木曜日, 4月 18, 2024
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【震災10年】1 つくばで100年の歴史をつなぐ 原田功二さん

東日本大震災から10年を迎える。福島原発事故から避難し、つくば、土浦で生活を再建しようとしている6人に話を聞いた。 【柴田大輔】「浪江に住み続けたい」と誰もがそう思える街をつくりたかった。震災は、原田功二さん(44)らが未来を見据えた街づくりの最中に起きた。 つくば市学園の森の新興住宅地に、元・浪江町商工会青年部長の原田さんは眼鏡店「グラン・グラス」を2018年にオープンさせた。真新しい店内だ。 地域おこしのさなかに起きた 「私は浪江の人に育てられたんです」 千葉県柏市出身の原田さんは、結婚を機に福島県浪江町に移住した。妻・葉子さん(44)の実家は浪江で3代続く「原田時計店」。1925年に開業し、時計や眼鏡、貴金属などを扱う地域に根ざした老舗の商店だ。原田さんは千葉県の大学を卒業後、当時交際していた葉子さんの実家の家業を継ぐため、専門学校で認定眼鏡士の資格を取り、眼鏡部門を担当した。 葉子さんは2人姉妹の長女。将来は福島に行くのかなという思いはあったし、浪江ののんびりした雰囲気も気に入っていた。 浪江では生活に慣れるまで時間がかかった。当初は友人もなく、新しい仕事に忙殺され「ほとんど引きこもり状態」だった。「人との距離が近く、横の繋がりが不可欠」な浪江の社会にも馴染めなかった。 「外で静かに飲もうとしても、必ず知り合いに会って話し掛けられる。それが苦手でした。でも、その距離感が心地よくなっていきました」 誰もが見知る地域だからこその信頼感、互いを気遣う「持ちつ持たれつ」の暮らしに、原田さんは次第に「安心感」を覚えた。その後、地元消防団、商工会に入り、会合や祭りに積極的に参加した。 震災前の浪江は、日本中の地方同様、後継者不足に直面する事業者が少なくなかった。こうした中、若い世代が手を取り合い「子どもたちが住みたいと思える、いきいきした街づくり」に動き出していた。その輪に原田さんは積極的に参加し「よそ者」から浪江の一員になっていく。夜は仲間と飲みつつ街の将来を語り合い、地域おこしに取り組んだ。震災は、そんな充実した日々の中で起きた。 故郷の味が仲間をつなぎとめた その日、店で卸業者の応対をしていると、突然揺れた。店の窓が割れ、ものが散乱した。直後に流れた津波警報。原田さんは家族と高台に避難し車で夜を明かす。翌朝、片付けのため店に戻ると、今度は原発事故による避難指示。落ち着く間もなく店を出た。 隣町の親戚宅に滞在中、福島第1原発1号機が爆発し浪江に戻れなくなった。その後、避難所や親戚宅など、つくばにたどり着くまで県内外5カ所を移動した。 原田さんが浪江商工会青年部長に就任したのは、震災直後の4月。前年に決まっていたことだった。東京の都営住宅に移ったばかりで自身も混乱の中にいた。原田さんはこう考えた。 「『よそ者』の自分は、浪江が故郷の仲間に比べ気持ちに余裕がある。自分だからできることがある」 震災前に購入したスマートフォンで避難者に有益な情報を収集し発信、仲間の安否確認をした。さらに原田さんは青年部の仲間と、名物「浪江焼きそば」を各地に散らばる避難所で振る舞い、被災者の「心の復興」に取り組んだ。避難所で焼きそばを作ると、故郷の味に浪江の人たちが涙を流したのがきっかけだった。活動はバラバラになった仲間をつなぎ止めるためでもあった。浪江の暮らしは地域のつながりがあってこそ。そこから2年、仲間と各地のイベントで焼きそばを作り、メディアでの情報発信に力を注ぐ。 そのころ浪江町民の中で、町外に住民がまとまり暮らせる「代替地」の用意を町長に求める声が上がった。だが、将来的に町への帰還を考える町長と思いは一致しなかった。 「帰るのは無理だと思い始めました。40歳を超え、新しい土地で何かを始めるなら体力のあるうちに動きたかった。県外も考えたいと社長である義父に相談すると、承諾してくれました」 福島での事業再開を望んでいた義父が、原田さんの希望を受け入れた。 愛された浪江の店がお手本 浪江の知人につくばを紹介された。 「つくばは開発中のこれからの街。一目ぼれでした。郊外に広がる山と田畑が浪江に似ていました。ここでやろうと覚悟を決めました」 消防や青年部の仲間に思いを伝えると、励ましの言葉が返ってきた。 新しいお店は「1歳からお年寄りまで来られる眼鏡店」がコンセプト。時間をかけてお客さんの声を聞き、その人にとって最適な眼鏡を決めていく。お客さんがゆっくり過ごせるよう、子どもが遊べるスペースも用意した。住民に愛された浪江の店がお手本だ。店内にある柱時計と壁時計は浪江の店から運び込んだ。「原田時計店」の原点を引き継ぐ。義父は現在、福島県二本松市に同名の店舗を構える。つくばはその支店にあたる。 「私にとって故郷は『人』です。生まれ育った柏でも、浪江でも、私は人に育てられました。特に浪江では、社会人としてたくさんのことを教えられました。つくばでは、地域の方と一緒に育っていけたらと思っています」 原田さんは現在、妻の葉子さん、8歳になる長男と暮らしている。 「息子は浪江焼きそばが好きなんです。まだ小さいので震災のことは話してません。でも、『これ、お父さんとお母さんが住んでたとこの食べものだよ』って伝えてます」 原田時計店は2025年に100周年を迎える。つくばの街で、人の縁と歴史をつないでいく。

過大請求の2億2700万円を国などに返還 震災復興交付税 つくば市

国から過大に交付税をもらっていたことが分かったとして、つくば市は4日、震災復興特別交付税約2億2650万円を国に返還すると発表した。 震災復興特別交付税は、東日本大震災の災害復旧事業などに交付される国の特別交付税で、市環境衛生課によると、2013年度から20年度まで同市水守のつくばサステナスクエア(清掃工場)内で実施したリサイクルセンター整備事業で、国から同特別交付税の交付を受けた。 同整備事業のうち、17、18年度に実施した旧焼却炉解体工事で、18年度分の交付を受ける際、本来、単年度の事業費で申請すべきところを、誤って、17、18年度2年分の事業費をもとに申請してしまい、過大に交付を受けたという。 整備事業が20年度で終了することから、市内部で点検したところ、過大請求が分かった。担当職員がミスをし、課としてチェックできなかったことが原因という。 返還が必要な2億2650万円は、21年度当初予算に計上し、議会の議決が得られれば、国や県と相談した上で、21年度末までに返還する。 健診費用を福島の4市町に返還 一方、福島原発事故で福島県からつくば市に避難してきた住民が、つくば市で受けた受けた健康診査で、住民の出身地の福島県の4市町から健診費用の一部、計12万9700円を過大にもらっていたとして、4市町に返還すると発表した。 市健康増進課によると、返還する市町村は、福島県南相馬市、楢葉町、大熊町、双葉町の4市町。16年度から19年度まで4年間にわたり、延べ43人分の健診費用について、健診にかかった費用のうち自己負担分を、本人から徴収していたにもかかわらず、福島県の4市町からも二重に徴収していた。 本来、自己負担分を除いて4市町に請求しなければいけなかったにもかかわらず、担当職員のミスで、健診費用全部を請求していた。今年度、担当職員が変わり、過大請求していたことが分かった。 返還する12万9700円は3月補正予算に計上し、議会の議決が得られれば、今年3月末までに福島県の4市町に返還する。 五十嵐立青市長は4日の記者会見で「長い年度にわたってこのようなことがあった。来年度は今まで以上に組織的に対応し、起きた原因を一元化して調査して再発防止に努めたい」などと話した。

