金曜日, 3月 29, 2024
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つくばでハンセン病記録の上映会を開く元教員、村井さとみさん【ひと】

「命が大事にされる社会に」 筑波大学学生の村井さとみさん(58)が15日、つくば市内で、ハンセン病患者と家族の記録映像 上映会を開催する。大阪府泉佐野市で小学校教員を務めていたが早期退職し、昨年4月つくば市に転居してきた。現在、科目履修生として同大情報学群 知識情報図書館学類で図書館の経営や情報について学ぶ。 現場に行き、自分で考えたいと、教職の傍ら、ライフワークとして国内や海外の図書館と、原発、ハンセン病療養所を巡ってきた。小学校教員3年目に自身の身に起こったうつ病と2020年のコロナ禍の経験から、ハンセン病の問題に関心を持ち、患者たちの気持ちを自分ごととして考えるようになった。 上映するのは、東日本大震災直後、いちはやく福島県に入り福島原発事故の放射能汚染地図を作成した放射線衛生学者の木村真三さんが、ハンセン病患者だった親族の存在を偶然知り、記録を探し、過去を掘り起こしていくドキュメンタリーだ。 村井さんは「衝撃を受け、多くの人に伝え一緒に考えたいと思った。ハンセン病への差別や偏見は私たち一人一人の心の中にあり、いろいろな社会問題の根っこにつながり、命を軽視することにつながっていると思う。すべての命が大事にされる社会への一歩として上映会を開きたい」と話す。 うつ病、コロナ禍経験し、孤独や孤立を考えた 村井さんは徳島県出身。愛媛大学を卒業後、中学と高校で理科教員を務めた。結婚をきっかけに退職し専業主婦に。子育てが一段落して大阪の小学校教員に復職した。 学生時代にチェルノブイリ原発事故が起こり、原発に関するさまざまな本を読んだ。子育て中は絵本や児童書に興味をもち、司書の資格を取得した。 小学校教員に戻って3年目。学級崩壊と保護者からのクレームに加え、離婚など家族の問題が重なり、うつ病を発症した。1年近く休職した中、独りぼっちだと感じ、孤独について考え、ボランティアでハンセン病の療養施設に通う友人のことを思い出すなどした。 復職後、東日本大震災が発生。「それまでは本を読むだけで自分の生活を優先していたが、もっと考えないといけない」と、旅先で各地の原発を巡るようになった。 2020年、新型コロナが流行、大型客船で患者が集団発生したニュースが連日伝えられる中、村井さんにも、息苦しさやだるさなどの症状が現れた。学校を休み、検査を受けたいと保健所や病院に電話をしたが、熱が出なかったため断られ、しばらく自宅待機。自分が感染しているのか、いないのか分からない中、迷惑をかけて申し訳ないという気持ちと同時に、孤独と孤立を味わい、かつて本で読んだハンセン病患者の気持ちが分かった気がした。その後は旅先で、各地のハンセン病療養所を訪ねるようになった。 コロナ禍を経験し「人生、何が起こるか分からない」と、教員を早期退職。昨年4月、図書館学の分野で憧れだった筑波大学で学び始めた。つくばに転居後の昨年7月、群馬県草津町のハンセン病の療養所栗生楽泉園があった重監房資料館を訪ねた際、同館で見た学芸員制作のドキュメンタリーに衝撃を受けた。同館からDVDを借りて15日、つくばで上映会を開く。 村井さんは「ハンセン病の歴史を経験してもなお、コロナ禍で差別や偏見があった。立ち止まり、一緒に考える機会になれば」と話し、「上映会を第一歩として、その人がその人らしく、ありのままに生きていける、つながることができる場をつくりたい。大学では、北欧を例に、市民活動の拠点になっている図書館を研究テーマにしており、重なる部分がある」とも語る。(鈴木宏子) ◆上映会「仙太郎おじさん!貴方は確かにそこにいた 蘇るハンセン病患者とその遺族」は15日(金)午後1時~3時、つくば市天久保のBARKスタジオで開催。参加費500円。主催はPlace for lifeー命を守る」。詳しくはこちら。

小中学生に野球を指導 筑波銀行野球部 手本見せ、きめ細かく

関東代表、茨城代表として昨年の国体と天皇杯に出場した強豪の社会人野球チーム、筑波銀行軟式野球部が10日、笠間市の北山グランドで開かれた野球教室で、小中学生を対象に野球を指導した。 同行野球部は東日本大震災後、県内の被災地を中心に北茨城、日立市、大洗町などで野球教室を開催してきたが、新型コロナの影響で中止になっていた。子供たちに野球を指導したのは新型コロナが5類に以降後初めて。 デイサービス事業者のBESLOPE(ビースロープ)が主催し、笠間市近隣の少年団やクラブチームに所属している小中学生計約60人が参加した。 午前の小学生の部は、キャッチボール、ゴロの捕球、正確な送球、走塁の指導をした後に、チームに分かれて打撃を指導した。 午後からの中学生の部は、技術力をアップさせるため投手には同行の選手が手本を見せて、ボールの握り、投球ホームなどをきめ細かくアドバイスした。野手には監督がバットを持って指導しながらシートノック、シートバッティング、ベースランニングを行った。 参加した水戸市のサムライベースボールクラブ、村田塁さん(小4)は「筑波銀行の選手が細かい所まで優しく教えてくれて勉強になった。楽しかった」と微笑んだ。笠間市の佐藤志武騎さん(中2)は「レベルの高い選手に教えてもらい良い経験が出来て楽しかった。今日学んだことを6月の中学校の総体に生かして優勝目指し頑張る」と力強く語った。 同行野球部でひたちなか市出身(水城高校、常盤大学)の根本拓真選手(25)は「楽しかった。小学生に基本を教えるのは大事なこと。口に出して教えることで自分も改めて基本の大切さを思った。地域の人に支えられているので、恩返しして貢献したいし、子供たちにはこれをきっかけに野球を楽しんで続けてほしい」と話した。(高橋浩一)

筑波メディカルセンターの救命救急体制《メディカル知恵袋》3

【コラム・阿竹茂】現在、茨城県には救命救急センターが6カ所、高度救命救急センターが1カ所あります(図1)。救命救急センターの役割は「重篤患者に対する高度な専門的医療を総合的に実施することを基本とし、重症および複数の診療科領域にわたるすべての重篤な救急患者を24時間体制で受け入れること」です。 筑波メディカルセンター病院は、1985年に開催されたつくば科学万博に合わせ、県内2番目の救命救急センターとして設置されました。地方の救命救急センターとして、軽症から重症患者まで幅広い救急医療だけでなく、ドクターカーによる病院前救急医療、死後CT検査による死因究明のほか、災害時の救急医療も行ってきました。 自家用車での救急外来受診も  救急搬送される患者さんは、2022年には約 5000件に上り、うち1300件(全体の26%)が救命救急センターの集中治療室に入院しました。主な傷病は、急性心筋梗塞や心不全などの心疾患、重症外傷、脳血管障害(脳出血、脳梗塞)などです。 重症患者は救急車で搬送されるとは限りません。自家用車で来院して、救急外来を受診する方(walk in)の中に、急性心筋梗塞、脳卒中、重症感染症など、重症かつ緊急性の高い患者さんがいます。筑波メディカルセンターでは、緊急性の高い患者さんに迅速に対応し、来院後~診察の間に急変することを未然に防いでいます。 ドクターカーによる救急医療  2012年から乗用車型ドクターカーの運用を始め、2022年にはドクターカーで786件出動し、240件の病院前診療を行いました。ドクターカーは消防署からの要請で出動し、救急車の救急隊と連絡を取りながら、現場や搬送途中で合流し、派遣された医師・看護師が診療を行います(図2)。 救急隊では行えない検査・処置・投薬を行うことで、傷病者の状態悪化を防ぎながら病院に搬送しています。急性心筋梗塞や重症外傷など、緊急性の高い傷病者の場合は、ドクターカー医師からの連絡によって、病院で対応するスタッフの招集や治療の準備を早期に始めることができます。 死後CT検査による死因究明  筑波メディカルでは、救急外来での死亡確認症例のほぼ全例について、死後CT検査を行っています。来院時心肺停止の症例の多くは、救急外来で死亡確認を行います。2022年の外来死亡症例は149人で、死因究明のために141人(全体の95%)の死後CT検査が行われました。 特に目撃のない心肺停止の症例は経過が明らかでないため、死亡原因が不明となることがありますが、死後CT検査で急性大動脈解離や脳出血を認め、死因と診断できることがあります。目撃のある心肺停止でも、急性大動脈解離による心肺停止は通常の心肺蘇生法では救命できないため、新たな方法が必要となります。死後CT検査による死因究明が進むことで、急変時の対応方法が変化していく可能性があります。 災害拠点病院と救急災害医療  救命救急センターを有する県内の病院はすべて災害拠点病院となっており、災害時医療の準備や訓練を行っています。筑波メディカルセンターでは、救命救急センターの医師や看護師が、災害医療派遣チーム(DMAT)の主な構成メンバーとなっています。 東日本大震災(2011年3月)、つくば竜巻災害(2012年5月)、常総市水害(2015年10月)では、筑波メディカルセンターは DMATの活動拠点となり、救急災害医療活動を行いました。今年1月に起きた能登半島地震では、3次隊として茨城DMAT15チームが被災地に派遣され、筑波メディカルセンターのDMATも珠洲市で活動しました。(筑波メディカルセンター病院 救命救急センター長)

