水曜日, 4月 8, 2026

拡張現実下のまつりつくば8月開催 やらないパレードもスマホで見せる

つくば市きっての夏祭り「まつりつくば」は今年、8月7日から31日のロングラン開催となる。新型コロナ対策から、土浦学園線でのねぶた大パレードや、センター広場でのステージイベント、飲食の出店などは実施しない。その代わり、最新のデジタル技術を駆使するなどして、つくばらしい夏祭りの新スタイルを提案する。 つくば市とまつりつくば実行委員会が主催し、毎年8月下旬に約45万人が参加する一大フェスティバルも、昨年はコロナ禍から中止となった。市観光推進課は「2年連続で中止とするのではなく、新型コロナの影響下でも、市民が楽しみ、華やかな気持ちになれるような機会を提供できるように、新しい形でまつりつくばを開催する」と話す。 今回、導入されるAR(Augmented Reality、拡張現実)技術は、スマートフォンの画面越しに、ナビゲーションや3Dデータを現実世界に重ねて出現させることが出来る。つくばセンター広場や土浦学園線で、指定のQRコードを読み込むと、スマホ画面を通して、実在の風景にねぶたやみこしが重なって表示される。まつりつくばのにぎわいが繰り広げられているかのようなバーチャル世界が手軽に体験できるという。 コロナ禍であっても祭りを楽しむための工夫で、アプリなどのインストールは不要。市によると「QRコードが記載されたチラシを全戸配布する。そのQRコードをスマホで読み取ってもらうと、これまで祭りで演出されてきたようなものや演出がARで再現される仕組み」だという。 具体的には「ねぶたやみこし、花火の表示を想定している。例年通りとはいかないが、祭りの雰囲気が感じられるものを用意する。例えば、センター広場や土浦学園線で見ていただければ、これまでのパレードを再現できるような形」だという。さらに「自宅で花火の演出を見ていただくような形」も想定し準備している。 つくばセンター広場を中心に提灯や行灯による空間演出など、お祭りならではの雰囲気を盛り上げる計画もある。 ほかにも、オンラインステージやデジタルスタンプラリーが新たに導入される。オンラインステージでは、おはやしやよさこいパフォーマンスをインターネット上で生中継したり、過去のまつりつくばの映像のオンライン配信が行われる。 デジタルスタンプラリーでは、市内の参加店舗(現在、店舗数は未定)で電子スタンプを集めた人を対象に抽選で賞品をプレゼントする。(山口和紀) 詳細については決定次第「まつりつくば」ホームページで随時発表される。まつりつくばオフィシャルサイトはこちら。

2年ぶり 制作意欲倍加で150点 ムサビ卒業生ら県つくば美術館で支部展

武蔵野美術大学(ムサビ、東京都小平市)の卒業生らでつくる校友会の第18回茨城支部展が県つくば美術館(つくば市吾妻)で始まった。7月4日まで、会員30人の絵画など、作品150点が展示されている。 校友会顧問、沼尻正芳さん(70)によると、支部展はこれまで同美術館の第1スペースだけを使い、展示数は80点程度だったという。しかし、新型コロナ感染拡大の影響で中止になった昨年の分も挽回しようと今年は第1、第2両スペースを使い、例年の倍近い150点の展示になった。 展示されているのは、技法も油絵や水彩画、墨絵など絵画を始め、張り子人形や刺繍バッグ、藍染めスカーフなどさまざま。絵画は100号の大作もあれば、ハガキサイズの小さな作品も。沼尻さんは、「150点という数は見応えがある。ジャンルにとらわれない展示なので楽しんでいただければ」と語った。 特別展示として昨年他界した会員、繪畑浩二さんの作品の展示コーナーもある。8点の展示のひとつ、「猫の集会」は、温かみのある表情で色鮮やかな6体の張り子の猫たち。来館者らから「かわいい」という声が上がっていた。 会場を訪れていた鈴木亮寛さん(76)はつくばみらい市田村にある華蔵院の住職。寺に所蔵している江戸時代の阿弥陀如来像を、沼尻さんに半年かけて描いてもらったという。「100号サイズで迫力がある。後光が差しているような姿に感動した」と見入っていた。 同支部は、武蔵野美術大学と前身の帝国美術学校や武蔵野美術学校、短期大学、大学院などを卒業した茨城県出身者、在住者ら約80人が在籍している。大学卒業後も美術家として活動している人をはじめ、主婦、会社員や元教員などで、50代から70代が多いという。 支部展のほか、会員以外も参加できるクロッキー会やデッサン会などを牛久など県内で年3回ほど開催、地域住民とともに文化活動を創ることにも努めている。(伊藤悦子) ◇会期は4日まで。入場無料。午前9時30分~午後5時。最終日は午後3時で終了。