《くずかごの唄》68 関東大震災 PTSDになった母

【コラム・奥井登美子】私は母から9月1日の関東大震災の時の話を耳にタコができるほど聞かされて育った。母は20歳、妊娠8カ月だった。昼御飯を食べている時、今まで経験したことのないほど揺れ、老齢で目の見えなくなった姑(しゅうとめ)の手を引いて、父と3人で京橋の新富町から皇居方面に避難することにしたという。 ご飯は後で食べるつもりで持って出た。あいにくお昼時とあって、どこの家でもかまどに火を焚いていたからたまらない。木造住宅の崩壊した家から煙が出て、あれよあれよという間に、点々と火が広がってしまったという。 15分間くらい歩く間に、火事はますますひどくなって、銀座の通りを横切る時、風が熱風となって左右から吹き付けてくるので、とても怖かったという。 やっとの思いで皇居前広場に着いて、さて、のどが渇いて水が飲みたいと思ったが水がない。井戸水は朝鮮の人が毒を投入したので飲んではいけないという「おふれ」まがいの「噂」が広がって、水が飲めなかったのがとても苦しかったという。 3日間そこで野宿し、父が歩いて探し回って、友達の亀山さんの目黒の家が焼けないで残っていたので、その家にしばらくお世話になり、芝公園の中に臨時の産院が出来たので、そこで兄を出産した。可哀そうに、兄の戸籍謄本には、「出生地 芝公園内2号地」と書かれていた。 怖かった震災時の話を何回も… 震災で京橋区の98%が焼失。焼け出された人たちは、当時は郊外の、自然の豊かな阿佐ヶ谷や荻窪に移り住んだ。 父は子供が大好きで、慶應の学生時代から「藤友会」という、今でいう子供文庫みたいな塾を造って、近所の子供たちに、勉強や水泳を教えていたという。父は早く次の子供が欲しかったらしいが、20歳で震災避難と出産を体験した母が、今でいえばPTSD(心的外傷後ストレス障害)みたいな精神状態で、不安定で、なかなか子供が出来なかったという。兄の出産から10年たって、やっと私が生まれた。 私がもの心ついた時、母はまるで、蚕(かいこ)が糸を吐き出すように、私をつかまえては、怖かった震災の時の話。何が不安だったか、同じ話を何回もしていた。今思えば、新しく生まれてきた娘に話をすることでストレスを軽減していたのかも知れない。 私は、震災と戦争のつかの間の年月、荻窪の原っぱでのびのびと、楽しい幼年時代をすごして育った。(随筆家、薬剤師)

《くずかごの唄》68 関東大震災 PTSDになった母

【コラム・奥井登美子】私は母から9月1日の関東大震災の時の話を耳にタコができるほど聞かされて育った。母は20歳、妊娠8カ月だった。昼御飯を食べている時、今まで経験したことのないほど揺れ、老齢で目の見えなくなった姑(しゅうとめ)の手を引いて、父と3人で京橋の新富町から皇居方面に避難することにしたという。 ご飯は後で食べるつもりで持って出た。あいにくお昼時とあって、どこの家でもかまどに火を焚いていたからたまらない。木造住宅の崩壊した家から煙が出て、あれよあれよという間に、点々と火が広がってしまったという。 15分間くらい歩く間に、火事はますますひどくなって、銀座の通りを横切る時、風が熱風となって左右から吹き付けてくるので、とても怖かったという。 やっとの思いで皇居前広場に着いて、さて、のどが渇いて水が飲みたいと思ったが水がない。井戸水は朝鮮の人が毒を投入したので飲んではいけないという「おふれ」まがいの「噂」が広がって、水が飲めなかったのがとても苦しかったという。 3日間そこで野宿し、父が歩いて探し回って、友達の亀山さんの目黒の家が焼けないで残っていたので、その家にしばらくお世話になり、芝公園の中に臨時の産院が出来たので、そこで兄を出産した。可哀そうに、兄の戸籍謄本には、「出生地 芝公園内2号地」と書かれていた。 怖かった震災時の話を何回も… 震災で京橋区の98%が焼失。焼け出された人たちは、当時は郊外の、自然の豊かな阿佐ヶ谷や荻窪に移り住んだ。 父は子供が大好きで、慶應の学生時代から「藤友会」という、今でいう子供文庫みたいな塾を造って、近所の子供たちに、勉強や水泳を教えていたという。父は早く次の子供が欲しかったらしいが、20歳で震災避難と出産を体験した母が、今でいえばPTSD(心的外傷後ストレス障害)みたいな精神状態で、不安定で、なかなか子供が出来なかったという。兄の出産から10年たって、やっと私が生まれた。 私がもの心ついた時、母はまるで、蚕(かいこ)が糸を吐き出すように、私をつかまえては、怖かった震災の時の話。何が不安だったか、同じ話を何回もしていた。今思えば、新しく生まれてきた娘に話をすることでストレスを軽減していたのかも知れない。 私は、震災と戦争のつかの間の年月、荻窪の原っぱでのびのびと、楽しい幼年時代をすごして育った。(随筆家、薬剤師)

