金曜日, 11月 1, 2024
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コロナ禍困窮の受験生を応援 学費を最大4年間免除 筑波学院大

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筑波学院大学=つくば市吾妻

【鈴木宏子】コロナ禍で家計が困窮し大学進学を断念せざるを得ない受験生に、進学をあきらめないでほしいと、筑波学院大学(つくば市吾妻、望月義人学長)は来年度から、学費を最大で4年間免除する新たな特待生制度を開始する。

①高校の推薦を受けた成績優秀な生徒に、最大で入学金20万円と4年間の学費436万円の計456万円を免除する「指定校特待生推薦制度」と、②情報技術と英語の資格試験合格者にそれぞれ、最大で入学金のほか1、2年次の授業料を半額免除する「資格特待生制度」を創設する。

同大は現在も、入試の成績が優秀な学生を特待生として、初年度の授業料(71万円)の半額を免除する「一般特待生制度」を実施している。2021年度からはこの制度を大幅に拡大する。新制度は、経済的に困窮している家庭の生徒だけでなく一般の成績優秀な学生も対象となる。

「指定校特待生」は、同大が指定する県内外の167校の生徒が対象。同大を第一志望とし、校長が推薦する成績優秀な生徒に入学金や授業料を免除する。ただしテキスト代などは必要で、3年生に進級する際、成績等による再審査を実施する。

「資格特待生」は、新たな情報社会、Society(ソサエティ)5.0時代とグローバル化時代に活躍する人材を育てるため、情報処理技術者試験のITパスポート試験と、英検2級の合格者にそれぞれ入学金や1、2年次の授業料の半額を免除する。対象は各資格試験とも10人程度を見込んでいる。

同大は、経営情報学部ビジネスデザイン学科に「グローバルコミュニケーション」「ビジネスマネジメント」「地域デザイン」「メディアデザイン」「情報デザイン」の5つの履修コースがある。募集人員は計200人で、入試は学校推薦型選抜(推薦入試、募集人員50人)、一般選抜(一般入試、70人)、総合型選抜(AO入試、80人)がある。

詳しくは同大入試グループ(電話029-858-4811、Eメールnyushi@tsukuba-g.ac.jp

夏休みの思い出づくりに スタジオ’Sが工作・イラストをウェブで提案

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ガーランドカレンダーの完成見本(スタジオ’Sホームページより転載)

【池田充雄】関彰商事(関正樹社長)が地域の文化創造の場として運営している、つくば市二の宮のスタジオ’Sが「夏のキッズアート体験 2020-ONLINE(オンライン)」を開催中だ。家の中で楽しい時間を過ごすことができ、夏休みの作品づくりにも適している。

「キッズアート体験」は2016年から毎年夏と冬に体験型のイベントとして開かれてきたが、今夏は新型コロナウイルスの感染が拡大している状況から、ウェブでの開催となった。

シャカシャカカード(同)

2つあるプログラムのうち「おうちでワークショップ」は、家庭でできる3種類の工作メニュー「ガーランドカレンダー」「シャカシャカカード」「ビー玉めいろ」を紹介している。いずれも厚紙や段ボールなどを材料とし、型紙はスタジオ’Sのホームページからダウンロードできる。完成した作品や工作中の様子を写真に撮って投稿すると、オリジナルのスマホ壁紙がもらえる。また投稿写真のうち選ばれたものは、インスタグラムやホームページに掲載される。

ビー玉めいろ(同)

もう一つのプログラム「みんなでつくろう!こどもおえかき水族館」は、中学生以下を対象に、海の生き物のイラストを募集し、集まった作品をスタジオ’Sの壁に飾って、大きな水族館アートを作ろうというもの。募集は31日まで、公開は9月14日からホームページや各種SNSなどで行う。応募者の中から抽選で、自分の作品をプリントした水筒やトートバッグなどがもらえるプレゼント企画もある。

コロナ禍の今年は夏休みが短縮され、つくば市の小中学校は8月1日から23日、土浦市は8日から23日までが夏休みとなっている。加えて今年は地域の行事や催しが軒並み中止となり、旅行や帰省などを取りやめた家庭も多い。春の外出自粛期間ほどではないにしろ、子どもたちとって不自由の多い夏休みになっている。

この企画に携わった関彰商事総務部の草野伸一さんは「例年は会場に直接お越しいただき、筑波大学の学生にもお手伝いいただきながら制作していた。今年はこのような大変な時期でもあり、少しでも何かお役に立てればと思って企画した。一人でも多くの方にご参加いただければうれしい」と話している。

詳細は同ホームページへ。

【高校野球代替大会を終えて】㊦ 「野球の力を感じた」

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得点に湧く土浦湖北ベンチ。無観客のため当然観客席に人の姿はない

【伊達康】今大会は優勝してもその先に甲子園がないことが前提で開催された。小さな頃から甲子園でプレーすることを夢見てきた球児たちにとって喪失感は筆舌に尽くしがたい。

3月から5月半ばまでの学校の休校措置により春季大会は中止となり、多くのチームが通常の部活動すら行えない期間を過ごしてきた。

代わりに用意された代替大会。体裁上、表向きはみな優勝を目指して頑張るとは言いつつも、気持ちの整理を付け、失ったモチベーションを取り戻すことは容易ではなかっただろう。むしろ、モチベーションを失ったまま最後の大会に臨んだ選手がいたとしても不思議ではない。

大会中、何度か球場で取材をした。夏の大会では敗者は泣き崩れることが常であるが、今大会は敗者もそれほど泣くことなく、どこか達観した面持ちで球場を去る光景が見られた。

通常は、敗戦によって、もうこいつらと野球ができない、勝ちたかった、悔しい、無念だという様々な感情が押し寄せて泣きじゃくる者もいるのだが、今回は最初から甲子園への切符がない。敗者の感情の起伏という面からも今大会が持つ独特の雰囲気が感じられた。

「今が一番野球が楽しい」

つくば土浦エリアのチームではないが、私学4強の一角である明秀学園日立の金澤成奉監督が準々決勝後の囲み取材で語った今大会が持つ意味や、コロナ禍がもたらした変化などについて紹介し、今大会の総括としたい。以下は金澤監督の言葉である。

残りアウト一つになってもベンチ内で激しく檄(げき)を飛ばす金澤監督(右端)=ノーブルホームスタジアム水戸

「今大会の意味として一つ言えることは、非常に考える時間を与えてもらったということ。親のことであったり、甲子園がなくなったのになぜ野球をやらないといけないのかと、自問自答しながら野球をやっていく中で、野球って楽しいんだなというのが分かったような気がする。

毎週、選手に日誌を出させているが、日誌に書かれた3年生の言葉の中で、『今が一番野球が楽しい』と、『仲間と野球をやれる喜びを感じている』といった声が非常に多かった。そういった時間を与えてくれたから意味があったと思う。

甲子園という目標があると、私自身もそうだが、どうしてもそちらの欲の方に目が行きがちで、本来の小さな頃から野球をやり始めた時の気持ちというのを失いかけたりする。

この大会は、何のために野球をやっているのだろうとか、やり遂げることの大切さだったり、今自分があるこの場所、この時間、どういった方々のお陰で今があるのか、そういったことを考えさせられ、思いをはせることができた。

特に高校野球というのは保護者の方々の力が大きいので、感謝っていうことはどういうことなのかとか、恩返しというのはどういうことなのかを感じられた大会だったと思う。

特別な大会だったので、特別な思いでずっと一試合一試合大切にやってきた。勝つことを前提にしながら、逆にどういう終わり方をするのかというのを常に頭に描きながらやってきた。やりきった後、終わりを遂げる時に、選手たちに何かを感じてもらいたいという思いで。

本音を言うと9回までやりたかったが、自分の中ではやれることはやれたのではないかなと思う。子どもたちも大変満足した終わり方ができたのではないかと思う。

大会を通して結果が出なくて悔しい思いをした子だっているでしょうし、ヒットを打って親御さんが喜ぶ姿が見られた子もいる。

いずれにしても、子どもたちが頑張る姿でお父さんお母さんがさらに勇気づけられる。子どもと親の絆が深まる。本来スポーツが持つべき姿というか、野球をやっていたからこそ感じられたそれぞれの思いを感じられる。

そういう意味では大変有意義な時間が過ごせた。親御さんたちも、普段は練習までは見に来ないけど、やっぱり子どもたちの姿を見納めたいということで、練習から見に来られている姿を見て、失ったこともあったけど、得たものもあると思う。

