【震災10年】4 今いる地域で働いて友達と遊べたらいい 宇名根悠樹さん
【柴田大輔】「あれを見ると、本当に『帰れないんだ』って実感しましたよね」
原発事故で双葉町から避難した土浦市の宇名根悠樹さん(22)は昨年11月、9年半ぶりに故郷に帰った。町から連絡を受け、小学校に残したままの荷物を受け取るためだった。12歳で東日本大震災に遭った。母校に向かう途中、フェンスで封鎖された自宅へ続く道を見た。隔離された自分の家に疎外感を覚えたと話す。
やりかけのゲームがあった
「僕は『もう帰らない』って覚悟を決めて出てきたわけじゃないんです。だから、このまま帰れないなんて思えないんですよね。なんか寂しいじゃないっすか」
当時は小学6年生で、卒業式を翌週に控えていた。4月には地元の中学に進学するはずだった。
「部屋にはやりかけのテレビゲームがあって、あと10分もやればクリアできたはずだったんです。最初は、それが本当悔しかったです」
そう苦笑いを浮かべて思い出すのは、兄と遊んだ自宅前の坂道や、父と作った木製の椅子、畑から採った野菜を料理する母の姿など、家族が暮らした双葉町での何気ない日々の出来事だ。
目立ちたくなかった
移動と転校を繰り返す避難生活は目まぐるしかった。原発事故による避難指示で、地震翌日に隣町に避難し、8日後には町ぐるみの集団避難で埼玉県へ移動した。茨城への転居は、約半年に及んだ避難所での集団生活ののちだった。
「双葉にいたころは、一度しか県外に出たことがなかったんです。スーパーで当たった懸賞で横浜の中華街に母と行ったんですよ」
茨城では、避難者に開放されたつくば市の国家公務員宿舎に部屋を借り、近隣の中学に通った。のちに隣の土浦市に借りた一軒家に家族で越している。学校では、避難者であることで「悪目立ち」するのが嫌だった。
つくばの中学校で、全校生徒を前にインタビューされたことがある。「事前準備なしだったので、すごく緊張して。別に嫌だったわけじゃないんですけど、『福島から来た宇名根くん』って、絶対目立つじゃないですか」
ゲームや読書が好きな、興味のあることにマイペースで向き合う少年時代だった。だが、目立ちたくなかった理由には、当時の報道も影響した。
「毎日のように『(避難者への)いじめ』をテレビで見てましたから、身構えたところはありました。でも、意識し過ぎだったのかもしれないですけどね」
幸い、中学・高校を通じて「避難」が理由でいじめに遭うことはなかったものの、高校では「福島出身」とあえて口にはしなかったという。
「高校で『福島出身』は隠してました。言ってもいいことないと思って。『福島で何があったの?』って毎回根掘り葉掘り聞かれるのが面倒だったんです」
「原付免許を取ったんですが、一度それを見られてバレちゃったんですよ。でも、そんなにみんな反応しなくて。気にし過ぎだったのかなぁ、みたいな。(震災から)時間が経ったってことかもしれないです。『気にすることなかったんだな』って、ほっとしました」
“悲しい人”ばかり取り上げますよね
取材の中で、宇名根さんがこう問いかけた。
「僕の友人も言ってたんですけど、インタビューって“悲しい人”ばかり取り上げますよね?」
続けてこう話す。
「僕はそういうのないんですよ。津波も見てないし、いじめにも遭ってない」
12歳の少年が経験した震災と、避難者として過ごした10代は、宇名根さんにとってどんな時間だったのか。
「福島で過ごした時間と、茨城の時間が半々くらいになってきてるんです。茨城の記憶の方が強いくらいです。でも、福島のことはよく覚えてるんですよね。近所の道とか」
「こっちでパン屋に行くとするじゃないですか。そうすると思い出すんですよ。『あぁ、あそこにパン屋あったな』とかって。友達にパン屋がいたんですよね」
「こっちで嫌なことがあったっていうわけじゃないんです。そうじゃなくて、単純に福島の方が好きだったんです」
つくばの中学で出会った友人たちとは、今もよく遊んでいる。
「茨城に転校してきて、はじめ、あまりなじめなかったんです。でも先生がいい人で、『ゲームが好きな、気の合いそうな人がいるよ』って、隣のクラスの人たちを紹介してくれたんです。それは本当にうれしかった。いまでも仲良いですよ、そいつらとは」
