金曜日, 4月 26, 2024
ホーム検索

震災 -検索結果

If you're not happy with the results, please do another search.

関東大震災クラスの大震災にそなえて《くずかごの唄》137

【コラム・奥井登美子】関東大震災から100年。再び、関東地方に同じような規模の震災が起こるのではないかと、私はびくびくしている。 関東大震災。1923年(大正12年)9月1日のお昼時、どこの家でも炭や薪(まき)でご飯を炊いていた時だった。倒れた木造の家から発火、町の中2~3か所に火の手が上がったという。 私の母は妊娠中。大きなお腹を抱えて、父と姑(しゅうとめ)3人で新富町の家から皇居前広場に逃げた。途中、銀座通りを横切る時、火の玉が勢いよく飛んできて、危うく火まみれになるところだったという。 皇居前広場で3日間野宿。当時、朝鮮の人に対する差別があって、「朝鮮人が井戸に毒を入れたから水は飲んではいけない」と言われ、飲ませてもらえなかったのがつらかったという。その後、母は芝公園で出産し、私の兄、加藤尚文が生まれた。兄の戸籍謄本には出生地「芝公園」と記入されていた。 母の実家の母親(私の祖母)も震災後に亡くなり、6人の弟たちの面倒も見なければならず、母は心身ともに極限に陥り、震災後10年間、子供をつくることができなかったようだ。 当時、焼け野原の都心から、阿佐ヶ谷、荻窪方面に移住する家族が多かった。我が家も、荻窪のノラクロ漫画の作者・田河水泡(たがわ すいほう)さんのお隣りに住み、私はそこで生まれた。 私が言葉を覚え始めた頃、母から震災の恐怖を何十回となく聞かされて育った。10年目に生まれた娘に、その時に体験した恐ろしさを語ることで、やっと母は自分を取り戻すことができたのではないかと思う。 いざという時は雨水を利用 今年の能登半島地震も、飲料水など生活用水で苦労している。100年前の関東大震災と変わらないのではないかと思う。 近くの池の水、川の水、昔使っていた井戸の水。身近にある水の水質を、今は簡単に調査できる器具がたくさんある。調査しておけば、「いざという時に」何かと便利なのではないかと思う。 雨水の積極的利用も有効。昨年、土浦の自然を守る会のどんぐり山を見に来てくれた村瀬誠氏(薬学博士)は、地面にヒ素が含まれていて井戸水が使えないバングラディシュでは、雨水利用を積極的に実行していると話している。 関東地方にあり過ぎるマンションの屋上にちょっとした細工をすれば、災害時に備えての雨水利用が有効に働くと思う。(随筆家、薬剤師)

関東大震災クラスの大震災に備えて《くずかごの唄》137

【コラム・奥井登美子】関東大震災から100年。再び、関東地方に同じような規模の震災が起こるのではないかと、私はびくびくしている。 関東大震災。1923年(大正12年)9月1日のお昼時、どこの家でも炭や薪(まき)でご飯を炊いていた時だった。倒れた木造の家から発火、町の中2~3か所に火の手が上がったという。 私の母は妊娠中。大きなお腹を抱えて、父と姑(しゅうとめ)3人で新富町の家から皇居前広場に逃げた。途中、銀座通りを横切る時、火の玉が勢いよく飛んできて、危うく火まみれになるところだったという。 皇居前広場で3日間野宿。当時、朝鮮の人に対する差別があって、「朝鮮人が井戸に毒を入れたから水は飲んではいけない」と言われ、飲ませてもらえなかったのがつらかったという。その後、母は芝公園で出産し、私の兄、加藤尚文が生まれた。兄の戸籍謄本には出生地「芝公園」と記入されていた。 母の実家の母親(私の祖母)も震災後に亡くなり、6人の弟たちの面倒も見なければならず、母は心身ともに極限に陥り、震災後10年間、子供をつくることができなかったようだ。 当時、焼け野原の都心から、阿佐ケ谷、荻窪方面に移住する家族が多かった。我が家も、荻窪のノラクロ漫画の作者・田河水泡(たがわ すいほう)さんのお隣りに住み、私はそこで生まれた。 私が言葉を覚え始めた頃、母から震災の恐怖を何十回となく聞かされて育った。10年目に生まれた娘に、その時に体験した恐ろしさを語ることで、やっと母は自分を取り戻すことができたのではないかと思う。 いざという時は雨水を利用 今年の能登半島地震も、飲料水など生活用水で苦労している。100年前の関東大震災と変わらないのではないかと思う。 近くの池の水、川の水、昔使っていた井戸の水。身近にある水の水質を、今は簡単に調査できる器具がたくさんある。調査しておけば、「いざという時に」何かと便利なのではないかと思う。 雨水の積極的利用も有効。昨年、土浦の自然を守る会のどんぐり山を見に来てくれた村瀬誠氏(薬学博士)は、地面にヒ素が含まれていて井戸水が使えないバングラディシュでは、雨水利用を積極的に実行していると話している。 関東地方にあり過ぎるマンションの屋上にちょっとした細工をすれば、災害時に備えての雨水利用が有効に働くと思う。(随筆家、薬剤師)

元校長が個展 震災・コロナ禍経て ふるさとへ「祈りのバトン」 

沼尻正芳さん 筑波山や板橋不動院などをモチーフに描く画家で、元つくばみらい市立伊奈東中学校校長の沼尻正芳さん(73)による個展「ふるさと・祈りのバトン沼尻正芳展」が12日から、県つくば美術館(同市吾妻)で開かれている。学生時代から現在に至るまで、約56年間の主な作品119点を展示する。開幕初日は100人以上の人が訪れ、作品に見入っていた。 コロナ禍をきっかけに連作したという仏像の油彩画は、油彩ならではの陰影でその迫力を捉えながらも、沼尻さんの温かいまなざしを感じる作品群となっている。沼尻さんは「東日本大震災やコロナ禍を経て、自分にはどうしようもないが、なんとか早く収束してほしいという祈りしかなかった。平和、平常を長くつなげていきたいという思いから個展のタイトルを『祈りのバトン』とした」と制作への思いを語る。 筑波山や地元に自生するヤマユリなどを題材とすることについては「ふるさとに育てられたという思いがある。関連するものを描きながら、ふるさとを大事にしたい、愛する思いを描きたいという気持ちがある」と話す。 17歳の自画像も 17歳の時に描いた自画像や武蔵野美術大学時代に卒業制作したスクリーンタペストリーを始め、つくばみらい市出身の江戸時代の探検家、間宮林蔵を描いた80号の油彩画や、同じく80号で冬の筑波山を描いた「雪景色」など、昨年から今年の新作も展示する。 スクリーンタペストリー「光と空間のイメージ」は麻糸と毛糸で鮮やかに幾何学的な模様を織り込んだ作品で初公開となる。ステンドグラスのように光が透過する縦270センチ、横360センチの大作だ。 沼尻さんは、水海道一高の高校生だった時に絵を始めた。理数系クラスに所属していたが、ある日、美術教師に放送で呼び出され、美術部にスカウトされたことをきっかけに絵を始めた。「放送で呼び出されたときは何か悪いことをしたのかなと。行ってみると美術部にスカウトされて、先生がそう言ってくれるのならやってみようと思った」と話す。武蔵野美術大学造形学部に進学し、卒業後は教職に就いて茨城県南の小中学校で美術教諭を務めた。伊奈東中学校校長を最後に退職した。 去年発足した「つくばみらい市美術作家協会」の代表でもある。2018年から19年にはNEWSつくばにコラム「制作ノート」を執筆していた。沼尻さんは「筑波山などを描いているので、地域の人にぜひ見に来てほしい。子どもたちにも見てほしい」と語った。 会場を訪れたつくば市在住の鈴木智子さん(37)は沼尻さんの教え子で、中学校で美術部に所属していた。美術部長を務め、美大に進学した。「しばらく絵を描くことからは離れていたが、先生の絵をグループ展で何回か見て描く気持ちに火が付き、最近また描くようになった。この個展をずっと楽しみにしていた」と話し、作品の作り方やモチーフについて熱心に質問していた。 つくば市在住の野本恵美子さん(65)は、木や石で制作した壺や笛を鑑賞し「ユーモラスな作品があり、おもしろい。友人を連れてもう一度見に来ます」と話していた。沼尻さんは、笑顔のように見える装飾の壺や、丸みを帯びた鳥笛などの造形を紹介しながら「本来の自分が表れているのはこういうユーモラスな作品かもしれない」と語る。つくばみらい市立図書館の元館長で美術評論家の秋田信博さんも「邪心とは無縁の、動物愛護への精神が連綿と伝わってくる」と講評を寄せた。(田中めぐみ) ◆「ふるさと・祈りのバトン 沼尻正芳展」は17日(日)まで。開館時間は午前9時30分~午後5時(最終日は午後3時まで)。入場無料。

原発震災「若い人たちに伝えなくては」 つくば駅前で市民集会

震災13年 東日本大震災から13年経った11日、「さよなら原発!守ろう憲法!」と題した市民集会がつくば駅前のつくばセンター広場で催された。東海第2原発の運転差止めを求め住民訴訟を起こしている原告団共同代表の大石光伸さんが登壇し「若い人たちに原発震災の実態を伝えていかなければならない」などと話した。 市民団体「9条改憲NO!市民アクションつくば連絡会」(山本千秋代表)と「『東海第2原発いらない首都圏ネットワーク』つくば」(阿部真庭代表)が主催した。原発と憲法をテーマにした市民集会は震災翌年の2012年3月11日から毎年、つくば駅前で開催されている。市民約60人が「福島を忘れない」「憲法9条は日本の宝」などのプラカードを手に参加した。 大石さんは、岸田文雄首相が原発推進政策に転換したことについて「22年6月の最高裁判決で国の責任を認めない判決が出され、一気に原発にかじを切った流れがある。これに対し私たちがどう闘っていくかが問われている」と話し、「13年前、私たちは日本の原発をなくしていこう、世界の核兵器をなくしていこうと決意したが、若い子は『さよなら原発』でなく『こんにちは原発』と茶化して言う子もいるなど、国の宣伝が強くなっている。今、原発の在り方が根底から覆されようとしており、若い人たちに伝えていかなくてはならない」などと述べた。 さらに「13年前、つくばでも放射能汚染を経験し、当時、3月15日朝、東海村の研究所では高濃度の放射能プルームが通過したことが分かって、国や県に通報したが、国も県も何もしなかった。こういう状態の中で再び原発事故が起きた時、自治体に対応できるだろうか」と問い掛けた。その上で「1月1日の能登半島地震は、再び原発を動かすことに対する自然の警告だと受け止めざるを得ない。原発震災の中では避難などできないことを改めて訴えていきたい」などと語った。 市民集会ではほかに、東海第2原発再稼働の是非を問う県民投票の2回目の直接請求を呼び掛ける「いばらき原発県民投票の会地域支部つくば原発投票の会」共同代表の小林納深子さん、「憲法9条の会つくば」共同代表の石上俊雄さんなど10の市民団体や政党関係者がそれぞれ震災から13年を迎えた思いや課題などを話し、「実質改憲や東海第2原発再稼働の動きに反対する。まともな政治を取り戻すために力を合わせて活動する」などの集会アピールを採択した。 続いて「地震津波国の日本に原発はいらない」「古くて危険な東海第2原発は再稼働するな」などのスローガンを訴えながら、同駅周辺約2キロをパレードした。 初めて参加したつくば市に住む村井さとみさん(58)は「昨年4月、大阪からつくばに引っ越してきた。大阪でもデモに参加していたが、大阪に比べると人数が少なく、楽しく、仲良くやっているなと思った。原発や憲法など、いろんな団体が一緒になってやっているところがいいと思う。憲法を守ろうというのは大事なメッセージになると思う」と話していた。(鈴木宏子)

