金曜日, 11月 7, 2025
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ホモ・ルーデンス《デザインを考える》23

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写真は筆者

【コラム・三橋俊雄】学生のころ、家庭教師から帰る途中、乗る予定だったバスが目の前で発車してしまい、私だけが取り残されていました。ふと夜空を見上げると星は果てしなく遠く、宇宙は限りなく大きいのに、人はなぜ些細(ささい)なことばかり気にしたりして…。その時、なぜか、大学で学んだ「ホモ・ルーデンス」という言葉を思い浮かべていました。

「ホモ・ルーデンス(Homo ludens:遊戯人)」とは、1938年にオランダの歴史家・文化人類学者のヨハン・ホイジンガが提唱した〈人間とは何か〉を表す概念で、それ以来、私は人間として持っている〈遊び心〉を大切にしながら、人生を歩んできたつもりです。

人間の本質を表現する言葉には「ホモ・サピエンス(Homo sapiens:英知人)」「ホモ・ファベル(Homo faber:工作人)」「ホモ・デメンス(Homo demens:狂気人)」など、さまざまな定義があります。日本においては、「遊び」という概念が、すでに平安時代末期までに確立されていたと考えられます。

それが、後白河法皇によって編さんされた『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』です。そこには「遊びをせんとや生まれけむ 戯(たわむ)れせんとや生まれけん 遊ぶ子どもの声聞けば 我が身さへこそ揺るがるれ」という一節があり、無邪気に遊ぶ子どもたちの声を聞きながら、彼らはまるで遊ぶために生まれてきたのではないかとの、遊女の思いが詠(うた)われています。

以下、私が京都で出会った「ホモ・ルーデンス=遊び心」のお話をご紹介します。

ゼンマイ飛行機

年に数回、私は京都府北部の農山漁村に学生とお邪魔し、「フィールドワーク」の授業を行ってきました。この授業では、自然と共に暮らしてきた人々の生き方や、生活の知恵を学びます。ある年の夏、由良川に流れ込む小さな川沿いを巡っていた際、山道で出会った地元の方が、その場であっという間に作って見せてくれたのが、写真左のゼンマイ飛行機でした。

ゼンマイは、春、新芽を煮物や油炒めなどにして食べる代表的な山菜のひとつです。成長すると、写真右のように大きな葉になりますが、よく見ると、軸の両側に細い羽軸が出ており、その羽軸の左右に小さな葉(小羽片:しょううへん)が付いている、シダ類特有の形状になっています。

ゼンマイ飛行機は、羽軸を左右それぞれ長短2本ずつ残し、羽軸の片側から小羽片を取り除くことで、残った部分が飛行機の主翼と尾翼のような形になります。私も一つ作ってみましたが、思いのほかよく飛んでくれました。

かつての子どもたちは、野や山で、石や木、葉などの自然物の造形を道具に見立てて遊んでいました。このゼンマイ飛行機も、「ホモ・ルーデンス」の心で、植物の葉の形や構造から巧みに飛行機の造形を連想し、創り出されたものに違いありません。(ソーシャルデザイナー)

事前審査に3陣営 県議補選つくば市区

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(左から)塚本一也氏と山中たい子氏

知事選と同日の9月7日投開票で行われる県議補選つくば市区(欠員1、8月29日告示)の事前審査が18日、つくば市役所で行われ、3陣営が立候補届け出書類の確認を実施した。3陣営は、元県議で自民党公認の塚本一也氏(60)、元県議で共産党公認の山中たい子氏(73)、つくば市議で無所属新人の樋口裕大氏(37)。同市区の有権者数は20万538人(6月2日現在)。

塚本氏はつくば市出身。県立土浦一高、東北大学工学部建築学科を卒業後、筑波大学大学院環境科学研究科修了。1991年にJR東日本に入社し、2006年に大曽根タクシー社長に就任。18年から県議一期を務めた。現在は同社社長のほか、茨城県ハイヤー・タクシー協会会長などを務める。今回の県議補選では「県が主導し仲介することで、国や世界的な企業を誘致できる。県とつくばの橋渡しの役目を担う」とし、国や県との連携を重視する中でつくばの産業育成を掲げる。

山中氏は福島県小野町出身、日本大学Ⅱ部法学部新聞学科を卒業後、千葉県商工団体連絡会に勤務。つくば市に転居後、1984年から旧桜村議・つくば市議4期を務め、2003年から県議4期を務めた。前回2022年12月の県議選は次点だった。現在、共産党県常任委員などを務める。県議補選では、国保税、介護保険料、後期高齢者医療保険料の引き下げ、児童生徒数増に見合う県立高校新設とクラス増設、東海第2原発の再稼働をストップし廃炉にするなど、食と農・環境を守るーなどを掲げたいとする。

樋口氏は千葉県千葉市出身、敬愛大学国際学部を卒業し、ファイナンシャルプランナーとしてDoitプランニング社に勤務。24年のつくば市議選に無所属で立候補し、2434票を得て初当選を果たした。所属会派はNextつくば。樋口氏は「谷田部地区に県議会議員がいないことから、地域の声を拾う人がいなくなってしまうということを危惧していた」と話す。つくば市内の人口増加により交番の適正配置を再考する必要があるとし、みどりのへの交番の設置を目指すとともに、つくばエクスプレス(TX)沿線に高校を新設することやTX東京延伸に取り組んでいきたいとする。(柴田大輔)

【追加:19日午後5時17分】18日の事前審査を実施した3陣営のうち、樋口氏は19日、NEWSつくばの取材に対し立候補しないことを明らかにしました。これを受けてNEWSつくばは写真を差し替え、小見出しの「つくば市議の樋口氏も」を削除しました。

不適切のデパート つくばの生活保護行政《吾妻カガミ》209

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つくば市役所正面玄関サイド

【コラム・坂本栄】つくば市は6月、「生活保護業務等の不適切な事務処理に関する報告書」を公表しました(青字部をクリックすると全文が現れます)。あらましは記事「不適正額7件で4741万円に…」(6月23日付)をご覧ください。報告書は1市職員から総務部局に出された公益通報に対する回答とも言えるものですが、内部告発した職員による市議会への請願書はコラム「…つくば市政の実態」(24年9月30日付)内のリンク先で読めます。

生活保護業務の不適切な事案は大きく三つに分類できます。上の報告書は専門用語が多く使われており、この分野に疎い人には理解しにくいところがあります。かみ砕いて整理すると、つくば市役所では以下のようなことが起きていました。

口裏を合わせ県にウソの報告

一つめは、時間外勤務をしたのに手当てが払われていなかったり、生活保護受給者の自宅を訪れるといった特殊勤務の手当ても払われていなかったという事案です。担当職員のやる気を削ぐような慣行が市役所内に広がっていたのです。

調査を受けた職員の回答を読み、「管理職からの指示で(時間外を)一部しか申請できなかった」(職員)、「指示はなかったが申請できる雰囲気でなかった」(同)、「(特殊勤務手当ての)申請は本人の判断に委ねていた」(管理職)といった答えのオンパレードには驚きました。ただ働きは当たり前ということですから、役所の体を成していません。

二つめは、認定ミスで規定よりも多めの金額を生活保護者に払ってしまい、払い過ぎた分を返してもらおうと掛け合ったものの、返してもらえなかったというケースです。加えて、国がその分を穴埋めしてくれる場合もあるのに、市は国に申請していませんでした。こういったダブルミスは市の財政にマイナスの影響を与えます。納税者市民にとっては見過ごせない怠慢と言えるでしょう。

三つめは、生活保護費を現金で渡してはいけないというルールがあるのに、現金支給が横行していたという事例です。もっと問題なのは、生活保護業務を監査する県から「おかしなことやっていない?」とチェックを入れられたのに、「やっていません!」と虚偽(ウソ)の報告をしていたことです。

しかも、調査を受けた職員は「課長からは、現金支給していることは外で言わないように、記録にも記載しないようにと指示を受けた」「県監査での対応についても、課長から口外しないよう注意された」と答えています。組織として県にウソをつき通すという構図です。知事と市長の意思疎通の悪さは周知のことですが、これで県の信用も失いました。

市であることの重い行政責任

生活保護は「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」(憲法25条)を国民に保障する制度です。行政としては基本業務なのに、担当職員に必要な手当を払わない、過払いの穴を埋める事後処理もやらない、県のチェックには組織ぐるみでウソをつく。こういった粗雑な行政を放置してきた執行部のガバナンス(管理監督)不全は深刻です。また、議会は市職員の請願を採択せず、問題解明の仕事を放棄しました。こちらは機能不全です。

市制移行を進めている阿見町長に聞いたところ、町や村の場合、役場内に社会福祉課はあるものの、生活保護については窓口に過ぎず、実務は県の県南事務所がやってくれているそうです。2027年秋の市制実現に向け、実務の勉強と準備を怠らないよう職員に厳しく指示していると言っていました。