10年後の自分について想像できるか聞くと、思いをまとめるように間を置きこう言った。
「10年後、福島に帰れたらっていうのは今も思います。可能なら。本当に可能ならなんですけどね。諦めきれないってことなんですかね。でも、今いる地域で働いて、友達と遊べたらいいんじゃないかなってのも思ってます」
そう言って、宇名根さんは優しい笑みを浮かべた。
《ことばのおはなし》31 正三角形のヤギを見た
【コラム・山口 絹記】ことばの困ったところは、視覚的には思い描くことすらできないものも、描くことができてしまう点だ。
『つくば市のあらゆる大通りを、現在、正三角形のヤギの大群が歩いている。ヤギはどの角度から見ても正三角形であり、光学機器では現在のところ観測不能であることがわかっている。人間の目による計測を試みようにも、ヤギAに意識を集中すると、それに接しているはずのヤギB、C、D、E、F、Gが認識できなくなり、正確な計測ができない』
みたいな文章はいくらでも書くことができる。書けば書くほど、視覚的な情報とはかけ離れていくだろう。想像してしまった方もおられるかも知れないが、“どの角度から見ても正三角形のヤギ”は存在し得ないため、その想像は誤りだ。球体ならまだ、あり得たかも知れないが。
さて、もう一歩進んでみよう。こんなうわさがたったとする。
『観測不能なヤギを、その目で見てしまった者は、言語能力を失ってしまうらしい。話すことはおろか、文字を書くことも、文字入力を行うこともできなくなってしまうらしい』
もっとやってみよう。
『ヤギを見て、ことばを失った者を見た者から、少しずつ情報が広がり始める。加えて、ことばを失った者を見た者まで、ことばを話せなくなっているらしいといううわさもたちはじめた』
誰かが物語ったものを皆で信じる
まったく荒唐無稽で馬鹿げた話だが、滑稽に思えるのは、もしかすると正三角形のヤギだからかも知れない。
『そうこうしているうちに、市内での無断欠席、無断欠勤が増え始め、SNSなどへの投稿が明らかに減少し始める。意味不明な投稿を最後に、多くのアカウントが沈黙しはじめ、1週間もしないうちに市内からは、ことばが消えた』
虚構である。大嘘だ。フィクションというやつである。しかし、例えばこの文章を読んで生じた感情を、あなたがことばにして発したとき、そのことばはフィクションではなくなる、ということは、よく覚えておいたほうがよい。
誰もが見ることのできないものを共有し、現実との境界を曖昧にしていったあげく、皆がその存在を信ずることができれば、それはもう立派な現実だ。
実はこの、誰かが物語ったものを共有し、皆で信じることができる、という性質こそが、ことばの本質的な力なのだ。ことばがあるからこそ、私は日本という想像上のコミュニティに所属していられるし、なにやら得体のしれない自由などというものを満喫することだってできるのだ。
注意しなければならないのは、一度共有してしまったものは、失敗と気づいてもなかったことにはできないということだ。特に、それが負の感情だった場合。それから、それが生活の奥深くまで浸透してしまった場合だ。
失敗に失敗を重ねた上に作り上げられてしまったIfの世界観を、小説界隈(かいわい)ではディストピアSF、と呼んだりする。ディストピアSFが現実になってしまった場合は、寓話(ぐうわ)にするという手もある。(言語研究者)
県選管も当選無効申し立てを棄却 「勝手につくば大使」通称認定
【鈴木宏子】昨年10月投開票が行われたつくば市議選で「勝手につくば大使」が通称として認められたのは違法だとして、同市民らが当選無効を申し立てた問題で、県選管は2月26日付で、申し立てを棄却する裁決を出した。
裁決によると、電子メール等において「勝手につくば大使」などと呼ばれており、本名に代わるものとして広く通用していることが認められるとしている。
