土曜日, 4月 20, 2024
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「保幼小連携」の推進を考える《令和楽学ラボ》28

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5歳児と小1年生の交流。写真は筆者提供

【コラム・川上美智子】保育園や幼稚園の5歳児と小学校1年生の間には大きな学びのギャップがあると言われ、そのギャップを埋めるため、幼児のアプローチカリキュラムと小学校1年生のスタートカリキュラムが始まり8年が過ぎました。この間に、新型コロナウイルスの流行などで中断を余儀なくさせられましたが、つくば市内では5歳児と小学校1年生の年2回程度の交流が始まっています。

本園の場合は、園児が香取台小学校を訪問し、1回目は小学生が制作した工作物を使ってお店屋さんごっこ遊びの体験交流をしました。2回目の訪問では、小学1年生がこの1年で勉強した科目ごとの学びを保育園児に紹介してくれました。

どちらの訪問も、園児にとって初めての小学校体験とあって、保育園で見せる幼い顔とは異なり緊張した面持ちで45分間をビシッと過ごし、1歳違いのお兄さん、お姉さんの立派な姿を前にして頑張りを見せてくれました。たった2回の交流でしたが、園児にとっては小学校のイメージをつかむ大事な機会となり、4月の入学を楽しみにしています。

ところで、8年前の幼保小連携のスタート時には、茨城県教育委員として県内のモデルとなる小学校をいくつか視察し、小学校入学時に求められる学習レベルの高さに驚かされました。

ゆとり教育の時代には、自分の名前が読めればOKと言われていたのに、現在ではひらがなの読み書きや数の理解など高度な力が求められます。幼児期は「学びの芽生え」として、「遊びを通して学ぶ」が強調されてきましたが、得手不得手もあり、遊びを通して自然に学ぶだけでは限界があるように思われます。ワークなどを使った系統的学び無しには、どうしても漏れが出てしまいます。

5歳~小1は人格形成の架け橋期

園では、3歳児から少しずつ楽しく学びを進めるカリキュラムを組み、年齢に合ったワークを活用してきました。また、興味・関心の幅を広げ、自ら主体的に取り組む何かを見つけるため、体操、リトミック、ヒップホップ、英会話、ピアノなどが学べる環境も整えてきました。

国が早期教育の重要性を認識し、保育園を幼稚園と同じ教育施設として位置づけ、「保育所保育指針」を改訂して就学前教育をスタートさせた2018年、各園には小学校へつながる学びの連続性を意図した「全体的な計画」の策定が義務づけられました。さらに国や県は「幼児期の終わりまでに育ってほしい姿」を提示し、年間保育計画を立てるよう求めました。

しかし、現場はまだ手探り状態で、指導者である保育士もこの大きな改革を十分理解はできていません。そのような中、さらに文科省は昨年「学びや生活の基盤をつくる幼児教育と小学校教育の接続について~幼保小の協働による架け橋期の教育の充実~」を公表しました。

それによれば、幼児期の教育は生涯にわたる人格形成の基礎を培う重要なものであり、5歳児から小学校1年生の2年間を「架け橋期」と称して、0歳から18歳までの学びの連続性に配慮しつつ「架け橋期」の教育の充実を図るよう求めました。

その重要性を理解しつつも、保育園も小学校も、現場が忙しい中でこれ以上推進を図ることの難しさを感じているのが現実ではないかと思います。私自身はこの3月末で園を去りますが、つくばに蒔(ま)いた種を、現場がしっかり引き継いでくれるよう期待しています。(茨城キリスト教大学名誉教授、みらいのもり保育園園長)

春の陽気に誘われて《短いおはなし》25

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イラストは筆者

【ノベル・伊東葎花】
ずっと部屋に籠(こも)っていたけれど、いい陽気になってきたから家を出た。
コロナも5類になったし、食料もなくなってきた。
ずっと引き籠ってもいられない。
まだ少し肌寒かったので、パーカーのフードを目深に被(かぶ)った。
マスクもまだ外せない。

住宅街を歩いていると、庭先の芝桜がきれいな家を見つけた。
淡いピンクが一面に広がって、なんて美しい。
可愛(かわい)いな。春だな。
思わず見とれていたら、垣根のあいだから家主が現れた。

「何か御用ですか?」

「あっ、いや、芝桜がきれいだったもので」

家主が睨(にら)むので、俺はそそくさとその場を後にした。
世知辛い世の中だ。うっかり他人の家も覗(のぞ)けない。

公園に行った。公園の花なら、いくら見ても文句は言われない。
チューリップが見事だ。
近くの幼稚園児が集団で遊びに来ている。

「お花、きれいだね」

近くにいた子に話しかけると、すかさず先生が飛んできた。

「さあ、園に帰りますよ」と、さらうように園児を連れて行った。
世知辛い世の中だ。子どもに話しかけただけなのに。

せっかくだから写真でも撮ろう。
俺はスマホを取り出して、チューリップの写真を撮った。
すると、向かい側にいた若い女がチューリップを跨(また)いでやってきた。

「ちょっと、今撮りましたよね」

「ああ、花の写真を撮ったが」

「私のこと、撮りましたよね。盗撮ですよね」

「いや、たまたまあなたが入ってしまっただけで、撮ったわけでは…」

「消してください。今すぐ消して」

「分かったよ。消すよ」

せっかくきれいに撮れたチューリップの写真を消した。
世知辛い世の中だ。写真を撮っただけなのに。

なぜだろう。蜘蛛(くも)の子を散らしたように、みんな公園を出て行った。
別にいい。逆にせいせいする。
誰もいなくなった公園のベンチに座った。

日差しが暖かいので、フードを取った。
そうか。このフードとマスクとサングラスのせいだ。
すっかり不審者扱いされてしまったのだ。
何だ、そうか。
俺は、マスクとサングラスをポケットにしまって立ち上がった。

「ちょっとすみません」

男が話しかけてきた。
ほら、フードとマスクとサングラスを取ったら、さっそく話しかけられた。
人恋しかった俺は、にこやかに振り向いた。

「はい、何でしょう」

立っていたのは警察官だった。
警察官は俺の名前を呼んで、強い力で腕をつかんだ。
ああ、そうだった。
俺、指名手配されていたんだった。

ずっと隠れていたのに、春の陽気のせいで捕まっちまった。
あーあ、世知辛い世の中だ。(作家)

シニア世代のいろいろな活動紹介します《けんがくひろば》4

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「サロンゆうゆう」の様子

【コラム・椎名清代】新しいまち研究学園駅エリア。住民の多くは若い世代ですが、シニア世代も徐々に増えています。今回はシニア世代の活動を紹介します。

体にいいこと、楽しいことしよう

約14年前、研究学園駅前公園でのラジオ体操は1人でした。そのうち、仲間が2人、3人、…、10人と増え、その人たちから「もっと体にいいことをしよう」「もっと楽しいことをしよう」との声が上がり、木曜日に遊ぶ会=『木遊会』が発足しました。

TX駅前マンションを中心に、口コミで仲間が増え、この活動を知った遠隔地の人の参加もあり、ピーク時、この会は160余名に成長しました。

毎月の定例会のほか、年2回のバス旅行会、新年会、観桜会、そば打ち会、芋煮会など、季節ごとのお楽しみ会も行われてきました。趣味が同じ人たちが集う同好会も次々とでき、多くの人が楽しい時を過ごせていたと思います。

