月曜日, 7月 27, 2026
ホームスポーツ小学生8チームが熱戦 第1回つくば学園ロータリークラブ小関迪杯

小学生8チームが熱戦 第1回つくば学園ロータリークラブ小関迪杯

小学4年生を対象とする、つくば学園ロータリークラブ(野澤俊夫会長)主催のミニサッカー大会「第1回つくば学園ロータリークラブ小関迪杯」が10日、つくば市東光台のブロッソンフットサルコートと隣接の東光台グラウンドで開かれ、つくば市と近隣市の少年サッカーチーム8チームが熱戦を繰り広げた。

同ロータリークラブ会員で筑波記念病院を創設した小関迪(こせき・すすむ)さんが昨年12月に逝去。小関さんは地域や同ロータリークラブの発展に貢献したことから、青少年の健全育成と地域の発展を目的に、小関さんの名前を冠したミニサッカー大会を初めて開いた。

8チーム約120人の小学生がトーナメント方式で戦い、決勝は牛久市立中根小学校を拠点に活動するサッカー少年団「中根FC」と、地元つくば市東光台のクラブチーム「ブロッソン」が対戦、試合は0-0の結果に終わったが、PK戦で中根FCが勝利し、初の小関迪杯を手にした。

参加チームはほかに▽つくば市立手代木南小を拠点に活動する「手代木SC」▽同市立前野小の「マエノD2C」▽牛久市の「アルコイリスfc」▽同市立ひたち野うしく小学校の「ひたち野ライズFC」▽龍ケ崎市立龍ケ崎西小の「龍ケ崎ペレグリンJr.FC」▽同市のレプロSCの計8チーム。

各チームの最優秀選手ら

野澤会長は「第1回の大会となったが、本当に素晴らしい大会となり、子供たちは皆いい姿を見せてくれた。学園ロータリークラブとして来年以降も継続して開催したい」と語る。

元Jリーガーで、FC東京や湘南ベルマーレなどで活躍し、この日の大会会場となった東光台でフットサルコートを経営するブロッソン社長の阿部吉朗さん(43)が大会競技委員長を務めた。阿部さんは「僕たちが子供のころと比べて小学生のサッカーのレベルがすごく上がっていると感じた。小学生のサッカーチームは、サッカースポーツ少年団とクラブチームに分かれて活動しているが、この大会には少年団とクラブチームの両方が出場した。同じサッカーの仲間として、互いにそれぞれのいいところを知ってもらう機会になったと思う」と意義を話す。

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