火曜日, 10月 13, 2026
ホームつくば居場所を求め続けた想い つくばから双葉へ 谷津田光治さん㊦【震災12年】

居場所を求め続けた想い つくばから双葉へ 谷津田光治さん㊦【震災12年】

避難して、つくばで暮らしてきた谷津田光治さんの生家は、数年前に取り壊されている。それでも月に2、3度、双葉町を訪れてきた。その理由を「双葉に行って、何するっていうのはないんだけど、『ああ、ここに家あったんだな』とか、『あそこの田んぼ、除染して綺麗にしてもらったんだけど、また草生えてきたな。今度来たら刈ってやんないとな』とか、そんな感じでひと回りしてくると、つくばに戻っても、2、3週間はなんとなく安心して落ち着いていられるんだわ」と話す。

「結局私の場合は、子どもの頃からあそこで生活してきたわけですよ。それが、あるときぽっと逃げ出してきた。そこにあるもの全部置いてきて。そういうのは意外と気になるんだ。どうなってるかな。草生えてるかな、この前の地震で崩れてないかなってね」

6号の先にある双葉町への思い

「で、また火曜日になると、グラウンドゴルフやってね。みんなで集まって。それで、その後女房に、『今週、用事あんのか?』って聞いて、『いやぁ、特にないよ』って言うと、『家さ行って、様子見てくっか?』って言って、車で出かけんの。ちょっとしたドライブ感覚。2、3時間。年食ってきて、きついかなぁと思うこともあんだけど、行けんだよな」

離れても、双葉のことが頭から離れることはなかった。つくばより内陸には住もうと思わなかった理由もそこにあるという。「6号国道を行って、海岸通りを走れば俺の家に着くんだなって。この道行ったら家があるっていう安心感があんだわ。今は取り壊してないんだけど、そういう感覚は、頭から抜けない。埼玉からだと、『どう行くかなぁ』って。遠いんだね」

双葉町では今も、町の大部分が帰宅困難区域に指定されている

「まして、俺は谷津田の跡取りだから」と話すと、谷津田さんは双葉への思いをこう続けた。「お墓があんだ。俺が建てたってのもあんだけど、あの穴入れば、俺はもうどこにも行くことはないって思うんだ。その土地から離れるっていうのは、ご先祖様に背くような気持ちにもなるんです」

「結局、そういうつながりがあるから、福島に帰りたいとか、行きたいとかっていう感情が出てくるのかもしんないね。まぁ、なんとなく、生まれたところに戻りたいっていうのは、あんでねぇかな」

終わらない避難生活

谷津田さんの自宅には、土ぼこりを舞い上げさっそうと駆け抜ける騎馬武者の写真が飾られている。双葉町がある相双(そうそう)地域の伝統行事、相馬野馬追(そうまのまおい)のワンシーンだ。谷津田さんは、1987年以来、30年以上、野馬追に参加し続けてきた。避難後も、それだけは欠かさなかった。甲冑に身を包む姿は、地域の誇りでもある。

その思い出を振り返りながら、今後については「南相馬に引っ越しても、避難する場所がここから変わるだけ。自分の家とか、自分の住んでたとこに戻ったっていう意識にはならねぇと思うんです。なんていうか、ここが俺の住んでたとこだっていう、その安心感っていうのはないな」と話す。

「やっぱり。あそこ(双葉町の自宅)に戻って初めてなんだろうな。でも結果としては、これで終わりになるんだと思うんだわ。人間終わったら、避難も終わりだからね」

JR常磐線双葉駅前につくられた、新しい双葉町役場

震災から時間が過ぎるほど、ますます「復興」という言葉が頻繁に使われるようになった。2021年には「復興」を冠したオリンピックが開催され、昨年8月には、町内の一部で避難指示が解除された。9月には、双葉町内にできた新庁舎で役場が業務を再開した。12月には、復興予算の一部を防衛費に転用することが政府内で検討されていると報道された。

しかし、依然として、町内の大部分は帰宅困難区域内で立ち入りが制限されているし、住民の大多数が町外に暮らし続けている。「原発も国策。逃げろって言ったのも国。だったら、国策で全部きれいにして我々に『どうぞ戻ってきてください』って言うのが筋だと思います」突然故郷を追われた日から、抱え続ける憤りをそう表現した。

谷津田さんが愛する双葉町の海

谷津田さんが、ふとした時に思い出す、子どもの頃の記憶がある。「海に行くと思い出すんです。子どもの頃、夏場、7月になったら海に水浴びしに行くぞって、お袋におにぎり2つ作ってもらってね。家から3、4キロくらいのとこだから、ぶらぶら遊びによく行ったんですよ」

「土地には土地の歴史があるんです。私はやっぱり、海の近くがいいんですよね」新居のある南相馬市も福島県の太平洋岸、浜通りにある。(柴田大輔)

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