ところが、コロナ禍を経て高齢化が進み、役割を担える人が減少してきたこと、この地域に交流センターのような施設がないこともあり、活動を縮小せざるを得ない状況となっています。現在の会員は約120名に減っています。

会では、春の観桜会、夏の納涼会、暮れの忘年会のほか、ゴルフ会(原則隔月コンペ、筑波東急ゴルフクラブ)、麻雀会(毎週金曜日午後、マンション・レーベン研究学園内の林技術事務所)、パソコン会(毎週木曜日午前、同)、グラウンドゴルフ会(毎週水曜日、研究学園駅前公園)、ウォーキング会(毎月1回不定期、徒歩と公共交通機関で近隣へ)などを開いています。

シニアサロンで勉強とおしゃべり

研究学園地域に暮らすシニア世代の多くは、子供世帯と同居あるいは近くに住むため、全国各地から転居してきました。高齢になってから、新しい土地になじみ、友人をつくることはなかなか難しいことです。

自宅にこもりがちになってしまわないか…。そんな懸念から、気軽に楽しく交流できる場が必要と、長年つくば市で在宅診療と認知症ケアに携わってこられた元開業医の先生により、2003年に「サロンゆうゆう」が開設されました。

先生の長い経験から、健康づくり、介護予防、体調変化の見分け方、薬の飲み方など、多くのことを学びました。講話のほかに、軽い体操、歌、ゲーム、おしゃべりで、楽しい時が流れています。

コロナ休止期間を経て、現在、民生委員の方数名がサロンの運営を担っています。知りたいこと、楽しいことを皆で考え、作っていくこのサロンは月1回開かれています(第2月曜日13:30~、林事技術事務所)。毎回20数名の参加があり、緩やかにつながって、互いに気遣いあう関係ができたように思います。

たくさんの人と交流して、これからの時間を大切に過ごしてゆきたいと思います。 (けんがく活動団体協議会代表)

ゴジラの国の子どもたち《映画探偵団》74

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イラストは筆者

【コラム・冠木新市】アカデミー賞の視覚効果賞を受賞した山崎貴監督の日本映画『ゴジラ-1.0』が世界中で大ヒットしている。さらに米国映画『ゴジラ✕コング 新たなる帝国』が近日公開となる。今年はゴジラ誕生70周年にあたる。1954年当時、ゲテモノ作品と馬鹿(ばか)にする人もいたが、今ではゴジラは日本の文化財と言っても過言ではない。

考えてほしい。公開当時20歳だった人は90歳、16歳だった人は86歳、10歳だった人は80歳だ。日本はゴジラを見て育った子どもたちの国なのである。

『ゴジラ・デイズ』

1980年代後半、『ゴジラを創った男たち』のテレビドラマ用の企画を考えた。1954年は東宝撮影所で黒澤明監督の『七人の侍』が製作されていたころ。ビキニ環礁で水爆実験が行なわれ、日本国中に放射能の恐怖が襲う中、田中友幸プロデューサ一は『G作品』の企画を立案。街頭テレビでは米人レスラーに力道山の空手チョップが炸裂(さくれつ)。

この年発足した自衛隊の撮影協力のもと、『ゴジラ』が作られる。作家の三島由紀夫がロケ地を訪れ、国産特撮第1号のゴジラに関心を示す。苦闘する特撮監督円谷英二と本多猪四郎監督。ゴジラとその時代をノスタルジックに描く。

企画書を田中プロデューサ一あて送ると、代理の方から電話があり「現在、新作のゴジラを準備中で、古いイメージを与えて新しいゴジラの邪魔をしたくない」との返事だった。1984年の『ゴジラ』の興業成績がいまひとつだったため、その後作られてなかった。1年後、その新しい作品が『ゴジラVSビオランテ』(1989)だとわかる。

知人に預けてあった企画書は出版社に渡った。ちょうどそのころがゴジラ生誕40周年を迎える前年にあたり、ゴジラブ一ムが起きていた。出版担当者の「第1作だけでなく20作までひろげ、関係者にインタビューして40年史にまとめられないですか」となり、『ゴジラ・デイズ』(1993年)の本になった。その年、アメリカ版『GODZILLA』が製作されるとのニュースが流れていた。

『新諸国物語』

特撮監督・川北紘一にインタビューした際、『ゴジラ』公開時、夢中になったのは『紅孔雀』だと話してくれた。そうなのだ。70年前、ゴジラに負けず劣らず少年少女の人気を集めていたのは、東映の『新諸国物語』シリーズである。

北村寿夫原作のNHKラジオ連続放送劇『新諸国物語 笛吹童子』を映画化したお子様向け時代劇は、白鳥党とされこうべ党の戦いを描く勧善懲悪の活劇3部作だった。大ヒットを記録した東映は、続いて『新諸国物語 紅孔雀』を全5部作で公開する。

『新諸国物語』は最終的に『白鳥の騎士』『笛吹童子』『紅孔雀』『オテナの塔』『七つの誓い』『天の鶯』『黃金孔雀城』の7部作の大河シリーズとなる。戦後の混乱が残る日本で生きる少年少女に正義と勇気のメッセージを送る作品だった。

私が体験したのは『黃金孔雀城』(1961)からで、黒冠者(里見浩太郎)の忍術シ一ンにしびれた。またテレビで見ていた山城新伍・主演『風小僧』は『新諸国物語』のスピンオフ作品だと後で知る。『スター・ウォーズ』(エピソード4)は、元ネタが黒澤監督の『隠し砦の三悪人』であることは知られているが、善と悪のフォ一スの戦いを見て、私は『新諸国物語』を連想した。

世界はゴジラの国の子どもたちの時代を迎えようとしている。今こそ、『新諸国物語』をリメイクし世界に輸出すべき時ではないかと思う。サイコドン ハ トコヤンサノセ。(脚本家)

いい日旅立ち《続・平熱日記》154

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絵は筆者

【コラム・斉藤裕之】宇部の個展に向けてのロングドライブ。いつもパクを預かってくれるマヨねえこと小山さんは「1か月でも預かるよ」と言ってくれたが、山口で義妹のユキちゃんもパクを待ってくれていることだし。何も好き好んで千キロの道のりを犬と絵を積んで軽自動車で走らずともと思うのだが…。

とにかく無理せず安全運転。しかしなにせ長丁場なので、飽きない工夫が必要なのだけれども空いているのは耳ぐらい。普段はラジオ派、というよりも特に好んで音楽を聴く習慣もないのだけれど、高速道路でそれまで聴いていたラジオ局の電波が届かなくなるという厄介なこともあって、改めてCDの良さに気付いたのだ。

例えばCD1枚で1時間、約百キロは退屈しないで走れる。ところが世の中はサブスクやブルートゥースの時代になっているし、私の家にはろくにCDがない。

キーボードプレイヤーとしてバンドをやっている友人のマサシさん。銀行員の彼は私より一回りほど若い。先日はライブに招待されて、50年代から90年代までの洋楽を中心に楽しませてもらった。そうだ!彼にCDを借りよう。

「じょうばん せーん!」 

ところで長女の子供、つまり孫が3才近くになって2人で出かけることになった。というのも、2人目ができたので長女は少しでも体を休めたいから上の子の面倒を見てくれというのだ。生まれた時からしばらくはうちにいたし、それからも割と頻繁にうちに来ているので孫とは仲良しであるから、ふたりきりで出かけることに不安はない。

目指すは常磐線。そう、孫は電車が好きなのだ。「じょうばん せーん!」と繰り返しながら、楽しそうに駅のホームに到着。踏切を通過する度に喜び、さてどこまで行こうかと思ったが、その日は鉄橋を渡って我孫子で下車。それから、別の日には土浦までの旅を楽しんだ。

さてパクと山口に出発だ!