【震災9年】福島に入り猫救出を経験 つくばで地域猫活動のリーダーに

【橋立多美】つくば市在住の重松聖子さん(71)には9年経っても忘れられない光景がある。住む人を失った家の中に猫の骸(むくろ)が2体並んでいた―。巨大地震、津波に続いて福島第1原発が爆発し避難指示が出された。「すぐに帰れると思い、猫が外に出ないように鍵をかけて行ったんだと思う」 2010年、県南を中心に活動している動物愛護団体のボランティアとして啓発や犬猫の保護譲渡に取り組んた。翌年3月11日に東日本大震災が発生。厳冬期を迎えようとする10月、同団体に所属する3人で福島県東部の太平洋に面した浜通り地域の警戒区域に、置き去りにされた猫の救出に向かった。 早朝に福島県に入り、富岡町の施設で防護服に着替えて線量計を首から下げた。帽子と上着、ズボン、手袋、マスクが渡された。手袋は3重、靴は2重のビニールで覆った。 双葉町や大熊町、楢葉町、浪江町など大地震でインフラや建造物の倒壊が相次いだ被災地で、とり残された猫を探し回った。犬はほかの愛護団体が保護した。 「枯れた草の中に猫が隠れていないかと分け入る度に線量計の針が大きく振れた。自分の被ばく線量より生きている子を助けたいという思いが強かった」と振り返る。震災から半年以上空腹に耐えてまちをさまよった猫たちの体は、汚れてやせ細っていた。 街灯を流された被災地は明かり一つない。午後4時過ぎに活動を打ち切った。この日保護した猫は10匹だった。車に積んでいった100キロの餌は、救出できなかった猫が命をつなぐために、先に被災地に入った動物愛護団体が作った30カ所の餌箱に入れてきた。 土浦のシェルターで世話 所属していた団体が福島で被災した犬猫を保護するシェルターを11月に土浦に設置し、猫舎に約40匹、犬舎に20頭ほどを受け入れた。猫の世話を担当した重松さんは「どうしても懐かない3匹がいて、ケージの隅から動かず目はうつろだった。飼い主に捨てられた、何も信用しないと抗議しているようだった」。 ところが、懐かないのを承知で里親になってくれた家に引き取られると、生き生きして顔つきまで変わった。「家族として迎えられたことで人への信頼を取り戻したと思う。猫は家につくといいますが人につくんです」と重松さんは話す。 心ならずも、ペットを家に置いて逃げなければならなかった飼い主も辛いだろうと、猫たちの写真を、保護した町の避難所に掲示した。3組の飼い主が猫の好物を持ってシェルターに会いにきた。連れ帰ったのは1組。2組は避難所暮らしで飼えないと後ろ髪を引かれつつ福島に帰っていった。 震災時の体験が動物愛護への気持ちをより強くした。犬猫の殺処分数は減少傾向だが全体の80%を猫が占めていること、野良犬を見かけることはなくなったが野良猫が増えて全国的に問題になっていることから、地域の野良猫に不妊去勢手術などをする地域猫活動を推進する「Team.ホーリーキャット」を17年に発足させた=2019年7月17日付。 「飼い主は万一に備えて」 重松さんは「3月11日は震災を思い起こす日。想定外の自然災害が起こっているだけに飼い主には万一に備えてほしい」という。 首輪に迷子札を付けて写真を携帯するほか、フードや猫用の散歩ひもを入れたリュックとキャリーバッグはいつでも取り出せる場所に置く。またペット同伴の避難所が開設されるようになったことから、自治体のハザードマップで避難所の位置を確認しておくことを薦める。 ➡震災9年の関連記事はこちら

【震災9年】双葉町からの避難者 つくばの宿舎で最後の慰霊祭

【崎山勝功】東日本大震災から丸9年を迎えた11日、つくば市周辺で避難生活を送っている福島県双葉町からの避難者が、同市並木3丁目の国家公務員宿舎前で慰霊祭を執り行った。避難者の間では茨城県内各地に転居する動きが進んでいる。今回が同宿舎で開く最後の慰霊祭になるという。 慰霊祭は双葉町出身の中村希雄さん(78)方の宿舎の庭先に祭壇を設け、参列者約20人が1人ずつ線香をあげ、祭壇前で犠牲者の冥福を祈った。 地震発生時刻の午後2時46分ごろには、双葉町の方向に向かい犠牲者に黙とうを捧げた。黙とう後、時代劇「水戸黄門」の主題歌「ああ人生に涙あり」を合唱した。 慰霊祭を主催した中村さんは、11年10月から同市並木の公務員宿舎で避難生活を送り、震災から1年後の12年3月から毎月11日の月命日に宿舎の庭先で慰霊祭を開いてきた。17年3月までは毎月行っていたが、18年からは年1回前後の開催となっていた。今年は中村さん一家が3月中に転居し同宿舎を退去するのに伴い、同宿舎での最後の慰霊祭になる。 中村さんは取材に対し「晴れ晴れして、何か一区切りしたような感じ。こんなにたくさんの方に来ていただいて良かった」と語った。つくばでの日々を中村さんは「いいことづくめ。いじめに遭ったことは無く、みんなで楽しく日々を送ることができた」と振り返った。 慰霊祭には、筑波大体育系の長谷川聖修(きよなお)教授(62)と学生たちも一緒に参列した。長谷川教授らは、体操教室とグラウンドゴルフを通して避難者たちと交流を深めてきた。 長谷川教授は「慰霊祭に参加することで、メディアでは知ることのできない福島の実情、特に原発のことについて知ることができた。原発は自分、皆の未来のために考えなければならない」と語った。その上で「中村さんたちは辛い経験をされているはずだが、いつも明るく、逆に自分が元気をもらっている」と話した。国家公務員宿舎での慰霊祭は今回で最後となるが、体操教室やグランドゴルフへの参加により今後も交流は続くという。 転機を迎える避難者たち 並木の国家公務員宿舎にはピーク時で48世帯が住んでいたが、応急仮設住宅の供与期間が限られていることから、入居者たちの多くがつくば市や周辺市町村などに転居しているという。双葉町からつくば市内に移住した上原滋さん(75)は「あちこち回って、転居が8回目。(つくば市が)最後の住み家になると思う」と語った。 現在、土浦市に住む双葉町出身の新川義隆さん(73)は「土浦に永住する。土浦での生活も慣れてきた。地域の人が受け入れてくれたから」と新天地での生活を語った。新川さんの息子2人は仙台市に、3男は土浦市に住んでいるという。 ➡震災9年の関連記事はこちら

【震災9年】脱原発訴え つくばで市民集会

【崎山勝功】東日本大震災と福島第1原発事故から丸9年を迎えた11日、脱原発と護憲を訴える「3.11から9年 さよなら原発!守ろう憲法!昼休み集会」がつくば市吾妻のつくばセンター広場で開かれた。市民ら約50人が参加し、東海第2原発の再稼働反対などを訴えた。 市民団体「戦争をする国づくりNO@つくば」と「安倍9条改憲NO!市民アクションつくば連絡会」の共催で行われた。 集会では、東海第2原発の再稼働の是非について県民投票を実施するよう直接請求に取り組んでいる「いばらき原発県民投票の会」の徳田太郎共同代表(47)が発言し、署名集めの現状について「昨日(10日)の時点で(有権者の50分の1の約4万9000筆を超える)約8万筆の署名をいただいている。つくば市では(市内)有権者の5%を越える1万筆の署名をいただいた」と県南地域で関心が高いと話した。その上で「私たち一人ひとりが考え、悩み、選択していく。私たちの民主主義は始まっている」と県民投票の意義を説いた。 集会では「首都圏で唯一の東海第2原発は、稼働40年を超す古い原発で、周辺30キロメートル圏に94万人が住む危険な原発」だとして、再稼働反対などを訴えるアピールを採択した。 新型コロナ影響、デモ行進取り止め 同集会は震災後、毎年3月11日に行われている。例年は集会後、つくば駅周辺をデモ行進するが、今年は新型コロナウィルス感染拡大の影響でデモ行進を取り止め、屋外集会のみの実施となった。今年は感染拡大防止のためマスク姿で参加した市民が多く見られた。 集会後に取材に応じた徳田共同代表は「県南は総じて他の地域に比べ県民投票への関心が高い。何といっても高齢の方の関心が高かった。逆に言うと若い世代に関心を持ってもらうのが今後の課題」だと述べた。 ➡震災9年の関連記事はこちら