筑波メディカルセンターの救命救急体制《メディカル知恵袋》3

【コラム・阿竹茂】現在、茨城県には救命救急センターが6カ所、高度救命救急センターが1カ所あります(図1)。救命救急センターの役割は「重篤患者に対する高度な専門的医療を総合的に実施することを基本とし、重症および複数の診療科領域にわたるすべての重篤な救急患者を24時間体制で受け入れること」です。 筑波メディカルセンター病院は、1985年に開催されたつくば科学万博に合わせ、県内2番目の救命救急センターとして設置されました。地方の救命救急センターとして、軽症から重症患者まで幅広い救急医療だけでなく、ドクターカーによる病院前救急医療、死後CT検査による死因究明のほか、災害時の救急医療も行ってきました。 自家用車での救急外来受診も 救急搬送される患者さんは、2022年には約5000件に上り、うち1300件(全体の26%)が救命救急センターの集中治療室に入院しました。主な傷病は、急性心筋梗塞や心不全などの心疾患、重症外傷、脳血管障害(脳出血、脳梗塞)などです。 重症患者は救急車で搬送されるとは限りません。自家用車で来院して、救急外来を受診する方(walk in)の中に、急性心筋梗塞、脳卒中、重症感染症など、重症かつ緊急性の高い患者さんがいます。筑波メディカルセンターでは、緊急性の高い患者さんに迅速に対応し、来院後~診察の間に急変することを未然に防いでいます。 ドクターカーによる救急医療 2012年から乗用車型ドクターカーの運用を始め、2022年にはドクターカーで786件出動し、240件の病院前診療を行いました。ドクターカーは消防署からの要請で出動し、救急車の救急隊と連絡を取りながら、現場や搬送途中で合流し、派遣された医師・看護師が診療を行います(図2)。 救急隊では行えない検査・処置・投薬を行うことで、傷病者の状態悪化を防ぎながら病院に搬送しています。急性心筋梗塞や重症外傷など、緊急性の高い傷病者の場合は、ドクターカー医師からの連絡によって、病院で対応するスタッフの招集や治療の準備を早期に始めることができます。 死後CT検査による死因究明 筑波メディカルでは、救急外来での死亡確認症例のほぼ全例について、死後CT検査を行っています。来院時心肺停止の症例の多くは、救急外来で死亡確認を行います。2022年の外来死亡症例は149人で、死因究明のために141人(全体の95%)の死後CT検査が行われました。 特に目撃のない心肺停止の症例は経過が明らかでないため、死亡原因が不明となることがありますが、死後CT検査で急性大動脈解離や脳出血を認め、死因と診断できることがあります。目撃のある心肺停止でも、急性大動脈解離による心肺停止は通常の心肺蘇生法では救命できないため、新たな方法が必要となります。死後CT検査による死因究明が進むことで、急変時の対応方法が変化していく可能性があります。 災害拠点病院と救急災害医療 救命救急センターを有する県内の病院はすべて災害拠点病院となっており、災害時医療の準備や訓練を行っています。筑波メディカルセンターでは、救命救急センターの医師や看護師が、災害医療派遣チーム(DMAT)の主な構成メンバーとなっています。 東日本大震災(2011年3月)、つくば竜巻災害(2012年5月)、常総市水害(2015年10月)では、筑波メディカルセンターは DMATの活動拠点となり、救急災害医療活動を行いました。今年1月に起きた能登半島地震では、3次隊として茨城DMAT15チームが被災地に派遣され、筑波メディカルセンターのDMATも珠洲市で活動しました。(筑波メディカルセンター病院 救命救急センター長)

3/30 ガザに平和を!安田菜津紀講演会 

フォトジャーナリストで、認定NPO法人Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル)副代表の安田菜津紀さんが「紛争地、被災地に生きる人々の声~取材から見えてきたこと」と題して講演する。 イスラエルの侵攻が続くパレスチナ・ガザ地区や、戦争が長らく続いてきたシリアでは、多くの人々が避難生活を続けている。果たしてそれは海の向こうの自分たちとは遠い問題なのか。東日本大震災で被災地となった岩手県陸前高田市で出会った人々の行動が、シリアと日本をつなげてくれたことがあった。取材で撮影した写真と共に、私たちに今、何ができるのか、どんな未来を選んでいきたいのかを考える。 安田さんは1987年神奈川県生まれ。現在、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で難民や貧困、災害の取材を進める。東日本大震災以降は陸前高田市を中心に被災地を記録し続ける。現在、TBSテレビの「サンデーモーニング」にコメンテーターとして出演する。