被災状況記した地図など公開 国土地理院が企画展【関東大震災100年】

国土地理院(つくば市北郷)内の地図と測量の科学館で「関東大震災100年ー地図に残る地殻変動と被災状況」と題した企画展が開かれ、同院の前身の参謀本部陸地測量部の調査隊員が震災直後に被災地を調査し、被災状況を書き込んだ地図や、地殻変動を測量した記録などが展示されている。 隊員94人が現地調査 被災状況が書き込まれた地図は「震災地応急測図原図」で、1万分の1から20万分の1までの複製地図56点が一堂に展示され、手に取って見ることができる。震災直後の9月6日から15日まで、当時の調査隊員94人が東京、千葉、神奈川などの被災地を歩いて調査し、地図上に、家屋の倒壊や焼失の状況、鉄道や道路、橋などの損壊状況など被災状況を書き込んだ。赤色の字で「家屋ことごとく倒壊し現存してあるもの郡役所のほか数戸に過ぎず」などの記載がある。実物も7点ほどが開催期間中、代わる代わる展示されている。 一方、軍関係施設などが立地する区域の地図は当時、外に持ち出したり公開するのを禁じられ、被災調査で使用することができなかった。調査隊員は、持ち出し禁止区域の海岸線や河川、鉄道、主要道路、集落や地名を和紙に写し取り、「写図」を作って現地調査で使用した。会場では被災状況が書き込まれた「写図」も展示されている。 延長460キロを測量 地殻変動を測量した記録は、余震が沈静化してきた9月26日から房総半島と三浦半島を、10月下旬から東京付近の水準点を測量した。水準点231点、延長460キロを測量し、水準点の沈下や隆起の概要をまとめた1924年3月の報告書「関東地方激震後における震災地一等水準路線の変動について」が初めて公開されている。東京湾の入り口、神奈川県三浦市の油壷験潮場は震災で約1.4メートル隆起し、機器が破損したため潮位を測定できなかった。企画展では油壷験潮場の当時の潮位の変化がパネルで初公開され、機器が損傷し、記録が空白となっていることが分かる。さらに三角点808点の当時の測量記録をもとに、震災前と後で地形がどのように変化したかを現代の地図上に記した三角点の水平位置移動図も初公開されている。 ほかに、被災直後の東京の街の様子などを撮影した絵はがき約50点や、災害に対する現在の取り組みなども紹介されている。絵はがきは、当時の人々が、震災の様子を遠くの親戚などに送って知らせたものだと言う。 同館で関東大震災をテーマに企画展が開かれるのは震災85年の2008年に次いで2回目。 同院広報広聴室の塩見和弘室長は「企画展では、当時の水準測量と三角測量の実際の記録を元にして、関東大震災でどんな地殻変動が起こったのかを見ることができる。潮位の観測も初公開され、当時どのように潮位が変化したかが分かる。当時の測量の成果や我々の先輩が後輩に残した記録を現代の地図上に落とし込んで、どのような地殻変動が起こったかということも見ることができる。当時の実際の地図のレプリカから、災害の状況を手に取って見ることもできるので、防災意識の醸成や防災に役立てていただければ」と話す。(鈴木宏子) ◆同展は10月1日(日)まで。入場無料。開館時間は午前9時30分~午後4時30分。月曜休館。地図と測量の科学館は、つくば市北郷1、国土地理院構内。詳しくは電話029-864-1872。

朝鮮人虐殺 県内でも発生【関東大震災100年】

1923年9月1日に発生した関東大震災から100年がたつ。当時「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「暴動を起こした」などのデマが飛び交う中で、軍隊や警官、地域の自警団が多数の朝鮮人を殺害する「朝鮮人虐殺」が起きた。朝鮮人だけでなく中国人、さらに朝鮮人と見誤られた日本人、社会主義思想を持つ人々へも暴力は向けられた。朝鮮人虐殺は首都圏だけでなく、土浦をはじめ茨城県各地でも起きていたことが当時の報道で確認できる。私たちが暮らす街でかつて何が起きたのか、暴力がなぜ広まったのかを当時の報道などを元に振り返る。 殺気立った真鍋町 1923年9月6日の新聞「いはらき」に、現在の土浦市真鍋町で起きた自警団による朝鮮人への襲撃事件が「五人組の鮮人 連れの婦人半殺し 少年一人も虫の息 殺気立った眞鍋町」という見出しで報じられた。 9月4日夜12時、真鍋町内で地元の自警団が子供2人を含む5人連れの朝鮮人を発見すると、5人を「袋叩きのうえ溝に投げ」込んだ。5人は同町北部にある赤池という池に面した伝染病患者の隔離施設「避病舎」に収容されると、さらに、そこに押しかけた地域住民により暴行を加えられた。その過程で17歳の男性が絶命(のちに蘇生)し、婦人が「半殺し(原文ママ)」に遭った。 前日9月3日には、土浦駅で3人の朝鮮人に対する暴行事件が発生した。これを報じた河北新報は、3人のうち2人が逃走するとその噂が「雷のように町中に拡まり(中略)小さな土浦の街はすっかり恐怖に包まれ」たと、当時の土浦の空気を伝えている。    「いはらき」は、東京で惨殺される朝鮮人の様子を報じつつ、県内各地で起きる暴力事件をその後も伝えている。 いずれも9月6日付の紙面に▷藤代駅着下り列車に一鮮人が乗り込んでいたのを警護団が取り押さえ半殺しとした▷六鮮人を袋叩き 助川駅(現・日立駅)頭の血塗り▷千波湖(水戸市)に鮮人逃込む 脅しの小銃発射ーなどの記事が掲載されている。 朝鮮人と見誤られたことで犠牲となった日本人のことも同じ6日の記事で伝えている。▷下館(現・筑西市)で、竹槍や棍棒で武装した在郷軍人らによる自警団が町内を巡回中、朝鮮人と疑った2人の日本人に暴行を加え怪我を負わせた▷真壁町(現・桜川市)で、25歳の男性が朝鮮人と誤認され日本刀や鋤を用いて殺害されたー。後日、真壁の事件は2人が起訴され、1人に実刑、もう1人には執行猶予付きの判決が言い渡されている。 避難者からデマ伝わる 都立大学名誉教授の田村紀之氏の調査によると、震災前後、県内には297人の朝鮮人が暮らしていた。「関東大震災の禍根ー茨城・千葉の朝鮮人虐殺事件」(筑波書林)によると、県内では主に、現在の阿見町に位置する旧海軍霞ケ浦航空隊による埋め立て工事や、水郡線の建設現場などに従事する朝鮮人労働者がいたとされる。 同書は、震災前から労働者として県に居住してきた朝鮮人に対する暴力行為は、9月3日の夜ごろから始まっているとし、常磐線が復旧後、東京などから続々と県内に押し寄せた避難者の口から朝鮮人に対する流言飛語が伝わり、民衆を殺気立たせたとしている。 報道が憎悪を煽動 震災で混乱する街にデマが流れ込み、「殺気だった」状況がつくられた。そこへさらに、朝鮮人への憎悪を煽動する報道がなされていたことが、当時の新聞から確認できる。被災状況中心だった地震直後の紙面が、日を追うごとに変化する様子を「いはらき」から見ていきたい。 「いはらき」が震災の一報を「稀有の大地震」と伝えたのが9月2日。その日、同紙は土浦で常磐線が脱線し39人が死傷したことを中心に、県内各地の被災状況を報じているが、まだ県外の詳細は報じていない。3日になると「大東京全滅」という大見出しとともに、写真付きで東京、神奈川など首都圏の壊滅的な状況が詳報されはじめる。翌4日になると、報道の関心が「震災」から「朝鮮人」へ移りだす。1面で「朝鮮人二千の掠奪 毒薬を井戸に投入した噂」と伝聞を報じると、「鮮人襲来」「鮮人凶暴の所以」「不逞鮮人跳梁」など煽動的な見出しが紙面を埋めていく。 5日の社説では「憎むべき不逞者よ!」との見出しで「鮮人の群は罹災民から金品を強奪し(中略)市街に放火し爆弾を投擲し飲料井水に毒物を投入すという実に何の悪魔ぞ。咄!咄!彼らは人なるか獣なるか」「鮮人こそ人類人道の敵」とデマをもとに朝鮮人への憎悪を掻き立てる。また同日の紙面には、「市中横行の鮮人五千 足尾其他からも上京の形勢」と、あたかも各地から首都へ朝鮮人が攻め入るような見出しを付けつつ、「怪鮮人」「毒薬所持鮮人」「暴動鮮人」などの朝鮮人を取り上げた記事が、広告と連載小説を除いた全4面ある紙面のおよそ半分を占めている。 7日の社説は「牢記せよ、この暴動を!(※牢記=しっかりと記憶すること)」として地震による都市の壊滅的な被害を嘆きながら、「最も痛恨に堪えぬは、この大災害に乗じて不逞鮮人が暴動し、放火、破壊、略奪、陵辱、虐殺あらゆる残虐を行なったことである」と断定した上で、これが「三千四千の鮮人」による計画的な蜂起であるとし、日本による朝鮮統治への悪影響を及ぼしかねない状況であるとして「深憂に堪えぬ」と述べ、「今回の鮮人暴動」は「全国民の牢記すべき事件である」と結んでいる。 すでに報道の主眼が被災状況を伝えることから朝鮮人への危機意識の煽動へと向かっていることがわかる。当時はラジオ放送が始まる以前であり、新聞が報道の中心を担っていた時期であることを考えると、混乱の中での報道が、他の各紙同様に県内でも、拡散されるデマに根拠を与えただけでなく、「殺気立った」状況をさらに街に作り出す一因になっていた。 「語り継いでいかなければいけない」 「関東大震災の禍根ー茨城・千葉の朝鮮人虐殺事件」の著者の一人で、元小学校教諭の櫻井優子さん(69)は、真鍋町での暴行事件の証言を目撃者から聞き取るなど、学生時代に実地調査に臨んだ。きっかけとなったのが、学生時代に接した差別的な報道や、実際に交流した日本で暮らす朝鮮人との出会いだったという。学生時代に調査を進める中で櫻井さんは「日本人の中に、この事件に対する責任が受け継がれていないこと」を実感したとし、「この事件は、朝鮮と日本という二つの国家の関係の中で起こったことで、消えることのない事実。人権意識の欠如が招いたこの悲劇を繰り返さないためにも、歴史的な事実はありのままに語り継いでいかなければいけない」と語りかける。 政府の中央防災会議は2009年の報告書で、虐殺の犠牲者数が震災による死者・行方不明者約10万5000人の1~数パーセントにのぼると推計し、「大規模災害時に発生した最悪の事態」との認識を示している。(柴田大輔)

