火曜日, 4月 22, 2025
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10年間で計1770万円を国に請求せず つくば市 生活保護めぐりまた不適正事務

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新たな不適切事務について説明するつくば市の根本祥代福祉部長(中央)ら=同市役所

市の会計で不納欠損処理

生活保護行政をめぐり不適正な事務処理が相次いでいるつくば市(5月9日付7月20日付)で新たに、2014年度から23年度までの10年間、本来国に請求すべき生活保護費の過支給による徴収不能分 計1771万0826円を国に請求していなかったことが分かった。21日、同市が発表した。国に請求しなかった分は、市の会計で徴収不能として不納欠損処理し、結果的に市が負担していた。

生活保護受給者に年金や就労などによる収入があって支給額が基準より多くなった場合や、本人が他市町村に転居したり死亡するなどして過支給があった場合、市は本人や相続人などに過支給分の返還を求める。しかし最終的に徴収できなかった場合や時効になった場合などは、徴収不能として債権放棄の処理をする。つくば市の場合、2014年度からの10年間で徴収不能とされた過支給による未返還金は174件 計2361万4435円分あった。

生活保護は法定受託事務で、財源の4分の3を国、4分の1を地方自治体が負担している。市は徴収不能の約2360万円の4分の3の約1770万円を国に請求できたが、10年間していなかった。2014年度より以前については資料が保存されてないため不明という。

原因について市福祉部は、国に請求するためには、過支給があった受給者に対し、催促状や催告状を出し、催促や催告した記録を付け、さらに転居した場合は転居先の調査、本人が死亡した場合は相続人の調査などをしなければならない。一方、市は、催促や催告はしていたものの、記録を付けてなかったなど、国に請求するための基準を満たしていなかったため請求しなかったとしている。さらに催促や催告についてのマニュアルはあったが、記録を付けることまでは書かれていなかったとし、管理職も正しいやり方に対する認識が甘かったとしている。

今月9日、市職員から福祉部長に申し出があり、社会福祉課内で調査し請求漏れが判明した。この職員は昨年10月にも課内でこの問題を申し出ていたが、当時は管理職の認識が不足し、問題視されなかったという。

今後の対応と再発防止策について市は、債権管理事務のマニュアルを見直すと共に、具体的な手順や方法を再確認して適切な事務処理を徹底するとしている。さらに生活保護費支給の際は過支給とならないよう適切に事務処理を行うと共に、受給者への説明を十分行い、やむを得ず債権となってしまった場合は、専門部署からの協力も得て債券管理体制を強化するとしている。

五十嵐立青市長は「社会福祉課のこれまでの業務の問題点の調査を行い、現段階では、特に業務遂行における管理職の対応に問題があったと認識している。今後、すぐに対応可能なものは速やかに是正すると共に、調査を継続し、原因究明や再発防止、必要な処分を検討していく」とするコメントを発表した。

整備士不足に対応、アシストスーツを全店導入 ホンダ茨城南

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アシストスーツを装着して作業する深谷さん

全国的な整備士不足に直面する自動車業界で、自動車販売店を県内に15店舗展開するホンダ茨城南(本社つくば市花室、黒田敏之社長)が今年6月から、整備士の身体的な負担を軽減するアシストスーツを全店に計56台導入している。

同つくばみどりの店で整備士として勤務する深谷笑加さん(22)が身につけるのは、アシストスーツ「マッスルスーツソフトパワー」。定期点検などの日常業務で行うタイヤの上げ下げや中腰での作業は腰に負担がかかる。深谷さんは「日常的な負担が減った。疲れが残りにくくなった」と話す。

製品は東京理科大発のベンチャー企業イノフィス社(東京都八王子市、乙川直隆社長)による人工筋肉を応用したもの。イノフィスの担当者によると、ホンダ茨城南で導入されたアシストスーツはサポータータイプのもので、430グラムと軽く動きやすいのが特徴。東京理科大の小林宏教授が介護関係者と考案したのをきっかけに、2013年に製品化し、14年に発売を開始した。腰への負担が大きい入浴時の介助者への負担軽減を目的に、水場でも利用しやすい、電力を使わず空気圧を利用したゴムチューブによる人工筋肉のアシストスーツを開発した。背中に人工筋肉を使ったゴムが入っていて、肩と足にバンドで装着する。かがんだ時に伸びた背中のゴムが、起き上がる際に体を引っ張り上げる仕組みだ。肩と足に力を分散させることで腰への負担が軽減される。現在は介護職以外にも、重量物の持ち運びが伴う建築現場や、中腰や前傾姿勢での作業が多い農・林業でも導入が進み、累計3万台を販売しているという。

ホンダ茨城南の鈴木宗高さん(左)と整備士の深谷笑加さん

若者の車離れ、整備士資格の受験者半減

国交省物流・自動車局自動車整備課が今年3月に発行した「自動車整備分野における人材確保に係る取組」によると、自動車整備専門学校の入学者数は過去18年で約47%減少している。少子化の中で同期間の高校卒業者数が約21%の減少であることを踏まえると、減少率の高さが際立っている。自動車整備士資格の受験者数は過去20年間で、約7万人だった2004年をピークに減少傾向にあり、22年は3万5000人と半減している。一方で平均年齢は上昇傾向にあり、将来的な自動車整備士の確保が課題となっている。

アシストスーツ導入を担当したホンダ茨城南の鈴木宗高執行役員(52)は「以前は車やバイクが好きな人が集まる業界だったが、若者の車離れが進む中で専門学校が定員割れするなど、成り手不足が進んでいる。同業各社の間で人材確保が大きな課題になる中で、せっかくなりたくて整備士として入社した社員が、体への負担から辞めたくないのに辞めざるを得ないケースがある。長く仕事を続けてもらいたいという思いで、アシストスーツを全店に導入することを決めた」と話す。

さらに「けが防止の観点だけでなく、体力勝負の現場で整備工場に冷暖房を完備するなど、会社として社員のためにできることはやるというメッセージを発信し、同時に働きやすい環境づくりに努めているという自動車業界としてのアピールにつなげたい」と思いを話す。(柴田大輔)

里山の暮らしを学ぶ(2)《デザインを考える》11

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イラストは筆者

【コラム・三橋俊雄】コラム10(7月16日掲載)で紹介した里山の暮らしの続きです。奥波見集落は、戸数18軒の、ほとんどが高齢者の集落です。この山村に何度もうかがい、その暮らし方、特に道具との付き合い方が半端ではないことに気づきました。厳しい自然と向き合いながらも、その自然と共生してきた人びとのたくましい姿や、さまざまな生活技術、生活文化と出会うことができました。

例えば、前回ご紹介した桶職人のお宅には、土間に手づくりの「竹製のネズミ捕り」がいくつも仕掛けられ、納屋の糠(ぬか)山には「タヌキ捕りの仕掛け」が忍ばせてありました。納屋に入ると長いベルト駆動の「脱穀機」が置かれ、収穫後の穀物を風の力で選別する「唐箕(とうみ)」が現役で使われていました。座敷には、お嫁に来たときから60年間使い続けているという「箱枕(はこまくら)」(図2)がありました。

ご夫妻からは、「ニウ」についてのお話も伺いました。「ニウ」とは、山で採集してきた薪(まき)を蔓(つる)で束ね、130束ほどを正方形に3メートルほど積み上げたもので、「今年の冬も無事に越すことができる」と話されていました。それは「ニウ」が単に燃料としての薪にとどまらず、冬越しに向けての精神的なシンボルともなっているということです。

また、図1は、97歳のお婆さんと80年間愛用してこられた「箱膳(はこぜん)」で、その使い方も教えていただきました。

図3は、柿渋名人のYTさんが、傷んできた竹のザルに和紙を貼り重ね、飴色になるまで柿渋を何度も塗って補修し、40年も使い続けてきた「柿渋染めのザル」です。私が訪ねた時も、庭先には補修を終えたばかりの農作業用の大きなザルが、いくつも並べられていました。

さまざまな「道具たち」

手づくりの「道具」を何10年も使い続ける、そうした日常の姿がすばらしいと感じました。

里山の暮らしとは、単に、都会と比べて自然が豊かであるというだけではありません。みなさんの暮らしぶりは質素ですが、そこでは、山に分け入り、農を営みながら、自然を楽しみ、自然に感謝する、自給自足的な生活が営まれていました。

お年寄りたちは、80歳や90歳になっても、山で、畑で、庭先で、あるいは共同作業場で元気に働き、その中で、さまざまな「道具たち」が息づいていました。

こうして、都会ではとうに失われてしまった、手づくりの道具と共にある「里山の暮らし」を目の当たりにすることができ、私たちが学ばなければならない「健康なくらし」とは、このような中にあるのではと思いました(ソーシャルデザイナー)

駐日フィリピン大使 安藤土浦市長を表敬訪問

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安藤市長(左から7番目)らとの記念写真に応じるアルバノ駐日フィリピン大使 (同6番目)と大使館職員(左側)ら=土浦市役所