初発膠芽腫患者対象に治験スタート 筑波大学のがん治療法BNCT

加速器で発生した中性子を照射してがん細胞を破壊する治療法、ホウ素中性子捕捉療法(BNCT)の開発を進める筑波大学(つくば市天王台、永田恭介学長)が、難治性脳腫瘍の膠芽腫(こうがしゅ)に対する治験を開始した。現在、大学付属病院(原晃院長)の患者対象に候補者を絞り込んでおり、加速器のある東海村に設置した治療施設で3月にも臨床試験が開始される。初発膠芽腫患者を対象にした医師主導の治験は世界初という。 筑波大学は初発膠芽腫を対象とした国内第Ⅰ相医師主導臨床試験に関する治験計画を提出。日本医療研究開発機構(AMED)の「橋渡し研究プログラム」課題として採択され、23年度から3年間、8000万円が予算化された。治験登録の手続きは1月までに完了した。 脳と脊髄の神経膠細胞から発生する腫瘍のうち、最も悪性のものが膠芽腫(グリオブラストーマ)で、5年生存率が10%程度と極めて低いがんとされる。手術と放射線・化学療法の組み合わせでも多くが再発し、治療が困難とされ、有効な治療法が望まれている。日本国内での脳腫瘍の発生頻度は年間に約2万人、そのうち10%強が膠芽腫とされている。 今回の治験では、すべてを切り取れないような難しい部位に悪性腫瘍のある患者を対象に、BNCTの安全性などを検証する。効果を的確にとらえられるよう、放射線治療歴がない患者を対象とした試験となる。通常の放射線治療では放射線量で60グレイの照射が行われるが、BNCTと組み合わせることで40グレイにまで抑えられ、治療時間の短縮により、患者の負担も軽減されるという。 第Ⅰ相(安全性試験)の後、第Ⅱ相(治療の有効性治験)を実施して効果が認められれば、医療機器の承認を経て、保険診療へとつながっていく期待がある。第Ⅰ相では12人から最大18人、第Ⅱ相では30人程度の症例を得る想定で、結果が出るまでに3年程度を要すると見ている。 大量の中性子も低エネルギーで安全性確保 BNCTは、がん組織にのみ集積する性質のホウ素薬剤を投与し、加速器で発生させた中性子を患部に向けて照射すると、中性子とホウ素が反応し核反応を起こし、がん細胞を破壊する原理に基づく。放射線治療の一種だが、細胞単位で治療が可能で、皮膚や周囲の正常細胞は影響を受けにくいという利点がある。 筑波大では長年、付属病院の陽子線医学利用研究センターでBNCTの研究に取り組んできた。2011年3月以前は中性子の発生源に、東海村にあった実験用原子炉が用いられたが、東日本大震災で被災しストップ。これを機に実用化に向け病院にも設置できるよう、小型化と安全性を求めての装置開発が進められた。 照射装置は2013年、いばらき中性子医療研究センター(東海村白方)内に設置、15年に中性子の発生を確認した。高エネルギー加速器研究機構(KEK)と共同開発の加速器は長さ約8メートルとコンパクト、設置面積は40平方メートルに満たない。エネルギー8メガ電子ボルト、平均電流約2ミリアンペアで陽子を加速し、厚さ0.5ミリのベリリウムに照射して中性子を得る。中性子ビームは別室に導かれ、生体に照射される。 21年から治験薬開発のステラファーマなどと実証機(iBNCT001)による非臨床試験を行ってきた。陽子線医学利用研究センターの熊田博明准教授によれば「大量の中性子を発生させながらもエネルギーは低く抑える」ビームのコントロールに苦心した。エネルギーを低くすることで施設の放射化を避けられるという。(相澤冬樹)

能登半島地震でのDMAT活動を報告 筑波メディカルセンター

「あれで良かったのか、気が晴れない」 能登半島地震の災害支援で活動した筑波メディカルセンター(つくば市天久保、河野元嗣病院長)の災害医療支援チーム(DMAT)による活動報告会が20日、同病院内で開かれた。救急診療科医長で今回の活動の隊長を務めた栩木愛登(とちき・あいと)医師(40)は「要請に従い活動は無事やってこられたが、あれで良かったのかと気が晴れない」などと振り返った。 同病院からDMATチームとして1月6~8日、能登半島地震の災害支援第3次隊として医師1人、看護師3人、業務調整員2人の計6人が石川県に派遣された。隊員らは7日、避難所となった珠洲市内の老健施設3施設の入所者らの健康状況調査や支援物資の搬送を実施した。翌8日には、介護度が高い高齢者を収容している別の老健施設入所者らの健康状況評価や支援を実施し、体調不良者を珠洲総合病院に医療搬送などした。 20日の報告会は同病院の職員を対象に開催した。報告した栩木医師は、パワーポイントでスライドなどを映しながら活動内容を詳細に説明した。 派遣が決まった後の準備段階では、雪道を走るスタッドレスタイヤがなかなか準備できなかったり、連絡役の業務調整員の確保に手間取ったりしたことが報告されたほか、能登半島では道路が寸断され、通常15分の道程を進むのに3時間近くかかり、報道で知っていたよりも被害状況がひどかったことなどが報告された。 派遣先の老健施設は、職員自身が被災したことにより通常より少ない職員での運営を余儀なくされていた。さらに避難者が押し寄せ、24時間体制で管理を求められたなど施設の職員が大変疲弊していたことなどが報告され、栩木医師は「地獄があった」と話した。 避難地はライフラインが寸断され水道が使えないため、隊員も段ボール製の非常用簡易トイレを使用したり、老健施設の事務所の床に寝袋で寝るなどしたという。 栩木医師は活動を振り返ると、出動にスタットレスタイヤとかチョッキタイプのユニフォームなど必要な物品の準備をしておかなければいけないと思ったとし、「活動が体力的には特に辛いかったわけでもなかったが、帰ってきてじんましんが全身に出来たりしたので精神的なダメージが比較的大きかったのだと思う」と述べた。 同病院の志真泰夫代表理事は活動をねぎらい「地震はどこにでも起きることだから、当院も免震構造の施設にしていかなければならない」などと付け加えた。 DMATは厚労省が阪神大震災の教訓から2005年に設立した。医師1人、看護師2人、医療事務や救急救命士など業務調整員1~2人で編成され、1チーム原則3日間、被災地にいる救急患者の治療やサポートをしたり、避難所にいる被災者の感染症に対する処置を行ったりする。 同病院のDMATは2011年の東日本大震災、12年のつくば北条竜巻、15年の常総市豪雨災害などにも出動した。今回、震度7以上の地震が起きた能登半島地震では全国のDMAT隊員に一斉に連絡が入り支援準備に入ったという。(榎田智司)

冬の北条市で豆まき つくば

節分の3日、つくば市北部の北条商店街で「冬の北条市」が開催され、豆まきが実施された。旧筑波町の中心地だった同商店街の振興を目指す「北条街づくり振興会」(坂井英幸会長)が主催した。 200人ほどの住民らが集まり、同振興会の坂井会長、五十嵐立青つくば市長、青山大人衆院議員らが壇上に登り、掛け声とともに、豆や紅白の餅、菓子、景品などを投げた。坂井会長は「福は内 福は内、鬼は外 鬼は外」と2回繰り返し、最後に「福でもってぶっ止めろ」と言い、北条地区に伝わる豆まきの掛け声を子供たちに説明していた。 北条市は毎年、季節ごとに計画されており、2月は冬の北条市と呼ばれ、例年豆まきが行われている。今年は開催日と節分がちょうど重なった。コロナ禍は不定期で開催しており、冬の時期の開催は4年ぶりとなる。 北条市は2007年から行われ、県の事業「元気あきない人材育成事業」が元になっている。北条市など古い街並みの商店街を生かした振興会の取り組みは経産省の「新・がんばる商店街77選」に選ばれている。旧郵便局を利用したカフェ・ポステンや国指定重要文化財となった「矢中の杜」なども街並みを構成している。 3日は豆まきのほか、26業者と県立筑波高校の生徒らが参加し、商店街に露店やキッチンカーが並び、地元住民らの交流が盛んに行われた。 振興会会員として当初から北条市に関わる市内に住む会田直美さんは「もともとは商店街の調査事業として始まったが、北条マイクリーム(北条米を使ったアイスクリーム)の開発、古民家再生、蔵を使ったコンサートなどが行われてきて、現在のような定期的なイベントを持つようになった。北条市はTX開通、東日本大震災、北条竜巻、コロナ禍を経て少しずつ形を変えながら続いてきた。現在どこの街並みもコピーをしたように同じ形だが、古くからの商店街には個性がある。地域住民でないからこそ北条市の魅力を感じて、活動に参加している」と話していた。 次回開催は5月のGW期間中を予定している。(榎田智司)

