月曜日, 4月 6, 2026

東京五輪へスイスチームが公開練習 つくばでトライアスロンの事前合宿

【崎山勝功】2020年開催の東京オリンピック・パラリンピックを前に、スイス・トライアスロンチームが11日、筑波大陸上競技場(つくば市天王台)で公開練習を実施した。チームは7月29日から8月13日まで、同大学をはじめ市内の施設で合宿中。報道関係者や一般市民らに向けて公開した練習では、選手たちは競技場内で走り込みや身体をほぐすストレッチなどの軽めの練習を行った。 同チームのアリッサ・クニック選手(23)は「全部つくば市の人たちが準備をしてくれて、整った環境で練習できる」と日本側の関係者らに感謝の意を示した。その上で「個人の目標は2024年(パリ五輪)だけど、2020年の東京ではミックスリレーでベストを尽くせるようにしたい」と意欲を語った。 ラース・ホーレンウェガー選手(21)は、日本の猛暑を1年前に体験できたのが事前合宿の大きな意義だったよう。「最初は暑さに慣れるのが大変だったけど、慣れるに従いから体調が整った」という。公開練習には市民ら約40人が見学に訪れており、ホーレンウェガー選手は「いつもはこんなにたくさんの人が練習を見に来ることが無いので面白いと思った。今の時点では全力を尽くすことが2020年の目標」と述べた。 同チームの選手たちは、15日から18日まで東京・お台場海浜公園で行われる「ITUワールドトライアスロン・オリンピック・クオリフィリーケーションイベント」に出場する。 ◆こども記者も選手たちを取材 この日の公開練習には、報道各社の記者たちに交じって「こども記者」たちが取材に励んだ。つくば市の「こども記者クラブ」事業の一環で募集した約15人が参加した。 こども記者たちは、市内在住の小学4年生から中学3年生の児童生徒らが、3人1組のチームを組んで、記者・カメラマン・インタビュアーとなって1本の記事を作成。この日の取材では、同事業の運営協力を担う筑波大学新聞編集部の大学生記者たちが、こども記者たちの引率に当たり、デジタル一眼レフカメラでの撮影の仕方や、選手たちへの取材をサポートした。 同新聞編集部の木村誠編集長(20)は、「子どもたちが『こういうところを聞きたい』というのが新鮮で、積極的に取材に動いてくれたのが良かった」と評価した。写真撮影でも「練習後、自分からどんどん撮っていった。いい写真で『これは使える』というのが多かった」と、こども記者たちの活躍に感心していた。 選手への質問を担当した、こども記者の小澤真結さん(15)=並木中等教育3年=は「日本の文化で好きなものは」「トライアスロンの3つの競技の中でどれが好きか」「精神面で辛かったときどうする」「東京五輪の目標」など矢継ぎ早に質問。その中で「身体の面で辛いときはどうする」という質問に、「コーチがいるから大丈夫」という答えが返ってきて、「コーチとの信頼関係」が印象に残ったという。

