【コラム・2年 アトモスフィア】「みんなと仲良く」ということは、私達の大半がそうするに越したことはないと理解していて、それでも心のどこかで諦めてしまっていることなのだと私は思います。そして、それは実際に試みた結果として理想とのギャップに打ちのめされてしまうというより、平穏な暮らしの中ですら、自分でも意識しないうちに、自然と無力感を植え付けられているという方が近いのかも知れません。学校での集団いじめから国家間の戦争に至るまで、気が滅入るニュースは日々探すまでもなく転がり込んできますし、暮らしの中で出会う誰かの、ひどく鼻持ちならない言動を見たり、されたりして、人と関わること自体が億劫(おっくう)になることもあるでしょう。
普通の人間である私には、好きな人間と嫌いな人間がいて、それはきっとあなたも他の皆もそうであり、その時点で「みんなと仲良く」なんてことは空想でしかないのかも知れません。知れません、などと曖昧な語尾を繰り返すのは、断言がはばかられるというより、そういう現実に生きていながら、他でもない私が、心のどこかで「みんなと仲良く」を諦められないからです。
小学校の高学年頃、私は当時同級生の中では成績がとてもよく、それを鼻に掛けて心の中で周囲を見下しているようなすごい嫌な奴でした。隠していたつもりでも態度ににじみ出ていたのか、一部の子に意地悪をされることもありました。あるいはその意地悪が先にあって、それにかこつけて壁をつくっていたのかも知れません。いずれにせよ今となっては分からないことです。思い出にふたをするように市外の中学校に進学してからは人間関係にも恵まれ、小学校の思い出もおぼろげになりつつあり、今やすっかりその辺の高校生となりました。しかし、ふとした瞬間にかつての記憶が首をもたげて、私はどうするべきだったのだろうと疑問に思わされるのです。
私が「みんなと仲良く」をどうしても諦めきれないのは、ひょっとしたらあの経験の後ろ暗さへの埋め合わせが理由なのかも知れません。過去を変えることはできませんが、それを糧に未来をより良くすることは誰もが許された権利であり、私は今、身の回りにいる、あるいはこれから出会う人々に誠実に向き合うために、そのことを考えてみたいと思いました。それがこのコラムを執筆するに至った主な動機です。

誠実さの在りか
私達は皆、自分一人の力だけで生きていくことはかないません。誰かに養われる人もいれば、誰かを養うために仕事に従事する人もおり、それら全て一人の力では果たすことのできない営みです。お金に食事に住み家に服にと、必要なものは基本的に自分でない誰かの手から渡ってきます。そのために人は人と関係性を築くことを避けられません。裏を返せば、人間関係は相手から何かを得るためにあるのだ、ということになるでしょう。友人関係でさえその理屈は同じではないでしょうか。「何かを得る」というのは、決して実質的なメリットに限った話でなく、一緒にいて楽しいとか、安心できるだとか、目に見えない実感をも含みます。それらは生命や生活の維持に関わらずとも、私達の人生に幸福を与えるものだからです。誰だって、自分に何も与えてくれない、一緒にいた所で自分がすり減るだけの相手とは付き合いたくないものです。
しかし、そんなふうに言われてしまうと、まるで損得感情を抜きにした人間関係、すなわち「真実の友情」みたいなものが存在しないかのようで、反発を覚える方もいるかもしれません。ここで考えるべきなのは、打算的であることと、人間関係において誠実であることの関係性です。私はむしろ、人間関係が損得勘定抜きに成立しない以上、私達が「誠実さ」と呼んでいるものの鍵はそこに存在するのではないか、と思うのです。
前述の通り、私達は日常生活において、周囲の人間から多くの助けを得て暮らしています。生活を支えたり彩ったりする何かを日々受け取っているのです。そして、何かをしてもらった相手には感謝をするべきだということは、私達の中に当たり前のこととして浸透している認識だと思います。私は、恐らくこの認識こそが、人間関係において誠実であるために重要なことではないかと思います。特に友人関係においては。
友人関係よりも家族関係などの方が、生活、言わば生存における比重が重い分、感謝の重要性も高いのではないかと思うかもしれません。しかし、むしろここにおいて重要なのは、友人関係が「最悪、無くてもいい」ものであるという事実です。
