火曜日, 9月 16, 2025
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ラッピング列車「ユニール号」24日から運行 TX開業20年

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24日から運行が始まるラッピング列車「ユニール号」=つくばみらい市筒戸のTX総合基地

つくばエクスプレス(TX)を運行する首都圏新都市鉄道(東京都千代田区、渡辺良社長)は開業20周年を迎える24日から、新マスコットキャラクター「ユニール」をデザインした特別ラッピング車両「ユニール号」を来年3月下旬まで期間限定で運行する。

20周年の節目を祝い、利用客への感謝の気持ちを込めて企画された。運行開始を前に23日、つくばみらい市筒戸のTX総合基地で報道関係者にユニール号がお披露目された。

車両の前面に装着されている「ユニール」をあしらった特製ヘッドマーク

ユニール号はつくば-秋葉原駅間を運行する。最新の3000系の車両で6両編成。車両の前面に「ユニール」をあしらった特製ヘッドマークが装着され、車体の側面に敬礼やスマイルなどさまざまなポーズをとる縦横70センチのユニールのステッカーが計88枚貼られている。車両全体でにぎやかで楽しい雰囲気を表現しているという。

車両側面に貼られたさまざまなポーズをとるユニールのステッカー

車内には、TXのロゴと20周年の文字が焼き印された木製の特製吊り手が取り付けられている。

ユニール号は24日午前11時30分、秋葉原駅を出発する。24日は上下線各6本、25日は上り9本、下り10本を運行する。今後の1日の運行本数は保守点検の関係上、未定だが、運行時間は1週間単位で首都圏新都市鉄道のホームページで公表するという。

車内の吊り手に取り付けられたTXのロゴと20周年の文字

新マスコットキャラクターのユニールは、幸運を呼ぶといわれているユニコーンがモチーフで、初代キャラクター「スピーフィ」に憧れて2025年4月に入社し、角を触ると幸せになれるという噂が広がり、全国からファンが集まるという設定になっている。

記念乗車券を2000セット限定販売

24日には併せて、開業20周年記念乗車券2000セットが限定販売される。つくば、流山おおたかの森、八潮、秋葉原駅からの硬券乗車券4枚(計1200円分)を専用台紙に入れた記念乗車券で、乗車券には8月24日の日付けと開業20周年記念乗車券の文字が印刷されている。専用台紙には2005年8月24日の開業から20年間の歴史を振り返る年表や、過去の周年ヘッドマーク車両の写真などがデザインされている。

価格は1セット1200円(税込み)。販売場所はつくば、守谷、北千住、秋葉原駅4駅の定期券売り場で、販売時間はつくばと秋葉原駅が正午~午後8時、守谷と北千住駅が午前7時~午後8時。 販売期間は9月30日までだが、無くなり次第、終了する。1人5セットまで購入できる。

酷暑でもにぎやかな里山《宍塚の里山》127

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写真撮影は鶴田学さん

【コラム・及川ひろみ】人が酷暑にあえぐ中、宍塚の里山は緑の木々のトンネルが続き、暑さをしのげます。そして、さまざまな生き物にも出合えます。今年はいつもの夏より種類も多いようです。

この里山は関東平野有数の広さ。広葉樹林、針葉樹林、田んぼ、湿地、小川、大池…。さまざまな自然があり、さまざまな生き物が息づいています。草むらに、木々の間に、木の上に、川辺に、湿地に、水面に、水中に、足元に、大小色とりどりの生き物が飛び交い、環境に溶け込んでいます。

今年はカブトムシやクワガタムシも多く、ヤマトタマムシ(茨城県準絶滅種)もいます。クヌギ、コナラの根元には、カブトムシの羽根が散らばっています。昔なら、カブトムシを食べる犯人はフクロウの仲間、アオバズクでしたが、今、犯人はカラスです。カラスはカブトムシのほか、ヤママユガの幼虫など、大型昆虫の捕食者です。

今ベビーラッシュを迎えているのはバッタ。歩を進めるたびに草の間から飛び出します。そして、小さなバッタがたくさんいるところには、彼らを食べるカエルたち。草の間から飛び出すのはアカガエル、それほど目立たず動くのはヌマガエル。ヌマガエルは至るところで見られます。

カエルが多いということは、生き物が豊富な証しです。カエルが増えれば、それを狙うヘビ。小さな生き物からヘビ―生き物のつながりを感じます。

ここで確認されたトンボは59

写真撮影は鶴田学さん

空を切るように飛ぶトンボ。その種類が多いのもこの季節。野原、湿地、谷津田では、ショウジョウトンボ、シオカラトンボ、大シオカラトンボ、ナツアカネが見られます。小川にはオニヤンマ、草むらにはイトトンボがいます。宍塚でこれまで確認されたトンボは59種。全国のトンボの4分の1です。

今、宍塚大池の水面はハスの花で覆われています。大池にこれほどたくさんのハスの花が咲くのは6年振り。霞ケ浦沿岸に広がる蓮田のハスの花は白ですが、宍塚大池の野生種のハスはピンクで、とてもきれいです。

また、池で見られる胴体が短いチョウトンボの羽根は幅広で、遠目にはチョウのようです。羽根の一部が透き通り、オスはきらりと光ります。トンボは飛行の名手。特にチョウトンボは素早く飛び、ハスの上をたくさん飛んでいます。

しばらく酷暑が続きそうです。暑さしのぎに宍塚の里山、大池に足を運んではいかがでしょう。子どもたちには、自然体験の場として絶好です。(NPO法人宍塚の自然と歴史の会 会員)

小田の祇園祭 つくば市無形民俗文化財に

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神輿と大獅子がせめぎ合う「顔合わせ」(つくば市教育委員会提供)

まつりつくばで大獅子が披露

つくば市教育委員会は22日、毎年7月に小田地区で催されている民俗行事「小田の祇園祭(ぎおんまつり)」を同日、市の無形民俗文化財に指定したと発表した。江戸時代に始まった小田八坂神社の行事で、①神輿(みこし)の巡幸②大獅子の巡幸③神輿と大獅子がせめぎ合う「顔合わせ」④お囃子(はやし)の演奏から成る。特徴的な行事や芸能を備えることなどから指定された。