そういったいろんな意味を含めた大会だった。こういう年だからこそ1日でも長く1試合でも多く共に戦おうと。こういう年だからこそどの時代よりもお前たちとずっと長く野球をやりたいということを話して、ほぼそれが達成できた。モチベーションが下がった時もあったが、お互いが声を掛け合いながら、やりきるということはどういうことなのか、やりきったときにどんな光景が見えるのかということを、この試合で感じたと思う。

コロナ禍に見舞われた世代だが、様々なことに打ち勝ってきたのが人類なので、そこで野球の力というかそういったことをお前たちは感じたはずだから、これからいろいろ場面で野球で培ったこの乗り越える力、やりきる力を発揮し、今後も、この思い出を大事にしてほしい。思い出は作るものではなく、できるものなんだなということが分かったと思うので、そういう野球の力で人生のあらゆる局面で打ち勝ってもらいたいなと思う」。

追い込まれたらスリーフィンガー分短く持ち、相手にプレッシャーを与えることをチームの徹底事項としている明秀学園日立。4番の久保田翔太であっても例外なくスリーフィンガーにする

心から感謝

大会が始まってみれば、無観客で例年通りとはいかずとも熱く盛り上がり、高校野球の話題が新聞紙上をにぎわせた。一般のファンもラジオやテレビ、速報サイトなどで楽しむことができた。

夏の甲子園と地方大会が中止になり、代替大会の開催自体が不透明だった5月下旬のことを考えると、大会期間中、関係者から陽性判明者が出ることなく日程を消化できたことは奇跡に近い。

新型コロナウイルスのみならず天候までもが足かせとなり日程が進まなかった。運営側の苦労は想像に難くない。当初予定していた県のナンバーワンを決めることはできず異例の4校優勝という形で幕を閉じたが、裏で支えた人たちの尽力には心から感謝したい。

(終わり)

《続・平熱日記》67 ヘビのはなし 「ハミ酒」のことなど

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【コラム・斉藤裕之】我が家の台所に「ハミ酒」と書かれたラベルの小さな小瓶がある。マムシの酒である。故郷ではマムシのことを「ハミ」という。恐らく「はむ」「噛(か)む」からきているのだと思う。このハミ酒は弟から譲り受けたもので飲むためのものではない。実は虫刺されの特効薬なのである。

1年前の実話である。長女の結婚式に出席するために弟夫婦が上京する前日。ほぼぽつんと一軒家の弟宅で、運の悪いことに嫁さんが黄色スズメバチに刺された。それも顔面。すぐに器具で毒を吸い取り、ハミ酒を塗ったそうな。普通に考えれば人前に出られないほどに腫(は)れ上がるはず。しかし次の日の結婚式にはそんなことがあった?というほどに腫れも引いた、晴れやかな笑顔で写真に納まっていたのだ。

八郷のお寺の裏山で薪割りの作業中にお茶を差し入れてくださる奥様が、母屋の玄関にマムシが入ってきて騒動になったという話をされたので、こんな逸話を披露した。

「というわけでとにかく、毛虫やなにかの正体不明の腫れ痒(かゆ)みには、迷わずこのハミ酒をちょちょっとつけると間違いなく治ります。だから今度マムシを見つけたら是非お酒につけて…」と奥様に勧めてはみたものの、自分でやるかと問われれば「否」。思えば奥様も尼僧であることを忘れて、殺生を勧めるとは実に罰当たりであったと少々反省した。

SNS書き込みの「蛇足」「やぶへび」

さて、いつの間にか本堂に足場が組んである。長雨で雨漏りがひどくなり、ついに瓦を葺(ふ)き替えるとのこと。お寺の屋根の曲線は球が転がるのが直線よりも速い。なんとか曲線でアールと物理の先生だかが言っていたのを思い出す。

かれこれ10年ほど前、藁(わら)葺き屋根に被せたトタン屋根の塗装を手伝ったことがある。古い民家の広くて急勾配の屋根の上での作業は想像以上に過酷で、半日も作業をすると足腰がやられる。おまけに船から降りても揺られているかのような錯覚に陥るのと一緒で、地上に降りると暫くは地面が傾いて感じられた。

前後して、隣にある納屋の解体を手伝っていた時のこと。てっぺんの棟のところの藁を外すと、大きなアオダイショウが巣を作って寝ていた。よく家の守り神だとか、寝ている時に梁(はり)から落ちてきたとか聞いたことはあったが、本当に居るのを見たときは感動さえ覚えた。

我が家にもヘビがいる。幼稚園児が作ったものだが、黄色の絵具で塗られたヘビは、見るからにお金を呼びそうな雰囲気を醸し出していたので、取り上げてアトリエの入り口のかもいに置いた。このヘビを作った子も今年で6年生。未だにヘビ様のご利益はない。

さて、そろそろSNSという道具もなんとなく使い方がわかってきた。ほとんどの書き込みは「蛇足」で、「やぶへび」にならないように熟慮すべきである。(画家)

【高校野球代替大会を終えて】㊤ 常総、夏1勝は創部以来初

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ほえながら投じる霞ケ浦の山本雄大投手。総和工打線をねじ伏せた=笠間市民球場

【伊達康】茨城の夏の高校野球代替大会は5日の準々決勝をもって終了した。勝利したのは霞ケ浦、土浦湖北、水戸啓明、明秀学園日立の4校だ。

「3年生全員」戦法通用せず

今大会で最も衝撃だったのは秋優勝の常総学院が、3回戦で多賀に2対3で敗退したことだろう。

大会前から菊地竜雅と一條力真のWエースは全国的にも有名なプロ注目の逸材だった。

初戦の2回戦では菊地が152キロ、一條は148キロとそれぞれ自己最速をマークし、前評判通り圧倒的な投手力を披露した。さらにベンチに入った31人の3年生全員が出場する離れ業をやってのけた。

力投した常総学院の菊地竜雅=ノーブルホームスタジアム水戸

ところが次の3回戦では「できるだけ多くの3年生を起用しながら勝つ」という戦法が通用しなかった。

3回表に連打やバッテリーミスで多賀に一挙3点を先制された。相手のエース神永耀生は2年生ながらこの日の最速139キロをマークするなど、常総学院打線とはいえ簡単には攻略できない、抜群にキレのあるボールで粘りの投球を見せた。

常総学院はチャンスをつくるものの、あと1本が出ず14残塁。7回と8回に1点ずつ返したが、3点が最後まで重くのしかかり敗れた。

佐々木監督は大会前に「コロナ禍で打者がバッティングの感覚を失っており打線が仕上がっていない」と漏らしていたが、不安が的中する結果となってしまった。

夏の大会で常総学院が1勝しかできなかったのは創部以来、初めてのことだ。敗戦の翌日、島田直也投手コーチが監督に昇格し、佐々木監督は新たに統括責任者の任に就くこととなった。常総学院の復権は島田新監督の手腕にかかっている。

タイブレーク救った大魔神・山本雄大

秋準優勝の霞ケ浦も総和工との3回戦で苦しんだ。霞ケ浦は2回裏に二死から4連打で4点を先制したが、総和工は3回表にタイムリーと2番・杉山紘也が肩口から入るカーブを叩きレフトスタンドに運ぶ2ランホームランで1点差とした。さらに6回表、内野安打と盗塁で無死二塁から、4番・横山耕希の三遊間を破るタイムリーで同点に追いついた。

流れは総和工に傾き始めたが、ここで2番手としてマウンドに上がった霞ケ浦のエース山本雄大が盗塁殺と二者連続三振に打ち取って流れを断ち切った。

その後は両者ともチャンスすら作れない。山本は雄叫びを上げながら力投を続けた。総和工の背番号10の先発・永井政人も最速123キロながら両サイドに丁寧に散らす投球で凡打の山を築いた。

3年生で戦うとしていた霞ケ浦であったが、9回裏には何とか攻撃の糸口をつかもうと非凡な打撃センスを持つ2年生の飯塚を代打で起用した。それでも結果はセカンドゴロに終わる。

試合は9回を終えても同点のままで、無死一、二塁から始まるタイブレークに突入した。ここでも山本は殺気だったような投球を演じ、最後のバッターを見逃し三振に仕留めた。6回途中からマウンドに上がり、打者14人に対して被安打1、奪三振9、無四球。相手打線をほぼ完璧にねじ伏せ、最速は自己記録を更新する143キロに達していた。

どちらに転んでもおかしくない息を飲む試合展開に張り詰めた空気が漂う。10回裏、山本の力投に報いるべく、霞ケ浦は先頭の小田倉啓介が送りバントで一死二、三塁とすると、2番・斎藤拓生がセンターオーバーを放ってサヨナラ勝ちを収めた。

