月曜日, 7月 27, 2026
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筑波山神社宮司 上野貞茂さん《ふるほんや見聞記》12

【コラム・岡田富朗】上野貞茂さん(64)は、桜川市にある神社が御実家で、笠間稲荷神社で権禰宜(ごんねぎ)を務めたのち、4年ほど前から筑波山神社の宮司を務めています。筑波山神社は、古くから信仰の歴史を持つ霊峰筑波山を御神体と仰ぎ、「常陸国風土記」や「万葉集」にも記されている古社です。

境内は中腹の拝殿から山頂を含む約370ヘクタールにおよび、山頂からの眺望は関東一円に広がります。筑波男大神(いざなぎのみこと)、筑波女大神(いざなみのみこと)を祭神とし、縁結びや夫婦和合の神として広く信仰を集めています。結婚式や縁結び、交通安全、厄除けなどの祈祷も毎日行われています。

年越祭

年末年始からお正月の期間は、新年を祝う多くの参拝客でにぎわう筑波山神社ですが、2月には「年越祭(としこしまつり)」が開催されます。年越祭とは、新年最初の満月を迎え小正月と節分を祝う追儺(ついな)豆まき神事です。拝殿でお祓(はら)いを受けた年男・年女が福豆とともに、たくさんの福物をまき、春の訪れを祝います。

1年の家内安全や商売繁盛、厄除(やくよけ)けなどを祈願する祭礼で、本来は旧暦の正月14日に行われてきましたが、現在は毎年2月10日と11日の両日に開催されています。大相撲大島部屋から大島親方(元旭天鵬)をはじめ、力士の方々も豆まきに参加されます。

御座替祭

古来より春と秋、4月と11月には「御座替祭」(おざがわりさい)という筑波山神社の例大祭が開催されます。「神衣祭(かんみそさい)」「奉幣祭(ほうへいさい)」「神幸祭(しんこうさい)」の三種の神事が執り行われ、大神様の依代である神衣の御神座を新たに奉り、御神徳のいっそうの高揚をいただく最も重要な神事です。

午後の「神幸祭」では、御山の神様を里に迎え五穀豊穣(ほうじょう)を祝い、国の安寧を祈ります。祭装束を整えた神職・氏子総代、総勢約150名の氏子崇敬者が猿田彦を先頭に太鼓や雅楽の音色の中、神様が坐します神輿(みこし)とともに町内を巡り、筑波山神社拝殿に宮入します。御座替祭の日に限り、茨城県重要文化財である「御神橋(ごしんばし)」(徳川家光公寄進)を御神輿とともに一般の方も渡ることができます。

徳川家と筑波山神社

徳川家康が江戸城守護の霊山として筑波山を祈願所と定めて以来、筑波山神社は将軍家の崇敬を厚く受けてきました。国の重要文化財に指定されている吉宗銘の太刀は、三代将軍・家光の寄進によるものです。境内には、日枝神社、春日神社、厳島神社、さらに参道の中央に架かる神橋など、1633(寛永10)年に家光によって寄進された諸社殿も立ち並んでいます。

左は春日神社本殿、右は日枝神社本殿

歴史が長く貴重な文化財が数多く残る筑波山神社ですが、その分維持や管理には大変さがあるそうです。取材した日も、厳島神社の屋根の修復作業が行われていました。

2033(令和15)年には、徳川三代将軍家光が諸社殿などを寄進してから400年の節目を迎えます。日枝神社本殿正面には、「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿の彫刻が施されており、この作は日光東照宮のものよりも前の作であると言われています。

貴重な文化財が今後も大切に守り継がれていくためにも、より多くの方に筑波山神社の魅力を知っていただきたいと感じました。(ブックセンター・キャンパス店主)

<年越祭> 2月10日(火)、11日(水)の2日間、午後2時、3時、4時に開催。年男年女の参加料は2万円。

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