市になること(市であること)は行政責任が大きくなる(大きい)ということです。つくば市は不適切事案の責任を明確にし、生活保護に対する市民の信頼を取り戻す必要があるでしょう。(経済ジャーナリスト)

花火は「安全」の二文字が最優先《見上げてごらん!》43

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【コラム・小泉裕司】花火師が最も大切にしていること、それは一に安全、二に安全。花火師は、火薬という危険物を扱うため、製造段階から打ち上げ、そして片付けに至るまで、あらゆる工程で事故が起きないよう細心の注意を払う。もちろん、火薬取締法をはじめ法令や都道府県条例によって、火薬の取り扱いや花火打ち上げには厳しい規制が課されており、従事者には国家資格の取得が定められている。

それでも、今年の春先から夏の佳境に入っても事故が続いている。残念でならないが、花火は打ち上げてみなければ分からないという宿命も背負っている。

打ち上げ時の事故

経済産業省所管の火薬取締法では、花火打ち上げ事故を「火薬類の消費中に発生した危険な事象」と定義。具体的には、筒ばね、過早発、低空開発、地上開発、黒玉、部品落下など、およびこれらに起因する火災などを「危険な事象」としている。ここで「火薬類の消費中」とは、花火打ち上げにかかる一連の作業を言う。

▽筒ばね:花火玉が上空に上がらず、筒の中で爆発すること。花火玉の不具合や筒の変形により、打ち上げ火薬の火が引火して発生することがある。

▽過早発:煙火玉が筒から発射直後に開発する。花火玉の導火線の異常により発生する(上の写真参照)

▽低空開発:煙火玉が性能上危険な低い高度で開発する。風の影響や花火玉の不具合など複合的な要因により発生する。

▽地上開発:煙火玉が上空で開発せず地上に落下し開発する。花火玉の不良、風の影響、打ち上げ場所の不適スなど、複合的な要因による。

▽黒玉:いわゆる不発玉。上空で爆発せず、そのまま地上に落下してしまうこと。導火線の着火不良や、花火を破裂させる割薬への着火がうまくいかなかったことが要因。

▽部品落下:煙火の構成部品(燃え殻・破片・星など)が危険な状態で落下する。

打ち上げ事故の推移

危険な事象によって生じた死傷者の人数や物的損害額など被害の程度によって、A級からC2級まで5段階に分かれる。

2009年に遠隔点火(上の写真参照)が義務付けされたことで、打ち上げ事故のリスクは軽減されたというが、国の統計で過去30年の事故の推移を見ると、死傷者数の減少が顕著に読み取れる。一方、23年、24年は、コロナ禍前の3年間と比較すると、事故に至らない危険な事象(C2級)が激増している。

要因は、コロナ禍をきっかけに多くの職人が現場を離れたためと言われる。しかし、後継者の育成には時間がかかるため、海外の安価な花火玉の使用も一因ではないかとの見方もある。土浦の花火の出品規程は、全競技玉を自社製造玉に限定している。

事故に対するペナルティ

こうした花火事故を起こした煙火業者に与えられるペナルティは、事故の種類や内容によって業務停止命令や許可の取り消しなどの行政処分、法律違反や過失の場合には刑事罰が科せられる。民事上の責任として、損害賠償を請求される可能性もある。

さらに、花火競技大会への出品も、主催者や日本煙火協会などの判断によって制限が行われる場合や自主的な参加自粛が行われる場合もある。

花火師は見る人を楽しませるための「美しさ」や「迫力」も大切にするが、それらは安全が確保されてこそ初めて実現できるもの。土浦の花火競技大会で、作品の打ち上げを終えたすべての花火師が、作品の出来栄えよりも異口同音に発する言葉は「無事で何より」。

本日は、これにて打ち留めー。(花火鑑賞士、元土浦市副市長)

参考:経済産業省ホームページ

開拓の地に根を張って 芝と共に歩んだ大日向組合【戦後80年】

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黒澤武宣さん、美津子さん夫妻

黒澤さん夫妻の70年

「当時、2、3年ごとに必ずあったのが春の大霜や夏の干ばつ。苦しい生活にさらに追い打ちをかけるものでした。昔は本当に苦労しました」

長野県大日向(おおひなた)村出身の黒澤武宣さん(83)は、遠くを見つめながら語る。隣には、牛久市出身の妻 美津子さん(77)がいる。ブランド芝のつくば姫、つくば輝、つくば太郎、つくばグリーン等を生み出す日本一の芝産地つくば市。そこで長年、芝生産を支えてきた大穂地区に戦後、黒澤さんら同郷の14家族が入植した。大日向組合による開拓地だ。

陸軍西筑波飛行場跡地

「この滑走路のあたりにあるのが、私たちの家です」

旧西筑波飛行場の滑走路付近に現在の自宅と芝畑がある

古い地図を指差しながら、黒澤さんが言う。黒澤さんが暮らすのは、つくば市西部にある西高野地区。下妻市に隣接する旧大穂町に位置し、筑波山を仰ぐ自宅の周囲には広い平地に黄緑色の芝畑が広がっている。ここは終戦期まであった旧陸軍による「西筑波飛行場内」の一角にある。「西筑波開拓農協二十年史」(西筑波開拓農業協同組合、中本信治編)によると西筑波飛行場は、旧作谷村(旧筑波町)と旧吉沼村(旧大穂町)にまたがる平地に1939年からつくられた約280ヘクタールの飛行場で、グライダー部隊である旧陸軍第116部隊と117部隊が駐屯していた。戦争末期になると、米軍による爆弾投下や機銃掃射を受け、戦後は一時、占領軍の管理下に置かれていた。

日本は戦後、直面する深刻な食糧不足の解消と、復員兵や引揚者の生活再建を目的に、旧軍用地や未墾地を農地として開墾し、食糧増産と失業対策を同時に進めた。1945年11月、緊急開拓事業実施要領が閣議決定され、約21万1000戸が全国の開拓地に入植した。茨城県には全国の4.2%にあたる262カ所が整備された。西筑波飛行場跡地もその一つだった。

緊急開拓事業の対象地区となった同飛行場への入植が始まったのは終戦翌年の1946年。県内を含む全国から復員者や引揚者らが集まった。黒澤さんがこの地に来たのは1953年だ。先に来ていた祖父を頼り、父と来た。10歳の時だった。50年ごろに同郷の大日向村から14家族が入植し、大日向組合を結成していたという。「西筑波開拓農協二十年史」によると、飛行場内を走る滑走路を中心に、東側に「西筑波開拓」が、西側に「大日向組合」の開拓地が広がっていた。

1961年に編纂された「西筑波開拓農業二十年史」(左)と掲載される西筑波飛行場地図(中央)、同飛行場近隣地図(右)

大日向村から大穂へ

「だだっ広いところだなぁ」。筑波山の麓に広がる平地に初めて立った時、小学5年生だった黒澤さんはあたりを見回しそう思った。故郷の旧大日向村は、長野県と群馬県の境にある山村で、現在は、佐久穂町大字大日向と呼ばれている。山間を流れる抜井川沿いに八つの集落が点在する細長い谷間の村だった。

「生活が厳しいところだった」という。戦前の大日向村住民は養蚕や炭焼きを営みながら、限られた農地で米や野菜を育てていた。1930年代の昭和恐慌の影響で生活は困窮した。生活難を背景に、1938年、村民の約半数が旧満州、現在の吉林省へ渡り、「満州大日向村」を築いた。国策として進められた満蒙開拓の、全国初となる「分村移民」で、国から模範事例と讃えられた。しかし終戦間際にソ連軍の侵攻を受けると、引き揚げまでの約1年間に400人余りが命を落としたとされる。約250人が帰国したものの、多くが満州へ渡る際に土地や家を処分しており村に留まれる者は少なく、再び新天地をめざすことになる。その先駆けとなったのが、1947年、65戸168人による軽井沢町への入植だった。その後、他の土地へも移住者が相次いだ。旧大穂町の「大日向組合」による開拓地もその一つだった。黒澤さんの親族には、満州からの引揚者はいなかった。

2、3年ごとに大霜と干ばつ

黒澤さんは、父親と、先に入植していた祖父に連れられ、2日をかけて大穂にきた。列車で土浦に着くとバスに乗り換え目的地近くの吉沼へ向かった。そこから徒歩で開拓地にたどり着いた。その日はちょうど、大穂が村から町に変わる日で、大勢が役場に集まり祝賀会が開かれていた。バスの車窓から見た活気あふれる風景を今もよく覚えている。

大穂へ来た祖父がくじ引きで割り当てられていたのは、滑走路跡の「砂利だらけ」の土地だった。鍬を振るえば砂利が現れ、作物はなかなか育たない。落花生、スイカ、サツマイモ、麦などを栽培したが、肥料や農薬は乏しく、2、3年ごとに訪れる春の大霜と夏の干ばつが苦しい暮らしに追い討ちをかけた。入植者たちは当初、旧飛行場の兵舎で生活していた。数年後、自力で家を建てたが、周囲に木々は少なく、「燃料はカヤの根を掘り起こして乾かしたものしかなかった」と黒澤さんが話す。

