火曜日, 10月 6, 2026
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《遊民通信》11 神秘体験記(2) 宍戸諏訪山

【コラム・田口哲郎】
前略

以心伝心はあるのかもしれません。今回はそんなお話です。国土地理院の地形図を見るのが好きです。今どきのマップと違い文字情報は多くないですが、主要施設は地図記号でしっかり記載されています。ある日、旧宍戸町(茨城県笠間市)の地形図を眺めていました。母の実家がありなじみがあるからです。それでも地形図には未知の情報がたくさん載っています。加賀田山(かがだやま)が目に留まりました。母方の父系は武田氏です。一帯の庄屋をしていました。名字帯刀を許された家柄です。

「加賀田山がつぶれても、武田の家はつぶれない」と言われたものだと母から聞かされていましたから、山の名に覚えがあったのです。農地改革で土地を失い武田家は見事に没落。諸行無常です。諸法無我でなければ浮世を生きるのはつらいわけです。

それはともかく、加賀田山の隣に諏訪山というのがあります。山頂に神社マークがあります。そのときは何とも思いませんでした。それからしばらくした夏の日、母が朝方夢を見たと言いました。道の右脇の森に朱の鳥居があり、その奥に道が続いていた。行ったことがない場所だが呼ばれているようだったと。諏訪山の神社かな、と直感しました。朱の鳥居の有無は知りませんが、地形図を立体化すると母の夢の光景になるかも…。

興味が湧き、行ってみました。果たして諏訪山の神社の入口には朱の鳥居と長い参道がありました。母も夢で見た通りだと言います。

宍戸の諏訪大明神

草深い杉林の参道を行くと、急な石段。途中の踊り場には御手洗の石桶があり諏訪大明神と刻まれています。さらに上ると広場に拝殿があり、その奥の細く急な階段の上に板で囲まれた古ぼけた社がありました。

母は幼いころ祖母に連れられて一度きり来たそうですが、裏の山道を来たので赤い鳥居の参道は知らなかったそうです。素人目にもこの打ち捨てられたような神社がなかなかの格式であることが分かりました。後で調べたらそこは宍戸神社と言い、明治時代の一郷一社制度により近隣の平神社と合祀されたものだとわかりました。明治以前は諏訪大明神だったのです。

祖父は母の実家に婿に入りましたが、武田の家柄を誇り、信玄公を輩出した甲斐武田家の直系だと言っていたそうです。家紋は武田菱(たけだびし)です。私は旧勝田市(ひたちなか市)発祥である武田氏が宍戸に土着した末裔(まつえい)だと思っていましたが、ご先祖様が諏訪大明神を勧進(かんじん)したのなら、祖父の言に一理あります。

甲斐武田氏は信濃の諏訪大社を信仰していました。武田氏は滅亡しましたが、落ち延び伝承は各地にあります。宍戸には養福寺(ようふくじ)という天台宗の寺院があり、寺紋は武田菱です。祖父は40年前に他界しましたが、隔世の伝言のようにいろいろ分かったのは不思議です。

母の兄は調べもせず根拠なしと祖父の誇りを嘲笑したそうです。伯父と違って勘の利く私に祖父は伝えたかったのでしょう。成仏しても苦労が絶えない一切皆苦(いっさいかいく)です。羯諦(ぎゃてい)、羯諦。ごきげんよう。

草々(散歩好きの文明批評家)

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