金曜日, 9月 19, 2025
ホーム ブログ ページ 266

災害復興祈り新作大ねぶた登場 移動支援ロボのパレードも 25、26日「まつりつくば」

0
出番を待つ新作のねぶた=つくば市竹園、大清水公園

【鈴木宏子】つくば市最大の夏祭り「まつりつくば」が今年も25、26日の2日間、つくば駅周辺で催される。恒例のねぶたや日本最大級の万灯みこし、1985年のつくば科学万博を記念して製作された万博山車、竿燈(かんとう)などが勢ぞろいしパレードを繰り広げる。

ねぶたは、今年新たに大ねぶた1基が加わり、凱旋太鼓と合わせて計10基が両日夕方から、土浦学園線をパレードする。新たに登場するのは日本神話のヤマタノオロチを退治するスサノオノミコトを題材にした、まつりつくばオリジナルのねぶた。2015年鬼怒川水害が発生したことを受け、自然災害からの復興を祈願して製作したという。つくば青年会議所ねぶたパレード実行委員会の猪瀬尚平委員長(31)は「見応えある壮大なパレードをぜひご覧ください」と来場を呼び掛ける。

25日のオープニングパレードでは、搭乗型移動支援ロボットが消防音楽隊などと共にパレードする。電動立ち乗り二輪車「セグウェイ」、産業技術総合研究所の「マイクロモビリティ」、日立製作所の「ROPITS」、宇都宮大学の「NENA(ニーナ)」などがお目見えする予定だ。これまで歩道以外の公道走行は認められてなかったが、今年3月の警察庁通達で通行止め規制が行われている車道で走行できるようになった。車道走行は国内初という。

ほかに26日は、来年つくば市で開かれる茨城国体自転車競技を応援しようと、自転車ロードレースの「Jプロツアー」選手30人が、サイクルレースのエキシビション(特別実演)を実施する。

パレードのほか、つくばセンター広場、つくば公園通り、中央公園、つくばエキスポセンターなどでも様々な催しが繰り広げられる。

▼つくばセンター広場=ステージやバザー広場が設けられ、ライブコンサートやヒーローショーが開催されるほか、飲食店が多数出店する。

▼つくば公園通り、中央公園、エキスポセンター=文化会館アルスと中央公園にはさまれたつくば公園通りでは、プロの大道芸人らがパフォーマンスを披露する。つくばエキスポセンター正面ゲート広場にはロボットパークが設けられ、ロボット操縦体験やセグウェイ試乗などができる。二足歩行ロボットによるステージショーなども催される。中央公園は「ふれあい広場」が設けられ、ポニーの体験乗馬などができる。

▼竹園公園=つくば国際会議場隣りの竹園公園には「スポーツパーク」が設けられ、グラスバレー大会やダンスパフォーマンスバトルが催されるほか、いろいろなスポーツを体験できるブースが設けられる。

今年のまつりつくばは例年とほぼ同規模。昨年話題を呼んだディズニーパレードは行われないが、例年同様、40万人の人出があると見込まれている。

市役所に無料臨時駐車場

25、26日の2日間、研究学園駅近くの市役所駐車場を無料臨時駐車場として開放する。無料臨時駐車場から会場のつくば駅周辺に出掛けられるよう、つくばエクスプレス(TX)下り快速列車の一部が両日とも研究学園駅に臨時停車する。

まつりの問い合わせは電話029-883-1111(まつりつくば大会本部・事務局つくば市観光推進課内)。

「フックン船長」宇宙へ 野口聡一さんと半年間

0
宇宙に行く「フックン船長」のぬいぐるみ(つくば市提供)

【鈴木宏子】つくば市のイメージキャラクター「フックン船長」が、2019年終わりごろから、宇宙飛行士の野口聡一さんと宇宙に行くことが決まった。半年間、野口さんと一緒に国際宇宙ステーションに滞在する。

フックン船長は宇宙飛行士型ふくろうロボット。宇宙で活躍できる日を夢見ながら、日夜、市のPRに励んでおり、夢がかなう。市科学技術振興課によると、日本の宇宙飛行士の間で、フックン船長は知名度があり、親近感をもたれていることなども選ばれた理由の一つという。

選定を受けてフックン船長は22日「野口宇宙飛行士と一緒に宇宙に行けることになったフク! 無重力の宇宙ステーションで上手に飛べるようフライトに向けて羽ばたく練習に励むフクー。野口さん、JAXAの皆さん、よろしくフク!」とコメントを発表した。

フライトエンジニアとして3回目の宇宙長期滞在が決定した野口さんが今年5月、五十嵐立青市長を訪問し、「ゆかりがあるつくばのものを宇宙に持参したい」と依頼していた。野口さんは1996年などにJAXA筑波宇宙センターが立地するつくば市で暮らしていた。

宇宙に行くのは高さ18㌢、奥行き18㌢のフックン船長のぬいぐるみ。100㌘以下という条件があったため、新たに製作した。

五十嵐市長は「フックン船長には、市民の思いがこもったメッセージと共に宇宙へ飛び立って、宇宙で活躍してもらいたい」、野口さんは「フックン船長の夢とつくば市民の熱い思いと共に、来年の国際宇宙ステーションでの長期滞在に臨む所存です」などのコメントを発表した。

まだ間に合う!夏休み自由研究 つくば市文化財課が相談室開設 22日も

0
自由研究に取り組む子どもと市文化財課の石川さん㊨=つくば市研究学園の市役所

【橋立多美】夏休みもあと12日。つくば市文化財課が同市役所4階会議室で、21、22日の2日間、職員による夏休み自由研究(歴史・文化財)相談室を開いている。

毎年夏休みになると歴史や文化財についての問い合わせがあることから、その声に応えて今夏初の試みという。同課の石川太郎さんは「つくば市はかすみがうら市に次いで古墳や遺跡、出土した石器などが多く、子どもたちに郷土の歴史を知ってほしい」と話してくれた。

相談に訪れた桜南小5年の女子児童は、自由研究のテーマを同小付近の歴史に決めたが、どうまとめたらいいか分からなくなってやって来た。相談に乗ってもらいながら仕上がると緊張がほぐれ、「うまくできた。来て良かった」と笑顔を見せた。同伴した母親は「今年つくばに引越して来たばかりで土地勘もないし、ほんとに助かりました」と安堵の表情を見せた。