後日、快くCDを持ってきてくれたマサシさんとそんな話をした。というのも…彼の息子さんは以前私の家に絵を描きに来ていて、まだ学校に上がる前だったか、どうやら電車が好きだというので、とりあえず電車ばかり描かせた。家にあった子供百科事典の「でんしゃ」の項目数ページは切り取られ彼専用の見本となった。で、なんと息子さんはこの春JR西日本への就職が決まったというではないか。

JRといえば、CMにも使われた「いい日旅立ち」という歌がある。私が高校を卒業するころに流行(はや)った曲だ。なぜだか家に百恵ちゃんのレコードがあって聴いていた思い出がある。昨年まで新幹線の中で流れていたのも記憶に新しい。

さてパクと山口に出発だ! 「いい日旅立ち」になりますように! マサシさんのCDからどんな曲が流れてくるか楽しみだ。(画家)

植物のありのままを芸術的に描いた絵 《邑から日本を見る》156

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写真は筆者

【コラム・先﨑千尋】今、水戸市千波町の県近代美術館で、企画展「英国キュー王立植物園 おいしいボタニカル・アート 食を彩る植物のものがたり」が開かれている。私は絵心がないので、ボタニカル・アートとはどんなものかを知らなかった。本によれば、ボタニカルとは日本語では“植物学の”、アートは“芸術”だから、ボタニカル・アートとは「植物学的な絵=植物画」という意味になる。

「植物のありのままの姿を、誇張を交えずに、正確に、細密に表現し、かつ鑑賞に堪える芸術性をあわせた絵画」だそうだ。そう言われても、実際に見てみないと分からない。

この企画展は、キュー王立植物園が所蔵する作品や個人コレクションを主体に構成され、食用植物を題材にした18~19世紀のボタニカル・アートとともに、英国の食文化を伝えるティー・セットや家具、18世紀ごろの古いレシピやヴィクトリア王朝期の主婦のバイブル「ピートン夫人の家政読本」など、約190点が展示されている。

これらによって、この時代に貿易大国として世界に君臨した英国の食の歴史や文化、生活様式が分かるというものだ。同植物園は、18世紀に王室の宮殿に併設した庭として始まり、現在は世界有数の植物や菌類の研究機関でもある。

五感が刺激される不思議な絵 

会場に入ると、リンゴや洋ナシ、ザクロなどの果物やカブ、キャベツなどの野菜、紅茶やコーヒー、チョコレートの原料となるカカオ、ハーブやスパイスなど、私たちが日ごろ口にする食べ物や飲み物になる植物が目に飛び込んでくる。写真と見間違うほど、正確、精密に描かれた絵だ。

普通の絵だと、日本画でも西洋画でも、描く人の個性によってどこを強調するかがはっきりしており、見る人にもそのことが分かる。しかしボタニカル・アートはそうではなく、あくまでも対象となる野菜や果物を、主観を交えず正確に描写することに力点が置かれる。1枚の絵の中に葉の裏表や果実の内部などが綿密な手わざで描かれ、実物を見ているような気分になる。果物や野菜、花などが生きているのだ。手に取ってみたくなる。

写真とは違い、生命の力強さを感じる。描き手には、例えば、花びらの数、おしべ・めしべの形や数、茎に葉がどのようについているか、とげや毛があるかなどを注意深く観察することが求められる。ボタニカル・アートは「科学と芸術の融合」だそうだが、展示されている作品を見ていると、私の五感が刺激されてくる。

NHKの朝ドラ、植物学者・牧野富太郎をモデルにした番組を思い出した。牧野は収集した植物を、時間を置かずに描き、残した。全体図だけでなく部分図も多く描き、まるで解剖図のようだった。牧野は画家ではなかったが、誰にでもできる技ではない。同館では、昨夏の「土とともに 美術にみる<農>の世界」に続く好企画だ。(元瓜連町長)

ボタニカル・アート展は4月14日まで(月曜休館)。電話029-243-5111(同館)。

確定申告が終わって思うこと《文京町便り》26

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土浦藩校・郁文館の門=同市文京町

【コラム・原田博夫】自民党安倍派で蔓延(まんえん)していた、派閥パーティ券の売り上げの一部を派閥から戻す際、政治活動であれば政治団体の収入に記載しなくていいとの慣行・指示・経緯は不透明なまま、結局はうやむやに終わりそうな気配である。今年の確定申告でも、多くの国民は不承不承ながらも、国民の義務を果たすべく、申告会場に出向いたり、電子納税・申告システムe-Taxに付き合ったはずである。 

そもそも、確定申告をしている納税者はどの程度いるのだろうか。そして、その納税額はどの程度なのか。

国の租税・印紙収入を2022年度決算で確認すると、一般会計分計は71.1兆円、うち所得税は22.5兆円(源泉分18.7兆円、申告分3.8兆円)である。今や消費税23.1兆円の後塵(こうじん)を拝しているが、法人税14.9兆円を上回っている。

申告納税分3.8兆円は、個人の確定申告の結果、その申告分だけが計上・納税されているわけでもない。国税庁『民間給与実態統計調査(1949年分から調査開始)』と『申告所得税標本調査(税務統計から見た申告所得税の実態、1951年分から調査開始)』から読み解いてみよう。ただし、両調査とも全数調査ではなく、復元推計手法による標本調査である。たとえば、大規模・多額の場合は全数だが、小規模・少額の場合は(1/400などの)サンプリングなので、所得税の納税状況の全体像をイメージするしかない。

給与所得者の申告納税額は少ない

『民間給与実態統計調査』によれば、2022年12月31日現在の源泉徴収義務者(要するに民間事業者)は287万件、給与所得者数は5967万人、支払われた給与総額は231.3兆円、源泉徴収所得税額は12.0兆円で、給与総額に占める税額の割合は5.21%である。このうち、1年を通じて勤務した給与所得者は4360万人、その税額は11.7兆円である。

他方、『申告所得税標本調査』は、事業所得者83万、不動産所得者39万、給与所得者117万、雑所得者29万、他の区分に該当しない所得者16万で、合計285万の標本数である。

これらの所得区分は、納税者に複数の所得源泉がある場合は、各種の所得区分の中で大きいものに分類される。申告納税者数は653万人、所得金額は46.4兆円、申告納税額は6.6兆円である。所得者区分別で給与所得者の人数・税額および構成割合は、申告納税者268万人・41.0%、申告所得金額20兆円・43.2%、申告税額3兆円・46.5%である。

この『申告所得税標本調査』によれば、税額は6.6兆円(源泉徴収税額3.0兆円、申告納税額3.7兆円)である。所得者区分別の税額内訳をみると、給与所得者は給与所得に対する源泉徴収税額74.4%、申告納税額23.1%と、申告納税額の割合が低い。要するに、大半の給与所得者は、源泉徴収制度に甘んじているのである。

愚民政策から脱却すべき

1940年4月に戦費の効率的な徴収システムとして拡大・開始された源泉徴収制度は、徴収サイドは無条件の給与所得控除制度の適用範囲を限定しながらも堅持する一方で、特定支出控除(実額控除)を部分的にしか進めない結果、納税者(給与所得者、および徴税業務を代理執行している納税義務者=事業者)も確定申告まで持ち込む準備ができていない、というのが大半の給与所得者の納税状況ではないか。

