土曜日, 12月 27, 2025
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コメ不足・値上がりに危機感 子ども食堂や食料支援団体 つくば

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8月下旬から緊急でコメの寄付を募っている「つくば子ども支援ネット」事務局長の鬼木尚子さん(中央)

23年産米の寄付を緊急募集

全国的なコメ不足と値上がりの中、フードバンクや子ども食堂など経済的に困窮する家庭を支援する団体が支援継続に不安を抱えている。

スーパーでは、コメの購入制限を呼び掛ける札が品薄の商品棚に並ぶなど、全国的なコメ不足が叫ばれた8月下旬、ひとり親世帯や子どもがいる非課税世帯などへの食糧支援活動「フードパントリー」や、子ども食堂向けのフードバンクを行う子育て支援団体「つくば子ども支援ネット」(山内ゆかり代表)が、コメの「緊急募集」を呼び掛けた。同団体事務局長の鬼木尚子さんは、コメ不足により支援活動が滞ることへの強い危機感がある、と話す。

SOS増えている

つくば子ども支援ネットでは2020年の発足以来、年に数回、寄付された食料を無料配布するフードパントリーを開いてきた。直近では7月28日、支援を求める100世帯にコメ5キロと野菜2キロを含む食料と、子ども向けの文具・雑貨のセットを配布した。

例年なら新米の出てくるこの時期に、前年度米の寄付が農家から集まるが、今年は思うように集まらなかった。「7月の支援で在庫の玄米をほぼ出し切ってしまい、残りが十数キロにまで減ってしまった」と鬼木さんは苦境を話す。「コメ不足の今年は農家の手元にも在庫が不足しているよう」だという。

一方で、日々の暮らしに困る人からの、支援を求める「SOS」は、例年に比べて増えている。鬼木さんらはその都度、コメを5キロ渡すなど、最低限の食料支援を続けていると話す。

「支援を続ける中で在庫が減り続けている。先日『おコメが無くて困っている』とある子ども食堂から問い合わせがあった。本来であれば60キロくらい差し上げるはずが在庫不足で断らざるを得なかった」と言い、「団体のメーン活動であるフードバンクとしての機能が果たせなかった。このままではフードパントリーも続けられなくなるかもしれない」と、活動継続に危機感を抱く。

コメ以外にも寄付として届いた食品を仕分ける「つくば子ども支援ネット」のメンバー

子ども食堂「備蓄が少なくなった」

つくば市内で子ども食堂「つくば『こどもの家』食堂」を運営するNPO法人マナーズ代表の宅間佳代子さんは「まだなんとか(米の在庫が)あるが、このままでは足りなくなる」と不安を話す。

宅間さんらは、隔週水曜日に市内で子ども食堂を開き、一度に30キロ超のコメを使用する。「子どもたちがお腹をいっぱいにして帰って欲しいという」という思いから「一般的なお弁当に比べてご飯をたっぷり入れている」として1食に対して幼児で110グラム、それより年上の子どもには220グラムのコメを提供している。「支援して一番喜ばれるのがおコメ。子ども食堂では、少量だが持ち帰り用のコメも配っている」と言い、「いつも寄付をくれる方からの寄付がなくなるなどして備蓄が少なくなった」。利用者の家族からは、「おコメがない」「新米が出てきても値上がりするのでは」という不安の声が届いているという。

外国人から寄付も

「見た目だけではその人がどんな生活をしているかわからない。人目を気にして支援を求められない人、(生活保護などの)制度を受けるまでいかないからこそ苦しんでいる人もいる」と、つくば子ども支援ネットの鬼木さんは言う。

これまで同会に支援を求めてきた人のほぼ全員が、小学生や赤ちゃんの子を持つシングルマザーだった。「物価の高騰から光熱費を払えないという声もある。おコメだけでなく、他のものも本当にないのだと思うが、やはりおコメが手に入らないことに不安を感じる人は多い」と話す。

同会が「お米急募」の呼び掛けをSNSなどを通じて出した8月21日以降、主に個人から合計170キロほどの米が集まった。中には留学生など外国人からの寄付のあったと言い、「みんな困っているはずなのに、皆さんの温かい気持ちがすごくありがたい」と鬼木さんは話す。

「支援が必要な人を支えるのが私たちの仕事。おコメをお届けするというのを続けたい。ぜひ、少しでも多くの支援をお願いできれば」と呼び掛ける。(柴田大輔)

◆コメの寄付に関する「つくば子ども支援ネット」への問い合わせはこちら。支援に関する問い合わせはこちら

つくば・土浦地区トップ2高の学級増を《竹林亭日乗》20

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収穫の秋(写真は筆者)

【コラム・片岡英明】前回(8月13日掲載)は、今年の土浦市立8中学から土浦一高への入学者が18人に激減したと書いた。つくば市の高校受験も、牛久栄進高の学級増や市内のサイエンス高の普通科併設などで改善はしたものの、受験者の増加に追い付かず、状況はさらに深刻といえる。

まず、竹園高校を例に解決策を考えたい。つくば市内中学生の県立高校への入学者を、上位4校について見ると、以下のようになる。

     22年  23年  24年
竹園高校 222   200   185
牛久栄進 127   129   150
土浦一高  92   88   70
(募集学級 6    6    4)
土浦二高  89   113   124

土浦一高の募集減のため、市外からの竹園高への入学者が増え、今年の市内入学者は3年前に比べ37人減った。今年から1学級増えた牛久栄進高へは前年より21人増えた。募集学級が減った土浦一高へは3年前より22人減り、土浦二高へは35人増えた。結果、つくば市からトップ2高(土浦一高と竹園高)への入学者は59人減った。

竹園高への市外入学増と土浦一高の定員削減の両挟みに遭い、進学の悩みが土浦一高・竹園高受験者だけでなく、中学生全体に広がっていると言える。この推移を過去5年について見ると以下のようになる。

     20年 21年 22年 23年 24年
竹園高校 185  188  222  200  185
牛久栄進 129  127  127  129  150
土浦一高 109  119  92  88  70
(募集学級  8   7   6   6    4)
土浦二高 101  110  89  113  124

竹園高入学は、土浦一高が6学級になった22年に市内回帰が起き、222人に増加した。しかし、今年は土浦一高入学がさらに減少した上に、22年の竹園高増加分も消えてしまった。土浦一高+竹園高は、294人→307人→314人→288人→255人。22年をピークにして、今年は5年前より39人減った。つくばの受験生のため、竹園高の「狭き門」を広げる必要がある。

つくばエリアは15学級不足

土浦市の保護者からは「土浦一高は無理」といった声、つくば市の保護者からは「市内県立高が不足」の声を聞く。保護者の悩みは深刻で、募集条件が毎年違うので過去のデータは参考にならないとの意見があり、進学先を変更したとの声も多かった。

23年→24年の土浦一高入学者が大きく変動した中学も多い、土浦一中:10人→3人、土浦四中:6人→3人、都和中:5人→1人、吾妻中:9人→3人、手代木中:16人→5人、竹園東中:10人→20人。県は、この増減の裏にある受験生の悩みを読み取ってほしい。

問題は、この募集減がつくばエリアの構造的な県立高不足とTX沿線の中学生増の大波の中で起きていることだ。県全体の平均に比べ、つくばエリアの県立高の募集は現状で15学級不足している。加えて、25年入試ではエリア内の水海道一高の定員も削減される。

各エリアの生徒数に見合う入学枠設定を宣言した県の「2019年高校改革プラン」に期待しているものの、その後に筑波高・水海道一高で定員削減があり、つくばエリアの募集増は進まない。その間、つくば市の高校受験生は1928人(20年)から2174人(24年)へと246人(12.8%)も増え、状況は深刻になっている。

改めて、つくば・土浦の受験生のために、土浦一高の募集を6学級に戻し、竹園高については2学級増を求めたい。(元高校教師、つくば市の小中学生の高校進学を考える会代表)

堤防改修の優先順位めぐる安全評価争点に 鬼怒川水害訴訟

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東京高裁に向かう原告住民ら

東京高裁で第1回口頭弁論

2015年9月の鬼怒川水害で、常総市の住民が甚大な被害に遭ったのは国交省の河川管理に落ち度があったためだなどとして、同市の住民20人と法人1社が国を相手取って約2億2000万円の損害賠償を求めた国家賠償訴訟の控訴審 第1回口頭弁論が9日、東京高裁で開かれた(9月7日付)。越水し決壊した同市上三坂地区の堤防をめぐって住民側は、堤防の改修工事が後回しにされていたのは国が誤った安全評価に基づいたためで優先順位に問題があったなどと主張した。

一審で水戸地裁は、国の河川管理の落ち度を一部認め、国に対し、原告住民32人のうち9人に約3900万円の損害賠償を支払うよう命じる判決を出した。原告住民と被告の国の双方が控訴していた。

控訴審で住民側は、一審で主張が退けられた同市上三坂地区の越水・決壊した堤防について「鬼怒川下流域で一番堤防の高さが低く、最も危険な場所だった」とし、国が堤防の安全性判断基準としている「スライドダウン評価」に誤りがあったなどとした。