江戸時代の「酒」 《県南の食生活》26

【コラム・古家晴美】前回、江戸前期に著された『本朝食鑑(ほんちょうしょっかん)』(1697年)に記されていた、日本酒で作る「梅酒」について取り上げた。その後、江戸中期の類書『和漢三才図絵(わかんさんさいずえ)』(1712年)に基づき復元醸造された酒を入手し、飲んでみた。せっかくの機会なので、今回は「酒」つながりで、江戸の酒について述べることにしたい。 島根県の若林酒造が醸した「寛文の雫(かんぶんのしづく)」は、アルコール度14%、酸度4.4ミリリットル、アミノ酸度7.1ミリリットル、精米歩合90%、日本酒度(甘さと辛さを示す指標、マイナスになるほど甘くなる)マイナス78、酵母 生酛(きもと)―とラベルに記載されている。正直なところ、お酒というよりも味醂(みりん)に近い甘さだ。 現代の日本酒は、アルコール度数が大体16%、酸度1.5ミリリットル、アミノ酸度1.2ミリリットル、精米歩合70%前後、糖分4%―。日本酒度に関していえば、最近の超辛口がプラス25、大甘口がマイナス60というから、マイナス78がいかに甘いかがわかる。ちなみに、手元のプリズム式の糖度計で糖度を量ったところ、現代の某醸造元の甘口酒が11、超辛口が9、またウイスキーが14.5だったのに対し、「寛文の雫」は23.5であった(値が大きいほど糖度が高い)。 また、醸造学の小泉武夫氏によれば、江戸前期の『本朝食鑑』を復元した酒は、アルコール度数が17度で、酸度7本朝食鑑、アミノ酸度6本朝食鑑、糖分16%と、現代の酒の糖分の4倍だ。味が濃く、味醂のようにとろりとした酒で、「あんなに味の濃い酒、飲めるはずない」「酒に水増ししたものも結構、出回っていたのではないか」とのことだ。 酒の甘辛は世相を映す鏡 そもそも、少量の酒でも満足できる甘口の酒が好まれるのは、乱世や不景気、米不足の世で、飲み飽きない辛口は太平の世に好まれるとの説がある。 江戸後期になると、臼と杵(きね)の足踏み精米から水車精米へと移行し、高精白米が実現し、灘の辛口酒が人気を博す。1877~1990年の市販酒の平均値を示した資料によれば、明治は超辛口、大正はやや甘口、昭和は甘口。ところが昭和60年代以降は、肉食・油消費の増大により、さっぱりした辛口志向だそうだ。 さらに、小泉氏は『延喜式(えんぎしき)』にある古代の天皇や高官が嗜(たしな)む上級酒を再現した。アルコール度数は3%と低いが、酸度7ミリリットル、アミノ酸度9ミリリットル、糖分34%―。江戸の酒よりもさらに甘かった。しかし、このころの大甘口の酒は特権階級の飲みものであった。はちみつや大陸からもたらされた麦芽糖など、甘いものにアプローチできるのは、限られた人々だけだったのだ。下級官吏には、辛口の酒が給与の一部として現物支給されていた。 「たかが酒、されど酒」の甘辛について取り上げた。技術の発達も大きな影響を及ぼすが、味は時々の世相を映し出す鏡である同時に、時代の社会構造がそこに凝縮されているのだと考える。(筑波学院大学教授)