芝栽培が始まり暮らしが安定した

転機は1957年頃。東京から複数の園芸業者がコウライシバ(高麗芝)の種芝を持ち込み、農家に栽培を勧めたのだ。当時、戦災で芝の栽培地を失っていた都内の業者が、首都近郊に新たな栽培地を求めていた。第1次ゴルフブームが到来し、芝の需要が高まっていた時期であり、新たな栽培地として筑波山麓の平地に目をつけた。同時期に、隣接する南作谷の西筑波開拓でも芝栽培が始まった。

大日向組合開拓地に隣接する、南作谷地区の開拓地に立つ記念碑

黒澤家は当時、大穂町内に支社を構えていた東京・浅草に本社がある「芝万」から種芝を仕入れ、栽培を始めた。周辺には以前から在来の「野芝」が自生しており、入植者らは農閑期の収入源として刈り取り、河川の土手や土木工事用として販売していた経験があった。芝には馴染みがあったのだ。

その後、年を追うごとに芝栽培は少しずつ拡大した。植え付けから管理までを農家が担い、切り取りは業者が行った。1957年頃の第1次ゴルフブーム、1969年頃の第2次ゴルフブームで需要は急増し、関東、東北への出荷ルートが整備され、入植者の暮らしは次第に安定していった。

子ども時代の記憶

入植者の子どもたちは吉沼小学校に通った。文化や習慣の違いから「よそ者」と見られ、集団登校や遊びの輪に入れないこともあったという。当時のことを聞くと、黒澤さんは「涙が出ちゃって、話せないですよ」とうつむいた。電気がきたのは黒澤さんが高校生になってから。それまでは、石油ランプを使っていた。ランプの掃除は、子供の仕事だったし、明かりもなくて「受験勉強どころじゃなかった」と振り返る。

1960年代半ば(昭和40)になると、地元との交流が増えた。地域の人々が協力し、映画上映や踊りの会、遠足などの行事が開拓地でも行われるようになった。

黒澤さんは高校卒業後、試験を経て大穂町役場に就職し、地域づくりに尽力してきた。妻の美津子さんと結婚したのは1970年だった。「仕事一筋、真面目な人」だったと美津子さんが当時の印象を話す。役場は家庭的な雰囲気だった。独身だった黒澤さんを心配した同僚が「黒さんにお嫁をもらう会」をつくっていた。

1987年、4町村合併でつくば市が誕生すると、黒澤さんはできたばかりの市で財政担当として奔走。「ないところに街をつくるという意味では、開拓と似てました。いろんな人の意見に気を遣いながら、無我夢中だった」と当時を振り返る。

過疎化に直面

2人の息子に恵まれて、黒澤さんは役所を定年まで勤め上げた。芝栽培は妻が支えてきた。変化の大きなつくば市で、かつて大日向組合に17軒あった芝農家は今では3軒にまで減少した。後継者不足や、野焼き禁止などの規制が産業を圧迫している。

筑波山を望む平地に芝畑が広がる

黒澤さんは「市の中心部が注目される一方で、外側にある多くの地域が過疎化に直面している。よくよくです。耕作放棄地も増えている。置いてかれちゃっている感じがしている」と、戦後70年以上を生きてきた開拓地で黒澤さんは話す。それでも「今でも芝を1町歩作っています」と美津子さんが胸を張る。「私も仕事一筋。百姓やって、子育てして。まだ農業やってます。芝もまだまだ。昔の、死に物狂いでやってきたのを守るっていうのかね。それも、だんだん終わっていっちゃうのかな、と思うこともあります。でも、一生懸命やってきた芝を守りたい気持ちでいます」と美津子さんが前を向く。(柴田大輔)

疎開先で空襲に遭い母に手を引かれ逃げた【語り継ぐ 戦後80年】2

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山城啓子さん

つくば市 山城啓子さん(86)

つくば市に住む山城啓子さん(86)は6歳の時、疎開先の福井市で空襲に遭い、母親に手を引かれて逃げた。翌日自宅に戻ると、福井の街は焼け野原になっていた。市街地の84.8%が損壊した福井大空襲だ。1945年7月19日深夜、米爆撃機B-29が127機飛来し、81分間に865トンの焼夷弾を福井の市街地に落とした。2万戸以上が焼失し、9万人以上が罹災し、1900人を超える死者が出た。

啓子さんは東京都文京区湯島で生まれた。父親は沈没船などの引き揚げを行うサルベージ会社に勤務していた。兵庫県西宮市に転勤となり、両親と三つ下の妹の4人で、東京から西宮の社宅に転居した。やがて父親に赤紙(召集令状)がきて、海軍の警備府が置かれていた青森県大湊に水兵として配属された。

1944年、母親と妹の3人で兵庫から青森まで父親の面会に行った。面会室で待っていると向こうから、まるで行進しているかのように両手を大きく振って歩いてくる一人の水兵が見えた。父親だった。何を話したかは覚えていないが、普通の歩き方ではなかった父親の姿だけは今も覚えている。

父親が召集された後、3女となる妹が生まれたが、赤ん坊の時、高熱を出し肺炎で亡くなった。西宮の社宅は母親と娘2人の女ばかりだったので、母親は自身の実家のある福井県に疎開することを決めた。実家近くの福井市内に家を借り、母親と妹の3人で1年ほど暮らした。1945年4月、啓子さんは福井市で小学校に入学した。先生からは、学校の行き帰りに空襲警報のサイレンが鳴ったら、近くの家に駆け込むよう言われた。

こんなに広かったのか

福井大空襲があった7月19日夜は、夕食を食べ終え、買ったばかりのラジオを自宅で聞いていた。突然サイレンが鳴り響き。次第に外が騒がしくなった。当時29歳だった母親は落ち着いて身支度を始め、亡くなった3女の位牌を懐に入れ、まだご飯が残っていたお釜を風呂敷に包んで、3歳の妹をおぶった。啓子さんはモンペ姿で肩に水筒を掛け、防空頭巾をかぶった。ラジオを抱えて持っていこうとしたが、母親から「そんなものいいから」と止められた。母親はお釜を持ったもう片方の手で啓子さんの手を引っ張って逃げた。

外は米軍が落とした照明弾で昼間より明るかった。人々は皆、郊外へ郊外へと一方向に向かって走っていた。母親に手を引かれた啓子さんも郊外へと逃げた。途中、焼夷弾が落ちて燃えている炎を、消そうとしている男性の姿があった。

どこまで逃げたか分からないが、郊外まで来て、啓子さんはそのまま眠ってしまった。翌日、明るくなって目を覚ますと、畑のようなところに大勢の人がいた。しばらくするとB-29が上空を飛行し、また爆弾を落としに来たのではないかと怖くなったが、周りの大人に「爆弾を落としに来たのではなく、偵察に来ただけだよ」と言われた。

お釜に残っていたご飯を食べ、自宅に戻った。途中、焼け跡のあちこちから煙が出ていて、焼けた家の前で立ち尽くす人の姿があった。悲しいとか、そういう感情は無く、焼け野原になった福井の街を「こんなに広かったのかと思った」と啓子さんは当時を振り返る。視線を遮る建物は無く、立っているのは人の姿しかなかった。背負われて母親の背中から焼け野原を見ていた妹は当時のことを「焼け焦げた人を大勢見た」と話すが、啓子さんにその記憶は残っていない。

住んでいたところに到着すると、家は全焼だった。買ったばかりのラジオも焼けてしまった。

その日のうちに母親が実家方面に向かうトラックを見つけてきて、大勢の人とトラックの荷台に乗り、母親の実家に行った。1時間ほどで実家に到着し、そのまま終戦の日を迎えた。

8月15日を過ぎて間もなく、復員した父親が軍服姿で家族を迎えに来た。2、3日福井で過ごした後、父親の実家がある東京に家族4人で向かった。湯島にあった実家は東京大空襲で焼けてしまったから、父親の両親は世田谷区に移っていた。戦後は、戦争中よりも食べ物に苦労した思い出がある。

成人し国家公務員の夫と結婚。40歳の時つくば市に転居した。戦後80年経ち「戦争は人間にとっていいことは一つもない。戦争はどんなにつらいことか。人間は人間を大事にしないといけない。とにかく戦争を起こしてはならない」と、次の世代に伝えたいと話す。(鈴木宏子)

公園から消えてしまったバリケン《鳥撮り三昧》4

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バリケンとカワセミ(筆者撮影)

【コラム・海老原信一】小さな池のあるつくば市内の公園。そこには一時30羽ぐらいのバリケンが生活していました。環境的にはそぐわないほどの数です。どうしてこれほどの数になったのか? 豊富な食べ物は繁殖を促しますから、人の手による給餌が影響して繁殖が可能になったのでしょう。