同相談室は22日も開かれる。「つくば市の歴史や文化財」を自由研究のテーマにしている、もしくはこれからしようという児童生徒の相談や、「調べてみたけれどわからない」「調べ方がわからない」「なにをテーマにしたらいいか迷っている」などの困りごとにも応じてくれる。

▼時間は午前9時~午後4時30分。事前申込不要、無料。

研究機関も相談に対応

夏休みが終盤に入り、後回しにしてきた自由研究に悩んでいる児童生徒や保護者は多いのでは。次の研究機関でも夏休みの宿題や自由研究の相談に無料で応じている。

【地図と測量の科学館】夏休み測量相談コーナーを開設。地図と測量に関する質問に応じる。日時は31日までの火曜と金曜の午前9時30分~午後4時30分。つくば市北郷。問い合わせは(029-864-1872)

【地質標本館】岩石や鉱物、化石、地質全般に関する相談の他、夏休み中に野外で採集した石で分からないことや詳しいことを知りたいなどにも専門の研究者が応じる。日時は25日(土)午前9時30分~午後4時。つくば市東。問い合わせは(029-861-3750)

【つくばエキスポセンター】楽しい科学の相談コーナーで、科学や技術に関する展示物の質問や自由研究に役立つテーマなどの質問を受け付ける。開館時間は午前9時50分~午後5時、夏休み期間中は無休。入館料が必要(こども210円、大人410円)。つくば市吾妻。問い合わせは(029-858-1100)

土浦市長が百寿を祝福 長生きの秘訣は「何でも食べる」

0
中川清市長から100歳の祝い状を受けた飯塚てるさん(左)=土浦市永井

【谷島英里子】9月17日の「敬老の日」を前に、土浦市の中川清市長は21日、今年度に100歳を迎える同市永井の飯塚てるさん宅を訪問し、祝い状と祝い金(2万円)を贈呈した。

飯塚さんは1919年(大正8)2月20日生まれ。家族と暮らし、庭の手入れやテレビを視聴して過ごしているという。居間には手作りの芸術作品や銀色の薬袋を三角形にして、積み木のように組み上げて作った折り鶴が並べられ、中川市長は手先の器用さに驚いていた。

飯塚さんは市長訪問に「申し訳ないくらいうれしい」と喜び、長生きの秘けつを聞かれると「何でも食べますし、お肉が好物です」と語っていた。

市高齢福祉課によると、飯塚さん宅の訪問前には、中荒川沖町の川村てつさん宅も訪問した。市は今年度に100歳を迎える31人に祝い状と祝い金を、最高齢105歳の齋藤元年さんには祝い状を贈る。

法的な見方・考え方体験して 弁護士主催の「子ども法律学校」が人気

0
昨年12月に開かれた冬休み子ども法律学校の様子(県弁護士会「市民のための法教育委員会」提供)

【田中めぐみ】子どもたちに法的なものの見方や考え方を体験してもらおうと、県弁護士会(星野学会長)に所属する弁護士らが毎年、夏休みと冬休みにボランティアで開催している「子ども法律学校」が人気だ。

今年の夏休みは28日、水戸地方裁判所土浦支部(土浦市中央)などで開催する。対象は小学校高学年、定員は60人で、県南の小学校に参加者を募集したことからすでに定員いっぱいという。

同弁護士会「市民のための法教育委員会」の弁護士らが取り組んでいる。内容は、参加者の半数の30人が水戸地裁土浦支部の法廷を使用して、童話を題材にした模擬裁判を体験する。もう半数は近隣の土浦市亀城プラザ(同市中央)で、事実を客観的に分析するのに役立つ「三角ロジック」=メモ=についての講義を受ける予定だ。

模擬裁判の題材は、過去には、グリム童話「三匹の子豚」を題材とし、侵入してきたオオカミを撃退した子豚には正当防衛が成立するかどうかなどを子どもたちに考えてもらった。子どもたちには、実際にオオカミ、子豚、裁判官などの役割を演じて法廷に立ってもらい、それぞれの立場で主張や反論を行って、相手を説得することや中立的判断を下すことの難しさを感じてもらったという。

法教育委員会委員の一人、「さくらパートナーズ法律事務所」(土浦市文京区)所長の中島隆一弁護士(39歳)は「裁判に参加することは一般市民にも無縁ではない。裁判員裁判では市民も一人の判断者として裁判に参加することになる。子どもたちも将来、裁判員の役割を担えるように、どのように裁判が行われるのかを小さいうちから学んで欲しい。童話を題材にすることで、難しい裁判制度を易しく疑似体験するお手伝いができれば」と話す。

法廷の様子は普段なかなか見ることができないため、子どもたちにとっては貴重な体験になるという。模擬裁判の傍聴は、参加する子どもたちの保護者のみ可能。

※メモ
【三角ロジック】何らかの主張を行う際、具体的な事実や数値といったデータを示して理由付けし、主張するという方法のこと。例えば「火事が発生した」という主張をする際、「消防車がサイレンを鳴らして走っていった」というデータを示し、「普通は消防車は火事があるとサイレンを鳴らして火事の現場に向かう」という経験則による理由づけによってデータと主張を結び付ける。合理的で、説得性が増すという。

新たに8点認定 土浦ブランド第2弾

0
新たに認定した土浦ブランドを紹介する中川清市長=土浦市役所

【谷島英里子】土浦市の知名度や魅力を高めようと、市が認定する「土浦ブランド」に、新たにコーヒーやアイスクリームなど8点が選ばれた。第2期の認定で、17日、市役所で認定式が開かれた。第1期分も含め土浦ブランドは計26点になった。

地域の特産品や特性を生かした商品などを認定している。第2期として6月15~30日に土浦ならではのこだわりのある農水産物や加工品、料理などを募集した。10点の応募があり、有識者らでつくる「土浦ブランドアッププロジェクト推進協議会」が独自性や品質などを選考基準に審査した結果、8点が選ばれた。

認定式で中川清市長は企業や団体の代表者に認定証を手渡し、「土浦の顔として自慢できる品ばかり。地域活性化の一助となり交流人口の増加につながると期待している」と話した。

認定品の包装には「土浦ブランド」のマークが使用でき、自社商品の宣伝などに活用できるほか、市のふるさと納税の返礼品やシティプロモーションなどでも優先的に活用される。