【震災9年】労組、被ばく対策訴え対立 14日常磐線全線開通

【山崎実】福島第1原発事故で福島県双葉町全域に出ていた避難指示が今月4日、駅周辺など一部で解除されたことを受けて、JR常磐線は14日、全線が9年ぶりに運行を再開する。一方、労働組合「動労水戸」は、富岡―浪江間では毎時2マイクロシーベルトもある高い放射線量区域が2キロも続くとして、運転業務員や検査作業員の被ばく対策などを訴えJR側と対立している。 運転再開は避難指示解除が前提だっただけに、全線が開通し、都内と仙台を結ぶ特急列車の運行に合わせた措置ではとの見方も強い。今回の帰還困難区域の解除は、双葉駅周辺エリアなどに限られ、住民帰還は伴わない。 組合側は、常磐線全線開通は悲願としながらも、本来、年間1ミリシーベルト未満が被ばく線量の原則であり、国の20ミリシーベルトは認められないとし、何よりも内部被ばくが無視されていると指摘する。 運転再開に先立って、震災当時に帰還困難区域などを運行し、放射能に汚染された列車の検査・修繕業務を勝田車両センター(ひたちなか市)で行った際も、組合側は、床下機器に直接触る検修作業員、出区点検を行う乗務員の被ばく線量を測定すべきなどと主張していた。 これに対し当局側は、運転再開区間作業員の被ばく線量管理方法については「ガラスバッジ及び個人線量計により管理を行っていく」、車両の放射線を測定し公表すべきとの要求には「富岡―浪江間においてはモニタリングポストを新設する。車両の線量測定を行う考えはない」(2019年8月)と回答。両者の溝は埋まらない。 運転再開区間の必要な除染は終了しており不安は解消している、内部被ばくが発生する状況ではない―とする当局側に対し、組合側は、福島第1原発事故は現状として収束しているとはいえず今後の廃炉作業の危険性が無視されている、今回の全線開通は放射能汚染の拡散につながると譲らず、今年2月14日にも検修社員の内部被ばく対策として、教育の実施のほか、防護服・防護マスク・ゴーグルなどの準備を行うよう申し入れを行った。 避難指示の一部解除、JR常磐線の全線再開は将来への朗報だが、組合と当局の対立は、生活の現場から目をそむけてはいけない課題を突き付けている。 ➡震災9年の過去記事はこちら

【震災9年】国vs県・漁民の攻防ヤマ場 汚染水海洋放出

【山崎実】東京電力福島第1原発のトリチウムを含む処理済み汚染水の海洋放出を巡る国vs県・漁民の攻防がヤマ場を迎えようとしている。内閣府の担当者が去る20日、県庁で大井川和彦知事に政府小委員会(多核種除去設備等処理水の取扱いに関する小委員会=委員長・山本一良名古屋大名誉教授)の報告書の内容を説明したのに対し、知事は「白紙で検討を」と突っぱねた。 政府小委員会が「現実的な選択肢」として海洋放出を大筋で了承したのが1月31日。これを受け大井川知事は、原発事故発生以降、一部魚種の出荷制限に伴う損失や、風評被害による魚価の低迷など厳しい状況に置かれてきた経緯を指摘した。さらに小委員会の取りまとめ案は「水蒸気放出及び海洋放出が現実的な選択肢であり、海洋放出の方が確実に実施できる」としているのに対し、「結論ありきの取りまとめは容認できない。より影響の出ない方法はないか、さらなる検討を期待する」とコメント。小委員会の取りまとめ案に”注文”を付けた。 沿岸漁民、怒りを爆発 沿岸漁民の闘いは苦難の連続で、今も続いている。2011年3月の東日本大震災、原発事故発生後、いち早く漁業再開に取り組んだが、茨城沖のコウナゴから暫定規制値を超える放射性セシウムが検出。市場での取引拒否、出荷・販売の自粛要請を強いられた。翌12年4月、新基準値の設定(1キロ当たり100ベクレル)が行われたが、茨城県はさらに厳しく50ベクレルの自主的な自粛基準を設定し、県産魚介類の安全確保に努めた。基準遵守は北部(日立市以北)、県央部(東海村~大洗町)、南部(鉾田市以南)の各海域ごとに3カ所以上検査(期間は1カ月)するという徹底ぶり。 この地道な努力が実り、2017年3月、海面28魚種の出荷制限、生産自粛が取られてきた規制は、やっと解除された。しかし韓国、中国、台湾など一部の国・地域では、いまだに輸入規制が続いている。さらには、内水面関係でも霞ケ浦のアメリカナマズと、利根川・境大橋下流のウナギは国の出荷制限を受けており、原発事故の爪痕は残ったままだ。 政府小委員会が海洋放出の方法を示唆した報告書を10日に公表すると、沿岸漁民は敏感に反応し怒りを爆発させた。間髪を入れず、平潟(北茨城市)からはさき(神栖市)まで県内10漁協で組織する茨城沿海地区漁業協同組合連合会(飛田正美会長)は13日、県庁に大井川知事を訪ね「多核種除去整備等処理水の海洋放出を行わないよう国への働きかけを求める要請書」を提出。 処理水を海洋放出することになれば「風評(被害)の再燃は必至」で、トリチウム以外の放射性物質が残留しているとの報告もあり、事故発生直後に引き戻されるのではと不安を訴える。「海洋放出はこれまでの漁業関係者の努力を水疱に帰し、漁業の継続を断念する状況に追い込む仕打ちであり、絶対に受け入れることはできない」と声高に主張した。大井川知事も「皆さんと同じ気持ち」と同調し、地方から反旗を掲げた。 予断許さぬ神経戦続く 報告書の説明とはいえ、20日の内閣府担当者の知事訪問は、余白に協力要請の思惑が見え隠れする。これに対し、県内の各漁協は市町村や県選出国会議員などへの「処理水海洋放出反対」を働き掛け、漁民運動を進めていく考え。政府小委員会の報告書を錦の御旗に、国や東京電力がいつの時点で海洋放出という選択肢に踏み切るのか、予断を許さない神経戦が続くことになる。 ➡東日本大震災の過去記事はこちら

