿命(男性81歳、女性87歳)に比べ、健康寿命は、男性が9年、女性は12年の差があります。男性なら72歳を過ぎ、女性なら75歳を過ぎたあたりから、介護のお世話になるのかしらと漠然としたイメージを持っていました。 しかし、本当に介護が必要になるのは、個人差があるので一概には言えないものの、80歳後半からではないかと…。 平均自立期間 健康寿命がどうやって割り出されているかを調べてみると、厚生労働省が行っている「国民生活基礎調査」の「あなたは現在、健康上の問題で日常生活に何か影響がありますか」の問いに対して「ある」と回答すれば不健康、「ない」と回答すれば健康として扱い計算するということでした。 健康上の問題で日常生活に影響がある程度をどのように意識するかは自己申告のため、主観の要素が高いのではないかと感じました。また、健康上の問題があると意識しても、どうにか普通に生活できる期間は一定の年数あるのではないかと。 健康寿命を割り出す方法も複数あるようです。たとえば、国民健康保険中央会では、「日常生活動作が自立している期間の平均」を指標とした健康寿命を算出し、「平均自立期間」と呼んでいます。介護受給者台帳の「要介護 2以上」を「不健康」と定義して、毎年度算出していて、直近では、男性は79.7歳、女性は84歳でした。要介護2以上と認定されている人は、約350万人と言われています。  高齢期は、普通の暮らしから、虚弱の状態へ、そして介護が必要になる道行なのかもしれません。厚生労働省のデータでは、要介護認定を受けた人が約700万人で、実際にサービスを受けている人が約590万人となっています。 今年は夏の暑さで外出を控えることが多かったのですが、体調を意識しつつ、できることをしながら、同時に老いを受け入れていければと思います。(消費生活アドバイザー)

9日控訴審始まる 鬼怒川水害訴訟 住民、国の河川管理の在り方問う

2015年9月の鬼怒川水害で、常総市の住民が甚大な被害に遭ったのは国交省の河川管理に落ち度があったためだなどとして、同市住民が国を相手取って約3億5800万円の損害賠償を求めた国家賠償訴訟の控訴審が9日、東京高裁で始まる。 一審では、鬼怒川沿いで堤防の役目を果たしていた砂丘の管理方法、堤防改修の優先順位の妥当性などが争われた。2022年7月水戸地裁は、国の河川管理の落ち度を一部認め、国に対し、原告住民32人のうち9人に約3900万円の損害賠償を支払うよう命じる判決を出した(2023年7月22日付)。原告住民20人と被告の国の双方が控訴していた。 「水害は人災だった」 控訴審を前に2日、原告住民ら8人による説明会が常総市内で開かれた。原告団の共同代表を務める高橋敏明さん(70)は「水害は、国が対策を怠ってきたことによる人災」と厳しく批判した。 高橋さんは同市内で、観賞用の花や植物を扱う花き園芸会社を営んできた。2015年の水害では16棟あった温室が高さ1メートルの泥水に浸かり解体を余儀なくされ、「我が子のように丹精込めて育ててきた」花や植物10万株が流出するなど被害を受けた。高橋さんは「この地域は砂丘が自然の堤防となっていた。今回の水害の前年、ソーラー発電業者が砂丘を掘削していたのを国交省は止めず、十分な補修もしなかった。砂丘が存在していたならば被害を抑えることができた。砂丘を守れなかったのが悔しい」と声を震わせた。 水害から5カ月後に死亡した妻が災害関連死に認定された赤羽武義さん(84)は「妻の死の原因がどこにあったのかをはっきりさせたい。国には誠意ある回答を求める」と訴えた。 鬼怒川水害では、豪雨により常総市内を流れる鬼怒川の堤防決壊や越水があり、市内の3分の1が浸水した。同市の被害は、災害関連死を含め死亡15人、住宅被害は全壊53軒、半壊5120軒、床上浸水193軒、床下浸水2508軒に及んだ。 2018年8月、同市若宮戸地区と上三坂地区の住民約30人が、被害を受けたのは国の河川管理の問題だとして国を相手取って損害賠償を求める訴訟を起こした。 一審で原告住民は①若宮戸地区で自然の堤防の役目を果たしていた砂丘林が、太陽光発電パネル設置のために採掘された場所は、国が「河川区域」に指定し開発を制限すべきだった。②上三坂地区で決壊した堤防は、堤防の高さが低く他の地区に優先して改修すべきだったのに、国はそれぞれ対応を怠ったことが水害につながったなどと主張した。 水戸地裁は、若宮戸地区の砂丘が「(同地区の)治水安全度を維持する上で極めて重要であった」とし、国は砂丘を維持するために「河川区域として管理を行う必要があった」と国の責任を一部認める判決を出した。一方で、堤防が決壊した上三坂地区については、堤防の高さだけでなく、堤防幅も含めた評価を行う必要があるなどとし、「国の改修計画が格別不合理であるということはできない」などとして、住民の訴えを一部退けた。 一審判決についてで原告住民は「国の瑕疵(かし)を認めたことは歴史的」としながらも、敗訴した部分もあることから控訴していた。 一審で住民の訴えが退けられた上三坂地区の争点となっているのが、住民側が主張する、堤防改修の優先順位だ。住民側は決壊した堤防が、高さや幅が不十分な状態に置かれており、改修が後回しにされていたことが決壊につながったと主張した。 これに対し国は、堤防の高さと質を含めた機能評価として行った「スライドダウン評価」を根拠として反論した。 原告団共同代表の片岡一美さん(71)は「スライドダウン評価」では実際の治水安全度を正確に判断できないとして、判断基準の是非を問うことで「一審判決は間違いだったことを説明したい」とし、「国は国民の生命財産を守る意思がないと感じる。国には堤防の決壊を最優先で防ぐことを求める」と訴える。 控訴審の第1回口頭弁論は9日(月)午前10時半から東京高等裁判所101号法廷で開かれる。終了後、衆議院第2議員会館第2会議室で報告会が予定されている。(柴田大輔) ◆鬼怒川水害国家賠償訴訟の過去記事はこちら