10回裏、斉藤拓生の安打で生還した小勝亮央=笠間市民球場

山本の力投がなければこの試合は落としていたに違いない。そんな苦しいギリギリの戦いを乗り越えた霞ケ浦は次から王者の貫禄を取り戻し4回戦では打線が奮起して鹿島学園に11対1と大勝。続く準々決勝はエース山本雄大が圧巻のピッチングを披露し3対0で水城に勝利した。4校優勝とはいえ、霞ケ浦は2年連続で茨城の頂点に輝いた。

土浦ダービーとなった準々決勝

8月5日にノーブル水戸で行われた準々決勝第1試合は土浦日大と土浦湖北の土浦ダービーとなった。試合はボールのキレで勝負する土浦日大エースの中川竜哉と、剛速球でねじ伏せる土浦湖北エースの大坪誠之助の投げ合いとなった。

先手を取ったのは土浦日大だ。2回裏、先頭・中川がセンターへのツーベースヒットで出塁すると、送りバントがフィルダースチョイスとなり無死二、三塁とした。しかし、9番・中村はスクイズを2度失敗し空振り三振。後続も連続三振に倒れ絶好のチャンスを生かせない。

先制したのは土浦湖北だ。5回表、先頭の大坪がセンターオーバーのスリーベースを放つと、ボークで1点を先制。自らが先制のホームを踏んだ大坪はその後二塁を踏ませない圧巻の投球で土浦日大の反撃をしのいだ。さらに9回表、二死から3番・田中のセンター前ヒットと四球、ボークで二塁、三塁とすると,パスボールで2点目を奪った。

後がない土浦日大は一死から代打に関野を投入したが、大坪渾身の144キロストレートに空振り三振。二死から6番・菅野がライト前ヒットで出塁したが、中川はセンターフライで試合終了となった。

試合後、土浦日大の小菅勲監督は「大坪君が良かった。ヒットが出るには出たがつながりを欠いた。反面、相手は長打が出た後にワンチャンスをものにできた。ボークは仕方ない」とうつむきがちに淡々と語った。

ベストピッチで有終の美を飾った土浦湖北の大坪誠之助投手=ノーブルホームスタジアム水戸

土浦湖北の小川監督は「土浦市内同士の対決なので絶対に勝ちたかった」と満面の笑みがこぼれた。完封した大坪については「高校生活で最高の出来、ベストピッチ。6月からひじの調子が悪く長いイニングを投げさせなかった。序盤に点を取られたら替えようと思っていたが、あれだけ気持ちの入ったピッチングをしていたものだから替えられなかった」と絶賛した。

さらに「(梅雨で日程が延び8強決定の)8月2日で大会が終わると聞いたときはひじの状態もあるので、あと1試合なんだと安心した。でも後から、勝ったら(4強決定まで)もう1試合やると決まって不安で仕方なかった」と、日程変更にかかる素直な心境を吐露した。控えに回った選手については「荒木という最速143キロを投げる力のある投手が後ろに控えている。その子も出たかっただろうし、出してやりたかった」と気遣った。

土浦湖北はこの翌日から新チームで岩手に遠征した。外野にいる筆者は、勝った4チームで任意の準決勝と決勝をやればいいのではないかと考えていたが、当人たちは気持ちを切り替えて次に進んでいる。

(続く)

《邑から日本を見る》69 あなたにとって農協とは

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【コラム・先﨑千尋】郵便局やガソリンスタンドと同じに、全国どこにでもある農協(私はJAという言葉は使わない)。その農協は、国民に、農民に必要な組織なのだろうか。金を預ける。必要な金を借りる。生命や建物の保険(農協では共済)に入る。米や野菜、果物、肉などを買う。農業用資材を買う。別に農協がなくとも、今ではどこでも用が足りる。銀行も郵便局も保険、損保会社もある。

スーパー、コンビニ、ホームセンターがどこにもある。窓口対応は銀行や郵便局の方が親切かもしれない。ホームセンターなら何でもそろっているし、価格も農協よりもおおむね安い。だから農協なんか要らないではないか。組合員の多くはそう思っているのだろうと、私はこれまで考えてきた。

では実態はどうか。興味深いデータが最近発表された。全国農協中央会(全中)は先月29日、「JAの自己改革に関する組合員調査」の結果を公表した。この調査は、農協グループが組合員の意思を正確に把握しようと、2018年12月から1年かけて全組合員を対象に行ったもの。

その内容は、①農協の必要性、総合事業の継続、②営農関連事業への期待度・満足度、③営農関連事業の改善点、④農協の地域農業の振興や地域づくりの応援、准組合員の事業利用の制限―の4項目。准組合員とは、農協管内で非農家であっても、金融、共済、購買事業などを利用するために組合員になった人を言う(農家は正組合員)。

生活関連事業は地域の生活に定着

まず、その調査結果のあらましを見ておく。

農協の必要性については、正組合員の93.9%、准組合員の93.5%が「必要」「どちらかといえば必要」と肯定的に回答している。次に、農協の総合事業(金融、共済、資材の購買、農産物の販売、営農指導、農産加工などの事業を1つの農協が総合して行う日本独特の運営方式)については、「継続すべき」「どちらかといえば継続すべき」を合わせた肯定的な回答が91.7%に達している。

農協事業の中で期待度が高いのは営農、販売事業で、生産資材の期待度はそれよりも低くなっている。ホームセンターが随所に立地している現況を反映していると見ていい。しかし満足度では、営農指導、販売、生産資材いずれも「満足」が4分の1前後しかなく、「やや満足」が40%近くと、期待は大きくとも農協がそれだけの対応をしていない状況が読み取れる。

国の規制改革推進会議は、以前から農協の准組合員制度に異議を唱え、なんとかこの制度を除外もしくは利用制限しようと提言してきた。しかし、今回の結果では9割前後が「これまでと同様、利用制限しない方がいい」と答えており、金融・共済、葬祭などの生活関連事業が准組合員を含めた地域の人々の生活に定着していることを示している。

農協組織は本来、力が弱い人たちが集まって作った自主的な組織だ。野放図な運営は社会的な影響が大きいのでそれは困るが、どのような運営を行うのかは組合員が自ら決めることだ。国といえども運営に介入してはならない。中山間地域では農協しか存在していないところもある。地域社会でなお必要な組織であると多くの人が考えていることが、今回の調査結果で分かった。(元瓜連町長)

つくばの仁王、ガマ、犬がマスク 感染拡大防止と終息願い

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マスクを着けたつくば山水亭の仁王像=つくば市小野崎

【鈴木宏子】新型コロナウイルスの感染者数が再び増加する中、つくば市小野崎の料亭「つくば山水亭」の仁王、筑波山中腹「つくばグランドホテル」のガマ、筑波山麓の犬のテーマパーク「つくばわんわんランド」の木造犬がマスクを着け、感染拡大防止を訴えている。

山水亭の仁王は、口を開けた阿形(あぎょう)と、口を結んだ吽形(うんぎょう)の頭部像2体で、玄関前に置かれている。筑波山麓で産出された御影石「真壁石」で造られた守護神で、台座を含め3メートルほどの高さがある。着用したマスクの大きさは縦90センチ、横2メートル程。感染拡大防止と終息を願いながら、白いサテンの生地を縫い合わせ、スタッフが夜なべして手作りしたという。

つくばグランドホテル、フロント前のガマの親子像を案内する小林剛支配人=つくば市筑波

グランドホテルのガマは、筑波山名物「ガマの油」にちなんだ親子像で、フロント前に置かれ、登山客や観光客を長年見守ってきた。親ガマは体長1メートルほどの石彫、背中に乗った子ガマは20センチくらいの木彫。マスクは市販の紙マスクなどを加工してスタッフが手作りした。

つくばわんわんランドの木造犬=つくば市沼田、つくばわんわんランド提供

わんわんランドの犬は、モックンと名付けられた高さ約11メートルと世界最大級の木造犬で、マスクの大きさも縦2.4メートル、横5.3メートルと巨大。こちらもスタッフが白いシーツを縫い合わせて手作りした。(6月18日付)。

いずれもサンスイグループ(東郷治久代表)が運営する。仁王とガマは7月末、犬は6月半ばからマスクを着用している。3施設とも政府の緊急事態宣言が発令された4、5月に一時期、休業を余儀なくされた。再開し、それぞれのスタッフが願いを込めてマスクを手作りした。