人とネコの命守る防災本発刊 阿見で震災に遭った編集者が発案

【橋立多美】「猫と一緒に生き残る防災BOOK」がこのほど発刊された。8年前の東日本大震災時、阿見町でネコ(当時8歳のオス)と住んでいた本田真穂さんが、震度5強の揺れに遭遇したことで、飼い主の防災への心得と避難に関心を持ったことがきっかけ。 発行元は、ネコの魅力を紹介している雑誌「猫びより」を隔月で刊行している日東書院本社編集部(東京都新宿区)。本田さんは同社の編集者を務める。 東日本大震災後も各地で豪雨や地震、台風などの自然災害が相次ぎ、その度に課題となるのがペットの避難。同書には、同社編集部が被災地で取材した事柄や、震災後、在宅避難していた本田さんが体験した、余震を怖がりパニックになったネコの捕獲、キャットフードやトイレ砂などネコ用品が品薄で入手できなかったことなどがつづられている。困り事を生かして編まれたという。 災害時の心得として「人命が最優先」を挙げている。飼い主が助からなければ、生き残った愛猫の面倒を見てくれる人が現れるか分からない、ネコのための防災は人の防災の次に成り立つとしている。キャリーバッグやキャットフードなどの備えや代用品で出来るフード皿やネコトイレ、いざというときに慌てないための基本的なしつけを推奨している。 「災害発生!その時どうする」として自宅で被災したときの対応や避難準備、ネコと一緒の同行避難の方法や避難生活の送り方なども紹介。また、外出先で被災した場合や獣医師の指示を仰げない場合の応急処置と手当てなど、さまざまなケースを想定した対処法を載せている。 本田さんは「首都直下や、南海トラフなど今後30年以内に大きな地震があると予想されているだけでなく、近年はいろんな自然災害も多く発生している。何よりも普段からの心構え、備えが大切。たくさんの方に読んでいただき、いざという時、お役に立てることを願ってます」と話す。 巻末には飼い主とネコのために用意する非常用チェックリスト、愛猫の持病やかかりつけ動物病院、ワクチン接種の有無などを書き込むページもある。ネコと暮らす人が自身とネコの安全確保のために普段から考え、備えておく情報が網羅されている一冊だ。(定価1300円+税)

【震災8年】4 「変容」撮り続ける齋藤さだむさん 19日から写真展「その後」

【相澤冬樹】今年も3.11は被災地に赴いた。「3月11日と8月15日は現場に入ると決めている。それが僕なりの慰霊の仕方」というのは、つくば市在住の写真家、齋藤さだむさん(70)。足を運ぶ先の1つが北茨城市磯原で、夜、沖にライトアップされた岩礁が浮かびあがる。茨城百景の1つに数えられる二ツ島、今はひとつの島影しか見えない。19日から水戸市の画廊で始まる写真展に備えて、今年も夜の海にカメラを向けた。 島が1つになったのは、地震と津波で崩落し、消失したため。齋藤さんは震災の半年後に訪れ、あまりの変わりようにショックを受けた。二ツ島はまだフィルムカメラの時代だった1998年にも撮っていた。岩に張り付くように緑の木々が写っている。それらが岩の一部もろとも津波に持っていかれて、鉱物標本のような姿になってしまった。 1980年代を筑波大学の技官として過ごした齋藤さんは、建設段階にあった筑波研究学園都市の風景や建築物を撮り続け、内外で評判になった。自らのテーマを「場所の変容」と定めて90年に退職、写真家として独立した。 震災直後、同大学の芸術学系で交流のあった装丁家の守先正さんに誘われて、福島県南相馬市に入った。同市の詩人、若松丈太郎さんの詩集『ひとのあかし』(アーサー・ビナート英訳、清流出版刊)に載せる写真撮影のためだった。チェルノブイリの現実を福島の未来に重ね合わせるように書いた1994年の作「神隠しされた街」などで、危険性をいち早く唱えていたと話題になった詩集だ。 齋藤さんは「背中を押されるように」、東北に足繁く通っては、青森から茨城までの海岸線沿いの被災地に立ち入ることになる。津波に襲われた土地には、住宅や工場の基礎だけが残っていた。 「草が少し生えただけ」 まさに「変容」の場所、生業である建築写真を撮るスタイルのままカメラを向けることができた。それらを集め、2012年4月には、いわき市で写真展「不在の光景」を開いている。しかし、福島第1原発の被災地だけは「まったく違う現れ方だった」という。線量計を携行して双葉町、浪江町などの帰還困難、居住制限区域にも入った。「被災者にお願いして、同行者として入れてもらった。何も戻ってきていないのを痛感する」ばかりだった。 齋藤さんは、この後も各地で何回かの写真展を開いているが、被災地を撮った写真はすべて額装せずに展示した。カメラアングルの外側にも被害が広がり、変容があることを伝えたかったのだ。そんななか、1998年に撮った二ツ島の写真は額縁に収めていたため、2011年の写真も額装し組写真にして発表した。残酷な時間の変容が伝わってくる。 そしてことし3月、齋藤さんは三たび夜の二ツ島を訪ねた。19日から水戸市のギャラリーしえるで始まる写真展「その後」に向けての撮影行だった。「ほとんど変わっていない。草が少し生えただけだった」という二ツ島を撮ってきた。それらを含め、今回約30点を6日間展示する。 会期が短かめなのは、できるだけ会場に詰めて、来場者と「その後」を語り合いたいためという。それぞれの目にはどんな「変容」が映るだろうか。 ▼齋藤さだむ写真展「その後」 3月19日から24日、ギャラリーしえる(水戸市見川2434-1)。会場の電話:029-241-5696

【震災8年】3 商売再開した福島避難者を紹介 筑波大生ら取材

【鈴木宏子】原発事故により福島県から茨城県内に避難し、つくばや土浦市などで商売や事業を再開した避難者13組を紹介した小冊子「いってみっか―いばらきで歩みはじめた私たちの想い 3.11から」(B5判、31ページ)がこのほど発行された。筑波大学学生による復興支援団体「Tsukuba for(ツクバ・フォー)3.11」のメンバーが制作に加わった。 福島県からの避難者を支援している市民団体「ふうあいねっと」(原口弥生代表、事務局・茨城大学内)による。長く付き合った馴染み客や取引先を失い、新しい土地でマイナスから再スタートした避難者を応援したいと制作した。 つくば市二の宮で日本料理店を再開したいわき市出身の安藤公一さん、同市松代に整体院を開いた浪江町出身の石川美穂子さん、土浦市中高津で塗装工事会社を再開した双葉町出身の新川正文さんなど、つくば、土浦、水戸、日立市などで事業を再開した避難者の、原発事故後の避難体験や事業再開までの道のり、仕事への思いなどがつづられている。 「Tsukuba for 3.11」のメンバーで、筑波大人文文化学群1年の上原あやかさん(19)はこのうち3人を取材した。 「何かを始めるのに年齢は関係ない。何歳になってもできる」という言葉が特に印象に残ったという。「避難し、出身地を離れて事業を再開したチャレンジ精神がすごい。仕事に強い対する思いを感じた」と振り返る。 上原さんは沖縄県出身。8年前の東日本大震災時は小学5年生だった。震災の被災当事者からじっくり話を聞いたのは今回が初めてだったという。 「驚きの連続だった。言葉の重みが違っていて、直接聞くことで情景が目に浮かんだ」と話す。再開してもお客さんがなかなか来てくれないなど厳しい状況を抱えている避難者もあったが「仕事が好きだから頑張れる」とか「お客さんの笑顔にやりがいを感じる」という言葉に強さを感じたという。 紹介されているつくば、土浦市内の事業所は以下の通り。 つくば市 ▽障害者就労支援施設「遊愛コーポレーション 就労継続支援A型事業所アリス」(島名榎内3621-2、電話029-896-3833)=皆川勝さん(南相馬市出身) ▽日本料理店「お料理 わ可ば」(二の宮3-2-11、電話029-896-8155)=安藤公一さん(いわき市出身) ▽眼鏡店「GRAN GLASSES(グラングラス)」(学園の森3-10-2、電話029-828-5539)=原田功二さん(浪江町出身) ▽すし店「二代目 寿し松」(研究学園4-2-14)=松本清治さん(浪江町出身) ▽整体院「つくば松代むつう整体院」(松代1-16-31、電話029-852-7567)=石川美穂子さん(浪江町出身) ▽美肌エステサロン「メナードフェイシャルサロンつくば高崎店」(高崎郷中塚41-1)=木幡サチ子さん(浪江町出身) 土浦市 ▽書道塾「おおつ野書道教室」(おおつ野8-16-15、電話029-846-2101)=椀台俊夫さん(浪江町出身) ▽塗装工事会社「建装メンテナンス」(中高津2-4-3、電話029-879-5611)=新川正文さん(双葉町出身) 同誌は2500部作成。無料。問い合わせは電話029-233-1370(ふうあいねっと)、メールfuai.sta@gmail.com