B1へ走り抜く決意 茨城ロボッツの新陣容

【池田充雄】男子プロバスケットボールの茨城ロボッツは10日、水戸市緑町のアダストリアみとアリーナサブアリーナで新加入選手発表会を開催。外国籍選手4人を含む6選手が新ユニフォーム姿で登場し、それぞれに抱負を述べた。今季のチームスローガンは「RUN as ONE」。B2優勝とB1昇格という目標に向かい、全員が一丸となって走り抜くという意味を込めた。開幕戦は9月21日、アダストリアみとアリーナで福岡ライジングゼファーと対戦する。 ロボッツの今季契約選手は14人。昨季から6人が入れ替わり、特に外国籍選手は4人全員が新戦力となった。首脳陣は、終盤に失速した昨季への反省から「走力を含むフィジカルの重視」「ディフェンスとトランジションの改善」をテーマに掲げ、補強を進めてきた。 新戦力6人 HCにガーべロット氏招く  ヘッドコーチ(HC)には、イギリス代表監督のほか4カ国の7つのプロクラブで指導してきたアンソニー・ガーベロット氏を招いた。ガーベロットHCはロボッツに、最後まで戦い抜くための「構造的にきちんとした定義を持つディフェンス」と「勝利につながるカルチャー」を構築することを明言。個人の活躍以上に、選手全員がチームとして勝つことにこだわり、努力することを大事にしたチーム作りを進めている。今回獲得した各選手も、いずれもそういった観点から選ばれた。 「高いレベルの選手がそろった。能力だけで選んだのではなく、いずれも素晴らしい人間性があり、なおかつチャンピオンシップを経験し、勝つことを知っている。B1に昇格してそこで活躍するために、必要なものを全て持っている選手たちであり、われわれのカルチャーを醸成する上で大きく貢献してくれると思う」と、ガーベロットHCは期待を込める。 新加入各選手のプロフィルと会見でのコメントは以下の通り。 小林大祐 愛称ダイス。31歳。昨季までライジングゼファー福岡に所属、同チームをB3からB1昇格へ導いたSG。会見では栃木ブレックス時代からのファンも大勢詰めかけ、サイン会に長蛇の列ができた。3×3の日本代表でもあり、東京五輪出場が期待される。「10点にも匹敵するような、勝負どころでの重要なゴールを決めたい。チームの勝利が第一なので個人成績にこだわりはないが、あえて挙げるなら優勝のための1という数字に常にこだわりたい」 二ノ宮康平 愛称ニノ。30歳。スピードを活かした切り込みや正確なシュート、冷静な判断からのアシストなど、攻守のバランスに優れたPG。アルバルク東京、琉球ゴールデンキングス、滋賀レイクスターズでB1のタイトル争いに貢献。「ロボッツは将来ビッグクラブになれるポテンシャルの高いチーム。そこに自分の経験を伝えていくことが役割だと思う。リーダーシップを発揮してチームを引っ張れる存在になり、笑顔で終われるシーズンにしたい」 鎌田 真 愛称コト。18歳。今季は特別指定選手として加入。ジャンプ力を生かしたプレーを持ち味とし、シュート能力も高いSG。2018年ハワイ州高校選手権で優勝し、MVPなど個人賞の数々を獲得。同年の若手日本代表候補にも選出された。ハワイ生まれハワイ育ちで趣味はサーフィン。母国語は英語だが家庭内では日本語で話していたので、初めての日本の生活にも不安はない。「レベルアップのため大学よりプロを選んだ。多くのことを学びたい」 ニコラス・カナー・メドリー 愛称ニック。35歳。米国出身。欧州を中心に各国のプロリーグで第一線での活躍を続け、2018-19シーズンにはスペイン1部のリーガACBでリバウンド王に輝いたPF。「ロボッツの魅力は勝利への熱意。トニー(ガーベロットHC)は私のプレースタイルを理解してくれており、そこにも心を動かされた。リバウンダーやアシストリーダー、そして何より勝つためには守備が大切なので、素晴らしいディフェンスになりたい」 ウィル・クリークモア 愛称ウィル。30歳。米国出身。日本では西宮ストークス、アースフレンズ東京Z、山形ワイヴァンズでプレーし今季4年目。日本の試合の流れを熟知しており、バスケットボールIQの高さや、アウトサイドを含むシュート力を強みとするPF/C。「B1に上がる機会をもらえたことに感謝している。前のチームでは得点やリバウンドだったが、ここではまた違う役割が求められると思う。自分ができることの全てで優勝に貢献したい」 ダニエル・オチェフ 愛称チェフ。25歳。米国出身、ナイジェリア代表。2m11cm・111kgの恵まれた体格を持つ万能型のフォワード。フィジカルの強さを武器としながらスピードもあり、PF/Cとしてポストプレーはもちろんミドルレンジからの得点も得意。2016年ビラノバ大で全米大学選手権に優勝、NBA下部のGリーグなどで活躍してきた。「B2優勝とB1昇格に貢献するため、与えられたことは全部やり、全てのタスクをコンスタントにできるよう頑張る」