つくばグランドホテルの小林剛支配人は「感染者が増えてきている中、一人ひとりが気を付けないと終息はない。感染拡大防止と終息を願ってマスクを着けた」と話している。

《霞月楼コレクション》5 小林巣居人 田園と水郷を生涯描いた自然画人

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霞月楼

芋銭・百穂の二師に鍛えられる

【池田充雄】小林巣居人(そうきょじん)は1897(明治30)年、稲敷郡長戸村(現龍ケ崎市半田町)の農家に生まれた。本名は善。長戸尋常小学校(現長戸小学校)を経て、1911(明治44)年に長戸農業補修学校を卒業、地元の青年学校で農業指導助手を務めた。

作品名・制作年不詳 紙本彩色額装 71×48cm 霞月楼所蔵

1917(大正6)年に画家を志し、牛久の小川芋銭を訪ねる。芋銭の勧めで翌年春に上京し、平福百穂の画塾に入門。後に巣居人は「第一の師・芋銭より発想の自由を教えられ、第二の師・百穂からは厳しい写生を叩きこまれた」と語っている。

1921(大正10)年の第2回中央美術展に初入選。茨展には1923(大正12)年の第1回から出品、2~5回に県賞を連続受賞し、その後無鑑査。院展では1928(昭和3)年の第15回展に「竹林」で初入選、1931(昭和6)年には院友に推挙され、画壇の評価を高めていく。

1929(昭和4)年に帝国美術学校(後の武蔵野美術学校、現武蔵野美術大学)が開校すると、日本画科長の百穂の下で助手として勤務。芋銭との交流も続き、1935(昭和10)年には銚子市海鹿島の潮光庵で数カ月にわたり起居を共にして制作を助けた。余談だが海鹿島は竹久夢二の詩「宵待草」の誕生の地でもある。

院展を出て新興展を設立・再興

1937(昭和12)年、同志11人と共に日本美術院を脱退し「自由拘束なき新興清新なる芸術」を目指して新興美術院を結成。だが1943(昭和18)年の第6回新興展に出品した「土機光象」を巡り意見が対立、巣居人ら3人が同院を脱退する。

小林巣居人

戦時疎開を経て1946(昭和21)年、新治郡高浜町(現石岡市高浜)の篠目(笹目)八郎兵衛の下に移住。八郎兵衛は霞ケ浦に蒸気船を導入した水運業の大立者で、土浦の色川三郎兵衛らと共に日本鉄道土浦線(現JR常磐線)の開通にも尽力した。芋銭の支援者でもあり、潮光庵も篠目家の別荘だった。

この頃の巣居人の活躍は多岐にわたる。1947(昭和22)年の土浦市美術協会設立に協力、1949(昭和24)年の県南美術協会展で審査員。1948(昭和23)年に武蔵野美術学校教授に就任。1950(昭和25)年には戦時中の混乱で途絶していた新興美術院を再興。県展では1952(昭和27)年から審査員を務めた。後の県芸術祭にも晩年まで出品を続け、没後の1979(昭和54)年に「小林巣居人賞」が創設された。

故郷の土と水に生きる小さな命

巣居人は故郷の身近な自然を生涯描き続けた。当初、師2人から得た「枝上人」「巣居」の雅号はいずれも、その人の心の置き所を示すかのようだ。幼少期より育まれた土への親しみは「土機光象」で結実した。上巻では地上の花や鳥や虫などが、下巻では地中の球根やドジョウやタニシなどが、それぞれに生を謳歌する作品だ。自然界の小さな命を愛おしむ心は、宮沢賢治の世界観とも共鳴し「やまなし」「よだかの星」などの作品を生み出した。

「よだかの星」(部分)1951年 紙本彩色屏風二曲一双 第1回再興新興美術院展 茨城県近代美術館所蔵

戦後は高浜を拠点に、水面の移ろいや風に揺れる芦原など、霞ケ浦の風物を主な題材とした。1957(昭和32)年の東京転居後もこの傾向は続く一方、湖面の波立ちや雲の流れをリズミカルに描くなど、表現の様式化・抽象化が進んだ。1958(昭和33)年から約10年間、日本橋の三越本店で個展を開くが、この頃には画面構成はより装飾的になり、色彩もより鮮やかさを増していった。冒頭に掲げた霞月楼所蔵の作品にも同時期の特徴がよく出ている。

老境にたどり着いた清澄な世界

巣居人は1975(昭和50)年、妻の療養のため高浜へ戻った。最晩年の作品では穏やかな色彩と柔らかなタッチで清澄な世界を作り上げた。「春雪」では静かに舞い落ちる淡雪を小鳥たちが見上げ、春の到来を予感する様子を、優しい眼差しで描いている。1978(昭和53)年、81歳で他界。その遺風は三男の小林恒岳が受け継ぎ、高浜や八郷の自然を慈しむ作品を描いていたが、彼もまた2017(平成29)年に鬼籍に入った。

「春雪」1977年 紙本彩色額装 72.5×99.5cm 秋季新興展 茨城県近代美術館所蔵
  • 取材協力・参考資料 茨城県近代美術館▽図録「小林巣居人遺作展」(1980年、茨城県立美術博物館)▽図録「小林巣居人の世界」(2010年、茨城県天心記念五浦美術館)▽図録「小林巣居人・恒岳展-故郷への思い」(2013年、茨城県天心記念五浦美術館)▽図録「故郷を愛した作家たち」(2014年、とりでアートギャラリーきらり)▽画集「田園の詩」(1982年、京都書院発行)▽雑誌「常陽藝文」1999年3月号(常陽藝文センター発行)

シリーズ協賛 土浦ロータリークラブ 土浦中央ロータリークラブ

《食う寝る宇宙》67 ネオワイズ彗星観察、筑波山に阻まれる

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【コラム・玉置晋】2020年3月に発見された新彗星(すいせい)「ネオワイズ彗星」が7月に肉眼で見えるというニュースが流れ、観たいなあと思っておりました。都市部で天体を観るためには、肉眼だと1~2等級の明るさにならないと厳しいです。だから、彗星を肉眼で観られる機会はそうそうありません。

20年以上前になりますが、僕が高校生のころ、学校の帰り道、自転車をこぎながら「百武(ひゃくたけ)彗星」(1996年に接近)を観て以来でしょうか。ボヤ~とした小指の先ぐらいのコマがみえたものです。その数年前には、ハレー彗星(1986年に接近)も大きな話題になりましたね。

そんなわけで、是非とも観たかったネオワイズ彗星。今年は6月ごろから雨続きで、全く夜空を楽しめませんでしたが、7月19日には久しぶりに晴れ。今日こそは「観るぞ~」と決意していました。どちらの方角を向けばよいのか調べたところ、北西方向、地平面から拳(こぶし)2個分の高さとのこと。随分、低いところなのね。

僕が住んでいるのは茨城県土浦市。自宅窓から北西方向を観ると、そこには標高877メートルの筑波山。我が家から見て、拳5~6個分の高さでございます。「筑波山、どいてください!」。結局、ネオワイズ彗星を観ることはできませんでした。残念!

新たな太陽活動サイクルの始まり?

話を変え、最近の話題を紹介。太陽活動は11年周期で、活発な時期と静穏な時期を繰り返しています。今は、1755年に記録が始まった第1太陽活動サイクルから数えて、24番目の活動サイクルの末期の極小期におります。

太陽を眺めてもほとんど黒点が現れない状態が続き、このまま地球は氷河期に突入してしまうのではないかという話もチラホラ出ておりましたが、ここに来て黒点が姿を現すようになりました。黒点は強い磁場を持っており、S極とN極のペアで現れます。

S極とN極の並びがポイントで、太陽活動周期により入れ替わります。太陽の北半球の場合、今の第24太陽活動サイクルでは、地球から見て右側がS極、左側がN極という並びだったのですが、今見えている黒点の並びは右側がN極、左側がS極(南半球では順番が反対)です。次の第25太陽活動サイクルの並びに他なりません。

間もなく、新たな太陽活動サイクルの始まりが宣言されることでしょう。第25太陽活動サイクルのピークは2025年と予想されています。(宇宙天気防災研究者)

市民の意見を反映 県内議員向け改正バリアフリー法学習会

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ウェブ開催となった「バリアフリー法学習会」の参加者

【川端舞】2018年の改正に続き、今年5月に再改正されたバリアフリー法のオンライン学習会がこのほど、県議会と県内市町村議会の議員を対象に開催された。バリアフリーに関する促進方針(マスタープラン)や基本構想を市町村が策定することが2018年に努力義務になったが、参加した議員からはマスタープランなどを作成するよう自治体に働きかけたいなどの意見があがった。

