水曜日, 11月 26, 2025
ホーム産業つくば市の農協との合併は? JA水郷つくばの池田さん【キーパーソン】

つくば市の農協との合併は? JA水郷つくばの池田さん【キーパーソン】

7年前、JA水郷つくばの核となったJA土浦(当時)の組合長へのインタビューを旧常陽新聞の「キーパーソン」に掲載した。その主見出しは「県南3農協(つくばの2JAとJA土浦)、広域合併へ」。ところが、つくば側1JAが協議の途中で抜け、この話はご破算に。その後、JA土浦は、JA茨城かすみ(阿見町、美浦村)、JA龍ケ崎(牛久市、龍ケ崎市、利根町)との合併に舵(かじ)を切り、2019年JA水郷つくばが誕生。それから3年半。合併JAの現状とつくばのJAとの合併再協議の可能性について、池田正組合長に聞いた。

経営の「質」は県内JAで1

JA(農業協同組合)の経営は、信用(金融)、共済(保険)、購買(農家への肥料や農機などの販売)、販売(地域の消費者への農産品直接販売)の4本柱で成り立っている。JA水郷つくばの昨年度の事業収益は91億円、事業総利益は32億円だった。利益ベースではJA土浦の2倍になったという。

茨城県内には17の農協があるが、JA水郷つくばの経営規模(組合員数や保有資産)は、県北をほぼカバーするJA常陸に次いで2番目。「常陸さんは、うちに比べて担当エリアが広く、職員数も多い。ただ、経営の質で見れば、うちが県内1ではないか」と話す。

当面は事業連携、合併はその先

7年前、JA県中央から「(当時20あった)県内JAを6つに集約せよ」という大号令が出ていたが、現在はどうなっているのか? 経営の質だけでなく規模でも県内1になるために、そろそろ、つくば市のJAとの合併を再考する時期ではないか?

「確かに当時は(合併の)数字目標を設け、強制的に集約しようとする考えがあった。しかし今は、上から押さえつけて合併させることはない」「(当時は)規模を大きくして経営を安定させることが、組合員と地域に貢献すると考えていた。しかし、経営安定は合併だけでない」「今は、近隣農協との事業連携などで経営強化を図っている」

そして、連携の例を3つ挙げてくれた。①JAつくば市が旧桜村に持っている「ライス・センター(もみ殻を取り除き玄米にする施設)」の共同利用(JA水郷つくばからすれば借用)、②JA水郷つくばが運営する「イーアスつくば」内の農産品直売所(JAつくば市とJA谷田部の農家も出品)、③JA新ひたち野(石岡市の一部、小美玉市)とのレンコン改良事業。

でも、「合併から3年半がたち、うちも余裕が出てきた。いろいろな事業連携の先に、将来を展望して、(他のJAから話があれば)合併のタイミングを考えたい」とも言っており、一度ボツになった合併話が再浮上することもありそうだ。

合併JAのネーミングで苦労

合併によって6市町村をカバーすることになった「JA水郷つくば」のネーミングが以前から気になっていた。「つくば」が入っているのは、つくばのJAと合併することを織り込んでいるからでは?

「合併組合名は、霞ケ浦と筑波山から成る『水郷筑波国定公園』を参考にした。ただ水郷というと利根川と霞ケ浦の間の水域を指し、潮来市なども入ってしまう。そこで、位置情報が必要だと、県南ならどこからでも見える筑波(山)を平仮名で使った。『水郷筑波』では重過ぎるからだ」「(つくば市のJAとの)将来の合併を意識した名前ではない」(笑)

【いけだ・ただし】1956年、土浦市大町生まれ。1979年、東京農大卒、JA土浦に入る。JA茨城かすみ、JA龍ケ崎との合併(2019年2月)前の2017年6月、JA土浦組合長に就任。合併協議を主導し、JA水郷つくばの初代組合長に。土浦市下高津在住。

【インタビュー後記】農協合併は安倍政権が進めた農業大改革の一環。農業保護策を改め、農協の経営力を強化して、国際競争力を付けさせる政策だ。最近ではあまり話題にならないが、貿易の枠組みが複雑化している現在、経営強化の必要性は変わらない。「6つに集約」でもいいのではないか。(経済ジャーナリスト・坂本栄)

【参考】旧常陽新聞の佐野治組合長インタビュー(PDF)

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自動運転バス「レベル4」27年度実現へ つくば市で3回目の実証実験開始

つくば市で21日、公道を使った自動運転バスの走行テストを行う実証実験が始まった。ルートは、つくば駅から筑波大学構内を循環する約10キロの既存のバス路線で、所要時間は約40分。一般の乗客を乗せて1日4便の運行を来年1月23日まで続ける予定だ。同市は2027年度に、運転手不在の状態で、特定の条件下で完全な自動運転が可能となる「レベル4」の実現を目指している。 この実験は、昨年と今年1月に続いて3回目となる。今回はこれまでと同様、状況に応じて運転手が操作を行う「レベル2」での実施となる。 今回は、国の補助金を活用して関東鉄道が自動運転バス車両を新たに購入し、同社のバス路線「筑波大学循環」内のすべてのバス停に停車するなど、新たな取り組みも加わった。また、今年8月にはつくば市を代表として、筑波大学、関東鉄道、KDDIが「つくば自動運転社会実装推進事業コンソーシアム」を設立。民間5社の協力も得て実施されている。 今回使用されている車両は、名古屋市のベンチャー企業ティアフォーによる自動運転EVバス「ミニバス 2.0」。最高時速は70キロ、定員は28人だが、自動運転時は時速35キロ、定員16人で走行する。走行時には8台のカメラと13台のレーザーセンサーが周囲の状況を分析し、事前に設定した走行ルートに従って自動安全システムが交差点やカーブでの停止・発進、加減速などを行う。緊急時には乗車する運転士が手動運転で対応する。この日は通信トラブルが発生し、バス停での停車・発車時などで手動操作に切り替え運行した。 つくば市科学技術戦略課の中島央樹さんは、今回の実証実験について「国は、全国で自動運転サービスの実装を2025年度に50カ所、27年度に100カ所以上とする目標を掲げている。つくば市もこれに合わせ、27年10月に完全に運転手がいないレベル4の実装を目指している」とし、「昨年は6カ所のバス停のみ停車したが、今回は、路線バスと同じ動きをすることを目指し、29カ所すべてに停まるようにした。以前はつくばセンターのロータリー外側から発車していたものを、内側からの出発に変更した」と説明し、「つくば市に限らず、中心部と周辺地域の移動格差が課題となっている。つくばは車が主な移動手段で、交通渋滞や事故が問題になっているほか、交通事業者では運転手不足による減便などの課題もある。自動運転バスの運行を通じて公共交通を地域に根付かせ、こうした課題の解決につなげていきたい」と目標を語った。 同市は今年度当初予算で、国の国庫支出金を財源に、自動運転バスの購入費、自動運転地図作製費、レベル4通信費など約1億3400万円と、自動運転バス年間維持費約1370万円の計1億4770万円を計上した。今年度は実証実験とレベル4許認可申請、26年度は実証実験、27年は定常運行を目指している。(柴田大輔) https://youtu.be/FfSoeYhtxLI ◆乗車料金は無料。QRコードで希望の時間を事前予約する。事前予約がない場合は先着順となり、定員に達した場合は乗車できないことがある。詳しくはつくば市ホームページへ。