オリジナルコーヒー「つちうらブレンド」と布フィルター「つちうらネル」が選ばれた同市下高津のコーヒー店「ニコニコ珈琲」オーナーの松本正さん(53)は「ふるさと納税の返礼品になるので、全国の人たちに飲んでもらい、土浦に興味を持ってほしい」と話していた。コーヒーは、霞ケ浦を吹く風のような滑らかな味わいと、土浦の歴史を感じるコクや深み、香りに仕上げたという。

認定品8点は次の通り。
▽土浦農業協同組合「グラジオラス」
▽果樹生産者組合 いきいきフレッシュ組合「果樹アイスクリーム」
▽レストラン中台「レストラン中台の土浦レンコン福神漬」
▽和洋菓子製造販売 久月総本舗「れんこんどら焼き」
▽中華料理 福来軒「福来軒のツェッペリンカレーコロッケ」
▽創作和菓子すぎやま「れんこん最中」
▽ニコニコ珈琲「つちうらブレンド×つちうらネル」

「土浦ブランド」に認定された企業や団体の代表者ら=同

店内に交流スペース ウエルシア 19日、子ども記者体験イベント

0
ウエルシアつくば豊里店に設置されている交流スペース「ウエルカフェ」=つくば市豊里の杜

【谷島英里子】ドラッグストアチェーン、ウエルシア薬局(本社東京都千代田区)は、地域貢献事業の一環として、地域住民に休憩の場や井戸端会議の場を提供するため店舗内に交流スペース「ウエルカフェ」を設置している。NEWSつくばは19日、ウエルシアつくば豊里店(つくば市豊里の杜)で、子ども記者体験イベントを開催する。

豊里店と桜店の2カ所

ウエルカフェは全国に173店舗あり、県内は18店舗。つくば市にはつくば豊里店とつくば桜店の2店舗にある。

単なる休憩場所ではなく、地域社会の課題を解決していくための場所として、地域貢献活動を行う団体やNPO法人に無料で開放しているのが大きな特徴だ。テーブルといす、市民向けの情報専用ラックが完備され、落ち着いた時間を過ごせる。

これまで、自治会やボランティア団体の会議、健康サロン、ウエルシア薬局主催の健康栄養相談会やメイクアップサロンなどが開かれた。同社在宅本部地域包括推進部の鈴木美香さんは「地域の活動をサポートしていきたいので、まずはお近くのウエルカフェに足を運んでみてください」と利用を呼び掛けている。

利用時間は午前10時から午後6時。詳しい利用方法は同社ホームページ、または地域包括推進部(電話03-5209-5677)まで。

取材体験し「はがき新聞」作ろう

NEWSつくばは、同豊里店で19日開催する子ども記者体験イベントで、店内を取材する「子ども記者」を募集している。

同イベントは、参加した子どもたちが、日頃ウエルシア薬局で買い物をしたときに感じている疑問や興味を薬剤師や店員に直接聞いて、分かったことを文章にし、はがきの大きさの「はがき新聞」を作成する。夏休み中の子供たちに聞く力や表現する力を学んでもらうことが狙い。人気商品は何か、チラシは何曜日に発行しているか、薬剤師は何をしているかなど、働く大人たちの仕事現場を取材する。

子ども記者体験イベントは19日午前10時~午後3時まで開催。対象は小・中学生。取材・制作時間は1時間程度で、NEWSつくばのライターが指導する。はがきの裏面には子どもが熱心に取材する様子を写真で載せる。完成品は持ち帰ることができる。参加費無料。事前申し込みは不要で、当日同豊里店ウエルカフェで参加を受け付ける。問い合わせはNEWSつくばメール info@newstsukuba.jp

子ども記者体験募集のポスター

亀城公園で灯籠流し

0
初盆を迎えた故人の霊を供養する灯籠流し=土浦市中央1丁目、亀城公園

【谷島英里子】送り盆の16日夜、土浦市中央1丁目、亀城公園のお堀で灯籠流しがあり、水面はオレンジ色の明かりで幻想的に照らされた。

日が沈み始めた午後6時ごろ、市内の住職らがお経を上げて初盆を迎えた故人の霊を供養し、灯籠をそっと水面に浮かべて流した。訪れた人たちは、手を合わせて故人をしのび、灯籠の明かりを静かに見守っていた。

亀城公園の灯籠流しは、60年以上前から毎年、市内8の寺が宗派を越えて開催している。今年は300個の灯籠が用意された。住職らは「伝統なので今後も続けていきたい」と話していた。灯籠は翌日、回収されるという。

お経を上げる住職ら=同

【ひと】被爆体験つづった手記がつくばの朗読劇に 長崎生まれの田栗静行さん(78)

0
手記「あの時、一緒に死んでしまえばよかった…5歳のナガサキ被爆体験」を手にする、長崎原爆被爆者の田栗静行さん=つくば市吾妻のアルスホール

【崎山勝功】「思い出したくないし話したくない」。生涯封印するつもりだった原爆体験を7年前、『あの時、一緒に死んでしまえばよかった… 5歳のナガサキ被爆体験』にまとめた。その手記が、1995年からつくばで朗読劇を上演している「サラダの会」の今夏の朗読に登場した。

封印を解いたのは原爆の影響による胃がんの告知を受けたことだ。「残りの時間で何かできることはないか」と考えた末での決断だった。

手記では、原爆投下で長崎市内の工場に勤務していた父親を亡くし、4日後に当時3歳の妹を亡くしたときの様子をはじめ、自身の体調の変化などを克明に著している。

長崎県から上京し、会社員として勤務していた当時、都内の病院の受付で被爆者手帳を出すと「何ですかこれは?」と聞かれることがたびたびあったという。会社での健康診断の際のレントゲン撮影も「子どもの頃にたくさん放射線を浴びていますから」と断っていた。

胃がん発覚後、原爆症認定の申請を行った。当初は「放射能で体が侵されている、と烙印(らくいん)を押されることになる」と認定書申請に消極的だった。支援者団体から「核兵器はこんなに恐ろしいんだ、という一つの証拠になるから。後世のためのデータして残すべき」との説得を受けて申請に踏み切った。

約10カ月後、原爆症の認定を受けた際に、支援者団体の一部から「おめでとう」と言葉をかけられた。原爆症認定のための裁判をしなくてもいい、との趣旨だったようだが、田栗さんにとっては配慮に欠けた腹立たしい言葉だった。「原爆症に認定されても、うれしいこと、おめでたいことなど何もない」と話す。