ミレーン・ガルシア=アルバノ駐日フィリピン大使らが20日、土浦市役所を訪れ、安藤真理子市長を表敬訪問した。

この日、市役所来庁を前にアルバノ大使は、同市藤沢にある新治公民館を訪問し、同市や周辺地域に暮らし、工場や医療機関に勤務する50人余りの在日フィリピン人と交流し、意見交換を行った。大使館では日頃から国内各地のフィリピン人コミュニティーを訪問し、情報提供したり、暮らしの中で必要なことの聞き取りを行なっている。この日はフィリピン人労働者から雇用に関する確認が寄せられ、大使館からは、出稼ぎ労働者の家族がフィリピン本国で受けられる福利厚生プログラムについてなどの情報が伝えられたという。

安藤市長を前にアルバノ大使は「茨城県の中で土浦市は2番目にフィリピン人が多い都市(最多は常総市)。日頃から市に協力していただいていることに感謝している。フィリピン人が土浦に貢献できるよう祈っている。今後、土浦と大使館で何ができるのか、検討していきたい」と語った。また、英語教育が根付くフィリピンでは語学を生かした出稼ぎがあるとして、自身の出身地ダバオ市が日本国内の2都市と姉妹都市協定を結び、英語教師を派遣しているなどの例に触れながら、土浦市との可能性についても期待を込めた。

安藤市長は「土浦は県内で4番目に多くの外国人が暮らす街で、フィリピン人は一番多かった時期が続いていた。介護職に就くなど定住者が多く暮らしており、仲良く生活していきたい」と歓迎した。

同市によると今年3月末時点で市内に暮らすフィリピン人は1079人で、1199人のベトナム人に次いで2番目に多い。最も多かった2015年の815人からは32%増となっている。昨年10月1日時点の在留資格別の人数では、フィリピン人の約半数の494人が永住者で、約4分の1に当たる278人が定住者となっている。(柴田大輔)

イベント出店の道路使用を市が誤って許可 つくば駅周辺のペデ

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つくば市役所

つくば駅周辺のペデストリアンデッキ(歩行者専用道路)で、民間団体が物販や飲食の露店を出すなどのイベントを実施する際に必要な市の道路使用届や道路占用許可について、つくば市は20日、2015年度から23年度まで、市が制度の解釈を誤り、本来受け付けるべきでなかった届け出を受理したり、出店を許可するなどしていたと発表した。

市道路管理課によると、2015年度から22年度まで、つくば駅周辺のペデストリアンデッキで開催されたフリーマーケットや飲食の催しなどについて、道路法では本来、道路上でなくても実施できる出店は道路以外で実施するとされているにもかかわらず、同課が、中心市街地にぎわい創出の実証実験案件と誤認し、本来、受け付けるべきではなかった道路使用届を受理していたとされる。誤って受理したイベントが何件になるかは、文書保存期間が1年間であるため不明という。

その後、新型コロナウイルスの感染拡大により、2020年6月から23年3月末まで、道路上でテイクアウト食品の販売やテラス席での営業が緩和されるなどのコロナ特例が実施された。コロナ特例が終了した23年4月以降、同課は、制度の解釈を誤り、コロナ特例を根拠に道路占用を許可していたとされる。誤って許可を出した件数は7件という。

同課内部で今年6月から、コロナ特例の解釈について改めて調査、確認したところ、道路使用届と道路占用許可について法令や制度の解釈を誤っていたことが判明した。再発防止策として同課は、改めて関係法令を確認、順守し、再発防止に努めるとしている。

一方、市は現在、つくば駅周辺の中心市街地活性化に向けた取り組みを官民協働で実施していることから、今後については「歩行者利便増進道路(通称ほこみち)」という新たな制度を活用し、区域を指定して、オープンカフェや露店などを設置する際の占用許可基準を一部緩和するとし、今後は、ほこみち制度の導入に向け、つくば警察署や近隣住民・店舗などと協議を進めていくとしている。

なお24日と25日につくば駅周辺のペデストリアンデッキなどで開催されるまつりつくばの出店については、つくば市など公共団体が主催するため問題はないという。その後つくば駅周辺で予定されている民間団体主催のイベントについても、開催に間に合うよう、ほこみち制度の導入を進めるとしている。

9基のねぶたがパレード 24・25日 まつりつくば2024

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ねぶた小屋で出番を待つ、完成したばかりのねぶた

つくば市最大の祭り「まつりつくば2024」(まつりつくば大会本部主催)は今年も会場をつくば駅周辺とし、24日(土)と25日(日)の2日間開催される。暑さ対策のため2日目の開始時間を例年の午前10時から正午に繰り下げ、両日とも正午開始とする。第41回目となる今年も例年と同規模の48万人の来場者を想定している。

メーンの「まつりパレード」は、両日とも午後4時から土浦学園線の東大通りと西大通り間で催される。大ねぶた4基、中小ねぶた5基、1985年のつくば万博で披露された万博山車のほか、市内各地区のみこしが繰り出す。25日は万灯みこし12基以上が加わる。

同ねぶた実行委員長の塙裕哉さんは「今年は1基減らして(大中小の)9基が出る、ほぼ例年通りのパレードになる。青森県から11人の専門家が来て、ねぶたが出来上がったばかり。今年も盛大なパレードをするので、楽しんでほしい」と話す。

まつりパレードに出るねぶたの一つ=つくば市竹園のねぶた小屋

つくば駅周辺9会場で

まつりは、つくば駅周辺の九つの会場で開催される。会場の一つ、つくばセンター広場と大清水公園の「まんぷく広場」には、市内のグルメや特産品が勢ぞろいする。市中央図書館からつくばエキスポセンター前のつくば公園通りでは「アートタウンつくば 大道芸フェスティバル」が開催され、中国雑技芸術団など大道芸パフォーマンスやアート作品の販売などが実施される。

科学のまちつくばならではの体験ができる「スーパーサイエンスパーク」はつくばセンタービル1~3階のつくば市民センター、ノバホール小ホールなどで開催。分身ロボットを操作して迷路にチャレンジしたり、毎年つくばの市街地で開催されている自立走行ロボット大会「つくばチャレンジ」で活躍するロボットの操縦を体験したり、VR(仮想現実)ゴーグルを着用して空飛ぶクルマを体験したりできる。体験はいずれも無料で、両日とも当日の正午から整理券を配布する。

今年初めて「つくばのおさけで乾杯エリア」がつくばセンター広場モニュメントプラザに設けられる。地酒の普及を図ろうと今年5月、市内の日本酒、ワイン、地ビール生産事業者8社が「つくばのおさけ推進協議会」(5月25日付)を設立したことから。つくばのワイン、地ビールなどを販売する。

ほかに、つくば駅隣りの中央公園では福祉団体などの活動を紹介する「ふれあい広場」、つくば国際会議場隣の竹園公園ではさまざまなスポーツを体験できる「スポーツパーク」、つくば駅前のクレオ前広場では屋台などが並ぶ「トナリエつくばスクウェアうきうき広場」、つくばセンター広場特設ステージではダンスや音楽を繰り広げる「ステージ」が催される。

暑さ対策のためトナリエクレオのモグ1階に、空調の効いたお休み処を用意する。

今年はポスターやちらしのメーンデザインをZOZOが担当した。現在、東光台、さくらの森、御幸が丘の市内3カ所に物流倉庫を構え「市民に恩返しをしたいという思いからポスターデザインを手掛けた」とする。

まつりつくばは1981年、合併前の旧桜村の市民有志が大清水公園で開催したのが始まり。大会事務局で市観光推進課の小川高徳課長は「今年も暑さ対策をとりながら盛大に開催したい。楽しんでもえらたらうれしい」と話す。(榎田智司)

「麦わら帽子」写真の楽しみ《写真だいすき》31

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今日、おばちゃんのリヤカーには、麦わら帽子がのっていたので、ちょっとカメラを向けた。撮影は筆者

【コラム・オダギ秀】「麦わら帽子」写真の楽しみは、毎日、何でもないことを撮れることだった。ボクがふと撮った日常の写真が出てきたので、その話をしようと思う。

もう20年も昔の話だ。技術的には何もないが、ふとした瞬間を撮る楽しさがあった写真だ。その楽しみは、今も続いている。カメラなんて何でもいい。写真さえ撮れれば、その写真を撮った瞬間がよみがえり、人生がその瞬間に戻るのだと思う。

あの日、にぎやかな目抜き通りの歩道に、1台のリヤカーが止まっていた。いつもの「おばちゃん」のリヤカーで、毎日のようなことだったから、そのことはみんな知っていたが、誰もリヤカーを邪魔だなんて言わない。

今日は「おばちゃん」は、暑かったのだろうか、帽子を脱いでリヤカーを離れたようだ。

街のみんなは気を利かせて「おばちゃん」なんて呼んでいる。が、本当は、腰の曲がった、見事に上等に年をとってる「おばあちゃん」だ。おばちゃんの前では「おばちゃん」と呼ぶが、離れて呼ぶときは、みんな「おばあちゃん」と呼んでいる。