富岡町出身者の交流団体立ち上げ 小園治さん、喜英子さん【震災12年】

福島県富岡町出身の小園治さん(72)と喜英子さん(67)は、つくば市の研究学園駅に近い新興住宅地に2016年から夫婦2人で暮らす。翌17年には、つくば市内に住む30世帯ほどの富岡町出身者に声を掛け、避難者同士が交流し親睦を深める「つくばさくら会」を立ち上げた。現在コロナ禍で活動を休止しているが、3カ月に1回ほど集まり、芋掘り、ブルーベリー摘み、料理教室 ボウリングなどのイベントを開催してきた。 「おなかの底から笑えるのは地元の人じゃないと。かしこまらなくて済むし」と喜英子さん。「富岡から来て、外に出にくかったり、自宅にこもりがちになっている人に声を掛けて、少しでも外の空気を吸ったりして、皆で楽しんでいる」と治さんは話す。 「つくばに来て、右も左も分からなかったが、外に出て何かやらなきゃいけないと、筑波大学のゴルフ講座に申し込んでそこで友達ができた」と治さん。喜英子さんは「つくば市役所の相談窓口で卓球サークルを紹介してもらって卓球を楽しむようになり、今も週1回、谷田部総合体育館で続けている。夫婦で大穂交流センターのいきいき体操教室に参加したお陰で友だちも増えて、『畑やらない?』って誘われて、豊里の畑でジャガイモをつくったりしている」と話す。 ただ、今年に入り、配偶者の死をきっかけに「ここにいる意味が分からない」と、福島県内に土地を見つけ、引っ越していった会員もいるという。 車庫の車の中で一夜 12年前の3月11日、喜英子さんは、福島第1原発から8キロほど離れた富岡町で、次女と2人で暮らしていた。夫の治さんは当時、電力会社の関連会社に勤務し、神奈川県川崎市の会社寮に単身赴任。東京電力社員の長男は、大熊町の社員寮に入り、BWR(沸騰水型軽水炉)の運転員を養成するためのBWR運転訓練センターで研修を受けていた。 次女は隣の双葉町役場で保健師として勤務していた。3月11日は送別会の予定があり「なるべく早く帰っておいで」と言って次女を送り出した。しかし次女と再会できたのは1週間後。保健師の次女は町民と一緒にバスでさいたまスーパーアリーナに避難し、さいたまで次女の無事を確認することができた。 余震が続く3月11日、近所の人たちは近くの体育館に避難した。次女と連絡がとれない中、喜英子さんは「娘が帰ってきたら自分を探すのではないか」と、車庫に止めてあった車の中で、時折エンジンをかけてラジオを聞きながら、一夜を過ごした。 翌日、避難するよう言われ、着の身着のまま隣接の川内村の小学校に避難した。すぐに帰宅できるだろうと、飼っていたビーグル犬を庭先につないだまま、容器に水とえさをいっぱい入れて自宅に残した。 避難先で、福島市の友人と電話がつながり「水は無いけど電気があるからうちにおいで」と誘われ、川内村の避難所から福島市の友人宅に2泊した。栃木県の那須塩原駅までなら新幹線が通っていることが分かり、タクシーで那須塩原まで行き、震災から5日後、東京駅で治さんと会うことができた。その後は治さんが単身赴任する川崎市のワンルームの寮に身を寄せた。 町民と医師の板挟みに 次女は双葉町民と共にさいたまスーパーアリーナから加須市の旧騎西高校に避難し、保健師として勤務を続けた。夜中、次女から喜英子さんに電話がかかってきたことがあった。社会人1年目だった次女は、住民と医師の板挟みになり憔悴している様子で、トイレの個室から泣きながら電話を掛けてきた。 数日後、休暇をとるよう夫婦で次女を迎えに行ったところ、男性用のももひきをはき、よれよれの格好をして、咳込んでいる次女の姿があった。次女はその年の7月に双葉町役場を退職、都内の大学病院や総合病院で勤務した。 感動の再会 富岡町の自宅は当時、居住制限区域に指定された。一時帰宅した際、自宅の駐車場にビーグル犬を保護したと書かれた動物愛護団体の貼り紙が貼ってあった。喜英子さんは一人になる日中、インターネットを検索し、ビーグル犬を探し始めた。 やがて「ブルーの真新しい首輪をしたよく吠える犬です」と紹介された被災犬のサイトを見つけた。掲載されていた写真は飼い犬そっくり。同じ川崎市内の動物病院にいることも分かり、そんなに吠えるなら飼い犬に違いないと、翌日、動物病院に見に行った。 朝早かったことから、動物病院はシャッターが閉まっていて、犬の鳴き声もせず静かだった。すると看護師が犬を3頭ほど連れて散歩から戻ってきた。そのうちのビーグル犬が喜英子さんを見つけて突進してきて、ワンワン吠ながら喜英子さんの顔をぺろぺろなめ、感動の再開を果たした。 喜英子さん夫婦は単身寮から駅近くのマンションに引っ越していたが、犬を飼うことはできず、千葉県内に住む長男の妻の実家で引き取ってもらうことになった。ビーグル犬はその後、2016年8月まで生き、17歳で死んだ。「最期は幸せだったと思う」と治さんはいう。 根無し草ではいられない 2015年2月、富岡町で近所だった喜英子さんの同級生が、つくば市内に住む長女と同居することになり、「日中何もしてないから、つくばに遊びにおいで」と連絡があった。初めてつくばに来た喜英子さんを、友人があちこち案内してくれ、分譲住宅を見て回った。 治さんは翌年1月に会社を退職することが決まっていた。富岡町の自宅はすでに解体していた。再び治さんとつくばの分譲住宅を見に行き、「1人でも知っている人がいたら心強い」と2カ月後、つくばに家を購入することを決め、治さんが退職した16年1月、つくばに転居した。 「家が決まるまでは夢中で、私たちどうなっちゃうんだろう、いつまでも根無し草ではいられないと、気持ちばかり焦っていた。どこかに落ち着かなきゃ、腰をすえなきゃと、富岡のことは考えられなかった」と喜英子さんは当時を振り返る。「今つくばに落ち着いてみると、富岡で生まれ育ち、富岡で子育てをして、富岡しか知らない私にしてみると、なんで富岡に帰る選択をしなかったのかなとも思う」とともいう。 富岡町の家は解体したが、お墓が残る。治さんは千葉県柏市出身。長男だったので、富岡町に家を建てたとき、千葉の両親のお墓を富岡町に移した。喜英子さんは「もしものことがあったら、富岡のお墓に入れてねって、子どもたちには言ってある」という。(鈴木宏子) 終わり

つくばの宿舎で「区切り」の慰霊祭 震災12年

東日本大震災から12年の11日、つくば市並木の公務員宿舎で、福島県双葉町からの避難者ら約30人による慰霊祭が開かれた。2020年以来となる。双葉町は、原発事故による避難指示で、全町民が避難を余儀なくされてきた。 この日、双葉町出身の谷津田光治さん(81)と妻の美保子さんが暮らす自宅前に設けられた祭壇に、集まった一人ずつが線香をたむけ、手を合わせた。参列したのは同町から避難してきた住民のほか、毎週火曜日に近所の公園で行われるグラウンドゴルフや、以前行われていた月命日や夏祭りなどに参加し、親睦を深めてきた同市内の学生や地域住民たち。この日は、現在他県に暮らす人も多数訪れ、旧交を温めた。 宿舎には、双葉町民を中心に、福島から避難してきた47世帯が暮らしてきた。同町民による自治会も発足し、避難先に新たな地域社会を築いてきた。近年は、同市内や周辺地域、福島県などへ転居する世帯が増え、現在は谷津田さん夫妻を含めて4世帯が暮らしている。谷津田さんも今月末でつくばを後にし、故郷に近い南相馬市へと転居する。 交流の筑波大学関係者らも参列 運動の指導などを通じて谷津田さんらと交流し、学生にも避難者との交流の機会を設けてきた筑波大学名誉教授で体操コーチング論が専門の長谷川聖修さん(66)は「12年間本当にお世話になりました。福島の皆さんとはこの場所がなければ出会うことがなかった。慰霊祭ということでは一区切りがつくけれど、これからもよろしくお願いします」と気持ちを述べた。 長谷川さんの教え子で、北海道から参加した工藤実里さん(25)は、学生時代の交流を思い返しながら、「会いたい、帰ってきたいと思える場所。これまで皆さんが築き、守ってきた場所で出会えたことに感謝の気持ちでいっぱいです。ここでの経験は財産。これからも色々な形で関わりたい」と話すと、涙を拭った。 秋田県から訪れた高橋康彦さんは自身の結婚を報告した。かつて月命日の際に振る舞われたカレーライスの思い出に触れながら、「長谷川先生のゼミ生として体操で関わり、皆さんと会う日常が人生の楽しみでした。今日は、皆さんにハッピーニュースを届けることができた。これからもいいニュースを届けられたら」と笑顔で語った。 2017年から、毎週グラウンドゴルフに参加するつくば市の柄津玲子さん(86)は「避難者の方の講演を聞いたのが参加のきっかけ。大切な出会いをたくさんいただきました」とこれまでを振り返った。 地震が起きた午後2時46分を前に、参列者に向けて谷津田さんは「私の知人にも津波で亡くなった人がいます」と震災当時を振り返るとともに、つくばでの12年間を思い返しながら今回の慰霊祭を「一つの区切り」とした。その上で、「「皆様、12年間の御礼を申し上げます。今後も、皆様が元気で、長くお付き合いをしていただけることを切に願っています」と参列者に呼びかけた。 宿舎に暮らす他の住民も、茨城県内外への転居を予定している。昨年3月の時点で、つくば市内には112人の双葉町からの避難者が暮らしていた。(柴田大輔)