発言できる当事者リーダーの育成

主催したのは、茨城に障害のある人の権利条例をつくる会(事務局・水戸市)。学習会には県議会と市町村議会の議員10人が参加した。

改正バリアフリー法の要点やマスタープラン、基本構想について、障害者の全国組織であるDPI日本会議の佐藤聡さんと尾上浩二さんが説明した。2人はバリアフリー法改正にも関わった。

マスタープランは、その市町村の中で優先的にバリアフリー化の促進が必要な地区を設定するなど、市町村全域のバリアフリー化の基本方針を定めるものである。一方、マスタープランで設定した特定の地区において、バリアフリー化するための具体的な事業について書かれたものが基本構想だ。

マスタープランや基本構想を策定するときは、障害者や高齢者をはじめとした市民の意見を反映することが求められる。学習会では、市民の意見を反映して作られた兵庫県明石市のマスタープランが紹介された。マスタープランをもとに、実際にバリアフリーなまちづくりを進める際も市民の意見を反映する仕組みがある。

明石市のマスタープラン策定にも関わった尾上さんは、「障害者らから意見を聞くことで、最初は自分が何に困っているか話せなかった障害者が、だんだん自分の意見を言えるようになった。バリアフリーなまちづくりに市民の意見を反映させるためには、発言できる当事者リーダーを育てることも大切だ」と語った。

県内市町村にマスタープランを

今年3月時点で、県内でマスタープランを策定している市町村はまだない。基本構想は土浦市を含め県内7市で策定されているが、「バリアフリーの取り組み事例を市民に情報発信する」のように、具体的な事業計画まで落とし込めないものは、マスタープランには反映できるが、基本構想には書けない。

尾上さんは参加した議員に対し、「バリアフリー法が改正されたのを機に、県内市町村にマスタープランや基本構想の策定に取り組んでほしい」と訴えた。

また、市民から市町村にマスタープランや基本構想の作成を提案することもできる。「多くの人たちと、誰もが住みやすい茨城をつくりたい」という思いを掲げる「-つくる会」では27日午後2時から、市民向けの改正バリアフリー法学習会をオンラインで開催する。

◆市民向け改正バリアフリー法学習会の詳細はこちら

《つくば法律日記》10 歴史の教科書から学ぶこと

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堀越さんの事務所があるつくばセンタービル

【コラム・堀越智也】山川出版の詳説世界史を読んでいる。人は30代になると走りたくなり、40代になると歴史から学びたくなるというのが、僕の持論である。本屋では、歴史から勉強する系の本が平積みになり、ネットでは歴史を学ぶ動画が人気を博している。

ところが、歴史の教科書や本は、過去を知るという意味では学べるけど、未来を予測するということでは、なかなか学ぶことが難しい。考えてみれば、僕らの子どものころの教科書が未来を予測していていたかと言えば、その記載とは全然違う未来になっている。

教科書には書いてはいないが、大人は第3次世界大戦の可能性を語ったり、恐怖の大魔王が降ってくると脅かしたりと、僕は未来への恐怖心を煽られた。しかし、これらは現実化していない。戦争を繰り返してはいけないので、第3次大戦の可能性を語ることは大事だっただろうけど、世界を揺るがすのは戦争だけではなさそうだと、withコロナで知ることになる。

過去の感染症や伝染病の記述はないわけではないが、教科書にはさらっと記載されているだけで、未来への不安としては書かれていない。14世紀のイギリスとフランスの100年戦争のころにペストが流行したと書かれていると、昔のこととさえ感じる。

教科書についてネガティブなことばかり書いてしまったが、教科書は予言書ではないので、未来がこうなると書かれているはずがない。僕らのほうこそ、教科書に書かれた事実から未来を予測しなければならないし、よい未来にする努力をしなければならない。

未来を予測して何をすべきかを考える

ただ、教科書や学校の勉強だけで、未来を予測できるはずがない。僕が高校を卒業したのは1993年だけど、そこまでの勉強で、2年後にWindows95が出てインターネットで世界がつながるなんて分からなかったし、スマホでいろいろなことができるようになるなんて予想できなかった。

予想できるはずがないと開き直っているのではない。ネットの存在は知っていたし、例えば慶應大学に湘南藤沢キャンパス(SFC)ができて、こんな社会になるとなんとなくは言われていた。それでも高校を卒業する段階で、僕みたいに未来を予測せずに人生設計をしている若者だらけだったのは、まずかったのではないかと思い、皆で反省したいと思っている。

この15年くらい、日本は世界で1人負けしたと言われている。今年は戦後75年の年だけど、この間、戦争がなくてよかったと思っている日本人が大半だと思う。もちろん僕も、世界大戦が起こらなくてよかったと思っている。

だけど、戦争でない戦いで大敗を喫しているかもしれない。この15年、日本が1人負けしたと言われると、僕のようにのんきな高校生がいたせいなのではないかと、思ってしまうことがある。だから、歴史から学びつつ、未来を予測して、何をすべきかを考えたくなる。

日本は、第2次世界大戦後に、僕らの親の世代の努力のお蔭で高度経済成長を遂げた。今の僕らは、大敗を喫した直後で、僕らの親の世代と同じように突き抜ける努力をしないといけないのではないか。

そうは言っても、第2次大戦後の高度成長のころとは、重大な違いがある。それは、何をどう努力すればいいのかが分かりにくいことだ。だから、歴史を学びつつ、未来についても語り合い、あるべき成長を遂げたいと思う、戦後75年夏。(弁護士)

公共施設併設のスーパー誘致 つくば市茎崎庁舎跡地

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茎崎庁舎跡地。右側の建物が茎崎保健センター

【鈴木宏子】2016年に庁舎が解体されたつくば市小茎、旧茎崎庁舎跡地(約1.15ヘクタール)の利活用に関する地元説明会が7日、茎崎交流センターで開かれた。市公有地利活用推進課は、敷地の一部に立地している市茎崎保健センターを解体・撤去し、跡地に公共施設併設のスーパーやドラッグストアなど商業施設を誘致する案などを説明した。

参加した市民からは、現在の茎崎保健センターが担っている公共機能を維持するよう求める意見が相次いだ。スーパーの誘致については、懐疑的な意見と、一刻も早く誘致を進めるよう求める意見の両方が出され白熱した。

3案を提示

説明会で市が提示したのは、①約1500平方メートルの平屋建て商業施設に、約540平方メートルの平屋建て公共施設を併設し、約200台の駐車場を整備する②約1900平方メートルの平屋建て商業施設に、約530平方メートルの2階建て公共施設を併設し、約200台の駐車場を整備する③約2300平方メートルの平屋建て商業施設と約640平方メートルの公共施設を別々に整備し、約170台の駐車場を整備するーの3案。

整備手法は、築40年ほど経つ保健センターを市が解体し、庁舎跡地を民間事業者に賃貸する。民間事業者は公共施設併設の商業施設と駐車場を整備し、民間が整備した公共施設を、市が民間から賃借する。商業施設と公共施設を別棟で整備する場合、公共施設は市が建設する。

整備する公共施設には、市役所窓口と相談センター、運動スペース、調理室をつくり、現在、茎崎保健センターにある機能を概ね維持できるようにする。ただし公共施設を別棟で建てる場合は、埋蔵文化財の調査が必要になるという。

スケジュールとして市は、地元住民の意見を聞いた上で、今年12月までに公募条件を定め、来年3月までに商業施設を公募したいとしている。

概算事業費は、市が保健センターを解体する費用が2億円、①平屋建て商業施設に平屋建て公共施設を併設する場合は、駐車場の整備費も含め民間の負担が約14億円②商業施設に併設する公共施設を2階建てにする場合は、エレベーター設置が必要になることなどから民間負担が約16億円③商業施設と公共施設を別々に建設する場合は民間負担が12億円、市の負担は保健センター解体費や埋蔵文化財調査、公共施設建設費を含め計7億円になるとした。

その上で市としては、総事業費が最も少ない、商業施設に平屋建て公共施設を併設する①案が最も優れていると説明した。

7日の地元説明会の様子=茎崎交流センター

意見相次ぎ白熱

7日の説明会には約35人が参加した。市民からは「現在の茎崎保健センターの機能を維持してほしい」「公共機能維持プラスアルファがあればいい」「下岩崎の茎崎老人福祉センターも老朽化しており、それらをセットにして茎崎全体の公共施設の老朽化対策を考えてほしい」などの意見が出された。市は保健センターの機能について「40歳以上の集団健診については最悪、谷田部保健センターになる可能性もある」などと話した。