みんなで「おばちゃん」のリヤカーを囲む

「おばちゃん」は小1時間あまりもかけて、毎日のように、自宅からリヤカーを引いて来ると、ボクの仕事場の先の、目抜き通りの歩道に置く。そして、運んできた小袋入りの、自分で作った野菜を、近所の店などに売り歩く。ネギとかトマトとか、ジャガイモ、ナス、トウモロコシなど。おばちゃんの家は農家のようではあるが、誰も知らない。

ただ、運んでくる野菜は、自分で作っていると、自慢げに話すから、誰もそう信じている。それと、かなり遠い道を、リヤカーを引いて来るらしい、と。

もう長年の習慣で、誰も歩道に止めたリヤカーを邪魔だなんて言わない。「おばちゃん」が戻れば、みんながリヤカーを囲む。野菜買いをするのだ。それは楽しみだ。おばちゃんは、自分がもってきた野菜が、いかにいいものか、どんなに苦労して育てたか、ひとしきり自慢する。みんなは、ふんふんと、ただうなずく。

おばちゃんが、リヤカーで引いてくるのは、野菜やおばちゃん自身の健康だけでなく、街の人たちを励ます気持ちと楽しみなのだった。

ボクがリヤカーの上の麦わら帽子を撮っていると、あ、おばちゃんが戻って来たようだ。ボクはカメラを戻した。あの麦わら帽子、どうしたでせうね。(写真家、日本写真家協会会員、土浦写真家協会会長)

パリ五輪陸上男子 東田旺洋選手 関彰商事で帰国報告会

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帰国報告会で関社長の質問に答える東田選手=つくば市二の宮、関彰商事つくばオフィス

パリ五輪陸上男子100メートルに日本代表として出場した東田旺洋あきひろ選手(28)が帰国し、自身が籍を置く関彰商事(本社筑西市・つくば市、関正樹社長)のつくばオフィス(つくば市二の宮)で19日、帰国報告会が開かれた。

東田選手は、3日に行われた男子100メートル予選で10秒19(追い風0.6メートル)の1組5着という結果で準決勝には進めなかったが、スタート反応速度は0.129で、出場選手72人中、1番の反応だった。結果は自己記録に近く、ベストコンディションだったという。

東田選手は「残念ながら準決勝進出はならなかったが、自己記録に近いタイムが出せたので良い試合が出来たと思う。これからは自己ベストを目指し、世界陸上などに挑んでいくので応援してほしい」とあいさつした。

社員らの出迎えを受ける東田選手

報告会には関社長のほか社員約100人が集まった。関社長は「勇気、喜びを与えてくれて感謝している。これからも会社として全面バックアップするので、やりたいことがあったら言ってほしい」と語った。

パリ五輪の印象について東田選手は「最初、大観衆の歓声に驚いた。1組目、1番最初のスタートだったがイギリスの選手がフライングをした。その時が一番良い感触だったので、そのまま走れればという気持ちはあった。2回目のスタートの時、2歩目が浮いてしまったことが少し悔やまれる。それでもベストコンディションで臨めたので満足はしている」と話した。「選手村は報道されているように、ゴミがたまるのに掃除具がなかったりで環境はあまり良くなかった。閉会式には出たが6時間と長かった。内容的には、映像として作られたものは見られないので、テレビで見ていたほうが良かったかも知れない」とも述べ、社員らを笑わせた。

東田選手は同社ヒューマンケア部に所属し社員の情報処理などを担当、仕事をしながらトレーニングに励んでいる。100メートルの自己最高記録は10秒10。(榎田智司)

生徒が入試の出題者に 「よい問」巡り教員と熱論 茗渓学園

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それぞれが考えた「よい問」を巡り熱論が交わされた

新コースのアカデミアクラスが設立されて4年目を迎える茗渓学園中学校高等学校(つくば市稲荷前、宮崎淳校長)のアカデミアクラスの生徒が、グループに分かれて入試を想定した問題を作り、内容の良し悪しを教員と議論し合う公開シンポジウムが17日と18日、つくば市竹園、つくば国際会議場で開かれた。

同クラスはアカデミックな研究活動と受験指導を両立させて、次世代を生き抜く力を育成し、国内外の難関大学進学を実現させることを目的に2021年に設立された選抜コース。

公開シンポジウムは今年で4回目。昨年までは教員が作る問題に、生徒が意見を投げ掛けるものだったが、今年は初めて生徒と教員がそれぞれ作題者として同じ立場で意見を交わし合う場を作った。同校の教育構想推進部の谷田部篤雄部長(36)は「生徒が出題者の目線に近づくことで、難しい問題でも作題者の意図を考え、解く力を付けさせることが一番の目的。能動的で自発的な学習を目指すアカデミアクラスの目的にもつながる」と話す。

3カ月前から始まった生徒による「よいとい」作りでは、中学1年から高校3年まで、約300人いるアカデミアクラスの生徒が「感動するくらい、『よい問』」をテーマに各クラスでグループごとに入試を想定した問題を作った。さらに内容を吟味しながら最終的に中1から高3の生徒が混合する8つのグループをつくり、数学、理科、英語、国語の4科目で10個の問題を提案した。

シンポジウム初日の17日は生徒が作った問題をグループごとに紹介し、18日午前は、グループごとに作った問題に対して、同校の教員や、大学教員らによるゲスト審査員からの指摘に、生徒が回答しながら「よい問」とは何かについて考えを深めた。

18日午後からは、教員が作った問題に対して生徒が疑問点を指摘した。英語や国語の長文の問題に対しては「長文の問題なのに、全体を読んで答える問題が少ないと感じた。全体を把握しなければ答えられない問いにするべきでは?」「注釈の付け方が作題者ごとに異なる」「注釈の付け方をもう少し工夫はできないのか」など生徒から率直な疑問が出て、熱を込めて思いを伝える教員の姿に、会場からも熱い視線が注がれた。

シンポジウムに参加した生徒と関係者らによる記念写真

総評に立った国文学研究資料館研究部の栗原悠准教授は「(長文問題では)読んだ経験が残ることが重要。出題者の意図をつかむことと共に、学ぶことの楽しさを知ってほしい」と語った。

発表資料を作成するなど運営にあたった組織委員のメンバーで、ファシリテーター(司会)を務めた同高校1年の矢島千歳さん(16)は「努力家が多く、皆が頑張り刺激し合う中で、生徒同士だけでなく、教員と生徒の間でも本当に色々なことを伝え合えるイベントだと思っている。ファシリテーターとしてそれぞれの考えをよく見て、その人が本当に考えていることをひろえるよう意識した」と話した。

茗渓学園の谷田部部長は「生徒の良い発表もあった。教員と生徒の間で問題の弱点も指摘し合い議論できたのは良かった」とし、「作った問題の検討を教員同士ではよくやる。色々な指摘もあり緊張感がある。今回の取り組みでは生徒も教員と同じ目線に立てるということがわかった。今後、我々も、教員に出すような気持ちでより緊張感を持って作っていきたい」と話すと、「教育現場では教員が万全の準備をした上で、失敗がないように物事を始めることが多いが、子どもたち自身が大きな可能性に気づかせてくれた。彼らの成長に私たち教員も引っ張られて成長することができる」とし、「今後はより多くの参加を期待し、来年以降につなげたい」と語った。(柴田大輔)

土浦中都地区物語 開拓の記憶【戦争移住者の営み今に】4

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戦後に中都地区に入植した尾曽章男さん

満州から引き揚げてきた尾曽章男さん(89)や、故・下田博さんが1948年に入植したのは、当時「中貫開拓」と呼ばれた現在の中都3丁目だ。現在の長野県飯田市出身者が主だった。土浦市の中川ヒューム管工業の創業者・中川延四郎が私有地3町分を県指定の開拓地として開放、3軒の家屋を建設し、入植する6家族に提供した。尾曽さんや下田さんの共同生活による入植がここから始まった。

寒さ身にしみる痩せた土地

下田さんたちは「茨城に未開の土地がある」という話を聞き、水戸市内原にあった「満蒙開拓青少年義勇軍」の訓練に使われていた施設に身を寄せて、県内に入植地を探した。長野出身の他の親戚や友人らは、鉾田の旧陸軍飛行場跡地や現在の牛久市、かすみがうら市へと入植していく中で、「中川ヒューム管の社長が小屋を建てて引き揚げ者の支援をしている」という話を耳にした。

「湖北開拓」と呼ばれた現在の中都1丁目に入植した皆川庸さん(93)と梅田香さん(75)も共に長野県飯田市出身だ。ここには茨城など他県出身者も入植していた。皆川さんは中都に暮らす同郷の親戚を訪ねたのが縁になり、兄弟で開拓していた旧御前山村(現城里町)出身で元予科練生の皆川和(やまと)さんと出会い、中都に嫁いできた。

皆川庸さんと夫の故・和さん

皆川さんが「野っ原っていう感じ」だったという開拓地は見上げる筑波山から吹き荒ぶ「筑波おろし」の寒さが身に染みる、土地の痩せた場所だった。「風が吹くと埃(ほこり)がうちの中に入ってきてご飯食べるのも大変。徐々に風除けに木を植えて、だいぶ大きくなって楽になりました」。