「国策に分断され悲しみ生まれた」福島の自主避難者訴え つくばで市民集会 震災12年

東日本大震災から12年目の11日、「さよなら原発!守ろう憲法!つくば集会」と題した市民集会がTXつくば駅前のつくばセンター広場で開かれた。福島原発被害東京訴訟原告の鴨下美和さん(52)が、子どもの健康被害などを訴える福島県の避難者らが受けてきた中傷や非難などについて話し。「原発は国策だから、たくさんの分断が生じて悲しみが生まれた。放射能に汚染されない未来をつくっていくため、バッシングされても訴え続けたい」などと語った。 つくば集会は、市民団体「憲法9条の会つくば」など11団体が、震災翌年の2012年から毎年開催している。鴨下さんは横浜市出身。震災当時、福島県いわき市から自主避難し、現在、都内に住む。鴨下さんの長男の全生(まつき)さんは高校2年だった18年、ローマ法王に手紙を送り、翌19年、家族でバチカンに招かれ、直接被害を訴えた。 集会で鴨下さんは、震災直後、福島県いわき市から家族5人で実家のある横浜市に自主避難した。当時の状況や、横浜や都内を転々とした避難生活について語り、「避難所や避難住宅ではうちの子に限らず鼻血を出す子が多くいて、綿を詰めても綿が出てきてしまうような大量の鼻血だったり、綿やティッシュでは追い付かずスーパーのレジ袋でぽたぽたと出る鼻血を受け止めて歩く子もいた」と話した。 2014年には、福島第1原発を訪れた主人公が原因不明の鼻血を出す場面が描かれたマンガが出版され、当時の環境大臣が被ばくと鼻血の因果関係は無いなどと発言したことがあった。これ触れた鴨下さんは「子どもに鼻血が出ていると言った人が嘘つきにされてしまい、お母さんたちは子どもに鼻血が出たと言う勇気が無くなってしまった」と語り、「原発は国策なので、世の中がゆがんでいくだけだと思った」と振り返った。 国連人権理事会でも課題に挙がった母子避難の状況についても話し、「いわき市や郡山市などから無数のお母さんが子供を抱えて自主避難しているが、自主避難者は支援を受けられなかったので、お父さんは福島に戻って働かないといけなかった」などと述べ、「12年経っても当時を思い出すだけでつらい。言えばバッシングされたり、ノイローゼだとののしられるので、ほとんどのお母さんは口を閉ざしている」と話した。 長男がローマ法王の前でスピーチをした際、「原発は国策だから、それを維持したい政府によって被害者の間に分断が生じ、傷ついた人同士が、互いに隣人を憎み合うよう仕向けられてしまった」とする一節を、事前に削るよう言われたが、長男は削らないでそのまま読んだエピソードも披露した。 市民集会を主催した山本千秋代表は、原則40年とされていた原発について60年超の運転を認める政府方針に対し「廃炉になるはずの古い原発があちこちで動くことになる。世界有数の地震国で、方針の大転換は決して許されない。一刻も早く自然エネルギーに切り替えるべき」などと話した。 集会では、原発をなくし、憲法を守って、平和で安心できる社会をつくろうなどと訴えるアピールを全会一致で採択した。(鈴木宏子)

居場所を求め続けた想い つくばから双葉へ 谷津田光治さん㊦【震災12年】

避難して、つくばで暮らしてきた谷津田光治さんの生家は、数年前に取り壊されている。それでも月に2、3度、双葉町を訪れてきた。その理由を「双葉に行って、何するっていうのはないんだけど、『ああ、ここに家あったんだな』とか、『あそこの田んぼ、除染して綺麗にしてもらったんだけど、また草生えてきたな。今度来たら刈ってやんないとな』とか、そんな感じでひと回りしてくると、つくばに戻っても、2、3週間はなんとなく安心して落ち着いていられるんだわ」と話す。 「結局私の場合は、子どもの頃からあそこで生活してきたわけですよ。それが、あるときぽっと逃げ出してきた。そこにあるもの全部置いてきて。そういうのは意外と気になるんだ。どうなってるかな。草生えてるかな、この前の地震で崩れてないかなってね」 6号の先にある双葉町への思い 「で、また火曜日になると、グラウンドゴルフやってね。みんなで集まって。それで、その後女房に、『今週、用事あんのか?』って聞いて、『いやぁ、特にないよ』って言うと、『家さ行って、様子見てくっか?』って言って、車で出かけんの。ちょっとしたドライブ感覚。2、3時間。年食ってきて、きついかなぁと思うこともあんだけど、行けんだよな」 離れても、双葉のことが頭から離れることはなかった。つくばより内陸には住もうと思わなかった理由もそこにあるという。「6号国道を行って、海岸通りを走れば俺の家に着くんだなって。この道行ったら家があるっていう安心感があんだわ。今は取り壊してないんだけど、そういう感覚は、頭から抜けない。埼玉からだと、『どう行くかなぁ』って。遠いんだね」 「まして、俺は谷津田の跡取りだから」と話すと、谷津田さんは双葉への思いをこう続けた。「お墓があんだ。俺が建てたってのもあんだけど、あの穴入れば、俺はもうどこにも行くことはないって思うんだ。その土地から離れるっていうのは、ご先祖様に背くような気持ちにもなるんです」 「結局、そういうつながりがあるから、福島に帰りたいとか、行きたいとかっていう感情が出てくるのかもしんないね。まぁ、なんとなく、生まれたところに戻りたいっていうのは、あんでねぇかな」 終わらない避難生活 谷津田さんの自宅には、土ぼこりを舞い上げさっそうと駆け抜ける騎馬武者の写真が飾られている。双葉町がある相双(そうそう)地域の伝統行事、相馬野馬追(そうまのまおい)のワンシーンだ。谷津田さんは、1987年以来、30年以上、野馬追に参加し続けてきた。避難後も、それだけは欠かさなかった。甲冑に身を包む姿は、地域の誇りでもある。 その思い出を振り返りながら、今後については「南相馬に引っ越しても、避難する場所がここから変わるだけ。自分の家とか、自分の住んでたとこに戻ったっていう意識にはならねぇと思うんです。なんていうか、ここが俺の住んでたとこだっていう、その安心感っていうのはないな」と話す。 「やっぱり。あそこ(双葉町の自宅)に戻って初めてなんだろうな。でも結果としては、これで終わりになるんだと思うんだわ。人間終わったら、避難も終わりだからね」 震災から時間が過ぎるほど、ますます「復興」という言葉が頻繁に使われるようになった。2021年には「復興」を冠したオリンピックが開催され、昨年8月には、町内の一部で避難指示が解除された。9月には、双葉町内にできた新庁舎で役場が業務を再開した。12月には、復興予算の一部を防衛費に転用することが政府内で検討されていると報道された。 しかし、依然として、町内の大部分は帰宅困難区域内で立ち入りが制限されているし、住民の大多数が町外に暮らし続けている。「原発も国策。逃げろって言ったのも国。だったら、国策で全部きれいにして我々に『どうぞ戻ってきてください』って言うのが筋だと思います」突然故郷を追われた日から、抱え続ける憤りをそう表現した。 谷津田さんが、ふとした時に思い出す、子どもの頃の記憶がある。「海に行くと思い出すんです。子どもの頃、夏場、7月になったら海に水浴びしに行くぞって、お袋におにぎり2つ作ってもらってね。家から3、4キロくらいのとこだから、ぶらぶら遊びによく行ったんですよ」 「土地には土地の歴史があるんです。私はやっぱり、海の近くがいいんですよね」新居のある南相馬市も福島県の太平洋岸、浜通りにある。(柴田大輔)