「給餌をしないで」との立て看板が設置されたためか、餌は以前よりは少なくなった様子。まかれた餌はバリケンだけでなく、その他の野鳥たちの食料にもなります。当然、バリケンたちの取り分は少なくなり、繁殖への影響も出て来ます。少しずつ減っていくだろうと思っていましたが、急激な減少を見せたのです。カワセミと一緒の写真を撮影したとき、バリケンが2羽になっていました。

バリケンが木の上で休むことはあまり見たことがなく、珍しく思いました。地面より不安定な樹上で休むにはそれなりの理由があるはず…。バリケンにとっては地面が安全でなくなり、樹上へと向かわせたのでしょうが、一体何があったのか私には分かりません。

バリケン親子(同)

愛くるしいヒナたち

「思い出していたら悲しくなって涙が…」。写真展で上の写真をご覧になったご婦人の一言です。「いま公園にはバリケンが一羽もいなくなりました。季節には子供が生まれ、その可愛らしさに癒されていました。私ばかりでなく、みなさんヒナたち愛くるしい様に笑顔になっていました。思い出していたら悲しくなって…」。

いなくなった理由は分かりません。バリケンは家禽(かきん)として移入されたもので、それが野生化しました。割と多産で、黄色いヒナたちはにぎやかでかわいいし、見る者をハッピーにする魅力を持っています。ご婦人の寂しさはよく理解できました。

私自身、バリケンのヒナたちの様子を楽しみながら撮影していました。この公園にはもうバリケンが戻って来ないのでしょうか。(写真家)

戦死した兄思い玉音放送聞いた【語り継ぐ 戦後80年】

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宮田米子さん

つくば市 宮田米子さん(93)

つくば市北条に住む宮田米子さん(93)は、満州事変が起こった1931(昭和6)年、小田村(現在、同市小田)の農家に生まれた。3人の兄がおり、旧姓は宮川。戦時中は地元にあった国民学校高等科(現在の中学校)に通った。終戦は14歳の時、当時の事はよく覚えているという。

「農家だったから食べるものにはさほど困らなかった。でもコメに麦を8割混ぜた8分の麦ご飯で、おかずは野菜くらいしかなく、ぜいたくはできなかった」と振り返る。当時、農家でない人は、クリやジャガイモを入れ、かさを増して食べていたという。

宮田さんは尋常小学校を出て国民学校高等科に入った。全生徒は30人ぐらいで、近隣の田宮、北太田、山口からも通っていた。小田に住む人の中にも越境して北条の学校に行く子もいた。当時の北条は、石岡、土浦と並ぶ大きな物資の集積地だったということもあった。

国民学校は日中戦争後の1941年に発足した制度で、教育全般にわたって教育勅語に示された皇国の道を修練させることを目指した。それまでの尋常小学校が国民学校初等科、高等小学校が国民学校高等科になり、戦時色がより一層強まった。

「最初は普通に勉強していたが、戦争が進むと、授業も少なくなっていった」という。終戦を迎える年の1945年4月からはまったく授業は行われず「食料増産のための、農作業が主となっていった」と振り返る。

寝転がってはだめ

志願して入隊した次兄は飛行機乗りで、無線通信担当だった。「飛行機から人の姿はよく見える。隠れるときは寝転がってはだめ、しゃがんでうずくまっていろ」と、帰省した際、次兄に忠告された。

小田地区には大きな戦禍はなかったが、それでも登校時などに空襲警報が鳴ると、怖くて(筑波鉄道筑波線の)常陸小田駅の駅舎(現在は小田城跡歴史ひろば)に隠れた。近くの山口地区に爆弾が落ちたとか、機銃掃射があったという話を聞いていたそうだ。それでも筑波山周辺地域で空襲で亡くなった人はいなかった。

筑波地区に初めて空襲警報が鳴ったのは、1942(昭和17)年3月5日だったのを覚えている。北条近くの作岡村(つくば市作谷)には、落下傘部隊やグライダー部隊の訓練が行われた陸軍の西筑波飛行場があり、戦局が進むと頻繁に空襲警報が鳴るようになった。特にアメリカ機動部隊の艦載機1200機が関東各地を空襲した1945(昭和20)年2月16日のものは大きく、朝から夕方まで外出が禁止された。

フィリピンで戦死

長兄の宮川善一は1944(昭和19)年末に赤紙(召集令状)により徴兵され、9カ月後、フィリピンで戦死した。終戦間際、23年の生涯だった。

天皇が終戦を告げた8月15日の玉音放送は、兄の生死がはっきりせず、何か分かるかもしれないと、家族全員で自宅のラジオの前に集まり聞き入った。当時農家でラジオを持っている家は少なかったが、どうしても放送が聞きたくて購入した。近所では兄弟全員が戦死したという家もあったが、兄の死は、まさか家族に戦死者が出るとは思わず、長男ということもあり、生涯忘れられない出来事となった。80年たった今でも、当時を思うと言葉が出なくなり、涙が流れる。

戦後は、国民学校高等科を出て、その後、家の手伝いをして過ごした。ヤミ米が流出していたため、多くの農家と同じように調査が入ったりしたそうだ。

1952(昭和27)年、北条地区の宮田家に嫁入りし、一男一女をもうける。「戦争を体験した人はみな、90歳以上になってしまった。戦争は本当に怖かった。戦後はだんだんおいしい物も食べられるようになった。やはり平和が一番だ。そういう時代がずっと続いて欲しい」と昔を振り返りながら語る。(榎田智司)

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2110年の世界はどうなっている?《ハチドリ暮らし》52

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写真は筆者

【コラム・山口京子】わが家の階段を一歳過ぎの孫が両手両足を使い上っていきます。少し前まではハイハイだったのに…。厚生労働省の「2024年簡易生命表」によると、24年に生まれた男の子の平均寿命は81.09歳、女の子は87.13歳ということです。ということは、平均的な男の子は2105年、女の子は2111年まで生きることになります。

そのころは一体どんな社会になっているのか。そんなことを思うと不安と希望が入り混じります。今大人の私たちには何ができるのでしょうか。例えば、戦争で犠牲となった人々を支援する。なぜ戦争が起きたのか歴史構造や国際関係を知る。原子力発電の仕組みに無知だったことを反省して東京電力福島原発事故のことをきちんと考える…。

写真は筆者

私はいくつかの団体の会員となり、その活動の報告書を読ませてもらっています。一つは、中村哲医師のパキスタンでの医療活動支援を目的に結成されたペシャワール会です。中村医師が設立したPMS(平和医療団・日本)のアフガニスタンでの灌漑水利事業なども支援しています。彼は「私たちはアフガニスタンを救援するなどと大きなことは言いません。その日その日を感謝して生きられる、平和な自給自足の農村の回復が望みです」と述べていました。

二つめは、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の難民救援活動です。収奪的で膨張主義的な大国の思惑により、難民が生みだされています。1991年から2000年まで高等弁務官として活動した緒方貞子さんは「必要に迫られて日本に来る難民の受け入れには寛大でなければなりません。そういう人たちにもう少し真摯に対応する必要があります」と言います。

三つめは、政府や産業界から独立したNPO法人原子力資料情報室です。原子力利用の問題点に関する資料を集め、そこで得られた情報を発信し、市民による脱原発活動を支援しています。設立者の高木仁三郎氏は「問われているのは、科学技術総体とそれにかかわる科学技術者の質である」と言います。平和で持続的な地に足のついた暮らしの在り方とは? (消費生活アドバイザー)

ペットの熱中症にも注意を 土浦の動物病院が呼び掛け

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ペット用ネッククーラーをつけて日が落ちてから散歩に出る犬=土浦市内

冷房、犬猫は24度程度が最適

あす13日から厳しい暑さが戻るといわれている。熱中症は人間だけでなく、犬や猫もかかり、命に関わる恐れもある。土浦市中高津の徳永動物病院院長の徳永大和獣医師によると、最近は日中の散歩は避けるなどペットの熱中症に注意をしている飼い主が多く、急患のペットはほとんど出ていない一方、「ここ2、3年は、冷房の温度設定がペットにとって高いことによるペットの熱中症が増えていると実感している」と語り、注意を呼び掛けている。

徳永動物病院の徳永大和院長(本人提供)

軽い熱中症から悪化

徳永さんは「犬や猫は体が被毛に覆われているだけでなく、人のように汗をかいて体温を下げることができないため、人よりも暑さに弱く熱中症になりやすい」と話す。冷房の温度は人間にとって26~27度程度が快適だが、ペットにとっては暑過ぎて軽症の熱中症を招く。「ペットには24度程度が適切だ」という。

高温のため6歳、7歳を超えた高齢の犬や猫が、軽い熱中症から1週間ほどたって悪化する症例が多くなっているという。症状としては「食欲がない」「吐く」「下痢をする」といった、体温が上がったことによる胃腸炎などがある。