梅田さんは1946年、満州から引き揚げた両親の3男として長野県で生まれた。父親が先に中都へ入植し、生まれて間も無い梅田さんは母親と中都へ移住した。「一番最初は男の人ばっかのふんどし1枚の生活。よしずを三角にして寝泊まりしてたって聞きました。共同で作った五右衛門風呂に交代で入って。お金なんかないし食料もない。食い物作んなきゃなんないから松林をひっくり返して最初にできたのがサツマイモ。暗くなると寝て、明るくなると起きる暮らしだった」。

驚くほどよく売れた

開拓者たちは一から始めた暮らしを少しでもよくするために工夫を凝らした。

6反歩の松林を切り倒すことから始まった尾曽さんらの「中貫開拓」には、近隣に暮らす地元のタバコ農家が協力した。「農家はタバコ葉を乾燥させるのに木の根を燃料にしてたから、欲しいって言う農家にあげたら手伝ってくれた」と話す。食べるために作ったサツマイモは、焼き芋用に東京に出荷する業者が買い付けに来た。要求されればいつでも出荷できるようにと掘った竪穴に保管していると、驚くほどよく売れた。

農作物ができない冬場は、開拓仲間が朝4時に起きて神立駅まで7キロを歩いて6時の汽車に乗り、4時間かけて福島県小名浜港に向かった。一斗缶いっぱい買ったサンマがよく売れて、リュックに詰めて2日間売り歩くと800円ほどになったという。

「平和開拓」の名をとった中都地区を走る「平和通り」

未分別のごみが大量に

痩せた土地をどうにかしようと入植直後に始めたのが生ごみを堆肥にすることだった。市に話を持ちかけると、市内のごみをトラックに積んで開拓地まで運んでくれた。1日2台。未分別のごみが大量に集まった。手作業で分別し、金属は金に変え、生ごみは時間をかけて腐らし畑に混ぜ込んだ。堆肥と共に運ばれてきたビー玉やおはじき、貝殻なども畑に混ぜ込まれた。当時の子ども達にとってビー玉やおはじきを畑から掘り出すのは、宝探しのような楽しみだった。

下田博さんの妹で、中都で育った飯島節子さん(82)は「みんな昼間は働いた。小学生でも草とって。働け働けって言われてね。でも楽しかったよね。夜は月明かりで隠れん坊したり、缶蹴り、縄跳びとかしてね」と明るく思い出す。

弁当の見た目ごまかした

食べ物も工夫した。飯島さんは「お店に買いに行くのは滅多になかった。自分たちで作ったサツマイモと陸稲は、普通のより美味しくないけど工夫し食べた。飼ってたニワトリやウサギは骨まで全部潰して食べた。お乳はヤギ。ほとんど毎日同じものを食べてたけど、お砂糖に醤油、お塩を使って味を変えてたね。ごま油も作ってね。菜種もいっぱい植えて菜種油を作った」

近くの都和小学校に転入した尾曽さんが思い出すのが学校で食べた弁当だ。「学校に弁当持っていくのが嫌だったの。なんでかっていうとご飯にイモが入ってたから。弁当を食べるときにイモをどかして下にして、上は薄いけど白い米だけにした。見たところ普通の弁当に見えるように。ずっとそうやってごまかした」

尾曽さんよりひと回り以上若い梅田さんも弁当の時間を思い出す。「周りの子どもはみんな白い米の弁当を持ってくる。地元の農家は田んぼを持ってたから白米があった。銀シャリだ、なんて言ってね。我々のは真ん中に筋の入った麦飯だから黒く見える。恥ずかしいから新聞紙で囲って食べました」

開拓者たちが建てた農村集落センター

長野の文化で育った

開拓地の子ども達は、親や祖父母の故郷、長野の文化で育った。「小学校行くまで長野の人の中で育った。全く地域を出たことがなかった」と梅田さん。話す言葉も長野の言葉ばかり。「小学校に行ったら、言葉が全くわかんなくってね」と慣れない茨城弁に苦労したと振り返る。

長野の文化は食べ物にも現れた。お祝いどきに食べたのは、中部地方の山間部発祥とされる五平餅。開拓者たちの故郷の味だ。他にもよく食べたのがタンパク源として長野の山間地で食された蜂の子にイナゴの佃煮だ。下田さんの娘の相崎伸子さん(70)は「昼間に見つけた蜂に綿をつけて追いかけた。見つけた巣に夜行って、いぶして素早く掘りとる。蜂の子はみりんや砂糖で料理して、いい食料、栄養源だったよね」と懐かしむ。

「開拓」は新しいことやる

石油ランプだった暮らしに初めて電気が通ったのが1954年ごろ。「ちっちゃな手じゃないと入んないからって、子どもの時分にはランプの掃除をやらされた。手がすすで真っ黒になってね。そこに裸電球1個がきた。いやぁ、明るいねって感激しました」と梅田さん。

地域では、努力の甲斐があり、土が肥え、換金作物の幅が増えた。麦から始まり、落花生、白菜、スイカ、梨へと広がり、開拓者たちの共同出荷が始まった。酪農を始める家も増えた。「一生懸命働きました。だからテレビも早くに買えた。金曜日の夜は力道山の試合があるから6畳1間の家にみんな来る。帰らないと寝れなかった」と尾曽さんが言う。それ以前は街頭テレビを見るため亀城公園まで歩いて行っていたと振り返る尾曽さんがこう続ける。

「昔は『開拓』ってみんなに馬鹿にされてたの。どんな暮らししてるか見物に来たって人もいたよ。生ごみ使ったのなんて俺らだけだよ。他ではそんなことしねぇよ。ハエがたかって、みんなの背中にくっついていってね。でも、人のやらねぇことやっから『開拓』はそのうちに認められたんだ。『開拓』は新しいことやるってな」

写真の人数がどんどん増えて

7月、梅田さんがビニールハウスでキュウリの収穫に勤しんでいた。多い時で900坪のハウスで栽培していたキュウリは梅田さんが32歳で始めたもの。以前は会社勤めをしながらの兼業だったが、意を決して専業になり40年が過ぎた。その間、3人の子どもを育て、それぞれが独立して4人の孫に恵まれた。

自身のキュウリハウスに立つ梅田香さん

「開拓から出た子達ってのは、なかなか諦めない。何クソって、とことんやる粘り強さは開拓精神としてあると思う。自分が育ってきた地域が良くなるように育ててくれたらいい。現実には跡目がいなくってね。後継者がね」

梅田さんの近所に暮らす皆川庸さんの家には、お盆や正月になると各地に暮らす子どもが孫やひ孫を連れて一堂に会す。夫の故・和(やまと)さんが「家族が増えても集まれるように」と作った家の広い和室も、いつの間にか手狭になってきた。孫の歩さん(44)が言う。「毎年家族が集まると撮る記念写真に写る人数がどんどん増えて、今では20人以上。和室に収まりきらないくらいになった。普段、自分が開拓者の家の子どもだという意識はあまりないけど、家族の写真を見ると、私たちの物語がおじいちゃん1人の開拓から始まった物語なんだなと感じる。これからも家族の歴史を繋いでいきたい」。(柴田大輔)

皆川家の皆さんと梅田さん(左から3番目)

終わり

今度は退職金もらうの? つくば市長 《吾妻カガミ》189

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つくば市役所正面玄関サイド

【コラム・坂本栄】3カ月前、1期目の退職金を辞退した五十嵐つくば市長に、2期目の退職金はどうするのか聞いてみた。答えは、前回と同様に辞退するか、今度は受領するか、まだ決めていないということだった。3期目に挑む市長選挙(10月20日告示、27日投開票)の1~2カ月前にはどうするか決断し、市民の前に明らかにする必要があるだろう。

退職金辞退というポピュリズム

市長退職金問題。4年前の記事「廃止を公約の退職金22円に…」(2020年6月5日掲載)、コラム91「…退職金辞退に違和感」(同10月5日掲載)を引っ張り出して整理すると、以下のような「事件」だ。

最初の市長選公約に「市長特権の退職金の廃止」を掲げた五十嵐市長は、市長1期目が終わる4カ月前、規定では2040万円の退職金を辞退すると発表した。記事の見出しでは「…退職金22円…」となっているが、これは法的な障害をクリアするための最少額で、事実上ゼロと考えてよい。

五十嵐市長は、公約を反古(ほご)にするのは次の選挙にマイナスと考えただけでなく、おカネにこだわらない(好ましい?)市長像を市民の間に広げたかったようだ。政治の世界では、この種の受け狙いの政治手法をポピュリズム(大衆迎合主義)と呼ぶ。

「私は、退職金廃止という公約そのものに違和感を持っている。退職金はハードな仕事をこなす市長の報酬の一部だから、大きな失政をしないことが前提になるが、堂々と受け取るべきと考える。市長選で退職金廃止を公約したのは、市長の仕事をうまくこなす自信がなかったからか?」(コラム91

今度も辞退? 対抗馬は有力県議

「市長特権の退職金の廃止」は2期目も続くのか? 3カ月前に五十嵐市長に聞いたのは、4年前のポピュリズム選挙を繰り返すのか知りたかったからだ。最初のパラグラフで書いたように、答えは思案中ということだったが、気になる発言があった。