旅行に行ったらお土産を買ったり、プレゼントをもらったらお返しをしたり、友人関係には無駄や面倒が多いものです(家族関係も似たようなものですが、そちらは血縁である分、多少の失礼は看過されるはずです)。そうと分かっていてなぜ続けるかと言えば、「やらないと申し訳ない」という感情がそこについて回っているからです。もう少し踏み込めば、「そうしないことで、相手やみんなから白い目で見られないように」という思惑です。それらの自然な習性は、人間の寄せ集まった社会で共有されることで、ある種の強制力を持った習慣となります。「最悪無くてもいい」関係性のためにそんな心労を払わなければならないだなんて、とても厄介なことです。だからこそ、そういう「お約束」をきちんと守ってくれる相手に、私達は「きちんとした人」「礼儀正しい人」という印象を抱きます。それゆえに粗末な扱いをしてはいけない、自分も同じくらい礼儀正しくしなければいけない、とも。これは、相手から何かをもらった、その事実が相手への誠意へとつながる例です。
友人なんて要らないと言えば言い過ぎかもしれませんが、他にも友人はいるだろうに、他でもない自分のために何かをしてくれたという事実。これはとてもかけがえのないことなのです。私達は私達の友人に対して誠実であるために、彼らから受け取ったものに対して、もっと眼差しを向けるべきではないでしょうか。受け取った恩を正しく認識しないことには、正しい恩返しは出来ません。私は学校で頻繁に忘れ物をしては友達に泣きついているので、「友達関係に損得はない」なんて口が裂けても言えません。私が一方的に助ける側ならともかく、人の助けを借りておいてそんなことを言うのは全くもって恩知らずであり、私の目指すべき誠実さとは程遠い態度であるからです。

分かりあうために
さて、人間関係が助け合い、あるいは利害の受け渡しで成り立ってるのなら、人間関係を乱す人というのは、それを拒否する人のことです。相手の反応もお構いなしに自分の話題ばかりを続けたり、袋詰めのお菓子を一人で食べ尽くしたり、相手の些細(ささい)な気遣いへの感謝を忘れたりします。関わらない方が正解だと言いたくなる気持ちもわかるのですが、前述の通り私の目指すことは「みんなと仲良く」なので、そこでくじけるわけにはいきません。そもそも日々の生活において、誰かと関わらないようにすることは、結構な場合困難なことです。私の場合は学生ゆえに特にそれを実感します(嫌いなクラスメートからはクラスメートである限り逃れられませんし、住んでいる家や街を勝手に出て行くことはできません)。「分かり合えない」と思う相手との付き合い方を考えるのは、ただの願望やきれい事ではなく、割と有用なことなのです。
前提として大切なのは、分かり合い、仲良くするということは決して、相手の内面性の全てを好きになることではないということです。私達は、関わる人々の全てを把握できるわけではありません。見せたくない一面や言えない秘密は誰にでもあります。仲の良い友達の良いところばかりが見えるのは、良好な関係性を保つために、よき友達としての側面を彼ら自身が作り上げているからです。時には、友達の思いがけない嫌な側面を目にしショックを受けることもあるでしょう。そういう時、それまでに積み重ねた信頼があれば「まあいいか」と思えるかもしれません。
でも、中にはそんなふうに「まあいいか」とは思えない、十分な信頼を積み重ねていない相手もいます。或いは積み重ねた信頼ゆえに余計ショックを受けてしまうこともあるでしょう。そのような事態には、一体どうやって向き合うべきなのでしょうか。
重要なことですが、人が人に傷つけられたと思う時、その相手の振る舞いが必ずしも意図的とは限らないということです(悪意に駆られることもあるでしょうが、もとが理性のある人間ならば自分自身で反省することができますし、そうでなかったとしても、コミュニティの規範などによって自然と淘汰(とうた)されるものです)。それを踏まえて、私が今大切にしたいのは、あらゆる人間に対して判断を急がない忍耐を持つことです。