少なくともシャウプ勧告(1949年)の趣旨は申告納税制度の普及にあったはずなので、『論語・泰伯』の「由らしむべし、知らしむべからず」以来の愚民政策は、脱却すべきではないか。(専修大学名誉教授)

糞かぶりの虫がいるけど、あれ何?《宍塚の里山》111

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左:ユリクビナガハムシ幼虫 右:ユリクビナガハムシ成虫

【コラム・中原直子】「なんか、糞(ふん)かぶりの虫がいるんだけど、あれ何だろう」。 2023年5月下旬、宍塚の里山で一緒に活動をしていた会員の大浦さんからそう声を掛けられました。大浦さんは小さな動物や植物を見つけるのがとても上手で、いつも観察会でいろいろな生物を見せてくれます。

行って見ると、畑に植えられたスカシユリの葉の上に、糞をかぶった体長5ミリ以上はあるハムシの幼虫がたくさん止まっています。ユリにつく大型のハムシというと限られるので、すぐにユリクビナガハムシの幼虫だとわかりました。

これまで宍塚でこのハムシを見たことがありません。宍塚では初めての記録となる昆虫なので、甲虫の研究者である吉武啓さん、重藤裕彬さん、高野勉さんと共に報文(吉武啓・中原直子・重藤裕彬・高野勉(2024)茨城県南部におけるユリクビナガハムシの発生確認と生態覚書、月刊むし636号、12~18ページ)として発表することにしました。

中国地方や九州以外ではまれ 

ユリクビナガハムシはハムシ科の甲虫です。成虫の体長は約1センチ、全身が鮮やかな赤色をしています。終齢幼虫の体長は約8ミリで糞を背負っています。世界に広く分布している種ですが、日本で普通に見られるのは中国地方や九州で、それ以外の地域ではまれです。ユリ科やそれに近縁な植物の葉や花蕾を食べ、園芸ユリの害虫として知られています。

まず、茨城県でこれまでに記録があるのかを調べました。博物館の報告書や地方同好会の出版物は重要な資料です。すると、2008年に水戸市と小美玉市で確認されていることがわかりました。また世界中の文献を調べたところ、日本で最初に確認されたのは1930年代に佐賀県で、外来種か在来種かは不明ということもわかりました。

その後、宍塚だけにいるのか、周辺にも広くいるのか、近くでユリがある所を見て回ったところ、つくば市内の2カ

分布調査と同時に、どのように育つのか、幼虫や蛹(さなぎ)はどんな形態をしているのか飼育観察しました。その結果、卵から1カ月~1カ月半で成虫になること、羽化した成虫は数日間食草を食べた後、いったん活動を止めることなどがわかりました。

小さな疑問が新たな知識に

野外で見つけた「これは何だろう?」を追求し、時には人々の協力を得て深掘りしていくことで、小さな疑問は新たな知識を得ることにつながっていきます。そして、それを多くの人に読まれる形にしたものが報文です。生物の学会・研究会や出版社は数多くあり、それらが刊行される雑誌に手順と規約を守って正しく投稿し、掲載されると科学的に認められた記録となります。

これは後世への貴重な共有財産です。今回私たちがたくさんの文献を調べたように、私たちの報文をこの先新たな疑問を抱いた誰かが参考資料として使ってくれるかもしれません。

身近な生物でも、実は生態や分布がよくわかっていない種も少なくありません。野外でふと浮かんだ疑問を、もっと科学的に探求してみませんか。(宍塚の自然と歴史の会会員)

近くに、二所ノ関部屋ができて《遊民通信》85

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【コラム・田口哲郎】

前略

大相撲が盛り上がっていますね。2022年6月に阿見町にできた二所ノ関部屋所属の大の里の活躍も楽しみのひとつです。大の里関は石川県出身ということで、ますます応援したくなります。

二所ノ関部屋は阿見町にありながら、最寄り駅は常磐線の「ひたち野うしく駅」です。部屋ができてから、ひたち野うしく地区では力士など部屋の関係者に街でたびたび遭遇するようになりました。

力士は鬢(びん)付け油をつけているので、すれ違ったら、椿油のよい匂いがします。たまに、力士の姿は見えないのに、椿油の香りがして、お相撲さんが通ったのだろうな、と思うこともあります。

力士が行き交い、華やぐ街

いまは三月場所で、大阪でみなさん頑張っていますが、場所が終われば帰ってくるので、また、ひたち野うしくではお相撲さんを見ることができるでしょう。

相撲部屋ができることで、こんなに街の雰囲気が良くなるものかと思います。若い力士が歩いていたり、自転車で通り過ぎるだけで、街が華やぎます。阿見町と牛久市の境目にあり、新興住宅地であるひたち野うしくの端にある部屋は、ともすれば新しさと整然としたきれいさはあるけれども、どこか味気なかったひたち野うしくに、思わぬ魅力を与えてくれたと思います。

部屋ができたのはコロナ禍の真っ最中でしたので、コロナ禍が一応の収束をみたこれからは、部屋の見学や部屋と住民との交流が行われるものと期待したいと思います。

お相撲さんが行き交う街は華やぎ、いろいろな人が集まり、にぎやかになるとよいですね。部屋が長く続いてゆけば、たとえば部屋出身の元力士がちゃんこ鍋屋さんを開いたりすることもあるのでは…とか、楽しい想像がふくらみます。

二所ノ関部屋応援しています!

ごきげんよう。

草々

(散歩好きの文明批評家)

土浦港のラクスマリーナ《ご近所スケッチ》9

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霞ケ浦の遊覧船に群がってくるカモメ(イラストは筆者)

【コラム・川浪せつ子】桜の開花が近づいてきましたね。一昨年、友人から「土浦の桜川を船で桜見ながらのクルーズに行ってきたよ。すごく良かったから来年行って」と聞いたものの、昨年はうっかり忘れ、桜の季節が過ぎてしまいました。

今年は取材を兼ね、絶対、桜川クルーズ(土浦港のラクスマリーナ=土浦市川口=が運航)に行きたい! その前に、下見に土浦港まで行ってみよう。スケッチ出来たらもうけもん。

初めて土浦港に行ったのは、思い起こせば20年前。元旦の「日の出クルーズ」というのを見つけて。連れ合いと3番目の息子は「そんな寒い時期に、朝早く起きて、日の出なんて! それも船で?」。でも、長男と次男が付き合ってくれました。

船には、結構な人が乗っていましたが、なんせ真冬の湖の上。風もあるし、「寒いのなんの」でした。ですが船内には、暖かい麦茶と甘酒などが用意されていました。空にはお月さま、そして筑波山。初日の出もよく見えました。

そろそろ桜川の桜クルーズ

そのときの感動が20年過ぎても心に残っていて、まずは港の船をたくさんスケッチ。その後、日にちを代えて乗船。10月から翌年3月まで、カモメが遊覧船に群がってくる時期でした。

今回、3月なのに水辺の絵?と思いましたが、やはりこの時期ということが重要かな。このコラムが出るころ、まだカモメもいるそうです。船からパンの耳を投げる餌付け。襲ってくるようなことはないですが、「鳥」という映画を思い出しました。

桜川の桜クルーズも、そろそろ申込みしないとね。クルーズ船から見る桜も楽しいですが、桜並木の下を船が行き交う風情を絵にしたいと思います。(イラストレーター)