市無形民俗文化財の指定は合併前の1986年2月以来、9件目。市文化財の指定は85件目。23、24日、つくば駅周辺で開催される「まつりつくば」の23日夕方のパレードで、同祇園祭の構成要素の一つである「小田の大獅子」が披露される。

市文化財課によると、小田地区東部にある八坂神社は江戸時代初期の1651年に創建された。江戸時代中期の文書に神輿の巡幸や太鼓の使用が確認できることから、祇園祭は創建のころから実施されていると推測されるという。現在は7月の第3土曜日に開催され、小田東部区、八坂神社お囃子保存会、小田大獅子保存会の3団体が担っている。

神輿の巡幸は、昼間から夕方に小田地区東部を巡行し、夕方までに東部の一時休憩場所である御仮屋(おかりや)に戻る。神輿の巡幸は現在、東部区が担当している。

大獅子の巡幸(同)

大獅子の巡幸は、獅子頭に続く長さ約10メートルの大きな胴体を約30人で上げ下げし、蛇行させながら、小田地区中部を昼間から夕方に練り歩く。起源は不明だが、江戸時代末期の1865年に獅子頭が寄贈されており、それ以降、始まったとみられている。大獅子は毎年、獅子頭に胴体とたてがみを付けて作られる。たてがみは栃木県の鬼怒川中流域で毎年、水草のササバモを採取して作られ、神聖な魔除けとして巡幸の際などに各戸に配られる。大獅子は、戦国時代の小田城最後の当主、小田氏治(うじはる)が戦勝祈願をした姿だとする言い伝えがある。巡幸する大獅子は、江戸時代末期に寄贈されたものが現在も使われている。小田大獅子保存会が伝承している。

東部の神輿と中部の大獅子がせめぎ合う「顔合わせ」は、祇園祭の大きな山場となる。東部と中部の境界で夜8時ごろから5回行われる。大きな歓声が沸き上がる中、神輿と大獅子が4~5メートルの高さに持ち上げられ、高さを競って張り合う。江戸時代末期から近代に間に始まった行事だと推測されるが、古事記や日本書紀の神話、スサノオノミコトとヤマタノオロチの争いを模したものと言い伝えられ、荒ぶる力のぶつかり合いと対抗で災厄を撤退させる夏の鎮送儀礼といえる。

顔合わせの後、神輿は八坂神社に帰り、本殿に収められる。この宮入りの間、荒ぶる魂を鎮めるお囃子「御神輿(ごじんこ)囃子」の演奏が続けられる。江戸時代中期の文書に太鼓を使用した記載があることから、この頃に起源をもつと推測される。お囃子の伝承と顔合わせ等、夕方以降の東部での行事は八坂神社お囃子保存会が主に担当している。

市無形民俗文化財の指定について市文化財課の石橋充課長は「地域の方々が伝統的な民俗行事を残していこうと努力しているところなので、市としても未来に継承できるよう支援していきたい」と話している。

➡小田祇園祭の過去記事はこちら(2018年2月25日付23年7月15日付

23、24日はまつりつくば ごみ袋「もってかえる」を1万枚配布  

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出番を待つ今年初登場のねぶた「八郎太郎」=つくば市竹園

つくば市最大の祭り「第42回まつりつくば2025」(まつりつくば大会本部など主催)は今年もつくば駅周辺を会場に、23日と24日の2日間開催される。つくばエクスプレス(TX)開業20周年を迎える今年は、TXを運行する首都圏新都市鉄道がパレードに参加するほか、記念グッズが大清水公園で販売される。今年新たに、来場者に飲食容器などのごみを持って帰ってもらう啓発を実施し、カエルのイラストがデザインされ「もってかえる。」と書かれたごみ袋を1万枚配布する。今年も例年と同規模の48万人の来場者を想定している。

メーンの「まつりパレード」は、両日とも午後4時から土浦学園線の東大通りと西大通りの間で実施され、大ねぶた4基と中小ねぶた5基が繰り出す。今年の新作として十和田湖や八郎潟、田沢湖の竜神「八郎太郎」のねぶたが登場する。ほかに、40年前の1985年開催のつくば科学万博で披露された万博山車や市内各地区のみこしが練り歩く。25日は万灯みこしが加わる。

11エリアで

会場は駅周辺の11エリアに分かれる。▽つくばセンター広場と大清水公園の「まんぷく広場」には市内のグルメや特産品が勢ぞろいする。▽市中央図書館からつくばエキスポセンター前の遊歩道、つくば公園通りでは「アートタウンつくば 大道芸フェスティバル」が開催され、中国雑技芸術団など大道芸のパフォーマンスが披露されるほかアート作品の販売される。世界の料理が楽しめる「ワールドレストラン」なども催される。

▽科学のまちつくばならではの「スーパーサイエンスパーク」は、つくばセンタービル3階のつくば市民センター・コリドリオ大会議室や、ノバホール小ホールなどで開催される。分身ロボットを操作して迷路にチャレンジしたり、分身ロボットのツアー体験、並木中等教育学校や茗渓学園による工作教室などが催される。体験はいずれも無料で、両日とも正午から整理券を配布する。

▽つくば駅に隣接する中央公園では福祉団体などの活動を紹介する「ふれあい広場」を開催。▽つくば国際会議場隣の竹園公園ではダンスフェスティバルのほか、さまざまなスポーツを体験できる「スポーツパーク」を催す。▽つくば駅前のクレオ前広場では屋台などが並ぶ「トナリエつくばスクウェアうきうき広場」を開催。▽つくばセンター広場特設ステージでは、園児や子供たちによる音楽やダンスのほか、トップ・ウクレレ奏者の名渡山遼さん、シンガーソングライターの澤田千加子さん、地元つくば市出身の演歌歌手 水城なつみさんなどが登場する。▽昨年始まった「つくばのおさけで乾杯エリア」のほか、今年からは「行政PRブース」や「協賛出店ブース」なども用意される。