【震災8年】2 ふるさと福島に向かい黙とう つくばへの避難者らが慰霊祭

【崎山勝功】東日本大震災から丸8年を迎えた11日、つくば市周辺で避難生活を送っている福島県双葉町からの被災者が、同市並木3丁目の国家公務員宿舎前で慰霊祭を開いた。被災者に加え筑波大生らが参列、約20人が双葉町の方向に向かい犠牲者への黙とうを捧げた。 双葉町出身の中村希雄さん(77)方の庭先には祭壇が設けられ、参列者たちが一人ずつ線香を上げ、祭壇前で犠牲者の冥福を祈った。黙とうを終えた参列者たちは、時代劇「水戸黄門」の主題歌「ああ人生に涙あり」を合唱した。 慰霊祭で、中村さんは今までお世話になった人たちに感謝を述べた上で、「私たちのモットーは一日一日を楽しく明るく、ケガをしないで病気にならないで生きていこうということ」と語った。中村さんは11年10月から同市並木の公務員宿舎で避難生活を送り、震災から1年後の12年3月から毎月11日の月命日に宿舎の庭先で慰霊祭を開いた。17年3月までは毎月行われていたが、18年からは年1回開催となり、今回が63回目の慰霊祭だった。 当初は双葉町出身者のみで開く予定だったが、市内で避難者向けの体操教室を開く筑波大の長谷川聖修(きよなお)教授の勧めで、同大の学生たちも参列。長谷川教授は「学生たちは全国から来るので、震災のことをほとんど知らない。またはメディアを通じてしか知らない。直接に避難している人から話を聞くのは大事」という。 学生たちは、避難者たちと体操教室とグラウンドゴルフで交流を深めており、同大大学院1年の松浦稜さん(23)=福岡県出身=は「名前で呼んでくれて家族みたいに接してもらっている」と話した。つくば市東岡の竹前久江さん(74)は「福島の人たちと体操教室を通じて友だちになった。最初はおとなしいと思ったけど、いろいろと話をしてくれる」という。 中村さんの妻の富美子さん(77)は「ここ(つくば)はみんないい人ばかりで助けられてきた。福島県内の避難先では嫌がらせがあったと聞くけど、つくばではなかった。とてもありがたい」と市民に感謝した。富美子さんの今の気がかりは、公務員宿舎に住める期限が19年度末までとなっていること。「できれば期限を延ばしてほしい。今まで交流している人とのつながりがなくなるし、双葉町には帰れない」と訴えた。 並木の公務員住宅にはピーク時で48世帯が住んでいたが、2020年3月末で応急仮設住宅の供与期間が切れることから、入居者たちの多くがつくば市や周辺地域など各地に転居しており、現在は十数世帯程度が生活しているという。 ◆避難者の厳しい現状 慰霊祭では、双葉町出身者たちから厳しい現状が聞かれた。同町出身でつくば市内在住の主婦(62)は「隣近所とはお付き合いがあるけど『双葉町』とは言っていない。水戸市に引っ越した人で『双葉町』を隠して住んでいる人もいる」と明かした。主婦は震災前はホテル関係の仕事をしていたが「仕事は見つからない。どこも若い人を採用する」と嘆く。その上で「津波とかのテレビ(映像)を見るたびに心が揺れるというか、めまいがする。経験したものでないと分からない」という。 現在も公務員宿舎で生活する同町出身の主婦(60)は夫(61)と2人暮らし。「つくばはいいところ。病院とかバスが充実している。バスで駅まで行けるし電車もある」としながらも、主婦は「両方とも60歳を過ぎているので仕事がない」と明かす。取手市内には娘夫婦と2人の孫がいて、孫との暮らしに惹かれてはいるが、娘夫婦の生活との兼ね合いもあり、引っ越しを決めかねているという。

【震災8年】1 つくば駅周辺で「脱原発」訴えパレード

【崎山勝功】東日本大震災と福島第一原発事故から丸8年を迎えた11日、脱原発と憲法擁護を訴える「さよなら原発!守ろう憲法!昼休み集会&パレード」がつくば市吾妻の中央公園で開かれ、市民ら約100人(主催者発表)が参加し、東海第2原発の再稼働反対などを訴えた。 デモ出発前の集会で、「脱原発ネットワーク茨城」の小川仙月共同代表(53)は「私たちはたまたま助かった」と東海第2、福島第2両原発が地震発生当時に重大事故の一歩手前だった状況を解説した。集会では「住民と関係自治体との同意が得られず、有効な避難計画も持てない再稼働に断固として反対」として、東海第2の再稼働反対などを訴えるアピールを採択した。 参加者らは雨交じりの悪天候のなか、つくば駅周辺の約2キロ区間をデモ行進し、「東海第2原発再稼働反対」「知事は私たちの訴えを聞け」などと訴えた。参加した筑波大学医学群6年の前島拓矢さん(25)は「大学卒業を機に参加してみようと思った」という。「原発がなければ放射線の汚染や(周辺地域で)避難計画を立てる必要がなくなり、心配することが減るはず。自然エネルギーも充実してきたし、原発に依存する必要はない」と訴えた。 NPO団体「ドットジェイピー」の議員インターンとして、つくば市民ネットワークの市議らと集会に参加した、筑波大学1年の後藤佳怜さん(19)=愛媛県出身=は、8年前は小学5年生で「(原発事故は)テレビで見ていたぐらいで、実際に福島県に行ったことがなく、原発がどんなものか知らなかった」そうだ。その上で「こういった集会に関心が持てなかったけど、(議員)インターンシップをきっかけにちょっとずつ分かったこともある。個人的にも色々勉強していきたい」と関心を示していた。 同パレードは、市民団体「戦争をする国づくりNO@つくば」と「安倍9条改憲NO!市民アクションつくば連絡会」の共催で行われた。取材に応じた小川代表は、「時間が経つと(原発事故が)忘れられようとしている側面もあるので、繰り返し伝えていく必要を感じる。若い人の参加が大事」と若年層へ参加を呼び掛けた。