ラクスマリーナのホワイトアイリス号(同)

八田知家の「筑後氏」名乗り説は誤り《ひょうたんの眼》66

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特別展のパンフレット(左)と展示図録の一部=土浦市立博物館発行

【コラム・高橋恵一】土浦市立博物館が2022年春の特別展で、常陸国守護・八田知家は「筑後」に名字(名乗り)を変えたと解釈したことを、私はコラム47コラム58で誤りではないかと指摘しました。それから2年経ちましたが、博物館は依然として訂正する気配がありません。小田氏は、初代知家が守護になってから約70年間、3代にわたって小田(現つくば市)を本拠地にできず、小鶴荘(笠間市)や小田保(宮城県涌谷町)を彷徨(さまよ)っていたことになっています。

茨城県史(1986年、執筆分担・網野義彦)では、知家が常陸国守護となって小田に築館し、小田を名字の地にしたとしています。知家が小田を本拠地としたことは、小田の居舘址や知家が建立した極楽寺跡からの発掘品からも明らかですし、知家が極楽寺に寄贈した銅鍾のことも知られています。系図にも、2代目は知重「号小田」となっています。

特別展「常陸小田氏」で披露

小田氏が本拠地を置けず、名字を「筑後」と名乗ったとする説は、博物館長の糸賀茂男氏の論考(茨城県史研究61、1988年)から広まっているようです。①小田の地は、先に失脚して滅びた常陸平氏本宗・多気氏の影響力が強く、知家は多気(つくば市)に近い地域に入れなかった、②小田に本拠があったのならば、「筑後」と名乗らずに「小田」と名乗ったはずだ―という説は多気氏を贔屓(ひいき)する糸賀氏の思い込みです。

知家が「筑後」に名乗りを変えたという説は、特別展「八田知家と名門常陸小田氏」で大々的に披露されました。知家が「筑後守」に昇任したのを喜び、「八田氏」から「筑後氏」に名乗りを変えた―という解釈です。糸賀氏は、「吾妻鑑(あずまかがみ)」では知家の子供たちも「筑後」を名乗るようになったと記されている―としていますが、これは「吾妻鑑」の読み違いです。

漢文の吾妻鑑は読解が容易ではありませんが、近年、読み下し訳(監修・永原慶二)と現代語訳(編著・五味文彦、本郷和人ら)が発行され、専門家以外にも理解できるようになりました。同歴史書には人名記載のルールがあり、「名字+官位(官位のない場合は太郎などの通称)+実名」で記載され、位階が五位以上の者については、名字、通称を省略し、その子息は「親の官職の略称+子息の官位または通称」で記載されています。

NHK大河ドラマの主役・北条義時は任官後、「相模守あるいは相州」と記され、北条泰時(義時の嫡男)の場合、父義時が相模守に任官した後は「相模太郎あるいは相州太郎」と記されています。いずれも、吾妻鑑編纂者がルール通りに記載しているのであって、子供が「相模」と名乗った訳ではありません。当然、北条氏が名字を「相模氏」に変えた訳でもありません。

糸賀氏は、「八田氏」が名字を「筑後氏」に変えたと読んだとき、知家以外の高位の官職を得た御家人について、人名表記がどのような扱いになっているのか検証しなかったのでしょうか? 大江広元(大官令)や結城朝光(上野介)などの御家人は多数おり、すべて義時と同様に記載されています。類似例の検証はあらゆる研究の基本です。そうしていれば、「筑後」を名字(名乗り)と解釈する誤りもなかったでしょう。

刊行物や展示物は訂正が必要

ところで糸賀氏は、前述の論考発表のころから、市町村史や中世史本に積極的に関り、守護職の知家が小田に本拠を持てず、小鶴荘(笠間市)や小田保(宮城県)に拠点を求める説を展開しています。名字(名乗り)を「筑後」とする誤読を論拠として、間違った説を広めているわけです。

市町村史や自治体の刊行物、博物館の展示内容は、市民が最も信頼する情報です。郷土の歴史に関心を持つ子供たちは、こういった自治体史などから学習します。糸賀氏は、既刊の自治体の刊行物や博物館の展示内容を訂正すべきでしょう。(地歴好きの土浦人)

地域を「計画・提案」する《デザインについて考える》6

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イラストは筆者提供

【コラム・三橋俊雄】今回のテーマは「地域をデザインする」です。私は長年、地域を元気にするための活動を、福島、新潟、青森県、京都府などの過疎化・高齢化が進む町や村で行ってきました。それらの地域で、多くの方々から話を伺い、その地で出合った様々な魅力を肌で感じ、あるいは地域の課題を探りながら、その町や村の「これから」についてデザイン(計画・提案)させていただきました。

そうした地域づくりの基本姿勢として、地域が主人公になれるための「内発的」というベクトルを堅持してきたつもりです。

コラム4「南北問題と適正技術」 では、先進国による発展途上国への一方的な援助が、結果として当該地域の問題解決につながらず、そうした中からダグハマーショルド財団の「Que Faire ?(何をなすべきか)」により、「内発的」という概念が提唱されたことをお伝えしました。

日本でも、1900年代後半の過疎化・高齢化対策において、工場誘致や企業誘致などに頼る「外発的」な地域振興策が多くとられてきた中で、果たして住民や地域の自然、社会、文化などが主人公になれる「内発的」地域づくりにつながるのだろうかという疑念を持ちました。

そのような時期に出合ったのが、上のイラストに示した「JRの中吊りポスター」でした。

「内発的」な地域づくりを志向

ポスターには新幹線とホテルやスキー場で楽しむ都会の若者たちの姿が描かれ、キャッチコピーには「例えば新幹線とドッキングしたスキー場の開発」とありました。このポスターからは、目立った産業のない雪国に対して、スキー場を整備して新幹線とつながるリゾートホテルを誘致することで、都会から若者たちが集まり、経済的波及効果によって地域の活性化が図られるという、地域開発のシナリオが読みとれました。

しかし、このような手法によって、自然、歴史、生活文化が生かされ、住民が生き生きと働くことのできる社会を実現することができるでしょうか?

大切な森林が伐採され、若者はスキー場の管理人やホテルの従業員として雇用されるだけという結果にならないでしょうか? スキー場とホテルの完成によって、住民の地域に対する「誇り」や「生きがい」を生み出すことができるでしょうか?

人間は尊厳をもって一個の人格を形成し、自己のアイデンティティーを確立させていきます。同様に、地域づくりの過程においても、「地域格」を形成し、地域のアイデンティティーを確立させていくことが大切であると考えます。そのためには、いかに地域が主人公になり得るかが「鍵」となってきます。

その意味で、「地域をデザインする」というシナリオには、「内発的」な地域づくりを志向するデザイナーの姿勢が不可欠であると考えます。(ソーシャルデザイナー)

つくば市長の主公約 陸上競技場始末《吾妻カガミ》179

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つくば市役所正面玄関サイド

【コラム・坂本栄】つくば市の陸上競技場設計作業が来年度から始まります。3月議会に出された基本計画は2年前とほぼ同じで、人口や予算規模で水戸市に肩を並べる県内2番目の市の施設としては、他の県内施設に比べて見劣りするのが気になります。

県内の他施設に比べ地味

上郷高廃校跡に造られる陸上競技場(全天候型舗装8レーンの400メートルトラック)は、▼走路=第4種公認、▼観客席=2900(うち芝生席2000)、▼駐車場=700台(うちバス25台分)―といった計画です。

