日曜日, 7月 3, 2022
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「神様」寺内タケシを「伝説」の音職人がしのぶ 土浦三高下で追悼の夕べ

18日に亡くなった「エレキの神様」、寺内タケシさんの葬儀・告別式が横浜市で営まれた26日、出身地の土浦で、ひそやかに、そして大きな音のロックンロールで故人をしのぶ追悼コンサートが催された。

在りし日の寺内タケシさん=実弟の寺内正夫さん提供

会場は阿見町のノーチラスカフェ(山本哲夫さん経営)。寺内さんの出身校である県立土浦三高(土浦市大岩田)が見下ろす道路沿いにあるコーヒーとジャズの店。近くに住む音響エンジニアの行方洋一さん(78)が2018年9月から、貴重な音源を持参して「音屋セミナー」を開いている。

セミナー19回目の26日は「シンフォニーオーケストラ」がテーマで、マーラーの交響楽などによるプログラムを用意していたが、急きょ前半部を「寺内タケシさん追悼の夕べ」に差し替えた。

亡くなった寺内さんは1939年生まれだから没年は82歳、行方さんとは4つ違い。1960年代、激動の音楽シーンを共に駆け抜けた世代だ。

出会いは自動車学校

「実は出会いからしておかしくってねえ」。行方さんが20歳のとき、やはり三高近くの阿見町にある県の自動車学校へ免許取得に行った。いわゆる「一発試験」、そのときが初対面で「2人とも、学科は受かったのだけど実技で落ちてね。印象に残った」。

このころから寺内さんは有名人、土浦ではことに「やんちゃ」ぶりが知られていた。父親の寺内竜太郎さんは市議会議長を務めた親分肌の政治家だったが、タケシさんには手を焼き、三高に入学させると、当時の真船始校長の自宅に寄宿させたというエピソードがある。この真船校長宅が、行方さんの自宅と通り1本をはさむだけのご近所だった。

東京に通う常磐線で乗り合わせるようになると、「お前は何をやってるんだ」と聞かれ、東芝音楽工業(後の東芝EMI)に勤めるレコーディングエンジニアだと明かした。寺内さんはキングレコード専属だったが、構わず「俺の音を録(と)ってくれ」という話に発展した。

1965年ごろ、東芝には専用のスタジオがなく、博報堂が麹町(東京・千代田区)にもっていたスタジオを借りていた。ここに寺内さんは自身のバンド「ブルージーンズ」と、後にグループサウンズブームをけん引することになる「ブルーコメッツ」を率いて乗り込んできた。ボーカルは内田裕也と尾藤イサオの2人だった。

行方さんによれば「アンプを利かせて38センチの大径ウーハー(スピーカー)4つを鳴らすんだけど、動き出しちゃうからバンドの坊やを上に乗っけて重石にして演奏するわけ。スタジオは2階にあったから1階でナレーションを録っていたDJがクレームつけてきてね、仕方がないから今日はもう帰ってくれって」。

一発録りのよき時代

皆が「やんちゃ」してた。日本のロックンロール創成期。セミナーでは2バンド、ツインボーカルの「ツイストアンドシャウト」や「青い渚をぶっとばせ」など、行方さん録音の楽曲を6曲ほどかけた。

2人の共同作業はこの時期だけ。「いわゆる一発録りで、エフェクター(装置)も多重録音(技術)もなかった。寺内さんのアドリブ(即興演奏)が入ってくると、ちょっとした癖があって、その音を拾う。下手なボーカルだなあ、なんて考えてることまで分かった」

寺内さんはこの後、「レッツゴー運命」で1967年日本レコード大賞編曲賞、母校の土浦三高を訪ねて始めた「ハイスクールコンサート」で活動の幅を広げていく。行方さんも坂本九「見上げてごらん夜の星を」や欧陽菲菲「雨の御堂筋」などのヒット曲を数多く手掛けたほか、クラシック曲の録音などでも高く評価された。一線を退いても「伝説の音職人」と呼ばれるほどの存在で、今日でも後進の指導に当たっている。「お互い一番いい時期に仕事ができてよかったと思っている」と懐かしむ行方さんだった。(相澤冬樹)

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