【震災7年】子どもの健康影響「監視続ける」 取手の市民グループ

【鈴木宏子】取手市の市民グループ「子どもの健康を守る市民ネットワーク」(黒沢仁美代表)が、福島第1原発事故による県内の子どもたちの健康影響について監視を続けている。小中学校で実施されている学校検診のうち心臓検診に着目。県内44市町村すべてに毎年、集計結果を情報公開請求し、事故後の変化を分析している。 学校保健法に基づいて小学1年と中学1年生などを対象に実施されている検査だ。同会は、放射線の影響で起きるとされている心臓の病気などに着目して分析している。チェルノブイリ原発事故による健康影響調査で、放射性セシウムが心臓に蓄積するとした研究報告があることから取り組んでいる。 福島原発事故翌年の2012年、母親同士の会合の席で「子どもたちの心電図異常が増えている」などの話題が出たことをきっかけに調査を始めた。取手市や周辺市町村が実施した心臓検診データを情報開示請求したところ、心電図に異常があり精密検査が必要とされたり、疾病や異常があると診断された児童・生徒の割合が、12年度は事故前より増えていた。県全体も同様の傾向だった。 小児科医で「原発の危険から子どもを守る北陸医師の会」の吉田均医師(石川県)に相談したところ「(心臓の病気は)チェルノブイリのデータしかなく、不明なこと、未解決のことも多いが、小さな変化にも細かな目配りが必要」などのアドバイスを受けた。 その後、13年度以降は「全体として(事故前の水準に)落ち着いている」という。 黒沢代表は「専門家の助けを借りながら、市民の立場で監視を続けたい。データは1年か2年で市町村の保存期間が過ぎてしまう文書なので、集めて保存すること自体が大切」と話す。チェルノブイリでは事故から30年以上経っても健康影響が出ていることから「30年以上はやり続けなくてはいけない」と話し合っているという。

【震災7年】福島の避難者、故郷の窮状訴え つくば・取手で集会

【崎山勝功】東日本大震災と福島第1原発事故から丸7年を迎えた11日、県南ではつくばと取手市の2カ所で脱原発を訴える集会が開かれた。つくば市吾妻の中央公園では同日午前、「3.11から7年 さよなら原発!守ろう憲法!つくば共同アクション」が開かれ、福島県楢葉町から避難している草野巍久さん(78)=守谷市在住=が、故郷の窮状を訴えた。 草野さんは「安心安全に帰ることができる環境でないと避難解除はすべきでない。住民は避難解除になっても、元の家を更地にして別の場所にマンションを買うなど(楢葉町に)帰らない人が多い」と訴えた。その上で自身が原発事故以前に耕していた水田の様子に触れ「田んぼは7年もぶん投げているので大きな木が生えてしまい、一から開墾しないといけない」と厳しい現状を述べた。 草野さんは取材に対し「帰りたくても帰れない状況。誰のために避難解除したのか分からない。水は飲めそうにないし、自宅周囲は(除染した汚染土などの)仮置き場。具体的にどのようになれば『復興』というのか分からない」と、いまだに生活再建が進んでいない実状を話した。 同集会には約100人(主催者発表)が参加した。集会後、参加者らはつくば駅周辺をデモ行進し「東海第2原発再稼働反対」などと訴えた。参加した弁護士の鈴木裕也さん(25)=水戸市=は「原発のことも被災地のことも、他人事にしないでもっと興味を持ち、被災者に寄り添いたい」となどと語った。 主催者の山本千秋さん(77)=つくば市=によると、集会参加者数はここ数年伸び悩んでいるという。山本さんは「時間が経つと一人ひとりの原発問題についての意識が遠のいていく印象はある」と話し「この集会を継続し、行動を提起し、声を上げ続けたい」と意思を示した。 取手で200人が黙とう 同日午後には取手市新町の取手ウェルネスパークで「フクシマを忘れない3・11 STOP原発 県南総行動」(同実行委員会主催)が開かれ、参加者ら約200人(主催者発表)が、地震発生時刻の午後2時46分に黙とうし震災犠牲者を追悼した。 ステージ上ではバンド演奏に合わせて「花は咲く」「ふるさと」などの合唱や福島県の民謡「新相馬節」のステージ発表などが行われた。ステージからの「原発いらない」の掛け声に合わせて、参加者らが「原発ゼロの未来へ!」と書かれたプラカードを掲げた。 「震災当時は小学校のPTA役員をしていた」という英会話講師の加川ゆうみさん(52)=牛久市=は、小学校の卒業式で配布するクッキーを牛久市内のパン屋に受け取りに行った際、地震に遭ったと話した。クッキーは1枚も割れることなく受け取ることができたが、小学校の体育館が使用不能になったため、市内の中学校での卒業式を余儀なくされ「母校で卒業式が出来ず息子たちは泣いていた」と当時を振り返った。震災から丸7年を迎え「あれから日本は震災の教訓を生かして成長したのかと考えてしまう」と語った。 主催者の根本和彦さんは「原発事故から7年経っても故郷に帰れず苦しんでいる人が5万人以上いる。そういうことを考えれば原発は廃炉にすべき。一刻も早く政府はエネルギー政策を転換して再生可能エネルギーにかじを切るべき」と主張した。

【震災7年】犠牲者に黙とう 土浦市立図書館

【谷島英里子】東日本大震災から丸7年が経過した11日、土浦市立図書館(同市大和町)では地震発生時刻の午後2時46分に合わせ、職員や市民らが黙とうし、犠牲者に哀悼の意を表し復興を願った。 同図書館では震災7年に合わせて1日から、2階に企画コーナーを設け、震災関連図書展示」を15日まで行っている。11日は訪れた多くの利用者が手に取っていた。 同展は震災の記憶を伝え続けようと震災翌年の2012年3月から毎年行っているもの。被災者や病院の体験記録、写真集、備えや避難など防災に関する書籍38冊を並べた。子どもたちにも伝わるようにと震災関連の児童書も展示してある。 館長の入沢弘子さんは「本を通じて正しい情報を知っていただき、震災の記憶や経験を共有できれば」と話していた。 同市では、住宅3棟が全壊、43棟が半壊、3060棟が一部崩壊したなどの被害があったほか、断水などが長引く被害があった。