会場で配布するごみ袋「もってかえる。」を紹介する木村憲一市環境衛生課長

今年の新たな企画としては「ごみ持ち帰り啓発」が実施される。まつり会場は2030年までに二酸化炭素排出量実質ゼロを目指す脱炭素先行地域に指定されていることから、ごみゼロを目指して、「もってかえる。」とデザインされたごみ袋1万枚を大会本部など計4カ所で来場者に配布し、ごみを持って帰ることを呼び掛ける。ただしごみ箱は撤去せず、例年通り設置するという。

市環境衛生課の木村憲一課長は「今年はごみ持ち帰り元年にしたい。まずは来場者に慣れてもらうという意味でのPRであり、ごみ問題に意識を高めてもらえれば」と話す。

暑さ対策としては、つくばセンタービル1階と竹園西児童館に救護所を設置する。医師や看護師が常駐し、救急車も待機する。さらに会場内に休憩所やミストシャワーも用意する。

まつりのポスターやちらしのメーンデザインは、市内3カ所に物流倉庫を構えるZOZOが担当した。まつりつくばのごった煮感をイメージしたデザインだという。

まつりつくばは1981年、合併前の旧桜村の市民有志が大清水公園で開催したのが始まり。コロナ禍の3年間は開催されなかった。近年は48万人の規模で開催されている。(榎田智司)

展望台と滝がある松見公園《ご近所スケッチ》18

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イラストは筆者

【コラム・川浪せつ子】松見公園(つくば市天久保)は、TXつくば駅から車で数分の所にあります。1976年に完成したそうです。高さ50メートルの展望台がボトルオープナーの形をしており、「栓抜き公園」という愛称で親しまれています。上からは筑波山から研究学園まで一望できます。展望台の下には、たくさんの鯉がいる大きな池、その池に注ぐ滝があります。

今回は滝がテーマなのですが、描きあげるのに苦悩しました。その理由は、水がたくさん流れているわけではなくて、どのように滝と分かるように描けるかでした。結局、水量を増やして描くことにしました。見に行かれた方は、「実際はチョロチョロなのかぁ~」と思われるかもしれません。

今回は「絵を描くとは?」に悩みました。結局、写真は真実を写しますが、絵は「好きでいいじゃん! 心象風景でいいじゃん!」ということになり、やっと描くことができました。つくば周辺の絵を描いていますが、「ウソ」ではなく「心の絵」ということです。記録画とは少し違いますが、これからも「つくば周辺の良さを描く」をテーマにします。

下の絵は、トップの滝の上の所です。小さな滝があり、手前には渡れる飛び石が配置されています。公園の周りはメディカルセンター病院はじめ、建物ばかりですが、この空間は旅に行ったように思えるステキな場所です。(イラストレーター)

ペット学校→日本語学校→次は?東郷サンスイG代表【キーパーソン】

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東郷治久さん

サンスイグループ(東郷治久代表、本部・つくば市小野崎)はいろいろな事業を展開している。新しい分野は2018年春に開校した日本語専門学校だが、本部敷地内にある校舎が手狭になり、別の場所に移すことも考えているという。同グループの歴史と現状、生徒が増えている日本語学校を今後どう展開するのか、東郷さんに聞いた。

「ひとつの業種にこだわるな」

サンスイグループは複数の事業で構成されている。本部を置く「つくば山水亭」を核とした飲食事業、筑波山手前にある「わんわんランド」などペット事業、ペット専門学校に日本語学校を加えた教育事業―の3分野だ。

東郷家の事業は、祖父が1919年に常総線水海道駅前に開業した米穀商が始まり(配給制を受け戦後廃業)。常総鉄道の経営にも手を拡げ(のちに京成電鉄が買収)、筑波山神社前にあった旅館山水荘(つくばグランドホテルの前身)も取得。父の代には県内最多の映画館チェーンを経営した(テレビの登場により撤退)。3代目は、飲食事業、ペット事業、学校法人を立ち上げ、神社前のホテルは2023年に米国の投資ファンドへ売却した。

こういった経緯は常陽新聞の記事(2014年6月16日掲載)、本サイトの記事「…米投資会社に譲渡…」(23年8月10日掲載)に詳しい。

「グランドホテルを処分したことで先々代・先代が始めた事業はすべてなくなった。祖父は『ひとつの業種にこだわるな。ひとつ良い時に違うことをやっておけ。9勝6敗でも構わない。商売は失敗してもよい』と常々言い、チャレンジを大事にした。私もこの家訓を胸に刻み、社会経済の変化を読んで新事業を始め、儲からない事業からは撤退した」

日本語学校にはすんなり入れた

1996年に起業した犬の動物園「わんわんランド」の区画には、ペット専門学校、動物病院、老犬介護ホーム、ペット霊園なども併設され、今では猫とも遊べる総合ペットランドになった。これら施設の中で収益の柱になっているのが、2006年に設立したペット専門学校。

「元々ここで働く人に犬について学んでもらう施設があった。それをペットに関心ある人を受け入れる専門学校にしたら大ヒット。発足時16人だった生徒数が今では500人を超える規模になった。これは東京、大阪、名古屋にある類似の専門学校に次いで全国4位。つくば市に何でそんな規模のペット学校があるの?とよく聞かれる」

ここで東郷さんを刺激したのが「ひとつ良い時に違うことをやっておけ」という祖父のビジネス訓。

「ペット専門学校の生徒募集のために高校回りをしていて生徒数の減少を痛感。日本の労働力不足を補うには外国人にも働いてもらう必要がある。そこで時代に合った学校もやろうと日本語学校を立ち上げた。商社で中近東に駐在していた時にアラビア語を勉強させられたこともあり、日本語学校事業にはすんなり入れた」

