火曜日, 10月 6, 2026
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《映画探偵団》32 野口雨情作詞『爆弾三勇士』

【コラム・冠木新市】雨情茨城民謡の謎を解くため、1930年代に作られた映画や1930年代を舞台にした映画を探して見ている。ある日、昭和初期を時代背景に作られた東映の任侠映画があったことに気が付いた。雨情と任侠映画はミスマッチであり盲点だった。

東映の任侠映画は『人生劇場 新飛車角』(1963)から始まる。TVの普及で斜陽となった日本映画界で観客を集め、『日本侠客伝』『昭和残侠伝』『緋牡丹博徒』などのシリーズ物を生みブームは約10年間続いた。だが当時の映画評論家や文化人からは毛嫌いされ、批判の的だった。

鶴田浩二主演『博奕打ち 総長賭博』

ところが、作家の三島由紀夫がある任侠映画を絶賛したところから潮目が変わる。お墨付きを得たからだ。「何という絶対的肯定の中にギリギリに仕組まれた悲劇であろう。しかも、その悲劇は何とすみずみまで、あたかも古典劇のように、人間的真実に叶っていることだろう」

三島が評価した作品とは、ギリシャ悲劇を参考にした笠原和夫脚本、様式美で描いた山下耕作監督の『博奕打ち 総長賭博』(1968)である。

昭和10年、東京江東地区に縄張りを持つ天竜一家の総長が脳溢血(いっけつ)で倒れ、跡目相続問題が起きる。一門の組長でそれぞれ兄弟盃(さかずき)を交わした、中井(鶴田浩二)、松田(若山富三郞)、石戸(名和宏)が総長候補である。

中井の妹は松田の妻、石戸の嫁は総長の娘という関係。さらに一門の叔父貴分の仙波(金子信雄)は、大陸進出の野望を秘め、何かと口を出す。そして総長は石戸に決まり、中井は様々なしがらみに縛られ、花会の準備を進める。

何度か見ていた作品だが、今回初めて気が付いたカットがあった。中井を差し置いて総長の座を受けた石戸に不満のある松田が、自分を狙った刺客は石戸の差しがねと思い込み、事務所に押しかける場面だ。

そこに「ビクターレコード 歌藤原義江 野口雨情作詞 中山晋平作曲」のポスターが貼ってあったのだ。残念ながら、曲名は柱の陰になってわからない。昭和10年は、雨情が日本民謡協会を再興し理事長に就任した年である。

上海事変 満州建国 団琢磨暗殺

その3年前、昭和7年(1932)1月28日に「上海事変」が起きる。3日後の1月31日、2月2日に、雨情は竜ケ崎のまちおこし民謡『今朝も別れか』(常陸竜ケ崎音頭)と『竜ケ崎小唄』を作詞している。2曲は、男と2人の女との別れと出逢いを描いた恋歌である。

2月9日には前蔵相、井上準之助暗殺。2月22日上海事変で肉弾三勇士の戦死を軍部が発表。3月1日満州国の建国宣言。3月5日三井合名理事長、団琢磨暗殺。

時代はテロと大陸進出とで騒然とした雰囲気だった。こうした中でまちおこし民謡をつくる雨情は、大陸での出来事をどう意識していたのだろうか。雨情は昭和7年、『幼年倶楽部』7月号に『爆弾三勇士』の詩を発表する。「上海事変」で爆弾抱えて突撃し亡くなった3人の男の詩だ。

くもの巣よりも なほしげく
縦横無尽に はられたる

鉄条網を うちながめ
にくや 小しゃくな 十九路軍

日本男児の この意気を
今こそ見せん 時は来ぬ
(以下略)

雨情茨城民謡は、日本とアジア大陸とのしがらみの中で読み直せば、いろんな映像が見えてくるのではないかと思っている。サイコドン ハ トコヤンサノセ。(脚本家)

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