桜川市真壁のひなまつり《日本一の湖のほとりにある街の話》20

【コラム・若田部哲】茨城県唯一の重要伝統的建造物群保存地域である桜川市真壁地区。この歴史ある街並みで開催される「真壁のひなまつり」は、2003年より地域有志によって行われ、24年で第20回目を迎えます。今回はこのおまつりについて、第1回開催時からの有志の一人、柳田隆さんにお話を伺いました。 現在では6万人もの観光客が訪れる、桜川市の一大行事となったこのおまつりですが、そのスタートは地元住民の素朴な話し合いから生まれたものだそうです。02年に登録文化財の数が10軒ほどとなり、春や秋に地域を散策する観光客が以前より増えると、わざわざ足を運んでくれる人たちを、何かおもてなしすることはできないだろうか、という声が自然に上がり始めました。 そんな折、たまたま立ち寄った山形県で、家々におひなさまを飾り、訪れる人たちに見てもらっている光景を柳田さんは目にします。「古いお雛(ひな)様が、真壁でも家から出てくるのではないか?」そう考え、真壁に帰りすぐ皆でおひなさまを探すと、昭和や大正のものだけでなく、江戸時代のものまで見つかったそうです。 「おもてなし」の心を第一に  そうして、見世蔵や土蔵・石蔵・塗屋といった伝統的な建物の中を、様々な時代の個性豊かなおひなさまが彩った、和の風情あふれる第1回目のおまつりが始まりました。街を訪れる人達が喜ぶ様子を見て途中から参加する家も現れ、スタート時に21軒だった参加会場は最終的には43軒まで増加。当初用意していた案内図の内容が、日を追うごとにどんどん変わっていったそうです。 また開催にあたり、ただおひなさまを並べて見てもらうだけのものにせず、「おもてなし」の心を第一に、おひなさまを通じ、地域を訪れた方とのコミュニケーションを心掛けたそうです。おひなさまと伝統的町並みが織りなす風情や、地域の人達とのあたたかな交流は好評を博し、回を重ねるごとに参加する家は増えました。東日本大震災や新型コロナウイルスの感染拡大といった試練を乗り越え、20回目となる24年の開催では127軒の家々が参加予定です。 高齢化などにより最盛期より参加する軒数は減っているものの、地域にとっては地元再発見と愛着形成の機会となり、観光客には真壁の良さを感じてもらえるこのおまつりを、大切に続けていきたいと柳田さんは穏やかに語ってくださいました。開催は毎年2月4日から3月3日まで。伝統的な日本の風情とおもてなしの心を味わいに、ぜひお出かけください。(土浦市職員) <注> 本コラムは「周長」日本一の湖、霞ケ浦と筑波山周辺の様々な魅力を伝えるものです。 →これまで紹介した場所はこちら

桜川市真壁のひなまつり《日本一の湖のほとりにある街の話》20

【コラム・若田部哲】茨城県唯一の重要伝統的建造物群保存地域である桜川市真壁地区。この歴史ある街並みで開催される「真壁のひなまつり」は、2003年より地域有志によって行われ、24年で第20回目を迎えます。今回はこのおまつりについて、第1回開催時からの有志の一人、柳田隆さんにお話を伺いました。 現在では6万人もの観光客が訪れる、桜川市の一大行事となったこのおまつりですが、そのスタートは地元住民の素朴な話し合いから生まれたものだそうです。02年に登録文化財の数が10軒ほどとなり、春や秋に地域を散策する観光客が以前より増えると、わざわざ足を運んでくれる人たちを、何かおもてなしすることはできないだろうか、という声が自然に上がり始めました。 そんな折、たまたま立ち寄った山形県で、家々におひなさまを飾り、訪れる人たちに見てもらっている光景を柳田さんは目にします。「古いお雛(ひな)様が、真壁でも家から出てくるのではないか?」そう考え、真壁に帰りすぐ皆でおひなさまを探すと、昭和や大正のものだけでなく、江戸時代のものまで見つかったそうです。 「おもてなし」の心を第一に そうして、見世蔵や土蔵・石蔵・塗屋といった伝統的な建物の中を、様々な時代の個性豊かなおひなさまが彩った、和の風情あふれる第1回目のおまつりが始まりました。街を訪れる人達が喜ぶ様子を見て途中から参加する家も現れ、スタート時に21軒だった参加会場は最終的には43軒まで増加。当初用意していた案内図の内容が、日を追うごとにどんどん変わっていったそうです。 また開催にあたり、ただおひなさまを並べて見てもらうだけのものにせず、「おもてなし」の心を第一に、おひなさまを通じ、地域を訪れた方とのコミュニケーションを心掛けたそうです。おひなさまと伝統的町並みが織りなす風情や、地域の人達とのあたたかな交流は好評を博し、回を重ねるごとに参加する家は増えました。東日本大震災や新型コロナウイルスの感染拡大といった試練を乗り越え、20回目となる24年の開催では127軒の家々が参加予定です。 高齢化などにより、最盛期より参加する軒数は減っているものの、地域にとっては地元再発見と愛着形成の機会となり、観光客には真壁の良さを感じてもらえるこのおまつりを、大切に続けていきたいと柳田さんは穏やかに語ってくださいました。開催は毎年2月4日から3月3日まで。伝統的な日本の風情とおもてなしの心を味わいに、ぜひお出かけください。(土浦市職員) <注> 本コラムは「周長」日本一の湖、霞ケ浦と筑波山周辺の様々な魅力を伝えるものです。 →これまで紹介した場所はこちら

焼け跡の銀座風景 《くずかごの唄》135

【コラム・奥井登美子】震災にあった石川県の中学生が、高校受験に備えて集団で移住するニュースを見たとき、私たちが6年生のときに強制疎開させられたことを想い出し、涙が出そうになってしまった。 「小学3年生から6年生まで全員、東京にいてはいけない。疎開しなければならない」 「来年3月の中学受験、僕は都立しか受けたくない」 「私も、都立を受験したいわ」 「皆、方々に疎開してバラバラになってしまうけれど、受験の日には逢えるね」 「受験の日に逢いましょう」 6年生のクラスメート全員、受験の日に逢うという堅い約束をして別れたのだった。 受験日は3月12日。運命の日、東京大空襲が3月10日。約束を守って、東京へ帰ってきた人は、東京大空襲に巻き込まれてしまった。約束を守れない私は、疎開先の長野県飯田の県立女学校を受験して無事だった。 有楽町駅のものすごい臭い  1946年の冬休み。父は「あなたに見せておきたいものがある。今から東京へ帰るから、一緒に行こう」。 父の会社「尚榮精機株式会社」は銀座西8-1にあった。米国から電気冷蔵庫など、日本にはない電気器具を輸入して売っていたが、米国との戦争で輸入どころではなくなってしまって、江戸川区の平井に工場を造って、戦争中は電気器具の修理などをしていた。 父の銀座の会社は、幸い焼け残っていたので、私はそこへ泊って、新橋、有楽町あたりを毎日見て回った。 焼け野原になってしまった東京。残った建物も、爆弾の熱風でカラスが吹き飛んでしまい、どのビルも窓に新聞紙が張りつけられていた。爆風と一緒に吹いてきたガラスの破片が体に突き刺さって、出血多量で亡くなった人も多かったらしい。 私がびっくりしたのは有楽町駅の臭いである。この駅は銀座の繁華街に近いので、特別厚いコンクリ―工事が施されていたという。空襲のとき、頑丈なコンクリートの駅舎にたくさんの人が詰めかけたらしい。そのまま全員蒸し焼きになってしまった。 敗戦の夏。暑さの中で、その人たちの、コンクリートに染み込んだ脂肪や血液が発酵・蒸発し、駅全体が表現の仕様がないような、ものすごい臭いになってしまっていた。 私は、臭いが怖くて有楽町駅に行けなくなってしまった。小学校の同級生は一体何人生き残ったのだろうか?(随筆家、薬剤師)