日本語学校「日本つくば国際語学院」校舎の壁面

サンスイグループの日本語学校の定員は県内で最大。開校時40人弱だった生徒数は、今秋にはネパールやミャンマーからの留学生を中心に200人を超える。東郷さんはこれを300~400人規模にしたいという。それには別の場所に新校舎を建てるか、ビルを買って校舎に改修する必要がある。早晩、市内のどこかに大きな日本語学校が姿を現しそうだ。

【とうごう・はるひさ】1973年、東北大経済卒、三菱商事入社。開発建設・エネルギー分野を担当、中東のシリアやレバノンなどに3年駐在。83年に商事を退社、家業の東郷商店に戻り、90年から社長。現在は「つくば山水亭」「わんわんランド」「つくば文化学園」などを束ねるサンスイグループ代表。水海道市(現常総市)出身、在住。77歳。

【インタビュー後記】東郷さんの事業展開の最初の柱をペット関連(ホップ)とすれば、日本語学校はステップ、日本語学校の拡大充実はジャンプになる。ただ、移転先案や新計画案を聞いていると(これはオフレコ)、3段跳びはジャンプで終わらず、4段目もありそうだ。グループの事業構造はこれからも変わる? (経済ジャーナリスト、坂本栄)

「日本のいちばん長い日」と「肉弾」《映画探偵団》91

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イラストは筆者

【コラム・冠木新市】戦後80年。終戦秘話を描いた2時間37分の映画「日本のいちばん長い日」(1967)を久しぶりに見た。

この作品は1967年度の興行成績第2位で、大ヒットを記録した。しかし公開前、製作関係者の誰もが当たると思っていなかった。脚本家の橋本忍も当たらないと思っていた。当時、大学生の息子に尋ねたところ「8月15日に公開すれば当たる」との答えが返ってきた。橋本忍は半信半疑だったが、それを条件に仕事を引き受けた。直前に9月公開と聞き、約束が違うと8月15日に戻させた。

トップシ一ンは、日本列島の地図上にポツダム宣言のクレジットが出て始まる。その後、政治家や陸軍・海軍大臣らの終戦をめぐる閣議が続く。また、陸海軍の若手将校らの戦争続行、本土決戦の突き上げもあり、会議はなかなか進行しない。結局、天皇の決断で終戦は決まるが、国民に知らせる玉音放送をめぐり若手将校の反乱が始まる。

そして、この戦争で300万人が亡くなったとのクレジットと再び日本列島の地図で映画は終わる。出演者名は登場順に出てくる。

これまで何度か見てきた作品だが、橋本忍は当たりそうもない話を玉音放送ができるかどうかとのサスペンス映画として組み立てている。また岡本喜八監督の短いカットの積み重ねはアクション映画そのもので、優れた娯楽作品に仕上がっている。

同じ役者が両作品に何人も

岡本監督は「日本の~」を作ったあと、自伝ともいえる「肉弾」(1968)を無性に作りたくなり、自宅を抵当に入れア一トシアター作品として製作する。大作「日本の~」とは真逆の小さな作品だ。

魚雷にくくりつけられたドラム缶の中、21歳6カ月の「あいつ」が海に漂うトップシ一ンから始まる。魚雷で特攻する隊員の1945年の夏を描いている。しかし「肉弾」は、敗戦濃厚の諦めムードに支配された人物が多々登場し、漫画も用いた多彩な表現で、全編ユ一モアに満ちた喜劇仕立てである。ラストは1968年に海水浴を楽しむ若者たちのシーンで、海を漂うドラム缶の中で骸骨になった「あいつ」が戦争を批判し叫んでいる。

同じ終戦の夏を描いても、「日本の~」と「肉弾」はまるで異なる。さらに、「日本の~」に出ていた役者が「肉弾」に何人も出てくるため、続けて見るといささか混乱させられる。

「日本の〜」で沈着な首相を演じた笠智衆は、「肉弾」ではB29の爆撃で両腕を失ってもひょうひょうとした古本屋の主人。口をへの字にして特攻隊を見送る飛行団長の伊藤雄之助は、東京湾で「あいつ」に終戦を伝えるオワイ船の船長。徹底抗戦を支持する陸軍の髙橋悦史は、酒をコップであおり若者の命を惜しむヒゲの下士官。その他、同じ役者が2本の作品に何人も出てくる。ナレータ一の仲代達矢と音楽の佐藤勝も両作品を担当している。

「日本の~」に感動した人が「肉弾」を見たら、ふざけていると怒り出すかもしれない。また「肉弾」を評価する人が「日本の~」を見たら、自分の立場しか考えない頑迷な指導者を立派に描き過ぎると批判するかもしれない。戦後80年。いまの日本に合っているのはどちらの映画だろうか。サイコドン ハ トコヤンサノセ。(脚本家)

高校生と一緒に土浦を活性化したい 教員 酒井慶太さん【ひと】

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酒井慶太さん=放課後こども食堂調理場の市役所2階ガスタ東部ガスライフスタジオ前

放課後こども食堂など開催

つくば国際大学高校(土浦市真鍋)の教員、酒井慶太さん(27)は、若者による土浦のまちの活性化に取り組みたいと「土浦わかもののまちプロジェクト」を立ち上げ、高校生らがボランティアで運営する「放課後こども食堂」や高校生主体のイベントを開催している。今年7月にはNPO法人化した。

土浦に戻ってきた

20代前半は、全国各地の様々なところに住みたいと思い、大学卒業後、沖縄の高校で教べんをとった。「故郷の土浦が好きで、土浦を活性化させたいという思いが強くなり」、2023年4月、土浦に戻ってきた。「人口減少によって無くなる町があると知り、土浦は無くなってほしくないという思いもあった」という。

高校教員である自分なりのアプローチとして、高校生の活動によって土浦の活性化を図りたいと考えた。「高校生にとっては、地域のいろいろな人たちと関わって成長していく社会教育にもなる」と思い、2023年9月、一人で同プロジェクトを立ち上げた。まず思いついた活動が「地域の子どもたちに放課後の支援ができて、高校生が地域の人と関わり社会課題にも触れることができる放課後こども食堂の運営だった」。