これに対し国は「安全度などのバランスを見て(河川の整備は下流からとする)『下流原則』に基づき改修を行った」として、水害発生当時、被害のあった上三坂地区より下流域にあたる同市中妻地区や羽生町の改修工事を進めており、被害は、上三坂地区に改修が及ぶ前に「経験したことのない記録的な降水量」の豪雨にあったことで起きたもので、「国に法的責任はない」と主張した。

記者会見に応じる原告団共同代表の片岡一美さん

原告団共同代表の片岡一美さん(71)は「スライドダウン評価は(机上の)空論の世界での条件で、危険だ。国が、現実に危険なところにきちんと対処すれば、今後も防げる水害があるはず。(一審は)間違っている条件で判決を出した」と批判した。さらに「上三坂地区の下流にあたる地域から堤防を改修していた」とする国の主張に対しては、国が例に挙げた中妻地区や羽生町などよりさらに下流にある小貫地区で、2015年と19年に鬼怒川の氾濫による被害を受けている場所があるとして「下流原則」は実際には行われていないとした。

第2回口頭弁論は11月11日午後1時30分から東京高裁で開かれる。(柴田大輔)

メタン削減の水稲栽培研究 米ゲイツ財団から5億円規模の助成

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茨城大学農学部付属国際フィールド農学センター(阿見町)内に設置した水田におけるKH32C導入の実証実験の様子=茨城大学提供

茨城大学農学部・西澤教授らのプロジェクトを支援

温室効果ガス、メタンの水田からの排出抑制をめざす茨城大学農学部の西澤智康教授を代表者とする研究プロジェクトに、米国のビル&メリンダ・ゲイツ財団から約383万ドル、日本円にして約5億円規模の助成が決定し、8月からインド、コロンビア、ドイツの大学・研究機関との取り組みがスタートした。

プロジェクトは英語の頭文字をとってM4NCO、「微生物が介するメタン排出緩和と窒素循環最適化」の取り組み。今後3年間の計画で、植物生育促進効果のある微生物をイネの栽培体系に導入することによるメタンの排出削減や窒素の土壌への貯蔵に係る効果を、アジアやラテンアメリカの多様な条件下で実証する。技術の普及を図ることで、世界全体のメタン排出量を3%以上削減(二酸化炭素換算で年間2400万トン)することを目標にしている。

西澤智康農学部教授=茨城大学提供

課題を解決するとして注目される微生物はイネの根と相互作用するKH32Cというバクテリア株。西澤教授とともにプロジェクトに取り組む同農学部の迫田翠助教らが阿見町の農学部付属国際フィールド農学センター内に設置した水田ほ場で研究してきた。

KH32Cを接種したイネ種子を栽培すると、水田土壌のメタン生成(メタン生成古細菌)とメタン消費(メタン酸化細菌)の群集構造が低メタン生成・高メタン消費型へと変動することが確認できた。肥料を施さない無施肥と窒素施肥の条件下でイネの収量を維持したまま栽培した結果、メタン排出量をそれぞれ約20%削減することが確認されたという。

昨年12月に開催された国連気候変動枠組条約第28回締約国会議(COP28)では、気候変動対策の強化とともに、食料・農業分野の持続可能な発展に向けた協力が呼び掛けられた。温室効果ガスの一つ、メタンは、気候変動に与える影響リスクが同量の二酸化炭素の約27倍とも言われ、生態系から発生するメタンの約4割は水稲や畜産などの農業分野から排出されている。

東南アジア、南アジア、ラテンアメリカなど地域の小規模農家では、メタンの大きな排出源となるような伝統的な水稲栽培が盛んに行われている。気候変動の対策に向けては、これらの地域で品種改良や高度なかんがいシステムなど、新たな技術の導入が必要だが、コスト面などから困難な状況となっている。

助成を決めたビル&メリンダ・ゲイツ財団は、マイクロソフト元会長のビル・ゲイツ氏とメリンダ夫人によって2000年に創設された。世界最大の慈善基金団体で、保健衛生と開発支援を中心に多額の資金提供を行っている。西澤教授らが日本国内とアジアの稲作への技術転換と実装を模索していたときに、研究が財団の目に留まって研究助成に至ったという。

プロジェクトでは今後、技術導入の簡便さ、接種微生物が土壌で増殖しないことによる環境への負荷の少なさなどの確証に努めて、若い研究者・技術者の育成も進めながら技術の普及を図ることにしている。

西澤教授は「支援により、私たちが目指す温室効果ガス排出量削減の実現に大きく近づくことになった。世界中の研究から科学的なイノベーションの種を見つけ、社会の進展のための高度なエビデンスの生成を支援する財団の取り組みに、感謝と敬意を示したい」と話している。(相澤冬樹)

ツェッペリンと土浦の近現代史テーマに 作家 高野史緒さん×学者 清水亮さんがトーク

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1929年、阿見町の霞ケ浦海軍航空隊に飛来したツェッペリン伯号。霞ケ浦飛行場にて居並ぶ航空隊員と共に(霞月楼所蔵)

24-29日 アルカス土浦で「霞月楼所蔵品展」

土浦の老舗料亭「霞月楼」(土浦市中央、堀越恒夫代表)が所蔵する美術作品や歴史資料の写真パネル約30点を展示する「霞月楼所蔵品展」が9月24日から29日まで、土浦駅前の市民ギャラリー(アルカス土浦1階、同市大和町)で開催される。最終日の29日には昨年、いずれも土浦を題材にした本を出版した作家の高野史緒さんと社会学者の清水亮さんがトークセッション「ツェッペリン伯号と湖都・土浦を語る」に登壇し、異なる視点から土浦を解釈し歴史を解き明かす。2人が土浦で話をするのは初めて。

NEWSつくばと土浦ツェッペリン倶楽部がつくる霞月楼所蔵展実行委員会(坂本栄実行委員長)が主催する。

作家と学者が土浦にスポットライト

1931年にニューヨークから北太平洋航路を経て霞ケ浦に飛来したリンドバーグ夫妻(霞月楼所蔵)

高野史緒さんは土浦市生まれ、土浦二高出身。SFやミステリーを得意とする江戸川乱歩賞受賞の人気作家だ。昨年2月、土浦を舞台としたSF小説『グラーフ・ツェッペリン あの夏の飛行船』(ハヤカワ文庫)を出版し、今年2月に早川書房が発行した『SFが読みたい!2024年版』国内編で第1位を獲得した(2月25日付)。SFファンが「聖地巡礼」で土浦を訪れるなど話題となっている。同作は土浦二高の高校生と、量子コンピュータの開発に関わる青年の男女2人が主人公で、作中には土浦市の霞月楼や亀城公園、旧土浦市役所、つくば市のノバホール、筑波大学などが登場する。高野さんは今年5月に新作『ビブリオフォリア・ラプソディ あるいは本と本の間の旅』(講談社)を発売した(5月21日付)。

清水亮さんは東京都出身の若手社会学者。現在、慶應義塾大学専任講師を務める。東京大学の学部生だった2013年から阿見町や土浦の地域史に興味を抱き、研究を始めた。昨年『「軍都」を生きる 霞ヶ浦の生活史1919-1968』(岩波書店)を出版(3月22日付)。霞月楼の資料や常陽新聞の記事などを史料に等身大の生活を描き出し、ドイツの飛行船ツェッペリン伯号の飛来の様子や、どのようにして阿見、土浦で基地が受け入れられてきたか、戦前、戦中、戦後を通した生活史をまとめた。今年6月には、戦争の記憶を拾い集めようとする若手研究者11人の研究をまとめた『戦争のかけらを集めて 遠ざかる兵士たちと私たちの歴史実践』(図書出版みぎわ)を企画、編集し、刊行している(8月3日付)。

SF小説と社会学、偶然にも異なる分野から同時期にスポットライトが当たった土浦。高野さん、清水さんのいずれの著作にも、ツェッペリン伯号が土浦に飛来した出来事が大きなテーマとして扱われている。ツェッペリン伯号の飛来はどのような意味があり、どのように受け止められたのか。土浦と当時の歴史的背景について2人がトークする。

老舗料亭の記憶伝える

手野町出身で伊東深水に学んだ画家、大川一男が戦前の土浦の風物を描いた「わかさぎ焼」(霞月楼所蔵)

トークに先立って、24日から市民ギャラリーで展示される「霞月楼」所蔵品の写真展は、大川一男、小川芋銭、竹久夢二、岡本一平など有名作家の美術品や、東郷平八郎、山本五十六、リンドバーグ、ツェッペリン伯号にまつわる歴史資料など。各時代の政治家や、文化人、軍人など著名人をもてなしてきた「霞月楼」が収集し継承してきた。

画家・俳人として活躍した小川芋銭が、1934(昭和9)年に霞月楼に残したとされる「浮れ舟」(霞月楼所蔵)