退職金辞退を発表したあと、市長の後援者から受け取るべきだと注意されたと言うのだ。わざわざ後援者の助言を持ち出し、2期目は受け取るとの意向をにおわせた。それなのに辞退するか受領するか明言しなかったのは、判断材料が出そろっていなかったからだろう。

判断材料とは何か? 市長選に対立候補が現れるのかどうか、現れるとすれば強そうな候補か弱そうな候補か、3カ月前には見えていなかった。退職金辞退=強そうな候補が出馬した場合/退職金受領=弱そうな候補が出馬した場合―ではないかと聞いたところ、答えはムニャムニャだった。

記事「星田弘司県議が立候補へ…」(8月8日掲載)にあるように、選挙経験豊富な星田県議が立候補を決断し、秋の市長選の構図が見えてきた。星田県議=強そうな候補だから、上の分け方では退職金辞退のケースだ。でも、後援者の助言を受け入れ、ポピュリズム批判を振り払うために、退職金を受領する?(経済ジャーナリスト)

つくば市議選、新人20人出席 立候補予定者説明会

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立候補者説明会会場前の掲示板=つくば市役所

市長選は1人、市議選は計38人

任期満了に伴って10月20日告示、27日投開票で行われるつくば市長選・市議選の立候補者説明会が18日、同市役所で行われた。

市長選は、新人の星田弘司陣営のみが出席した。

市議選(定数28)は、現職18陣営、新人20陣営の計38陣営が出席した。男女別は男性が28、女性が10。

説明会に出席しなかった立候補予定者もいるとみられる。

事前審査は10月2日と3日に行われる。

土浦中都地区物語 引き揚げの記憶【戦争移住者の営み今に】3

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中都地区の開拓者とその親族の(左から) 尾曽章男さん 、飯島俊康さん、下田惇さん、相崎守弘さん、相崎伸子さん、皆川千寿子さん、飯島ゆきえさん、飯島節子さん

土浦市北部の中都地区は戦後、旧満州からの引き揚げ者や復員軍人らが1947年から48年にかけて入植し、平地に広がる松林を開拓した地域だ。筑波おろしが吹く、農業に適さないとされた土地に茂る松林を切り開き、野菜や果樹を栽培し、酪農を起こし地域に根付いていった。入植者の主な出身地は、全国で最も多くの開拓民を旧満州に送り出した長野県だった。

満州から茨城へ

8月、中都3丁目の自宅前にある下田梨園で梨の収穫が始まった。戦後、中都地区に入植し農園を開いた故・下田博さんが植えた「新高(にいたか)」という品種が今もたわわに果実を実らせる。中都地区では1950年代前半ごろから入植者の間に梨栽培が広がった。

幸水を収穫する下田農園の相崎守弘さん。園内には下田博さんが約70年前に植えた「新高」の木が今も梨を実らせている

当時、小学生だった下田さんは1940年前後に家族と満州に渡った。数年後、学業を修めるために家族より先に戻った郷里の長野県で終戦を迎えた。満州に残った両親、姉妹、弟の5人のうち、弟が病で、父親が終戦時の混乱の中で事件に巻き込まれ、帰国を前に命を落とした。母親と姉妹が無事帰国した。戦後「茨城には未開の土地がある」という話を耳にして、家族や同郷人と共に土浦に入植した。

中都地区にある、開拓者が建てた農村集落センターの石碑には、入植した57人の開拓者の名が刻まれている。長野県出身の38人を筆頭に、茨城、新潟、宮城、山形、岩手と出身地別に名前が続く。

開拓者は同郷者ごとに集まり土地を分け合い、「不二」「平和」「都和第二」「湖北」「中貫」「笠師」という名を開拓地につけた。のちに「都和開拓農業組合」として一つにまとまり、隣接する旧新治村の開拓地が加わり「都和地区開拓農業協同組合」が発足した。現在の「中都」という地名は、開拓地が「都和」と「中貫」の間にあることから名付けられた。

中都町農村集落センターに建つ開拓者の碑

タバコ畑に父の遺体を埋めた

下田博さんの妹・飯島節子さん(82)は、1942年に満州・吉林省で生まれた。現在の長野県飯田市出身で、両親が38年に息子2人、娘1人と、水曲柳開拓団として渡満した。兄の博さんは生前に記した「自分史」で、初めて足を踏み入れた満州の様子を「雪一面の冬景色(中略)、零下20〜30℃、なにものも凍らせてしまう寒さ」と記し、防寒具が不足し苦労した様子を述べている。一方で「オンドル」という朝鮮半島や中国東北部でみられる、かまどから出る燃焼ガスを利用した床暖房システムの暖かさ、銃を手にした父と出掛けた狩りのこと、満州人(中国人)が売るトウフなどの地元食について子どもらしい新鮮な驚きを書いている。

終戦の時、節子さんは3歳だった。敗戦後、あるトラブルから、暮らしていた村内で日本人が満州人を殺害する事件が起きた。村の中では満州人が「誰か日本人が責任を取れ、出てこなかったら皆殺しだ」と日本人に詰め寄った。正義感の強かった節子さんの父親は無関係にも関わらず、「俺が行く」と前に出たところを銃を向けられ射殺されたという。「タバコ畑に穴を掘って遺体を埋めに行ったんです。3歳だったけど、埋めに行ったというのは覚えてる」と節子さん。その後、身を隠しながら移動を繰り返し、旅順から引き揚げ船に乗り帰国したのは1年後のことだった。郷里の長野では、街ぐるみで父親の葬儀が行われた。

開拓地から筑波山を望む

泣くと捕まるから殺せと

「俺らが入ったのは、中貫開拓」と話すのは、中都3丁目に暮らす尾曽章男さん(89)。6歳で満州に渡り、10歳前後で終戦を迎えた。その後、紆余曲折を経て家族で土浦に入植した。日本で最多の3万3000人余りの満州移民を輩出した長野県の中でも、尾曽さんの出身地、長野県飯田・下伊那地域からは突出して多い約8400人が満州へ渡った。尾曽さんは吉林省白山子に同郷者14~15軒と暮らし、現地に展開する日本軍に向けた米作りを担った。軍との繋がりもあり、安定した生活を送ることができていた。

敗戦後、状況が一変する。満州人の略奪から逃れて、焼けた工場跡地に身を隠し、移動中に投石を受けることもあった。武装した中国共産党の「八路軍」が近づき危険を感じると、生き残るために八路軍に参加していた日本人兵士に助けられたこともあった。まだ幼かった妹のゆきえさんは、周囲から「泣くとソ連兵に捕まるから殺してくれ」と言われたと当時を振り返る。

引き揚げたのは終戦から1年後。その間に病にかかった長男と長女が帰国を待たずに亡くなった。母親は引き揚げ船で感染した伝染病がもとで、入港した佐世保の病院で命を落とし郷里に帰ることができなかった。

1932年から45年の間に約27万人が満蒙開拓団として満州へ渡ったとされる。背景にあったのが昭和の大恐慌による農村の疲弊と、農村の土地不足や過剰人口を解決するためのほかに、資源確保など軍事上の必要性があり、渡満した約8万人が亡くなったとされる。長野県出身者が突出して多かったのは、世界恐慌後に生糸価格が暴落し主産業だった養蚕への打撃から農村が困窮したことと、地元の指導者が満蒙開拓に積極的だったことなどがあるとされる。戦後、戦争が生んだ移民の歴史が土浦へと繋がっていく。(柴田大輔)

続く

夏花火本番 天衣が必携《見上げてごらん!》30

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甲府駅で筆者撮影

【コラム・小泉裕司】JR身延線の車中にいきなり鳴り響くチャイム音。大雨警報のエリアメールだ。

今年3回目となる「花火の日」8月7日(土)に開催された「神明の花火」(山梨県市川三郷町)は、雨予報の中、風や雲の影響もなく無事、打ち上げを終了。華麗な演目を締めくくったグランドフィナーレ花火の余韻を楽しむ間もなく、予約した特急「ふじかわ」に乗り遅れないよう市川大門駅に急いだ。

途中、大粒の雨が降り始め、駅到着時には雷鳴がとどろき、ゲリラ雷雨の雨嵐状態。折りたたみ傘は役立たず、天衣(てんい)を着用し、列車を待つ行列に並んだ。間もなくして特急券を事前購入した筆者は、駅に優先入場し、プラットホームで雨風を凌いだ。

その後入線した列車に乗車し出発したのだが、冒頭の気象状況で、次の停車駅「東花輪駅」で2時間40分の運転休止。甲府駅前のホテル到着は深夜1時を過ぎ、楽しみのビールものどを通らないほど疲弊し、床に就いた。

特急券は神対応で払い戻し

帰路土浦駅に到着間際、「ふじかわ」の指定席を譲ってくれた花火鑑賞士仲間から、遅延による特急券の払い戻し情報が届いた。だが、特急券は、昨夜、降車時に甲府駅員に渡してしまい手元にはない。ダメ元で、土浦駅改札口の駅員に払い戻しの手続きをたずねた。