放課後こども食堂の食事を作るボランティアの高校生たち(酒井さん提供)

やってみよう、やればできる

市内の一中地区や神立地区などのこども食堂を訪れ見学した。新たに開設する放課後こども食堂の会場として、土浦駅前の市役所2階ガスタ東部ガスライフスタジオのキッチンと、同じ階にある市役所研修室の利用をそれぞれ依頼した。食材はJA水郷つくばやレンコン農家に提供を願い出た。子どもたちに向けては、土浦駅近くの土浦小と土浦二小にちらしを配り、高校生ボランティアは、まず勤務先のつくば国際大高で声を掛けてボランティアを募った。

2023年11月に第1回目のこども食堂を開催した。酒井さんのSNSで活動を知った土浦日大の教員が声を掛けてくれ、両校の高校生ボランティアが合わせて約10人が集まり、小学生約30人が参加した。

酒井さんは「やってみよう、やればできると思って行動した。とにかくいろいろなところに足を運んだ」とし「やってみると皆が助けてくれる。人が人をつないでくれると実感した」と語る。現在は一緒にやってくれる人が少しずつ増え、メンバーが10人になった。現在、食材は、活動を知った農家が野菜の寄付などを申し出てくれているという。

小学生の新しい居場所に

こども食堂は毎月1回、平日の午後4時から7時までで開催し、今年6月までに計18回開催している。これまで提供した食事は「コーンご飯と鶏の照り焼き、ポテトサラダ」「豚しゃぶおろしそばとフルーツポンチ」など。高校生らが毎回、30~35人分を自主的に調理する。献立は栄養を考え旬の食材を取り入れながら酒井さんが考えている。最近は、当初から関わってくれていた高校生が大学生になり、メニューを提案してくれているという。

高校生ボランティアは、調理するチームと小学生と遊ぶチームに分かれて活動する。小学生は出来上がった食事を研修室で食べた後、高校生と絵を描いたり、トランプをして一緒に遊んだり、勉強を教えてもらったりする。

小中学生には「気楽に来てほしい」という思いから、事前の予約はとらない。参加費は小中学生は無料、高校生以上は300円。小学生は土浦駅近くの土浦二小の児童が多いが、神立や荒川沖からの参加者もいる。毎月楽しみにして通っている小学生も多く、きょうだいの中学生が一緒に来て、高校生に進路や勉強方法などを相談することもある。

酒井さんは「放課後こども食堂は、子どもたちにとって単に食事がとれる場所ではない。月に一度だが高校生に勉強をみてもらったり、一緒に遊べたりと安心できる放課後の新しい居場所として機能している」と話す。今後は他の高校にも声を掛けていきたいという。

子どもたちに勉強を教える高校生(酒井さん提供)

高校生の企画を全部かなえる

「まちの活性化のためにも土浦の高校生たちにそのまま住み続けてほしいという思いがある」と酒井さんは語り、「土浦は水戸に次いで高校が多い都市。近隣市町村から通ってきている高校生も多く、彼らにも土浦に住んでもらいたい」と語る。そのためにも土浦で楽しい思い出をたくさんつくってほしいという願いがある。

そこで高校生が土浦で楽しむイベントをしたいと、2024年7月に「土浦ティーンズフェス2024」を市役所前のうらら大屋根広場で開催した。「どうしたら高校生が土浦のイベントに来て、楽しめるか」を高校生自身が考え、企画、運営するイベントだ。運営には土浦三高、土浦日大、つくば国際大高から40~50人が集まり、「洋服屋さんやアクセサリーショップがあると楽しい」「自分に似合う服やメイクの色を診断して教えてもらえるパーソナルカラー診断があるといい」「ステージで有名人を呼びたい」「自分たちも出し物をしたい」など様々な企画が出た。

酒井さんは「自分の仕事は高校生が考えた企画を全部かなえること」だと考え、できる限り実現できるよう奔走した。ほぼすべての企画が実施でき、衣料品店やアクセサリーショップ、カラー診断は県内の店が出店、キッチンカーは県内で移動販売を実施するワッフル店や市内のおにぎり専門店が出店してくれた。出店してもらうだけでなく高校生も一緒に接客する経験もした。ステージには、SNSのTikTocで高校生に人気の配信者やシンガーソングライターの丸山純奈さんなどを招いた。高校生による出し物は、土浦日大高校ストリートダンス部の演技や、高校生がモデルをするファッションショーなどを行った。司会進行やテント設営なども高校生自らが行った。

参加費は無料とし、イベント費用はクラウドファンディングで調達した50万5000円を充てた。市内の高校生だけでなく、近隣の20代、30代の若者などが遊びに来ていたのが印象的だったという。 

2回目となる今年度は「夏の猛暑や秋の文化祭シーズンを避け、来年3月も開催する予定だ。前回好評だったファッションショーを行う予定で、モデルは世代交流の意味を含め子どもからお年寄りまであらゆる世代が出られるようなショーにしたい」と酒井さんはいう。

次の目標はユースセンター

さらに、高校生が活躍する地域イベントをティーンズフェスとは別に年に1回開催したいと考えている。今年は、高校生が集まって土浦をどうしていきたいかを考える「若者会議」の開催を県県南生涯学習センターとの共催で計画している。開催は12月の予定で、「土浦の今と理想のイメージを考え、土浦でしたいこと、あったらいいことを考える」をテーマに、9月に参加者15人程度を市内10校から募る。内容は発表して終わりにするのでなく「有名なカフェの誘致は無理だとしても、東部ガスのキッチンでカフェを開く」など少しでも実現していくようにしたいと酒井さん。

今後は放課後こども食堂を継続するとともに「学校と家以外で中学生や高校生が無料で毎日集まれる場所となるサードプレイス(第3の場所)として、ユースセンターを土浦につくることが目標だ」と意気込みを話す。市の施設や企業の空きスペースなどを利用し、大学生にインターンとして常駐してもらいたいと考えており、「補助金や企業の協賛金を利用して運営できたら」と語る。