物材機構、製薬11社と共同研究スタート 世界に通じる標準化を目指す

物質・材料研究機構(NIMS、つくば市千現)が製薬企業11社とともに発足させたマテリアルズオープンプラットフォーム(MOP)が25日、医薬品に関する共同研究を開始した。参加企業はアステラス製薬、エーザイ、沢井製薬、塩野義製薬、第一三共、大鵬薬品工業、武田薬品工業、田辺三菱製薬、中外製薬工業、東和薬品、日本新薬。医薬品開発に関わる候補化合物の物性評価と製剤開発に関わる共同研究を企業の壁を越えて進め、研究開発の基盤力強化、開発技術の共有、開発手法の標準化を目指す。 MOPは産官学連携の新しい枠組みで、研究所と企業の個別な関係を各者の水平な連携に広げて構築し、国際競争力強化を図る。各企業が自前主義の発想から脱却し、保有技術を結集して共同で基礎技術力を磨くことが必須と考えられることから、NIMSが中心になってプラットフォームをまとめた。NIMS機能性材料研究拠点医療応用ソフトマターグループの川上亘作グループリーダーがプラットフォーム長を務める。 従来の医薬品は低分子化合物が中心だったが、近年は抗体、核酸、細胞など用いる材料が多様化しており、製薬企業には柔軟な対応力が求められている。新しい材料による医薬品は疾患予防や治療の可能性を大きく広げており、例えば新型コロナワクチンはm(メッセンジャー)RNA 技術によって開発されている。 国内製薬企業は、海外の大手製薬企業と比べると人員規模において大きく劣るのに加え、経営の効率化で研究所の部分分社化なども進み、新しい基礎技術の開発が難しくなっている。一方で、核酸医薬などの比較的歴史の浅い治療法においては評価手法が確定しておらず、その開発と標準化が急務となっていた。 つくば・並木地区にオープンラボ 当面の研究テーマは、①抗体医薬の分析法確立②抗体医薬の製剤化技術の開発③核酸医薬の物性評価法確立④低分子薬物の消化管吸収メカニズムの解明⑤非晶質医薬品の安定化⑥イオン液体の製剤利用-の6つをあげている。参加企業の約100人の研究者と共同研究を行い、国内製薬企業の物性評価・製剤開発に関する基礎技術力の向上と、製薬における開発手法において世界に通じる標準化を目指すという。 共同研究はコロナ禍で急速に普及したオンライン会議技術を利用することによって、企業間、研究グループ間の情報共有を頻繁に行って進める。また参加企業の研究者はNIMSが所有する最先端機器も利用でき、つくば(並木地区)に開設するオープンラボは、参加者が自由に出入りできる予定という。(如月啓)