「市川大門駅→土浦駅」の乗車券を提示しながら事情を駅員に説明。早速、駅員はJR東日本お問い合わせセンターの電話番号を記した案内メモに〇を付けた。その瞬間、「どうする?花火旅」(2023年9月17日掲載)の「JR窓口のたらい回し」が脳裏をよぎった。「またか!」の瞬間、彼はメモを取り下げ、「回収した特急券を甲府駅で探してもらう」と説明し、確認次第、連絡するとのことで帰宅した。

3時間後、「甲府駅で特急券を確認」との連絡が入り、翌日、払い戻しの手続きを完了した。JR駅員の「神対応」に心から感謝している。「終わりよければ…」ということで、1年前の一件をいったんリセットしてみよう。

「足立の花火」中止の英断

7月20日夜、東京足立区の荒川河川敷で開かれる予定だった「足立の花火」が、雨や雷の影響で開催直前に中止になった。ケーブルテレビのライブ中継画面には、稲光を背に中止の理由を説明する近藤やよい足立区長が映っていた。ゲリラ雷雨に見舞われながら帰路に着く観客の映像が流れるたび、切迫した中で観客の命を守るリーダーの英断に感服した。

しかし、多様な判断材料があることも十分承知しており、開催を強行する大会があることも理解できる。

今年の花火は、これからが佳境。本稿入稿の15日(木)は「諏訪湖祭湖上花火大会」(長野県諏訪市)、17日(土)は「赤川花火大会」(山形県鶴岡市)、31日(土)は「大曲の花火」と続くが、酷暑や台風の影響は予断を許さない状況が続くが、夏の花火大会では自分を守るための雨具は必携。

雨傘は周囲の邪魔となるため、大きな花火大会はすべて使用を禁止し、カッパやポンチョなどの天衣を推奨している。本日は、この辺で「打ち止めー」。「ドーン ゴロゴロ ザーザー」。(花火鑑賞士、元土浦市副市長)

土浦公園ビル物語 高山俊夫商会【戦争移住者の営み今に】2

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高山俊夫商会の高山節子さん

土浦市中央、亀城公園の隣にある「公園ビル」で、建設初期から中心的な立場で活躍した1人が、同ビルで印刷業を営む「高山俊夫商会」創業者の故・高山俊夫さんだ。1993年に74歳で亡くなるまで、土浦全国花火競技大会の賞状を手書きするなど地域に欠かせない存在として地元を支えてきた。同店は現在、長女の高山節子さん(74)が跡を継いでいる。

店に入ると目に入る大きな印刷機を指しながら節子さんが、「機械のガッタンガッタンって音が聞こえると、ここ(公園ビル)の子どもたちが安心したんです。逆にその音がないと寝られないって話があったくらい」と、俊夫さんの思い出を語る。

俊夫さんが使用していた印刷機が店に残る

「いつも仕事をしてました。面倒見が良くて、几帳面だった」という俊夫さんは、印刷業とともに名刺や賞状の文面を手書きする仕事も請け負っていた。土浦の花火大会をはじめ、各地の小中高校の卒業証書などを数多く手掛けてきた。繁忙期には徹夜で筆を握り続ける姿を家族は見てきた。「土浦で起きてるのは警察署と消防署とうちくらいって言われてましたよ」と節子さんが話す。

シベリア抑留から帰国

俊夫さんは字がうまかったから、軍隊でも苦労はしなかったという。「あまりの字の上手さから、戦争に行っても事務方で戦場に行かなくていいと言われたくらい」だったという逸話が公園ビルに残る。

1919年、市内で生まれた俊夫さんは、陸軍兵士として渡った満州で終戦を迎えた。直後、侵攻してきたソ連軍の捕虜となりシベリア抑留を経験。帰国したのは4年後だった。

郷里の土浦に戻ると、市内で印章店を営む実家の支援を受け、完成間もない公園マーケットに店を構えた。当初は本家と同じ印章店を「本家から少しのハンコと幾らかの商売道具を分けてもらい、米びつにお米を一斗入れてもらって始めた」と節子さんが言う。

公園ビルに入る高山俊夫商会

窓を開けてお堀に釣り糸をたらした

「お堀から流れる川が、今もこの下を流れてる」という現在の公園ビルの地下を暗渠(あんきょ)となった川が霞ケ浦へと流れている。「ビルは3階建だけど、下に暗渠があるから4階建なんですよね」と話す節子さんは、バラック時代をここで過ごした当時を知る貴重な存在だ。

「昔はお菓子屋さんやアイスキャンディー屋さんがあった。魚屋さん、お花屋さん、電気屋さんに靴屋さん、八百屋さんに牛乳屋さんもあった。なんでもそろったんですよ」と懐かしむ。マーケットの子ども同士で遊んだのは、隣接する裁判所だった。敷地の中に湧き出る井戸水でスイカ冷やしたり、うっそうと茂るビワの木陰で鬼ごっこをしたりした。「遊んでると、裁判所の小使いさん(用務員)に怒られたりしてね」。

「ここはお堀の上にバラックを建てた掘っ立て小屋みたいなものだった。狭くなれば2階を付け足した。家の後ろの窓を開けてお堀の川に糸を垂らして魚やザリガニを釣った。棒でばちゃばちゃやって魚を追い込んだりもした。昔は水がきれいだった」と子どもの頃を思い出す。

1951年に始まった「土浦七夕まつり」は特に印象に残っている。「にぎやかでしたね。桜町の芸者さんが踊って華やかだった。アーケードを飾り付けて、金魚すくいや水風船なんかもやりました」

公園ビル地下の暗渠へ流れ込む亀城公園のお堀

父が残した字のお陰

公園ビルのモデルになったのは、戦後の先進的な建築物である「防火建築帯」として建てられた宇都宮の商業施設「バンバビル」。1951年、できて間もない同所を公園マーケットの住民が総出で見学に出掛けている。

「今あるこの建物は、いろんなところに視察に行って、あちこちにお願いして銀行からお金を借りて建てたと聞いた。お金もないのに建てたから、鉄筋じゃなくて借金コンクリートだって聞いたことがありますよ」と節子さん。

1993年、74歳で亡くなった俊夫さんが生前に語っていたのは「店は俺一代でいい」ということ。「でも急に亡くなってしまって、見よう見まねでどうにか仕事を継いできた。なんとかその後も30年続けられたのは、父の残してくれた字のお陰」と言って、節子さんは俊夫さんの手書きの賞状や名刺に目をやる。父が残した版を元に今も印刷物を作成している。節子さんは「いまだに父の字を使って仕事をしている。天国に行っても稼がせてもらっている。父には感謝しています」と話す。

達筆で鳴らした俊夫さんが手書きした賞状

イベント開催し新風

組合の代表理事を務める亀屋食堂の時崎郁哉さんによると、現在の組合員は17軒。その中で営業を続けているのは6店舗。その一軒に、以前に菓子店が入居していた場所をリノベーションして2018年にオープンしたギャラリー「がばんクリエイティブルーム」がある。音楽ライブや落語会、写真や絵画の展示会など様々なイベントを開催し、公園ビルに新しい風を吹き込んでいる。

時崎さんは「建物は60年以上経ち古くなっている。単純な居住目的じゃなく、商売を兼ねているのがここの特徴。『がばんさん』のように使うこともできたらと思うんです。食べ物に関わらず、最近はどこにいっても街が似たようなものになってきてるのは寂しい。少しでもおじいさんたちが残してくれた『宝』を生かしていきたい」と語る。(柴田大輔)

「老い」が尊ばれる時代 《看取り医者は見た!》25

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写真は筆者

【コラム・平野国美】コラム23「…今『老いるショック』」(7月20日掲載)を読まれた仏教関係者と話す機会がありました。「仏教の世界では老いを尊ぶ文化があり、大僧正は高齢の方が就任されることが多いです。昔ほどではありませんが、年上を敬う風潮は残っており、老いるショックは少ないと思います」とのことでした。

大僧正は僧侶階級制度における最高位の称号であり、仏教では修行と経験を積んだ年長僧侶が尊敬される存在です。実際、多くの宗派で調べてみると、大僧正は80代、90代を超えた方が就任するのが一般的です。

その方は「見た目が枯れることで独特の風格が出ます。説法時の低く掠(かす)れた声は、重要な教えを伝えているかのように、聞き手の注意を引きます。話される言葉には、ささいなことでも重大な意味があるように感じられ、聞き手を考えさせます。実際は分かりませんが…」とも述べていました。

僧侶は他の職種に比べて長寿であるとされ、その理由として、食習慣の徹底、瞑想(めいそう)、早寝早起き、腹式呼吸、日常の修業=適度な運動―などが挙げられます。また、老後の自分の存在が尊ばれる文化も、長寿に寄与しているのかもしれません。

生きる長さや量、そして質も

あらゆる病気のコントロールが長寿の一因であると考えられています。1935年の東京朝日新聞には「人生は五十年より短い日本人の命」とあり、平均寿命が男性44歳、女性46歳と書かれていました。