やけどと同じ

徳永さんによると、症状が出たら動物病院に行くことはもちろん、治療後は冷房でしっかり冷やすことが大切だという。「熱中症はやけどと同じ。動物病院での1回の注射や冷却で治るものではない」とし、「1、2日涼しい場所で過ごして元気になったように見えても実は治りきっていない」と話す。油断して冷房の設定温度を人間が快適な27℃に上げたことで再び悪化し命にかかわるケースもあるため、「ペットには、冷房は人間が快適だと思う温度よりも低い24℃に設定するとよい」と話す。

ひんやりとする洗面台で涼む山口佐智子さんの飼い猫=本人提供

8日の夕方、犬の散歩をしていた土浦市の女性は「暑い日が続いているので犬の熱中症予防のため、冷房を24時間入れたままにしている。朝夜の散歩も首を冷やすネッククーラーをつけている」と語った。猫を飼っているつくば市の山口佐智子さんは「猫はいつも勝手に涼しいところに行っている。しかし今年は格別暑いので猫の体調には気をつけている」と話す。

茨城県では環境省が作成したペットの熱中症予防ポスターを印刷、県内市町村に配布している。さらにX(旧ツイッター)の茨城県生活衛生課動物愛護担当のアカウントで、ペットの熱中症に関する注意喚起を促している。土浦市は、県から配布されたポスターを同市役所環境衛生課の窓口に掲示して注意を呼び掛けている。つくば市もポスターを庁内に掲示するとともに、同市のホームページに「犬の熱中症に注意」というページを作って周知している。(伊藤悦子)

素描《続・平熱日記》183

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絵は筆者

【コラム・斉藤裕之】オス2匹メス1匹の茨城県産カブトムシを持って、高円寺の長女宅を訪ねた。東京駅で中央線に乗り換えると、停車するホームで何度か見かけた「素描」と大きく書かれたポスターが気になる。「素描」とは一般に「デッサン」や「クロッキー」という言葉に相当するものだと思うが、実にいい言葉だと思う。

まあ簡単に言うと、鉛筆などの単色で描かれた絵。構想やアイデアを描いたものが多い。私自身はデッサンがあまり得意ではなかった上に、少し修行のようなニュアンスも感じられて少々苦手意識のある漢字二文字。しかし、他人の描いた素描を見るのは好き。なぜなら素描にはその人のものの見方、試行錯誤の様子、息遣いやリズムのようなものまで感じられるからだ。

描かれたものが「素(そ)」であると同時に、描き手の「素(す)」が見えてくる。例えば、ダ・ビンチのモナリザを見るよりも素描を見る方がダ・ビンチのことがよくわかる。

さかのぼること数週間。ある日、引き出しの中から「銀筆」を見つけた。鉛筆ではなく銀筆。「シルバーポイント」と呼ばれるこの銀筆は、鉛筆の芯の部分が直径2ミリほどの銀の棒でできていて、西洋で古くから使われていた素描用具。その柔らかい表情と、時間の経過とともにやや褐色に変化する色合いが銀筆の魅力。

ところがこの銀筆は白い紙には何も描けない。銀よりも固いものの上にしか描けないので、銀筆で絵を描くには準備が少々面倒なのだ。

そう思いながら、ネットで「シルバーポイント…」と検索したところ、紙の上に白いパステルを塗って銀筆で描く方法が紹介されていた。ならばと再び引き出しの中を探すと、何十年も寝かしてあるパステルを発見。いつか値引きされていたのを買って、これまた長い間使っていなかった小さなスケッチブックも発掘。これで材料は一応そろった。

スケッチブックを開きパステルを塗る。優しく線を引くと、銀筆の淡い筆跡が心地よい。しかし、繊細で不自由な素材である分それなりの画力も求められる。文字通り素になって描く。ということで、この夏、いつもは絵を描く道具は一切持っていかない山口への帰省に、銀筆一本とパステル、小さなスケッチブックを携えることにした。

スウェーデン国立美術館展

ちなみに「素描」と大きく書かれたポスターは、国立西洋美術館で開催中のスウェーデン国立美術館コレクション展のものだった。かの美術館は30年ほど前の夏に友人を訪ねた折に見て回ったことがある。これも何かの縁か。久しぶりに上野に行ってみるか。

虫好きの上の孫は、心待ちにしていたカブトムシを手にたいそう喜んでくれた。方や、もうすぐ2歳になる下の孫の方は恐竜が好きなんだと。ならば、次のミッションは角が一本増えて木彫「トリケラトプス」か。(画家)

復刻「陣中占ひ」で記憶の糸たぐる 土浦 石田和美さん【戦後80年】

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「陣中占ひ」の説明をする石田和美さん=土浦市内

戦前の記憶の糸をたぐる手札玩具がある。「陣中占ひ」という30枚組のカードだ。戦後80年の夏、その復刻版制作と普及活動に取り組む土浦市在住の女性が「現物以外なんの記録もないのでご存じの方がいたら情報を寄せてほしい」と呼び掛けている。

関係資料探しあぐねて

女性は、茨城県を中心に戦没者の慰霊顕彰活動を行う任意団体「ENISHIWORK(エニシワーク)」の代表を務める石田和美さん(47)。インターネットで資料収集中、偶然に目に留めた「陣中占ひ」を入手した。縦長の紙製小箱には筮竹(ぜいちく)を構えた易者(えきしゃ)のイラストが描かれ、日の丸のような図案をはさんで左から右へ「ひ占中陣」の文字がある。

これさえ有れば陣中の大易者ーと遊び方の説明がある「陣中占ひ」の外箱

小箱の中には、色刷りの絵札5枚とモノクロの文字札25枚が入っていた。絵札には穴あきの小窓が複数箇所にあり、文字札には全体として意味をなさない縦組みの文字列が印刷されていた。文字組といい絵柄といい、ほぼ戦前のものに違いないが、転売を経て入手した出品者は元の出どころがわからないという。

「陣中占ひ」でネット検索してもヒットはせず、各地の戦争資料館やおもちゃミュージアムなどに問い合わせても関係資料は残っていない。立命館大学国際平和ミュージアム(京都市)が現物を所蔵していたが、聞き取りをした戦争体験者から受け取った学芸員によれば「慰問袋に入っていた」という話だった。

戦前、1937(昭和12)年ごろ、日本玩具統制協会がおもちゃに合格証を与える登録制度を設けており、「断易」ということばから、1940(同15)年ごろに作られたという見方が出来たものの、制作者や発行元までは突き止められなかった。

戦争の要素一切なく

その遊び方ー。25枚の文字札から1枚を選んで上に5枚の絵札を順番に乗せていく。すると絵札の穴あき部分から下の文字列が現われる仕掛けになっていて、運勢、願望、待人、縁談、身の上の展望を読み取れる。

「金銭入り易き日なりむだせぬ様心掛けべし」(運勢)、「女には吉なれども男には凶となるべき縁」(縁談)等々。「陣中」とあっても、「占い」に戦争の要素は一切ない。箱には「兵隊さんのマスコット」とあった。

入手した石田さんは「すごい。面白い。至極の極みだと感動を通り越し、すっかりほれ込んでしまった」そう。普及に向けて復刻版を制作しようと、一昨年から権利関係の調査を始めたが素性は分からず仕舞い。商標権、著作権の扱いについて弁護士と相談するなどして、作業を進めた。

世代つなぐコミュニケーションツール

石田さんは重巡洋艦「羽黒」の副長を務めていた大叔父が1945(昭和20)年5月16日のペナン沖海戦で撃沈され、艦と運命を共にしたと聞かされ育った。戦後30年たち生まれた「戦後30年世代がつなぐ慰霊顕彰活動」を掲げ、同世代の仲間らと軍関係者や遺族に話を聞くなどの体験を共有し、軍跡ガイドや慰霊祭ボランティアを務めてきた。

その活動の中、復刻版「陣中占ひ」を制作した。昨年2月、ENISHIWORK名義で商標登録を行い、販売を開始した。絵札は絵柄をそのままに彩色のトーンを変え、文字札はフォントを見やすくしたが、旧仮名遣い、文語調は原典のままにした。

左から右への文字組みを含め、今の若い人に見せても「苦情あるべし」とか「来ることかなはず」とかの言い回しが伝わらないことにもどかしさを感じている。石田さんは普及活動を通じ、「伝えていくことの意味を感じるコミュニケーションツールにしていきたい」というのだ。

「戦後80年、占いを作った人も、慰問袋に詰めた家族も、遊んだ兵隊さんも多くが亡くなって、記録ばかりか記憶まで消えかかっている。私たち世代が伝えることで、昔の漢字を読めない若い人たちにも忘れられないようにしたい」と石田さん。「陣中占ひ」について「ご存じのことがあれば、ぜひ連絡をしてほしい」と呼び掛けている。(相澤冬樹)

