金曜日, 4月 26, 2024
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戦後73年の記憶 -検索結果

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【戦後73年の記憶】6 顔知らぬ文通相手 突然帰らぬ人に 横田晴子さん(91)

【鈴木宏子】つくば市の横田晴子さん(91)は、太平洋戦争が始まった1941(昭和16)年、旧水海道高等女学校に入学した。4年生のとき、水戸陸軍病院に入院していた友達のお兄さんに俳句を添えて慰問の手紙を書いた。女学生からの手紙だと評判になり、病室で皆が回し読みしたという。 しばらくして手紙を読んだ一人の男性から返事が届いた。埼玉県杉戸町出身の古河地方航空機乗員養成所の教官で、盲腸のため入院していた。すぐに退院したが、その後も文通は続き、横田さんはその都度、俳句を添えた返事を送った。 学校の全校作業の日だった。生徒全員が校庭に出て草取りやごみ拾いなどの作業をしていたとき、下妻の方から飛行機が飛んできた。校庭の上空を何度か旋回し、だんだんと低空飛行になって斜めになり、窓から白いハンカチを振り飛び去った。校庭にいた女学生たちはわあわあと大騒ぎになった。 後日、文通相手から手紙が届いた。「計器測量のため下妻まで行きました。皆さんの姿が豆粒みたいに見えたので、水海道に行きました」と記してあった。学校の上空を旋回しハンカチを振ったのは文通相手だったのだ。「この手紙が最後になるかもしれません」とも書かれていた。 しばらくたって文通相手の妹から手紙がきた。「兄によく手紙がきていた方なのでお知らせします。兄は九州から飛び立ち、帰らぬ人となりました」という内容だった。特攻隊に志願したのだという。顔も知らず会ったこともない相手だった。特攻隊に志願した話は妹からの手紙を見るまで知らなかった。 1944(昭和19)年に女学校を卒業。先生から代用教員になることを勧められたが、子供たちに教えるより工場で働いた方が役に立てると、挺身隊に入り、守谷町(当時)の海老原軍需工場で働いた。飛行機の補助翼などをつくる職場で、部品に打ち込む、焼いて熱くしたくぎを運ぶ係だった。 工場から徒歩10分くらいの距離にある長龍寺が挺身隊の寮となった。杉山に囲まれた寺で、寺は寝るだけ。朝昼晩の食事は工場の食堂でとった。 3食すいとん汁だった。2、3㌢くらいの大きさのうどん粉を丸めた団子が三つか四つ入っているだけ。若かったので辛かった。自宅通勤の友達が「毎日すいとん汁では辛かろう」とふかしたサツマイモを新聞紙にくるんで持ってきてくれたことがあった。昼にごちそうになり、その時食べたイモは最高においしかった。 終戦で挺身隊は解散。戦後は土浦の奥井裁縫所に1年間住み込み裁縫などを習った。姉4人、兄1人の6人きょうだいの末っ子。習い事のため東京に出ていた姉は食糧難で満足に食べられなかったが、土浦の横田さんの住み込み先には、兄が月1回、自転車でコメを運んでくれた。 「大変な時代だった」と話す。=終わり

【戦後73年の記憶】5 谷底に消えた戦友、凍死、餓死の光景まぶたから離れない 大澤彌太郎さん(99)