「神様」寺内タケシを「伝説」の音職人がしのぶ 土浦三高下で追悼の夕べ

18日に亡くなった「エレキの神様」、寺内タケシさんの葬儀・告別式が横浜市で営まれた26日、出身地の土浦で、ひそやかに、そして大きな音のロックンロールで故人をしのぶ追悼コンサートが催された。 会場は阿見町のノーチラスカフェ(山本哲夫さん経営)。寺内さんの出身校である県立土浦三高(土浦市大岩田)が見下ろす道路沿いにあるコーヒーとジャズの店。近くに住む音響エンジニアの行方洋一さん(78)が2018年9月から、貴重な音源を持参して「音屋セミナー」を開いている。 セミナー19回目の26日は「シンフォニーオーケストラ」がテーマで、マーラーの交響楽などによるプログラムを用意していたが、急きょ前半部を「寺内タケシさん追悼の夕べ」に差し替えた。 亡くなった寺内さんは1939年生まれだから没年は82歳、行方さんとは4つ違い。1960年代、激動の音楽シーンを共に駆け抜けた世代だ。 出会いは自動車学校 「実は出会いからしておかしくってねえ」。行方さんが20歳のとき、やはり三高近くの阿見町にある県の自動車学校へ免許取得に行った。いわゆる「一発試験」、そのときが初対面で「2人とも、学科は受かったのだけど実技で落ちてね。印象に残った」。 このころから寺内さんは有名人、土浦ではことに「やんちゃ」ぶりが知られていた。父親の寺内竜太郎さんは市議会議長を務めた親分肌の政治家だったが、タケシさんには手を焼き、三高に入学させると、当時の真船始校長の自宅に寄宿させたというエピソードがある。この真船校長宅が、行方さんの自宅と通り1本をはさむだけのご近所だった。 東京に通う常磐線で乗り合わせるようになると、「お前は何をやってるんだ」と聞かれ、東芝音楽工業(後の東芝EMI)に勤めるレコーディングエンジニアだと明かした。寺内さんはキングレコード専属だったが、構わず「俺の音を録(と)ってくれ」という話に発展した。 1965年ごろ、東芝には専用のスタジオがなく、博報堂が麹町(東京・千代田区)にもっていたスタジオを借りていた。ここに寺内さんは自身のバンド「ブルージーンズ」と、後にグループサウンズブームをけん引することになる「ブルーコメッツ」を率いて乗り込んできた。ボーカルは内田裕也と尾藤イサオの2人だった。 行方さんによれば「アンプを利かせて38センチの大径ウーハー(スピーカー)4つを鳴らすんだけど、動き出しちゃうからバンドの坊やを上に乗っけて重石にして演奏するわけ。スタジオは2階にあったから1階でナレーションを録っていたDJがクレームつけてきてね、仕方がないから今日はもう帰ってくれって」。 一発録りのよき時代 皆が「やんちゃ」してた。日本のロックンロール創成期。セミナーでは2バンド、ツインボーカルの「ツイストアンドシャウト」や「青い渚をぶっとばせ」など、行方さん録音の楽曲を6曲ほどかけた。 2人の共同作業はこの時期だけ。「いわゆる一発録りで、エフェクター(装置)も多重録音(技術)もなかった。寺内さんのアドリブ(即興演奏)が入ってくると、ちょっとした癖があって、その音を拾う。下手なボーカルだなあ、なんて考えてることまで分かった」 寺内さんはこの後、「レッツゴー運命」で1967年日本レコード大賞編曲賞、母校の土浦三高を訪ねて始めた「ハイスクールコンサート」で活動の幅を広げていく。行方さんも坂本九「見上げてごらん夜の星を」や欧陽菲菲「雨の御堂筋」などのヒット曲を数多く手掛けたほか、クラシック曲の録音などでも高く評価された。一線を退いても「伝説の音職人」と呼ばれるほどの存在で、今日でも後進の指導に当たっている。「お互い一番いい時期に仕事ができてよかったと思っている」と懐かしむ行方さんだった。(相澤冬樹)