◆制作した復刻版「陣中占ひ」はオンライン販売のほか、予科練平和記念館(阿見町)、筑波海軍航空隊記念館(笠間市)、鹿島海軍航空隊跡地(美浦村)の各ミュージアムショップで取り扱い中。価格は4400円(税込み)。今年になってお守りとして携帯できるクリアカード製のバージョンも制作した。同2200円。販売サイトはこちら。問い合わせは電話080-1018-1124(ENISHIWORK事務局)へ。

アンパンマンはなぜ生まれたか《邑から日本を見る》185

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講演する梯久美子さん=茨城県農協中央会の萩谷茂さんの提供

【コラム・先﨑千尋】NHKテレビの朝ドラ「あんぱん」を見ている。モデルは「アンパンマン」の原作者やなせたかしとその妻 暢(のぶ)。子どもたちに圧倒的な人気の漫画「アンパンマン」が誕生するまでを描いている。2人の出会いは、史実では戦後「高知新聞」に入社した時だが、ドラマでは幼なじみになっているなど、違いはある。しかし、たかしの軍隊での生活や戦中・戦後の民衆の暮らしなどが丁寧に描かれ、興味深く見ている。結末がどうなるのかが楽しみだ。

私は7月4日、東京で開かれた農協協会主催の農協人文化賞表彰式の際、やなせたかしの下で働いていた梯(かけはし)久美子さんの講演を聞いた。同賞は農協の発展に貢献した「隠れた功績者」に贈られる。以下は講演記録から。

梯さんは最近、『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』(文春文庫)を出版し、やなせの一生を振り返っている。講演では、自身とやなせたかしとの出会いから話し始めた。

梯さんは中学生の時、やなせの詩集『愛する歌』に感動して詩を書き始めた。大学生になると、投稿した詩が、やなせが編集長を務める『詩とメルヘン』に掲載される。卒業後は同誌を発行するサンリオに入社し、1年後に同誌編集部に配属され、やなせの下で働くことになった。やなせは「とにかくいい人で、怒る、叱る、大声を出すのを見たことがない」と当時を振り返る。

やなせがアンパンマンを生み出した1960年代末から70年代には、スーパーマン、ウルトラマンをはじめ「武器を持って悪と戦うヒーロー」が活躍し、人気を博していた。「(やなせ)先生はそうしたヒーローにちょっと疑問があった。戦うヒーローへのアンチテーゼとしてアンパンマンが生まれた」と梯さんは語った。

食べ物を分けてあげる正義

やなせは1941年に徴兵され、44年には台湾の向かいの福州に上陸し、駐屯。その後上海に移動したが、食料不足から兵士たちはどんどん痩せ、命を落とす者もあった。

戦前に「正義」と考えてきたものが戦後に逆転した。「この世の中に正義はないのか。本当の正義ってなんだろう。ずっと考え続け、やなせがたどり着いたのが『目の前におなかがすいている人がいたら、自分の食べ物を半分わけてあげる。それが最低限の正義ではないか』ということだった」。武器で敵と戦うのではなく、食べ物を分け与える正義というやなせの考えは、長い時を経て熟成し、アンパンマンに結実する。

梯さんは最後に「アンパンマンは1972年にでき、88年にアニメになって、それからずっと子供たちの人気が途切れなかった。その理由は、食といのちの関係、人間の善意。それが子供たちに伝わるからだと思う。戦争は人を殺すことだが、食べ物を分け与えることはいのちを生かすこと、いのちを応援することだ」と話し、アンパンマンが伝える「食」と「いのち」の尊さを私たちに問いかけた。(元瓜連町長)

つくば市長「外国人と共生のメッセージ出し続けたい」【参院選を振り返る】㊦

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五十嵐立青つくば市長

参院選で「日本人ファースト」や外国人規制強化を掲げた参政党が支持を伸ばし、つくば市でも、県内で最も多い3万人以上が同党候補に投票した。つくば市における今後の外国人施策について、五十嵐立青市長は7日の定例会見で「今回の選挙結果によって市の方針に変更はない。つくばは外国人の皆さんと共生していくというメッセージを出し続けていきたい」と見解を述べた。

分断・排除あおる言葉に危機感

今回の参院選では外国人政策が争点化され、参政党のほか、自民、公明、国民民主なども外国人への規制強化を打ち出した。さらに選挙戦を通じて「外国人の犯罪増加」や「生活保護の3分の1が外国人」といった、事実と異なる情報が拡散された。

これに対し市長は、国が外国人に対する包括的な共生施策を持たず、「曖昧なまま全てが自治体に任されてきた」と現状を指摘。「多くの自治体の首長は、自治体任せになっている外国人施策について非常に強い課題感を持っている」とし、「全国市長会などでも、これから議論されるべき問題」だと述べた。また、事実に基づかない情報の拡散については「市内の外国人犯罪は全国平均や過去と比べて急増しておらず、日本人・外国人ともに安全に暮らせる状態は維持されている」「分断や排除をあおる言葉が飛び交う状況に強い危機感を覚えている」とし、「つくば市は常に共生を目指し続ける」とした。

正しくメッセージを伝えていく

外国人排斥への不安が市民の間に広がることについては「現時点でつくば市民の中で外国人問題に関して激しい対立がすでに起きているという認識には立っていない」と話し、「(参政党への)投票行動が必ずしも外国人排除目的とは限らない」とも述べた。その上で「さまざまな不満や不安の声をきちんと聞くことは行政として重要なこと。今後もつくば市では、日本人、外国人を問わず、実際に困難な状況にある人に必要な施策を打っていく」とした上で、「つくばは(外国籍市民との)共生を続けるという安心感のあるメッセージを発信する」と強調し、「さらに分断が拡大するような方向にいかないように、正しくメッセージを伝えていくことが重要」と述べた。

市では今後、来日して間もない外国籍児童を対象に、日本の学校生活や習慣、言語を事前に学べる「プレスクール事業」を新たに開始するなど、外国籍市民への生活支援を拡充する方針を示した。

つくば市には2023年12月1日現在、市全体の人口の約4.9%にあたる、144カ国1万2663人の外国人市民が暮らしている。居住する外国人の数は県内で最も多い。市では2016年に、すべての人にとって住みやすいグローバル都市の実現を目的とした国際化施策のガイドライン「つくば市国際化基本指針」を策定。23年5月には、増加傾向にある外国籍市民の多様化を受け、必要とされる生活支援策など変化する状況に対応するため、「第2次つくば市グローバル化基本指針」を策定した。指針の第1段階では「日本人市民・外国人市民それぞれが安全に安心して暮らすことができる状態」をつくることを皮切りに、32年までの10年間で「外国人・日本人の区別なく、すべての人にとって住みやすいグローバル都市」をつくることを掲げている。(柴田大輔)

➡参院選を振り返る㊤「日本人って何だろう? つくばで生きる中国出身女性の思い」はこちら

終わり

竹園高学級増で県の高校審に期待《竹林亭日乗》31

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学園洞下団地から見た筑波山(写真は筆者)

【コラム・片岡英明】7月28日の県教育長の定例会見で竹園高校学級増に注目していたが、発表はなかった。残念である。10月末の県立高校入試の実施細則発表時に期待したい。

このままつくばエリアでの定員増がないと、2018年の高校審議会を受け2019年の高校改革プランで決めた流れに滞りが生じる。つまり、改革プランで2019年~26年につくばエリアの中卒生が440人増に、本来なら県立高平均収容率68%に合わせて7学級増とするところを、県は控えめに2学級増としたが、その学級増の課題を積み残すことになる。

竹園高の学級増に触れない会見が信じられず、翌29日に県に出向き、会見資料を確認すると、県立高定員の項目はなかった。ならば、私たちの学級増要望(7月5日付記事)に対する「検討する」との言葉はどうなったのかと、高校改革推進室を訪問した。係の方と話をすると、意見書・要望書などは多くの方に共有されていた。しかし、まだ改善を決断するに至らず、このままではつくばエリアの改革プランの積み残しが生まれることが分かった。

受験生・保護者の声を聞いて!