一方、「勝手につくば大使」は本名と併記する形で使用されている場合が見受けられることから「(認定にあたって市選管は)資料の追加提示を求めるなど、事実確認をより慎重に行うべきであったことは否定できない」としながら、「選挙長がその裁量の範囲内で総合的に判断した」ものだとして、「(公選法施行令の)規定に違反しているとはいえない」などとしている。
通称認定の在り方については「立候補届出に際して提出される各種の資料から、選挙が行われる区域の全般にわたって、戸籍簿に記載された氏名(本名)がほとんど使用されておらず、本名に代わって、申請があった呼称が広く使用されていると認められている場合に限り、当該呼称を通称として認定すべきであるとされている」とし、「この認定は困難を伴うが、実務上は候補者本人からの説明に加え、公の機関の発行した書類、手紙またははがき等の親書、名刺、著書その他その人の社会関係を広くながめてみて、その人の呼称として通用している実績を示すものを資料として提出させ、それらを判断材料として総合的にみて認定せざるを得ない」などとしている。
「勝手につくば大使」の通称認定をめぐっては、市民らが昨年11月9日、市選管に異議を申し出たが、市選管は12月7日に棄却した。市民らは12月28日に県選管に対し、市選管の決定を取り消すよう求めていた。
県選管の裁決に不服がある場合は、30日以内に東京高裁に訴えを起こすことができる。
タロー・ジロー救出ヘリも移送 筑西 新航空博物館にゴーサイン
【相澤冬樹】国立科学博物館(科博、林良博館長)は3日未明、筑波研究資料センター(つくば市天久保)に保管されていた重要航空資料、シコルスキーS-58(HSS-1)を筑西市徳持のザ・ヒロサワ・シティに移送した。この到着を待って同日、広沢グループ(広沢清会長)と共に一般財団法人科博広沢航空博物館の設立を発表、財団は年内をメドに同シティ内に新航空博物館を開設する。
初の官民協力博物館
科博の林館長は同日会見し、「国立博物館が民間と共同で財団を設立して常設館を設けるのは初めて。地域活性化に貢献したい」と意義を強調した。財団の代表理事に就任した広沢会長は「博物館の展示品の多くは、科博保有の貴重な財産を無償で提供いただくことで実現できた」という。
同グループが土地と施設、資金を提供して設置の博物館に、科博が保有する標本資料(国有財産)を貸し出す形式となる。新博物館運営の財団法人に科博から2人の評議員が加わる。
共同設立に至ったのは、科博が保管していたYS-11量産初号機を同シティが受け入れたことから。同機は羽田空港内の格納庫で20年ほど保管してきたが、東京オリンピック・パラリンピック開催のために移設を迫られ、保管場所を探していた。
この移送をきっかけに、同シティに床面積1850平方メートルの格納庫が整備され、航空機に関する標本資料全般を展示する施設の展開が図られた。シコルスキーS-58も展示の目玉になる大型ヘリ。南極観測船「宗谷」とともに、第3次~第6次(1857年から62年)の南極観測に使用された。59年には南極に残されていたカラフト犬「タロー・ジロー」を救出したことで知られる。科博には73年から2000年まで展示されたが、その後はつくばの資料庫で保存されていた。
この機体が2日深夜、封印を解かれ筑波研究資料センターから運び出された。全長20メートルを超す機体はプロペラが折りたたまれ、後部ローター部をコンパクトに付け替えた形状でトレーラーに積み込まれた。3日午前0時ごろから約2時間をかけて同シティまで運ばれた。博物館となる格納庫では、先に移送され組み立てを完了したYS-11の機体と並べられた。
新博物館にはこのほか、20年7月まで上野本館で展示されていた零式艦上戦闘機(いわゆるゼロ戦)が修復を終えて今月中にも搬送されてくる予定。科博の資料としてはグライダーなど合わせて5機のほか、プロペラやエンジンなど関連資料が展示される。
展示や解説など運営上の詳細を詰め、コロナ禍の動向をにらみながら、年内をメドに開館にこぎつけたいとしている。ザ・ヒロサワ・シティには新幹線車両などを集めたレールパークなどがあり、1月には隈研吾設計の広沢美術館が開館している。