商業施設誘致については「実際に民間の出店意向はあるのか」「茎崎は人口が減少しており中途半端な(規模の)スーパーなら閉店してしまう」など懐疑的な意見が出された。市が「具体的に民間事業者に当たっていることはなく、住民の理解が得られてから民間にヒヤリングしたい」と答えると、住民から「絵に描いた餅では」と反論が出るなどのやりとりもあった。一方「買い物ができ、家族で集える場所が身近にあればありがたい」「(商業施設誘致を)早く進めていただきたい」などの賛成意見もあった。

旧茎崎町は2002年につくば市に編入合併後、2010年に庁舎を閉庁した。その後16年に庁舎が解体され、現在は一部がバスターミナルとなっている。

跡地活用については、17年に民間事業者を対象にした聞き取り調査を実施、公共施設併設型スーパーやドラッグストアの提案があったことから、翌18、19年に区会連合会役員やPTA役員らと意見交換し、今回の3案が出来上がった。

地元説明会は8日にも開かれる。

京都発、世界を巡って茨城着 古民家ゲストハウスの若女将

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ゲストハウス「江口屋」を切り盛りする若女将、森田千亜紀さん

【相澤冬樹】かつては夏の遊泳場としてにぎわったかすみがうら市の歩崎、今では自転車道「つくば霞ケ浦りんりんロード」をやってくるサイクリストが脚を休める。そんな行楽スポットに先月お目見えした古民家改装のゲストハウスが、いきなり8月末まで満杯の宿泊予約という盛況ぶりだ。訪ねると、宿を切り盛りする若女将(おかみ)、森田千亜紀さんが京都弁で迎えてくれた。

森田さんは京都・伏見の出身、2カ月前に東京から土浦市内に居を移し、かすみがうら市の第3セクター、かすみがうら未来づくりカンパニー(今野浩紹代表)に入社した。同市どころか茨城にも縁がなかったが、東京で「ゲストハウスをやれるところがないか」と人づてに探しあてたのが、同社が指定管理者となり開設するゲストハウス「江口屋」だった。

同市坂の歩崎公園近くにある江口屋は、明治後期に建てられた築110年の古民家を改築した宿泊施設。元の造り酒屋の屋号を受け継ぐ形で、7月下旬オープンした。敷地面積約3000平方メートル、建物は約190平方メートル、外観は合板葺(ふ)きだが、内部には茅葺きがまだ残っており、平屋建てらしからぬ屋根の風格がある。東に開けた和障子越しに、霞ケ浦から昇る朝日が望めるロケーションだ。

元は造り酒屋だった「江口屋」、内外装とも装いを新たにした=かすみがうら市坂

和室と洋室の全3室のほか食堂や広間を備える。部屋は通常1室2人で、新型コロナ対策から週末のみ2家族限定の宿泊を受け入れる形で予約をとったところ、早々に8月中の予約が埋まった。いばらき応援割(茨城県宿泊促進事業)を利用した県内からのお客たちだった。

1泊朝食付きの宿泊料金は大人(中学生以上)1人7000円(税別)、毎朝かまど(羽釜)で炊き上げるご飯をはじめ、地場産の野菜などで朝食が提供される。平日は日中、バーベキューや石窯ピザづくりなどが楽しめる体験プログラムを用意している。

世界22カ国の食卓を巡った

森田さんは子供時代の境遇もあって、大家族の生活や大人数で囲む食卓にあこがれた。ボランティアで子供食堂の手伝いなどもしていたといい、2017年には思い立って「世界の食卓を巡る旅」に出た。観光地やレストランの食事ではなく、暮らしのなかにある「食卓」を見てみようという意図だった。

旅はインドから始まり、中東、ヨーロッパからアフリカに入り、マダガスカルやサモアなど22カ国に及んだ。「インドでいきなり食中毒になり、止めたくなったけど、出国して2週間では帰られへん」と踏ん張った。基本お金で謝礼を払うことはなく、食材を持ち込んだり子供の世話などをして交流する付き合い方を身に着けた。モロッコではラマダン(断食)明けの食事に招かれ、「生きているヤギをさばき、皮も骨も無駄にせずいただく経験ができた」そうだ。

1年2カ月の旅の後帰国、今度は自分がホストとなる「ゲストハウス」に携わりたかった。昨年秋にかすみがうら市から話があり、新型コロナの影響であきらめかけた時期もあったが「三密」対策や部屋をローテーションで使いながらの消毒対策などを講じて、今夏のオープンにこぎつけた。

森田さんは滑り出しの手ごたえを、「いらしてくれた方に“おばあちゃんの家に来たみたい”とか、“また帰ってくるね”とセカンドハウスのように使ってもらえているのがうれしい」と語る。毎月第一水曜日に定例の交流会を開いていく計画もあるそうだ。

◆問い合わせは、かすみがうら未来づくりカンパニー(電話029-840-9010)。ゲストハウス「江口屋」の案内はこちら

《茨城鉄道物語》4 ブルネル賞って なんだっぺ

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JR日立駅の駅舎内から見える太平洋にせり出したカフェ=写真サイト「海の見える駅」提供

【コラム・塚本一也】皆さんは「ブルネル賞」という賞をご存じだろうか? 鉄道関連施設のデザインに対する国際的な賞で、鉄道のノーベル賞ともいわれている。受賞対象は、駅舎、鉄道インフラ、関連施設、工業デザイン、車両の5つの部門に分かれており、部門ごとに優秀賞と奨励賞が選定される。

第1回表彰式は1985年に英国で行われ、以後2~3年ごとに不定期で開催されている。JR東日本の代表的な受賞作品としては、第4回(1992年)の成田エクスプレスや第12回(2014年)の東京ステーションシティが挙げられる。

私たちに身近なところにも、ブルネル賞を受賞した作品が3つある。1つは、日本が初参加した第3回(1989年)に奨励賞を受賞した651系「スーパーひたち」である。そのスタイリッシュな外観デザインは「タキシードボディ」とよばれ、毎時130キロの運転で疾走するスーパー特急の先駆けとなった列車である。

2番目が、第6回(1996年)に駅舎部門で奨励賞を受賞した水郡線の磐城塙(いわきはなわ)駅である。同駅は、JR東日本が水郡線の各駅舎に対して取り組んだ、都市機能と鉄道駅舎を一体化した「合築駅」という施策の一環として建築された。設計は東北大学の伊藤邦明先生(故人)で、設計監理はJR水戸支社が行った。

ガラス張り外装のJR日立駅

3番目は、第12回(2014年)に優秀賞を受賞した常磐線日立駅である。同駅は日立市出身で水戸一高OGでもある妹島和代先生が設計した。妹島先生の設計は、細長比ギリギリかと思われるような柱で支えられた、大きなガラス張りの外装が特徴的である。

実は、日立駅のオープニングセレモニーは2011年3月13日を予定していた。その前々日に東日本大震災に被災したわけだが、たいした損傷もなく済んだということである。妹島先生の設計がデザインだけでなく、構造的にも優れていることが実証されたエピソードである。同駅は太平洋を一望できるカフェが有名であり、筆者も一度訪れてみたいと思っている。

このように、地方支社の管轄でブルネル賞作品が3点もあることは、JR東日本内では大変珍しいケースである。651系のスーパーひたちはすでに廃車となっているため、現在では乗車体験することはできないが、磐城塙駅と日立駅は現存している。是非、読者の皆様にも見学に行っていただき、鉄道建築の斬新さと奥深さを味わっていただきたい。(一級建築士)

事務処理ロボットRPA 県が20業種で導入、業務時間6割削減 

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茨城県庁

【山崎実】2019年度からRPA(ロボティック・プロセス・オートメーション、ソフトウエアロボットによる業務自動化)を本格導入した茨城県が、その実証効果を明らかにした。

県行政経営課によると、昨年度は20業種でRPAを導入した。ICT(情報通信技術)を活用した業務の生産性向上が目的で、働き方改革の一環だった。

結果、職員の業務時間を、導入前の年5万8593時間から2万2810時間と、3万5783時間(見込み)の削減効果が得られたという。特に県立学校教職員の出張旅費入力業務では、年1万6354時間の削減ができたとしている。