【谷島英里子】「ジャワは極楽、ビルマは地獄、死んでも帰れぬニューギニア」と言われた東部ニューギニア戦線。「あと1週間遅かったら、第2玉砕命令が出て生きては帰れなかっただろう」と遠くを見つめる。 1919(大正8)年、土浦に生まれた大澤弥太郎さん(99)。旧制県立水戸商業高校を卒業後、家業の文具店を継いだ。39年、徴兵検査に合格し宇都宮の師団に入営、下士官となる。やがて満州へ出征し、その後東部ニューギニアへ渡った。「軍からの命令だけで、この地では地図もない、大砲も弾薬もなく、食糧さえも敵地から調達しろというもので、どうやって戦ったらいいのかわからない状態だった」。 43年8月、第51師団長中野英光中将から玉砕命令が出た。全員自滅するということだ。もはや生きては帰れないと考えた。しかし、これが転進命令に変わった。周りを敵地に囲まれているため、敵のいない方へ退却する。この退却がまた試練の始まりだった。 それは現地の住民でも登らない標高4000㍍を超えるサラワケット山を越えるもの。ジャングルを越えると長野県の日本アルプスのように険しい山が立ちふさがる。濁流が流れる川では工兵が木を切り倒し川に橋をかけ、岩肌の道なき道では工兵が先に垂らしたロープを頼りに進んでゆく。一歩間違えば深い谷底に落ちてしまう。大澤さんは目頭を押さえながら「山頂寸前の絶壁で力尽き谷底へ消えていった戦友、凍死、餓死、その光景はまぶたから離れない。そこはまさに地獄でした」と声を震わせた。 野宿を繰り返すうちに悪性のマラリアを患い毎日40度を超える熱にうなされた。このままでは生きては帰れないと考えた。軍医に責任を取れないと断られたが、無理に頼み静脈注射をすることで幸運にも生き延びた。1カ月の山越えで1000人以上の兵隊が息途絶えたという。険しい山で、軍支給の地下足袋はたった2日で底が抜けた。亡くなった戦友に手を合わせ靴を履き替えたこともあった。生きていくために必死で、食べ物はサゴヤシの根本を鉄板で焼いたりして餓えをしのいだ。口に入るものなら何でも食べた。 45年8月15日、2回目の玉砕命令が出たこの日、米軍飛行機がまいたビラで終戦を知り、思わず「万歳」とかみしめたという。 大澤さんは靖国神社で毎年7月に開催される戦没者慰霊行事「みたままつり」に参加し、30年間お参りを続けている。戦後70年余りを過ぎて戦争を知らない子どもや、大人が増えてゆくなか、2017年に戦争体験やその後の人生を記した本『東部ニューギニア戦の我が半生』を自費出版した。「私は幸いにも日本に帰還できたのだから、戦争の過酷さと愚かさ、そして、戦友たちの無念さを後世に伝えていかなければ」と語気を強める。

【戦後73年の記憶】4 号令に合わせひたすらアルミ板たたいた 栗栖恵子さん(86)

【鈴木宏子】土浦市の元中学校教員、栗栖恵子さん(86)は、80歳を過ぎてから母校の土浦二高に年1回赴き、後輩たちに戦争体験を伝えている。 栗栖さんは東京大空襲が激しさを増した1945(昭和20)年3月10日過ぎ、自宅があった東京から、父の実家がある土浦に逃れてきた。女子聖学院1年生で13歳だった。 家族は父母ときょうだい4人。小学6年の弟と3年の妹は群馬県伊香保に集団疎開した。土浦には5歳の妹が一足先早く来ていた。両親は東京に残り、家族は3カ所に分かれて戦時下を生きた。 土浦高等女学校(現在の土浦二高)に転校した。運動場はすべて畑になっていて勉強した記憶は一切ない。食糧増産のため毎日、虫掛などの農家に手伝いに行った。 しばらくして右籾の第1海軍航空廠(軍需工場)に勤労動員された。飛行機のどの部品を作っているのか分からなかったが、日の丸の鉢巻きを締め、工員の号令に合わせてひたすらハンマーでアルミ板を成型する作業をした。一の号令で腕を振り上げ、二でひじを曲げ、三でアルミ板をたたいた。 女学生や土浦中学(現在の土浦一高)の生徒が、街中から航空廠まで砂利道を歩いて通った。遠いので通うのが大変だろうと、土浦中学に機械を移し学校工場とすることになった。初出勤の8月15日、門をくぐると「正午に重大な発表がありますので帰宅してラジオを聞いて下さい」という貼り紙があり、帰宅し玉音放送を聞いた。 敗戦により、カメラマンとして宮内省(現在の宮内庁)に勤務していた父は職を失い、伊香保に学童疎開していた弟と妹も帰ってきた。ばらばらだった家族6人は戦後、土浦でやっと一緒になった。 伊香保から戻った弟と妹はシラミがひどくて、床屋に連れていかれ丸坊主になった。母は2人の衣服を釜でゆでシラミを殺した。疎開先では栗やドングリを食べていたという。2人が持ち帰ったノートには食べ物の絵ばかりが描かれていた。 女学校を卒業後、アルバイトをしながら茨城大学で学び、教壇に立った。父が職を失ったことから、当時もらった奨学金はすべて家に入れた。 現役を退き80歳になったころ、女学校の同窓会で戦争体験が話題に上るようになった。勤労動員された航空廠で空襲警報が鳴り、防空壕に逃げる途中、転んで米軍機に機銃掃射されそうになった話や、目の前で爆弾が爆発した話などだ。航空廠ではたびたび空襲警報が鳴った。栗栖さんは、自分は足が遅くて逃げられないと、いつも工場の中に隠れていた。同級生たちの辛かった体験を80歳になって初めて聞いた。 母校に赴き、戦争体験を後輩たちに話すようになったのはそれからだ。「勉強して、部活動をして、家に帰ると食べ物がある生活が当たり前でない時代があった。それが出来なかったのが戦争」と話す。