美術作品では土浦や茨城にゆかりある作家の作品を多く展示する。歴史資料は海軍航空隊の存在が土浦を内外に強く印象付けたことが分かるもので、大正から昭和初期の時代性を見ることができる。ツェッペリン伯号については写真パネルのほか大型模型なども展示する。

屋台村をコラボ開催

トークセッションが開催される29日にはコラボ企画としてアルカス土浦前の広場で屋台村も開かれ、もつ煮込みやスイーツ、ドリンクなどのほか、かつてツェッペリン伯号乗組員にふるまったカレーを現代風にアレンジした「土浦ツェッペリンカレー」を販売する。イオンモール土浦の未来屋書店土浦店も出店し、高野さんと清水さんの著書販売やサイン会を行う予定だ。(田中めぐみ)

◆高野史緒さんと清水亮さんのトークセッション「ツェッペリン伯号と湖都・土浦を語る」は、土浦市民ギャラリー(アルカス土浦1階、同市大和町)で、9月29日(日)午後1時から午後3時。入場無料。車で来場の際は駐車場が最大2時間無料。(図書館、または市民ギャラリー受付で確認印が必要)

◆「霞月楼所蔵品展」は土浦市民ギャラリーで、9月24日(火)から29日(日)午前10時から午後6時まで(初日は午後1時から開場)。入場無料。

原発の話題、問題が相次ぐこの頃《邑から日本を見る》167

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水戸市で開かれた反原発集会

【コラム・先﨑千尋】このところ原発に関するニュースが相次いでいる。8月22日、東京電力福島第一原発2号機の溶融核燃料(デブリ)取り出しは、準備の初歩的なミスで中断した。翌23日には日本原子力発電(原電)が、東海第二原発(東海村)の安全対策工事の完了時期を2026年12月に延期すると発表した。28日には原子力規制委員会が定例会合で、原電敦賀原発2号機(福井県)が原発の新規制基準に適合せず、再稼働の条件とする審査は不合格とする「審査書」の案を了承した。

一方、24日には、東海第二原発の再稼働に反対する「STOP!東海第二原発の再稼働 いばらき大集会」が水戸市の駿優教育会館で開かれ、約600人(主催者発表)が参加した。

福島第一原発の燃料デブリ試験的取り出しは、廃炉作業の中で最も重要で最難関な局面。報道によれば、燃料デブリを取り出す装置の5つあるパイプの順番が違っていたとのこと。約1カ月前から現場に置かれていたが、誰も気づかなかったそうだ。

問題なのは、現場には東電の社員が誰もいなかったことだ。工事は三菱重工が請け負っているが、おそらく下請けに任せきりで、担当者は現場を見ていなかったのだろう。原子力規制庁や県の職員が現場に常駐していても誰も気づかなかったという。信じられない初歩的な誤りだ。こんな会社が新潟で柏崎刈羽原発の再稼働をもくろんでいる。

原電の隠蔽体質が問題

東海第二原発の防潮堤施工不良はどうなるのだろうか。

この問題は、昨年春に工事に従事していた人がずさんな工事に憤り、共産党に情報を提供したために明るみに出た。コンクリートの充填不足や鉄筋のゆがみなどを原電が公表したのは昨年10月。その間に現地を視察した東海村議や周辺6市村の首長に説明しなかった。共産党が記者会見で発表するという直前に公表した。

原電は原子力規制庁に対し、防潮堤の基礎を残したまま、鋼板や鉄骨による基礎内部の強化や周辺地盤の液状化を防ぐ薬剤注入などを組み合わせて強度を確保するとしているが、原子力規制委員会がこれを認めるか否かは現時点では分からない。周辺首長は、公表が遅すぎると原電の対応を批判している。

原子力規制委員会が、敦賀原発2号機の原子炉建屋直下に活断層が通っている可能性があるとして同原発は新規制基準に不適合としたことは、私たちから見れば当然と思えるが、原電は追加調査のデータで審査を再申請する考えのようで、再稼働をあきらめていない。

原電が再稼働に向けた審査を原子力規制委員会に申請したのは15年11月。地質データの書き換えや、資料に1000か所以上の誤りがあることが発覚し、審査は2度中断した。東海でも敦賀でもそうだが、原電の隠蔽体質は、東電と同様に、今でも変わっていない。

24日の集会では、賛同人の訴えと、石川県にある志賀原発の廃炉を訴えている北野進さんの講演があった。賛同人には、水戸、常陸、やさと、岩井などの農協組合長や、つくば、かすみがうら、美浦、茨城、城里の首長、生協、科学者、住職、日本有機農業研究会理事長など多彩なメンバーが名を連ね、壇上から東海第二の再稼働反対を訴えていた。(元瓜連町長)

200人が名画に酔い 「懐かシネマ」幕下ろす 水海道 宝来館跡地

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笑いあり涙ありの観客=7日、常総市水海道宝町の宝来館跡地

常総市水海道宝町にかつてあった映画館「宝来館」跡地で7日夜、第10回となる野外映画会「懐かシネマ」が開催された(9月4日付)。2014年から続いてきた催しも今回が最終回。主催者の東郷治久さんや羽富都史彰さん、神達岳志常総市長、俳優の山本學さんらのあいさつの後、山田洋次監督・高倉健主演の「幸福の黄色いハンカチ」が上映され、約200人の観客が名画に酔いしれた。

「最後に値する素晴らしい映画だった」と東郷さん。「来場された皆さんから、かえって自分たちの方が元気をいただいた。このパワーを次の世代へ渡さなくては」と羽富さん。

オープニングセレモニーで、神達市長(左端)から花束を受け取る(右から)東郷さん、井桁さん、羽富さん

40年越しのサプライズも

最後にサプライズもあった。1983(昭和58)年の宝来館取り壊しの際、同館に寄せる思いのたけをつづり、新聞折り込みチラシで7000枚を配布した人がいた。ずっと名前を秘し続けてきたその人が、今回ついに明らかになった。

その人とは岩見印刷(水海道橋本町)社長の岩見昌光さん(70)。当時30歳で、「映画館という一つの文化が水海道から消える。そのことに市民の皆さんに思いを馳せてほしかった」との意図だったそうだ。これには東郷さんも「宝来館を閉めることは両親も残念に思っていただけに、あのチラシを見たときは本当に喜んでいた」と、万感の思いがこみ上げていた。

会場周辺は多くの市民らで賑わった

「宝来館は私の原点」

発起人の一人の井桁豊さん(89歳)は「私は水海道生まれ宝来館育ち。絵と映画が好きだから映画看板絵師を続けてこられた。いろいろあったが苦労とは思わなかった」と、宝来館での日々を振り返った。

井桁さんは1939(昭和9)年生まれ。中学卒業と同時に宝来館に勤め、映画看板の修業を始めた。「中学校の先生が『絵がすごくうまい子がいる』と推薦してくれた。宝来館でも描き手を探していたところで、当時好きだったスタルヒン(巨人軍などで活躍したプロ野球投手)の絵を見せて一発合格だった」

当時の上映は3本立てで週替わり、短いときは3日で替わることもあり、絵を入れている余裕がなく、文字ばかりの看板のときも多かった。看板以外の仕事では、近くの町の倉庫などにフィルムと映写機を運び込み、出張上映会を開くこともあったという。

井桁さん

20歳のとき修業のため上京。赤羽東映やオリンピアなどの映画館で住み込みで働く一方、当時映画街として栄えた浅草六区や日比谷の看板を見て回り、腕を磨いた。「四谷にあった映画看板専門の会社でアルバイトもした。背景はほかの人に任せて人物だけを描いた。顔を描ける人は少なかったので、忙しいときは徹夜続きだった」

映画会社からはチラシなどの宣伝材料は来るが、それを基にどう描くかは絵師のセンスの見せどころ。フィルムが白黒であっても看板では頭の中で色を補ってカラーで描く。井桁さんはほかの人が5色で描くところを10色以上も使い、遠くからでも目を引くよう立体的に、躍動感あるタッチで描いた。

東京では15年ほど映画看板を描き続けたが、テレビの普及などもあって仕事が減少。谷田部町(現つくば市)に家を建て、商業看板のほか賞状など筆耕の仕事をなりわいとしながら、シネフォーラムつちうらなどの映画看板も描き続けた。

2014年に「懐かシネマ」の活動を東郷治久さん、羽富都史彰さんと共に始めたのは「宝来館は自分の出発点。その原点の姿を残したい」との思いもあった。土浦やつくばでの個展では、自身の描いた映画のポスター絵や、スター俳優のポートレートなども展示。次回開催は来年4月、つくば山水亭(つくば市小野崎)で予定しているそうだ。(池田充雄)

中村哲医師写真展 13日からつくばで 元JICA職員「遺志継ぎ国際支援の考え広めたい」

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アフガニスタンで活動中の中村哲医師(ペシャワール会提供)

