火曜日, 6月 30, 2026
ホームコラムハチマンタロウにやられた? 《続・平熱日記》91

ハチマンタロウにやられた? 《続・平熱日記》91

【コラム・斉藤裕之】今年は庭のブルーベリーが驚くほどの豊作だ。ところが、喜び勇んで実を採っていると、枝の間に入れた腕を何者かにチクチクと刺される。その痛みは独特で尋常ではない。とはいえ、次々と熟す実は収穫しなくてはならない。なにせ、袋いっぱいの実は知り合いのカフェのスイーツの材料として引き取られ、ランチと引き換えの手はずになっているのだから。

「ハチマンタロウにやられた?」と、カフェのマスター。茨城ではそう呼ぶらしい。毛虫の仕業ということはわかっていたが、イラガという蛾(が)の幼虫で、虫を触らずとも全身から毒液や毒針を発射するらしい。「デンキムシ」とか「ヒリヒリガンガン」とか、いろんな呼ばれたりするらしいが、洗ったり薬をつけてもなかなか痛みが治まらない。

目に見えないほどの毛虫の毒液とあっては避けようがない。だから、手袋と手甲をして完全防備で摘み取ることを覚えた。それにしてもハチマンタロウとは、たかが毛虫にしてはたいそうな名前で気に入った。

そこで思い出すのが「キンタロウ」だ。故郷山口の日本海側。萩や長門あたりの海沿いを走っていると、このキンタロウに出会うことができる。炭火の上で焼かれる、小ぶりの赤い魚がキンタロウの正体だ。一夜干しにしてあって、とてもおいしい。カミさんは今でもたまに「キンタロウ食べたい!」とつぶやくことがあるほど。正式名称は「ヒメジ」という魚。多分流通にはのらない雑魚だが、こちらもかわいらしい名前だ。

オッコトヌシとキンタロウ!

ここまでくると、もう一丁「〇〇タロウ」といきたいところだ。いろいろ考えてみるが、古くは漫画の主人公、食べ物のチェーン店などに多く、またワクチン担当のタロウやボルサリーノをかぶったタロウなど、やはりタロウは伝統と安定感があるのか、政界では割と好まれるらしい。

そういえば、前総理のお父さんも「シンタロウ」だったか。私の場合は、母親によく「寝タロウ」と言われていたことを思い出す。しかし、3年寝たあとにお金を儲ける寝タロウとは違って、私は「プータロウ」となってしまうのだが。

さて話は戻って、恐らく、毛虫が「ハチマンタロウ」と呼ばれるようになった理由があるはずだ。何かのきっかけで、ある限られた地域や家族の中でしか通じない呼び名が使われることがあるように。

最近耳にして気に入っているのが、弟の嫁さんが魚のカワハギの頭につけた呼び名「オッコトヌシ」。アニメに出てくるイノシシの親分だが、なるほどそっくりである。酢醤油でいただくと、イノシシ同様、ほほ肉は美味だとか。まずは尾頭付きのカワハギをさばいて料理をしなければ、出会うことはないと思うが。

「今日の夕飯は?」「オッコトヌシとキンタロウ!」。ことばひとつで、暮らしは楽しくなる?(画家)