【戦後73年の記憶】3 目に焼き付く引き揚げ体験を仲間と英訳 木村真理子さん(81)

【大志万容子】つくば市の木村真理子さん(81)は2歳のとき、満州電信電話(当時)に勤める父の赴任で旧満州東部(中国東北部)の牡丹江省に渡った。家族5人の穏やかな暮らしは、1945(昭和20)年8月9日、ソ連軍が国境を越えたことで一変した。持てるだけの荷物を持ち、牡丹江駅から列車に乗り込み、日本を目指した。 敗戦を迎え奉天(現在の瀋陽市)の避難所にたどり着いたが、2歳の弟が肺炎で亡くなった。遺体を囲んで泣いている部屋に銃を持ったソ連兵が押し入ってきた。悲嘆にくれる家族を見た兵たちは、何もせずその場を去った。毎日大八車で運ばれる死体、裸馬で北に向かう日本兵の集団…。避難先で見た光景は、今も目に焼き付いている。 終戦後、放送局勤務のキャリアを買われた父は中国・国民党軍に雇われ、しばらく北京で暮らした。48年、「息子を亡くしたこの地に骨を埋めたい」という母を説き伏せ、引き揚げ船で帰郷した。 満州からの引き揚げ体験を絵本『子供の目が見た戦争』にしたのは11年前。戦後生まれの弟や自分の子どもに、両親の苦労を知ってほしいと思ったのがきっかけだった。「文章では饒舌(じょうぜつ)になりすぎてしまう」と、水彩画を描いてみたら、次々に記憶がよみがえった。38ページの絵本にまとめた。 昨年、参加する英会話サークル「ヤタベ・イングリッシュ・カンバセーション・クラブ」で絵本を見せると、「訳してみよう」と声が上がった。11月から半年かけて、木村さんと4人のメンバーで分担して英訳し、A4用紙10枚にまとめた。 メンバーの1人、茨木千恵子さん(69)は、「英訳作業を通して、引き揚げの話が遠い話ではないと感じるようになった。なかにし礼さんや藤原ていさんも引き揚げ体験をつづっているが、それらについても知りたいと思うようになった」という。 絵本と英訳冊子を5月末、木村さんが通う水彩画教室の展覧会で展示したところ、韓国人女性が真剣な表情で「読みたい。知り合いにも読ませたい」と求めたという。親しい米国女性にも贈ったところ「とても興味深かった。自分の子どもたちにも読ませたい」と返事があった。 木村さんは「戦争で辛い思いをするのは一般の市民。それはどこの国でも同じ。その思いが通じれば」といい、興味のある人に読んでもらえればと話す。 ◆絵本と英訳冊子についての問い合わせは木村さん(tom1024mary@yahoo.co.jp)

【戦後73年の記憶】2 誰にも言えない軍事機密情報におびえた 秋元君子さん(92)