女性の人権考えるトークセッションも

パキスタンやアフガニスタンの人道支援に従事し、2019年に銃撃を受けて亡くなった医師、中村哲さんの活動を紹介する写真展が、13日から16日まで、つくば市高野台、国際協力機構(JICA)筑波センターで開かれる。写真パネル50点を展示し、中村さんの活動を伝えるDVDの映写も行う。15日にはアフガニスタンと日本の女性の人権について考えるトークセッションやアフガニスタンの弦楽器ラバーブの演奏会も開かれる。

主催するのは「中村哲医師を偲び思索と活動に学ぶつくば市民の会」代表で、元JACA職員の渡辺正幸さん(85)。2022年から同展を始め、今年で3回目の開催となる。渡辺さんはパキスタンで人道支援プロジェクトに携わった経験を持つ。中村さんの遺志を継ぎ、パキスタンでの支援活動を継続する国際NGO「ペシャワール会」を支え、つくば市民に国際支援の考えを広めたいと話す。

写真展開催の思いを語る渡辺正幸さん=つくば市内の自宅

羊の寄生虫駆除から

渡辺さんは1995年から5年間、JICA職員としてパンジャーブ州ドーリ村で支援活動を行った。中村哲さんが活動していた場所から600キロほど離れた、アフガニスタンとの国境近くだ。

ドーリ村の人々に最初に対面した時、人々は銃を携えていた。植物の生えない石と岩だけの谷川沿いの村では、羊が現金と同じ価値を持っており、狭い土地で過剰な羊を放牧していた。牧草が無くなると他の部族の牧草地を奪い、部族同士の争いが絶えない状況だった。そこで渡辺さんらプロジェクトチームは羊の消化管に寄生する寄生虫の駆除薬を投薬することから始め、徐々に村人たちの信頼を得た。牧草地を3つに分割し、羊を入れず牧草を育てる場所を設けてローテーションで放牧する技術や、芋やレモンなどの栽培方法も教えた。

ひどい扱いを受けていた女性の支援にも乗り出した。「女性は雑巾と同じ扱い。人権が無く、女性には教育もしない、病気になっても病院に連れて行かない。死んでもいくらでも替えが効くという考え。そこで(中村さんが現地代表を務めていた)ペシャワールからぼろきれをもらってきて洗って雑巾を縫うということを教えた」。女性たちが作った雑巾が売れるようになり、小金を稼げるようになると、男性が女性を見る目も変わってきたのを感じたという。

村長から「支援を継続」を申し出

5年間のプロジェクトが終わるころ、現地の村長ら10人からプロジェクトチームのメンバーに会いたいと申し出があった。申し出に応じ会場に赴くと、渡辺さんらが現地入りした時には銃を携えていた村人が、その時は誰も銃を持っていなかった。ドーリ村の村長自身も「銃を持たずに村境を超えることがあるのは初めてだ」と驚いた。話は「プロジェクトを続け、隣の村にも支援をしてほしい」という内容だった。武力には武力でという行動原理を、信頼関係を築くことで変えられたことは、渡辺さんにとって大きな経験だった。支援の継続は一存では決められず、日本に持ち帰った。しかし1998年にインド、パキスタンが地下核実験を行い、核兵器の保有を宣言したことから、核不拡散の立場を取る日本政府からは新規の支援協力ができなくなってしまった。

パキスタンやアフガニスタンで人道支援活動をしていたときの渡辺さん(左)とドーリ村の村長(中央)=渡辺さん提供

その後、中村哲さんの著作を読み、自分の体験と重なる所が多いと感じた渡辺さん。「撃たれても撃ち返すな。撃ち合いにしたら話ができなくなる」と言い、話し合いで相互信頼関係を築くことを貫いた中村さんに共感し、「力で欲望を満たす、より大きな武力を持つことが敵対する力の抑止になるという歴史がある。それを逆転させる考えを広めたい」と、2年前から中村さんの写真展企画を始めた。

戦争体験が原点に

国際人道支援への関心は、渡辺さん自身の戦争体験が原点にある。渡辺さんは満州生まれで、7歳の時に日本に帰還した。6歳の時に生まれた弟がおり、背に負ってよく世話をしていた。しかし、生まれたばかりの弟は日本に引き揚げた直後に亡くなってしまった。

「1946年8月、満州からの引き揚げ船で広島に到着し、船から降りてDDT(白い粉の殺虫剤)をかけられて払い落し、もう殺される心配はないと安堵(あんど)した時、弟は飢餓で亡くなった」。少年がぐったりとした幼児を背負い、まっすぐ立っている様子を撮影した写真「焼き場に立つ少年」を示し、「この少年は私そのものだ」と話す渡辺さん。「焼き場に立つ少年」は、アメリカの写真家ジョー・オダネル氏が撮影し、長崎原爆資料館に展示されているものだ。同じような悲劇が当時数多くあったと話す。「貧困が戦争につながる。安心して食べられる社会、不自由になっても助け合う仕組みを作り、戦争の恐怖、家族を失う悲しみをもう二度と繰り返してはいけない。そのためには平和を望む人々の声が大きくならなければならない。若い人たちに展示を見てそのことを考えてほしい」と語り、写真展への来場を呼びかける。(田中めぐみ)

◆中村哲医師写真展「アフガニスタンにあと50人の中村哲さんが居れば世界が変わる」は9月13日(金)から16日(月)、つくば市高野台3-6-6、国際協力機構(JICA)筑波センターで開催。開催時間は全日午前10時から午後4時まで。15日(日)午後1時からは、ラバーブ演奏と「女性と人権―アフガニスタンと日本―」のトークセッションが行われる。入場無料。主催は「中村哲医師を偲び思索と活動に学ぶつくば市民の会」。

健康寿命のこと《ハチドリ暮らし》41

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写真は筆者

【コラム・山口京子】母の介護サービスを通所から入所に切り替えて半年が過ぎました。家族が同居していれば家で暮らすこともできたのでしょうが、1人暮らしは不安が多く、私たち子どもの方から入所を勧め、納得してもらいました。

母は、施設や職員の様子、食事のこと、介護されている人との会話などを、よく話してくれます。施設に入所している人の年齢は90代が9割近くで、通所している人は80代後半の人が多いそうです。重い病気やケガで、70代で介護サービスを利用している人がいるものの、多くは90代だと。 

その話を聞きながら、疑問に感じたことがあります。それは健康寿命についてでした。平均寿命(男性81歳、女性87歳)に比べ、健康寿命は、男性が9年、女性は12年の差があります。男性なら72歳を過ぎ、女性なら75歳を過ぎたあたりから、介護のお世話になるのかしらと漠然としたイメージを持っていました。

しかし、本当に介護が必要になるのは、個人差があるので一概には言えないものの、80歳後半からではないかと…。

平均自立期間

健康寿命がどうやって割り出されているかを調べてみると、厚生労働省が行っている「国民生活基礎調査」の「あなたは現在、健康上の問題で日常生活に何か影響がありますか」の問いに対して「ある」と回答すれば不健康、「ない」と回答すれば健康として扱い計算するということでした。

健康上の問題で日常生活に影響がある程度をどのように意識するかは自己申告のため、主観の要素が高いのではないかと感じました。また、健康上の問題があると意識しても、どうにか普通に生活できる期間は一定の年数あるのではないかと。

健康寿命を割り出す方法も複数あるようです。たとえば、国民健康保険中央会では、「日常生活動作が自立している期間の平均」を指標とした健康寿命を算出し、「平均自立期間」と呼んでいます。介護受給者台帳の「要介護 2以上」を「不健康」と定義して、毎年度算出していて、直近では、男性は79.7歳、女性は84歳でした。要介護2以上と認定されている人は、約350万人と言われています。 

高齢期は、普通の暮らしから、虚弱の状態へ、そして介護が必要になる道行なのかもしれません。厚生労働省のデータでは、要介護認定を受けた人が約700万人で、実際にサービスを受けている人が約590万人となっています。

今年は夏の暑さで外出を控えることが多かったのですが、体調を意識しつつ、できることをしながら、同時に老いを受け入れていければと思います。(消費生活アドバイザー)

9日控訴審始まる 鬼怒川水害訴訟 住民、国の河川管理の在り方問う

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原告団共同代表の高橋敏明さん

2015年9月の鬼怒川水害で、常総市の住民が甚大な被害に遭ったのは国交省の河川管理に落ち度があったためだなどとして、同市住民が国を相手取って約3億5800万円の損害賠償を求めた国家賠償訴訟の控訴審が9日、東京高裁で始まる。

一審では、鬼怒川沿いで堤防の役目を果たしていた砂丘の管理方法、堤防改修の優先順位の妥当性などが争われた。2022年7月水戸地裁は、国の河川管理の落ち度を一部認め、国に対し、原告住民32人のうち9人に約3900万円の損害賠償を支払うよう命じる判決を出した(2023年7月22日付)。原告住民20人と被告の国の双方が控訴していた。