他の県内競技場を見ると、▼県営笠松:第1種、2万2000席、2700台、▼水戸市営:第2種、1万2200席、2000台、▼日立市営:第3種、8500席、1500台、▼ひたちなか市営:第3種、1万5000席、3000台、▼古河市営:第2種、3700席、1200台、▼龍ケ崎市営:第3種、2600席、174台、▼石岡市営:第3種、2500席、650台―となっています。

これら施設は記録公認に必要な種別が第1種~第3種なのに、つくば市営は第4種と「格落ち」です。これで市民のプライドは保てるでしょうか? 使い勝手を左右する観客席数や駐車台数も、他の施設に比べるとかなり控えめです。

市長は政治的判断を優先

どういった競技場を造るか議論されていたころ、私はコラム99「つくば市の2大案件」(2021年2月1日掲載)で、「県に掛け合って高規格(第1~2種)の競技場をつくば市内に造らせ、県南の各市にも建設費を分担してもらったらどうか」と提案しました。少なくとも水戸市営並み、できれば県営笠松並みを想定していたからです。

どこに造るかについては、「上郷高校跡(7ヘクタール)と総合運動公園計画(メインは陸上競技場)用地跡(45ヘクタール)が候補に挙げられます。市は前者に誘導したいようですが、アクセス路の利便性や拡張の可能性などは明らかに後者が上です」と指摘、狭い市道に囲まれた上郷高跡よりも国道408号に近い運動公園用地跡を推しました。

しかし、市原前市長が策定した運動公園計画を市民運動で葬った五十嵐市長には、最初から運動公園用地跡を使う選択肢はなかったようです。しっかりした施設をアクセス性がよい場所に造るという判断よりも、前市長の計画を否定する政治的な判断を優先したと言え、行政が政治に引っ張られた形です。

市史に残る「歪んだ選択」

五十嵐市長にとって運動公園用地返還と陸上競技場建設は1期目の主要な公約でした。ところがUR都市整備への用地返還は失敗し、扱いに困って倉庫業者に売り飛ばしました。陸上競技場を造る場所の方は、政治的な思惑から運動公園用地跡を外して、規格、規模、利便性で劣後する上郷高跡を選択しました。政治的な思惑が施策を歪めた事例として市史に残るでしょう。(経済ジャーナリスト)

新年度の土浦の花火は?《見上げてごらん!》25

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第11回土浦の花火フォトコンテストの入賞作品展示(土浦市役所)

【コラム・小泉裕司】記事「土浦市新年度予算」(2月15日掲載)によると、市は、4月1日実施の機構改革において、花火大会に関する情報発信の強化充実を図るために、「花火対策室」を「花火のまち推進室」に改編するとのこと。

1925(大正14)年の第1回大会から数えて、来年の第94回大会で100年、7年後には第100回大会を迎えるが、新年度は大会以外にどのような企画があるのか、実行委員会事務局に聞いた。

開口一番、新年度も「前年度並みの限られた予算規模の中でのやりくり」と釘を刺された。ちなみに、花火対策室の職員数は、昨年10月、1人減員の状態から3人体制に回復したが、大会に向けた準備に専念、新事業への取り組みはないという。

組織の名称変更についても、100年や100回のアニバーサリーに向けた特別な思いを込めたというよりも、連続した花火事故やコロナ禍を経た後の2大会の無事開催を踏まえ、「対策」という対処療法的イメージからの脱却が主たる理由らしい。

それであっても、「100年」「100回」は、遭遇することなど滅多にない希有(けう)な機会だ。何とかみんなで祝いたいと思う。次年度予算への反映に向けて、知恵を絞りたいものだ。

次の100年に向けて

過去、土浦市は、花火を歴史・文化資産としてとらえてこなかったことで、丁寧な資料の保存などが行われず、図録「花火と土浦」(2018年土浦市発行)の編集に際し、資料調査など苦労があったという。

この機会に、県紙である茨城新聞や地域紙であった旧常陽新聞などの記事や広告、大会運営に関わった市民や煙火業者などのエピソードの数々を、図録を補完するアーカイブとして集約し、次の100年に引き継いでいくことが大切ではないか。周囲の関係者に提唱しているところだ。

3月末に、いわゆる役職定年を迎える佐藤亨産業経済部長は、大会本部長を兼ねる。「本職に就いて、初めて花火の奥深さを知ることができた。若い時期に花火の業務を経験していれば、もっと花火の魅力を究めることができたのかも知れない」と、3年の在職を振り返った。

大会が万端整った後は、大会まで、事務所内に祭った気象神社(東京高円寺)のお札に好天を祈る毎日で、無事終了した後、お礼に参詣したとのこと。歴代の本部長が背負う宿命、最大の憂いごとである。ご慰労申し上げると同時に、今後は、現場を経験した「語り部」として、「土浦の花火」の魅力を拡散していこうぜ。

本日は、この辺で「打ち留めー」。「シュー ドドーン!」。(花火鑑賞士、元土浦市副市長)

メロンなんて昔は食べたことなかった《写真だいすき》30

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産地のハウス内。活発にメロン畑の手入れがなされている。写真は本文とは関係ありません。撮影は筆者

【コラム・オダギ秀】ボクは農業関係の撮影が多く、そのため農協さんとの付き合いが多かった。今はもうはるか昔の話だが、その頃は、農協がらみの研修旅行がよくあった。研修というのは名ばかりで、実質は慰安旅行、宴会がらみの遊興旅行だった。ボクも関係者ということで、よくそれに同行した。

どこに行った時だったか、宴会の席で、形ばかりの研修をした。よその農協さんが、こちらは茨城なので他県のことなど聞いてはいないのだが、あまり関係のない作物の作柄など適当に報告する。「研修」ということを名目にするための、形作りのものだった。

その時、茨城のとある小さな農協のひとりの男の人が、遠慮がちに色々質問をはじめ、ていねいにメモをとっていた。「ん? 関係ないのに、何しとる?」。ボクはかえって疑問が湧き、あとで彼に尋ねた。するとその人Aさんは、初対面のボクの言い掛かりのような問いかけに、ていねいに応えてくれた。

「農作物というのは、1年かけて育てるものです。どんな遠くのささいなことでも、長い年月の間には、自然はどんな影響を及ぼすかわからない。だから、他の地方の自分とは関係ないような作物のことでも、知っておいた方がいいこともあるんですよ」と。

ボクは、その時から、そのAさんが大好きになり、何十年も過ぎた今も付き合い、心の支えにしている。仕事をするってことは、こんなことだと思わされた。今は鉾田市となっているが、当時は村と言っていたその村は、昭和が平成に替わったころ、日本一のメロン産地となった。そんなその村のメロンを支えて育てた人こそ、このAさんだったと思う。

いい加減な仕事はしない

茨城県は、メロン生産高日本一なのだが、1976(昭和51)年ごろはまだプリンスメロンが主流で、ネット模様のメロンは、庶民が口にすることは滅多にないものだった。そこに、売って安心、買って安心という「安(アン)心です(デス)」をネーミングにしたネット模様のアンデスメロンが生まれ、市場を席巻していった。

メロン生産農家は午後遅く、収穫したメロンを選果場に持ち込む。Aさんはそれを一つずつ手と眼で選果した。今のようにコンピューターやレーザーのない時代だったから、大変な情熱と労力が要った。選果するとメロンをトラックに積み、午前3時ごろ、東京の市場に間に合うように運んだという。