7月5日に聖火リレー 土浦、つくばの夕暮れ時を走る

7月23日の東京オリンピック開会に向けて、聖火リレーが4日、5日に茨城県内を走る。県内16市町を176人のランナーが巡る。土浦、つくば両市に入るのは2日目の5日、夕暮れどきとなる。 土浦市では、市内出身の柔道家で、2009年世界選手権金メダリストの福見友子さんら13人が走者を務める。県立土浦一高(同市真鍋)旧本館前を午後5時40分にスタートし、亀城公園を経由、約30分かけて土浦駅前の市役所(同市大和町)を目指す。 つくば市の走者は、宇宙飛行士の毛利衛さん、野口聡一さんら21人。午後7時5分にノバホール(同市吾妻)前吾妻セントラル歩道橋をスタートし、センター地区を周回、県内最終地点となるTX研究学園駅前公園(同市学園南)を目指す。駅前公園では、各日最終聖火ランナーの到着時に、聖火を聖火皿へ点火する式典が予定されている。到着式の観覧には事前申し込みが必要で、21日に締め切られている。 東京2020聖火リレーメディア事務局によると、新型コロナウイルス感染防止の観点から、沿道観覧の混雑を避けるため、各ランナーの走行区間は各走者がスタートする30分前まで非公表となっている。 大井川知事は23日の定例会見で、公道での聖火リレー開催について、今後感染が急拡大する可能性もあるとし、状況に応じて臨機応変な方針変更をすると話した。現段階では密にならないよう対策をとるとした。 リレーは3月25日に福島県からスタート、茨城県は45番目。4日に鹿嶋市の鹿島神宮をスタートし、袋田の滝や竜神大吊橋、霞ケ浦などの名所を走り、聖火をつなぐ。ライブ中継は、NHKの特設サイトで観覧できる。(柴田大輔)

追悼・高橋伍郎さん 霞ケ浦横断遠泳の実行委員長

「霞ケ浦横断遠泳を楽しむ会」の実行委員長をしていた筑波大学名誉教授(体育学)の高橋伍郎さんが6月14日、亡くなった。84歳だった。稲敷市和田岬(旧桜川村)から行方市天王崎(旧麻生町)までの約2.5キロを泳ぐ夏の催し、1987年から2011年まで25回続き、毎回100~125人の泳ぎ自慢のスイマーが参加した。 ただ24回と最終回は、土浦市の田村町 -大岩田の約2キロに変更された。天王崎にあった国民宿舎白帆荘が閉鎖され、遠泳後の入浴、シャワー、懇親の場がなくなったからという。24回と25回が土浦コースになったのは、大岩田の国民宿舎水郷の施設を使うためだったが、同宿舎も閉鎖され、25回が最後になった。 高橋さんを悼み、遠泳イベントの「言い出しっぺ」鈴木明夫さん(元茨城県歯科医師会会長)、会の事務方を務めた糸山直文さん(元ジョイフルアスレティッククラブ社長)に、遠泳会を率いた「伍郎さん」「伍郎先生」の思い出を話してもらった。 ジョイフル本田会長との出会い ホームセンター「ジョイフル本田」(本社・土浦市)が1985年、荒川沖店(同市北荒川沖町)のすぐそばに、「ジョイフルアスレティッククラブ(JAC)」をオープンさせた。同社の本田昌也会長(故人)はJACの目玉施設として50メートルプールをつくった。その設計について助言したのが伍郎さん。米国のスポーツクラブはどうなっているのか、本田会長と伍郎さんは米国まで調査に行った。 完成した本格プールで泳ぎを楽しむうち、クラブ会員の鈴木さん(かすみがうら市生まれ)が伍郎さんに「子どものころ遊んだ霞ケ浦で泳がないか」と提案。水質が懸念されたが、伍郎さんが「湖でとれたものを食べているのなら大丈夫」と遠泳会が生まれた。 霞ケ浦=水質の悪い湖のイメージを修正するのにピッタリと、会の発起人グループが竹内藤男知事(当時、故人)を訪ね、茨城県の支援を要請。知事は即決で初回100万円の補助を約束。その後も毎回60~100万円を予算化。1回目は、竹内知事がスタートのピストル合図を担当した。 「水は想像ほど汚くなかった」 遠泳会は競技ではなく、参加費3000円の「楽しむ会」。25人が1組になり、隊形を維持し、各2メートルの距離を取り、対岸天王崎を目指した。最大5班編成と決め、各班に和船が随伴した。報道船、救急船、カヌーも続いた。実行委員長の伍郎さんも一緒に泳ぎ、各班を回って泳者を励まし、安全をチェックした。 7月下旬~8月上旬に開かれたイベントを両岸の自治体も支援。出発地・和田岬では、出発を天王崎に知らせるために花火を打ち上げた。到着地・天王崎では、泳ぎ手の目標になるようにと連ダコを揚げた。 旧常陽新聞は第8回の様子を「参加者は県内全域から千葉県や東京都などにも及び、年齢も15歳から69歳までと幅広く、親子やカップルの参加者も見られた」「初出場の和知恵子さんは『完泳できてほっとしている。水は想像していたほど汚くなかったが、浄化が進んで魚や水草などが見える状態で泳ぐことができれば、素晴らしいと思う』と語り…」とリポートしている。 プールで水泳マラソン 台風で霞ケ浦横断が無理のときは、JACプールを使う遠泳会に切り替えた。クラブ内に設けられた「筑波スポーツ科学研究所」の所長もしていた伍郎さんは、水球もできる本格プールで、1万メートル、5000メートルの水泳マラソンも開いた。1月1日の正午から2日正午(JAC休館日)まで、6人の泳者が30分交代で泳ぐ「24時間スイム」も企画した。 伍郎さんの泳ぎ好きは半端でなく、猪苗代湖、田沢湖、浜名湖、洞爺湖など、全国の湖に出向いた。那珂川、四万十川などの川上りにもトライ。毎年、ワールドマスターズゲームにも参加した。 「いつも笑顔を絶やさなかった」 掲載写真を接写した「霞ケ浦横断遠泳10周年記念誌」(1997年刊)の編集を担当した亀田優子さん(不動産会社勤務)が、LINEで回覧された筑波大後輩の追悼文を送ってくれた。 「伍郎先生は、どんなときでも笑顔を絶やさなかった。色黒で立派な顎ひげをたくわえた面構えに、初対面の人は面食らう場合もあるだろうが、次の瞬間、人懐っこそうな満面の笑みに触れると、そのギャップもあってか、パッと人の心を開かせる不思議な魅力をお持ちであった」 合掌(岩田大志)

