【コラム・奥井登美子】祖父の平沢有一郎(上の写真右)は慶應3年(1867)に生まれた。明治25年(1892)に行われた薬剤師国家試験で茨城県では初めて合格し、26号の合格証がある。その年に合格した全国28人が大事な実験器具の周りに集まって撮った集合写真(同左)も我が家に残っている。
北里柴三郎は明治25年、福沢諭吉の援助で日本初の伝染病研究所を設立した。次の年、芝白金三光町に結核患者の結核療養所をつくった。諭吉は日本で初めてのこのサナトリウムを「土筆ケ岡養生園(つくしがおか ようじょうえん)」と命名した。
柴三郎を尊敬した奧井有一郎
北里柴三郎の人と仕事を尊敬し、その仕事の手伝いをしたかった平沢有一郎は土筆ケ岡養生園に就職し、夢中で働いていたらしい。この養生園の便箋に書かれた手紙(本欄の写真)が我が家に残っている。彼は結婚して奥井家に入り、奥井有一郎になった。
有一郎の孫にあたる奥井勝二は、私からは義兄になる人。手先が超器用な優しい人で、おじい様をとても尊敬していた。義兄は千葉大学医学部の外科医で、働き盛りのころは考えられないほど忙しい毎日を送っていた。
医療用の機械にロボットなどない時代、医者の体力と技術だけが頼りの手術だったので、ものすごく多忙な毎日だった。胃がんの手術500回分のデータをまとめた資料を見せてもらったこともある。
「今日は有一郎おじい様の命日です。お参りに行きたいけれど、行かれない」
「手術を待っている人、たくさんいらっしゃるのだから仕方ないわよ」
「ごめんなさい。おじい様にお花を挙げておいてください」
新千円札の顔をなでながら
義兄も、96歳の天寿を全うして宇宙に飛び出してしまった。私は千円札になってしまった北里柴三郎の顔を指でなでながら、この人に痛烈にあこがれた2人の人間がこの家にいたという事実をかみしめている。(随筆家、薬剤師)