日曜日, 7月 26, 2026
ホームつくば市長リコール請求を断念 署名集まらず つくばの市民団体

市長リコール請求を断念 署名集まらず つくばの市民団体

つくば市が旧総合運動公園用地(同市大穂、46ヘクタール)を外資系物流不動産会社、グッドマンジャパンに一括売却する問題(6月21日付)で、売却に反対し五十嵐立青市長のリコール(解職)を求める署名運動を実施(7月8日付)していた市民団体「つくば市長リコール住民投票の会」(酒井泉代表)は16日記者会見し、署名が1028筆(15日時点)しか集まらなかったとして、リコール投票の請求を断念すると発表した。

同会は7月11日から8月10日までの1カ月間、署名を集めていた。リコールの賛否投票を請求するには、有権者数の3分の1以上の6万4658人以上の署名が必要だった。

酒井さん(73)は「(売却は)議会も通さず、市民の意志表示の機会がなかった」とリコール運動を実施した理由を改めて話し、署名が集まらかった原因については「自分の住所、氏名、生年月日などの個人情報をさらけ出すことに抵抗もあったと思う。6万筆なんて集まるはずないのに、負け戦に参加することに恐怖もあったと思う」とした。

さらに「これまで新聞にちらしを3回折り込んだが、1割くらいしか読んでおらず、(売却により)学園都市がなぜ存亡の危機か、ほとんどの人が理解してなかった。理解している人でも、リコールまでやる必要はない、全市的な問題ではないという意見もあった。110億円で売れたからいいじゃないという話も随分聞いた」などと述べ、「問題提起をするのが役目だったが、我々の役目が足りなかった」と話した。

酒井さんは「私が中学生の時(筑波研究学園都市の)用地買収がスタートし、その時の地元の苦悩を見ている。反対が多かったが地元が受け入れたのは、世界に遅れないよう研究学園都市をつくるという明確な理念が国にあったから。その後、成田闘争があったが、当時つくばが成田闘争のようなことになっていたら、研究用地を売却することなどできなかったと思う」と振り返り、「(研究学園都市建設から)たった50年で研究用地を売却するとはどういうことか。研究用地の売却は工業団地の売却とは違う」「50年経って、そもそも研究学園都市がどんな理念でつくられたかを知る人は、我々の世代しかいなくなっているのかと思う」とし「市民に気付いてもらう努力はこれからも続けたい」と語った。

今後については、用途地域の変更などつくば市が今後実施するさまざまな法的手続きに意見を言っていくほか、つくば市と係争中の、売却の違法性を訴える住民訴訟に力を注ぎたいとした。リコール運動についても「(状況によって)何度でも繰り返しやる」と強調した。

今回集まった1028筆の署名は、開封せず、報道機関など第3者の立ち合いの下、近日中にシュレッダーですべて裁断し処分するとしている。(鈴木宏子)

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