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

2 コメント

2 Comments
フィードバック
すべてのコメントを見る
スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho




spot_img

最近のコメント

最新記事

日本の「安全の父」蒲生俊文《安全の窓》1

【コラム・佐々木哲美】日本では毎年7月1~7日が「全国安全週間」に設定され、今年で99回目を迎えます。私たちが職場で当たり前のように行っている「KY(危険予知)活動」「ヒヤリハット」「リスクアセスメント」「安全教育」などは、100年以上前に1人の技術者が抱いた疑問から始まりました。その人物は「日本の安全の父」と呼ばれる蒲生俊文(がもう としふみ、1883~1966) です。 なぜ同じ事故が繰り返されるのか 1910年代の工場は、今では考えられないほど危険な環境でした。機械にカバーはなく、作業手順も統一されていません。事故が起きても「運が悪かった」で片づけられた時代です。東京電気(後の東芝)で働いていた若い技術者・蒲生は、毎日のように起きる事故を見て、「なぜ同じ事故が繰り返されるのか」と強い疑問を抱きました。この問いが、日本の安全文化の出発点になりました。 1914年、東京電気で、日本初の本格的な安全運動が始まります。蒲生は事故を記録・分析し、傾向をつかむという当時としては画期的な方法を導入しました。「事故は偶然ではなく必然であり、必然なら防げる」という彼の考え方は、現代の安全工学そのものです。危険箇所の改善、作業方法の統一、安全掲示、安全教育など、今につながる取り組みを次々と形にしました。 その後、蒲生は企業の枠を超え、1917年に「安全第一協会」の設立に関わります。後の中央労働災害防止協会(中災防)の源流となる団体で、蒲生は機関誌「安全第一」を通じて安全思想を全国に広めました。さらに、1920年代以降の官製安全運動にも知見を提供し、制度づくりにも影響を与えました。 制度ではなく「人」で安全を語れ 一方、アメリカのUSスチールでは、トップのエルバート・H・ゲイリー(1846-1927)が「Safety First(安全第一)」を掲げ、安全文化を社会に広げました。ゲイリーが世界的に知られているのに対し、蒲生が日本でさえ知られていないのは、日本の安全史が制度中心で語られ、人物が表に出にくい文化にあると思います。安全活動が企業内の改善にとどまり、物語として語られなかったことも、若手が安全に誇りを持ちにくい理由の一つです。 黎明(れいめい)期には他にも小田川全之、内田嘉吉、戦後には三村起一など人物がいましたが、いずれも広く知られてはいません。本来、安全の歴史は制度ではなく、「人」で語られるべきものです。現場で考え、行動し、仲間を巻き込み、社会に広げた人々の物語こそ、安全文化の根を育てます。 日本の安全は、1人の技術者が「このままでいいのか」と問い続けたところから始まりました。その最初の火をともしたのが、蒲生俊文です。(労働安全コンサルタント) 【ささき・てつみ】盛岡工高卒。中堅ゼネコンに入社し、千葉県、茨城県を中心に29年間、土木工事の現場、アグリプロジェクトを担当。定年前7年間は安全担当。土浦市の区画整理事業を担当したことをきっかけに、1991年に土浦市へ移住。そこで「NPO宍塚の自然と歴史の会」と出会い、30年以上、同会の活動に参加。土浦労働安全コンサルタント事務所代表。2023年まで暮らした土浦市が第2の故郷。現在は東京都昭島市在住。1952年生まれ、盛岡市出身。