【取材後記】酒井慶太さんのことは2年前から知っていて、前々から取材したいと考えていた。実際に話を聞いてみて、行動力に驚いた。単に考えるだけでなく「すぐに動く」「人に会う」「人と協力する」ことができるのは、27歳という若さだけではない。「土浦を活性化したい」思いや情熱からくるものだと実感した。そして人の情熱は、行動すれば周囲の人に伝わっていくことを改めて認識した。若い人の活躍や思いを聞く取材は、自分自身への刺激にもなった。(伊藤悦子)

ホモ・ルーデンス《デザインを考える》23

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写真は筆者

【コラム・三橋俊雄】学生のころ、家庭教師から帰る途中、乗る予定だったバスが目の前で発車してしまい、私だけが取り残されていました。ふと夜空を見上げると星は果てしなく遠く、宇宙は限りなく大きいのに、人はなぜ些細(ささい)なことばかり気にしたりして…。その時、なぜか、大学で学んだ「ホモ・ルーデンス」という言葉を思い浮かべていました。

「ホモ・ルーデンス(Homo ludens:遊戯人)」とは、1938年にオランダの歴史家・文化人類学者のヨハン・ホイジンガが提唱した〈人間とは何か〉を表す概念で、それ以来、私は人間として持っている〈遊び心〉を大切にしながら、人生を歩んできたつもりです。

人間の本質を表現する言葉には「ホモ・サピエンス(Homo sapiens:英知人)」「ホモ・ファベル(Homo faber:工作人)」「ホモ・デメンス(Homo demens:狂気人)」など、さまざまな定義があります。日本においては、「遊び」という概念が、すでに平安時代末期までに確立されていたと考えられます。

それが、後白河法皇によって編さんされた『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』です。そこには「遊びをせんとや生まれけむ 戯(たわむ)れせんとや生まれけん 遊ぶ子どもの声聞けば 我が身さへこそ揺るがるれ」という一節があり、無邪気に遊ぶ子どもたちの声を聞きながら、彼らはまるで遊ぶために生まれてきたのではないかとの、遊女の思いが詠(うた)われています。

以下、私が京都で出会った「ホモ・ルーデンス=遊び心」のお話をご紹介します。

ゼンマイ飛行機

年に数回、私は京都府北部の農山漁村に学生とお邪魔し、「フィールドワーク」の授業を行ってきました。この授業では、自然と共に暮らしてきた人々の生き方や、生活の知恵を学びます。ある年の夏、由良川に流れ込む小さな川沿いを巡っていた際、山道で出会った地元の方が、その場であっという間に作って見せてくれたのが、写真左のゼンマイ飛行機でした。

ゼンマイは、春、新芽を煮物や油炒めなどにして食べる代表的な山菜のひとつです。成長すると、写真右のように大きな葉になりますが、よく見ると、軸の両側に細い羽軸が出ており、その羽軸の左右に小さな葉(小羽片:しょううへん)が付いている、シダ類特有の形状になっています。

ゼンマイ飛行機は、羽軸を左右それぞれ長短2本ずつ残し、羽軸の片側から小羽片を取り除くことで、残った部分が飛行機の主翼と尾翼のような形になります。私も一つ作ってみましたが、思いのほかよく飛んでくれました。

かつての子どもたちは、野や山で、石や木、葉などの自然物の造形を道具に見立てて遊んでいました。このゼンマイ飛行機も、「ホモ・ルーデンス」の心で、植物の葉の形や構造から巧みに飛行機の造形を連想し、創り出されたものに違いありません。(ソーシャルデザイナー)

事前審査に3陣営 県議補選つくば市区

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(左から)塚本一也氏と山中たい子氏

知事選と同日の9月7日投開票で行われる県議補選つくば市区(欠員1、8月29日告示)の事前審査が18日、つくば市役所で行われ、3陣営が立候補届け出書類の確認を実施した。3陣営は、元県議で自民党公認の塚本一也氏(60)、元県議で共産党公認の山中たい子氏(73)、つくば市議で無所属新人の樋口裕大氏(37)。同市区の有権者数は20万538人(6月2日現在)。

塚本氏はつくば市出身。県立土浦一高、東北大学工学部建築学科を卒業後、筑波大学大学院環境科学研究科修了。1991年にJR東日本に入社し、2006年に大曽根タクシー社長に就任。18年から県議一期を務めた。現在は同社社長のほか、茨城県ハイヤー・タクシー協会会長などを務める。今回の県議補選では「県が主導し仲介することで、国や世界的な企業を誘致できる。県とつくばの橋渡しの役目を担う」とし、国や県との連携を重視する中でつくばの産業育成を掲げる。

山中氏は福島県小野町出身、日本大学Ⅱ部法学部新聞学科を卒業後、千葉県商工団体連絡会に勤務。つくば市に転居後、1984年から旧桜村議・つくば市議4期を務め、2003年から県議4期を務めた。前回2022年12月の県議選は次点だった。現在、共産党県常任委員などを務める。県議補選では、国保税、介護保険料、後期高齢者医療保険料の引き下げ、児童生徒数増に見合う県立高校新設とクラス増設、東海第2原発の再稼働をストップし廃炉にするなど、食と農・環境を守るーなどを掲げたいとする。

樋口氏は千葉県千葉市出身、敬愛大学国際学部を卒業し、ファイナンシャルプランナーとしてDoitプランニング社に勤務。24年のつくば市議選に無所属で立候補し、2434票を得て初当選を果たした。所属会派はNextつくば。樋口氏は「谷田部地区に県議会議員がいないことから、地域の声を拾う人がいなくなってしまうということを危惧していた」と話す。つくば市内の人口増加により交番の適正配置を再考する必要があるとし、みどりのへの交番の設置を目指すとともに、つくばエクスプレス(TX)沿線に高校を新設することやTX東京延伸に取り組んでいきたいとする。(柴田大輔)