財務会計システムを利用するRPAは新型コロナウイルス感染拡大防止協力金の支給にも活用し、支払い処理に要する時間を1件当たり12分から2分へと約80%短縮した。

同課は、今年度も介護支援専門員の登録業務、不動産取得税の税務情報入力業務、小中学校非常勤講師の給与支払業務や児童福祉施設への委託費集計事務、源泉徴収一覧表の作成ーなど20業務にRPAの導入を予定している。

これまでの実証効果を踏まえ同課は「引き続き現場の政策立案、対外的な調整業務や、県民サービスの向上に職員が傾注できるよう。業務改革を推進していきたい」としている。

《ことばのおはなし》24 私のおはなし⑬

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【コラム・山口絹記開頭手術は9時から始まった。手術室の前まで見送りに来た母と妻と娘に何か声をかけようとしたが、直後娘が転んで泣き出してしまった。少し迷ったが、娘をあやす妻を見ながら、手を振って手術室へ入った。

こたつのように温かい手術台の上に横たわり、麻酔を投与される。「よろしくおねがいします」と言い終わる前に気を失った。掴めそうなほど濃い闇に包まれる。水の中をとてつもない速さで移動しているように感じた。それでも抵抗はほとんど感じない。まるで自分の身体が流線型になってしまったようだ。気まぐれに差し込むビロードのようなコバルトブルーの光に、やはりここは水の中なのだと確信する。

遠くから、何かが近づいてくるのが見えた。おびただしい量の巨大で直方体の黒い柱がクジラの群れのように通り過ぎていく。私の身体は、音もなく柱の隙間を縫いながら浮上し始めた。水面から飛び出すと同時に眩しさに目を細める。

足元を見ると、妻と母と目があった。なるほど、とりあえず生きているらしい。右手をあげようとしたが動かない。覚悟はしていたことだ。何か、2人を安心させられるようなことばを探した。酸素マスクが邪魔だが話せそうだ。

「…脂っこいラーメンが食べたい」

2人は少し笑ってくれたが、言い終わらないうちに肩から頭にかけて痛みが走った。頭が痛いのは当然だが、肩の痛みもただごとではない。それも、ラーメンどころか12時間は水すら飲めないらしい。

トイレ問題以外は術後経過良好

ICUから人がいなくなると、ほとんど動かない右手の状況把握に移った。左手で触ると、かなり強い麻痺がある。肩と親指、人差し指、中指は少しだけ動くが薬指と小指は全く動かなかった。少しリハビリすればギターで簡単な曲くらい弾けそうだ。右脚も動くようだし、状況はかなり良いと言える。

その後、痛みで眠れない12時間はひたすら右手のリハビリにあて、なぜか朝には右手の動作がほぼ復活した。昼には尿道カテーテルと頭部のドレンも外れ、一般病棟に移された。鎮痛剤を限度いっぱい打ち、顎(頭蓋骨)の痛みに耐えながら昼食をとり、ぐったりと横たわっていると、尿瓶を持った看護師が現れた。

リベンジの時が来たらしい。看護師がまだ部屋にいるのもお構いなしに尿瓶を掴んでズボンとパンツを下ろし、ベッドの角度を調整した(この日のために尿瓶の使い方は調査済み)。いける。

途端、私は変な声を出して尿瓶を抱きかかえるようにベッドにうずくまった。激痛。股間が破裂したのかと思ったが、どうやらカテーテルの影響で膀胱(ぼうこう)に溜まった空気が排出されたらしい。なんということだろう。パニックになりながらも意味不明な怒りが湧くほどの痛みである。(空気は2日間にわたって出続け、夢にまで見た。術後数日間の日記の記録はほとんどトイレ事情のことで、他人が読んだら私が何の手術をしたかわからないだろう)

トイレ問題以外は術後の経過は笑ってしまうほど良好で、何より、ことばを再び失わずに済んだことに私は心底から安堵した。-次回に続く-(言語研究者)

【夏の高校野球県大会】最終日 完封で土浦湖北、霞ケ浦が4強入り

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【土浦湖北-土浦日大】試合終了後、マウンドに集まる土浦湖北の選手たち=ノーブルホームスタジアム水戸

2020年夏季県高校野球大会は最終日の5日、2球場で準々決勝4試合が行われた。ノーブルホームスタジアム水戸では土浦湖北が土浦日大と戦い、2-0で同郷対決を制した。ひたちなか市民球場では霞ケ浦が水城に3-0で勝利した。他2試合は水戸啓明が水海道二に4-2、明秀日立が多賀に7-0。この結果により土浦湖北、霞ケ浦、水戸啓明、明秀日立がベスト4に決まり、大会の全日程を終了した。

【湖】大坪 – 佐藤武 【日】中川 – 菅野
土浦湖北の大坪誠之助は自身初の完封勝ち=同(撮影/竹田栄紀)

投手戦は湖北が日大に競り勝つ

【崎山勝功】土浦勢同士の対戦は、両エースによる投手戦となった。土浦湖北は大坪誠之助、土浦日大は中川竜哉が共に力投を繰り広げ、4回終了時点では双方無得点。

5回、湖北は先頭の大坪が左翼線三塁打で出塁すると中川のボークで生還、思いがけない形で先制点をあげた。9回にも田中海斗主将が中前安打で出塁すると、中川の四球と再度のボーク、暴投で生還し、1点を追加した。

対する大坪は、3回無死二・三塁のピンチを迎えながら後続を3三振に切ってとる圧巻のピッチング。最終的には日大打線を散発5安打無失点に抑え、湖北を4強に導いた。

土浦湖北の小川幸男監督は「大坪の気持ちと力のバランスがうまくいった試合。お互いの手の内を知っているからこそ打撃は難しかった」と振り返り、大坪の投球については「3年間でもベスト」と絶賛した。

9回まで力投した土浦日大の中川竜哉=同

「人生初めての完封勝利」という大坪は「今日はスライダーが少し調子が良くなかった。真っすぐ主体で自分らしいピッチングができた」と胸を張った。田中海斗主将は「5回終了後に、中川に球数を投げさせようと話し合った」との作戦変更が奏功したと明かした。

土浦日大の小菅勲監督は「準決勝にふさわしい、いいゲームだった」と試合を総括、「相手ピッチャーが良かった。大事なところで長打を出せず、終盤は選手に焦りが出た。失点のボークそのものは仕方ないとしか言えない」と厳しい表情で語った。

三振13を奪ったものの、惜しくも敗戦投手となった中川は「先取点を渡さないところを意識した。ランナーを背負っても相手投手に負けずに粘りたかった」と自身のボークでの失点を悔やんだ。五十嵐明斗主将は「チャンスが回ってきたときに生かせなかった」とチームの反省点を述べた。

霞ケ浦投打の主軸が躍動 

【高橋浩一】霞ケ浦-水城戦は両エースの投げ合いに加え、互いに内外野の守備が光り、両チーム合わせて4つのダブルプレーが飛び出すなど、締まった試合になった。その中で霞ケ浦は3回表、1死二塁から小田倉啓介主将の中前適時打で先制。6回には2死一・二塁から新山秀男と小田倉の連打で2点を追加した。

完投したエースの山本=ひたちなか市民球場

霞ケ浦の先発・山本雄大は「最後の試合だったので緊張もあり、初回から抜けたボールが多かったが、なんとか粘って最後まで投げきれてよかった」とコメント。調子はあまり良くないと思ったそうだが、それでも水城打線から9三振を奪い散発3安打に抑え、走者をスコアリングポジションに進ませない活躍ぶり。水城としては、昨年の準決勝で敗れたリベンジを果たそうと臨んだ試合だったが、成すすべなく完敗となった。

高橋祐二監督は「小田倉がよくチームを引っ張り、激励しながらやってくれた。声だけでなく技術的な面でもよく面倒をみてくれて、そのお陰でここまで来た。山本は今までプロに入った4人の中でも総合的に見てナンバーワンの投手」とこの試合のヒーロー2人の活躍を讃えた。

5打数4安打と活躍し、2打点を挙げた小田倉=同

小田倉主将は「甲子園がなくなってからも、いままでと変わらずに明日に繋がるような2カ月にしようと3年生で話し合った。そこでだれ一人くさらず、自分が言ったことに対して周りが全員ついて来てくれたので、自分の辛さを周りが助けてくれた」と大会を振り返った。

小田倉は高校卒業後、大学で野球を続けるという。「霞ケ浦への思いはどこへ行こうと変わらないし、自分が活躍すれば母校の名前も出るので、いままで指導してくれた先生方にも恩返しになる。いままで通り霞ケ浦のプライドを背負って一生懸命やりたい」と将来を見据える。