焼け跡の銀座風景《くずかごの唄》135

【コラム・奥井登美子】震災にあった石川県の中学生が、高校受験に備えて集団で移住するニュースを見たとき、私たちが6年生のときに強制疎開させられたことを想い出し、涙が出そうになってしまった。 「小学3年生から6年生まで全員、東京にいてはいけない。疎開しなければならない」 「来年3月の中学受験、僕は都立しか受けたくない」 「私も、都立を受験したいわ」 「皆、方々に疎開してバラバラになってしまうけれど、受験の日には逢えるね」 「受験の日に逢いましょう」 6年生のクラスメート全員、受験の日に逢うという堅い約束をして別れたのだった。 受験日は3月12日。運命の日、東京大空襲が3月10日。約束を守って、東京へ帰ってきた人は、東京大空襲に巻き込まれてしまった。約束を守れない私は、疎開先の長野県飯田の県立女学校を受験して無事だった。 有楽町駅のものすごい臭い 1946年の冬休み。父は「あなたに見せておきたいものがある。今から東京へ帰るから、一緒に行こう」。 父の会社「尚榮精機株式会社」は銀座西8-1にあった。米国から電気冷蔵庫など、日本にはない電気器具を輸入して売っていたが、米国との戦争で輸入どころではなくなってしまって、江戸川区の平井に工場を造って、戦争中は電気器具の修理などをしていた。 父の銀座の会社は、幸い焼け残っていたので、私はそこへ泊って、新橋、有楽町あたりを毎日見て回った。 焼け野原になってしまった東京。残った建物も、爆弾の熱風でカラスが吹き飛んでしまい、どのビルも窓に新聞紙が張りつけられていた。爆風と一緒に吹いてきたガラスの破片が体に突き刺さって、出血多量で亡くなった人も多かったらしい。 私がびっくりしたのは有楽町駅の臭いである。この駅は銀座の繁華街に近いので、特別厚いコンクリ―工事が施されていたという。空襲のとき、頑丈なコンクリートの駅舎にたくさんの人が詰めかけたらしい。そのまま全員蒸し焼きになってしまった。 敗戦の夏。暑さの中で、その人たちの、コンクリートに染み込んだ脂肪や血液が発酵・蒸発し、駅全体が表現の仕様がないような、ものすごい臭いになってしまっていた。 私は、臭いが怖くて有楽町駅に行けなくなってしまった。小学校の同級生は一体何人生き残ったのだろうか?(随筆家、薬剤師) 

危機一髪の志賀原発《邑から日本を見る》152

【コラム・先﨑千尋】元日はいつものように子どもたちが集まり、私は酒飲み。いい気分でいる時、地震の予兆があり、次いでやや強い揺れ。子どものスマホが鳴り出し、だんだんに地震の全容が分かってきた。 これまでに分かった範囲では死者や避難者などは東日本大震災などよりも少ないが、地震の起きた所がわが国で最大の半島だけに「陸の孤島」と化し、道路は土砂崩れや陥没と亀裂。津波と隆起で港も使えず、交通網が寸断され、電気が止まり、水も出ない。輪島では大規模な火災も起きた。私が最初に心配したのは、半島中部の志賀町にある北陸電力志賀原発がどうなっているのか、だった。 どうしてなのか、原発に関する情報は少しずつ、だんだんにしか入ってこない。これまでに分かった範囲では、運転停止中だったために東京電力福島第1原発のようなひどい事故にはならなかったが、震源地にもっと近かったら、停止中でも危ないことになっていたかもしれない。 気象庁の情報では、揺れの大きさを示す加速度は原発の近くの志賀町香能で2826ガルだった。これは東日本大震災の最大値2934ガル(宮城県栗原市)に匹敵する大きさだ。同原発の原子炉建屋部分でも、1号機、2号機とも原子力規制庁が定めた上限を超えていた。日本地理学会災害対応チームの調査によれば、原発近くで内陸の活断層が動いたようだ。今後の詳しい調査が待たれる。 同原発は今回の地震で変圧器配管が破損し、約2万リットルの絶縁油が漏れ、一部は海に流出。使用済み燃料を冷やす貯蔵プールの水も飛散し、1号機では一時冷却ができなくなった。原発周辺の空間放射線量を測定するモニタリングポストも15カ所で測定できなくなった。この実測値で住民の屋内退避や避難開始などを決めるが、復旧の見通しは立っていないという。原発近くの海岸も3メートル隆起している。 原発災害の避難計画は各自治体が策定することになっている。志賀町ではどうなっているか。「志賀町原子力災害避難計画」によれば、主たる移動手段は自動車。自家用車で避難できない人はバスで運ぶ。避難ルートは国道、県道など。自衛隊車両や海上交通手段も活用する。警察・消防が避難誘導を行う、とされている。 地震はいつどこで起きるか分からない 今回の地震では原発事故は起きなかったのでこの避難計画は適用されなかったが、道路はズタズタになり、海路も使えない状態だった。避難しようにもできない地区があちこちにあったことが現地からのニュースで伝えられている。電波が届かなければ安否の確認すらできない。持病を抱えている人や人工透析を受けている人たちはどうだったのだろうか。 作文でどんな立派な計画を立てても、しょせん絵に描いた餅。実際には全く役に立たないものだったことが今回の地震で証明されたのではないか。宮城県の女川原発や愛媛県の伊方原発は半島上にある。原発の先に住む人たちは逃げようがない。原発災害の避難計画は原子力規制委員会の審査対象外であり、専門家のチェックは入らない。それでいいのだろうか。 断層のことをもっと調べろ、基準地震動が低すぎる、原子力規制委員会は新規制基準と原子力災害対策指針を見直すべきなど、専門家からもいろいろな提案が出ているが、地震学会も公式に地震の予知はできないと言っているのだから、地震はいつどこで起きるか分からない。「地震大国のこの国では、原発は危ないから止めよう」とすればいいのではないか。柏崎刈羽だって東海だって危ないのだ。(元瓜連町長)

危機一髪の志賀原発《邑から日本を見る》152

【コラム・先﨑千尋】元日はいつものように子どもたちが集まり、私は酒飲み。いい気分でいる時、地震の予兆があり、次いでやや強い揺れ。子どものスマホが鳴り出し、だんだんに地震の全容が分かってきた。 これまでに分かった範囲では死者や避難者などは東日本大震災などよりも少ないが、地震の起きた所がわが国で最大の半島だけに「陸の孤島」と化し、道路は土砂崩れや陥没と亀裂。津波と隆起で港も使えず、交通網が寸断され、電気が止まり、水も出ない。輪島では大規模な火災も起きた。私が最初に心配したのは、半島中部の志賀町にある北陸電力志賀原発がどうなっているのか、だった。 どうしてなのか、原発に関する情報は少しずつ、だんだんにしか入ってこない。これまでに分かった範囲では、運転停止中だったために東京電力福島第1原発のようなひどい事故にはならなかったが、震源地にもっと近かったら、停止中でも危ないことになっていたかもしれない。 気象庁の情報では、揺れの大きさを示す加速度は原発の近くの志賀町香能で2826ガルだった。これは東日本大震災の最大値2934ガル(宮城県栗原市)に匹敵する大きさだ。同原発の原子炉建屋部分でも、1号機、2号機とも原子力規制庁が定めた上限を超えていた。日本地理学会災害対応チームの調査によれば、原発近くで内陸の活断層が動いたようだ。今後の詳しい調査が待たれる。 同原発は今回の地震で変圧器配管が破損し、約2万リットルの絶縁油が漏れ、一部は海に流出。使用済み燃料を冷やす貯蔵プールの水も飛散し、1号機では一時冷却ができなくなった。原発周辺の空間放射線量を測定するモニタリングポストも15カ所で測定できなくなった。この実測値で住民の屋内退避や避難開始などを決めるが、復旧の見通しは立っていないという。原発近くの海岸も3メートル隆起している。 原発災害の避難計画は各自治体が策定することになっている。志賀町ではどうなっているか。「志賀町原子力災害避難計画」によれば、主たる移動手段は自動車。自家用車で避難できない人はバスで運ぶ。避難ルートは国道、県道など。自衛隊車両や海上交通手段も活用する。警察・消防が避難誘導を行う、とされている。 地震はいつどこで起きるか分からない 今回の地震では原発事故は起きなかったのでこの避難計画は適用されなかったが、道路はズタズタになり、海路も使えない状態だった。避難しようにもできない地区があちこちにあったことが現地からのニュースで伝えられている。電波が届かなければ安否の確認すらできない。持病を抱えている人や人工透析を受けている人たちはどうだったのだろうか。 作文でどんな立派な計画を立てても、しょせん絵に描いた餅。実際には全く役に立たないものだったことが今回の地震で証明されたのではないか。宮城県の女川原発や愛媛県の伊方原発は半島上にある。原発の先に住む人たちは逃げようがない。原発災害の避難計画は原子力規制委員会の審査対象外であり、専門家のチェックは入らない。それでいいのだろうか。 断層のことをもっと調べろ、基準地震動が低すぎる、原子力規制委員会は新規制基準と原子力災害対策指針を見直すべきなど、専門家からもいろいろな提案が出ているが、地震学会も公式に地震の予知はできないと言っているのだから、地震はいつどこで起きるか分からない。「地震大国のこの国では、原発は危ないから止めよう」とすればいいのではないか。柏崎刈羽だって東海だって危ないのだ。(元瓜連町長)