【戦後74年の夏】2 慰霊碑前に集い阿見大空襲の惨禍を記憶

【鈴木宏子】74年前の1945年6月10日、土浦海軍航空隊(阿見町青宿)が米爆撃機B29による空襲に見舞われ、予科練生と教官ら281人と民間人計374人が犠牲になった。慰霊碑がある土浦市大岩田、法泉寺の慰霊碑前で毎年6月10日、犠牲者の冥福と平和を祈る「つどい」が市民の手で開かれている。 1961年に慰霊碑が建立されて以降、毎年、全国から遺族が集い供養が行われてきたが、高齢になり集まれなくなった。遺族に代わって「土浦の戦争惨禍を記憶する会」が慰霊を引き継いだ形だ。6年前の2013年から毎年14~15人の市民が集り、6月10日朝8時50分、慰霊碑に線香を手向け、手を合わせる。記憶する会代表の福田勝夫さん(75)は「再び戦争の惨禍を繰り返さないため身近で起きた戦争体験を記憶したい」と語る。 土浦海軍航空隊は、10代の予科練生(海軍飛行予科練習生)が操縦士になるための基礎訓練をする教育部隊で、1940年に航空隊員を養成する霞ケ浦海軍航空隊から独立して発足した。 阿見大空襲は、終戦2カ月前の6月10日午前7時37分に起こった。この日は家族面会が許された日曜日だったため、父母らが隊門脇の面会所に集まり、練兵場では予科練生が教官の訓示を受けていた。総員退避命令が出て、隊員らは周辺の何カ所にも掘られた防空壕に避難した。 米軍の小型機が低空で機銃掃射を浴びせ、爆弾が防空壕に命中した。土砂が崩れ落ち、多数の隊員が防空壕の中で生き埋めになった。 負傷者や犠牲者を運ぶ担架代わりとして、付近の民家から雨戸の戸板が強制的に集められた。4人1組になって犠牲者を戸板に載せ、近くの同航空隊適性部(土浦市大岩田、現在の県立土浦三高)に運んだ。適性部は、予科練生の採用試験や採用後の適正検査などを行っていた部署で、隣に法泉寺がある。犠牲者は運ばれた先で荼毘(だび)に付された。 体験談収集きっかけに 市民による慰霊の「つどい」のきっかけは、戦後50年を機に福田さんらが土浦の戦争体験談を収集したこと。元予科練生だった大塚嘉考さん(故人)らから生々しい体験談を聞いた。 「よくしごかれた」という話がある。予科練生はすべて連帯責任とされ、だれがミスをすると長さ1メートルくらいの太い青竹がばらばらになるまで全員が尻を叩かれた。訓練が厳しく、気絶したり、訓練中に死んだ人、自殺した人もあった。 「成績優秀だった若者が志願したと伝えられるが、夜中にしごかれる子供たちの悲鳴を聞いていた地元の親たちが子供を志願させるわけがない。校長から『お前が行け』と指名され行った」と大塚さんは語り、「戦争をする人間をつくるためにマインドコントロールされた。戦争を二度と繰り返してはいけない」と福田さんらに言い残した。 福田さんは「当時、高校3年生くらいだった18歳か19歳のいがぐり頭の少年たちが犠牲になった。私たちの子供や孫、身近な人から、土浦でこういう現実があったことをきちんと伝えていきたい」と語る。 ➡【戦後74年の夏】1はこちら

つくば市の待機児童数 また県内ワースト1

【山崎実】茨城県子ども未来課が公表した4月1日現在の待機児童数は345人で、最も多かったのはつくば市の131人。同市だけで県内待機児童数の3分の1以上を占めた。つくば市の待機児童は昨年も県全体の3割を占めワースト1だった。今年は昨年同期の116人より15人増えた。 県全体の待機児童数は昨年比41人(約11%)減り、直近の5年間では最少となった。345人の内訳をみると0~2歳児が303人と87.8%を占め、3歳児以上は42人(12.2%)だった。0~2歳の待機組が全体の約9割を占めている。 つくば市を含めた県南地域の待機児童は239人で、県全体の7割程度に達している。このうち土浦市の待機児童数は8人で県内ワースト12位。昨年同期は2人だったが6人増えた。 待機児童が発生しているのは20市町村で、うち20人以上いるのはつくば市、つくばみらい市、阿見町、ひたちなか市の4市町。女性の就業率の向上に伴う入所希望者の増加に対し、受け皿対策が間に合わないことなどが原因。 このため同課では、今後の対応として▽国の保育所整備交付金を活用し地域の実情に応じた保育所や認定こども園、小規模保育施設などの整備、家庭的保育事業者の増加を図るなどして受け皿の拡大を目指す▽「いばらき保育人材バンク」や保育士修学資金貸付制度など、各種施策を推進し保育人材の確保に取り組む―ことなどを重点的に進めていくとしている。 市町村別待機児童数 順位 市町村名 待機児童数(人) 1 つくば市 131 2 つくばみらい市 33 3 阿見町 31 4 ひたちなか市 25 5 水戸市 18 5 牛久市 18 7 古河市 15 7 取手市 15 9 那珂市 13 10 下妻市 11 11 東海村 9 12 土浦市 8 13 常総市 4 14 高萩市 3 14 鹿嶋市 3 14 神栖市 3 17 常陸太田市 2 18 守谷市 1 18 稲敷市 1 18 美浦村 1 2019年4月1日現在