手記では「原爆症認定書が届いた日、私は父母と妹の仏壇の前で一晩泣きました。一人だけ生きていて良かったのか、今でも生きていて良いのか」と、当時の複雑な心境をつづっている。

5日、つくば市吾妻のアルスホールで開催された上演会に東京・八王子から訪れた田栗さんは、「2度と私のような体験をしてほしくない、あるいはさせるべきではない」と力を込めた。そして「これからは自分たちの子ども、孫が平和を享受できるように、日本、世界、宇宙が平和になるように努力してもらいたい」と、次世代への希望を託す。

大傘から花火降り注ぐ 鷲神社で伝統のからかさ万灯

0
花火が滝のように降り注ぐからかさ万灯=15日夜、土浦市大畑の鷲神社

【谷島英里子】土浦市大畑の鷲(わし)神社で15日夜、国選択・県指定無形民俗文化財の「からかさ万灯」が行われ、大勢の見物人でにぎわった。

からかさ万灯は、江戸時代中期ごろから続く雨乞いの神事。五穀豊穣や天下泰平、家内安全を祈願し、直径5㍍、高さ6㍍の大傘に花火を仕掛けて点火する。

午後9時ごろ、ステージや山車の上で雨乞い囃子(ばやし)が鳴り響くなか、導火線となる綱火に着火すると、傘の上部から四方八方に火が噴き出し、滝のように降り注いだ。会場からは「迫力がある」「きれい」と歓声や拍手が沸き起こっていた。火が消えると、見物人らは、縁起物とされる傘の下のツバキの花を取り合っていた。

からかさ万灯保存会会長の井坂次男さん(80)は「大昔の人が雨が降ってほしいと神に願った強い思いを感じていただけたらうれしい。からかさ万灯は集落の宝なので、また来年も見ていただきたい」と話していた。

子どもの養育状況を別人に郵送 つくば市 児童手当現況届25件流出か

0
つくば市役所

【鈴木宏子】つくば市は15日、子どもの養育状況などが書かれた児童手当現況届を、市が誤って別人に発送し、25件の個人情報が流出した可能性があると発表した。

児童手当を受給する要件を満たしているかどうかを確認するための書類で、受給者の氏名、住所、生年月日、加入年金の種類と、子どもの名前、生年月日、同居や別居の有無、子どもの面倒を見ているか否かの監護の有無などが記されている。

市こども政策課によると同市の児童手当受給者は約2万1000人。今年度の現況届は7月2日が提出締め切りとなっている。一方、未提出者が1206件分あったことから、提出を促すため、あらかじめ市が把握している情報をもとに子供の養育状況などを印刷した現況届を13日、1206件に発送した。

発送の際、現況届を入れた封筒が25件分足りなかったが、担当者が、25件分を印刷していなかったと思い込み、印刷し直して発送した。

翌14日午後、市民から、自分の分のほかに別人の現況届が入っているとの指摘があり、誤発送が分かった。15日午後4時半時点で計5人から、他の人の分が混入しているとの連絡が市にあるという。市は25件について、誤って他の受給者の封筒に現況届を混入して発送してしまった可能性があるとみている。

今後、25件全員の自宅を訪問し謝罪するほか、誤発送した現況届の回収を行うとしている。再発防止策として、通知発送の際は封筒に書類を入れる前と後に書類のチェックを徹底したいとしている。

五十嵐立青市長は「市の信頼を損なう行為で、大変申し訳なくお詫び申し上げます。再発防止に努め、特に個人情報保護については研修を行うなど流出防止の徹底を図っていきます」とのコメントを発表した。

【戦後73年の記憶】6 顔知らぬ文通相手 突然帰らぬ人に 横田晴子さん(91)

0
「大変な時代たった」と話す横田晴子さん=つくば市内

【鈴木宏子】つくば市の横田晴子さん(91)は、太平洋戦争が始まった1941(昭和16)年、旧水海道高等女学校に入学した。4年生のとき、水戸陸軍病院に入院していた友達のお兄さんに俳句を添えて慰問の手紙を書いた。女学生からの手紙だと評判になり、病室で皆が回し読みしたという。

しばらくして手紙を読んだ一人の男性から返事が届いた。埼玉県杉戸町出身の古河地方航空機乗員養成所の教官で、盲腸のため入院していた。すぐに退院したが、その後も文通は続き、横田さんはその都度、俳句を添えた返事を送った。

学校の全校作業の日だった。生徒全員が校庭に出て草取りやごみ拾いなどの作業をしていたとき、下妻の方から飛行機が飛んできた。校庭の上空を何度か旋回し、だんだんと低空飛行になって斜めになり、窓から白いハンカチを振り飛び去った。校庭にいた女学生たちはわあわあと大騒ぎになった。

後日、文通相手から手紙が届いた。「計器測量のため下妻まで行きました。皆さんの姿が豆粒みたいに見えたので、水海道に行きました」と記してあった。学校の上空を旋回しハンカチを振ったのは文通相手だったのだ。「この手紙が最後になるかもしれません」とも書かれていた。

しばらくたって文通相手の妹から手紙がきた。「兄によく手紙がきていた方なのでお知らせします。兄は九州から飛び立ち、帰らぬ人となりました」という内容だった。特攻隊に志願したのだという。顔も知らず会ったこともない相手だった。特攻隊に志願した話は妹からの手紙を見るまで知らなかった。

1944(昭和19)年に女学校を卒業。先生から代用教員になることを勧められたが、子供たちに教えるより工場で働いた方が役に立てると、挺身隊に入り、守谷町(当時)の海老原軍需工場で働いた。飛行機の補助翼などをつくる職場で、部品に打ち込む、焼いて熱くしたくぎを運ぶ係だった。

工場から徒歩10分くらいの距離にある長龍寺が挺身隊の寮となった。杉山に囲まれた寺で、寺は寝るだけ。朝昼晩の食事は工場の食堂でとった。

3食すいとん汁だった。2、3㌢くらいの大きさのうどん粉を丸めた団子が三つか四つ入っているだけ。若かったので辛かった。自宅通勤の友達が「毎日すいとん汁では辛かろう」とふかしたサツマイモを新聞紙にくるんで持ってきてくれたことがあった。昼にごちそうになり、その時食べたイモは最高においしかった。