【震災7年】「生ある限り考え続けたい」 福島にこだわり毎年写真展

【鈴木萬里子】「日々探鳥びと」を名乗り、野鳥写真家として知られる阿見町、海老原信一さんは「生ある限り考え続けていきたい」と、東日本大震災以来、毎年3月に、福島にこだわった写真展を開いている。 つくば市二の宮の洞峰公園新都市記念館展示ホールで14日まで開催中の「鳥撮り三昧第32回写真展―七度目の三月に」では、福島県の海岸や帰還困難区域の現在の様子を伝える写真を展示している。 2011年3月11日、海老原さんは第11回写真展を同会場で開いている最中に、東日本大震災の大きな揺れを経験した。11年、11日、11回と11の並びに、巡り合わせを感じたという。 海老原さんは以前から、野鳥の撮影のためよく福島県裏磐梯に通っていた。しかし福島第1原発事故後は一時閑散としてしまった。北茨城にも通ったが、津波により美しかった海岸線は破壊され、現在は護岸工事が進み堤防が作られているという。 昨年12月、海老原さんは夫妻で福島県を訪れた。常磐道南相馬インターチェンジ(福島県南相馬市)で高速道路を下り、国道6号を双葉郡広野町まで南下するルートを走った。原発事故影響下の地域を自分の目で見てみようとの思いからだ。帰還困難区域の国道の両側に人の姿はなく、人々が息づいていた痕跡だけが残されていた。さらに南下し広野町に入ると様子は一変、人々の日常の姿に生活の響きがあり「その対比に戸惑った」と振り返る。脇道は今でも通行不可だが6号は全線開通している。海老原さんは「避けていると耳だけの情報しか入ってこない。実際に行って自分の目で見ることが大切だと思った。是非現実を見てほしい」と話した。会場の一画にはその時に撮った写真6枚が展示されている。 ほかに、野鳥の写真が、裏磐梯18点、つくば・土浦20点、その他北茨城など8点の計46点展示されている。 ◆会期は3月14日(水)まで。開館時間は午前8時30分~午後5時(最終日は3時)。入場無料。問い合わせは029・852・1432(洞峰公園管理事務所)

【震災7年】牛久駅前集会268回に 脱原発訴え5年半

【崎山勝功】JR牛久駅東口前で2012年9月から始まった、脱原発を訴える「金曜日牛久駅前反原発集会」が今月9日で通算268回目を迎えた。都内の首相官邸前脱原発集会に連動する形で毎週金曜午後6時から行われている。 集会では主に東海第2原発(東海村)の再稼働反対や廃炉などを訴える。昨年11月下旬には子ども連れの主婦(32)=つくばみらい市在住=が飛び入り参加するなど、常時20人前後の市民が集まっている。 「震災当時は守谷市に住んでいた」という主婦は、「当時は放射能の知識が無かったけれど、夫から『茨城にいたら危ない』と言われ、親せきのいる(東京都)八王子市に3週間逃げた。それがきっかけで放射能の影響を調べるようになった」と話した。子どもの習い事で牛久駅前を通るので、以前から気になっていた集会に飛び入り参加したという。 主催者の森川辰夫さん(82)=牛久市=は、福島第1原発事故が発生したので、東海第2原発は2~3年で廃炉になると期待していたという。だが「今晩(3月9日)で268回目。集会を100回やれば済むと思っていたのに長引いてしまった。予想外だった」と事故から7年を振り返った。 その上で、今年で運転開始から40年を迎える東海第2原発の再稼働問題について、「再稼働は経営的に無理だろう」との思いを話した。理由として立憲民主党や共産党など野党4党が共同で国会に提出した「原発ゼロ法案」の存在や、東海第2原発から半径30km圏内の避難計画が整備できていないことなどを挙げ「大井川知事はそんなリスクを負う人ではない」と期待を寄せる。 県内では、取手駅前(西口と東口で交互に開催)でも脱原発金曜集会が現在も続けられている。主催者の「くらしと平和を守るネットワーク取手」事務局の根本和彦さん(64)は、昨年の県知事選投票所のNHK出口調査で有権者の76%が「東海第2原発の再稼働反対」と答えたことを挙げ「県民世論は『東海第2原発は再稼働すべきではない』が圧倒的。取手はホットスポットになったという点でも(再稼働に)市民は不安を持っている」と話した。

【震災7年】 消えたキーワード「放射性物質」

【鈴木宏子】「放射性物質については、一つの分科会のキーワードに明示する方向で議論しております」。10月に、つくば国際会議場で開かれる第17回世界湖沼会議に関して、主催者の県が2017年3月9日付けで環境保護団体、NPOアサザ基金(牛久市、飯島博代表)に出した回答だ。しかしその後発表された9つの分科会のキーワードに「放射性物質」の文字は無かった。 もう一人の主催者、国際湖沼環境委員会も16年12月28日付けで同NPOに同様の回答をしていた。「放射性物質については一つの分科会のキーワードに明示する方向で議論が行われております。東日本地域での湖沼では、原発事故による放射性物質についての調査研究が多く行われていることから、これらについての発表は基本計画等で示される枠組みの中で行うことができるものと考えております」。 分科会のキーワードどころか「発表されている同会議の開催案内書のどこにも放射性物質の文字が一切見られない」などとして、同NPOは2月13日と15日、県と国際湖沼環境委員会にそれぞれ要望と質問書を提出した。 飯島代表は「世界中の人が福島原発事故に衝撃を受け、経過を注視してきた。原発事故は霞ケ浦を始め東日本の湖沼に影響を及ぼした」とし、「今回の湖沼会議は原発事故の影響を受けた地域で初めての開催となる。原子力災害や放射性物質の文言が一切無いとしたら、かえって不自然で、都合が悪いから意図的に議論を避けたと解釈されてしまう恐れがある」と指摘する。 その上で「事故直後に水環境を保全するために行政はどのような対策をとったのか、霞ケ浦や流入河川のモニタリング手法は適切だったのか、今後霞ケ浦をどう管理していくのかなど、湖沼会議は教訓を共有する場として開催されるべきで、きちんと議論することが行政や研究者の姿勢を世界に示すことになる」と強調する。 これに対し、主催者の県環境対策課・世界湖沼会議実行委員会事務局は「専門委員会の中で先生方に議論していただいた結果、分科会の文言(キーワード)そのものには明示しなかった。しかし放射性物質を取り上げないということではなく、第5分科会(流域活動と物質循環)の化学物質というキーワードの中で討議したい」としている。 湖内はほぼ横ばい 霞ケ浦の放射性物質は現在どういう状態なのか。環境省と県が昨年11、12月に実施した最新の霞ケ浦と流入河川の放射性物質モニタリング調査結果によると、霞ケ浦湖内8地点の放射性セシウムは底泥1㎏当たり50~350ベクレル(最大地点は西浦・玉造沖)、平均は304ベクレルとほぼ横ばい傾向、流入河川56河川は不検出~649ベクレル(最大は土浦市の備前川)、平均は157ベクレルと減少傾向で推移している。 アサザ基金は、事故翌年の2012年3月から15年3月まで年2回、独自に霞ケ浦・北浦に流入する56河川で放射性セシウムを調査した。特に備前川、新川、小野川、清明川では数百m間隔できめ細かく調査し、流入河川にたまった放射性セシウムが霞ケ浦に流れ込んでいった実態を明らかにした。10月の世界湖沼会議では、これまでの調査をもとに「原子力災害と湖沼環境」について発表したい意向だ。

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