「独立系書店」土浦に開業 書店文化を次世代に

活字離れやネット購買の浸透などから全国的に書店が減少する中、専門性の高い選書やイベントの企画を通じて店主の個性を打ち出す個人経営による「独立系書店」がつくば・土浦地域にも広がっている。昨年8月、土浦市にオープンした古書店「生存書房」もその一つ。障害者福祉の仕事に就きながら、科学史を専門とする大学非常勤講師で同書店店主の藤田康元さん(57)は「みんなで助け合い、今の困難な時代を生き延びるため」と書店への思いに力を込める。 社会問題、社会思想が2000冊 土浦駅から徒歩5分。霞ケ浦を望む築50年以上の民家の1階に「生存書房」の看板が立てかけられる。2021年に物件を見つけ、2年かけてDIYで手を入れてきた室内には、真新しい手製の木製棚に国内外の社会問題や社会思想に関する書籍が約2000冊並んでいる。 お薦めを聞くと藤田さんが取り出してくれたのが、「図説17都県 放射能測定マップ 読み解き集」というA4判232ページの書籍。2011年の東日本大震災後に起きた原発事故による各地の放射能汚染状況を、草の根でつながる有志が6年かけて調査し、そのデータを分析・解説したものだ。自費出版ながら全国紙が取り上げるなどして注目を集め、発行部数は2万部を超えた。 震災後、放射能測定所を開設 藤田さんは震災後につくば市の自宅で友人らと資金を集めて「つくば市民放射能測定所」を開設し、依頼を受けた食品や土壌の調査を繰り返した。その知見を生かして同書籍の作成に調査・執筆陣として参加した。より正確な情報を多くの市民と共有することで、危機的状況を共に生き延びるという使命感からだった。 神奈川県出身の藤田さんが仕事の都合でつくば市に転居したのは、2003年。研究所や大学に勤務しながら、自分で書店を持ちたい思いを抱いていく。そのきっかけの一つが2011年の震災だったという。当時の心境をこう振り返る。 「震災後、地震や津波、放射能に関する本が多数出版された。中には復刊、増刷された重要な古典もあった。でもネットで販売される関連書籍を見ると品切れだったり、プレミアがついて高額で取引されたりして手に入りにくくなっていた。お金がある人だけが情報を手にできる状況に、それっておかしいんじゃないかと思った」 同時期に関わった、20代前半の女性との出会いにも心が動かされた。労働運動に携わるある知人と、困窮する人たちの生活相談にあたっていたときのことだ。県内在住のその女性は、ある事情から生活保護を受給し生活を立て直そうとしていた。その渦中で震災に遭った。 「3.11の後、つくばにも放射性プルームが飛んできた。ある層の人たちの中には、海外に逃げた人もいた。でも、生活に困窮していた彼女は、原発事故があったのは知っていたけど、それがどういう意味を持つかは全く知らなかった。弱い立場にいる人ほど情報を得られず、何かが起きた時に被害に遭いやすく、リスクを負う可能性が高い。さらに被害に遭っても、立場の弱さ故になかなか目立たず、忘れられやすい。情報強者と弱者がいる。そこにも格差があると実感した」 その後、コロナ禍でも同様の場面を目にしたことも書店開設への後押しになった。 「震災やコロナ禍に限らず、危機的な状況の中で多くの人が、今、何が起きているのか情報を求める。世の中で必要とされる専門的な知識や学問は、みんなで今を生き抜くためにシェアしなければいけないと思った。だからこそ、それぞれの街に、適切な値段で必要な書籍を手にできるところがあるべき。それが自分の関心領域であれば、何が良い本か分かっているわけですから、僕にもそれができると思った。『生存書房』は新刊も扱う古本屋ではあるが、同時に図書室としての意味も持たせたかった」 必要な知識を共有する場に 生存書房は、土浦駅の東西出口、どちらからも徒歩5分ほどの場所にある。この立地にもこだわりがある。「現代は車社会だが、車を運転できる人ばかりじゃない。駅から近ければ県内外からバスと電車で来てもらえる。徒歩や自転車でも、誰もが来やすい場所にしたかった。周囲には有料駐車場もあるので、もちろん車でもきていただける」 今後はテーマを決めての読書会や、著者を招いてのイベントも企画していくと言い、市民運動の情報が集まる場にもしていきたいと話す。「古い街並みが残り歴史と文化が根付く街であることも土浦を選んだ理由。霞ケ浦が見える『ウォーターフロント』であることもポイント。僕は水辺が好きなんです」と笑みを浮かべる。 藤田さんは現在、県外の大学で授業をもちながら、週に数日、夜間介助に就いている。書店を開けるのは主に週末だ。お店の様子は日々、SNSで活発に発信している。その中で、各地で同様の書店を営む人同士の繋がりも生まれているという。 出版科学研究所によると、1998年の約2万2000軒だった全国の書店は、2020年には約1万1000件と約22年間で半減したとされる。書店のない自治体も増加し続け、「書店」という文化は消失の危機に直面している。 「必要な知識を共有する場にしたい」と始めた「生存書房」。自分ならではの暮らしを築きながら、藤田さんは、書店が担うべき文化を守っていきたいという。(柴田大輔) ◆生存書房は土浦市川口2-2-12。問い合わせは電話(050-1808-8525)またはメールへ。営業日等はホームページへ。 ➡独立系書店の過去記事はこちら

今季開幕7連敗 つくばサンガイア

バレーボールVリーグ2部(V2)男子のつくばユナイテッドサンガイア(SunGAIA、本拠地つくば市)は6日、土浦市大岩田の霞ケ浦文化体育会館で北海道イエロースターズ(本拠地札幌市)と対戦し、セットカウント1-3で敗れた。これでつくばは通算成績0勝7敗、10チーム中最下位。7日は同会場でクボタスピアーズと対戦する。 2023-24 Vリーグ2部男子(1月6日、霞ケ浦文化体育会館)つくば 1-3 北海道YS16-2525-1721-2520-25 つくばは今季開幕直後の昨年11月を6連敗。その後約1カ月のインターバルを経てこの日を迎えた。「新年最初の試合でしかもホームゲーム。必ず今日勝つとチーム全員で誓っていた。悔しいの一言」と加藤俊介監督。 開幕時はけが人がかさんで6対6の練習もできず、コンディションが整わないままシーズンイン。その頃に比べれば選手層も厚みを増し、練習も充実してチーム力も格段に上がっているという。しかし勝利に向けて気持ちを高めてきた中で、ショックな出来事もあった。元日の能登半島地震だ。 つくばのエース、架谷也斗は石川県かほく市の出身。「年明けから震災のことが心のどこかに引っかかって、試合に向かう気持ちがつくれなかった」と明かす。 それがチームにも波及してか、立ち上がりから消極的なプレーが多く、リズムをつかめないまま第1セットを落とす。 第2セットで架谷は「このままではいけない、こんなプレーをしていては地元で応援してくれている人たちに顔向けできない」と気持ちを入れ替える。チームにも思い切りの良いプレーが出始め、セットを取り戻した。「開き直って自分たちのやってきたことを貫ければ、いい戦いができる」と加藤監督。 対戦相手の北海道YSは、サフィルヴァ北海道から今季改名。選手はV1経験者も多く、高さとパワー、緻密さが武器。課題だった守備は昨季までつくばを率いた浜崎勇矢監督を指揮官に招き、底上げを図っている。 第2セットはそんな両者の持ち味も出た。互いにブロックやアタックレシーブを得意とするため長いラリーが続き、裏をかこうとするテクニカルなプレーも多く見られた。第3セットはそこから一転、相手の守備を弾き飛ばそうとする強いスパイクが両チームとも増えた。 ここで差がついたのが攻撃の精度。競り合いの中で出たサーブミスやスパイクミスで相手に流れを渡し、つくばは残り2セットを失う。また攻撃のバリエーションの少なさも相手に対応される一因となった。「今は戦術のオプションを増やしている最中。練習で磨いたものを試合で使えるよう精度を上げていきたい」と加藤監督。 濱田英寿主将は「いつも応援していただいているファンの皆さんには、良い結果をご報告できず申し訳ない。ひとつ勝てばリズムがつかめると思うので、明日も頑張って目の前の1勝をつかみ取りたい」と前を向いた。(池田充雄)