長屋門と暮らし《デザインを考える》33

【コラム・三橋俊雄】私たちは歴史的な建物を見るとき、その形や古さ、造りの美しさに目を向けがちです。もちろんそれらは大切な価値ですが、私たちが守り、受け継いでいくべきものは建物だけではありません。そこに人が住み、働き、家族を育み、地域の人々と交わりながら積み重ねてきた暮らしの記憶こそ、大切な財産ではないでしょうか。 つくば市には、現在200門を超える長屋門が残っています。建築の視点からの調査は進み、構造や年代、意匠の特徴は明らかになってきました。しかし、その長屋門の内側で営まれてきた「暮らし」や「生活文化」については、まだ十分に語られていません。 長屋門は単なる建築物ではなく、農家の仕事場であり、地域の人々が行き交う交流の場であり、家族の暮らしを守る境界でもありました。門の奥には農具の音や馬のいななき、子どもたちの笑い声が響き、冠婚葬祭の出入り口として、地域の記憶もまた長屋門を通って刻まれていきました。 今こそ、私たちに求められるのは、建築物としての価値だけでなく、長屋門を中心に広がっていた生活の風景を掘り起こす調査ではないでしょうか。 生きた文化財 筆者が行った、長屋門(写真左上、右上は主屋)の主人であるG氏の生き方に関する調査は、長屋門を単なる出入口ではなく、農作業、家族の営み、地域の往来が交差する生活の舞台として捉えるものでした。その門をくぐる人々の姿や交わされる言葉、季節ごとの農作業のリズムまでを含めてこそ、長屋門を「生きた文化財」として捉えることができると思います。 長屋門の東側の部屋では、餅つきや醬油(しょうゆ)搾り、味噌(みそ)造り、たくあんや白菜などの漬物づくりが行われていました。一方、西側の部屋は大豆や落花生の倉庫として用いられていました。西側の最も大きな部屋(写真左下)には農機具が収納され、さらに製茶用に土で固めた焙炉(ほいろ:下で火をたき、その上で蒸した茶葉をもみながら乾燥させる装置)も備えられていました。村には必ず一人、手もみ製茶(揉捻:じゅうねん)を担う人がいて、G家もその人に製茶を依頼していたそうです。 また、1943(昭和18)年の金属類回収令により、居宅の鉄格子や刀剣数十振りとともに、長屋門の門扉に付けられていた「乳金物(ちちかなもの)」や「入八双(いりはっそう:魚尾形の飾り金物)」(写真右下)の装飾金具も、すべて供出させられたとのことでした。 暮らしのデザイン G氏の生き方をたどることは、彼女が長屋門とどのように向き合い、そこにどんな価値を見いだしてきたのかを明らかにする営みでもあります。農作業の段取り、家族の役割分担、地域とのつながり、そして門を守るという誇り。そうした一つひとつの行為の積み重ねが、長屋門を中心とした生活文化を形づけてきたのです。 筆者の調査は、建物そのものを測るだけでは見えてこない「暮らしのデザイン」を掘り起こす作業でした。長屋門の先に広がる、つくばの歴史を受け継ぐための大切な視点がそこにあると思います。(ソーシャルデザイナー)

土浦の花火100年の紡ぎ⑹《見上げてごらん!》53

【コラム・小泉裕司】観客動員数の推移について、「土浦の花火オフィシャルカレンダー2026」の6月のページには、「第14回(1946年)の35万人(当時人口の約7倍)から順調に増加し、第77回(2008年)には過去最多の80万人を記録した。当時は土浦駅に入場規制がかかるほどの混雑ぶりだった。その後は70万人ほどで推移している」とある。 2025年(第94回大会)の観客動員数は65万人。この数字の変遷は、大会が歩んできた発展の歴史そのものといえる。こうした発展の裏には、これまであまり功績を紹介されてこなかった業界の著名人がいる。 東大卒の花火師が土浦に 東京帝国大学文学部を卒業した花火師、武藤輝彦氏(1921~2002)は、日本の近代花火を語る上で欠かせない先駆者の1人だ。前回(5月17日掲載)紹介した通り、武藤氏は、かつて「土浦火工」とともに、土浦の花火産業の両輪を担った「昭和火工」の専務として、北島義一氏と共同経営にあたっていた。 その工場は土浦市上高津にあり、玩具(がんぐ)花火を幅広く取り扱いながら、東京浅草橋の事務所を拠点に全国へ営業を展開していたのである。 花火史に残る武藤氏の功績 昭和火工の再興から5年後の1961年、花火を文化財の対象にすべく「日本煙火芸術協会」が設立されると、武藤氏は事務局長に就任した。その事務局は、浅草橋の昭和火工事務所内に同居する形でスタートしている。大学卒業後にさまざまな職を歴任したという彼の多様な経験と広い視野が、この精力的な活動を支えたに違いない。 翌1962年には、花火の安全保安に寄与するため、北島氏とともに「日本煙火協会」の設立にも専務理事として深く携わった。花火師として35年余のキャリアを誇る一方で、武藤氏は生来の文才を生かし、日本の花火を「知」として編み上げた人物でもある。『ドン!と花火だ』や『日本の花火のあゆみ』といった多くの著書がそれを物語る。 かつて、土浦市立博物館が「花火を歴史としては捉えてこなかった」と省みたように、煙火業界において花火はそれまで「門外不出の秘伝や口伝が多く、学術的記録にしにくい芸術」とされてきた。それを丹念に文章化し、歴史、技術、文化を後世に書き残した功績は極めて偉大だ。 花火は安全が絶対条件 武藤氏の歩みは、土浦の地にとどまらない。後に、北海道で廃業の危機にあった火工品会社の経営再建を引き受け、1976年には「海洋化研」(札幌市)を起業した。同社は1978年に初めて第47回土浦全国花火競技大会に出品し、今や常連だ。武藤氏の没後も、北海道唯一の業者として創造花火の部に出品し、今なお土浦の夜空を彩り続けている。 土浦の花火史に大きな足跡を残した武藤氏のモットーは「花火は、安全が絶対条件」であった。それは、北島氏が掲げた「安全なくして花火の発展なし」という信念と、まさに響き合うものだったに違いない。本日はこれにて打ち留めー! (花火鑑賞士、元土浦市副市長) <参考文献>「日本煙火協会参拾年史」(日本煙火協会、1993年刊)「日本の花火のあゆみ」(武藤輝彦、あずさ書店、2000年刊)「新訂現代日本人名録2002」(紀伊國屋書店、2002年刊)「花火と土浦」(土浦市、2018年)「HaNaBi 第4部」(朝日新聞秋田版、2024年6月20~22日)