「水害は人災だった」

原告住民らによる説明会。原告と支援者ら8人が説明に立った

控訴審を前に2日、原告住民ら8人による説明会が常総市内で開かれた。原告団の共同代表を務める高橋敏明さん(70)は「水害は、国が対策を怠ってきたことによる人災」と厳しく批判した。

高橋さんは同市内で、観賞用の花や植物を扱う花き園芸会社を営んできた。2015年の水害では16棟あった温室が高さ1メートルの泥水に浸かり解体を余儀なくされ、「我が子のように丹精込めて育ててきた」花や植物10万株が流出するなど被害を受けた。高橋さんは「この地域は砂丘が自然の堤防となっていた。今回の水害の前年、ソーラー発電業者が砂丘を掘削していたのを国交省は止めず、十分な補修もしなかった。砂丘が存在していたならば被害を抑えることができた。砂丘を守れなかったのが悔しい」と声を震わせた。

水害から5カ月後に死亡した妻が災害関連死に認定された赤羽武義さん(84)は「妻の死の原因がどこにあったのかをはっきりさせたい。国には誠意ある回答を求める」と訴えた。

堤防が決壊した跡地に石碑が建つ

鬼怒川水害では、豪雨により常総市内を流れる鬼怒川の堤防決壊や越水があり、市内の3分の1が浸水した。同市の被害は、災害関連死を含め死亡15人、住宅被害は全壊53軒、半壊5120軒、床上浸水193軒、床下浸水2508軒に及んだ。

2018年8月、同市若宮戸地区と上三坂地区の住民約30人が、被害を受けたのは国の河川管理の問題だとして国を相手取って損害賠償を求める訴訟を起こした。

一審で原告住民は①若宮戸地区で自然の堤防の役目を果たしていた砂丘林が、太陽光発電パネル設置のために採掘された場所は、国が「河川区域」に指定し開発を制限すべきだった。②上三坂地区で決壊した堤防は、堤防の高さが低く他の地区に優先して改修すべきだったのに、国はそれぞれ対応を怠ったことが水害につながったなどと主張した。

水戸地裁は、若宮戸地区の砂丘が「(同地区の)治水安全度を維持する上で極めて重要であった」とし、国は砂丘を維持するために「河川区域として管理を行う必要があった」と国の責任を一部認める判決を出した。一方で、堤防が決壊した上三坂地区については、堤防の高さだけでなく、堤防幅も含めた評価を行う必要があるなどとし、「国の改修計画が格別不合理であるということはできない」などとして、住民の訴えを一部退けた。

一審判決についてで原告住民は「国の瑕疵(かし)を認めたことは歴史的」としながらも、敗訴した部分もあることから控訴していた。

一審で住民の訴えが退けられた上三坂地区の争点となっているのが、住民側が主張する、堤防改修の優先順位だ。住民側は決壊した堤防が、高さや幅が不十分な状態に置かれており、改修が後回しにされていたことが決壊につながったと主張した。

これに対し国は、堤防の高さと質を含めた機能評価として行った「スライドダウン評価」を根拠として反論した。

原告団共同代表の片岡一美さん(71)は「スライドダウン評価」では実際の治水安全度を正確に判断できないとして、判断基準の是非を問うことで「一審判決は間違いだったことを説明したい」とし、「国は国民の生命財産を守る意思がないと感じる。国には堤防の決壊を最優先で防ぐことを求める」と訴える。

控訴審の第1回口頭弁論は9日(月)午前10時半から東京高等裁判所101号法廷で開かれる。終了後、衆議院第2議員会館第2会議室で報告会が予定されている。(柴田大輔)

◆鬼怒川水害国家賠償訴訟の過去記事はこちら

いよいよ憧れの海辺暮らしか?《続・平熱日記》165

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絵は筆者

【コラム・斉藤裕之】毎週火曜日、この海辺の街では市が立つ。空き家になった建物などを利用して、街おこしのような形で始まったものらしい。だから、市ではなくて今風のマルシェと呼ばれている。

私は元金物店だったというジャンクショップをのぞくのが好きで、その日はライトグリーンに塗られた物干し用の金具を安価で手に入れた。それから、いつもは斜め向かいの店で柏(かしわ)餅を買って帰るのだが、あまりの暑さに喉を通らないような気がしてやめた。

ここは室積(むろづみ、コラム124参照)。かつては海の交通の要所として栄え、また美しい砂浜の海水浴場や陸系砂州として、教科書にも載る象鼻が岬(ぞうびがさき)で有名な街。

さて、マルシェを後にした私は以前たまたま見つけた半島の反対側にある小さな入り江に向かった。そこには地元の人しか知らないようなきれいな浜があって、そのときは恐らく近所の方だろうと思われる親子連れが波打ち際で遊んでいた。岸壁ではこれも地元の方だろう、3人ほどの釣り人。

どうやらサヨリを釣っているようだ。さて、そこから少し先にある小さな港まで行ってみようと思って車を走らせたそのとき、「売土地」と書かれた看板が目に入った。

気になって、少し戻って車から降りてみた。生い茂った庭木と古い平屋。入り江に面していて、先ほどのビーチやその先の海水浴場まで見渡せるまさに海辺の一軒家。そのときは「へー」という感じで、数枚の写真を撮ってその家を後にした。

青い空、白い雲、遠くの島々…

その日の夕食時。義妹の手によるカワハギの煮つけをつつきながら、「そういえば今日こんなのがあってさ…」。私は思い出して、スマホの画像を弟夫妻に見せた。「いいじゃん!」。話のネタとして披露したつもりだった私にとって、弟のこの反応は意外だった。

実は、弟もかねがね同様の物件をネットで探していて(弟の場合は主に日本海側、釣りのためのシーカヤックの拠点としてだが)、その弟が立地条件や建物、環境、それから価格を見て、お買い得物件だと言うではないか。

しかし、これまで無目的に住まいを移したことはない。勉強のため、仕事のため、家族のために、住む場所は必然的に決めざるを得なかった。果たして海のそばに住みたいというわがままは通用するのだろうか。

だが、ごく近い将来、日雇い先生も辞める日が来たとき、果たして私は何をして過ごすのだろう。そう思うと、この海辺のボロ屋がユートピアに思えてくる。ここを好きなように直しながら暮らしたいと思った。

数日後、私と弟は件(くだん)の売り家の前の浜にいた。この夏新調したという弟のシーカヤックの進水式。初心者の私は、一応の説明を受けて海へと漕(こ)ぎ出した。穏やかで透き通った瀬戸内海。いつまでもギラギラしている今年の太陽も、この時ばかりは心地よく感じられた。パドルの使い方も何となく分かってきた。

テトラポットを超えて私は漕ぐのをやめて周りを眺めた。青い空、白い雲、遠くの島々、砂浜に松原。そして、すぐそこに売り家が見える。瀬戸内の海は鏡のように穏やかだが、私の心の中にはさざ波が立っていた。どうする、俺!(画家)

市長、管理職らに対し損害額の返還勧告を 生活保護行政の不適正めぐり監査請求 つくば市

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6日開かれたつくば市監査委員会。左端(後ろ向き)は陳述した市職員

市職員が陳述し告発

生活保護行政をめぐり、つくば市で不適正な事務処理が相次いでいる問題で、市が7月と8月に公表した生活保護受給者に対する生活保護費の過払い(7月20日付)と、国に請求するのを怠った生活保護費の過支給による徴収不能(8月21日付)による市の損害額計約3842万円は違法、不当な支出だなどとして、市長や歴代管理職が同額を市に返還するよう勧告を出すことを求める監査請求が市監査委員に出された。

昨年まで生活保護業務を担当し、市議会に生活保護行政の適正化を求める請願を出した(9月3日付)市男性職員(39)が6日、請求者代理人として陳述し、不適正事務の原因は、市が発表しているような管理職の認識不足などではなく、ずさんな債権管理と、生活保護費の誤った支給が発覚するのを恐れた管理職の故意、重過失が原因だなどと告発した。監査請求は7月29日、元市議の塚本武志さんが市監査委員に出し、市職員が請求者代理人として陳述した。9月27日監査結果が出される。

返還を求めた3842万円は、生活保護受給者30人に対する生活保護費の過払い約1481万円と、国に請求するのを怠ったなど生活保護費の過支給による徴収不能分約2361万円を合計した市の損害分。

市職員の陳述によると、法定受託事務である生活保護は、法令や実施要領、運営要領などが書かれた生活保護手帳や同問答集に基づいて支給されるべきだが、3842万円については法的根拠を欠いたまま支給された。

原因について市の発表では「制度に対する解釈や認識を誤り監督職員もチェックができていなかった」「管理職の認識が不足し問題視されなかった」などとされているが、市職員は「不適正な支給をするための明確な指示があった」「(担当課内部で)複数のケースワーカーから指摘や改善の訴えもあったにもかかわらず繰り返しており、もはや故意、重過失だ」などとしている。

特に障害がある人に一定額が上乗せされる障害者加算の誤認定については、2019年に会計検査院から指摘を受け、当時、誤認定は11件だったが、今年の発表では22件に増えているとしている。