【戦後74年の夏】1 戦時下の土浦 「どんな時も楽しみを見つけた」

戦後74年目の終戦の日が今年も巡ってくる。戦争体験者が高齢化し、戦争の実態を次世代にどう伝え、平和への願いをどう引き継げばいいのか。74年前と今をつなぐ夏の景色を追った。 【田中めぐみ】土浦市に住む山口あささん(98)は、16歳で母を亡くし、戦時中は父と妹と3人で土浦駅のそばで暮らした。兄は兵士として中国に行き、弟は横須賀海軍航空隊に所属した。 信仰が心の支えに あささんが小学4年生の時、長屋の前を通っていると美しい讃美歌が聞こえ、思わず中に入った。キリスト教の講義所だった。大人たちが優しく招き入れてくれたのがきっかけで講義所に通うようになり、クリスチャンとなった。戦時中も週に1度は集まりに参加した。「一生懸命努力して自分の力を出して働きなさい、そして良いことを行いなさい」という牧師の話を聞くと、いつも元気になって帰ることができたという。教会では皆が協力して食べ物を持ち寄り、行けばいつでも食べ物があった。教会は心の支えだったと話す。 あささんは戦前から、叔父の経営する会社で洋裁の技術を生かし、学生服を縫って働いた。太平洋戦争が始まる1941年には、社長だった叔父が従業員を並べ、「これから戦争になる。縫うものにも混ぜ物が入るかもしれない」と話をした。「こんな大きい戦争になるとは思いもしなかった」という。 男子が兵隊に取られ、労働力が不足すると、一時期、東京に出て、品川の軍需工場で働いた。しかし、洋裁のことも忘れなかった。学生服だけではなく家族が着る物も縫えるようになりたいと、夜間は五反田にある洋裁の製図専門学校に通った。昼間は軍需工場でラジオの真空管を作り、夜は学校に通う生活が1年半ほど続いた。仕事の行き帰りや昼休みには、同僚と干し芋を食べるのが楽しみだったという。「みんな同じ境遇だから辛くはなかった。どこに行っても楽しみはあるもの」と話す。戦中から今に至るまで、洋裁の仕事を辞めずに続けてきたことが誇りだという。 阿見大空襲、町が赤く燃えた 土浦に戻ったある日、大岩田の畑にじゃがいもを植える勤労奉仕をしていた時、数匹の猫を見つけ、嫌がってひっかくのを無理やり抱いて1匹連れ帰った。猫はすぐになつき、「ミーちゃん」と名付けかわいがった。空襲警報のサイレンが鳴ると、猫を抱いて一緒に防空壕に逃げた。 土浦ではほとんど怖い経験はなかったが、1945年6月10日の阿見大空襲の時は、B29に爆撃された町が赤く燃えているのを見て恐ろしかったと振り返る。 駅前は歩けないほどの人混み 終戦の年、あささんは24歳だった。8月15日の玉音放送の日、土浦駅前は人でごった返した。玉音放送がよく聞こえず何が起こったか分からない人、敗戦を信じられない人、日本が負けたと悟っている人、多くの人々が互いに情報を求め、駅前に詰めかけていた。 歩けないほどの人混みの中、教会に向かっていると、途中で泣いている若い女性と出会った。夫が霞ケ浦海軍航空隊に所属しているという。女性は何が起こったのか分からず、とにかく海軍航空隊に行けば情報が得られるのではと考え、遠くから来たということだった。泣く女性を連れて教会に行くと、牧師はいつも通り落ち着いていて、「大丈夫だから」と話してくれた。あささんは安心し、その女性も気持ちを落ち着け、帰っていった。駅前の人々もそれぞれの方法で納得し、帰ったようだった。 町を見下ろし涙があふれた 幸いなことに、終戦後すぐ中国に出征していた兄が帰ってきた。追って横須賀の海軍航空隊にいた弟も無事戻った。父は兄と弟の無事を心から喜んだ。 戦時中は貴重品などの荷物を真鍋の親戚に預けていた。終戦の翌年の2月、預けていた荷物を取りに行き、真鍋の坂から土浦の町を見下ろした時、思わず涙があふれてきた。「これでやっと終わった」。あささんは、この時初めて終戦を実感しほっとした。その翌日、土浦に雪が降ったことを覚えている。 ➡昨年の終戦の日連載企画「戦後73年の記憶」はこちら