居場所を求め続けた想い つくばから双葉へ 谷津田光治さん㊤【震災12年】

つくば市並木の公務員宿舎に、福島県双葉町の役場機関である「双葉町役場つくば連絡所」がある。東日本大震災の後、2011年12月に設けられた。同町から避難した人々に向けて住民票などの申請手続きや、町からの連絡事項を伝えるとともに、避難者による自治会活動や地域との交流の拠点になるなど、避難生活を支えてきた場所だ。 福島県内外に避難する双葉町民が、つくばの公務員宿舎へ入居するきっかけを作り、連絡所の設置を進めたのが、元双葉町議の谷津田光治さん(81)。自身も双葉町で被災し、現在、妻の美保子さんと宿舎で生活している。震災から12年がたつ3月末、谷津田さんは宿舎を離れ、故郷に近い南相馬市へ転居する。つくばと双葉の人々を結びつけてきた谷津田さんにとって、12年の時間はどのようなものだったのか。 つくば、公務員宿舎へ入居する 「ここは、見渡すと樹木が多い。双葉の家も周りが山だったから違和感ないんです。なんとなく、双葉を思い出せるんですよ」谷津田さんが自室の窓越しに、敷地に繁るクヌギの木々に目を向ける。谷津田さんが暮らすつくば市並木の公務員宿舎には、以前は48世帯が入居していた。今はそれぞれ別の場所へ移るなどし、4世帯が生活をする。2022年3月の時点で、つくば市には437人の福島からの避難者が暮らしている。その中で双葉町の人々は、最も多い112人。 双葉町は、福島第一原発事故による放射能汚染のため町全体に避難指示がだされ、全町民が避難生活を余儀なくされた。震災直後、1400人あまりが埼玉県に一時避難するなどし、先の見えない暮らしに不調をきたす人も多かった。そんな中、当時、町議を務める谷津田さんが耳にしたのが、つくばにある公務員宿舎のことだった。 「知り合いが、『茨城のつくばに空いている公務員宿舎がある。取り壊してるところもあるけど、まだ住めるところもあるから、見てきたらどう?』って言うもんで、見にきたら、びっくりするくらい部屋があったんですよ」つくば市には1970年代、筑波研究学園都市で働く研究所職員らに向けた公務員宿舎が約7800戸建てられた。その後、老朽化などを理由に、国は段階的に住宅の廃止を進めている。 「埼玉では、学校の教室に寝泊まりしていましたし、仮設住宅も長く暮らすには大変なんです。それが、つくばにこれだけまとまった家がある。多くの町民が1カ所で生活できるわけですよ。役場の事務作業だって少なくなる」 「みんながまとまって暮らすのが一番」と考えていた谷津田さんは、各地に避難する人たちに声をかけて下見に訪れ、役場とも交渉し、その後、2011年7月までに希望者の入居が始まった。 連絡所の設置 震災後、双葉町は、集団移住先の埼玉県加須市に役場機能を移転した。しかし、避難者は各地に散らばっていて必要な連絡が行き届かない。町は、避難者の多い場所に、支所や連絡所を置き事務機能を分担させていた。それを見た谷津田さんは「連絡所をつくばにも」と町に掛け合った。「情報があっちこっちすると、間違いが起きる。直接、連絡が来るのが一番だと思ったんです」 また、つくばには、生活に必要な支援物資が届いていなかった。「当時、支援物資は加須の役場に行かないと受けとれなかった。でも、個人で行ってもなかなかもらいにくいんです。みんな困ってるのは同じだけど、物をもらうっていうのは気が引けちゃう。だから、私らがライトバンで加須に行って、役場に話をつけて受け取ってきたんです。周りの人に『何かいるのあっかな?』って聞いてまわって。連絡所があれば支援の拠点になれる。そういう考えもありました」 妻の美保子さんは「これだけみんながバラバラになって、知らない土地で心細い中にいて、何かひとつだって町から届けば『見捨てられてない』って思えたんですよね」と連絡所ができたことで覚えた安心感を話す。 始めたグラウンドゴルフ つくばでの新しい地域づくりが始まった。そこでは避難者同士だけではなく、つくば市民とのつながりも生まれた。 谷津田さんらは毎週火曜日、近所の公園でグラウンドゴルフを楽しんでいる。12年前から欠かさない、大切にしている交流の場だ。今では避難してきた人だけでなく、地域住民も参加している。終わった後のお茶会も楽しみとなっている。 運動の指導などを通じて避難者と交流し、学生にも交流の機会を設けてきた筑波大学名誉教授で体操コーチング論が専門の長谷川聖修さん(66)は「交流の場として、私たちにとっても貴重な場です」と話す。また長谷川さんの活動を通じて谷津田さんたちと知り合い、6年前から毎週グラウンドゴルフに参加している筑波大大学院の松浦稜さん(27)は「いつも楽しみにしてきました、ここに来ると、まるで実家にいるような気持ちになります」という。 グラウンドゴルフの始まりは、当事者同士の気遣いからだった。谷津田さんは「最初は、ばあちゃんの引きこもり防止だったんです。『あそこのじいちゃん、ばあちゃん、部屋から出てこないから』って。週に1回でも引っ張り出してっていうのがあったんです。何をやるにも、48世帯に声かけてやってました」と話す。 震災の月命日もそうだった。「みんなどこにも頼るところがないし、『月に1回、みんなで集まっか』って意識があった。その後も、年に1回、3月11日に慰霊祭を続けていました」 市内に借りた畑にもみんなで行った。「なんでも作りましたね。白菜からキャベツ、じゃがいも、里芋。収穫する時は、双葉の人、近所の人にも声かけて、弁当持って行ったんです。みんな喜んで、ピクニックみたいにね」 互いの様子を気遣いながら、共に暮らせる場所を作っていった。美保子さんは「つくばに来て、何もないところからの始まりだったんです。同じ双葉でもそれぞれ違うところに住んでいたので、双葉にいたら顔を合わせることもなかったかなって思います。その人たちが、ここで親しくなったんですよね。みなさん本当に親切にしてくれて。自分の家族のような人もできました」と振り返る。 今年3月末で、谷津田さんは、双葉町にほど近い南相馬市に建てた自宅に転居する。12年暮らしたつくばを離れる日が近づいている。つくばでの人とのつながりが、福島への転居をためらわせていたと美保子さんは言う。(㊦につづく、柴田大輔)

原発再稼働阻止訴え つくばで市民集会【震災11年】

東日本大震災から11年目の11日、「さよなら原発! 守ろう憲法!」をテーマに、つくば市の市民団体「戦争をする国づくりNO@つくば」(山本千秋代表)など3団体が、つくば駅前のつくばセンター広場(同市吾妻)で市民集会を開いた。「脱原発をめざす首長会議」メンバーの村上達也元東海村長が参加し「(東海第2原発の)再稼働を何としても阻止するため、我々市民が頑張らないといけない」などと訴えた。 2011年の東日本大震災の翌年から、毎年3月11日に開催している。今年は約90人が参加した。 村上元村長は、東海第2原発の現在の状況について「再稼働に向けて盛んに工事をやっている。人家にすぐ接するところでクレーンが林立し、ダンプカーがばんばん走り回っている」などと話した。 昨年3月に出された水戸地裁判決後の東海村の動きについても「避難計画ができていないので運転してはならんという判決が出て、議会では早く避難計画を策定せよという請願が出てきた。何でもいいから形だけ作れとなっている」と述べた。 原発の耐震性については「東海原発のところは元々砂浜で岩盤が深い。原発は岩盤の上に建てることが基本だが、東海原発は岩盤が深すぎて、原電が人工岩盤といっているコンクリートを固めた上に建っている。原子力規制庁でも最後までもめた」と原発建屋の耐震性に疑念を呈した。 東海第2原発を所有する日本原子力発電(日本原電)が再稼働に向け約3500億円の投資を東京電力などから受けていることについても言及し「日本原電は破綻している。再稼働しても元がとれないところまできている。3500億円の投資を回収するためには無理に無理を重ねる」などと指摘した。 さらに「ハード面の心配がたくさんあるが、一番心配なのは10年間一度も原発を動かしてないこと。運転技術が継承されていない」などと話した。 山本代表は「福島原発事故の被災者3万8000人がまだ帰還できていない。被災者の要望に応えた継続的な支援を要望したい。人間の手で制御不可能な原発を一刻も早くなくしていかなくてはならない」などとあいさつした。 会場では、ロシアのウクライナ軍事侵攻に抗議し、参加者が青と黄色のウクライナ国旗を掲げるなどの抗議行動も実施された。

大震災10年後の山菜採り《県南の食生活》23

【コラム・古家晴美】ちょうど10年前、東日本大震災という大惨事に見舞われた。この地震は、多くの方々の命、家族、家、仕事、故郷を奪い、漁業・農業など第1次産業に携わる方々の生活にも深刻な影響をもたらした。 食との関わりで言えば、春秋の楽しみとされてきた野山での山菜やキノコの採取にも大きな打撃をもたらした。現在、店頭に並ぶキノコ類の多くは栽培されたものであり、野菜類とともに、セシウム含有量は基準値以下なので安全性が保証されている。 しかし、茨城県のホームページを見ると、昨年末(2020年12月25日)のデータによれば、県南地域では、石岡市の野生・・山菜であるコシアブラ(特に放射性セシウムの含有量が多いとされる)や、つくば市や石岡市の野生・・キノコの出荷が制限(実質的には禁止)されている。 どうして畑の野菜が大丈夫なのに、事故後10年近くもたつ森林の中の植物に食用にできないほどのセシウムが残留しているのか。専門外のことなので、理解が不十分な点があると思うが、その点あらかじめご容赦いただきたい。 吉田聡氏(放射線医学総合研究所2012)によれば、「大気中に放出されて地表に沈着した放射性物質の多くの部分は、様々な生物が共存する生態系であり、かつ人が木材、食糧、水、燃料を供給源とする森林・・に存在する。樹木やその落葉に沈着した放射性セシウムの73パーセントは深さ5センチでの表層土壌表層に存在するが、残りの部分は、より深い土壌と植物(主として樹木)である」(傍点は筆者)。 放出されたセシウムは森林に残留 これが根を通して吸収されて葉に至り、再び落葉して林床に帰るという循環を繰り返す。セシウムは森林に残留し、そこに生息するキノコや山菜、その他の食用植物は比較的高濃度の状態で維持される、ということだ。 野生の山菜について、令和3年3月18日の報告を基にもう少し詳しく見ると、県南全域で、コゴミ、コシアブラ、ゼンマイ、タケノコ(牛久市と阿見町を除く)、タラの芽、ワラビ、ウワバミソウ、ネマガリダケ、シドケ、ウルイ、行者ニンニク、サンショウ(葉・実)、ジネンジョ、セリ、ツリガネニンジン、フキ、フキノトウ(龍ケ崎市を除く)、ウドの出荷に際しては、モニタリング調査を行うことが求められている。 セシウムが100ベクレル/㎏のもののみ出荷が認められる。裏返せば、いまだに残留の可能性が否定できないことになる。こういったことは、県のホームページセシウムの山菜モニタリング検査が参考になる。 私たち人間は自然に対しとんでもないことをしでかしてしまったのだ、と改めて痛感する。10年後に自戒の念を込め、食と環境の関わりについて触れた。(筑波学院大学教授)