いよいよ憧れの海辺暮らしか?《続・平熱日記》165

【コラム・斉藤裕之】毎週火曜日、この海辺の街では市が立つ。空き家になった建物などを利用して、街おこしのような形で始まったものらしい。だから、市ではなくて今風のマルシェと呼ばれている。 私は元金物店だったというジャンクショップをのぞくのが好きで、その日はライトグリーンに塗られた物干し用の金具を安価で手に入れた。それから、いつもは斜め向かいの店で柏(かしわ)餅を買って帰るのだが、あまりの暑さに喉を通らないような気がしてやめた。 ここは室積(むろづみ、コラム124参照)。かつては海の交通の要所として栄え、また美しい砂浜の海水浴場や陸系砂州として、教科書にも載る象鼻が岬(ぞうびがさき)で有名な街。 さて、マルシェを後にした私は以前たまたま見つけた半島の反対側にある小さな入り江に向かった。そこには地元の人しか知らないようなきれいな浜があって、そのときは恐らく近所の方だろうと思われる親子連れが波打ち際で遊んでいた。岸壁ではこれも地元の方だろう、3人ほどの釣り人。 どうやらサヨリを釣っているようだ。さて、そこから少し先にある小さな港まで行ってみようと思って車を走らせたそのとき、「売土地」と書かれた看板が目に入った。 気になって、少し戻って車から降りてみた。生い茂った庭木と古い平屋。入り江に面していて、先ほどのビーチやその先の海水浴場まで見渡せるまさに海辺の一軒家。そのときは「へー」という感じで、数枚の写真を撮ってその家を後にした。 青い空、白い雲、遠くの島々… その日の夕食時。義妹の手によるカワハギの煮つけをつつきながら、「そういえば今日こんなのがあってさ…」。私は思い出して、スマホの画像を弟夫妻に見せた。「いいじゃん!」。話のネタとして披露したつもりだった私にとって、弟のこの反応は意外だった。 実は、弟もかねがね同様の物件をネットで探していて(弟の場合は主に日本海側、釣りのためのシーカヤックの拠点としてだが)、その弟が立地条件や建物、環境、それから価格を見て、お買い得物件だと言うではないか。 しかし、これまで無目的に住まいを移したことはない。勉強のため、仕事のため、家族のために、住む場所は必然的に決めざるを得なかった。果たして海のそばに住みたいというわがままは通用するのだろうか。 だが、ごく近い将来、日雇い先生も辞める日が来たとき、果たして私は何をして過ごすのだろう。そう思うと、この海辺のボロ屋がユートピアに思えてくる。ここを好きなように直しながら暮らしたいと思った。 数日後、私と弟は件(くだん)の売り家の前の浜にいた。この夏新調したという弟のシーカヤックの進水式。初心者の私は、一応の説明を受けて海へと漕(こ)ぎ出した。穏やかで透き通った瀬戸内海。いつまでもギラギラしている今年の太陽も、この時ばかりは心地よく感じられた。パドルの使い方も何となく分かってきた。 テトラポットを超えて私は漕ぐのをやめて周りを眺めた。青い空、白い雲、遠くの島々、砂浜に松原。そして、すぐそこに売り家が見える。瀬戸内の海は鏡のように穏やかだが、私の心の中にはさざ波が立っていた。どうする、俺!(画家)