終戦で挺身隊は解散。戦後は土浦の奥井裁縫所に1年間住み込み裁縫などを習った。姉4人、兄1人の6人きょうだいの末っ子。習い事のため東京に出ていた姉は食糧難で満足に食べられなかったが、土浦の横田さんの住み込み先には、兄が月1回、自転車でコメを運んでくれた。

「大変な時代だった」と話す。=終わり

【戦後73年の記憶】5 谷底に消えた戦友、凍死、餓死の光景まぶたから離れない 大澤彌太郎さん(99)

0
東部ニューギニア戦線の地獄の日々を語る大澤彌太郎さん=土浦市内

【谷島英里子】「ジャワは極楽、ビルマは地獄、死んでも帰れぬニューギニア」と言われた東部ニューギニア戦線。「あと1週間遅かったら、第2玉砕命令が出て生きては帰れなかっただろう」と遠くを見つめる。

1919(大正8)年、土浦に生まれた大澤弥太郎さん(99)。旧制県立水戸商業高校を卒業後、家業の文具店を継いだ。39年、徴兵検査に合格し宇都宮の師団に入営、下士官となる。やがて満州へ出征し、その後東部ニューギニアへ渡った。「軍からの命令だけで、この地では地図もない、大砲も弾薬もなく、食糧さえも敵地から調達しろというもので、どうやって戦ったらいいのかわからない状態だった」。

43年8月、第51師団長中野英光中将から玉砕命令が出た。全員自滅するということだ。もはや生きては帰れないと考えた。しかし、これが転進命令に変わった。周りを敵地に囲まれているため、敵のいない方へ退却する。この退却がまた試練の始まりだった。

それは現地の住民でも登らない標高4000㍍を超えるサラワケット山を越えるもの。ジャングルを越えると長野県の日本アルプスのように険しい山が立ちふさがる。濁流が流れる川では工兵が木を切り倒し川に橋をかけ、岩肌の道なき道では工兵が先に垂らしたロープを頼りに進んでゆく。一歩間違えば深い谷底に落ちてしまう。大澤さんは目頭を押さえながら「山頂寸前の絶壁で力尽き谷底へ消えていった戦友、凍死、餓死、その光景はまぶたから離れない。そこはまさに地獄でした」と声を震わせた。

野宿を繰り返すうちに悪性のマラリアを患い毎日40度を超える熱にうなされた。このままでは生きては帰れないと考えた。軍医に責任を取れないと断られたが、無理に頼み静脈注射をすることで幸運にも生き延びた。1カ月の山越えで1000人以上の兵隊が息途絶えたという。険しい山で、軍支給の地下足袋はたった2日で底が抜けた。亡くなった戦友に手を合わせ靴を履き替えたこともあった。生きていくために必死で、食べ物はサゴヤシの根本を鉄板で焼いたりして餓えをしのいだ。口に入るものなら何でも食べた。

45年8月15日、2回目の玉砕命令が出たこの日、米軍飛行機がまいたビラで終戦を知り、思わず「万歳」とかみしめたという。

大澤さんは靖国神社で毎年7月に開催される戦没者慰霊行事「みたままつり」に参加し、30年間お参りを続けている。戦後70年余りを過ぎて戦争を知らない子どもや、大人が増えてゆくなか、2017年に戦争体験やその後の人生を記した本『東部ニューギニア戦の我が半生』を自費出版した。「私は幸いにも日本に帰還できたのだから、戦争の過酷さと愚かさ、そして、戦友たちの無念さを後世に伝えていかなければ」と語気を強める。

幹部候補生のころの大澤さん

【戦後73年の記憶】4 号令に合わせひたすらアルミ板たたいた 栗栖恵子さん(86)

0
戦争体験を話す栗栖恵子さん=土浦市内

【鈴木宏子】土浦市の元中学校教員、栗栖恵子さん(86)は、80歳を過ぎてから母校の土浦二高に年1回赴き、後輩たちに戦争体験を伝えている。

栗栖さんは東京大空襲が激しさを増した1945(昭和20)年3月10日過ぎ、自宅があった東京から、父の実家がある土浦に逃れてきた。女子聖学院1年生で13歳だった。

家族は父母ときょうだい4人。小学6年の弟と3年の妹は群馬県伊香保に集団疎開した。土浦には5歳の妹が一足先早く来ていた。両親は東京に残り、家族は3カ所に分かれて戦時下を生きた。

土浦高等女学校(現在の土浦二高)に転校した。運動場はすべて畑になっていて勉強した記憶は一切ない。食糧増産のため毎日、虫掛などの農家に手伝いに行った。

しばらくして右籾の第1海軍航空廠(軍需工場)に勤労動員された。飛行機のどの部品を作っているのか分からなかったが、日の丸の鉢巻きを締め、工員の号令に合わせてひたすらハンマーでアルミ板を成型する作業をした。一の号令で腕を振り上げ、二でひじを曲げ、三でアルミ板をたたいた。

女学生や土浦中学(現在の土浦一高)の生徒が、街中から航空廠まで砂利道を歩いて通った。遠いので通うのが大変だろうと、土浦中学に機械を移し学校工場とすることになった。初出勤の8月15日、門をくぐると「正午に重大な発表がありますので帰宅してラジオを聞いて下さい」という貼り紙があり、帰宅し玉音放送を聞いた。

敗戦により、カメラマンとして宮内省(現在の宮内庁)に勤務していた父は職を失い、伊香保に学童疎開していた弟と妹も帰ってきた。ばらばらだった家族6人は戦後、土浦でやっと一緒になった。

伊香保から戻った弟と妹はシラミがひどくて、床屋に連れていかれ丸坊主になった。母は2人の衣服を釜でゆでシラミを殺した。疎開先では栗やドングリを食べていたという。2人が持ち帰ったノートには食べ物の絵ばかりが描かれていた。

女学校を卒業後、アルバイトをしながら茨城大学で学び、教壇に立った。父が職を失ったことから、当時もらった奨学金はすべて家に入れた。

現役を退き80歳になったころ、女学校の同窓会で戦争体験が話題に上るようになった。勤労動員された航空廠で空襲警報が鳴り、防空壕に逃げる途中、転んで米軍機に機銃掃射されそうになった話や、目の前で爆弾が爆発した話などだ。航空廠ではたびたび空襲警報が鳴った。栗栖さんは、自分は足が遅くて逃げられないと、いつも工場の中に隠れていた。同級生たちの辛かった体験を80歳になって初めて聞いた。