【震災10年】3 止まった時間がやっと動き出した 森田光明さん・智美さん
【柴田大輔】つくば市で整体院を営む森田光明さん(53)は、趣味のバイクで時折、福島を走る。県境を超え、見上げる空や、流れる風景に目をやり、こう思う。
「地続きなので、そんなに他県と変わらないはずなんです。でも、福島に入るとなんだかいいなって。福島って、やっぱいいよなって思うんです」
父が独立した年齢を意識した
福島県双葉町の自宅は未だ、帰宅困難区域の中にある。49歳で勤務先の企業を退職し、避難先のつくば市東で2019年、妻・智美さん(46)とフォレスト整体院をオープンさせた。
10年前、父を津波で亡くした。悩んだときに背中をそっと押してくれる父だった。実直に働き家族を養ってきた父を「すごく大好きで、尊敬していた」と言い、「目標だった」と話す。光明さんは父の背中を見て生きてきた。51歳での開業は、造園業を営んだ父が独立した年齢を意識してのことだった。
光明さんは震災当時、福島第2原発に勤務していた。「泣きながら働いていた」というほど仕事に追われる日々だった。発電所内で揺れに遭い、避難所だった自宅近くの小学校で家族と落ち合った。だが、そこに父はいなかった。「100歳まで間違いなく生きる」と誰もが疑わないほど身体が強い人だったから「生きていれば、どんな状態でも帰ってくるはず」と思っていた。
父が見つかったのは、原発事故により止まっていた捜索が再開された4月のことだった。警察から連絡があったその日、外は雪が降っていたという。
「無念でした。長生きしてもらいたかった。ただ、ご遺体が見つからない方もいる中で、ありがたくも思いました」
家族で暮らすのがいい
地震翌日、避難指示が出た自宅を離れて内陸の避難所に移動した。爆発する原発をテレビで見た光明さんは「二度と家に帰れない」とつぶやき沈黙した。
母親と妻、長男らと栃木の親族を頼り、紆余曲折を経てつくば市に転居する。その間、家族と離れ、福島県内の会社寮にひとりで暮らし、第1原発での事故後処理に当たった時期もある。勤務のない日に数時間かけて家族のもとに帰る生活を続けた。
離れた土地で、智美さんが義母と長男の面倒を見た。つくばで長女を出産したとき、智美さんが体調を崩した。光明さんは半年休職し、家事と育児を手伝った。「単身赴任は限界。家族で一緒に暮らすのがいい」と思った。仕事の合間に、整体技術を学び始めたのもこの頃だ。
「原発の仕事もだんだん厳しくなって、いつまで続けられるかわからないという時期でもありました」
心のバランスを保つのも難しかった
整体院で光明さんと施術にあたる智美さんは「女性でも気軽に来てもらいたい」という思いから、つくばに転居したのちに技術を習得した。自身も経験した出産や、その後の経験から産後の骨盤調整や体調不良など女性目線のアドバイスを心がける。
明るく「今」を話す智美さんだが、震災後は家族の被災、避難先を転々とするなど、突然訪れた非日常的な生活に体調を崩してしまう。心のバランスを保つのも難しかった。そんな自分に歯がゆさを覚えていた。
「私はだいぶ、他の人より(新しい生活を始めることが)遅かったと思うんです。日常生活は動いているのに、そこにうまく乗れなくて」
光明さんを手伝うために整体技術を学び始めたのは、こうした不安の中でのことだった。だが、踏み出した新たな一歩が智美さんの中で「止まっていた時間」を動かすきっかけになった。
「震災後は体調不良もあって、時間が止まっていたんです。それが、人より時間がかかりましたけど、やっと自分の身体と気持ちが近づいてきたように思います。(双葉町には)帰りたいけど帰れないのはわかっています。この気持ちも、現実とすり合わせなくてはいけないと思っています」
光明さんはつくばを「新しい故郷」だと話す。
「つくばで知り合った方にもお世話になって、少しずつお客さんも増えてきました。コロナで大変な時期ですが、真面目に長くやり続けたいです」
父親譲りの真面目さで、仕事に向き合う光明さんに智美さんが言葉をかける。