ところが、1959年の朝日新聞では、男性64.9歳、女性69.4歳と報じられ、寿命が延びた理由として、新薬の開発と治療方法の進歩が挙げられています。ガンや高血圧などによる死亡率は増加しているが、結核、心臓病、肝硬変などは減少し、厚生省は「女性は『人生70歳』を達成する見込み」と言っている、と。

健康と長寿を追求した結果、2024年の今、年金問題や少子高齢化問題が生じています。医学界や厚生労働省は引き続き寿命を延ばす努力を続けるでしょう。しかし、訪問診療の仕事で高齢者と接していると、彼らが必ずしも長寿を喜んでいないことに気づきます。理由は様々なのですが、生きる長さや量だけでなく、質も重視しなければなりません。(訪問診療医師)

土浦公園ビル物語 亀屋食堂【戦争移住者の営み今に】1

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亀屋食堂3代目の時崎郁哉さん

8月15日の終戦により、海外からの引き揚げ者や他県からの無縁故者、復員軍人らが土浦にも数多く移住した。右籾、中村地区にあった将校宿舎などの軍関連施設は「引揚者寮」として利用され、一時3500人余りが暮らし、農村地域では縁を頼った引き揚げ者による開拓が始まった。土浦の中に、戦争が生んだ「移住者」による営みが現在に引き継がれている。

バラックから始まった

土浦市中央にある亀城公園の隣に、長さ約100メートルの3階建の「公園ビル」(同市中央)がある。食堂や印刷店などが入居し、1階が店舗、2、3階が居住空間となっている。現在の建物は、終戦直後の1947年に困窮する引き揚げ者や復員軍人の救済を目的にバラック式で建てられた、住居一体型の「公園マーケット」を58年に建て替えたものだ。当時は珍しかった鉄筋コンクリート造だった。市主催の桜祭りに合わせて開かれた竣工式・開店大売り出しには県外からも見物客が訪れるなど多くの来場者でにぎわった。

亀城公園脇に建つ公園ビル

現在、公園ビルの各店舗を所有する17軒による「公園ビル商業協同組合」で代表理事を務めるのが、同ビルで創業77年を迎える「亀屋食堂」を営む時崎郁哉さん(49)。SNSでも話題に上る名物のかつ丼を求めて県外からファンが訪れるなど、地元以外にも新しい顧客を増やしている。郁哉さんは公園ビルで生まれ育った3代目。「ここは長屋みたいなところで、誰もが子どものころからよく知る近しい関係。学校が終わると亀城公園で近所の子ども同士でよく遊んだ。亀城公園は僕らの社交場でしたね」と話す。

同店の創業者で、同組合長を長年務めたのが祖父の故・時崎国治さん。1906年に福島県大玉村で生まれ、海軍航空隊に志願し土浦に来た。戦後、公園ビルの前身となるマーケットで1947年に亀屋食堂を開いた。開店当時の名物は、卵と小麦粉を使わず水だけで繋いだコロッケと秋刀魚のフライだったと郁哉さんが言う。

亀屋食堂初代の時崎国治さん

「昭和20年代に店に来てくれていた人に『コロッケは忘れられないよ、今も思い出す』と以前はよく言われてたんですよ。その世代の方も大分亡くなっちゃって寂しいですが、何もない時代だったからこそ、そういうものもご馳走だったのかな。当時、魚はよく獲れてたけど肉は貴重だったんですよね」

救済のため建設を請願

国治さんが「公園ビル」の歴史を、91年に作った冊子「公園ビル四十五年の歩み」に記している。同書によると「復員軍人、満州中支引揚者」の生活再建の場として、亀城公園のお堀から霞ケ浦へ注ぐ水路上に27軒からなる「公園マーケット」が建てられたのが1947年10月だった。最初の建物は「(水路上に)杭を打って建てた杉皮葺の急造バラック」で、一戸あたりの広さは「店舗二坪と四畳半一間」。押入れやお勝手はなく、トイレは5軒に一つだった。国治さんは「冬の寒さが堪えた」としながらも、土浦駅前には5、60人の引き揚げ者が暮らすバラック住宅が他にもあり、「贅沢(ぜいたく)は言えない」と述べている。

終戦直後の土浦が直面したのが急激な人口増加だった。1946年9月の土浦市議会議事録によると、45年11月1日時点で4万3665人だった人口が、9カ月後の46年8月5日には約7000人増の5万629人に増えている。各地から流入する引き揚げ者や戦災者たちによるもので、その増加数は月平均770人余り。

こうした背景の中で、1946年10月、移住者たちを救済するため住居と店舗を兼ねた「バラック式マーケット」の建設を説いた請願書が、「土浦市真鍋戦災者引揚者互助会」(萩原孝会長)から市議会に提出された。マーケットの建設場所として、かつて「前川マーケット」という商業施設があった現在の公園ビルが建つ旧前川町(現・中央2丁目)を流れる水路上が提案された。この新施設の建設計画は市内の「貸家組合」と呼ばれる団体が請け負った。地元住民の要望により関連機関と折衝をし、土浦市を保証人として43万円の建設費用を銀行から借り入れた。こうして47年10月に「公園マーケット」が建てられた。

創業当時の亀屋食堂

「よそ者同士の集まりで、当初は軋轢(あつれき)もあったそうです」と郁哉さんが話す入居者たちは、各自で商売を始めつつ共同事業として亀城公園のお堀でスワンボートの貸し出しをスタート。売上金でマーケットにアーケードを作るなどして徐々に結束を高めていった。

その後、1951年にはマーケット組合を結成し組合長に国治さんが就任し、老朽化する建物の建て替えに向けて動き始めた。56年には現在の「公園ビル商業共同組合」を発足させて、58年4月の現在の建物完成へとつながった。

郁哉さんは「長屋時代のことは直接知らないが、みんな苦労してきた人たち。軍人だった祖父は特に仕事に厳しい人だった。お客様に対するマナー、相手の気持ちになるよう教えられた。いたずらをして木につるされたのもいい思い出」だと振り返る。

レトロブームで女性客も増えた

現在の名物かつ丼は、2代目の父・次郎さんが始めたものだ。夏の高校野球の季節になると、弦を担ぐ関係者からの注文が増えるという。

名物のかつ丼

「最近はレトロブームもあって、純喫茶やうちのような食堂にも若い人がよく来てくれる。以前は少なかった女性客も増えた。部活帰りの高校生が店の前に自転車をいっぱい並べてゾロゾロ入ってきてくれる。いい光景ですよね。みんな若いから、こっそりご飯大盛り。おまけしたとは言わないけどね。個人店だとそういうのができる。部活やってたら腹減るでしょう。高校生ならいくらでも食べれるからね」と郁哉さんは言うと、「お客さんも若い人が増えているので、こういう食堂文化を伝えていけたらと思ってます。フードコートとは違う、長年やってるこういうところもあるんだよってね」と語った。(柴田大輔)

続く

水戸歩兵第二連隊歌への旅《映画探偵団》79

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イラストは筆者

【コラム・冠木新市】茨城県出身の詩人、野口雨情にはいくつかの謎がある。その一つ、「戦争は唄にはなりゃせんよ」と軍歌を作らなかった雨情だが、昭和7(1932)年に『爆弾三勇士』(映画探偵団32)、昭和9(1934)年に『水戸歩兵第二連隊歌』『地から生えたか 筑波の山と』(民謡・水戸歩兵の歌)を作詞している。これは一体どういうことだろうか。

私が『雨情からのメッセージⅡ/幻の茨城民謡復活コンサート』(2013年)を開催したとき(映画探偵団30)、『水戸歩兵第二連隊歌』の楽譜を探したが見つからなかった。その後も探し続け、『水戸歩兵第二連隊史』(水戸歩兵第二連隊史刊行会)に載っていることを知り、土浦市立図書館で楽譜をコピーすることができた。

長年の宿題を果たしたような気がしたが、改めて雨情がなぜ軍人の歌を作詞したのかの謎は残った。

コッポラの『地獄の黙示録』

コンラッドの小説『闇の奥』をベトナム戦争に舞台を移したフランシス・フォ一ド・コッポラ監督の『地獄の黙示録』(1980年)は、公開当時、賛否両論が巻き起こった作品である。だが今では、ベトナム戦争映画の名作として評価は定まっている。

ウィラ一ド大尉は、ジャングルの奥地に米軍の命令を無視し独立王国をつくって君臨するカ一ツ大佐(マ一ロン・ブランド)の暗殺を命じられる。ウィラ一ドは川をさかのぼり、カ一ツの王国をめざす。旅の途中でベトナム戦争の狂気の数々を目撃する。それはまたカ一ツの人生を追体験する旅でもある。

始めは米軍の秩序だった戦闘シ一ンが続くが、川をさかのぼるにつれ、軍の秩序は崩れ混沌(こんとん)化する。旅の終焉(しゅうえん)は、死体が木につるされ、首がゴロゴロ転がる、カ一ツが住む石の宮殿だ。登場したカ一ツは暗闇の中にいて、時折顔の一部分が映る程度のシルエットで表現される。