大震災10年後の山菜採り《県南の食生活》23

【コラム・古家晴美】ちょうど10年前、東日本大震災という大惨事に見舞われた。この地震は、多くの方々の命、家族、家、仕事、故郷を奪い、漁業・農業など第1次産業に携わる方々の生活にも深刻な影響をもたらした。 食との関わりで言えば、春秋の楽しみとされてきた野山での山菜やキノコの採取にも大きな打撃をもたらした。現在、店頭に並ぶキノコ類の多くは栽培されたものであり、野菜類とともに、セシウム含有量は基準値以下なので安全性が保証されている。 しかし、茨城県のホームページを見ると、昨年末(2020年12月25日)のデータによれば、県南地域では、石岡市の野生・・山菜であるコシアブラ(特に放射性セシウムの含有量が多いとされる)や、つくば市や石岡市の野生・・キノコの出荷が制限(実質的には禁止)されている。 どうして畑の野菜が大丈夫なのに、事故後10年近くもたつ森林の中の植物に食用にできないほどのセシウムが残留しているのか。専門外のことなので、理解が不十分な点があると思うが、その点あらかじめご容赦いただきたい。 吉田聡氏(放射線医学総合研究所2012)によれば、「大気中に放出されて地表に沈着した放射性物質の多くの部分は、様々な生物が共存する生態系であり、かつ人が木材、食糧、水、燃料を供給源とする森林・・に存在する。樹木やその落葉に沈着した放射性セシウムの73パーセントは深さ5センチでの表層土壌表層に存在するが、残りの部分は、より深い土壌と植物(主として樹木)である」(傍点は筆者)。 放出されたセシウムは森林に残留 これが根を通して吸収されて葉に至り、再び落葉して林床に帰るという循環を繰り返す。セシウムは森林に残留し、そこに生息するキノコや山菜、その他の食用植物は比較的高濃度の状態で維持される、ということだ。 野生の山菜について、令和3年3月18日の報告を基にもう少し詳しく見ると、県南全域で、コゴミ、コシアブラ、ゼンマイ、タケノコ(牛久市と阿見町を除く)、タラの芽、ワラビ、ウワバミソウ、ネマガリダケ、シドケ、ウルイ、行者ニンニク、サンショウ(葉・実)、ジネンジョ、セリ、ツリガネニンジン、フキ、フキノトウ(龍ケ崎市を除く)、ウドの出荷に際しては、モニタリング調査を行うことが求められている。 セシウムが100ベクレル/㎏のもののみ出荷が認められる。裏返せば、いまだに残留の可能性が否定できないことになる。こういったことは、県のホームページセシウムの山菜モニタリング検査が参考になる。 私たち人間は自然に対しとんでもないことをしでかしてしまったのだ、と改めて痛感する。10年後に自戒の念を込め、食と環境の関わりについて触れた。(筑波学院大学教授)

東日本大震災のとき私は… 《 晴狗雨dog せいこううどく 》1

【コラム・鶴田真子美】東日本大震災の3.11から10年が経ちました。災害関連死も含めて1万9600名の方が亡くなり、2528名の方がまだ見つかっていません。けがをなさった方、最愛の人や家族を失った方、飼い犬猫と離れ離れになった方、家を失い故郷を失った方、本当につらい10年だったかと思います。 私は音楽大学やNHKでイタリア語を教える教員をしながら、NPO法人を立ち上げ、つくば市内で犬猫の保護ボランティアをしておりました。3月11日も、小貝川のほとりの犬捨て場に作られた小さなシェルターにいて、6頭の犬の世話をしていました。 よい天気で、爽やかな午後でした。犬たちはドッグランの中で寝そべり、暖かな日差しを浴びてまどろんでいました。私は順番に犬を連れ、原っぱを散歩していました。すると突然、誰も来ないのに犬たちが一斉に立ち上がり、見えないものを追うように、ほえながら駆け回ったのです。 誰か来たんだと、思いました。神社を自分たちの縄張りと思っていた犬たちは、参拝客の車が土手向こうから来るたびに、警戒してほえていましたから。でも車も来ない、人影もいない、静かな河原ふちの原っぱです。と思ったら、強い風が吹きました。それまで明るかった空が突如として暗くなりました。山のてっぺんみたいに。 誰もいない河原の中央にいた私は、次の瞬間、大きく揺さぶられ、地面に倒れたのです。金村別雷神社(かなむら わけいかづち じんじゃ、雷神様)の鳥居や石碑が、地響きを立てて崩れ落ちました。 命さえあれば何とかなる この10年は、福島県だけでなく、常総市や熊本県などの被災地で保護活動をしながら、たくさんの思考を重ねました。福島第1原発の汚染水は海洋に垂れ流すとされ、廃炉もまだ見えないまま、東海第2原発の再稼働に向けて県政は前のめりとなっています。 福島の人々は置き去りにされ、東京オリンピックの準備に向けた騒ぎのなかで、新型コロナウイルスが世界を凍りつかせています。10年前のあのとき、私のなかの時計の針は止まり、今も時々動いたり止まったり。 でも私たちは生きていかなきゃならん。命さえあれば後は何とかなる。人間だけの地球ではないさ。200匹の犬猫と人間の仲間たちと暮らしている筑波山のふもとの「CAPINシェルター」から、日々の活動を発信していきます。(犬猫保護活動家) 【つるた・まこみ】1990年、東京外語大イタリア語学科卒。同大学院博士前期課程修了後、後期課程単位を取得。日伊協会講師、東邦音楽大、慶応義塾大などの非常勤講師を歴任。2008年からNPO法人「動物愛護を考える茨城県民ネットワーク CAPIN」理事長。東日本大震災後の福島第1原発警戒区域、鬼怒川水害後の常総市などに入り活動。19年から茨城県の犬殺処分ゼロを目指し活動中。21年、土浦市に「パルTNR動物福祉病院」を開設。神戸市生まれ。土浦市東城寺に殺処分を免れた200頭の犬猫と暮らす。

東日本大震災のとき私は…《 晴狗雨dog せいこううどく 》1

【コラム・鶴田真子美】東日本大震災の3.11から10年が経ちました。災害関連死も含めて1万9600名の方が亡くなり、2528名の方がまだ見つかっていません。けがをなさった方、最愛の人や家族を失った方、飼い犬猫と離れ離れになった方、家を失い故郷を失った方、本当につらい10年だったかと思います。 私は音楽大学やNHKでイタリア語を教える教員をしながら、NPO法人を立ち上げ、つくば市内で犬猫の保護ボランティアをしておりました。3月11日も、小貝川のほとりの犬捨て場に作られた小さなシェルターにいて、6頭の犬の世話をしていました。 よい天気で、爽やかな午後でした。犬たちはドッグランの中で寝そべり、暖かな日差しを浴びてまどろんでいました。私は順番に犬を連れ、原っぱを散歩していました。すると突然、誰も来ないのに犬たちが一斉に立ち上がり、見えないものを追うように、ほえながら駆け回ったのです。 誰か来たんだと、思いました。神社を自分たちの縄張りと思っていた犬たちは、参拝客の車が土手向こうから来るたびに、警戒してほえていましたから。でも車も来ない、人影もいない、静かな河原ふちの原っぱです。と思ったら、強い風が吹きました。それまで明るかった空が突如として暗くなりました。山のてっぺんみたいに。 誰もいない河原の中央にいた私は、次の瞬間、大きく揺さぶられ、地面に倒れたのです。金村別雷神社(かなむら わけいかづち じんじゃ、雷神様)の鳥居や石碑が、地響きを立てて崩れ落ちました。 命さえあれば何とかなる この10年は、福島県だけでなく、常総市や熊本県などの被災地で保護活動をしながら、たくさんの思考を重ねました。福島第1原発の汚染水は海洋に垂れ流すとされ、廃炉もまだ見えないまま、東海第2原発の再稼働に向けて県政は前のめりとなっています。 福島の人々は置き去りにされ、東京オリンピックの準備に向けた騒ぎのなかで、新型コロナウイルスが世界を凍りつかせています。10年前のあのとき、私のなかの時計の針は止まり、今も時々動いたり止まったり。 でも私たちは生きていかなきゃならん。命さえあれば後は何とかなる。人間だけの地球ではないさ。200匹の犬猫と人間の仲間たちと暮らしている筑波山のふもとの「CAPINシェルター」から、日々の活動を発信していきます。(犬猫保護活動家) 【つるた・まこみ】1990年、東京外語大イタリア語学科卒。同大学院博士前期課程修了後、後期課程単位を取得。日伊協会講師、東邦音楽大、慶応義塾大などの非常勤講師を歴任。2008年からNPO法人「動物愛護を考える茨城県民ネットワーク CAPIN」理事長。東日本大震災後の福島第1原発警戒区域、鬼怒川水害後の常総市などに入り活動。19年から茨城県の犬殺処分ゼロを目指し活動中。21年、土浦市に「パルTNR動物福祉病院」を開設。神戸市生まれ。土浦市東城寺に殺処分を免れた200頭の犬猫と暮らす。