忍耐という言葉を聞いて、つい身構えてしまう方もいるでしょう。しかしそれは「我慢して善人になろう!」みたいな押し付けがましい根性論ではなくて、むしろ貴方や私の息苦しさを軽減するための技術なのです。良い人、悪い人といったきっぱりとした分類は、私達の認識する世界を単純明快なものにしてくれますが、ふとした瞬間にそれを裏切られた際、整合性を取るために自らの認識を修正する必要が生じてしまいます。好きだった人を嫌いになるのは、まるでそれまでにプラス100好きだった分、マイナス200嫌いになったようで寂しいことです。そこに何か認識のワンクッション(あの言動は本当に悪意があったのか? 何か事情があったのか?)があれば、人に失望しすぎることがなくなる一方で、善意に対してはただの善意以上に喜べるようになります。また、相手を「間違っている」側に追い込む必要がなくなれば、自分が正しいと信じる価値観も過信することもなくなります。結果として私達の見る世界はきっと善悪のこんがらがったよくわからないものに成り果てるでしょうが、それはきっと、楽しい時間をより多くの人間と分かち合える素敵なものでもあると思うのです。なぜなら、善悪や好悪の物差しの上では排除や拒絶の対象となる人々も、その物差しを外せば、ただ価値観が異なるだけの友人になり得るからです。
もちろん、このような忍耐も万能ではありません。それは一つの心構えであって、他者の人格それ自体に影響を及ぼすものではないからです。相手の無自覚な言動に傷つけられ続ける状況を甘んじて受け入れてまで、関係性を保つ必要はありません。むしろ、そういう時こそ、相手から距離を取ることが一つの選択肢となります。人は環境が変わったり、時間が経ったりすれば、自然と考え方や価値観も変化していきます。だからこそ、相手と自分とを分断するのではなく、頃合いを見て関係性を築き直すのを期待して、距離を置くことが大切になります。大切なのは、相手の人間性や相手との人間関係を一つに定義しないことです。好きな人がたまに見せる嫌なところに寛容になって、嫌いな人がたまに見せる良いところに敏感になることです。その心構えを捨てない限り、どんな人間に対しても、本当に分かたれるということはないと思うのです。

「そうありたい」と思うこと
今になって思うに、小学生の私が人間関係に失敗したのは、漠然とした「分かり合えなさ」にかこつけて歩み寄らないことを正当化しただけでなく、「人と関わることは逃げずに向き合うことだ」という思い込みを捨てられなかったことにあるのかも知れません。見下している相手のために傷ついたり、心を悩ませたりすることがひどく馬鹿らしく思われ、それでも逃げることはもっと恥ずかしかったために、自分を正しい側に、相手を間違った側に固定し、観客席から劇の批評をするような人間関係しか築けなかったのです。しかし、人間関係は元より悩ましいものであり、悩みから解放されたいのであれば、人間関係の方を捨てるしかありません。しかし、人が人と関わらず、誰の支えも得ずに生きていくのはとても難しいということは、これまでに説明したとおりです。
あの頃の私は未熟であり、きっと今もそうなのかも知れません。それでも、ただ周囲との隔絶に何の手も打てなかったあの頃に比べれば、単純な人間ではなくなったと思います。忍耐は自分を犠牲にして相手を許し続けることではなく、未来の可能性を閉じず、その曖昧さに根気よく付き合い続ける能動的な姿勢です。そういう地道な行動を積み重ねれば、「みんなと仲良く」という言葉もそう現実離れしたものには聞こえないように思えます。
そうは言ってもやはり、人には必ず好き嫌いや相性があり、たとえどちらも間違っていなかったとしても両立できない価値観が存在します。全員と同じくらい親密で、誰とも争わないという意味での「みんなと仲良く」はどうしても難しいことです。それでも私は、同じ人間として生まれてきた誰かを簡単に切り捨ててしまうことを、どうしても受け入れたくないと思います。
判断を急がず、善悪を単純化せず、自分の心をも守り、未来の関係性に期待を抱く。そうした態度を選び続けることは、他人や世界の形を変えることはできなくとも、自分に見える世界を平和に保ち続ける力にはなります。その理想はきっと未熟な点も多く、私は数えきれない挫折を経験するでしょうが、それでもなお「そうありたい」と願い続けること自体に、私は何かの意味を見出したいと思うのです。
終わり






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