梅仕事《宍塚の里山》137

【コラム・西川菜緒】春、梅の花が咲き終わると、実が少しずつ大きくなります。花が全て結実してくれるとうれしいのですが、残念ながら、今年は例年と比べ実の数が少なめでした。枝をじっくり観察してみると、実が付いている枝と、付いていない枝があるので、受粉が足りなかったのだろうか?それとも、剪定(せんてい)する枝の選び方が良くなかったのだろうか?など、よく観察して次の冬の剪定に備えます。 5月後半から、青梅の収穫が始まります。実が青いうちは、葉の色と混同して見つけづらい上に、今年は、まばらな梅の実を眺め、少し遠慮気味に収穫しました。青梅は、梅シロップや梅酒に加工します。梅シロップは、氷砂糖で漬けるとスッキリした味わいに仕上がり、きび砂糖やてんさい糖で漬けるとコクが出ます。毎年、種類の違う砂糖をブレンドし、配合を変えながら味を楽しんでいます。 6月に入ると、完熟梅の収穫が始まります。宍塚にある梅の木は大木が多く、手の届かないところにたくさんの実が付いているので、台風や嵐の後は収穫のチャンスです。落ちた梅を拾いに、梅林に向かいます。収穫の際、木から梅をもぎ取る作業は、なんだか申し訳ない気持ちになるのですが、逆に、落ちている梅を拾う作業は「一粒たりとも無駄にしてはならない! ありがたくいただかなくては!」という気持ちに変化します。 ジャム、梅みそ、梅干し 落ちて少し傷みや虫食いのあるものは、ジャムに加工します。完熟梅のジャムは、梅の酸味に加え香りが良いです。みそと砂糖で漬け込む、梅みそもオススメです。生野菜、豆腐、蒸し鶏などにトッピングすると、夏場の食欲のない時期でも、スッキリとした味わいになり食べやすいです。傷のないキレイな梅は、梅干し用にします。梅は、そのままでは食べることができず、一手間かかるのですが、この一手間が保存食として長く楽しめる秘訣です。漬けた梅干しからできる、梅酢も優秀な保存調味料です。しば漬けや、醤油と合わせて梅ポン酢にして楽しみます。 振り返れば、今年もたくさんの梅を収穫することができました。梅雨が明けたら、梅干しの土用干しが始まります。夏の日差しを浴びる、梅干しの景色が楽しみです。(宍塚の自然と歴史の会 会員)