【田中めぐみ】土浦市の秋元君子さんは1926(大正15)年生まれの92歳。13歳の時、千葉県から土浦市に引っ越し、県立土浦高等女学校(現土浦二高)に転入した。戦争拡大に伴う労働力不足を補うために学徒動員が閣議決定され、卒業を前に休学。17歳で霞ヶ浦海軍病院(現霞ヶ浦医療センター)に動員された。庶務で、海軍の人事異動を記録したり、傷病者、戦死者の名簿作成をしたりして軍部に報告していたという。 その中でミッドウェー海戦の極秘情報を知った。「航空母艦『赤城』抹消、『加賀』抹消―」リストから削除していく。詳しい戦況は分からなかったが、航空母艦を失ったことを知った。大本営発表では公にされなかった。「こんなに船が無くなって大丈夫なのだろうか」と不安が募るが、誰にも言うことはできない。 職場には憲兵が頻繁に訪れ、目を光らせていた。母にさえ情報の内容は秘密だったが、察してか「誰にも話すんじゃないよ」と君子さんを心配したという。「今思うと怖いことをやっていたと思う」と振り返る。 父は軍人で、機上整備員をしていた。昭和18年末、「10月6日に戦死」という弔慰電報が届いた。軍部からの公報(死亡告知書)は出ず、問い合わせても情報は錯綜していた。翌年1月に公報が出て3月末の合同葬に間に合った。父の遺骨は帰って来ず、ハンカチや靴下といった遺品だけがきれいに畳まれて戻ってきた。遺骨を入れるはずの箱には石ころが入っていた。「南方だと思うがどこで死んだかも分からない。生死が分からないままの人もたくさん居た。公報を出してもらえただけ良かった」と気丈に話す。一人娘だった君子さんは母一人、子一人になった。 阿見大空襲で病床はいっぱいに 終戦の年、海軍病院の歩哨(ほしょう=見張り)が、霞ケ浦に米軍機がきりもみして落ちていくのを見たという。米兵は脱出、捕虜になったと聞いた。同年6月、土浦海軍航空隊が空襲を受けた。阿見大空襲である。「米兵を捕虜にした仕返しではないかと思った」と話す。病院には死傷者が次々と運ばれて病床はいっぱいになり、担架に乗せられ通路の両脇に並んだ。君子さんはその惨状を茫然と眺める他なかったという。 8月15日、玉音放送があり、午後の仕事はなくなった。それまでは軍艦マーチがかかっていたが、その日は誰が流したか、「波濤を越えて」というワルツが流れた。そこで初めて「ああ、これで平和がきたんだ」という思いがこみ上げた。帰る時、病院から街を眺めると、早い時間なのに街灯が付き、家々の電球も黒布が取れ、街に灯が戻っていた。先行きは全く分からなかったが、しみじみと平和の喜びをかみしめたという。 メモ 【ミッドウェー海戦】昭和17年6月、ミッドウェー島付近での日米海戦。米軍は作戦を早期に察知し、日本側に大きな損害を与えた。この敗北を機に日本は劣勢となったが、国民には知らされなかった。 【大本営発表】戦時中、日本軍の最高統帥機関が発信していた戦況の公式発表。    

【戦後73年の記憶】1 忘れることできない東京大空襲 杉田とよさん(93)

戦後73年目の夏がめぐってきた。戦後生まれが人口の8割を超え、遠くない将来に戦争体験を語ることができる人はいなくなる。繰り返してはならない悲惨な記憶を伝えるために、戦争体験者に話を聞いた。 【橋立多美】1925(大正14)年に筑波郡菅間村(現つくば市中菅間)に生まれた杉田とよさんは93歳。忘れることのできないのが東京大空襲だという。 当時とよさんは20歳。小石川に住んでいた親戚の家で大空襲に遭った。この家の夫婦には子どもがいなかったので、とよさんをかわいがってくれ、一人で上京していた。45(昭和20)年3月9日から10日に日付けが変わり、飛行機が飛来している音が近くなった途端、ものすごい爆風で窓ガラスが割れて家が大きく揺れた。とよさんは押し入れに逃げ込んで難を逃れ夫婦も無事だった。 米軍機B29の焼夷弾攻撃だった。攻撃が止んだまちには火の手が上がり、夢中で近所の人たちと防火用水槽の水をバケツリレーで運んだ。夜が明けると親類の家の2階は吹き飛ばされ、居間の火鉢の上に大きな石が乗っていた。3軒隣で食堂を営んでいた家族4人は、敷地内に穴を掘った防空壕に逃げ込んだが、爆風で飛んできたトタンや瓦などで生き埋めになり、地表に指3本が出ていたそうだ。 とよさんは「筑波山山頂に敵機監視所、作谷には陸軍西筑波飛行場と格納庫があったが、実際に攻撃されたことはなかったから恐ろしかった」と振り返る。 戦後は一層の食糧不足 同年8月に無条件降伏して戦争が終わり、戦地に行っていた兵隊たちが帰ってきた。その一人で、とよさんより1つ年上の次郎さんと翌年同市臼井に所帯を持った。当時2人が通った小学校は男女別学か、同じ学級でも「席は同じうせず」が当たり前。一緒に遊ぶことは厳禁で好きな子がいても遠くから目を見交わすだけだった。 お互いに好きだった2人が再会してとよさんのお腹に命が宿った。「今は珍しくない『でき婚』だった」と笑い飛ばす。 次郎さんは村役場の職に就き、3女1男に恵まれた。だが、食糧不足は戦中を上回って一層苦しいものとなり、4人の子を育てるのに配給米だけでは足りず、高い闇米を買うしかなかった。それでも、大根などの野菜を入れて量を増した「大根めし」が常食だった。「食べ物では苦労した」としみじみ話す。 とよさんは「また年寄りの繰り言かと耳を貸さない人もいるが、こんな時代があったことを知って欲しい」と話を締めくくった。 次郎さんは19年前に75歳で没した。とよさんは80年代、初めて次郎さんと手をつないで訪ねた草津白根山の湯釜で撮った写真を大切にしている。信頼し合い戦後をともに生きた証しだ。 ※メモ 【焼夷弾】対象物を貫通や爆破で破壊するのではなく燃焼させることを主眼に置いた砲弾や爆弾。戦時中は木造家屋が密集する都市で使われた。