つくば工科高校サポートクラブ 《塞翁が馬》2

【コラム・三浦一憲】音楽祭プロデュースのボランティア活動はいきなり始めたわけではなく、きっかけになることがありました。1999年、娘が県立つくば工科高校・建築科に入学したことが、その「始まりの始まり」です。 学校から帰ってきた娘に「建築の授業どうだった」と聞くと、「つまらなかった。みんな寝ていた」。この返事には笑うしかないのだが、何がつまらなかったのか聞いてみると、何も知らない高校生に、いきなり構造・工法の授業だった、と。大学とは違うと思っていたから、まず建築に興味を持たせるのではなく、最初の授業から構造・工法に入るのかと、驚きました。これで、何とかしないとの気持ちが湧きあがってきたのです。 目の前に何とかしないとのことが起きている。どうしたらいいのか思案した結果、建築の持っている面白さとか、可能性みたいなことを高校生に見せ、体験させることが一番ではないか思い、当時の助川校長に掛け合いました。ボランティア活動では、これが一番大事なことです。 「高校生をサポートさせてください」と校長に話したら、「面白い! 応援するからやってください」ということになり、「つくば工科高校サポートクラブ」が立ち上がります。重要なことは、学校のテリトリーに入り何かするのではなく、外から有益なプログラムを提供することです。プロデユーサーとしての私のスイッチが入った瞬間でした。当時のつくば市は公共建築ラッシュ。これを利用しない手はないと、いろいろ企画しました。 当時のワープロ(フロッピーに保存)で書いた案内は印刷することができず、文字が薄くなったチラシをデジタル処理してなんと判読できる状態にまでしました。それでも分からない箇所は撮影したネガフィルムなどから記憶をたどり、苦労して復元したのがコラム写真です。 サポートクラブの記録(1999~2001) 1回 1999年7月17日  友部で建設中のショッピングセンター見学2回 1999年8月 3日  国際会議場、カピオホール、ノバホール見学3回 1999年9月18日  ウェディングドレスできるまで(学内教室)4回 1999年9月23日  アメリカン2×4住宅見学5回 2000年2月19日  外国人宿舎「二の宮ハウス」見学1回目6回 2000年2月26日  エポカルつくば「フランクロイドと日本」講演会7回 2000年3月18日  クラッシックフレッシュコンサート(学内音楽室)8回 2000年8月 3日  科学技術未来館~ビーナスフォート~東京国際フォーラム見学9回 2000年11月27日 外国人宿舎「二の宮ハウス」見学2回目10回 2001年3月27日  外国人宿舎「二の宮ハウス」見学3回目11回 2001年10月18日 竹中工務店・技術研究所見学 (まちかど音楽市場代表)