東海第2原発の拡散シミュレーション《邑から日本を見る》149

【コラム・先﨑千尋】本コラムの読者は既に報道でご承知の通り、茨城県は11月28日、東海村の日本原子力発電(原電)東海第2原発で炉心が損傷する重大事故が起きた場合、放射性物質が周辺地域にどのように拡散するのかを示すシミュレーション(予測)を公表した(県ホームページ)。それによると、事故対応状況や気象条件を変えた22パターンのうち、原発から30キロ圏内の避難者は最大で約17万人に上る。東海第2原発は2011年の東日本大震災後、運転を停止しており、運転再開のための防潮堤工事などを進めている。 予測は、県が避難計画策定を進めるために原電に作成を依頼し、昨年12月に提出された後、県の専門委員会で検証され、周辺15市町村の首長でつくっている「東海第二原発安全対策首長会議」で公表が了承されていた。 予測はまず「30キロ周辺まで避難・一時移転の対象となる区域が生じるよう、事故や気象の条件を設定」という前提でなされている。事故時に放射性物質を取り除くフィルター付きベントなど安全対策設備が動作した場合と、設備がすべて喪失した場合を分け、気象条件も、同じ方向に風が長期間吹くなど風向きごとに示した。拡散範囲を30キロと限定したのがミソだ。 避難者数が最大になるのは、風が北東から南西に向けで吹き、降雨が長時間続いた場合、那珂市、ひたちなか市で10万5千人、5キロ圏内からの避難者を加え、約17万人となる。風が西ないし北西方面に吹くと、私が住んでいる那珂市北部も対象になる。 県の大井川知事は28日の記者会見で予測は「実効性ある避難計画策定の目安になる」と述べ、予測を活用することで計画策定が前進するとの考えを示した。県は、原発の30キロ圏内には約92万人が住んでいるが、そのすべてが一斉に避難するのではなく、風向きや降雨の状態によって避難重点地区を決めたい考えを持っているようだ。 実際には役に立たない絵空事 私がこの予測の発表を見てまず感じたのは、放射性物質の拡散範囲が30キロにとどまらない場合もあるのではないかということだ。風向きもずっと同じ方向ということは実際にはあり得ない。さらに、1日で事故が終息するとは限らない。東京電力福島第1原発事故の際は、50キロ離れている飯舘村の村民は、原発から放射性物質が飯舘村方面に達していることを知らされなかった。また、県内でも霞ヶ浦周辺や守谷市、取手市などで放射性物質の数値が高かったことが知られている。 東海第2原発運転差止訴訟原告団が11月30日に発表したコメントによると、「ヨウ素131の放出量は福島事故の1000分の5、セシウム137は100分の4と、防災に役立たない極めて過小な事故想定」だ。 30キロの範囲にとどめていることと合わせると、最悪の事態を想定していない今回のシミュレーションは、実際には役に立たない絵空事ではないか。最悪の事態を想定すれば、それ以下の事故でも余裕をもって対応でき、住民の被曝を回避できる。福島の事例を原電や県は忘れてしまったのだろうか。それとも知らんふりをしているのだろうか。(元瓜連町長)

東海第2原発の拡散シミュレーション《邑から日本を見る》149

【コラム・先﨑千尋】本コラムの読者は既に報道でご承知の通り、茨城県は11月28日、東海村の日本原子力発電(原電)東海第2原発で炉心が損傷する重大事故が起きた場合、放射性物質が周辺地域にどのように拡散するのかを示すシミュレーション(予測)を公表した(県ホームページ)。それによると、事故対応状況や気象条件を変えた22パターンのうち、原発から30キロ圏内の避難者は最大で約17万人に上る。 東海第2原発は2011年の東日本大震災後、運転を停止しており、運転再開のための防潮堤工事などを進めている。 予測は、県が避難計画策定を進めるために原電に作成を依頼し、昨年12月に提出された後、県の専門委員会で検証され、周辺15市町村の首長でつくっている「東海第二原発安全対策首長会議」で公表が了承されていた。 予測はまず「30キロ周辺まで避難・一時移転の対象となる区域が生じるよう、事故や気象の条件を設定」という前提でなされている。事故時に放射性物質を取り除くフィルター付きベントなど安全対策設備が動作した場合と、設備がすべて喪失した場合を分け、気象条件も、同じ方向に風が長期間吹くなど風向きごとに示した。拡散範囲を30キロと限定したのがミソだ。 避難者数が最大になるのは、風が北東から南西に向けで吹き、降雨が長時間続いた場合、那珂市、ひたちなか市で10万5000人、5キロ圏内からの避難者を加え、約17万人となる。風が西ないし北西方面に吹くと、私が住んでいる那珂市北部も対象になる。 県の大井川知事は28日の記者会見で、予測は「実効性ある避難計画策定の目安になる」と述べ、予測を活用することで計画策定が前進するとの考えを示した。県は、原発の30キロ圏内には約92万人が住んでいるが、そのすべてが一斉に避難するのではなく、風向きや降雨の状態によって避難重点地区を決めたい考えを持っているようだ。 実際には役に立たない絵空事 私がこの予測の発表を見てまず感じたのは、放射性物質の拡散範囲が30キロにとどまらない場合もあるのではないかということだ。風向きもずっと同じ方向ということは実際にはあり得ない。さらに、1日で事故が終息するとは限らない。東京電力福島第1原発事故の際は、50キロ離れている飯舘村の村民は、原発から放射性物質が飯舘村方面に達していることを知らされなかった。また、県内でも霞ケ浦周辺や守谷市、取手市などで放射性物質の数値が高かったことが知られている。 東海第2原発運転差止訴訟原告団が11月30日に発表したコメントによると、「ヨウ素131の放出量は福島事故の1000分の5、セシウム137は100分の4と、防災に役立たない極めて過小な事故想定」だ。 30キロの範囲にとどめていることと合わせると、最悪の事態を想定していない今回のシミュレーションは、実際には役に立たない絵空事ではないか。最悪の事態を想定すれば、それ以下の事故でも余裕をもって対応でき、住民の被曝を回避できる。福島の事例を原電や県は忘れてしまったのだろうか。それとも知らんふりをしているのだろうか。(元瓜連町長)