「変に格好つけないでやってもらいたいと思っています。身体を見てもらうってことは、緊張しているとうまく見れないんですよね。お客さんにリラックスしてもらうためにも、私もそうありたいと思います」
初めての患者さんには、時間をかけてカウンセリングを施す。丁寧に、一人一人の状態に合わせた施術を心掛ける。
いつか福島で
つくば生まれの長女は5歳になり、福島で生まれた長男は中学1年生。寂しいのは、家の中で子どもたちが福島弁を話さないことだと光明さんが苦笑いを浮かべる。それを聞いた智美さんがフォローを入れる。
「でも私が福島弁で(息子に)話しかけたら、ちゃんと返事したんですよ。聞くのはわかるけど、話せないんだなぁって」
「いやぁ、でもなんか寂しいよなぁ」と言う光明さんが、胸のうちにあった故郷への想いをこう話した。
「昔は双葉がそんなに好きじゃなかったんですよね、小さな街だし。どこどこの息子は誰だってすぐわかっちゃうし。でも、やっぱり自分は福島県民だなって思うんですよね。双葉で生まれ育って、『双葉愛』があるわけでもないんですけどね。今は人の縁を大切にしながら、コツコツ頑張っていきたいです。それで、いつか福島にも出店できる日がきたらいいなと思うんです」
卒業記念に一人展 気象女子の「旅のきろく」 16日から土浦
【相澤冬樹】この春、筑波大学大学院教育研究科を修了、茨城県教員として採用が決まっている牛久市在住の石田理紗さん(23)の個展「旅のきろく展」が16日から、土浦市中央の「がばんクリエイティブルーム」で始まる。
筑波大学では地球学類、大学院では理科教育コースに学んだ。高校教育でいう理科4領域(物理・化学・生物・地学)のうち地学、中でも気象を専攻した。フィールドワークがものをいう学問分野、国内のみならず海外に旅した経験を得意の絵画に記録した作品展となる。
海外ではカナダのオーロラ、オーストラリアの巨石ウルル、ロシアのバイカル湖などを見に、厳しい環境の大自然を旅してきた。アクリルガッシュによる小品中心に13点ほどを展示する。
春から高校で教壇に
土浦の街なかで個展を開くことになったのには経緯がある。石田さんは「高校、大学、大学院と見守ってくれた皆さんにご報告がてら、これまでをたどれたらうれしいじゃないですか」という。
出身高校は県立土浦二高(土浦市立田町)、冬のある日、あまりの寒さに通学路にあるカフェ城藤茶店(同市中央、工藤祐治さん経営)に飛び込んだ。同市内外から常連が集まる店だが、実は比較的年齢層が高い。地元の高校の女子生徒となると、にわかにちやほやされる。
明るい笑顔で応えた石田さんはすぐにアイドル的存在になった。大学に進学すると、同市永井で漢方の薬草を育てる理系農家に招かれて、地球学類の仲間らと筑波山地域ジオパークのセミナーを開いたりした。カフェの常連も応援団よろしく聴講に駆け付けた。
地学、気象への興味を膨らませる一方、「得意」としていた絵画の才も磨いて、カフェで小さな個展を開くようになった。
こうした活動から、応援団に後押しされる格好で、武田康男 (気象予報士)さんの著作「今の空から天気を予想できる本」(緑書房)の挿絵を担当するなどした。「例えば積乱雲のイラストを描く際、雲底(うんてい)の様子など細かいところの注文をしなくていいのが重宝されたみたい」
大学から大学院合わせて6年間は、毎年のように異常気象が列島を襲った。線状降水帯とか爆弾低気圧とか猛暑日とか、気象用語にも新語の嵐が吹き荒れた。担当教授が出張して休講となるケースも少なくなかった。
そして6年目、コロナ禍の中での修士論文作成と就職活動となった。「修論のテーマは富士山の波状雲。集中力を高めるリモートワークがいい方向に働いたけど、教員採用試験は大変だった。高校の理科教諭のうち地学は採用枠が1人しかなかった」。地学を教える高校自体が少ないのだ。
その難関をかいくぐって合格を決めると、土浦の応援団が湧きたった。カフェの工藤さんは自身が運営するギャラリー「がばん…」での卒業記念展を持ち掛けた。「うれしくて二つ返事でした」
個展は21日まで。4月からは高校で地学の教鞭をとる。会期までには赴任校も決まりそうだという。
【震災10年】2 浪江出身と言えなかった 原田葉子さん