母校に赴き、戦争体験を後輩たちに話すようになったのはそれからだ。「勉強して、部活動をして、家に帰ると食べ物がある生活が当たり前でない時代があった。それが出来なかったのが戦争」と話す。

宮内省のカメラマンだった父親が1953(昭和28)年に出版した著書「ある日の天皇」を家の中で見付け、2009年に栗栖さんが復刊した。父が間近で見た戦争中の昭和天皇を写真と文章でつづっている

つくば・土浦の2チームが初戦突破 県選抜中学野球

0
【土浦二-日立一附】初球から強気で攻めた小松崎のピッチング

【池田充雄】軟式野球の第43回県選抜中学校野球大会が11日開幕し、つくば市金田のさくら運動公園野球場など5会場で1回戦16試合が行われた。同大会は県中学総体の地区大会などで好成績を収めた32チームが15日の決勝を目指して戦う。つくば・土浦市からは計4チームが出場、土浦二中は日立一高附属中を4-0で下し、谷田部東中は牛堀中(潮来市)に13-0で5回コールド勝ちを収めた。一方、土浦三中は大宮二中(常陸大宮市)に6-10で、茗渓中は水戸四中に3-4でそれぞれ敗れた。

土浦二中、4回までパーフェクト

土浦二は谷田部野球場の第2試合で日立一附と対戦。2回表に1死満塁から相手投手の乱れにより3点を奪い、また5回表には1死三塁から六番・横田歩夢の一塁線へのヒットで1点を加えた。守ってはエースで四番の小松崎脩平主将が4回までパーフェクトピッチング。5回は2死満塁とされるが投ゴロでしのぎ、6回からはリリーフの渡邊暁星がランナーを出しながらも無失点で締めた。

小松崎は「ボールから入ると雰囲気が悪くなるので、初球からストライクで攻め、相手に高めの球を振らせるよう意識した。攻撃では、今日は相手のミスから点が入ったので、次は自分たちで攻めて取りたい」と話した。渡邊は「スライダーは良かったがカーブが抜けたり落ちたりした。エースをがっかりさせないよう、リリーフで次の試合も頑張りたい」と気を引き締めた。

菅谷篤監督は「去年は3年生が5人しかおらず2年生がチームを引っ張ったが、総体では思うようにプレーできず、リベンジの思いで1年間頑張ってきた。スターがいるチームではないので、目の前の1戦1戦に集中して戦っていきたい」と抱負を述べた。

谷田部東中、2回に打者15人の猛攻

【谷田部東-牛堀】2回裏1死満塁、江崎が左前へ適時打を放つ

谷田部東はさくら運動公園野球場の第4試合で牛堀と対戦。1回裏1死三塁から三番・鈴木翔太の右前打で先制し、2回裏は打者15人で9点を奪う猛攻。3回にも2点、4回にも1点を加え、相手を完膚なきまでにたたきのめした。投手はエース鈴木が3回を投げ、4回からは捕手の江崎大翔主将がリリーフ。こちらも相手に一塁を一度も踏ませない完璧な継投で試合を終えた。

「立ち上がりを三者三振で抑えて勢いに乗り、回が進むにつれてコースにもよく決まるいいピッチングができた」と鈴木。「変化球が決まって相手が空振りしてくれた。今までで一番いいピッチング。捕手も投手もどちらも楽しい」と江崎。2人ともバッティングでも魅せたが、特に江崎の2回の左前打は、櫻井真一監督が「大量点の口火となるヒットで、チームにとって非常に大きかった」とほめたほど。江崎自身にも「芯に当たって手応えが良く、いままでで一番強い打球が打てた」と印象に残るものになった。

「最初は戦力に偏りがあったが、春から夏にかけて全員が力を付けてきて、守備もバッティングもしっかりできるバランスの良いチームになってきた。総体では県大会を目指したが、県南地区ベスト8で終わった。その悔しさをこの大会にぶつけたい」と、櫻井監督はチームの思いを語った。

12日の2回戦、土浦二は江戸崎(稲敷市)と対戦し0-5で敗れた。谷田部東は中郷(北茨城市)に3-1で勝ったが、14日の準々決勝で石下(常総市)に3-8で敗れた。

将来はプロ棋士に 小中学生が熱戦 筑波大将棋部主催

0
小中学生32人が熱戦を繰り広げた将棋大会=つくば市吾妻

筑波大学将棋部が主催する「つくば小中学生将棋大会」が11日、つくば市吾妻のつくばイノベーションセンター大会議室で開かれた。小学4年生から中学3年生まで32人が、盤上で熱戦を繰り広げた。

午後1時から始まった大会では、初心者リーグと上級者リーグに分かれ、スイス式トーナメントで4局対局が行われた。参加者は真剣な眼差しで、一手一手駒を進めた。上級者リーグで優勝した明石晃英さん(松戸市立馬橋小6年)は「危ない局面もあったので、勝ててよかった」と喜びを語り、「将来はプロ棋士になって活躍できるようになりたい」と目を輝かせた。

大会終了後はエキシビジョンマッチもあり、上級リーグ1~5位の参加者が将棋部員と対戦を楽しんだ。

大会は「つくばで子どもたちが将棋に触れ合える場を作りたい」と将棋部の学生らが企画し、今年で4回目。この日運営にあたった将棋部員はOB合わせて15人。部員の小野元さん(21)は「年々参加人数が増えて、やりがいを実感できるようになった」。部長の小山寛人さん(21)は「活動を地域に還元できていることに意義を感じる。大会の知名度が広がり、県外からの参加者も増え、価値ある大会になってきたと実感している」と話した。

◆上級者リーグ入賞者(敬称略)
優勝:明石晃英(松戸市立馬橋小6年)
準優勝:雪野倖太郎(文星芸術大学附属中2年)
3位:前田優斗(墨田区立柳島小4年)
4位:石上雄一朗(石岡市立杉並小5年)
5位:青柳賢治(守谷市立守谷中1年)

腕章をつけた筑波大学将棋部員らが対局を見守った=同

【戦後73年の記憶】3 目に焼き付く引き揚げ体験を仲間と英訳 木村真理子さん(81)