大正建築の米蔵に価値を見出す【つくば 古民家利活用】下

つくば市栗原の古民家、郷悠司さん(30)の下邑家住宅でワイン試飲会が終わる頃、母屋と正対する米蔵にトラックが乗りつけられた。建築業者が手際よく杉材の床板168枚の搬入を始める。 老朽化した米蔵の床板を張り替えるワークショップだ。NPOつくば建築研究会(坊垣和明代表)が、古民家の長屋門に宿泊機能を付加しようという「もん泊プロジェクト」(20年9月9日付)の派生イベントとして企画した。 江戸時代から農家を営んできた下邑家は、栗原の別住所から現在地に移り住み、地主となり、小作人も増えていった。質屋も始めるようになり、米蔵は、収穫されたコメの保管場所として大正時代に建てられた。 郷悠司さんの両親、則夫さんと晴美さんによると、米蔵は1921(大正10)年の建築で、2階建て、148平方メートル。「昔は白壁だったそうだが、戦時中、爆撃の目標とならないよう炭で黒く上塗りされたのが今の姿」。郷家では正確なところはわからないとしながらも、戦後の一時期、GHQが食糧倉庫として接収したという逸話があり、実際に英文を刻んだ木製のプレートが残されている。 ひさしを支える梁(はり)が一本の木で継ぎ目のないところが建築として自慢になるそうだが「床板は古くなり重量物を置くことが危険になった。内壁も、特に東日本大震災の地震で痛みが進んだ」。 「古い屋敷を維持するのは、なにかと手間がかかる。私の代では意識しなかったことだが、これを次代に継承させることを考えると、躊躇(ちゅうちょ)する」 則夫さん、晴美さんは、このような悩みをつくば建築研究会に話してきた。このことから同研究会は、長屋門の宿泊機能づくりと同様に、古民家や古建築の維持保存についても「もん泊プロジェクト」に取り入れた。 利活用のためにまず健全保存 米蔵の床はこれまで、土台の補強や修理を施し、新しい床板を打つところまで進んでいる。ワークショップは、米蔵を広く紹介しながら、実際に床板の張付けを体験してもらうという内容だ。 現場では、サポートで参加している建築業者のスタッフが床材を寸法に合わせて裁断し、参加者を指導しながら打ち付けていく。日常では体験する機会のない作業だ。建築業者は上郷地区で伝統的建築物を主体とした仕事を請け負う建明(望月聡志社長)。古民家のリノベーション、改修、古材を活用した新築に関してはエキスパートで、研究会の活動に関心を寄せている。 この日を含めて3度の体験会を計画。年内に板張りを済ませ、来年2月18日に開催する市民シンポジウムでお披露目する考えだ。 研究会の永井正毅副理事長は「本年から市内の古い街並みを訪ね歩く『みちあるき』を行事化しているが、会員外の一般の方々の参加が増えてきた。今回の米蔵修繕にも会員外から2人の参加者があった。古民家や古建築に興味を持っていただけるという感触を感じられるようになっている。これは言い換えれば、地域と人々をつなげるという、研究会がやりたかったことや、やっていかねばならない課題だと思っている」と語る。 道草が縁を生む ひとつ問題がある。郷さん宅が所在する栗原地区は都市計画上、市街化調整区域にあたり、米蔵修繕後の利活用には制約がかかる。例えばこの空間でカフェなどの運営は難しいため具体的な運営内容は決まっていない。郷家が矢面に立ち、研究会は様々な形でこれを支えることになる。 「市街化調整区域の都市計画変更は市に働き掛けるほかないが、市に納得いただけるように、まずは形をつくることに精進したい」と悠司さん。母屋でのイベント同様、悠司さんは実績を積み上げることを重視している。さらに栗原地区の将来をけん引できるような利活用方法を考えている。 ところで、ワイン試飲会の参加者は郷悠司さんを「7代目」と呼んだが、彼はまだ下邑家の世襲はしていない。現在の6代目は彼の伯父にあたる人物が家督を継いでいる。「SNS上でつながった全国の皆さんの応援も活動の原動力になっている。皆さんからいただいた力をきちんと形にできるように頑張りたい。いろいろなことが整った暁には、つくば市や国内の古建築保存に向けて活動していきたい」と悠司さん。 つくば建築研究会の坊垣和明理事長は「もん泊そのものにはまだ多くのハードルがあり、短期間で実現するのは難しい。しかし時間の経過とともに建築は痛んでいく。江戸期や明治、大正の建物が現存するつくば市は、貴重な古建築の集積地。これまでの調査研究では、市内に所在する長屋門だけでも200を超える。全国的にも珍しい都市と農村の融合地。もん泊プロジェクトは目下、"道草"をしているが、道草こそ、こうした出会いや保存のきっかけを発見できると考えている」と述べる。(鴨志田隆之) 終わり

4年ぶり、今年が最後 7日から「つくばラーメンフェスタ」

県内外のラーメン店12店がブースで出店する「つくばラーメンフェスタ」が7日から9日までの3日間、つくば市学園南の研究学園駅前公園で4年ぶりに開催される。2011年の東日本大震災と翌12年の北条竜巻災害からの復興を目指して、12年にスタートした。今年で9回目となるが、当初目的の復興や地域振興を達成し一定の役割は終えたとして今年が最後の開催になる。 同実行委員会(中根才之委員長)が主催し、同市商工会青年部(中泉惠仁部長)が中心となって運営する。市内には約100店のラーメン専門店が点在ししのぎを削っているなどから、ラーメン激戦区つくばを象徴するイベントとなっている。 今年は、県内のラーメン店同士がコラボするのが特徴だ。各店の特色を掛け合わせ、イベントでしか食べられない特別な一杯が提供される。コラボ店は「活龍×甲殻堂」「龍介×特龍」「ドラゴンラーメン×喜元門」「麺堂稲葉×栃木中華そば 神志」「芛堂寺×与しおか」「麺屋必道×中華そば 貴将」。ほかに県外の人気店、新旬屋本店(山形)、よしかわ(埼玉)、ダイニング庵(群馬)、麺や食堂(神奈川)、ど・みそ(東京)、モヒカンラーメン(福岡)の6店が出店する。 1回リセット 中根委員長(44)は「約10年やってきて今回で最後とする。来年から別のイベントを始めたい。1回リセットして、つくばをどうやって盛り上げていくかをみんなで検討し、何が必要なのか熟考し、これから1年間かけてつくり上げていきたい。部員がさらに成長できるようになれればいい」と話す。 同フェスタは10月の3連休に研究学園駅前公園で開催されてきた。例年12~18店ほどが出店し、3日間で10万人~12万人の来場者を集めてきた。会場が駅に近いということもあり、来場者は市内のほか、周辺市町村、東京都や千葉県からも訪れる。 スタート当初から運営に関わっていた市商工会前青年部長の宮川宏行さん(37)は「自分が部長だった年はコロナ禍で開催出来なかった。このままフェード・アウトしてしまうのはあまりに寂しいということで、今回、コロナ前と同じ規模で開催することになった。第1回の2012年は初めてということもあり、会場準備などで大変苦労したが復興への強い思いがあった」と振り返る。「このフェスタをやったことで青年部の質が変わったと思う。人のためになることや人に喜んでもらえることをやった結果が、自分たちのためになるということを実感した」と話す。 18年に実行委員長を務め、現在岐阜県に住む沖村瑠璃さん(38)は「新入部員時代に第4回目のフェスタを体験し、めちゃくちゃ大変だったけれど、めちゃくちゃ楽しかった。2018年に実行委員長となり役割を終えた後、自信を持って物事をやり遂げることが出来るようになった。イベントをやりきることができたことで、イベント構築のノウハウを学んだり、たくさんの大事な友人ができたりとたくさんの恩恵があったと思う。いつまでも同じコンテンツにしがみつかずにやっていこう、という新しい執行部・役員たちの決定を尊重し、イベントを無事終えることができるよう応援したい」と語る。(榎田智司) ◆つくばラーメンフェスタは7日(土)、8日(日)、9日(月・祝)の3日間開催。ラーメン提供時間は各日午前10時~午後7時。会場の研究学園駅前公園はつくば市学園南2-1(TX研究学園駅前徒歩3分)。一部スペースにて「ミニ餃子フェスタ」も同時開催される。入場は無料、ラーメンの価格は全店舗 1杯1000円。詳しくは同ホームページ、または電話029-879-8200(同商工会青年部)

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