【柴田大輔】「つくばに来て、やっと先が見えた気がしました」
夫、功二さん(44)が営む眼鏡店の2階で、原田葉子さん(44)が穏やかに話す。
福島県浪江町から避難中に経験した妊娠・出産、周囲に伝えられなかった自分のこと、未だ整理のつかない故郷への複雑な想い―。 震災は自身を取り巻く環境を大きく変えた。現在、つくば市学園の森の新興住宅地で新しい生活をスタートさせ、夫と長男の3人で暮らす。
「被災者」に後ろめたさ感じていた
「浪江出身」と伝えると返ってくる「大変だったね」「原発のとこだったんでしょ?」という言葉に、負担を感じていたという。葉子さんは、故郷の浪江町から避難し、5回、住む場所を変えてきた。その間、常に自分を「避難している人」だと感じていた。
「周囲の方に心配していただいて本当にありがたかったです。一方で、『被災者』だということに後ろめたさを感じていました」
浪江で約100年続く「原田時計店」に、2人姉妹の長女として生まれ育った。3代目の父が社長を務める同店は、時計やメガネ、貴金属などを取りそろえる老舗として地域に愛されてきた。
「浪江はたくさんの友人、親戚、地域の人とのつながりの中で生活できる『ほっとする街』でした。高校生のころは友人とカラオケに行ったり、浜辺でおしゃべりや花火をしたのが思い出です」
県内の高校を卒業し、東京の眼鏡専門学校に進学した。その後は在学中にアルバイトをしていた都内の眼科に就職する。功二さんとは学生時代に出会い、結婚後に夫婦で浪江に戻り家業を手伝った。
震災の年は、実家の近所に暮らす葉子さん夫妻が両親、祖母と同居できるように、実家の建て替えと、古くなった店舗の改築を予定していた。将来を見据え、新たなスタートを家族で切ろうとしていた矢先に震災は起きた。
故郷への思いと現状の間で葛藤
葉子さんの家は、事故を起こした福島第1原発から10キロ圏内にある。
「正直なところ、原発を危険とも安全とも思っていませんでした。普通の会社というか、工場のように『電気を作っているところ』というような。浪江から働きに行く人も多く、身近な存在でした」
地震翌日、原発事故による避難指示が出た。隣町の親戚宅へ避難すると、テレビに映る1号機が爆発した。隣の父親が「あぁ、だめだ。終わった」と言った。その横顔から感じた絶望に怖さが込み上げた。
その後、喜多方市に暮らす別の親戚を頼り、1カ月後には仕事を探すため夫婦で東京に転居した。
「私たち、財布も持たずに浪江を出てきたんです。別の場所にちょっと待機するくらいの気持ちでした。でも、その後の原発を見ていて『もしかしたら、戻れないんじゃないか』と思うようになりました」
思わぬ避難生活の長期化に不安が高まった。東京の暮らしは1年半。その間に妊娠し、千葉県の夫の実家近くに転居し男の子を出産した。
「息子が生まれるまで、浪江に戻りたいと思っていました。でも、県内に残る友人に話を聞くと、福島での生活に手放しで安心しているわけではない。情報はどれを信用していいかわからず、妊娠中はネガティブな話題を遠ざけました。精神的に余計な不安を除きたかったからです」
故郷への想いと現状の間で葛藤していた。家業の再開は常に考えていた。当時、千葉県内の眼鏡店に勤務していた夫と、何度も福島に住む両親を訪ね今後を話し合った。
「当時、浪江町民で新しいコミュニティをつくるという考えがあり、そこでの再開を考えましたが、難しくなり、県外での出店も選択肢になりました」
知人からつくばを紹介されたのはそんなときだった。諸々の条件が合致し「つくばでやっていこう」と決心した。功二さんが眼鏡店を出店し、父は福島県二本松で「原田時計店」を再開した。新しい生活の始まりに「やっと落ち着き、先が見えた」と安堵した。
それだけ年月が経った
つくばに転居する以前、千葉では言えなかったことがある。「浪江出身」ということだ。複雑な当時の心境をこう振り返る。
「『浪江から来た』と言うと、心配してくれる方がほとんどでありがたかったです。一方で、常に『大変』『原発』というイメージで見られてしまう。周囲で、仲のいい人同士が『原発』で意見が分かれる場面も何度も見ました。震災と全く関係ない、『被災者』としてではない人間関係を築きたくなってしまったんだと思います」