【震災10年】5 10年は区切りではない  古場泉さん・容史子さん

【柴田大輔】「原発災害は自然災害とは違う。10年で終わることはない」 つくば市で避難者同士の交流の場づくりに取り組む「元気つく場会(いい仲間つく浪会)」の共同代表・古場泉さん(65)が言葉に力を込める。避難者には、不安定な生活のなかで体調を崩す人も多くいる。 まるで世界が変わってしまった 泉さんとともに、会の共同代表を務める妻の容史子さん(65)も、避難生活の中で体調を崩した一人だ。現在も通院を続けており、制約のある生活を送っている。当初は不安定な生活の中で心のバランスも崩しかけた。震災後の10年を振り返り「まるで世界が変わってしまった」と話す。変化は体調だけではない。 「私にとって浪江の生活は、どこに行っても『こんにちは』って声掛け合う世界でした。それがいきなり知り合いの全くいない土地に。何も考えられなくなりました」 10年前、愛着ある自宅での、地域に根ざした生活が突然終わり、見知らぬ土地でのアパート暮らしが始まった。避難生活は、将来への不安と共に心身を圧迫した。周囲の人も同じだった。泉さんが振り返る。 「震災を経験してつくばに来た人たちは、すべての人がそうだったように『これからどうなるかわからない』という不安と孤独の中にいました」 それぞれのつながりは希薄だった 「元気つく場会」は毎月開催する茶話会「しゃべり場」と、レクリエーションなどを開催し、避難者同士の交流を図ってきた。2012年に発足し、現在は110人の会員がいる。きっかけは、容史子さんがつくば市内で偶然再会した浪江の知人から聞いた「みんなでお茶を飲んで、ざっくばらんに話せる場所が欲しい」という言葉だった。事実、先の見えない状況に心の拠り所を求める人は多かった。 当時のつくば市には福島からの避難者が500人以上が暮らしていた。市は避難者同士の交流の場として「交流サロン」を主催していた。そこでは、医療や福祉など生活に必要な情報提供や、弁護士による法律相談の場が設けられた。だが会が終わると参加者は長居せずにそれぞれ帰路に着くのが毎回だった。「避難者」といっても、互いに面識のない人がほとんどで、それぞれのつながりは希薄だったという。 こうした中、知人や家族に背中を押された古場さん夫妻は第一歩として、浪江出身の民謡歌手・原田直之さんのコンサートを企画した。紆余曲折ありながら開催にこぎ着けたイベントが、現在まで続く活動の始まりとなった。 骨を埋めるならこの町で 古場さん夫妻は1983年、泉さんの転勤で浪江にきた。夫婦共に福島県外の出身だ。当初は1、2年のつもりで住み始めたが、出産や仕事を通じて地域と縁が深まる中で、いつしか「骨を埋めるならこの町で」と思うようになる。 「人生の中で、最大限に近しい友人ができたのが浪江でした」と話すのは容史子さんだ。 看護師の資格を持つ容史子さんは、町や県の福祉関係の仕事に就き、子どもに本の読み聞かせをするなど地域の中に溶け込んだ。 泉さんも浪江を気に入った。「海も山も近いし、気候がいい。ゆったりしたところがいい」と話す。仕事に打ち込みつつ、ボーイスカウト指導者として地域の子どもたちと接していた。 「元気な若い人たちとバカやれるのが好きでした。一番の趣味でしたね」と振り返る。 「やりたいことをやれる充実した日々」。それが浪江の生活だった。 ついの住み家にしようと土地を求めたのは自然な流れだった。そこで出合った風景を、今も鮮やかに容史子さんは思い返す。 「家を建てる前に土地を見に行ったんです。そうしたら、目の前一面に広がる水田が風で波打つんですよ。緑の海ですよ。もう、『うわぁ』って感激しました。それから今度は秋ですよ。秋になったら黄金色の海です。もう、それがうれしくって」 浪江に暮らして28年が過ぎた。2人はここで穏やかな老後を迎えることを疑ってなかった。 もうこれで動かないで済む 震災後、混乱する福島を後にした古場さん夫妻は、つくばの大学に進学し市内で一人暮らしをする長男を頼った。3人で住むには手狭な部屋だった。その後、都度条件の合う部屋を求めて転居を繰り返す。容史子さんが体調を崩したのは、こうした不安定な暮らしの中でのことだった。 「わたしたち、これからどうして暮らせばいいんだろう」と心の中でつぶやいた。引っ越しは経済的、肉体的な負担だけでなく、精神をも侵食した。 震災から1年後、泉さんは勤務先企業のつくば工場に赴任が決まる。会を始めたのもこの時期だった。 「避難されてきた皆さんが大変な状況にある。支える場所は必要だ。こうしたときに、仕事や周囲との繋がりがある自分たちがやるのがいいと思いました」 その後2017年につくば市に家を得た。元通りではないが、失った安定をようやく取り戻し、心が軽くなったと、容史子さんは安堵した。 「それまで不安と閉塞感で夜眠れませんでした。でも、これでもう動かないで済む。そう思えて本当にほっとしました」 会での活動を通じて出会う人たちに容史子さんが感謝する。 「私は『会』をやることで、準備をしたり皆さんと交流させていただき、精神的に回復できたと思っています。みなさんには本当に感謝しています」 現在はつくば市で近所の保育園に赴き、泉さんがギターを奏で、容史子さんが絵本の読み聞かせをする。地域イベントにも参加し地元の人たちとも交流を深めている。 2021年で打ち切り 政府主催の追悼式は、震災から10年となる2021年で打ち切りとなる。だが、泉さんはこう言葉に力を込める。 「10年一区切りと言いますが、原発災害に関してそれは当てはまりません」 泉さんは、世間が震災に区切りを設けようとすることを疑問視する。高速道路の無料化もいつ打ち切られるかと心配する。警戒区域からの避難者は、元の居住地と避難先の最寄りの区間の高速料金が無料となっている。2012年にスタートしたこの制度はこれまで2度、期間が延長されてきた。現在公表されている期限は年度末の3月31日まで。その先の延長はまだはっきりしていない。 「私たちは浪江に家があります。お墓がある人もたくさんいます。浪江に行く必要がある。だから、高速無料化が自己負担になれば相当な負担になってしまい、行くことができない人が出てきます」 そう故郷との距離が広がることを懸念する。帰りたくないわけではない。帰れないのだ。容史子さんは自身の経験を踏まえこう話す。 「私は体を壊してしまい、通院が欠かせなくなりました。そのときに医療施設が整わない浪江にはもう戻れないと思いました」 体調面の不安から、やむなく避難先での生活を続ける人もいる。 泉さんは浪江への思いを大切に持ち続けている。 「つくばでの暮らしが安定し始めています。でも、私は浪江に戻る選択肢は残しておきたいと思っています。帰れるものなら帰りたいと思い生活してきました。私にとって浪江は、そのくらい大切な場所なのです」 震災から10年。しかし、震災と原発事故で避難した人にとってそれは区切りの時間ではない。(第1部終わり)

【震災10年】4 今いる地域で働いて友達と遊べたらいい 宇名根悠樹さん

【柴田大輔】「あれを見ると、本当に『帰れないんだ』って実感しましたよね」 原発事故で双葉町から避難した土浦市の宇名根悠樹さん(22)は昨年11月、9年半ぶりに故郷に帰った。町から連絡を受け、小学校に残したままの荷物を受け取るためだった。12歳で東日本大震災に遭った。母校に向かう途中、フェンスで封鎖された自宅へ続く道を見た。隔離された自分の家に疎外感を覚えたと話す。 やりかけのゲームがあった 「僕は『もう帰らない』って覚悟を決めて出てきたわけじゃないんです。だから、このまま帰れないなんて思えないんですよね。なんか寂しいじゃないっすか」   当時は小学6年生で、卒業式を翌週に控えていた。4月には地元の中学に進学するはずだった。 「部屋にはやりかけのテレビゲームがあって、あと10分もやればクリアできたはずだったんです。最初は、それが本当悔しかったです」 そう苦笑いを浮かべて思い出すのは、兄と遊んだ自宅前の坂道や、父と作った木製の椅子、畑から採った野菜を料理する母の姿など、家族が暮らした双葉町での何気ない日々の出来事だ。 目立ちたくなかった 移動と転校を繰り返す避難生活は目まぐるしかった。原発事故による避難指示で、地震翌日に隣町に避難し、8日後には町ぐるみの集団避難で埼玉県へ移動した。茨城への転居は、約半年に及んだ避難所での集団生活ののちだった。 「双葉にいたころは、一度しか県外に出たことがなかったんです。スーパーで当たった懸賞で横浜の中華街に母と行ったんですよ」 茨城では、避難者に開放されたつくば市の国家公務員宿舎に部屋を借り、近隣の中学に通った。のちに隣の土浦市に借りた一軒家に家族で越している。学校では、避難者であることで「悪目立ち」するのが嫌だった。 つくばの中学校で、全校生徒を前にインタビューされたことがある。「事前準備なしだったので、すごく緊張して。別に嫌だったわけじゃないんですけど、『福島から来た宇名根くん』って、絶対目立つじゃないですか」 ゲームや読書が好きな、興味のあることにマイペースで向き合う少年時代だった。だが、目立ちたくなかった理由には、当時の報道も影響した。 「毎日のように『(避難者への)いじめ』をテレビで見てましたから、身構えたところはありました。でも、意識し過ぎだったのかもしれないですけどね」 幸い、中学・高校を通じて「避難」が理由でいじめに遭うことはなかったものの、高校では「福島出身」とあえて口にはしなかったという。 「高校で『福島出身』は隠してました。言ってもいいことないと思って。『福島で何があったの?』って毎回根掘り葉掘り聞かれるのが面倒だったんです」 「原付免許を取ったんですが、一度それを見られてバレちゃったんですよ。でも、そんなにみんな反応しなくて。気にし過ぎだったのかなぁ、みたいな。(震災から)時間が経ったってことかもしれないです。『気にすることなかったんだな』って、ほっとしました」 “悲しい人”ばかり取り上げますよね 取材の中で、宇名根さんがこう問いかけた。 「僕の友人も言ってたんですけど、インタビューって“悲しい人”ばかり取り上げますよね?」 続けてこう話す。 「僕はそういうのないんですよ。津波も見てないし、いじめにも遭ってない」 12歳の少年が経験した震災と、避難者として過ごした10代は、宇名根さんにとってどんな時間だったのか。 「福島で過ごした時間と、茨城の時間が半々くらいになってきてるんです。茨城の記憶の方が強いくらいです。でも、福島のことはよく覚えてるんですよね。近所の道とか」 「こっちでパン屋に行くとするじゃないですか。そうすると思い出すんですよ。『あぁ、あそこにパン屋あったな』とかって。友達にパン屋がいたんですよね」 「こっちで嫌なことがあったっていうわけじゃないんです。そうじゃなくて、単純に福島の方が好きだったんです」 つくばの中学で出会った友人たちとは、今もよく遊んでいる。 「茨城に転校してきて、はじめ、あまりなじめなかったんです。でも先生がいい人で、『ゲームが好きな、気の合いそうな人がいるよ』って、隣のクラスの人たちを紹介してくれたんです。それは本当にうれしかった。いまでも仲良いですよ、そいつらとは」 10年後の自分について想像できるか聞くと、思いをまとめるように間を置きこう言った。 「10年後、福島に帰れたらっていうのは今も思います。可能なら。本当に可能ならなんですけどね。諦めきれないってことなんですかね。でも、今いる地域で働いて、友達と遊べたらいいんじゃないかなってのも思ってます」 そう言って、宇名根さんは優しい笑みを浮かべた。