この状況の中で同日、2027年~33年の県立高配置などを検討する新たな高校審議会が開かれた。早速、この高校審議会第1回総会を傍聴した。

審議会の参考資料のエリア別中学校卒業見込に注目した。全県的な人口減のなかで、つくばエリアは人口・生徒増という事態が起きている。資料から、県立高には生徒減・魅力アップ対策と共に、つくばエリアの子ども増を受けとめ、県の発展にどう生かすかというテーマが存在することが分かった。

前回の審議会スタート時の2018年と今回の検討期間の最終年2033年の中卒生を比較すると、全県では5895人(2万7455人→2万1560人)減少するが、つくばエリアは650人(3969人→4619人)増加する。これに県立高収容率の68%を掛けると、つくばエリアは442人の定員増(40人学級として11学級増)が必要となる。

しかし、つくばエリアの現実はどうか? 改革プラン実施後の市立中学生の高校入学枠は増加せずに53学級のままで、つくば市の市内県立高入学は6人に1人である。受験生や保護者は高校受験や入学後の通学に悩んでいる。

現高校改革プランは未完成

難しい面があることも分かるが、公教育としてつくばの生徒にも基本的に県平均水準の教育条件となるよう、県には努力をお願いしたい。今回の審議会では、生徒減・県立高魅力アップ対策とともに、前回の審議会答申に基づく高校改革プランの積み残しがあることを認識され、その解消と共に生徒・保護者に希望を与える答申をお願いしたい。(元高校教師、つくば市の小中学生の高校進学を考える会代表)

日本人って何だろう? つくばで生きる中国出身者の思い【参院選を振り返る】㊤

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ナターシャさん

7月20日に投開票が行われた参院選では、「日本人ファースト」を掲げ、外国人への規制強化を主張する参政党が大きく議席を伸ばした。つくば市で育ち、2021年に日本国籍を取得した中国出身のナターシャさん=仮名=(36)が「日本人ファースト」と聞いて思い起こしたのは、「一等、二等と国民を差別した日本の植民地支配。気持ち悪いと思ったし、自分が社会から除外されていくようで怖くなった。つくばでもその主張が広がっていることにショックを受けている」と語る。

参院選の結果、県内では参政党から出馬した桜井翔子氏が現職を破り、初当選を果たした。つくば市で桜井氏は、県内の全市町村で最も多い3万723票を獲得した。比例で同党はつくば市で、自民、国民民主に次ぐ約1万6000票を得た。8月3日、櫻井氏は当選後初の街頭演説をつくば駅前で開いた。集まった100人余りの聴衆に配布されたチラシには、同党が掲げる「日本人ファースト」が記され、「外国人優遇」に反対する主張が裏一面いっぱいに書かれていた。

怖くなった

ナターシャさんは4歳で訪日し、中国出身の両親と6歳からつくば市で暮らしてきた。つくばはナターシャさんにとって、慣れ親しんだ「地元」だ。特にさまざまな地域出身の外国人など多様な人が行き交う学園地区は「居心地がいいし、安心感を覚える街」だという。

幼い頃から周囲との違いを意識してきた。地域の公立校に通った幼少期は、自分の出自を「恥ずかしい」と感じ、人前では中国語を話さないようにした時期もあった。学校では、周囲に馴染もうと努力した。

意識が変わったのは大学時代。留学先の米国で政治に関心を持ち、自分の意見を主張する多様な友人たちと出会った。「自分がモヤモヤしていることを口に出していいんだ」と気付き、帰国後はSNSなどで自分の気持ちを表現するようになった。

インタビューに答えるナターシャさん

投票権がないのは嫌

選挙権を意識し始めたのもその頃だ。大学の途中までは「自分に選挙権がないのは残念だけど、しょうがない」と諦めていた。だが学びを深める中で「日本で育ってきたのに選挙権がないのは、すごく嫌だ」と感じるようになった。選挙に参加することは、帰化を決めた理由の一つになった。

初めての投票は、帰化した2021年に行われた衆院選だった。マイノリティーであることから孤独を感じることもあったというナターシャさんは、「自分の一票が生かされたり、自分と似た考えを持つ人がこんなにいると知ることができたことが、すごくうれしかった」と振り返る。

もはや通じない

今回、2025年の参院選では「外国人が優遇されている」など事実に基づかない主張が広がった。専門家の反論が報じられても、誤った情報は拡散され続けた。

「今回の選挙は『デマを言ってもいい』という承認が与えられたようで、すごく怖い。根拠を示して話しても、もはや通じない。どうしたらいいのか分からない」

性的マイノリティの当事者でもあるナターシャさんは、参政党が主張する「日本人ファースト」や、女性の価値を出産できるかどうかに置くような主張に対し、「私は移民だし、クイア(すべての性的マイノリティーを広く包み込む概念)の当事者でもある。彼らの主張は自分に向けられているようで、ショックだった」と話す。

スケープゴートの構造

日本で育ち、国籍を取得した今、ナターシャさんが考えるのは「じゃあ日本人って何?」という問いだ。「書類上は日本人だけど、日本人らしいって何だろう。例えば、私の名前は全部カタカナで日本人らしくない。『日本人ファースト』が進めば、どんどん排除されていくかもしれない。性的マイノリティの人も同じ」

外国人への差別的な空気は、以前から感じていた。職場で、押し寄せる中国人観光客の報道を見た上司が「また中国人が」と口にしたり、外国人の従業員が集まっているのを見て「なんで集まってんの?怖い」と話したりする同僚がいた。「切り取られた情報がメディアを通じて流れていた。偏った情報が積み重なり、そういう発言をしていい雰囲気が出来上がってきた」と感じている。

日常の中でも無言の圧力を感じているという。バスや電車で、どんなに空いていても優先席に座らない外国人の友人は少なくない。「わずかでも違和感を持たれたくないから、『正しい移民』になろうとしている。みんな普通に生活しているだけなのに、模範的でなければならないと強く感じている」

さらに「排除されるのは移民だけの話ではなく、マイノリティー全般に共通することだと思う」とし「生活が苦しくなる責任を少数者に押し付けるスケープゴートの構造がある」と指摘する。「差別してはいけないということは、教科書でも習うこと。それが選挙を通じて、『レイシストでもいい』と承認され、一般化されてしまった。それまでは心の中で思っても口に出さなかったはずなのに、誰でも言っていいことだと思うようになる」

つくばの良さは多様性

つくばの良さは「自分のような人がたくさんいる」と思える安心感だという。

「ルーツの違う人がいない環境だと、『日本人』のフリをしなきゃいけない。私は周りにめちゃめちゃ合わせてしまうから、本当に疲れる。多様な人がいる場所のほうが、安心して暮らせる。全体主義的な空気が広がっているのを感じているが、長い目で見れば必ず良い方向に向かうはず。今は、自分ができることをやるしかない」と語った。(柴田大輔)

続く

筑波大生が夏休みの宿題を応援 「アドバイスもらい勉強になった」

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学生からアドバイスを受けながら課題に取り組む吉本花道さん(中央)

つくば スタジオ’S

夏休み中の小学生が、筑波大で芸術を学ぶ大学生らと一緒に絵画や書道に取り組む企画「夏休み宿題応援inつくば」が9日、つくば市二の宮のギャラリー「スタジオ’S」で開かれた。ギャラリーを運営する関彰商事と筑波大によるイベントで、この日は午前9時半と11時から書道教室、午後1時と3時に絵画教室が開かれ、つくば市や近隣地域から約60人が参加した。

午後1時から始まった絵画教室には16人の小学生が参加し、それぞれが夏休み中に取り組む「防犯」「交通安全」「人権啓発」「環境問題」などのポスターコンクールに出展する作品を持ち寄った。五つのテーブルに分かれた参加者に大学生らが「もっと空を大きく描いてもいいんじゃない?」「最初は人のまねから入ってもいいんだよ」などアドバイスを送ると、子どもたちはうなずきながらパレットの水彩絵の具で思い思いに絵を描いていく。

午後1時からの「絵画」の回には16人の小学生が参加した

「普段からキャラクターなどのイラストを描くのが好き」だと話す、かすみがうら市から参加した小学5年の吉本花道さん(11)は、霞ケ浦の水質をテーマにしたポスターを描いた。「空のグラデーションをどう描くかアドバイスをもらった。とてもわかりやすかった。この経験を生かしていきたい」と語った。つくばみらい市から参加した小学5年の伊藤遥玲さん(10)は「『中心に意識を向けられるように、背景は目立たないように描くといい』と(学生から)アドバイスを受けたのがとても勉強になった」と遠近感を意識しながら交通安全のポスターを描くと、「人の絵を描くのが好き。教えてもらったことを生かして、これからもたくさん絵を描いていきたい」と笑顔を浮かべた。遥玲さんと参加した父親の伊藤睦展さんは「せっかくの夏休みだが、暑くて外で遊ばせられない日が続いていた。娘はものを作るのが好きなので、楽しんでもらえてよかった」と話した。

講師を務めた筑波大大学院1年の大関睦実さんは「子どもたちは、空は青など、一つの色だけで塗りがちだったので、『いろんな色を混ぜると同じ青でも、いろいろな色ができるよ』など、アドバイスをした。大学では日本画を専攻している。子どもたちの様子を見ていると、自分が小さい頃に絵を描いていた記憶が蘇ってくる。今回の体験を通じて、絵画に関心を持ってもらえたら」と語った。

スタジオ’Sの企画を担当する関彰商事の浅野恵さんは「『夏休みの宿題応援』は、2018年から始まった企画。夏休みの宿題というと、なんとなく気が重くなることもあるかもしれない。ここでは芸術を専門とする学生から直接やさしく教えてもらえる。他の参加者と楽しく宿題に取り組みながら、夏の思い出を作っていただけたら」と思いを話した。(柴田大輔)

持ち味はミルキーな甘い香気 ナシ新品種お披露目

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新品種「蒼月」の原木でナシを手に取る髙田教臣グループ長=農研機構果樹茶業研究部門