故郷にお帰り ピエロたち 10日から土浦で「塙賢三展」

【相澤冬樹】遺族から作品の寄贈を受け、10日から「塙賢三展」を開く土浦市民ギャラリー(同市大和町、アルカス土浦1階)で9日、内覧会が開かれた。同ギャラリーに関係者を集め、土浦生まれで「ピエロの画家」と呼ばれた塙賢三さん(1916-1986年)の画業をたどった。3男で、遺作の寄贈を申し出た塙義雄さん(74)=東京都練馬区=が駆けつけ、「ここなら大事にしてもらえると思った。喜んで送り出した」と語った。コミック「ちびまる子ちゃん」の作者で、ちょうど1年前に亡くなったさくらももこさんとの交流に関わる作品も展示されている。 土浦に生まれた塙さんは戦後本格的に絵筆を握り、二科展を中心に活躍した。同市出身の福田義之助、鶴岡義雄らに師事したが、「美術学校を出たわけでもなく独学だったため、それまでの絵画の概念を打ち捨てられた」といい、広い背景の中に人物を小さく配置する構図に新境地を見出した。中でもピエロの描像は印象的で、「ピエロの画家」と呼ばれ、親しまれた。 今回の「塙賢三展」には、寄贈の10点に加え、義雄さん所蔵の18点が展示される。さらに賢三ファンだったさくらももこさんが20歳になった記念に買い求め、大事にしてきた作品「夢のサーカス」が、さくらさんが2007年に描き、義雄さんに贈った「ピエロとちびまる子ちゃん」の絵と合わせて特別出品された。これら画業の変遷をたどる全30作品で構成される。 17年11月にオープンした同ギャラリーの開館記念展「茨城ゆかりの洋画家たち」に賢三さんの作品2点が展示されたのがきっかけ。来場した義雄さんが「自宅での管理が難しくなっている。このまま作品を埋もれさすには忍びない」と申し出た。ふるさとの心地よさが決め手だった。土浦市の美術品収集検討委員会(小泉淳一委員長)が義雄さん宅を訪れるなどし、最終的に10点を選定、4月までに寄贈を受けた。1950年代の作品から1986年作の絶筆(I am Pirrot)までが含まれる。 内覧会で解説を務めた学芸員の萩谷良太さんによれば「ピエロは本来Pierrotでeが抜けたつづりだが、調べると賢三の作品名は二転三転して気まぐれなのもおもしろい。解説を聞く機会があればその辺も楽しんでほしい」という。 ◆「塙賢三展~ピエロの画家、ふるさとへ」は8月10日~9月16日(毎週月曜日休館)午前10時~午後6時。入場無料。問い合わせは同ギャラリー(電話029-846-2950)。美術品収集検討委員長の小泉淳一さんによる記念講演会「塙賢三という画家」が25日午後1時30分から、同ギャラリーで行われる。先着50人。