0
引き揚げ体験を描いた絵本と英訳冊子を手にする木村真理子さん=つくば市内

【大志万容子】つくば市の木村真理子さん(81)は2歳のとき、満州電信電話(当時)に勤める父の赴任で旧満州東部(中国東北部)の牡丹江省に渡った。家族5人の穏やかな暮らしは、1945(昭和20)年8月9日、ソ連軍が国境を越えたことで一変した。持てるだけの荷物を持ち、牡丹江駅から列車に乗り込み、日本を目指した。

敗戦を迎え奉天(現在の瀋陽市)の避難所にたどり着いたが、2歳の弟が肺炎で亡くなった。遺体を囲んで泣いている部屋に銃を持ったソ連兵が押し入ってきた。悲嘆にくれる家族を見た兵たちは、何もせずその場を去った。毎日大八車で運ばれる死体、裸馬で北に向かう日本兵の集団…。避難先で見た光景は、今も目に焼き付いている。

終戦後、放送局勤務のキャリアを買われた父は中国・国民党軍に雇われ、しばらく北京で暮らした。48年、「息子を亡くしたこの地に骨を埋めたい」という母を説き伏せ、引き揚げ船で帰郷した。

満州からの引き揚げ体験を絵本『子供の目が見た戦争』にしたのは11年前。戦後生まれの弟や自分の子どもに、両親の苦労を知ってほしいと思ったのがきっかけだった。「文章では饒舌(じょうぜつ)になりすぎてしまう」と、水彩画を描いてみたら、次々に記憶がよみがえった。38ページの絵本にまとめた。

昨年、参加する英会話サークル「ヤタベ・イングリッシュ・カンバセーション・クラブ」で絵本を見せると、「訳してみよう」と声が上がった。11月から半年かけて、木村さんと4人のメンバーで分担して英訳し、A4用紙10枚にまとめた。

メンバーの1人、茨木千恵子さん(69)は、「英訳作業を通して、引き揚げの話が遠い話ではないと感じるようになった。なかにし礼さんや藤原ていさんも引き揚げ体験をつづっているが、それらについても知りたいと思うようになった」という。

絵本と英訳冊子を5月末、木村さんが通う水彩画教室の展覧会で展示したところ、韓国人女性が真剣な表情で「読みたい。知り合いにも読ませたい」と求めたという。親しい米国女性にも贈ったところ「とても興味深かった。自分の子どもたちにも読ませたい」と返事があった。

木村さんは「戦争で辛い思いをするのは一般の市民。それはどこの国でも同じ。その思いが通じれば」といい、興味のある人に読んでもらえればと話す。

◆絵本と英訳冊子についての問い合わせは木村さん(tom1024mary@yahoo.co.jp

水彩画教室の展覧会に絵本と英訳冊子を展示したところ、多くの人が手にとった(右端が木村さん)=つくば市二の宮の洞峰公園、筑波新都市記念館・展示ホール

【戦後73年の記憶】2 誰にも言えない軍事機密情報におびえた 秋元君子さん(92)

0
戦争当時を振り返る秋元君子さん=土浦市中央

【田中めぐみ】土浦市の秋元君子さんは1926(大正15)年生まれの92歳。13歳の時、千葉県から土浦市に引っ越し、県立土浦高等女学校(現土浦二高)に転入した。戦争拡大に伴う労働力不足を補うために学徒動員が閣議決定され、卒業を前に休学。17歳で霞ヶ浦海軍病院(現霞ヶ浦医療センター)に動員された。庶務で、海軍の人事異動を記録したり、傷病者、戦死者の名簿作成をしたりして軍部に報告していたという。

その中でミッドウェー海戦の極秘情報を知った。「航空母艦『赤城』抹消、『加賀』抹消―」リストから削除していく。詳しい戦況は分からなかったが、航空母艦を失ったことを知った。大本営発表では公にされなかった。「こんなに船が無くなって大丈夫なのだろうか」と不安が募るが、誰にも言うことはできない。

職場には憲兵が頻繁に訪れ、目を光らせていた。母にさえ情報の内容は秘密だったが、察してか「誰にも話すんじゃないよ」と君子さんを心配したという。「今思うと怖いことをやっていたと思う」と振り返る。

父は軍人で、機上整備員をしていた。昭和18年末、「10月6日に戦死」という弔慰電報が届いた。軍部からの公報(死亡告知書)は出ず、問い合わせても情報は錯綜していた。翌年1月に公報が出て3月末の合同葬に間に合った。父の遺骨は帰って来ず、ハンカチや靴下といった遺品だけがきれいに畳まれて戻ってきた。遺骨を入れるはずの箱には石ころが入っていた。「南方だと思うがどこで死んだかも分からない。生死が分からないままの人もたくさん居た。公報を出してもらえただけ良かった」と気丈に話す。一人娘だった君子さんは母一人、子一人になった。

阿見大空襲で病床はいっぱいに

終戦の年、海軍病院の歩哨(ほしょう=見張り)が、霞ケ浦に米軍機がきりもみして落ちていくのを見たという。米兵は脱出、捕虜になったと聞いた。同年6月、土浦海軍航空隊が空襲を受けた。阿見大空襲である。「米兵を捕虜にした仕返しではないかと思った」と話す。病院には死傷者が次々と運ばれて病床はいっぱいになり、担架に乗せられ通路の両脇に並んだ。君子さんはその惨状を茫然と眺める他なかったという。

8月15日、玉音放送があり、午後の仕事はなくなった。それまでは軍艦マーチがかかっていたが、その日は誰が流したか、「波濤を越えて」というワルツが流れた。そこで初めて「ああ、これで平和がきたんだ」という思いがこみ上げた。帰る時、病院から街を眺めると、早い時間なのに街灯が付き、家々の電球も黒布が取れ、街に灯が戻っていた。先行きは全く分からなかったが、しみじみと平和の喜びをかみしめたという。

阿見大空襲の慰霊碑=土浦市大岩田の法泉寺

メモ
【ミッドウェー海戦】昭和17年6月、ミッドウェー島付近での日米海戦。米軍は作戦を早期に察知し、日本側に大きな損害を与えた。この敗北を機に日本は劣勢となったが、国民には知らされなかった。
【大本営発表】戦時中、日本軍の最高統帥機関が発信していた戦況の公式発表。

 

 

【戦後73年の記憶】1 忘れることできない東京大空襲 杉田とよさん(93)

0
週の半分を小規模多機能施設で過ごす杉田とよさん。後方の折り鶴はとよさんが折った=つくば市刈間

戦後73年目の夏がめぐってきた。戦後生まれが人口の8割を超え、遠くない将来に戦争体験を語ることができる人はいなくなる。繰り返してはならない悲惨な記憶を伝えるために、戦争体験者に話を聞いた。