そこでは、ウィラ一ドとカ一ツの謎めいた対話が主となる。戦闘シ一ンの前半部分と静寂な後半部分の落差が激しいため、盛り上がりを期待していた観客は肩すかしをくらうだろう。

1980年の劇場公開版(147分)の後も、コッポラ監督は、2001年特別完全版(196分)、2019年ファイナル・カット(182分)と、39年間にわたり改訂を続けた。

ペリリュー島でほぼ玉砕

『水戸歩兵第二連隊歌』の楽譜を手にするまでに、昭和19(1944)年、水戸歩兵第二連隊がペリリュー島で世界最強の米第1海兵師団と戦い、ほぼ玉砕した歴史を知った。米軍から勇敢な兵士と称賛を受けるが、生き残った兵士の話では、飢えに苦しみ、人肉を食べたり、脱走する仲間を撃ち殺したり、地獄の状況そのものだった。

連隊歌の3番の歌詞にはこうある。

雄々しき我等 益良夫は
死なば護国の 鬼となり
生きて最後に 残るとも
身は皇の 楯となる
ああわが水戸の 二聯隊
茨城健児の その名こそ
名は徒の ものなりや

雨情は、水戸歩兵第二連隊の玉砕を知ったとき、何を思っただろうか。来年2025年は雨情没後80年で、戦後80年でもある。私はそれまでに、この歌の謎を解きたいと思っている。サイコドン ハ トコヤンサノセ。(脚本家)

母の流した涙を次の世代に味わわせてはならない【語り継ぐ 戦後79年】6

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両親の戦争体験を話す稲葉教子さん

つくば市 稲葉教子(きょうこ)さん

つくば市の稲葉教子さん(73)さんは子どもの頃、いろいろな時々に母親から戦争の話を聞いて育った。「今73歳になって、母の流した涙を次の人たちに伝えておきたい、息子や孫に絶対に味わわせてはならない」と今年5月から、所属する市民団体の会報に両親の戦争体験をつづり始めた。

教子さんの母親は、1925(大正14)年埼玉県深谷市生まれ。戦争で2人の夫を亡くし、家を守るため3度結婚した。最初の嫁ぎ先は岡部村(現在は深谷市)の農家。山林を開墾した農家で、暮らしは楽ではなく、夏の間は蚕を飼って生活を支えた。青年団の活動で最初の夫と知り合い、当時は珍しい恋愛結婚だった。次の年、教子さんの兄になる長男が生まれ、夫と息子、夫の両親に囲まれ、母にとっては貧しくても一番幸せな時だったのではないかと思う。

抱いて寝たら骨が暖かかった

2、3年経って最初の夫が出征し、ある日突然、戦死したという知らせが届いた。夫の両親は茫然として涙も出なかった。その後、戦友が訪ねてきて、遺骨と遺品をもってきてくれた。遺品は血染めの便せんで、最期の様子も話してくれた。

母は血染めの便せんを、たんすの一番奥の下着の下にしまっていた。年末の大掃除の時、子どもだった教子さんが茶色くなった紙を見つけた。何か母の秘密のものなのではないかと、恐る恐る「母ちゃん、これなあに」と聞くと、母親が「それはね、母ちゃんが前のだんな様と結婚していた時、その人が戦争に行って、母ちゃんがその人に書いて送った手紙なんだ」と教えてくれた。

最初の夫は、母の手紙を胸のポケットに入れて出陣、「進め」という合図で進軍し、ちょうど胸に弾が当たって便せんが血で染まったのだと戦友は母に話してくれた。教子さんが小学2、3年生の1960年頃のことで、戦争なんてずっと遠い昔のことだった思っていたが、身近に戦争を感じたという。最初の夫がどこで亡くなったのかは分からない。

遺骨が返ってきた日、母は遺骨を抱いて寝た。「そしたら遺骨が暖かった。骨が『家に帰ってきてうれしいよって言ってるんだなと思った』」と母親は教子さんに語った。

夫が亡くなったので、息子を連れて実家に戻りたいと母が義理の両親に言うと、両親から「今実家に戻られたら家が絶えてしまう、何とかして家を継いでほしい」と言われた。義理の母親がかわいがっていた甥っ子を婿に迎えるので、どうにかして家に残ってほしい」と説得された。

2度目の結婚をしたが、太平洋戦争末期で2番目の夫も間もなく招集され、何カ月もしないうちに戦死の報が届いた。南方洋上で船に乗っている時に爆撃を受けて沈んだらしく、遺骨も遺品も無かった。

同じころ母の実家からは、2人の兄が亡くなり、目の不自由なおばあちゃんがいるので何としても戻ってほしいと言われた。しかし義理の両親が今度は、母を養女にしてお婿さんをとるから何とか残ってくれないかと畳に額をこすらんばかりにして頼み、母親は3度目の結婚を承諾した。

軍隊のお下がりを嫁にした

3人目の夫が教子さんの父親で、子供の頃、肺結核を患っていた。なかなか治らず、ある日医者に連れて行かれたら、これで殺せと毒薬を渡されたという。家族はいくらなんでも毒薬を飲ませることができず、寺のお坊さんに相談したところ「俺が面倒を見るから俺に渡せ」と言われ、寺にもらわれた。肺結核を患っていたから兵隊の検査でも甲種合格にはならなかった。

3番目の夫は結婚初夜、母に対し「俺は軍隊のお下がりを嫁にした」と言ったと、母から聞いた。教子さんはその話を聞いた時、子供ながら「母は好んで寡婦になったわけではない。これから妻になって一緒に生きていく人にそういうことを言うなんて、なんてひどい父なんだろうと思った」という。

一方で、父について「あの頃、肺結核で兵隊にもなれない、そういう奴はお荷物だから早く死んだ方がいいと言われ、父は軍隊と兵隊が大嫌いだったんだと思う。父には父なりの、そういう経験が影響していたんだと思う」と教子さん。

教子さんの父親は生前「戦争ってのはな、絶対やっちゃいけねえんだ」とよく口にしていた。父を看取り、82歳で亡くなった母は「戦争はしてはならない」と父のようには言わなかったが、淡々と話す母の人生の物語から、戦争をするとこうなるんだよと言っているような気がした。

教子さんは「母や父の人生をみると、戦争はどこか遠くで起きるようなことではなく、愛する人たちが不幸になっていくこと、だれが犠牲者になるか分からず、皆が不幸になることだと思う」と話し、「第2次大戦では、戦争が始まってからでは反対できなかったことを国民は知っているはずなのに、このころ忘れてしまっていると思う」という。(鈴木宏子)

終わり

声をあげる勇気、声を受けとめる勇気《電動車いすから見た景色》57

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イラストは筆者

【コラム・川端舞】前回コラム(7月19日掲載)で、「私は今、怒っている」と書いたが、同時に、自分の具体的な傷付きを公に書けない悔しさがある。この悔しさを代弁してくれる本はないかと探していた最中、「オリンピックという名の虚構―政治・教育・ジェンダーの視点から」(晃洋書房)に出合った。

カナダでスポーツを研究しているヘレン・ジェファーソン・レンスキーが、オリンピックが社会にもたらす負の影響を詳細に分析した著書だ。レンスキーによると、オリンピック開催都市では、競技場や選手村の建設のために、先住民族や低所得の住民の強制退去や、作業員の過重労働が頻繁に起こるという。

オリンピックのためにそのような人権侵害が起きているとは、無知な私はにわかには信じられなかった。しかし、改めて調べると、東京2020大会でも、国立競技場の建て替えのため、多くの高齢者が入居していた都営アパートが取り壊され、住民が立ち退きを強いられた。

また、選手村や国立競技場の建設現場で働いていた作業員が、クレーンに挟まれ事故死したり、過労自殺していた。国際的な労働組合である「国際建設林業労働組合連盟」は、各建設現場での労働環境を調査し、スケジュールの遅れや労働力不足により、労働者の安全が脅かされていることを指摘する報告書を2019年に公表した。

問題意識を持って調べれば、インターネットで東京2020大会に関連する人権侵害の記事を簡単に見つけられる。それなのに、私は当時、何も知らずに、ただオリンピックを楽しみにしていた。

声が暗闇に消える虚しさ

もちろん、知らなかったのだから仕方ないと言い訳することもできるが、では日本中がオリンピック歓迎ムードに沸いていた当時に、この事実を知ったとして、オリンピックのために慣れ親しんだ住居や命すらも奪われた人たちがいることを、私はどのくらいの熱量で受け止められただろうか。オリンピックという熱に浮かされたまま、彼らの声を聞こうともしなかったかもしれない。

オリンピックの裏で起きた人権侵害を公に告発した人たちは、勇気を振り絞って声をあげたに違いない。訴えられた側が社会的な影響力を持っているほど、周囲の人々が被害者の声に耳を傾けるのは難しい。被害者の声を聞くことで、それまで自分の信じてきたものがもろく崩れてしまうかもしれない。それは、ものすごく怖い。

でも、振り絞ってあげた声が誰にも届かず、暗闇に消える虚しさを私は知ってしまったから、私に向かって叫んでくれた声は、きちんと受けとめる勇気を持っていたい。(障害当事者)