【追加:19日午後5時17分】18日の事前審査を実施した3陣営のうち、樋口氏は19日、NEWSつくばの取材に対し立候補しないことを明らかにしました。これを受けてNEWSつくばは写真を差し替え、小見出しの「つくば市議の樋口氏も」を削除しました。

不適切のデパート つくばの生活保護行政《吾妻カガミ》209

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つくば市役所正面玄関サイド

【コラム・坂本栄】つくば市は6月、「生活保護業務等の不適切な事務処理に関する報告書」を公表しました(青字部をクリックすると全文が現れます)。あらましは記事「不適正額7件で4741万円に…」(6月23日付)をご覧ください。報告書は1市職員から総務部局に出された公益通報に対する回答とも言えるものですが、内部告発した職員による市議会への請願書はコラム「…つくば市政の実態」(24年9月30日付)内のリンク先で読めます。

生活保護業務の不適切な事案は大きく三つに分類できます。上の報告書は専門用語が多く使われており、この分野に疎い人には理解しにくいところがあります。かみ砕いて整理すると、つくば市役所では以下のようなことが起きていました。

口裏を合わせ県にウソの報告

一つめは、時間外勤務をしたのに手当てが払われていなかったり、生活保護受給者の自宅を訪れるといった特殊勤務の手当ても払われていなかったという事案です。担当職員のやる気を削ぐような慣行が市役所内に広がっていたのです。

調査を受けた職員の回答を読み、「管理職からの指示で(時間外を)一部しか申請できなかった」(職員)、「指示はなかったが申請できる雰囲気でなかった」(同)、「(特殊勤務手当ての)申請は本人の判断に委ねていた」(管理職)といった答えのオンパレードには驚きました。ただ働きは当たり前ということですから、役所の体を成していません。

二つめは、認定ミスで規定よりも多めの金額を生活保護者に払ってしまい、払い過ぎた分を返してもらおうと掛け合ったものの、返してもらえなかったというケースです。加えて、国がその分を穴埋めしてくれる場合もあるのに、市は国に申請していませんでした。こういったダブルミスは市の財政にマイナスの影響を与えます。納税者市民にとっては見過ごせない怠慢と言えるでしょう。

三つめは、生活保護費を現金で渡してはいけないというルールがあるのに、現金支給が横行していたという事例です。もっと問題なのは、生活保護業務を監査する県から「おかしなことやっていない?」とチェックを入れられたのに、「やっていません!」と虚偽(ウソ)の報告をしていたことです。

しかも、調査を受けた職員は「課長からは、現金支給していることは外で言わないように、記録にも記載しないようにと指示を受けた」「県監査での対応についても、課長から口外しないよう注意された」と答えています。組織として県にウソをつき通すという構図です。知事と市長の意思疎通の悪さは周知のことですが、これで県の信用も失いました。

市であることの重い行政責任

生活保護は「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」(憲法25条)を国民に保障する制度です。行政としては基本業務なのに、担当職員に必要な手当を払わない、過払いの穴を埋める事後処理もやらない、県のチェックには組織ぐるみでウソをつく。こういった粗雑な行政を放置してきた執行部のガバナンス(管理監督)不全は深刻です。また、議会は市職員の請願を採択せず、問題解明の仕事を放棄しました。こちらは機能不全です。

市制移行を進めている阿見町長に聞いたところ、町や村の場合、役場内に社会福祉課はあるものの、生活保護については窓口に過ぎず、実務は県の県南事務所がやってくれているそうです。2027年秋の市制実現に向け、実務の勉強と準備を怠らないよう職員に厳しく指示していると言っていました。

市になること(市であること)は行政責任が大きくなる(大きい)ということです。つくば市は不適切事案の責任を明確にし、生活保護に対する市民の信頼を取り戻す必要があるでしょう。(経済ジャーナリスト)

花火は「安全」の二文字が最優先《見上げてごらん!》43

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【コラム・小泉裕司】花火師が最も大切にしていること、それは一に安全、二に安全。花火師は、火薬という危険物を扱うため、製造段階から打ち上げ、そして片付けに至るまで、あらゆる工程で事故が起きないよう細心の注意を払う。もちろん、火薬取締法をはじめ法令や都道府県条例によって、火薬の取り扱いや花火打ち上げには厳しい規制が課されており、従事者には国家資格の取得が定められている。

それでも、今年の春先から夏の佳境に入っても事故が続いている。残念でならないが、花火は打ち上げてみなければ分からないという宿命も背負っている。

打ち上げ時の事故

経済産業省所管の火薬取締法では、花火打ち上げ事故を「火薬類の消費中に発生した危険な事象」と定義。具体的には、筒ばね、過早発、低空開発、地上開発、黒玉、部品落下など、およびこれらに起因する火災などを「危険な事象」としている。ここで「火薬類の消費中」とは、花火打ち上げにかかる一連の作業を言う。

▽筒ばね:花火玉が上空に上がらず、筒の中で爆発すること。花火玉の不具合や筒の変形により、打ち上げ火薬の火が引火して発生することがある。

▽過早発:煙火玉が筒から発射直後に開発する。花火玉の導火線の異常により発生する(上の写真参照)

▽低空開発:煙火玉が性能上危険な低い高度で開発する。風の影響や花火玉の不具合など複合的な要因により発生する。

▽地上開発:煙火玉が上空で開発せず地上に落下し開発する。花火玉の不良、風の影響、打ち上げ場所の不適スなど、複合的な要因による。

▽黒玉:いわゆる不発玉。上空で爆発せず、そのまま地上に落下してしまうこと。導火線の着火不良や、花火を破裂させる割薬への着火がうまくいかなかったことが要因。

▽部品落下:煙火の構成部品(燃え殻・破片・星など)が危険な状態で落下する。

打ち上げ事故の推移

危険な事象によって生じた死傷者の人数や物的損害額など被害の程度によって、A級からC2級まで5段階に分かれる。

2009年に遠隔点火(上の写真参照)が義務付けされたことで、打ち上げ事故のリスクは軽減されたというが、国の統計で過去30年の事故の推移を見ると、死傷者数の減少が顕著に読み取れる。一方、23年、24年は、コロナ禍前の3年間と比較すると、事故に至らない危険な事象(C2級)が激増している。