お米にオカヒジキも配る 筑波大学構内で150人に食料支援

筑波大学(つくば市天王台)の平砂学生宿舎で26日、食料や生活必需品の無料配布が行われ、筑波大生150人が支援品を受け取った。「学生応援プロジェクト@つくばPEACE」(冨山香織代表)が毎月行っている食料支援活動によるもので、今回初めて筑波大学構内が会場となった。 今回、配布の受付をオンライン上で行ったところ、申し込み開始時刻から20分で150人の定員に達した。「ここまで早く埋まってしまうとは考えていなかった。私たちは昨年12月から活動を始めた団体で規模も小さい。配布する食料や生活必需品などの購入費はすべて寄付で賄っており、150人がやっとの状況」と富山代表は話す。 会場の設営や食料の配布をするスタッフの中には筑波大生のボランティアも参加している。プロジェクトが情報を発信しているSNSに「お手伝いしたい」と声をかけてきた学生や、前回の食料配布の際に「プロジェクトに参加したい」と答えた学生らだ。 物資を受け取った人文・文化学群3年の学生は「金銭的に困窮しているというレベルではないが、飲食店のアルバイトにこれまで通り入れなくなってしまった。精神的にも落ち込んでしまっていた時期があった」と話した。 会場を筑波大学に移し実施 昨年12月から月1回の無料配布を松見公園(つくば市天久保)で行ってきたが、今回から会場を大学構内に移した。「暑くなってきたので松見公園では熱中症のリスクなどが危険だと判断した。先月から屋内で会場を探していたが、なかなか見つからなかった。大学の学生課に相談したところ快諾して頂き、このような形になった」と富山代表。 会場になったのは平砂学生宿舎の共用棟。かつて学生食堂があった部屋だ。今年1月に筑波大学が行った食料支援(1月22日付)でも使われた一室で十分な広さがある。 会場では米、野菜、カップラーメン、インスタント食品、歯ブラシ、マスク、タオル類などが配布された。「ニンジンやジャガイモなどの野菜類はどれも人気だが、意外と長ネギが大人気。変わったところでは『オカヒジキ』も配布している」と配布の手伝いをしているボランティアの学生は笑った。(山口和紀)