県内ロケ作品が過去最高に 旧土浦市役所などで撮影

【山崎実】映画、テレビドラマなどの県内撮影を市町村と支援している県フィルムコミッション(FC)がまとめた2018年度の実績調査によると、ロケ支援作品数は606作品(対前年度比15%増)で過去最高となり、地域別のロケ実施では県南が27%と最も多かった。 FCは、茨城県のイメージアップ、観光振興と誘客促進などを目的に、2002年10月に設立。以後、県内ロケの誘致、支援活動に積極的に乗り出し、16年間で6508作品と、既に6500作品を突破した。 昨年度の実績は、作品数はもとより、撮影日数も1318日(同7%増)と前年度を上回ったほか、経済波及効果の推計額は約4億5000万円(同2%増、02年からの累計額は約78億1000万円)に及ぶ。 また、一般県民がボランティアエキストラとして参加した人数は、映画やドラマ194作品に延べ約1万5000人が出演。映画「平成仮面ライダー20作記念 仮面ライダー平成ジェネレーションズFOREVER」(水戸市・県庁)に3日間で延べ900人、ドラマ「ハケン占い師アタル」(土浦市・旧斗利出小学校)でも3日間で延べ800人が参加した。 主な支援作品は、映画「ダイナー」「アルキメデスの大戦」「ある町の高い煙突」、テレビドラマ「なつぞら」「ひよっこ」「あなたには帰る家がある」など。全てのジャンルでの主要ロケ場所では、採石場(常陸大宮市)、筑波海軍航空隊記念館・こころの医療センター(笠間市)、大洗サンビーチ(大洗町)がベスト3。地域別のロケ地で多かったのは県南の27%、次いで県央25%、県北22%、県西18%、鹿行8%の順だった。 ロケツーリズムで情報発信、1000万円を制作補助 県はロケ適地PRのため、昨年前期はロケ地として数多く利用されている霞ケ浦流域下水道、旧土浦市役所(現在は使用できない)、JAXA筑波宇宙センターなど土浦、つくば市、後期は特撮の聖地とされる県庁にテーマを絞ったロケツーリズムを実施するなど情報発信に力を入れた。さらに、本県を舞台題材とした映画作品の制作補助を打ち出し、映画「ある町の高い煙突」(日立市の鉱山煙害と大煙突)に1000万円の補助を行った。 FC活動は、市町村との連携、協力が重要だが、現在設立しているのは29市町村。下妻、坂東、かすみがうらの各市と茨城町などが設立を検討中という。 県FC推進室は今年度の事業として、海外フィルムマート(商談会)出展や、映画制作団体の訪問、海外映画監督の招へいと、県内ロケ地ツアーの実施など、「海外で本県のロケ地のプロモーション活動を行い、海外映像作品の誘致を進めていきたい」としている。  

【戦後74年】「戦争が起きないよう願う」 土浦の野田信次さん(90)博物館で体験語る

【谷島英里子】土浦市立博物館(同市中央1丁目)で7日、「戦争体験のお話をきく会」が開かれた。1945年3月10日の東京大空襲で凄惨(せいさん)な体験をした市内在住の野田信次さん(90)が講話し「過去の教訓を学ばぬものは再び同じ過ちを繰り返す。今後(戦争が)起きないように願っている」と力強く語った。 野田さんは現在の東京都墨田区に生まれ、旧制中等教育学校のころ空襲に遭った。焼夷(しょうい)弾で一面火の海で逃げ場がなくなり、自宅も燃えてしまった。食糧のコメを防空壕に入れ、火に追われながら父親らと風上に走って隅田公園に避難した。そこには火の粉が浅草からも飛んできており、避難してきた人たちと叱咤(しった)激励して消火にあたったと生き延びた当時を振り返った。 この辺りでは「熱さで隅田川に飛び込む人、電柱につかまりながらセミのような状態で焼死した人、死体がゴロゴロ転がっていた」と悲惨な光景を話した。野田さんはその後何日か過ぎてから汽車で両親の実家がある土浦に疎開した。試験に合格し、土浦海軍航空隊の適性部(土浦市大岩田)に従事したという。 会場には国民服や当時の写真などが展示され、参加した30人を超える市民らは平和への思いを新たにした。戦時中、土浦に疎開していたという参加者の森玲子さん(84)=牛久市在住=は「戦争は心も体も食べ物も全てを失う。何が何でも戦争だけは食い止めないといけない」と話していた。