【語り継ぐ 戦後75年】① 6日から土浦で「2020原爆と人間展」

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昨年の「2019原爆と人間展」の様子=県南生涯学習センター(土浦市大和町)土浦平和の会提供

【田中めぐみ】広島市の高校生が描いた原爆の絵30点や写真パネルを展示し、戦争の悲惨さや核兵器根絶を訴える「2020原爆と人間展」が6日から、土浦市大和町の茨城県県南生涯学習センターで開かれる。9日まで、入場無料。

同展は被爆から60年の2005年から始まり、今年で16回目。主催する土浦平和の会の事務局長で、県平和委員会常任理事の近藤輝男さん(79)は、「展示を通し、核兵器の問題についてもっと多くの人に関心を持ってほしい」と話す。近藤さんに平和活動への思いを聞いた。

土浦平和の会の事務局長近藤輝男さん

戦中・戦後、ひもじかった原体験

近藤さんは1941年、長野県飯綱町で生まれた。叔父は戦争で亡くなったという。親からも戦時中苦労した話を聞いていた。物心ついた頃は食べる物が少なく、ひもじい思いをした。田舎だったので、都会の人が着物を食べ物と交換しにくる様子もよく見たという。よく食べていたのはじゃがいもとご飯を混ぜた芋めしや、麦の割合が多い麦めし。

「肉が食べられるのは盆か正月だけ。飼っていた鶏や兎をつぶして食べた。かわいそうで殺せないので、人に頼んでやってもらっていた」

甘いものもなく、貴重品だった砂糖を母親が隠していたが、幼い近藤さんはそれを見つけては盗みなめしていたという。母は近藤さんに、赤ん坊だった近藤さんをヤギのミルクで育てた話をよくした。食べ物がないせいでお乳が出なかったという。大きくなってからもヤギのミルクを時々飲んだそうで「甘くておいしかった」と振り返る。

1964年、埼玉県川口市にあった資源技術試験所(現在の産業技術総合研究所)に入った。石油資源に関する研究に従事し、インドネシアやアメリカなど様々な国を訪ねた。オランダのアムステルダムに行った際にはアンネ・フランクの家を見学し、ナチスから身を隠すための隠れ家に通じる入り口を見て戦争の悲惨さを感じたという。

2001年から2005年はブラジルに滞在し、海底油田から採れる石油の質をよくするための研究に携わった。ブラジルにも日系ブラジル人の被爆者がいて平和活動を行っていることを知り、当時から平和活動に関心を持っていたという。ブラジルからの帰国後、仕事を引退し「土浦平和の会」で活動を始めた。

歴史から学び、社会構造の見直しを

国連は2017年、核兵器禁止条約を採択した。核兵器の全面廃止と根絶を目的にしている。50カ国が批准すれば効力を発揮するが、条約を批准した国は今40カ国であと10カ国。

「核を多く持つロシアやアメリカ、フランスといった大国が反対しているし、被爆国で賛成すべきはずの日本も反対している。戦争を体験している世代は年々少なくなり、後世に語りつぐ人も少なくなってきた。歴史を学び、戦争について知り、想像力を養わなければなけない。新型コロナウイルスの感染拡大、地球温暖化など、今までのやり方では人類が存続できない状況に差し掛かってきた。一人ひとりの行動変容が求められている。核兵器についても同じ。これから運動が広がり、これまでの社会構造を考え直すきっかけになるのではないかと期待している」

  • 終戦から75年もの時が流れ、戦争を直接体験した人たちから記憶を聞くのが難しくなった。遺品や証言に接しながら昭和・平成と戦争体験を語り継いできた人たちも高齢になった今、世代を超えて戦争をどう伝えるべきなのか。NEWSつくばが8月に問いかけるシリーズを随時掲載する。

《くずかごの唄》66 昆虫社会の異変

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イラストは筆者

【コラム・奥井登美子】我が家の裏庭は私のささやかな家庭菜園になっている。庭に来る虫たちを観察しながら、キュウリ、ナスなど、毎日漬ける「ぬかみそ」の材料を家の菜園で調達できるのが何よりうれしい。

私は台所の生ごみはまだ捨てたことがない。木の葉と混ぜて発酵させ、菜園用のたい肥を作る。根っこがはびこってなかなか抜けない雑草を抜くとき、新聞紙を畳んで雑草の上に乗せ、その上に生ゴミを置くと、いつの間にか雑草は消えて、ごみに強い植物、ツルニチニチ草などがはびこるようになってくる。

野菜作り以外の楽しみは、なんといっても昆虫の観察が毎日できることである。山椒(サンショ)の木2.5メートルが1本、1.5メートルが2本ある。山椒の葉と実の匂いが特別好きでもないのに3本も植えてあるのは、アゲハ蝶の観察ができるからである。アゲハ蝶は幼いとき、どういうわけかこの辺りでは虫好みのミカンがないので、山椒の葉を食べて育つ。

虫を無視してはいけない

「今年は何匹くらい幼虫になってくれるかな」とワクワクしながら幼虫の数を数える。2016年は特別多くて50匹。次の年も30~40匹。毎年30匹以上のいろいろな種類のアゲハ蝶の幼虫が、遠慮なく畑の野菜の葉も食べてグングン大きくなる。

私は昆虫を観察しながら昆虫のおこぼれの野菜を収穫している。しかし、今年に限って、野菜は元気に育っているのに昆虫たちのお出ましがない。なぜなのだろう。

山椒の葉には卵すら乗っていない。毎年、丸坊主になるほど葉が食べられてしまうのに、今年に限って葉がふさふさして虫に食べられた後もない。日照時間が少ないからなのだろうか。いつもの年とまったく違う虫たちの異変。虫に聞いてみるほかないのだろうか。人間はムシ(虫)をムシ(無視)してはいけないと思う。(随筆家、薬剤師)

5日から「立体交差」は新橋へ 土浦市の国道354号高津橋

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国道354号の高津橋。左下に見える斜路も5日開通する=7月末に撮影、土浦市下高津

【相澤冬樹】土浦一古い、とされるランプ(傾斜路)付きの「立体交差」が5日、供用を再開する。土浦市下高津の国道354号高津橋の新橋が完成、同日朝、迂回路の仮橋から切り替えられる。同時に橋梁の下部をくぐる県道土浦坂東線(都市計画街路・宍塚大岩田線)から354号上り方面に左折登坂する斜路も開通し、4年ぶりに立体交差本来の形に戻ることになった。

高津橋は橋長22メートル、国道6号として開通した1934(昭和9)年に立体交差で架けられた(※メモ参照)。交差する県道は、旧中家村(1937年土浦町に編入合併)時代には「根崎道」と呼ばれた幹線道路。土浦学園線(県道土浦境線)が開通するまでは、筑波研究学園都市の建設などで人や資材を運ぶ動脈となった。

しかし県道は狭小で歩道も無く、交差点には右折レーンが無いためしばしば渋滞が発生した。高津橋とは3.3メートルの高さ制限がかけられており、車両の円滑な交通に支障を来たしていた。

3.3メートルの高さ制限がかかる仮橋も秋までに撤去される=同

宍塚大岩田線は拡幅整備

このため県は13年度から、土浦坂東線交点より東側に延長362メートルの都市計画街路宍塚大岩田線を事業化。これに合わせ、16年度から迂回路の仮橋を設置して、高津橋の架け替えを一体的に進めてきた。

橋梁下部の基礎工で、新工法の「回転杭工法」を採用して、市街地内の施工時の悩みの種である騒音・振動問題に取り組むなどしている。

県土浦土木事務所によれば、新橋に切り替える際、4年間遮断していた上り方面への左折斜路も新しい舗装で復活させる。仮橋の撤去工事は昼間、交互通行規制を講じるなどして進め、秋には撤去を終えたい考え。県道土浦坂東線(宍塚大岩田線)は幅員20メートル、右折レーンも持つ歩車道区分の道路に拡幅された。今後沿道の環境整備を行い、年内に事業を完了させる構えだ。特に開通式などの行事は計画されていないという。

  • ※メモ 本堂清さんは「土浦町内ものがたり」(1989年、常陽新聞社)の「下高津」の項で次のように書いている。「国道6号線は、昭和9年に開通したものである。新道建設にあたって県は水戸街道の改修に伴い高津坂の曲がりを直し、宿通りを真っ直ぐ銭亀橋まで拡幅する案を示した。菊地太兵太さんらは、この案に反対し、(高津)宿の西側に新たに建設し、根崎道と新道との交差点を立体化すれば協力すると陳情して、今のような形で通させた」