さらに、長きにわたって不適正な状況にあったにもかかわらず発覚しなかった原因について市職員は「各種監査で虚偽の報告をしてきたから」だとしている。

その上で「(残業代未払いなど)働いても給与がもらえない環境、(市職員が)暴行を受けても自分で身を守るしかない環境、法的正当性より管理職の感覚が勝つ環境、不適正を指摘すると村八分にされる環境、そういった一連の労務環境が不適正事案を生んだ」として、「今後同じ過ちを繰り返さないため(監査請求が)適正化の端緒となってほしい」などとしている。(鈴木宏子)

懸案の土浦スマートIC 国交省が設置にゴー・サイン

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土浦スマートICの位置図(国交省のプレスリリースより引用)

土浦市は6日、常磐自動車道の桜土浦IC(インターチェンジ)と土浦北ICの間に「土浦スマートIC」(仮称)を設置する事業について、国土交通省から正式に事業許可が出たと発表した。このスマートICが設置される場所は、つくば市との境の常磐自動車道と土浦学園線が交差する土浦市宍塚エリアになる。

国交省は発表文の中で、①高速道路と「土浦駅・つくば駅」の中心市街地とのアクセスでは、渋滞箇所を回避したアクセスが可能になり、所要時間が短縮し、住民の利便性向上および事業者の生産性向上に寄与する、②高速道路から物流施設が立地するつくば市中根金田台地区や土浦市上高津への所要時間が短縮する―と、新スマートICの利便性を指摘した。

土浦スマートICは、土浦北ICの南4.2キロ、桜土浦ICの北3.7キロの場所に設置される。開通すれば、水戸方面からつくば駅への所要時間は約12分、東京方面から土浦駅への同時間は約2分、常磐道から中根金田台地区への同時間は約18分、常磐道から土浦市上高津地区への同時間は約5分、それぞれ短縮される―と、国交省は試算している。

アクセス道路整備は土浦、つくば両市が負担

土浦スマートICを設置する費用は東日本高速道路が負担するが、同ICへのアクセス道路整備などは地元の土浦市とつくば市が負担する。

設置を国と高速道路会社に働きかけてきた土浦市と、土浦市よりも利便性を享受するつくば市との間で今後、整備費用の分担について協議する。土浦市の担当者は「これから用地交渉に入ることになるが、いつ開通するか、どのくらい予算が必要かなどは、現時点では計算できない」と述べた。

土浦市の安藤真理子市長は「これまで土浦スマートICの設置に向けて、各関係機関と調査検討を進めてきたが、このたび、新規事業化が決定された。ご尽力いただいた各関係機関の皆さまに厚く御礼申し上げる」とのコメントを発表した。土浦市は今年度、土浦スマートIC調査委託費として3070万の予算を計上している。

県内ではほかに、常磐自動車道柏ICと谷和原ICの間の守谷サービスエリアに設置する守谷サービスエリアスマートIC(仮称)も同日、国交省から事業許可が出された。(岩田大志)

「土浦道中絵図」展覧にウオーキングも 7日から市立博物館

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「土浦道中絵図」の一部。桜川から新川間の土浦城下部分(土浦市立博物館提供)。下段にNEWSつくばが地名等を付記した

土浦市立博物館(同市中央)は7日から、テーマ展「土浦道中絵図-描かれた水戸道中」を開催する。市指定文化財で土浦藩主が描いた「土浦道中絵図」が公開されるのをはじめ約40点が紹介される。10月20日までの会期中、道中絵図周辺の史跡をめぐる城下町ウオーキングなどのイベントも予定されている。

展示のメーンとなる「土浦道中絵図」は、江戸時代中期の1758年に土浦藩主、土屋篤直(土屋家4代、1732~76年)によって描かれた。千住宿(東京都足立区)から中貫宿(土浦市中貫)までの道程や周辺の様相を細かに描写した。現在の旧水戸街道の行程で約60キロあるが、絵図のサイズは長さ約18メートル、幅25センチ。蛇腹状に折りたたんで閲覧時に広げる「折り本」という形式で作られている。

道中絵図の公開は、同館の開館(1988年)時以来36年ぶりとなる。同市内の個人が所蔵していたが、今年同市が購入し市立博物館に収蔵されることになった。

江戸時代、土浦の城下町やその周辺地域は、水陸交通の要衝として繁栄した。陸路の中でも多くの往来があったのが「水戸道中」で、江戸から土浦を経て水戸へつながる三十里十四町(約119キロ)の道のり。江戸時代前期には整備されたと考えられており、記録では道中に18の宿駅があったとされる。

展覧会では、「土浦道中絵図」を通して18世紀中頃の水戸道中の姿を紹介するとともに、この道の機能や通行を支えた人々や地域の様相にも迫る。展示はほかに「常州土浦城図」(県指定文化財)、「水戸様御入国之図」(土浦市指定文化財)など博物館所蔵史料を中心に約40点の紹介となる。

博物館の西口正隆学芸員は「道中図は観光協会の印刷物などさまざまにビジュアル化されてきたが今回は現物そのもの。土浦城下町の南門から北門にかけての描写など細かなところを見てほしい」と語る。(相澤冬樹)

◆「土浦道中絵図-描かれた水戸道中」会期中のイベントは次のとおり。①記念講演会「描かれた水戸道中」=28日(土)午後1時30分~講師・小口康仁さん(学習院大学文学部哲学科助教)②城下町ウオーキング=10月13日(日)午前10時~水戸道中に関する史跡を巡り学芸員が解説。①②とも10日から電話(029-824-2928)で申し込み受付。➂ギャラリートーク=7日(土)・16日(月・敬老の日)・10月20日(日)午前と午後の2回、テーマ展の見どころを担当学芸員が解説(事前予約不要)。問い合わせは電話029-824-2928(土浦市立博物館)。

日本人にとって遺影とは何か?《看取り医者は見た!》26

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写真は筆者

【コラム・平野国美】昭和、平成、令和と時代が変わっていく中で、住まいの形も変わっていくのを感じます。仕事で診療先の家を回っていると、その文化的様式が変わっていくのがわかります。現代住宅から消えつつあるものとして、神棚と仏壇があります。あったとしても昔のような仏間にある巨大な物でなく、コンパクト化された家具のようなデザインです。

注目しているのは遺影が消えていることです。昔、母親の実家に泊まりに行くと、名前も知らぬ5代も前の先祖の遺影ににらまれ、怖くてなかなか寝付けなかった記憶があります。つくば市の伝統的な地区に入ると、遺影が残されており、見ていると興味深いものです。

今、目の前にいる患者さんと先祖の顔を見比べて、似ているなと思ったり、ある時から、その顔が写真に変わったりと、時代の変遷を味わえるのです。

ご家族の話で、つくば市のある地区に遺影画家がおり、描いてもらったという話を聞いたことがあります。ある日お会いした患者さんは、その伝説の遺影画家でした。得意な分野は肖像画であり、4000件を超える遺影を描かれたそうです。

いろいろ調べてみると、遺影は元々、江戸後期から幕末にかけて存在した「死絵(しにえ)」に起源があるそうです。死絵とは、歌舞伎役者などが亡くなった際に描かれた似顔絵で、絵巻物だったようです。そこから、日清戦争、日露戦争、太平洋戦争を通して、出征する兵士の写真がそれに変わっていったようです。

霊性や霊魂を意識

私の患者さんが逝去された際、ご家族が遺影はいらないと言っていたことがありました。いろいろ複雑な思いがあったようですが、「何かがないと会葬者がどこに手を合わせていいのかわからず困る」と葬儀屋さんがご家族を説得し、遺影を用意してもらいました。

他国では、葬儀に遺影がない場合、ある場合があるようですが、葬儀後も部屋に飾る習慣は日本だけかもしれません。米国のドラマを見ていると、部屋に故人の写真が飾られていますが、それは宗教的なものというよりも「メモリー」の写真のようです。

遺影について、日本人の根底に何か共通する概念があると思います。今、何代も前の遺影を壁から外しても、それを廃棄できない我々日本人を多く見ます。単なる写真や絵として扱えないので、部屋の片隅に保存されているのです。

日本の遺影には何があるのか? 遺影は故人をしのぶための肖像画や写真であると同時に、霊性や霊魂を意識しているのではないでしょうか。日本的アニミズムに根差していると思うのです。日本人の八百万(やおよろず)の神という概念は、生物だけでなく、無生物にも霊魂が宿ると考えます。令和の時代にも、これが意識として残っているような気がするのです。(訪問診療医師)

寄付金30万円でペア席など 特別観覧席を初設置 土浦全国花火競技大会

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特設観覧席が設けられる土浦市の桜川河川敷 有料観覧席設置予定地

土浦全国花火競技大会実行委員会(委員長・安藤真理子土浦市長)は、11月2日に土浦市の桜川河川敷で開催する第93回大会で、初の特別観覧席を用意する。専用のテーブルとリクライニング椅子が設置され、花火鑑賞師による解説が付くなど個別のサービスを充実させた特別席となる。93回目で初めての試みとなる。

