【柴田大輔】つくば市で整体院を営む森田光明さん(53)は、趣味のバイクで時折、福島を走る。県境を超え、見上げる空や、流れる風景に目をやり、こう思う。
「地続きなので、そんなに他県と変わらないはずなんです。でも、福島に入るとなんだかいいなって。福島って、やっぱいいよなって思うんです」
父が独立した年齢を意識した
福島県双葉町の自宅は未だ、帰宅困難区域の中にある。49歳で勤務先の企業を退職し、避難先のつくば市東で2019年、妻・智美さん(46)とフォレスト整体院をオープンさせた。
10年前、父を津波で亡くした。悩んだときに背中をそっと押してくれる父だった。実直に働き家族を養ってきた父を「すごく大好きで、尊敬していた」と言い、「目標だった」と話す。光明さんは父の背中を見て生きてきた。51歳での開業は、造園業を営んだ父が独立した年齢を意識してのことだった。
光明さんは震災当時、福島第2原発に勤務していた。「泣きながら働いていた」というほど仕事に追われる日々だった。発電所内で揺れに遭い、避難所だった自宅近くの小学校で家族と落ち合った。だが、そこに父はいなかった。「100歳まで間違いなく生きる」と誰もが疑わないほど身体が強い人だったから「生きていれば、どんな状態でも帰ってくるはず」と思っていた。
父が見つかったのは、原発事故により止まっていた捜索が再開された4月のことだった。警察から連絡があったその日、外は雪が降っていたという。
「無念でした。長生きしてもらいたかった。ただ、ご遺体が見つからない方もいる中で、ありがたくも思いました」
家族で暮らすのがいい
地震翌日、避難指示が出た自宅を離れて内陸の避難所に移動した。爆発する原発をテレビで見た光明さんは「二度と家に帰れない」とつぶやき沈黙した。
母親と妻、長男らと栃木の親族を頼り、紆余曲折を経てつくば市に転居する。その間、家族と離れ、福島県内の会社寮にひとりで暮らし、第1原発での事故後処理に当たった時期もある。勤務のない日に数時間かけて家族のもとに帰る生活を続けた。
離れた土地で、智美さんが義母と長男の面倒を見た。つくばで長女を出産したとき、智美さんが体調を崩した。光明さんは半年休職し、家事と育児を手伝った。「単身赴任は限界。家族で一緒に暮らすのがいい」と思った。仕事の合間に、整体技術を学び始めたのもこの頃だ。
「原発の仕事もだんだん厳しくなって、いつまで続けられるかわからないという時期でもありました」
心のバランスを保つのも難しかった
整体院で光明さんと施術にあたる智美さんは「女性でも気軽に来てもらいたい」という思いから、つくばに転居したのちに技術を習得した。自身も経験した出産や、その後の経験から産後の骨盤調整や体調不良など女性目線のアドバイスを心がける。
明るく「今」を話す智美さんだが、震災後は家族の被災、避難先を転々とするなど、突然訪れた非日常的な生活に体調を崩してしまう。心のバランスを保つのも難しかった。そんな自分に歯がゆさを覚えていた。
「私はだいぶ、他の人より(新しい生活を始めることが)遅かったと思うんです。日常生活は動いているのに、そこにうまく乗れなくて」
光明さんを手伝うために整体技術を学び始めたのは、こうした不安の中でのことだった。だが、踏み出した新たな一歩が智美さんの中で「止まっていた時間」を動かすきっかけになった。
「震災後は体調不良もあって、時間が止まっていたんです。それが、人より時間がかかりましたけど、やっと自分の身体と気持ちが近づいてきたように思います。(双葉町には)帰りたいけど帰れないのはわかっています。この気持ちも、現実とすり合わせなくてはいけないと思っています」
光明さんはつくばを「新しい故郷」だと話す。
「つくばで知り合った方にもお世話になって、少しずつお客さんも増えてきました。コロナで大変な時期ですが、真面目に長くやり続けたいです」
父親譲りの真面目さで、仕事に向き合う光明さんに智美さんが言葉をかける。
「変に格好つけないでやってもらいたいと思っています。身体を見てもらうってことは、緊張しているとうまく見れないんですよね。お客さんにリラックスしてもらうためにも、私もそうありたいと思います」
初めての患者さんには、時間をかけてカウンセリングを施す。丁寧に、一人一人の状態に合わせた施術を心掛ける。
いつか福島で
つくば生まれの長女は5歳になり、福島で生まれた長男は中学1年生。寂しいのは、家の中で子どもたちが福島弁を話さないことだと光明さんが苦笑いを浮かべる。それを聞いた智美さんがフォローを入れる。
「でも私が福島弁で(息子に)話しかけたら、ちゃんと返事したんですよ。聞くのはわかるけど、話せないんだなぁって」
「いやぁ、でもなんか寂しいよなぁ」と言う光明さんが、胸のうちにあった故郷への想いをこう話した。
「昔は双葉がそんなに好きじゃなかったんですよね、小さな街だし。どこどこの息子は誰だってすぐわかっちゃうし。でも、やっぱり自分は福島県民だなって思うんですよね。双葉で生まれ育って、『双葉愛』があるわけでもないんですけどね。今は人の縁を大切にしながら、コツコツ頑張っていきたいです。それで、いつか福島にも出店できる日がきたらいいなと思うんです」