その厳しい選果をしてきたので、その村のメロンは評価が高まり、その村のメロンとしてブランドになった。Aさんは、寝ているのだろうか、と農家の人から聞いたことがある。「ありゃ寝てないよ」と農家の人は言ったが、それが本当と思えた。その努力があったから、その村のメロンは信頼され、高い評価を受けるようになった。

実直なAさんは地位を望むこともなく、農協の部長止まりだったらしい。だが、あきらかに、この地のメロン産地はAさんがいなければ、名産地とはなれなかった。いい加減な仕事はしない。ボクはAさんから、大切なことを学んだ。(写真家、日本写真家協会会員、土浦写真家協会会長)

差別し、差別された子ども時代の私へ《電動車いすから見た景色》52

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筆者が作成した手紙のイラスト

【コラム・川端舞】ふと、あなたに話しかけたくなりました。私はあなたを誇りに思います。勉強を頑張っていることでも、毎日学校に通っていることでもなく、生き続けてくれていることに。

多くの学校が、障害のない子どもを前提につくられ、障害児はいないことにされています。今のあなたは、死にたいほど辛いのは、障害のある自分が普通学校にいるからだと思っていますね。でも、それは違います。どんな障害があっても、障害のない同級生と同じ学校に通うのは、国連が認めた権利であり、障害児でも過ごしやすいように環境を整える責任が学校にはあります。あなたは堂々と普通学校に通っていいのです。

私はあなたに、何があっても普通学校に行けとは言えません。一番大切なのは生き続けることだから。本当に苦しかったら、どうか学校を休んでください。でも、あなたが普通学校に通い続けてくれたおかげで、私は一生付き合える友人に高校で出会えました。本当に感謝しています。

自分の差別意識と向き合って

覚えていてほしいことがあります。この社会は「普通」と呼ばれる人ができるだけ過ごしやすいようにできていて、そこから外れた人たちは差別されやすくなっています。あなたも身体障害者という点では差別されることが多いですが、そのほかの点では誰かを差別してしまうこともあるでしょう。

例えば、あなたは同じ学校の特別支援学級にいる知的障害のある同級生を見て、「自分は勉強ができるから、あの子たちとは違うのだ」と思っていますね。または、人間は男女ではっきり分かれるものだとか、家庭にはお父さんとお母さんがいて当たり前だと思っていませんか。そんなあなたの言動が、無意識に周りの同級生を傷つけているかもしれません。

自分が差別していると気づくことは難しいし、痛みを伴います。これはあなただけが悪いのではなく、少数派とされる人たちをいないものとして学校や社会がつくられていることが問題なのです。一方、あなたは障害児としての経験から、差別される痛みを他の人よりは知っているはずです。だから、勇気を出して自分の中の差別意識と向き合い、少しずつ変えていってほしいのです。

社会は簡単には変わりません。でも、あなたの中の差別意識を変え、周囲にも伝えていく。そうすることで、共感してくれる人や、少しだけ考えを変えてくれる人、反対にあなた自身の凝り固まった価値観をほぐしてくれる人が現れます。彼らと対話を重ねていくことが、社会を変えることだと思います。私もそのように生きていきたいです。(障害当事者)

郷愁を感じる商店街のアーチ《看取り医者は見た!》15

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写真は筆者

【コラム・平野国美】初めての道を歩いていると、前方に商店街があるとか、ここから商店街に入るのだとわかるときがあります。商店が並ぶさまを見て、自分の中で認識する場合と、ある種の構造物を見て確認する場合です。初めての土地を歩いていて心がときめき、10年ほど前から、そういった「昭和の残影」を探すようになりました。

今回の写真をご覧ください。左は商店街の入り口にあるゲートです。ここをくぐれば、その向こうに何かが待っているような気がして、引き込まれていくのです。あちこちで見ますので、昭和の時代にはかなり設置されていたと思います。その残骸も見つけるときもありますし、取り外されたときにニュースになるゲートもあります。

私はアーチとかゲートと呼んでいますが、法律では「屋外広告物」として扱われ、看板、のぼり、横断幕、アドバルーンなどと同じだそうです。「屋外広告物法」によって、大きさ、高さ、内容(景観に配慮しているか)、設置禁止区域などが条例で定められています。

アーチは各自治体の条例で呼び方が異なりますが、「アーチ」「アーチ看板」「アーチ広告」「アーチ型広告物」などと呼ばれています。「ゲート」「商店街ゲート」「ゲートサイン」といった言い方もあるようです。

「純情商店街」「駅通り商店街」

法律や条例のルール内で制作されるので、奇抜なものは作れないと思いますが、そこは看板職人が腕を振るって制作しているのでしょう。商店街を歩いていると、制作された時代が形態や看板のフォントから感じられます。そして、その土地の風土や文化も感じられます。

左の写真は高円寺純情商店街のゲートです。下にある垂れ幕に「キング オブ コント 14代王者 空気階段 鈴木もぐらさん おめでとう」と書かれています。この街を愛して住んでいる芸人の受賞を祝っているのです。この後、「高円寺芸人」と呼ばれました。

元々、「高円寺純情商店街」という名は存在しませんでした。本当の名前は「高円寺銀座商店街」でしたが、この街の乾物屋の家に生まれた「ねじめ正一」さんの「高円寺純情商店街」が直木賞(1989年)をもらった後、今の名称になりました。風土、文化、サブカルをうまく生かした商店街とゲートなのです。

こんなゲートを近くで楽しみたい方は、常総市にある「水海道駅通り商店街」のアーチが参考になります。右側の写真です。各地にある古典的スタイル、昭和を感じる手書きのフォントなどが見られます。私は時々、夕暮れ時、ここで黄昏(たそがれ)ています。商店街のゲートはなかなか奥深いものがあります。(訪問診療医師)

確定申告をe-Taxで済ませました《ハチドリ暮らし》35

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写真は筆者

【コラム・山口京子】所得税の確定申告をe-Taxで済ませました。4年前の確定申告の際に、税務署でID・パスワード方式の届出をしたのがきっかけです。

年末調整で終了する場合や、公的年金の収入金額が400万円以下の場合では確定申告は不要です。ですが給与を2カ所以上から受け取っている人など、確定申告をしなければならない人がいます。また還付手続きや雑損控除、医療費控除、寄付金控除は年末調整ではできないので確定申告が必要です。

入力を終え申告内容確認票を見ることで、所得税徴収の流れがわかります。最近まで源泉徴収票を見ても所得税がどのような仕組みで徴収されるのかわかりませんでした。

確定申告の流れ

私の場合での、おおまかな確定申告の流れをお伝えします。

①収入金額を入力します:給与所得の金額と源泉徴収税額、雑所得の年金額や講演料の収入額と源泉徴収税額などを入力し、「所得の内訳書」がでます。

②所得金額が自動的に計算されます:▽給与は給与所得控除額が引かれて出ます▽年金は公的年金などに係る雑所得の計算方法によります▽65歳以上の方は年金額が110万円を超えると年金額に応じて所定の計算のもとに所得金額が出てきます▽講演料は必要経費を入力することでその額を引いた金額が所得金額となります。

③所得から差し引かれる金額が出ます(それぞれの控除金額を入力しますが、本人基礎控除の48万円は前もって記載されています):▽年金保険料や健康保険料、介護保険料などの社会保険料控除額▽生命保険料や地震保険料の控除額▽扶養控除、基礎控除など▽医療費の控除額(医療費控除とセルフメディケーション税制からの選択)