【橋立多美】1925(大正14)年に筑波郡菅間村(現つくば市中菅間)に生まれた杉田とよさんは93歳。忘れることのできないのが東京大空襲だという。

当時とよさんは20歳。小石川に住んでいた親戚の家で大空襲に遭った。この家の夫婦には子どもがいなかったので、とよさんをかわいがってくれ、一人で上京していた。45(昭和20)年3月9日から10日に日付けが変わり、飛行機が飛来している音が近くなった途端、ものすごい爆風で窓ガラスが割れて家が大きく揺れた。とよさんは押し入れに逃げ込んで難を逃れ夫婦も無事だった。

米軍機B29の焼夷弾攻撃だった。攻撃が止んだまちには火の手が上がり、夢中で近所の人たちと防火用水槽の水をバケツリレーで運んだ。夜が明けると親類の家の2階は吹き飛ばされ、居間の火鉢の上に大きな石が乗っていた。3軒隣で食堂を営んでいた家族4人は、敷地内に穴を掘った防空壕に逃げ込んだが、爆風で飛んできたトタンや瓦などで生き埋めになり、地表に指3本が出ていたそうだ。

とよさんは「筑波山山頂に敵機監視所、作谷には陸軍西筑波飛行場と格納庫があったが、実際に攻撃されたことはなかったから恐ろしかった」と振り返る。

戦後は一層の食糧不足

同年8月に無条件降伏して戦争が終わり、戦地に行っていた兵隊たちが帰ってきた。その一人で、とよさんより1つ年上の次郎さんと翌年同市臼井に所帯を持った。当時2人が通った小学校は男女別学か、同じ学級でも「席は同じうせず」が当たり前。一緒に遊ぶことは厳禁で好きな子がいても遠くから目を見交わすだけだった。

お互いに好きだった2人が再会してとよさんのお腹に命が宿った。「今は珍しくない『でき婚』だった」と笑い飛ばす。

次郎さんは村役場の職に就き、3女1男に恵まれた。だが、食糧不足は戦中を上回って一層苦しいものとなり、4人の子を育てるのに配給米だけでは足りず、高い闇米を買うしかなかった。それでも、大根などの野菜を入れて量を増した「大根めし」が常食だった。「食べ物では苦労した」としみじみ話す。

とよさんは「また年寄りの繰り言かと耳を貸さない人もいるが、こんな時代があったことを知って欲しい」と話を締めくくった。

次郎さんは19年前に75歳で没した。とよさんは80年代、初めて次郎さんと手をつないで訪ねた草津白根山の湯釜で撮った写真を大切にしている。信頼し合い戦後をともに生きた証しだ。

とよさんが大切にしている写真。50代の2人が写っている

※メモ

【焼夷弾】対象物を貫通や爆破で破壊するのではなく燃焼させることを主眼に置いた砲弾や爆弾。戦時中は木造家屋が密集する都市で使われた。

稀勢の里、高安 回復ぶりアピール 大相撲龍ケ崎場所

0
鶴竜と対戦する稀勢の里㊧=龍ケ崎市中里の市総合体育館たつのこアリーナ

【崎山勝功】2018年度夏巡業大相撲龍ケ崎場所(同実行委員会主催)が9日、龍ケ崎市中里の市総合体育館たつのこアリーナで開かれ、牛久市出身の横綱・稀勢の里と、土浦市出身の大関・高安が約2500人の来場者を前に復活ぶりをアピールした。

7月の名古屋場所で初優勝した御獄海と対戦する高安㊨=同

高安は7月29日から始まった夏巡業の初日から右膝蓋(しつがい)腱炎(けんえん)で休場していたが、8月8日から巡業に復帰してこの日の龍ケ崎場所に姿を見せた。午前中の公開稽古では、土俵上で精力的にぶつかり稽古に取り組むなど、けがから回復した様子を見せた。7月の名古屋場所で初優勝した関脇・御獄海と対戦し高安が御獄海に突き出しで勝つと、場内から拍手が沸き起こった。

稀勢の里は横綱に昇進後、17年3月の春場所で負傷して以来8場所連続休場しているが、龍ケ崎場所では結びの一番に姿を見せた。横綱・鶴竜と対戦、寄り切りで倒し、小中学校時代を過ごした第二の故郷・龍ケ崎に錦を飾る取り組みを見せた。

観戦した中山一生市長は「稀勢の里は順調に調子を取り戻しているようだ。9月場所が楽しみ。高安もけがからの復活で、力強い相撲を取ってくれたので楽しみにしている」と、2人の活躍に期待を寄せた。

河内町の会社員女性(28)は「勢いがあってすごくかっこ良かった」、つくば市の山成真由美さん(31)は「初めて見たが、迫力があって興味がわいてきた」とそれぞれ感想を話した。

稀勢の里と高安は報道陣の取材に応じ、稀勢の里は、小学校時代に会場近くのたつのこ公園内の「たつのこ山」で遊んだ思い出や、小学4年生のときに少年相撲大会で5人抜きをして金メダルを取ったことなどを振り返った。自身の状態については「しっかり調整して来場所は活躍したい」と述べた。

高安は「茨城のたくさんの方に応援してもらっているので、どこかで恩返しをしなければと思っている。たくさん稽古してまた来場所に向かっていきたい」と意気込みを見せた。

県南地域での大相撲地方巡業は、12月22日に土浦市大岩田の霞ケ浦文化体育会館で「大相撲土浦・牛久場所」が開かれる。

母校の後輩が稀勢の里に花束

稀勢の里の母校、市立長山中学校の野球部員と、稀勢の里が小学校時代に所属した少年野球チーム「龍ケ崎ハリケーンズ」の選手たちが同日、稀勢の里に花束を贈呈した。

選手たちは、稀勢の里が小学生時代に通っていた市立松葉小学校の児童が作った「輝け 横綱稀勢の里先輩」の横断幕を背景に、花束を渡し握手をした。

長山中野球部員の田向陽祐さん(3年)は「非常に光栄。オーラがあった」と感激した様子で「生徒一同で応援したい。頑張ってほしい」と先輩の稀勢の里にエールを贈った。

横綱・稀勢の里と握手をする「龍ケ崎ハリケーンズ」の選手たち=同