ふるさと納税とツアーで

特別席は、花火打ち上げ場を正面に見る桜川を挟んだ対岸の、桟敷席などがある有料観覧席の一角に設ける。各席に一つずつの小型テーブルとリクライニング椅子のほか、トイレも特別観覧席エリア内専用の仮設トイレを用意する。エリア内に設置するブースでは、「大曲の花火」で知られる秋田県大仙市のNPO大曲花火倶楽部が認定する「花火鑑賞士」による実況解説を、イヤフォンガイドで聴くことができる。鑑賞師は日本花火鑑賞師協会から派遣される予定で、特別観覧席でのみ聞くことができるサービスだ。

座席は、土浦市がふるさと納税の返礼品として36席用意するほか、旅行代理店のJTBロイヤルロード銀座が10席、三越伊勢丹ニッコウトラベルが16席をそれぞれツアーに組み込む形で取り扱う。合わせて62席まで設ける予定だ。

ふるさと納税では、寄付額30万円に対してペア席を18組(36人席)まで用意する。JTBロイヤルロード銀座は、55人乗りの大型バスを全席独立型の10席限定に改装した特別バス「ロイヤルロードプレミアム」で東京を出発し、花火大会とともに牛久シャトーや菊まつりが行われる笠間稲荷神社を周遊する1泊2日のツアーを販売する。三越伊勢丹ニッコウトラベルは、東京から特別バスで花火大会当日に土浦に向かい、花火観覧後は東京に戻り帝国ホテル東京に宿泊するプランを用意する。ツアー料金は、JTBロイヤルロード銀座が2人1室49万円、1人1室54万円、三越伊勢丹ニッコウトラベルは2人1室23万8000円、1人1室28万8000円。料金はいずれも消費税込み。

土浦市の担当課は「コロナ禍が明けて外出の機会が増え、旅先で特別感を味わいたいという希望が増えている。こうした中、土浦市でもその声に応えるための試みとして、今回、特別観覧席を初めて試験的に用意した。当日、来場される方の声を聞いて来年度以降の取り組みに反映させたい。この機会に是非、多くの方に申し込んでいただければ」と呼び掛ける。

一方、一般の桟敷席、椅子席による有料観覧席は事前申し込みにより抽選で販売している。申し込み期間が8月26日から9月22日まで。27日に当選が発表される。(柴田大輔)

◆特別観覧席は専用ホームページか電話で申し込む。①ふるさと納税返礼品は、さとふる楽天ふるさと納税ふるさとチョイスの各ホームページへ。②JTBロイヤルロード銀座の申し込み用ホームページはこちら、電話は03-6731-7690へ。➂三越伊勢丹ニッコウトラベルの申し込み用ホームページはこちら、電話は03-3274-5272(国内旅行窓口)または03-3274-6493(クルーズ旅行窓口)へ。

◆一般の観覧席、椅子席の申し込みはチケットぴあへ。

◆問い合わせは電話029-826-1111(同市役所)商工観光課花火のまち推進室へ。花火大会に関する情報は土浦全国花火競技大会の特設ホームページへ。

本好きが作る、街と人をつなげるフリーペーパー「ほんとこ」 土浦

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「ほんとこ」の編集会議

土浦市内の喫茶店などの個人店を取材し、お店にまつわるひと物語をつづるフリーペーパー「本と珈琲と土浦」(通称『ほんとこ』、A5判 4ページ)の第3号が6月に発行された。作るのは、職業、年代もさまざまな、「本と珈琲と土浦が好き」だという思いでつながる市民たち。広がる人の輪で、土浦の隠れた魅力を軽やかに掘り起こす。

「『ほんとこ見たよ』というお客さんがお店に来てくれたと聞いて、私もつなげられたんだなと思って本当にうれしかった」と声を弾ませるのは、第2号に記事を書いた大学生の田畑千芙実さん(20)。土浦市桜町の喫茶店「カフェ デ ポロン」の店主・林盛健さんをインタビューした。学校以外で人に見せる文章を書くのは初めてだったと言い、「人と話すのはあまり得意じゃないがマスターの話を聞くのは楽しかった」と振り返る。

「ほんとこ」は、参加する人たちが手配りで広げている

参加者は学生、主婦、会社員にユーチューバー

「ほんとこ」は、同市中央の古民家を改築したカフェ、城藤茶店で毎月1回開かれる読書会に集まる本好きが作る。読書会の後、各々が気になる話題を持ちより編集会議が開かれる。参加するのは10代から50~60代までの男女15人ほど。学生、主婦、会社員、ユーチューバーなど背景や職業もさまざまだ。土浦出身者もいるし、近年土浦に越してきた人からは「土浦に関わってみたかった」「地元の方と知り合う機会になっている」などの声が聞こえてくる。

「読書会」では、最近読んだお薦めの本をそれぞれが持ち寄り、その本の魅力を一人一人語っていく。小説、漫画、ノンフィクション、ファッション雑誌など決まりはない。7月20日の読書会に参加した市内在住の増山創太さん(25)は5回目の参加になる。「僕は音楽が好きなので、本もいつも音楽関係だが、ここでは自分が普段読まない本に出合うことができる」と魅力を語る。

読書会には、参加者がさまざまなジャンルの本を持ち寄る

読書会の盛り上がりをそのまま引き継ぎ編集会議が始まる。先日は、市内で40年以上、子供文庫を続ける同市中央の「奥井薬局」をメンバー7人で取材した。今年3月には、会議での書物談義がきっかけになり亀城公園隣の商業施設・公園ビルで2日間の古本市開催につながった。

もともと本が好きで書店員をしていたという田中優衣さん(25)は、4カ月前に兵庫から土浦に越してきた。「ひょんなことで全然知らない土浦に越してきた。知り合いもいなくて寂しかったけれど、本でつながる『ほんとこ』のメンバーを通じて土浦を知ることができている。私にとって土浦が居場所になりつつある」と話す。

ちょっと土浦が好きになってきた

「ほんとこ」作りのきっかけは、2022年に城藤茶店で開かれた「まちづくりとデザイン」がテーマの市民向け講座。そこで意気投合した4人が立ち上げメンバーだ。その1人の葛西紘子さんは「土浦で話を聞きたい人に会い、好きな話が聞ければと思ったのが始まり。みんなで聞いた話を共有しようと思った」と言い、同じく立ち上げから参加する稲葉茂文さん(35)は「土浦は個人店が多い町。今聞かないとなくなってしまう」という危機感もあったと言い、「『ほんとこ』は作るのも楽しいが、月1回の読書会が何よりの楽しみ。本の話をするのって、なかなか会社ではできないですからね」と思いを語る。

読書会と編集会議が開かれている城藤茶店

1000部から始まった発行部数も回を重ねるたびに増え、第3号は1700部になった。配布先は、メンバーが足を使い、手渡しで広げている。当初はタイトルに沿って土浦市内の書店や喫茶店から始まったが、今ではつくば市やかすみがうら市など周辺地域にも広がり、土浦市内約40カ所、つくば市内約10カ所など県内計約60カ所に設置されている。「配るのをきっかけに店の人と仲良くなるのが楽しみ」という言葉を聞くようになり、その甲斐もあって「街で『ほんとこ』を見つけたのをきっかけに、夫を誘って読書会に参加するようになった」と言う女性や、「カフェに行くと『ほんとこ』がいろんなところにあって気になった」と話す人など、参加する人の輪がますます広がっている。

「土浦に戻って3年目」だと話す市内出身の稲葉さんは、もともと本が好きで、都内で古本屋を営み仲間やお客さんと同人誌を作ったり読書会を開いたりしていたという。その後、紆余曲折を経て戻った故郷での出会いをきっかけに「ほんとこ」に参加した。「以前は自分でこういう場をつくろうとしていました。こういう活動が好きなんです。色々な出会いがあって、生かされているなと思っている。ちょっと土浦が好きになってきたのかもしれません」と微笑む。

「ほんとこ」は、取材した記事のほかに、メンバーによるコラムなど4~5本の記事が掲載されている。デザインや編集作業などは、メンバーが得意な分野を生かしてボランティアで実施している。立ち上げメンバーの葛西さんは「『ほんとこ』は情報発信が目的ではなく、制作メンバーや設置したお店が、『ほんとこ』を介して人との交流をして欲しいという意図がある。読書会も含めて自分たちが楽しむための活動なので、やりたい人同士で、やれることだけでやっていこうと思っている。もちろん、興味がある方の参加はいつでも大歓迎」と話す。

タイトル名の由来は「本が好きな人はコーヒーも好きでしょう?という緩いものだった」という。「コーヒーを飲んでるときに、良い時間を過ごしながら土浦を知るきっかけになれば」と葛西さんは語る。

SNSでの情報発信が主流の世の中で、「縦書き」「紙媒体」にこだわるのは参加者たちの「本好き」としてのこだわりだ。現在は、半年に1回の発行だが、「いつか季刊にできれば」という思いも抱く。手紙を届けるように手渡しで広がる「ほんとこ」が、土浦の魅力を知らせてくれる。(柴田大輔)