「活性化はエスカレーターでは解決できない」 つくばセンタービル改修めぐり市民団体討論

プリツカー賞を受賞した磯崎新氏の代表作といわれるつくばセンタービルに、つくば市がエスカレーターを設置するなどの改修を計画している問題で、「緊急討論 つくばセンター広場にエスカレーターは必要か」と題した市民団体による講演とシンポジウムが27日、同ビル内のつくばイノベーションプラザで開かれた。講演した鵜沢隆筑波大学名誉教授は「広場の活性化はエスカレーターでは解決できない」などと指摘した。 市民団体「つくばセンター研究会」(冠木新市代表)主催し、約50人が参加した。センター広場にエスカレーターを2基つくる計画をめぐっては、市が22日、2基のうち1基をとりやめる方針を議会に示したばかり。 鵜沢名誉教授は、つくば市が計画しているリニューアルに対して「磯崎新氏の意匠を評価するとうたいながら、十分に評価したものになっていない」と批判した。 ポストモダン建築の代表作と世界的に評価されているつくばセンタービルの特徴を示した上で、センター広場について「広場に降りる目的がない人はあえて通る必要がない設計になっている」とし、「広場の活性化はエスカレーターをつくるかつくらないかの問題ではない」と指摘した。 磯崎氏の設計の意図については「1階の広場と2階のペデストリアンデッキの視線の交差、劇場広場のようなものとしてつくったと理解できる」とし、建設当初は、広場に引用されているミケランジェロ設計のカンピドリオ広場の床のパターンや流れる水、噴水などが、ペデストリアンデッキから見られる対象だったが、時間が経つと新鮮さがなくなって、主役が不在になっているという。 その上でセンター広場の活性化について「(現在のやり方は)まちづくり会社が提案し、実施して、市民が享受する図式になっているが、図式を変えて、コンペを開いて市民からアイデアを募り、つくば市やまちづくり会社が市民のアイデアを実践し、享受するのは市民としたらどうか」と提案した。 具体的には、欧米の各都市の取り組みを例に挙げ、段ボール迷路、ヘッドフォンを付けて楽しむ野外映画会やサイレントディスコなどを提案した。さらに「中央広場にクラシックカーを置いても日常と違う風景になる」とし、「改修計画では4メートル幅の通路が2メートルになるが、中央広場の活用のためにはルートの確保が重要だ」と強調した。 水戸芸術館にはキューレーター 続くシンポジウムでは、筑波大学の加藤研助教が、つくばセンタービル建設時の磯崎氏のコンペ案を紹介し、つくばセンター広場がローマのカンピドリオ広場を反転した空洞の形になっていることについて「国家がつくった都市の中心をあえて空洞にしたのは、痛烈な筑波研究学園都市批判があった」と話した。 神奈川大学の六角美瑠教授は、同じ磯崎氏が設計した水戸芸術館とつくばセンタービルを比較し「水戸はプログラムを運営する組織ができあがっている。つくばは市民のアイデアを引き上げるキュレーターが必要」だなどと話した。 主催者の冠木共同代表は「(市のリニューアル計画に対して)話し合う場がない、意見を言う場がないことが問題。本来、こういう場は、つくば市がつくるべき」だなどと述べた。 「市民の文化度に対する挑戦状」 参加者からは「体の不自由な人がいる。エスカレーターはあった方がいい」という意見が出て、鵜沢名誉教授は「体の不自由な人には、エスカレーターよりエレベーターの方が安全」と説明し、「屋外にエスカレーターを付ける場合、雨天時に滑らないよう屋根を付けることが必要になる。エスカレーターの屋根が現状の景観になじみにくい」などと話した。 市のリニューアル計画を磯崎氏がどう受け止めているのかの議論もあった。鵜沢名誉教授が「つくば市が公開している磯崎氏のインタビューをみると、ベラスケスの絵画『ラス・メニ―ナス』を引用するなど難解な話をあえてして、ノーともイエスともとれる言い方をしている」と話すと、参加者から「磯崎さんがはっきり言ってないのは、つくば市民の文化度に対する挑戦状だと思う」「拙速にリニューアルをやる必要があるのか」などの意見が出た。 鵜沢名誉教授はその上で「あと10年ほどで登録有形文化財になるのに、大がかりな改修をするとその資格すら手放すことになる」「筑波研究学園都市は世界的にもまれな国家プロジェクトがつくられ、研究機能が根付いている。1987年に世界遺産になったブラジリア(ブラジルの首都)は規模は大きいが、貧困や犯罪などの問題が内部にある。つくばセンタービルは筑波研究学園都市の中心にある象徴的な建物。その辺も射程に入れてリニューアルを考えるべき」だなどと話した。(鈴木宏子)

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