農研機構育成

炎天下のナシ園、樹齢17年の原木がたわわな実をつけている。農研機構果樹茶業研究部門(つくば市藤本)で育成された極早生の青ナシだ。苗木になっての市場デビューを来年に見据え、「蒼月(そうげつ)」の名をもらって、5日、報道関係者にお披露目された。

「蒼月」は果実重370グラム程度、主力ナシの「幸水」とほぼ同じ大きさで、極早生品種としては大きい果実といえる。「幸水」より果肉が軟らかく、糖度と酸味はほぼ同程度で、ミルキーな甘い香りと優れた食味を備えている。香りを特色とする二ホンナシは珍しい。

農研機構が極早生で果実品質良好な青ナシ品種の育成を目的として、育成に取り組んだのは2007年。早生の青ナシの「なつしずく」に極早生の赤ナシの「はつまる」を交雑して得られた実生から選抜して、つくばのナシ園に植えた。

15年からは全国35カ所の公立研究機関での特性検討に入った。21年に農林水産省に品種登録申請出願、今年3月に種苗法に基づき「蒼月」として品種登録された。

ミルキーな香りの青ナシ「蒼月」

消費者の口まであと10年

ニホンナシは果面のコルク層が発達する赤ナシと、発達しにくい青ナシに大別される。2022年時点で国内栽培の90%以上が赤ナシで、青ナシ品種としては「二十世紀」が知られる程度。収穫時期は中生で、労力分散の観点から熟期の異なる新品種の育成が求められていた。

ニホンナシの需要は7月下旬から8月中旬にかけて高まるが、その時期に露地栽培で収穫できる主力の品種は見当たらず、早生の「幸水」で対応する場合、多くの産地でトンネル栽培を必要とするため、資材費や被覆労力の負担が課題となっていた。このため露地栽培でも8月上旬に収穫可能な極早生品種の育成が求められた。

ナシの主産地の1つである本県でも、温暖化のせいで、収穫・販売できる時期は年々早まってきたが、書き入れのお盆前の出荷は難しかった。逆に西日本では「幸水」に花芽不良がみられるようになって、「蒼月」は温暖化耐性品種ではないものの栽培転換の有力候補になりそうだ。

育成地のつくば市における「蒼月」の開花期は「幸水」と同時期だが、成熟は約20日早く、7月下旬から8月上旬に収穫可能な、早生の「幸水」より20日程度早く収穫できる極早生の品種といえる。また促成栽培が不要なため、導入すれば資材費や被覆労力の軽減が期待できる。

原木から採られた苗木は、今後許諾契約を締結した果樹苗木業者から販売される予定。2026年秋以降の販売開始を目指す。研究担当者の果樹茶業研究部門、髙田教臣落葉果樹品種育成グループ長によれば「苗木からは3年程度で実を採れるが、まずは産地の産直店あたりで扱われることに。一般の消費者に口に入るまでには10年ほどかかるだろう」と見通している。(相澤冬樹)

バイオものづくり研究棟開所 産総研つくばセンター

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開所式であいさつするバイオものづくり研究センターの油谷幸代センター長=産総研つくばセンター

研究から実装まで一体

産業技術総合研究所(産総研)は5日、つくば市東の産総研つくばセンター内に整備した「バイオものづくり研究棟」の開所式を行った。産総研の総合力を生かし、研究開発から社会実装までを一体的に進める産学官連携の拠点として活用するという。

バイオものづくりは、微生物からつくる物質の生産を増やしたり、新しい物質の生産に遺伝子技術を利用するテクノロジーで、国が推進するバイオエコノミー戦略の中核に位置付けられる。開所式には経産省や産業界、自治体などの関係者を集めた。

北海道との2拠点で

研究棟は同センター中央事業所6群にあった既存の地上2階建て2棟を改装し、3月までに完成させた。企業が占有して使用できる居室と実験室を4セット整備した。すでにコニカミノルタ(本社・東京)が研究ラボを設けたほか、企業や大学など多様な研究者が集い、活発な議論ができるようオープンなコミュニケーションスペースが複数設置された。分析機器室には微生物培養リアクタ―装置や質量分析装置などが設置されている。

バイオものづくり研究棟に設置された微生物培養装置

産総研では4月に、これまでの微生物や植物を利用したバイオものづくり研究を集約化し、北海道札幌市の拠点と結び、バイオものづくり研究センター(油谷幸代センター長)を発足させている。10の研究チームに約70人の研究員が所属している。

北海道センターには、バイオリソース解析プラットフォームが設けられている。国内最高速レベルのゲノム解析用クラスタマシンや各種分析装置などを保有しており、つくばのバイオ拠点と連携することで、圧倒的な速さと精度でゲノムやDNA、遺伝子発現情報の解析を実現できるという。これらの迅速で正確な情報解析によって、最終的にバイオ製品のコスト削減への寄与などが期待される。

産総研の総合力を生かした研究開発の社会実装までの取り組みについて、生命工学領域の千葉靖典領域長が示したのは、微細藻類のミドリムシからつくる高性能の接着剤開発の例。この接着剤には、石油由来の代表的な自動車構造材用接着剤であるエポキシ系接着剤に匹敵する接着強度があり、他のバイオベース接着剤の接着強度も上回ることが突き止められた。

従来の構造材用接着剤は、接着力が高い反面、解体が容易でない短所もあった。ところがミドリムシ接着剤で接着したアルミニウム板は加熱により容易に解体できる特質をもつ。この易解体性により使用済み自動車の解体や部品の再利用が簡略化できる。さらにミドリムシは二酸化炭素や糖を栄養源にしていることから、カーボンリサイクルの面でも貢献ができるとされ研究開発が進められている。

産総研の量子・AI 融合技術ビジネス開発グローバル研究センター(GQuAT)、AI 橋渡しクラウド(ABCI)、マテリアル・プロセスイノベーション(MPI)プラットフォーム、計量標準総合センター、知財・標準化推進部などとの協働によって産総研の総合力を生かした革新的な次世代バイオものづくり技術の開発と実証、バイオものづくり製品の評価方法に関する標準化・認証スキームの整備などを目指すとしている。(相澤冬樹)

何を批判したか《続・気軽にSOS》163

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【コラム・浅井和幸】参議院選挙は、盛り上がったでしょうか。いつもと同じだったでしょうか。それとも、いつもより関係のないイベントだったでしょうか。私は転換期を推測できるような盛り上がりがあったと感じています。

まあ、梅雨入り・梅雨明けが判定されるのは秋頃になるのと同じように、今回の選挙戦が本当に転換期なのかどうかは、10年後にならなければ分からないかもしれません。けれど、間違いなく私個人は盛り上がっていました。どちらが勝つか負けるかではなく、今回の選挙を取り巻く人たちがどのような心の動きをしたかという観点で、です。

自分や自分の仲間が不利益を得ているのではないか、排除されるのではないかという怖さから、差別するなと声を大きくする場面は、この選挙中に新聞やテレビ、SNSなどで多く見られたのではないでしょうか。もしこれが防衛機制で言う投影だとすると、排除される怖さではなく、自分の中にある排除したいという気持ちを、相手への批判につなげることで自己防衛をしているのかもしれません。

そうです。学校の保健体育で習ったであろう防衛機制で、この盛り上がりを見るという楽しみ方を私はしていました。インターネットで防衛機制を検索してみてください。面白いですよ。ただ、ちょっとした楽しみ程度にしないと、人の言動を、自分を守っているからそうしてるんだろうと論破したくなり、はてはケンカになり誰も得をしないので、そこそこにしたほうがよいのは頭に入れておいてください。

他の心理学的な概念も同じです。マウントをとるために使ってもしこりが残るだけなので、楽しみに使うか、相手と仲良く調和していくために使うことをおすすめします。

話は選挙に戻して、耳にしたくない、受け入れがたい言動に対して「否認」をし、相手の言動を邪魔するために「行動化」をする。自分の応援する対象を「理想化」し、選挙運動をすることにより日常でのストレス対処として「置き換え」をする、などなど。

過剰な防衛機制は目標達成を困難にしたり、人間関係を悪化させたりするので注意が必要です。しかし防衛機制の中で、成熟した防衛機制、ポジティブな建設的な方法があるとされています。それは、「ユーモア」や「利他主義」などです。「昇華」もその一つで、イライラや苦しい体験などをスポーツや芸術をすることで、より社会的に認められることで自己実現に向かうというものです。

今回の選挙で盛り上がって興奮冷めやらぬならば、批判や悪い行動化ではなく、敵と思える人ですら和して、社会的に認められるような振る舞いとは何かを考えてみるとよいでしょう。さらには、存在するもの全てが支え合えるような社会は何かを夢見てみるのも楽しいかもしれません。人には器というものがあります。抱えきれぬものを抱えすぎて苦しみ、自分を見失わないようにしてくださいね。(精神保健福祉士)