【震災10年】3 止まった時間がやっと動き出した 森田光明さん・智美さん

【柴田大輔】つくば市で整体院を営む森田光明さん(53)は、趣味のバイクで時折、福島を走る。県境を超え、見上げる空や、流れる風景に目をやり、こう思う。 「地続きなので、そんなに他県と変わらないはずなんです。でも、福島に入るとなんだかいいなって。福島って、やっぱいいよなって思うんです」 父が独立した年齢を意識した 福島県双葉町の自宅は未だ、帰宅困難区域の中にある。49歳で勤務先の企業を退職し、避難先のつくば市東で2019年、妻・智美さん(46)とフォレスト整体院をオープンさせた。 10年前、父を津波で亡くした。悩んだときに背中をそっと押してくれる父だった。実直に働き家族を養ってきた父を「すごく大好きで、尊敬していた」と言い、「目標だった」と話す。光明さんは父の背中を見て生きてきた。51歳での開業は、造園業を営んだ父が独立した年齢を意識してのことだった。 光明さんは震災当時、福島第2原発に勤務していた。「泣きながら働いていた」というほど仕事に追われる日々だった。発電所内で揺れに遭い、避難所だった自宅近くの小学校で家族と落ち合った。だが、そこに父はいなかった。「100歳まで間違いなく生きる」と誰もが疑わないほど身体が強い人だったから「生きていれば、どんな状態でも帰ってくるはず」と思っていた。 父が見つかったのは、原発事故により止まっていた捜索が再開された4月のことだった。警察から連絡があったその日、外は雪が降っていたという。 「無念でした。長生きしてもらいたかった。ただ、ご遺体が見つからない方もいる中で、ありがたくも思いました」 家族で暮らすのがいい 地震翌日、避難指示が出た自宅を離れて内陸の避難所に移動した。爆発する原発をテレビで見た光明さんは「二度と家に帰れない」とつぶやき沈黙した。 母親と妻、長男らと栃木の親族を頼り、紆余曲折を経てつくば市に転居する。その間、家族と離れ、福島県内の会社寮にひとりで暮らし、第1原発での事故後処理に当たった時期もある。勤務のない日に数時間かけて家族のもとに帰る生活を続けた。 離れた土地で、智美さんが義母と長男の面倒を見た。つくばで長女を出産したとき、智美さんが体調を崩した。光明さんは半年休職し、家事と育児を手伝った。「単身赴任は限界。家族で一緒に暮らすのがいい」と思った。仕事の合間に、整体技術を学び始めたのもこの頃だ。 「原発の仕事もだんだん厳しくなって、いつまで続けられるかわからないという時期でもありました」 心のバランスを保つのも難しかった 整体院で光明さんと施術にあたる智美さんは「女性でも気軽に来てもらいたい」という思いから、つくばに転居したのちに技術を習得した。自身も経験した出産や、その後の経験から産後の骨盤調整や体調不良など女性目線のアドバイスを心がける。 明るく「今」を話す智美さんだが、震災後は家族の被災、避難先を転々とするなど、突然訪れた非日常的な生活に体調を崩してしまう。心のバランスを保つのも難しかった。そんな自分に歯がゆさを覚えていた。 「私はだいぶ、他の人より(新しい生活を始めることが)遅かったと思うんです。日常生活は動いているのに、そこにうまく乗れなくて」 光明さんを手伝うために整体技術を学び始めたのは、こうした不安の中でのことだった。だが、踏み出した新たな一歩が智美さんの中で「止まっていた時間」を動かすきっかけになった。 「震災後は体調不良もあって、時間が止まっていたんです。それが、人より時間がかかりましたけど、やっと自分の身体と気持ちが近づいてきたように思います。(双葉町には)帰りたいけど帰れないのはわかっています。この気持ちも、現実とすり合わせなくてはいけないと思っています」 光明さんはつくばを「新しい故郷」だと話す。 「つくばで知り合った方にもお世話になって、少しずつお客さんも増えてきました。コロナで大変な時期ですが、真面目に長くやり続けたいです」 父親譲りの真面目さで、仕事に向き合う光明さんに智美さんが言葉をかける。 「変に格好つけないでやってもらいたいと思っています。身体を見てもらうってことは、緊張しているとうまく見れないんですよね。お客さんにリラックスしてもらうためにも、私もそうありたいと思います」 初めての患者さんには、時間をかけてカウンセリングを施す。丁寧に、一人一人の状態に合わせた施術を心掛ける。 いつか福島で つくば生まれの長女は5歳になり、福島で生まれた長男は中学1年生。寂しいのは、家の中で子どもたちが福島弁を話さないことだと光明さんが苦笑いを浮かべる。それを聞いた智美さんがフォローを入れる。 「でも私が福島弁で(息子に)話しかけたら、ちゃんと返事したんですよ。聞くのはわかるけど、話せないんだなぁって」 「いやぁ、でもなんか寂しいよなぁ」と言う光明さんが、胸のうちにあった故郷への想いをこう話した。 「昔は双葉がそんなに好きじゃなかったんですよね、小さな街だし。どこどこの息子は誰だってすぐわかっちゃうし。でも、やっぱり自分は福島県民だなって思うんですよね。双葉で生まれ育って、『双葉愛』があるわけでもないんですけどね。今は人の縁を大切にしながら、コツコツ頑張っていきたいです。それで、いつか福島にも出店できる日がきたらいいなと思うんです」

【震災10年】2 浪江出身と言えなかった 原田葉子さん

【柴田大輔】「つくばに来て、やっと先が見えた気がしました」 夫、功二さん(44)が営む眼鏡店の2階で、原田葉子さん(44)が穏やかに話す。 福島県浪江町から避難中に経験した妊娠・出産、周囲に伝えられなかった自分のこと、未だ整理のつかない故郷への複雑な想い―。 震災は自身を取り巻く環境を大きく変えた。現在、つくば市学園の森の新興住宅地で新しい生活をスタートさせ、夫と長男の3人で暮らす。 「被災者」に後ろめたさ感じていた 「浪江出身」と伝えると返ってくる「大変だったね」「原発のとこだったんでしょ?」という言葉に、負担を感じていたという。葉子さんは、故郷の浪江町から避難し、5回、住む場所を変えてきた。その間、常に自分を「避難している人」だと感じていた。 「周囲の方に心配していただいて本当にありがたかったです。一方で、『被災者』だということに後ろめたさを感じていました」 浪江で約100年続く「原田時計店」に、2人姉妹の長女として生まれ育った。3代目の父が社長を務める同店は、時計やメガネ、貴金属などを取りそろえる老舗として地域に愛されてきた。 「浪江はたくさんの友人、親戚、地域の人とのつながりの中で生活できる『ほっとする街』でした。高校生のころは友人とカラオケに行ったり、浜辺でおしゃべりや花火をしたのが思い出です」 県内の高校を卒業し、東京の眼鏡専門学校に進学した。その後は在学中にアルバイトをしていた都内の眼科に就職する。功二さんとは学生時代に出会い、結婚後に夫婦で浪江に戻り家業を手伝った。 震災の年は、実家の近所に暮らす葉子さん夫妻が両親、祖母と同居できるように、実家の建て替えと、古くなった店舗の改築を予定していた。将来を見据え、新たなスタートを家族で切ろうとしていた矢先に震災は起きた。 故郷への思いと現状の間で葛藤 葉子さんの家は、事故を起こした福島第1原発から10キロ圏内にある。 「正直なところ、原発を危険とも安全とも思っていませんでした。普通の会社というか、工場のように『電気を作っているところ』というような。浪江から働きに行く人も多く、身近な存在でした」 地震翌日、原発事故による避難指示が出た。隣町の親戚宅へ避難すると、テレビに映る1号機が爆発した。隣の父親が「あぁ、だめだ。終わった」と言った。その横顔から感じた絶望に怖さが込み上げた。 その後、喜多方市に暮らす別の親戚を頼り、1カ月後には仕事を探すため夫婦で東京に転居した。 「私たち、財布も持たずに浪江を出てきたんです。別の場所にちょっと待機するくらいの気持ちでした。でも、その後の原発を見ていて『もしかしたら、戻れないんじゃないか』と思うようになりました」 思わぬ避難生活の長期化に不安が高まった。東京の暮らしは1年半。その間に妊娠し、千葉県の夫の実家近くに転居し男の子を出産した。 「息子が生まれるまで、浪江に戻りたいと思っていました。でも、県内に残る友人に話を聞くと、福島での生活に手放しで安心しているわけではない。情報はどれを信用していいかわからず、妊娠中はネガティブな話題を遠ざけました。精神的に余計な不安を除きたかったからです」 故郷への想いと現状の間で葛藤していた。家業の再開は常に考えていた。当時、千葉県内の眼鏡店に勤務していた夫と、何度も福島に住む両親を訪ね今後を話し合った。 「当時、浪江町民で新しいコミュニティをつくるという考えがあり、そこでの再開を考えましたが、難しくなり、県外での出店も選択肢になりました」 知人からつくばを紹介されたのはそんなときだった。諸々の条件が合致し「つくばでやっていこう」と決心した。功二さんが眼鏡店を出店し、父は福島県二本松で「原田時計店」を再開した。新しい生活の始まりに「やっと落ち着き、先が見えた」と安堵した。 それだけ年月が経った つくばに転居する以前、千葉では言えなかったことがある。「浪江出身」ということだ。複雑な当時の心境をこう振り返る。 「『浪江から来た』と言うと、心配してくれる方がほとんどでありがたかったです。一方で、常に『大変』『原発』というイメージで見られてしまう。周囲で、仲のいい人同士が『原発』で意見が分かれる場面も何度も見ました。震災と全く関係ない、『被災者』としてではない人間関係を築きたくなってしまったんだと思います」 福島で被災したある人が心ない言葉をかけられたこと、だれかに自身の車を傷つけられた経験も、葉子さんが過去にふたをすることにつながった。 「だんだん自分のことを話すのが怖くなりました。『もう話すのはやめよう』と思ったんです」 息子が幼稚園に入ると親しい「ママ友」ができた。しかし、友人への隠しごとが辛かった。ある日、福島で活動する葉子さんの父が新聞に取り上げられた。その記事を読んだ友人は、葉子さんの背景を知り「そんなこと気にしないで、普通に付き合っていこうよ」と言ってくれた。 「ずっと言えなかったことが引っかかっていました。彼女の言葉で、すぅっと気持ちが軽くなりました。相手に気を使わせたくないとか、色々考えすぎていたんです。今は話しても、みんな普通に接してくれるのがうれしいです。それだけ年月が経ったということかもしれません」 子どもにどう説明すればいいか 浪江には毎年お墓参りに帰っている。 「浪江は時間が止まっているようで、何年経っても、最近までそこにいた気持ちになります。うまく言えませんが、自分にとって大切な場所です」 だが、8歳になる長男を連れて行ったことはまだない。その理由を、言葉を選びながらこう話す。 「震災のことをどう説明するべきか、まだわからないんです。どうしても原発のことは話さなければいけない。どう伝えるべきか」 ひと呼吸置き、言葉をつなぐ。 「原発に勤めていた知り合いも多かったですし、お店としてもお世話になっていました。全部が『悪』ではないと思うんです。そういうことではない。子どもにどう説明すればいいか、息子が理解できる年齢になる時までに、私の中できちんと整理したい。連れて行くのは、私が自分の言葉で説明できるようになってからと思っています」 震災後の10年は、家族や友人とも離れることになった辛い時間だった。だが、新しい土地でスタートさせた生活に「いろいろな方の支えのおかげです。本当に感謝しています」と話す。 インタビューの最後に、息子さんの将来について質問すると、明るくこう答えた。 「息子は『メガネ屋さんになりたい』って言ってるんです。でも私たちは息子が思うようにやりたいことをやって、元気に育ってくれればいいと思ってます。万が一、継いでくれたらラッキーですけどね」

Most Popular