福島で被災したある人が心ない言葉をかけられたこと、だれかに自身の車を傷つけられた経験も、葉子さんが過去にふたをすることにつながった。
「だんだん自分のことを話すのが怖くなりました。『もう話すのはやめよう』と思ったんです」
息子が幼稚園に入ると親しい「ママ友」ができた。しかし、友人への隠しごとが辛かった。ある日、福島で活動する葉子さんの父が新聞に取り上げられた。その記事を読んだ友人は、葉子さんの背景を知り「そんなこと気にしないで、普通に付き合っていこうよ」と言ってくれた。
「ずっと言えなかったことが引っかかっていました。彼女の言葉で、すぅっと気持ちが軽くなりました。相手に気を使わせたくないとか、色々考えすぎていたんです。今は話しても、みんな普通に接してくれるのがうれしいです。それだけ年月が経ったということかもしれません」
子どもにどう説明すればいいか
浪江には毎年お墓参りに帰っている。
「浪江は時間が止まっているようで、何年経っても、最近までそこにいた気持ちになります。うまく言えませんが、自分にとって大切な場所です」
だが、8歳になる長男を連れて行ったことはまだない。その理由を、言葉を選びながらこう話す。
「震災のことをどう説明するべきか、まだわからないんです。どうしても原発のことは話さなければいけない。どう伝えるべきか」
ひと呼吸置き、言葉をつなぐ。
「原発に勤めていた知り合いも多かったですし、お店としてもお世話になっていました。全部が『悪』ではないと思うんです。そういうことではない。子どもにどう説明すればいいか、息子が理解できる年齢になる時までに、私の中できちんと整理したい。連れて行くのは、私が自分の言葉で説明できるようになってからと思っています」
震災後の10年は、家族や友人とも離れることになった辛い時間だった。だが、新しい土地でスタートさせた生活に「いろいろな方の支えのおかげです。本当に感謝しています」と話す。
インタビューの最後に、息子さんの将来について質問すると、明るくこう答えた。
「息子は『メガネ屋さんになりたい』って言ってるんです。でも私たちは息子が思うようにやりたいことをやって、元気に育ってくれればいいと思ってます。万が一、継いでくれたらラッキーですけどね」
《雑記録》21 水素カーが走る近未来社会
【コラム・瀧田薫】クルマの点検でディーラーに出向くと、トヨタの水素カー(MIRAI)が展示されていた。お値段を尋ねると、「ハイエンド車で800万超です。茨城県には2台しかありません」とのこと。豪華なパンフには「酸素と水素の化学反応によって電気をつくり、きれいな空気と水だけを排出するこの究極のエコカーとも呼べるモビリティは、環境性能の高さに加え、より多くの人々に愛される、魅力的な一台を目指して開発されました」と書いてあった。しばし、水素カーが走り回る近未来の社会に思いをはせた。
現在、日本国内で二つの水素エネルギー開発プロジェクトが動きだしている。一つは、川崎重工業を中心とする企業グループで、豪州政府より補助を受け、豪州産の褐炭(かったん)から水素を製造して日本に運搬する実証実験を進めている。もう一つは、千代田化工建設が中心のグループで、ブルネイで産出される天然ガスから水素を製造し、これを液化して日本へ輸送する。つまり、どちらもそれぞれの当該国と日本との間に水素エネルギーのサプライチェーンを構築する狙いであることは共通している。
水素エネルギーの商用化を目指す上で、最大のネックはコストの問題だ。国際金融情報センター理事長・玉木林太郎氏は「投資家や企業にとって、気候変動は倫理や責任の問題ではない。損か得かの問題だ。長期の戦略を立てて脱炭素に対応していかなければ生き残れない」(日経、2020年12月14日付)と言い、さらに「脱炭素のビジネスがペイするかどうか見定めるには、CO2排出をコストとして扱う「カーボン・プライシングが不可欠だ」と指摘している。
中東石油シーライン→日豪水素供給チェーン?
