火曜日, 10月 6, 2026
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土浦中都地区物語 開拓の記憶【戦争移住者の営み今に】4

満州から引き揚げてきた尾曽章男さん(89)や、故・下田博さんが1948年に入植したのは、当時「中貫開拓」と呼ばれた現在の中都3丁目だ。現在の長野県飯田市出身者が主だった。土浦市の中川ヒューム管工業の創業者・中川延四郎が私有地3町分を県指定の開拓地として開放、3軒の家屋を建設し、入植する6家族に提供した。尾曽さんや下田さんの共同生活による入植がここから始まった。

寒さ身にしみる痩せた土地

下田さんたちは「茨城に未開の土地がある」という話を聞き、水戸市内原にあった「満蒙開拓青少年義勇軍」の訓練に使われていた施設に身を寄せて、県内に入植地を探した。長野出身の他の親戚や友人らは、鉾田の旧陸軍飛行場跡地や現在の牛久市、かすみがうら市へと入植していく中で、「中川ヒューム管の社長が小屋を建てて引き揚げ者の支援をしている」という話を耳にした。

「湖北開拓」と呼ばれた現在の中都1丁目に入植した皆川庸さん(93)と梅田香さん(75)も共に長野県飯田市出身だ。ここには茨城など他県出身者も入植していた。皆川さんは中都に暮らす同郷の親戚を訪ねたのが縁になり、兄弟で開拓していた旧御前山村(現城里町)出身で元予科練生の皆川和(やまと)さんと出会い、中都に嫁いできた。

皆川庸さんと夫の故・和さん

皆川さんが「野っ原っていう感じ」だったという開拓地は見上げる筑波山から吹き荒ぶ「筑波おろし」の寒さが身に染みる、土地の痩せた場所だった。「風が吹くと埃(ほこり)がうちの中に入ってきてご飯食べるのも大変。徐々に風除けに木を植えて、だいぶ大きくなって楽になりました」。

梅田さんは1946年、満州から引き揚げた両親の3男として長野県で生まれた。父親が先に中都へ入植し、生まれて間も無い梅田さんは母親と中都へ移住した。「一番最初は男の人ばっかのふんどし1枚の生活。よしずを三角にして寝泊まりしてたって聞きました。共同で作った五右衛門風呂に交代で入って。お金なんかないし食料もない。食い物作んなきゃなんないから松林をひっくり返して最初にできたのがサツマイモ。暗くなると寝て、明るくなると起きる暮らしだった」。

驚くほどよく売れた

開拓者たちは一から始めた暮らしを少しでもよくするために工夫を凝らした。

6反歩の松林を切り倒すことから始まった尾曽さんらの「中貫開拓」には、近隣に暮らす地元のタバコ農家が協力した。「農家はタバコ葉を乾燥させるのに木の根を燃料にしてたから、欲しいって言う農家にあげたら手伝ってくれた」と話す。食べるために作ったサツマイモは、焼き芋用に東京に出荷する業者が買い付けに来た。要求されればいつでも出荷できるようにと掘った竪穴に保管していると、驚くほどよく売れた。

農作物ができない冬場は、開拓仲間が朝4時に起きて神立駅まで7キロを歩いて6時の汽車に乗り、4時間かけて福島県小名浜港に向かった。一斗缶いっぱい買ったサンマがよく売れて、リュックに詰めて2日間売り歩くと800円ほどになったという。

「平和開拓」の名をとった中都地区を走る「平和通り」

未分別のごみが大量に

痩せた土地をどうにかしようと入植直後に始めたのが生ごみを堆肥にすることだった。市に話を持ちかけると、市内のごみをトラックに積んで開拓地まで運んでくれた。1日2台。未分別のごみが大量に集まった。手作業で分別し、金属は金に変え、生ごみは時間をかけて腐らし畑に混ぜ込んだ。堆肥と共に運ばれてきたビー玉やおはじき、貝殻なども畑に混ぜ込まれた。当時の子ども達にとってビー玉やおはじきを畑から掘り出すのは、宝探しのような楽しみだった。

下田博さんの妹で、中都で育った飯島節子さん(82)は「みんな昼間は働いた。小学生でも草とって。働け働けって言われてね。でも楽しかったよね。夜は月明かりで隠れん坊したり、缶蹴り、縄跳びとかしてね」と明るく思い出す。

弁当の見た目ごまかした

食べ物も工夫した。飯島さんは「お店に買いに行くのは滅多になかった。自分たちで作ったサツマイモと陸稲は、普通のより美味しくないけど工夫し食べた。飼ってたニワトリやウサギは骨まで全部潰して食べた。お乳はヤギ。ほとんど毎日同じものを食べてたけど、お砂糖に醤油、お塩を使って味を変えてたね。ごま油も作ってね。菜種もいっぱい植えて菜種油を作った」