医療費控除に関しては、一般的にかかった医療費から10万円を引いた額と言われていますが、正確には10万円または所得金額の5%のどちらか少ない額です。ですので、所得金額が少ない場合は控除される金額が下がるので、自分の所得金額で計算することが大事です。計算方法は「1年間に支払った医療費-保険などで補てんされる金額-10万円または所得金額の5%=医療費控除額」です。

①②から③を引くことで、課税される所得金額と税額がでます。そこから税額控除されるものを引いて、納めるべき所得税と復興特別所得税額が確定します。所得税は超過累進課税で、税率は課税所得金額に応じて5%から45%となっています。

税金は収入にダイレクトにかかるのではないこと、様々な控除があること、社会保険料の額が思った以上に大きいことに気づきました。そして、控除の種類や金額がどういう根拠で決められているのかが気になりました。(消費生活アドバイザー)

次女、入籍する!《続・平熱日記》153

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絵は筆者

【コラム・斉藤裕之】話は半年前にさかのぼる。「次女にだれかいい人いないかなあ…」なんてこぼしていたら、「私なんか、ある日宅配便で彼氏が送られてきましたよ…」。

「?!」。 内容は思い出せないが、彼氏と宅配便という言葉が新鮮で、要は彼氏も宅配されるご時世だということか。しかし、冗談抜きで次女のことで少々気がかりなことがあって、こんな時に男親はからっきし役に立たねえなあ…。

それから間もなく、「彼氏ができた!」という次女からの報告。そして、それからすぐに「結婚する!」という電話。事の次第を簡潔に言えば、次女のアパートにツタが生い茂って困っているという話を飲み屋でしていたら、植木屋だという若者が、それなら俺に任せろと。

すると、次の日に「ピンポン」とその若者がやってきて、ツタを切ってさっさと帰ってしまった。それがきっかけ。いやいや、本当に宅配便の話じゃないけど、まさかねえ。

次女だから書けることもあるのだけれど、次女だから書けないこともある。よくある話ではあるが、分かっているつもりだったのだけれども、次女のことを分かっていなかった、ということが分かったのはそれほど前のことではない。いわゆる多様性の時代と言われる、多様の中のひとりというか。

差し障りないところでいうと、なぜか彼女だけが家族の中でRHマイナスで、足の人差し指が長くて…。飲み屋で、他の客に「植木屋で一番大事なことはなんだ?」と聞かれ、「掃除ですかね」と答えた彼に、掃除のできない次女はしびれたらしい(そのとき彼は植木屋を辞めて無職だったらしいのだが)。

しかし、もうとにかく、もらってくれる人がいれば「どうぞ、どうぞ」というのが私の正直な気持ちで…。

私とではなく地中海旅行

閑話休題。先日、コーヒーを飲みに行きつけのカフェに行こうと思ったら、その日は牛久シャトーのイベントに出店しているというので、寄ってみた。

実は、カミさんは亡くなる前まで、このシャトーの日本遺産登録に関わる仕事をしていたこともあって、無意識にここに来るのを避けていた(というのもご存じのようにシャトーの運営は市の悩みの種でもある)こともあって、来るつもりもなったのだが。しかし、天候にも恵まれ、日本遺産に関係するイベントは朝から多くの人出で賑わっていた。

同じく日本遺産に登録され出店していた笠間のテントブースに、何気なく立ち寄った私は、栗羊羹(ようかん)を見つけた。次女は栗が大好きで、カミさんは面倒くさがりながらも渋皮煮を作ってやっていたことを思い出した。私は次女の結婚祝いにその栗羊羹を買って帰ることにした。

近い将来次女と行こうと約束していた海外旅行は、どうやら私とではなくハネムーンという名目に変わりそうだ。次女はなぜか地中海の国に行きたいという。フランス留学から帰国する直前に、お腹の大きい妻と小さな長女と共に南仏を旅したことを思い出した。

もちろん本人は憶えているはずもないが、そのときお腹の中にいた次女はちょうど30年の時を経て、地中海を臨むことになる。(画家)

この国の農業をどうする?《邑から日本を見る》155

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荒れ地がまもなく飼料畑に

【コラム・先﨑千尋】政府は先月27日、農政の憲法と言える「食料・農業・農村基本法」の改正案を閣議決定し、国会に提出した。同法の前身は、1961年に制定された農業基本法。経済の高度成長に合わせた法律だったが、1999年に、経済と農業・農村の激変に対応するために現行の法律になった。

法の制定から25年経ち、世界では食料争奪が激化し、国内では人口減少が進んでいる。今回の改正は、食料安保の確保を基本理念に掲げ、紛争に伴う食糧危機や地球温暖化、人口減少に対応し、環境と調和のとれた食料システムの確立を目指すというもの。来年度予算の成立後に衆参各院で審議がなされる見通しだ。

改正案では、食料安保を「良質な食料が合理的な価格で安定的に供給され、かつ国民一人一人がこれを入手できる状態」と定義している。食料自給率のほか、肥料や飼料など農業資材の確保などを念頭に複数の目標を設定し、達成状況を年に1回調査する。また、環境と調和のとれた食料システムの確立や多面的機能の発揮、農業の持続的な発展、農村の振興、水産業及び林業への配慮も条文に盛り込まれている。

では農業の現状はどうか。

同法制定時と比べて、農業の基盤である農地面積は57万ヘクタール(12%)減少し、基幹的農業従事者は234万人から116万人と半減している(23年)。農家の手取り収入となる生産農業所得は3兆1051億円(22年)と、大企業1社の売り上げにも満たない。この間、食料自給率はエネルギー換算で40%から38%にダウンしている(22年)。

この基本法案はわが国の農業のあるべき姿を示しているのだが、掲げている「環境と調和のとれた食料システムの確保」や「多面的機能の発揮」などは、現状がそうはなっていないことを証明しているものだ。どうしてそうなってしまったのかの検証がなされなければ、為政者の希望、願望にすぎない。

農業では食えない現実

国全体の数値や法律のことはさておき、私が住んでいる地域の周りを見てみよう。やはり遊休農地が年々増えており、後継者もいない。イノシシがワガモノ顔に田畑を荒らしている。空き家も増えている。

その根本原因は何か。訳は簡単だ。農業では食えない、生活できないから。弥生時代以来、日本人は全体として米を腹いっぱい食べることを夢みてきた。それが達成できたのが1970年頃。まだ50年前のことだ。喜んだのは束の間。すぐにコメ余りになり、減反政策が始まった。米価もどんどん下がり、農水省の統計でも大幅赤字だ。

変化の兆しもある。すぐ近くで花づくりをしているI君。石岡市八郷地区で有機農業・里山農業に取り組んでいるY君。いずれも農家の出身ではない。2人とも明るい。遊休農地を借りて干し芋用のサツマイモを作付けしているK君。隣町のM農場は、昨年から牛の飼料となるデントコーンを一面に作付けしている。常陸大宮市では、市が率先して有機農業に取り組み、学校給食にも有機農産物を提供している。

県内では農業でゆったりと暮らしている地域もある。鹿行地域や坂東市岩井地区などだ。あちこちの直売所もにぎわっている。ぼやくだけでは何も生まれない。生産者が変わるだけでなく、消費者も変わらなければ、とつくづく考えている。わが国の農業がなくなれば、詰まるところ、国民全体、消費者の皆さんも困るのではないか。法律以前の話だ。(元瓜連町長)