【高校野球’19】霞ケ浦、甲子園は初戦敗退 生徒ら最後まで声援

【池田充雄】第101回全国高校野球選手権大会は2日目の7日、第1試合で本県代表の霞ケ浦高校が登場。大阪府代表の履正社高校と対戦し6対11で敗れた。待望の甲子園1勝はまたもお預けとなった。阿見町青宿の同校では生徒、保護者、職員ら200人以上が応援観戦に詰めかけ、勝利を信じ、スクリーンに向かって最後まで声援を送り続けた。 この試合、履正社は1試合5ホームランの大会タイ記録を含む17安打の猛攻。霞ケ浦は中盤に打線がつながり追い上げを見せたが、序盤の大量失点が最後まで響いた。 霞ケ浦の先発・鈴木寛人は1回表、履正社の先頭と4番にそれぞれソロホームランを打たれ、ペースを乱された。低めを突こうとしたスライダーやチェンジアップが決まらず、高めに浮いたストレートを狙われた。2、3回にも2ランを含む計5安打を浴び、0-7と引き離されたところで降板。3回1死からマウンドを継いだ山本雄大は変化球を巧みに使い、テンポの良い投球で相手の打ち気をそらすが、わずかに甘く入った球を捉えられ、5・6・8・9回に1点ずつを許す。 霞ケ浦の反撃は3回裏、天野海斗のソロホームランから。6回には先頭の黒田悠真が四球を選び、小田倉啓介の中前打で一、二塁とすると、吉本光甫の右翼への二塁打と、天野の左中間三塁打で計3点を加え、履正社のエース清水をマウンドから引きずり下ろす。2番手の岩崎からも飯塚恒介の二ゴロで1点を奪い、この回で5-9と4点差まで迫る。 8回には山本の遊ゴロで1点を加えたが、反撃もここまで。9回はダブルプレーであえなく試合終了。3回の2死満塁や、5回の無死一、三塁といった好機を生かせていれば、また別の展開もあったかもしれない。 「来年も頑張ってほしい」 「2回戦はみんなで甲子園で応援するつもりだった。行けなくなって残念だけど、ここまで一緒に頑張ってこれて野球部には感謝している」と試合終了時、目頭を押さえながら話したのは、2年生の岩瀬桃奈さん。山本投手や瀬川悠人捕手ら同級生の活躍に「来年もすごく応援したい気持ち。頑張ってほしい」とエールを送る。 「天野くんが打ってくれてチームに流れが来て、すごくよかった」と話すのはクラスメートの瑞穂花鈴さん(3年)。日ごろの天野選手は明るく元気で、いつもふざけている感じなので、試合中の真剣な表情に感動したそうだ。 同高附属中学の硬式野球部員、約30人も試合を見守った。「両チームとも一つひとつのプレーのレベルが高くてすごかった」と比氣叶夢さん(中3)、「一緒に練習した人が甲子園に出ていて感動した」と根本優真さん(同)。先日、ボーイズリーグの全国大会であるリポビタンカップの中学生の部に出場し、1回戦突破を果たしてきたばかり。兄弟チームそろっての1勝はならなかったが、次は自分たちが先輩の夢を引き継ぐ番だ。「来年は自分たちが1年からベンチ入りして、甲子園で活躍したい」と山田大河くん(同)は意気込んだ。

筑波ふれあいの里をアウトドア拠点に つくば市が基本構想着手

【鈴木宏子】筑波山麓にあるつくば市営の自然活用型施設「筑波ふれあいの里」(つくば市臼井)を、近年注目を集めるアウトドアの拠点に再整備しようと、つくば市が基本構想の策定に着手する。 五十嵐立青市長の公約の一つ。2018年度にアウトドアフィールド観光資源活用調査を実施した結果、筑波ふれあいの里が最もアウトドア拠点にふさわしいという回答を得たため再整備する。18年8月に同市と地域活性化に関する包括連携協定を締結したアウトドア用品メーカー「スノーピーク」(新潟県三条市、山井太社長)が、17年から市の委託を受けて観光資源のコンサルティングを実施してきた。 基本構想の策定に向け市は、7月12日から22日まで策定業務のプロポーザル参加申し込みを公募した。企画提案書を8月16日まで受け付け、21日に非公開で審査を実施する。同策定業務の予算は約815万円。 市観光推進課によると、何社から応募があったかについて現時点で公表できないとしている。基本構想は来年3月までに策定する。2020年度以降、設計、再整備を実施するが、来年度以降のスケジュールは未定。現在の施設を生かすのか、全面的に再整備するのかなど、再整備の規模や予算額なども現時点で未定という。 筑波ふれあいの里は1989年3月に都市と農村の交流施設としてオープンした。面積は約14ヘクタール。宿泊施設、コテージ、キャンプ場、バーベキュー施設、そば打ちや染色の体験施設、長さ100メートルのローラースライダーなどがある。2017年度の利用人数は約2万5500人で、目標の年間2万5000人をわずかに上回る。利用人数はここ数年ほぼ横ばいとなっている。17年度の年間事業費は約7280万円。

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