近くの都和小学校に転入した尾曽さんが思い出すのが学校で食べた弁当だ。「学校に弁当持っていくのが嫌だったの。なんでかっていうとご飯にイモが入ってたから。弁当を食べるときにイモをどかして下にして、上は薄いけど白い米だけにした。見たところ普通の弁当に見えるように。ずっとそうやってごまかした」

尾曽さんよりひと回り以上若い梅田さんも弁当の時間を思い出す。「周りの子どもはみんな白い米の弁当を持ってくる。地元の農家は田んぼを持ってたから白米があった。銀シャリだ、なんて言ってね。我々のは真ん中に筋の入った麦飯だから黒く見える。恥ずかしいから新聞紙で囲って食べました」

開拓者たちが建てた農村集落センター

長野の文化で育った

開拓地の子ども達は、親や祖父母の故郷、長野の文化で育った。「小学校行くまで長野の人の中で育った。全く地域を出たことがなかった」と梅田さん。話す言葉も長野の言葉ばかり。「小学校に行ったら、言葉が全くわかんなくってね」と慣れない茨城弁に苦労したと振り返る。

長野の文化は食べ物にも現れた。お祝いどきに食べたのは、中部地方の山間部発祥とされる五平餅。開拓者たちの故郷の味だ。他にもよく食べたのがタンパク源として長野の山間地で食された蜂の子にイナゴの佃煮だ。下田さんの娘の相崎伸子さん(70)は「昼間に見つけた蜂に綿をつけて追いかけた。見つけた巣に夜行って、いぶして素早く掘りとる。蜂の子はみりんや砂糖で料理して、いい食料、栄養源だったよね」と懐かしむ。

「開拓」は新しいことやる

石油ランプだった暮らしに初めて電気が通ったのが1954年ごろ。「ちっちゃな手じゃないと入んないからって、子どもの時分にはランプの掃除をやらされた。手がすすで真っ黒になってね。そこに裸電球1個がきた。いやぁ、明るいねって感激しました」と梅田さん。

地域では、努力の甲斐があり、土が肥え、換金作物の幅が増えた。麦から始まり、落花生、白菜、スイカ、梨へと広がり、開拓者たちの共同出荷が始まった。酪農を始める家も増えた。「一生懸命働きました。だからテレビも早くに買えた。金曜日の夜は力道山の試合があるから6畳1間の家にみんな来る。帰らないと寝れなかった」と尾曽さんが言う。それ以前は街頭テレビを見るため亀城公園まで歩いて行っていたと振り返る尾曽さんがこう続ける。

「昔は『開拓』ってみんなに馬鹿にされてたの。どんな暮らししてるか見物に来たって人もいたよ。生ごみ使ったのなんて俺らだけだよ。他ではそんなことしねぇよ。ハエがたかって、みんなの背中にくっついていってね。でも、人のやらねぇことやっから『開拓』はそのうちに認められたんだ。『開拓』は新しいことやるってな」

写真の人数がどんどん増えて

7月、梅田さんがビニールハウスでキュウリの収穫に勤しんでいた。多い時で900坪のハウスで栽培していたキュウリは梅田さんが32歳で始めたもの。以前は会社勤めをしながらの兼業だったが、意を決して専業になり40年が過ぎた。その間、3人の子どもを育て、それぞれが独立して4人の孫に恵まれた。

自身のキュウリハウスに立つ梅田香さん

「開拓から出た子達ってのは、なかなか諦めない。何クソって、とことんやる粘り強さは開拓精神としてあると思う。自分が育ってきた地域が良くなるように育ててくれたらいい。現実には跡目がいなくってね。後継者がね」

梅田さんの近所に暮らす皆川庸さんの家には、お盆や正月になると各地に暮らす子どもが孫やひ孫を連れて一堂に会す。夫の故・和(やまと)さんが「家族が増えても集まれるように」と作った家の広い和室も、いつの間にか手狭になってきた。孫の歩さん(44)が言う。「毎年家族が集まると撮る記念写真に写る人数がどんどん増えて、今では20人以上。和室に収まりきらないくらいになった。普段、自分が開拓者の家の子どもだという意識はあまりないけど、家族の写真を見ると、私たちの物語がおじいちゃん1人の開拓から始まった物語なんだなと感じる。これからも家族の歴史を繋いでいきたい」。(柴田大輔)

皆川家の皆さんと梅田さん(左から3番目)

終わり

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