本を積むということ《ことばのおはなし》73

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写真は筆者

【コラム・山口絹記】最近は家に本が届くことが多くなった。積み上げると私の肩のあたりまで届く有様(ありさま)で、正確な数は数えていないが、まったく困ったものである。

自然現象のように書いてみたが、なんてことはない。自分で買ったのだ。買ったとも。紙の書物は当分購入を控えると(ひとり勝手に何かに)誓っていたのだが、無理だったらしい。性懲りもなく定期的に禁煙宣言している方々とおおむね同類であり、ああ、またなんか言っているな、と思っていただいて差し支えない。

過去のコラムでも何度か書いたが、私は重度の活字依存症である。活字なら何でもよいと思っているフシがあり、一般的な書物はもちろんのこと、内容が理解できない技術書でも、やったこともないゲームの攻略本でも気が付くと読んでいる。依存対象がアルコールであったなら、メチルアルコールでも手を出す手合いだろう。見境だとか節操というものがどこにも見当たらない。

今日も2冊届いた

こういった私のような、いわゆる『患者』と呼ばれる人間には共通点がある。基本的に対象が自然発生したような物言いをするのだ。例えば、カメラの界隈(かいわい)における患者たちは、レンズが『生えてくる』と強く主張する。生えてくるものは仕方がなかろう、ということらしい。たけのこか何かなのだろうか。

書籍やゲームソフトの界隈では、『積む』という用語がもっぱら多用されるのが特徴だ。コレは一見主体としての人間が対象を『積んでいる』わけで、意識してやっているように思われるが、重要なのはかたくなに発生過程について言及していないことだろう。

つまり、我々はどこからともなく現れた書物という物質を積み上げているだけなのであって、たくさんあるものは積むしかないんだ、仕方ないではないか、と言っているのだ。そういう意味では、購入したことをハッキリと明記(というか自白)した私はかなり潔いと言えるだろう。

ついでに、この場を借りてひとつ言い訳をさせていただくと、今年の夏はバタバタと忙しく寝不足が続いていた。正直に申し上げて、これらの書籍を購入した記憶は判然とせず、この行為は責任能力が著しく低下していたことによるものと誰かに証明していただきたいのだが、本日も2冊書籍が届いた。どうやら余罪もありそうなのである。(言語研究者)

これにて打ち止め 7日、水海道 宝来館跡地で「第10回懐かシネマ」

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懐かシネマ実行委員会の東郷さん(右)と羽富都史彰さん。旧宝来館跡地には、元宝来館従業員で看板絵師の井桁豊さんが描いた映画看板が所狭しと飾られている

常総市水海道宝町でかつて賑わいを見せた映画館「宝来館」をしのぶ野外映画会「懐かシネマ」が7日、旧宝来館跡地で開かれる。2014年に始まり10回目を数える人気のイベントだったが、今回で惜しまれつつ千秋楽を迎える。

最初は2014年の水海道千姫まつりの前夜祭に、一夜限りの復活として行われた。翌年は常総水害の被害に遭った市民を勇気付けようと2度目の復活を果たした。その後は「また来年もやってほしい」という周囲の声に支えられ、「10回目までは何とか頑張ってみよう」と続けてきたという。

かつての宝来館の姿

「一つの切れ目として10回目はちょうどいい。『場所を移してでも続けられないか』という声もあるが、ここでやることに意義がある。昔の宝来館を覚えている人が少なくなってきたことも終える理由の一つ」と話すのは、懐かシネマ実行委員会会長の東郷治久さん。

東郷さんは料亭「つくば山水亭」や、テーマパーク「つくばわんわんランド」、日本語学校「日本つくば国際語学院」などを経営するサンスイグループの代表。宝来館跡地は自身の出生地でもある。父で東郷商店2代目の通行さんが、明治期に建てられた古い芝居小屋を買い取り、映画館に改装して1946(昭和21)年から始めたのが宝来館だった。「父が映写技師、母が木戸番を務め、母の背中には私が背負われ、膝元には姉がうたた寝をしていた」と創業のころを語る。

1950(昭和25)年ごろの記念写真。前列中央が両親で、母の膝に座るのが東郷治久さん。前列左端は井桁さん

当時、映画は娯楽の王様で、宝来館では水海道駅まで続く約1000人もの行列ができたという。その後、通行さんが経営する映画館は1958(昭和33)年までに県西・県南・県央の計17館に急拡大。だが映画が斜陽産業化すると「つくばグランドホテル」を中心とするサービス業へ軸足を移し、1973(昭和48)年に宝来館も閉館した。

東郷さんらが「懐かシネマ」をスタートしたとき、「宝来館を懐かしんでくれる人がこんなにいたんだ」と感慨深かったという。「伊奈や谷和原から毎週自転車で来た」「よく家族で見に来た」「初デートがここだった」などの声が聞かれ、水戸や東京から子どもや孫に車を出してもらって来る人もいた。そのうち「病気になって来年は来れるかどうか」といった話が出るようになり、後に訃報が届いた人もいた。近年は宝来館をしのぶという当初の趣旨よりも、今では珍しくなった野外映画に興味を持って来る人が増えていた。

今回の上映作品は山田洋次監督・高倉健主演の「幸福の黄色いハンカチ」だ。「毎回の演目は自分が独断と偏見で選んでいる」と東郷さんは言うが、参加者に見たい映画をアンケートで問うと美空ひばり、石原裕次郎、吉永小百合、高倉健、オードリー・ヘップバーンの5人が圧倒的だった。その最後の一人の登場で、全10回のフィナーレを飾ることになる。(池田充雄)

ロコレディ前のベンチで談笑する東郷さんと羽富さん

◆第10回懐かシネマは9月7日(土)、常総市水海道宝町のブティックロコレディ駐車場(旧宝来館跡地)で。鑑賞無料、予約不要。午後4時30分受付開始、同6時30分上映開始。少雨決行、荒天時は9月8日(日)に順延。問い合わせは電話0297-22-1377(ロコレディ水海道事務所)

若い世代よ、羽ばたけ《医療通訳のつぶやき》10

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北京の故宮博物館(娘が撮影)

【コラム・松永悠】今年、我が家の大きな出来事と言えば、子供3人中2人が海外へ短期留学したことです。高3の息子はシドニーへ、そして大学3年の娘が夏休みの間北京へ。

子供が生まれてから毎年のように3人を連れて北京に行っていますので、北京は子供にとって大変なじみ深い場所ですが、高校受験やコロナの関係で、気が付けば最後に北京に行ったのは6年も前のことです。

長女は大学で中国語を専攻しています。語学留学は入学してからずっと心の中で温めていた願いでした。本格留学のウォーミングアップとして、この夏休みに北京大学に行くことにしたのです。

親戚に囲まれて守られる滞在と違って、今回は寮生活だけでなく、一緒にいるのも全員初対面で、世界中から来た中国語を学ぶ大学生です。短期留学中は、勉強のほか、観光も組み込まれていて、故宮博物館、天壇公園、万里の長城といった世界遺産はもちろんのこと、中国版新幹線に乗って山西省大同にある雲岡石窟や懸空寺にも行きました。

最初はそれなりの不安もあったと思いますが、心配はご無用。若いパワーであっという間に慣れてくれました。送られてきた写真を見ると、まぶしく輝く笑顔があふれています。娘と一緒に写っているのは、日本、欧州、米国など世界中からの大学生です。

もうすぐ帰ってくるのですが、すでに「帰りたくない」を口にしています。確かに、最初の緊張が消え、徐々に慣れてきて、楽しくなったころに帰国しなければならないのは残念ですが、来年こそ長期留学できるように準備したいものです。

国をまたいで仕事をするという技

外の世界を見るのは、若い人にとって大切なことです。比較対象がないままでは自国を評価できないので、たくさんの国に行ってほしいと思っています。どの国も良いところ、良くないところ、自分に合うところ、合わないところがあります。

ネット情報が氾濫している今だからこそ、現地に行ってしっかり自分の目で見て、心で感じてほしいです。

飛躍的に生活が便利になっている北京ライフを満喫していて、めちゃくちゃ快適だと絶賛する娘。軽食やタピオカドリンクをデリバリーしてもらったり、日本よりずっと安い料金でネイルしたと喜んでいます。短い滞在ですと、どうしてもこのような表面的なことしか見られないでしょう。

今の中国はたくさんの問題を抱えています。若い世代の就職難、経済の後退など、語り出したらキリがありません。

娘には、「便利」の背後にある厳しい現実も知って欲しいです。グローバル化が進む今、言語という武器を手に入れて、国をまたいで仕事をするという技を身につけた上、客観的中立的に日本と中国を観察して、しっかり自分の考えを持つ社会人、そして大好きな二つの国をつなげる人材になってほしいと願わずにいられない今日この頃です。(医療通訳)