つまり、政府が炭素税を導入し、あらかじめ年次を定めていくら増税していくか決めておく方式である。そうなれば、水素ビジネスの側で、水素がいつごろ化石燃料に対して比較優位に立ち利益を出せるか予想ができるし、開発上の不確定要素を減らすことができる。しかし、そうは言えても、水素ビジネス同士の競争が熾烈(しれつ)なものとなることに変わりはないし、競争に敗者はつきものだ。
「脱炭素」と一口にいうが、国家も、政府も、企業も、労働者もそれぞれの立場でこの大変革の時代を迎えようとしている。地球温暖化のもたらす惨害(さんがい)を思えば、脱炭素化を避けては通れない。しかし、脱炭素で職と所得を失う人たちも出てくるだろう。その人たちの生活をどう保障するか、その一事だけに限っても、社会そして政治に課せられるコストの重さは想像を超える。
ところで、もう一つ別のコスト問題がある。将来、日豪間水素サプライチェーンが中東石油シーラインに取って代わるとしたら、日本の安全保障コストはどうなるだろうか。軍事問題も環境問題の一環として捉え、社会科学や地政学を活用し、限られた資源を最大限活用する智恵と長期的・総合的な視野をもって見直していく必要があると思う。(茨城キリスト教大学名誉教授)
土浦市成人式 9月19日 2部制で開催
【伊藤悦子】土浦市は1日、新型コロナウイルス感染拡大の影響で延期としていた成人式を、9月19日、同市東真鍋町、クラフトシビックホール土浦(市民会館)大ホールで開催すると発表した。
ゴールデンウイークや8月のお盆シーズンも候補に挙がったが、9月19日はシルバーウイークで休日が続くこと、気温が比較的高く、ワクチン接種も進んでいることが予想されることから日程を決めたという。
8中学校地区を半部に分けて、第1部を午前11時から、第2部を午後2時から開催する。市内の各中学校から推薦をうけた、新成人の代表者で構成する「成人式運営委員会」と市が、ウェブ会議で話し合って決めた。
対象になるのは今年1月に成人式を実施する予定だった男性730人、女性761人の計1491人(2020年11月1日現在)。
新型コロナウイルスの感染が拡大する中、今年の成人式は、市町村によって延期か中止かなどの対応が分かれた。隣のつくば市は、いつ収束するか見通しが立たないなどとして中止を決め、1人1万円の祝い金を支給した。延期か中止かをめぐってはNEWSつくばにも多数の意見が寄せられた。
【土浦市長会見】ワクチン接種、4月12日から 会場にイオン土浦など
【伊藤悦子】土浦市、安藤真理子市長の定例会見が1日、同市役所で開かれた。65歳以上の高齢者や基礎疾患がある市民の新型コロナウイルスワクチン接種について、4月12日以降、開始すると発表した。
接種方法は、個別接種と集団接種の両方とし、個別接種は市内の協力医療機関で受けられるようにする。集団接種はイオンモール土浦と、市保健センターの2カ所で実施する。高齢者以外もその後、順次、接種できるようにする。
高齢者などへのワクチンの優先接種について政府は、4月12日から限定的に開始し、26日の週にすべての自治体に行き渡るようにするとしている。ただしどれだけの量が供給されるかは不明。
接種の予約は、国からのワクチンが確保された後に、接種券を郵送し案内する。事業費は7億7千万円。接種に先立って、ワクチンについての相談を受け付けるコールセンターを22日開設する。
一方、医療従事者約6000人分のワクチン接種は3月上旬を予定している。事業費は約6500万円。
県外在住学生に土浦ブランドを送付
新型コロナ関連の緊急経済対策では、第2弾となる買い物難民支援事業を実施する。食料品など移動販売を新たに始める事業者に運営費を補助するほか、現行の移動スーパーを補完するため、車両購入費の補助を追加する。事業費は約400万円を計上する。
コロナ禍でアルバイトなどの収入が減っている、県外で学ぶ市出身の学生の生活支援のため、土浦ブランド認定品を送付する。さらに卒業後のUターンのきっかけとなるよう既存の市PRパンフレットも送付する。事業費は約320万円を計上する。
新型コロナについての情報や医療・福祉など生活に必要な情報が伝わりにくい外国人市民に対して、市役所に通訳や翻訳者を配置したり、多言語通訳アプリを活用できるようにする。事業費は約530万円。
そのほか、公共施設や救急車への感染拡大対策や、新しい生活様式を踏まえ公共施設のトイレ洋式化などを実施する。
土浦さくら花火を打ち上げ
昨年は新型コロナ感染拡大で中止になった土浦桜まつりは、「今年は静かに桜の魅力を」と称し20日から4月11日まで、亀城公園、桜川堤、新川などでライトアップなどを実施する。
今年は、医療従事者や自粛生活を強いられている市民に元気を届けようと、「土浦さくら花火」と称し、4月3日午後7時から、市内の桜の名所3カ所で、1カ所当たり75発の花火を同時に打ち上げる。打ち上げ場所は3密を避けるため非公表。雨天の場合は4日に順延する。
一方、新型コロナ感染拡大防止のため、亀城公園でのステージイベントや食のイベント、桜の名所をめぐるレトロバスの運行などは中止する。
3月3日入籍カップルは記念撮影を
安藤市長は3月3日の桃の節句についても触れ「今年は令和3年3月3日と3が並ぶため婚姻届けを出す人が多いと思う。祝福する思いで、市役所入り口わきのエスカレーターにひな飾りを設置し、記念撮影のスペースにしている。ここで写真をとって人生の特別な思い出にしてほしい」と呼び掛けた。