【戦後74年の夏】1 戦時下の土浦 「どんな時も楽しみを見つけた」

戦後74年目の終戦の日が今年も巡ってくる。戦争体験者が高齢化し、戦争の実態を次世代にどう伝え、平和への願いをどう引き継げばいいのか。74年前と今をつなぐ夏の景色を追った。 【田中めぐみ】土浦市に住む山口あささん(98)は、16歳で母を亡くし、戦時中は父と妹と3人で土浦駅のそばで暮らした。兄は兵士として中国に行き、弟は横須賀海軍航空隊に所属した。 信仰が心の支えに あささんが小学4年生の時、長屋の前を通っていると美しい讃美歌が聞こえ、思わず中に入った。キリスト教の講義所だった。大人たちが優しく招き入れてくれたのがきっかけで講義所に通うようになり、クリスチャンとなった。戦時中も週に1度は集まりに参加した。「一生懸命努力して自分の力を出して働きなさい、そして良いことを行いなさい」という牧師の話を聞くと、いつも元気になって帰ることができたという。教会では皆が協力して食べ物を持ち寄り、行けばいつでも食べ物があった。教会は心の支えだったと話す。 あささんは戦前から、叔父の経営する会社で洋裁の技術を生かし、学生服を縫って働いた。太平洋戦争が始まる1941年には、社長だった叔父が従業員を並べ、「これから戦争になる。縫うものにも混ぜ物が入るかもしれない」と話をした。「こんな大きい戦争になるとは思いもしなかった」という。 男子が兵隊に取られ、労働力が不足すると、一時期、東京に出て、品川の軍需工場で働いた。しかし、洋裁のことも忘れなかった。学生服だけではなく家族が着る物も縫えるようになりたいと、夜間は五反田にある洋裁の製図専門学校に通った。昼間は軍需工場でラジオの真空管を作り、夜は学校に通う生活が1年半ほど続いた。仕事の行き帰りや昼休みには、同僚と干し芋を食べるのが楽しみだったという。「みんな同じ境遇だから辛くはなかった。どこに行っても楽しみはあるもの」と話す。戦中から今に至るまで、洋裁の仕事を辞めずに続けてきたことが誇りだという。 阿見大空襲、町が赤く燃えた 土浦に戻ったある日、大岩田の畑にじゃがいもを植える勤労奉仕をしていた時、数匹の猫を見つけ、嫌がってひっかくのを無理やり抱いて1匹連れ帰った。猫はすぐになつき、「ミーちゃん」と名付けかわいがった。空襲警報のサイレンが鳴ると、猫を抱いて一緒に防空壕に逃げた。 土浦ではほとんど怖い経験はなかったが、1945年6月10日の阿見大空襲の時は、B29に爆撃された町が赤く燃えているのを見て恐ろしかったと振り返る。 駅前は歩けないほどの人混み 終戦の年、あささんは24歳だった。8月15日の玉音放送の日、土浦駅前は人でごった返した。玉音放送がよく聞こえず何が起こったか分からない人、敗戦を信じられない人、日本が負けたと悟っている人、多くの人々が互いに情報を求め、駅前に詰めかけていた。 歩けないほどの人混みの中、教会に向かっていると、途中で泣いている若い女性と出会った。夫が霞ケ浦海軍航空隊に所属しているという。女性は何が起こったのか分からず、とにかく海軍航空隊に行けば情報が得られるのではと考え、遠くから来たということだった。泣く女性を連れて教会に行くと、牧師はいつも通り落ち着いていて、「大丈夫だから」と話してくれた。あささんは安心し、その女性も気持ちを落ち着け、帰っていった。駅前の人々もそれぞれの方法で納得し、帰ったようだった。 町を見下ろし涙があふれた 幸いなことに、終戦後すぐ中国に出征していた兄が帰ってきた。追って横須賀の海軍航空隊にいた弟も無事戻った。父は兄と弟の無事を心から喜んだ。 戦時中は貴重品などの荷物を真鍋の親戚に預けていた。終戦の翌年の2月、預けていた荷物を取りに行き、真鍋の坂から土浦の町を見下ろした時、思わず涙があふれてきた。「これでやっと終わった」。あささんは、この時初めて終戦を実感しほっとした。その翌日、土浦に雪が降ったことを覚えている。 ➡昨年の終戦の日連載企画「戦後73年の記憶」はこちら

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