【コラム 月山望】歴史を学ぶことに意味はあるのだろうか。このコラムをお読みの皆さんの中にはこのように考えた学生時代がある人も多いかもしれない。数字、漢字、カタカナをただひたすら脳に詰め込む作業のようにも感じられる。受験勉強はそういうものだと割り切ることもできる。しかし、学ぶからには有意義で意味のあるものであってほしい。少なくとも私はそう考える。
そもそも歴史にはさまざまな解釈の仕方があり、新たな資料の発見一つで、それまでの見方が変わることもある。なぜなら、私たちが知る「歴史」とは、過去に実際に起こった出来事そのものではなく、残された資料をもとに、選択・解釈して構成したものだからだ。
それなのに、なぜ私たちは歴史を学ぶのだろうか。よく聞く意見として「同じ失敗を繰り返さないためだ」というものがあるが、これは少し間違っていると私は思う。歴史上の出来事と現在の出来事では状況が異なっていることの方が多い。社会制度も技術も価値観も異なる時代のことを易々(やすやす)と当てはめることはできない。例えば過去に失敗したと言われている政策があったからといって、今また失敗するとは限らないし、その逆もまた然りだ。
ここで視点を少し変えてみる。同じ失敗を完全に防ぐためではなく、同じ状況に対する行動の選択肢を増やすために歴史を学ぶべきだと考えるのだ。過去の出来事を踏まえて現在の行動を多角的に認識すれば、自分が間違っている可能性や自分がしない(しなかった)選択について考慮しながら進むことが可能になる。過去の歴史を知ったからといって未来の失敗を完全に防ぐことはできないが、知らない場合より選択肢を多く持てるようになる。
歴史の価値はそういったところにあるのではないだろうか。つまり、歴史上の失敗と同じことを繰り返してしまったとしても、それだけで学ぶ意味がないということにはならない。
学ぶ主体の視点を変化させる
では、そうした学びを成立させるために何が必要か。ここで避けて通れないのが暗記である。確かに試験が終わってすぐに頭から抜けてしまうような覚え方に意味はない。だが、起きた事や時系列、その時代の文化や風土に関する知識が抜けていては「なぜその出来事が起こったのか」について考えることもできない。
加えて、今起きているさまざまな紛争や社会問題の背景にはその地域が歩んできた歴史が関わっていることも多い。グローバル化した社会の中でさまざまな国の人と出会い、関係を持つことがあるだろう。同じ時代を生きている人でも起こったことに対する認識が異なることもある。そんな時、ほんの少しの知識で相手の背景に配慮した話ができるかもしれない、自分の国について尋ねられた時、自分の言葉で語ることができるかもしれない。
刻々と変わりゆく社会の中で、他国や自分の国の歴史を知らずにどうして未来を思い描くことができるのか。歴史を学ぶことによって私たちは新しい視点を得ることができる。そう考えると歴史を学ぶ意味は歴史的な事実を知ることではなく、それを学ぶ主体の視点を変化させることにあると私は思う。歴史を学ぶことは自分の人生を変化させることにつながっていく。より良い明日を思い描くために、私は今日も歴史を学ぼう。(土浦一高哲学部2年)