要因は、コロナ禍をきっかけに多くの職人が現場を離れたためと言われる。しかし、後継者の育成には時間がかかるため、海外の安価な花火玉の使用も一因ではないかとの見方もある。土浦の花火の出品規程は、全競技玉を自社製造玉に限定している。

事故に対するペナルティ

こうした花火事故を起こした煙火業者に与えられるペナルティは、事故の種類や内容によって業務停止命令や許可の取り消しなどの行政処分、法律違反や過失の場合には刑事罰が科せられる。民事上の責任として、損害賠償を請求される可能性もある。

さらに、花火競技大会への出品も、主催者や日本煙火協会などの判断によって制限が行われる場合や自主的な参加自粛が行われる場合もある。

花火師は見る人を楽しませるための「美しさ」や「迫力」も大切にするが、それらは安全が確保されてこそ初めて実現できるもの。土浦の花火競技大会で、作品の打ち上げを終えたすべての花火師が、作品の出来栄えよりも異口同音に発する言葉は「無事で何より」。

本日は、これにて打ち留めー。(花火鑑賞士、元土浦市副市長)

参考:経済産業省ホームページ

開拓の地に根を張って 芝と共に歩んだ大日向組合【戦後80年】

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黒澤武宣さん、美津子さん夫妻

黒澤さん夫妻の70年

「当時、2、3年ごとに必ずあったのが春の大霜や夏の干ばつ。苦しい生活にさらに追い打ちをかけるものでした。昔は本当に苦労しました」

長野県大日向(おおひなた)村出身の黒澤武宣さん(83)は、遠くを見つめながら語る。隣には、牛久市出身の妻 美津子さん(77)がいる。ブランド芝のつくば姫、つくば輝、つくば太郎、つくばグリーン等を生み出す日本一の芝産地つくば市。そこで長年、芝生産を支えてきた大穂地区に戦後、黒澤さんら同郷の14家族が入植した。大日向組合による開拓地だ。

陸軍西筑波飛行場跡地

「この滑走路のあたりにあるのが、私たちの家です」

旧西筑波飛行場の滑走路付近に現在の自宅と芝畑がある

古い地図を指差しながら、黒澤さんが言う。黒澤さんが暮らすのは、つくば市西部にある西高野地区。下妻市に隣接する旧大穂町に位置し、筑波山を仰ぐ自宅の周囲には広い平地に黄緑色の芝畑が広がっている。ここは終戦期まであった旧陸軍による「西筑波飛行場内」の一角にある。「西筑波開拓農協二十年史」(西筑波開拓農業協同組合、中本信治編)によると西筑波飛行場は、旧作谷村(旧筑波町)と旧吉沼村(旧大穂町)にまたがる平地に1939年からつくられた約280ヘクタールの飛行場で、グライダー部隊である旧陸軍第116部隊と117部隊が駐屯していた。戦争末期になると、米軍による爆弾投下や機銃掃射を受け、戦後は一時、占領軍の管理下に置かれていた。

日本は戦後、直面する深刻な食糧不足の解消と、復員兵や引揚者の生活再建を目的に、旧軍用地や未墾地を農地として開墾し、食糧増産と失業対策を同時に進めた。1945年11月、緊急開拓事業実施要領が閣議決定され、約21万1000戸が全国の開拓地に入植した。茨城県には全国の4.2%にあたる262カ所が整備された。西筑波飛行場跡地もその一つだった。

緊急開拓事業の対象地区となった同飛行場への入植が始まったのは終戦翌年の1946年。県内を含む全国から復員者や引揚者らが集まった。黒澤さんがこの地に来たのは1953年だ。先に来ていた祖父を頼り、父と来た。10歳の時だった。50年ごろに同郷の大日向村から14家族が入植し、大日向組合を結成していたという。「西筑波開拓農協二十年史」によると、飛行場内を走る滑走路を中心に、東側に「西筑波開拓」が、西側に「大日向組合」の開拓地が広がっていた。

1961年に編纂された「西筑波開拓農業二十年史」(左)と掲載される西筑波飛行場地図(中央)、同飛行場近隣地図(右)

大日向村から大穂へ

「だだっ広いところだなぁ」。筑波山の麓に広がる平地に初めて立った時、小学5年生だった黒澤さんはあたりを見回しそう思った。故郷の旧大日向村は、長野県と群馬県の境にある山村で、現在は、佐久穂町大字大日向と呼ばれている。山間を流れる抜井川沿いに八つの集落が点在する細長い谷間の村だった。

「生活が厳しいところだった」という。戦前の大日向村住民は養蚕や炭焼きを営みながら、限られた農地で米や野菜を育てていた。1930年代の昭和恐慌の影響で生活は困窮した。生活難を背景に、1938年、村民の約半数が旧満州、現在の吉林省へ渡り、「満州大日向村」を築いた。国策として進められた満蒙開拓の、全国初となる「分村移民」で、国から模範事例と讃えられた。しかし終戦間際にソ連軍の侵攻を受けると、引き揚げまでの約1年間に400人余りが命を落としたとされる。約250人が帰国したものの、多くが満州へ渡る際に土地や家を処分しており村に留まれる者は少なく、再び新天地をめざすことになる。その先駆けとなったのが、1947年、65戸168人による軽井沢町への入植だった。その後、他の土地へも移住者が相次いだ。旧大穂町の「大日向組合」による開拓地もその一つだった。黒澤さんの親族には、満州からの引揚者はいなかった。

2、3年ごとに大霜と干ばつ

黒澤さんは、父親と、先に入植していた祖父に連れられ、2日をかけて大穂にきた。列車で土浦に着くとバスに乗り換え目的地近くの吉沼へ向かった。そこから徒歩で開拓地にたどり着いた。その日はちょうど、大穂が村から町に変わる日で、大勢が役場に集まり祝賀会が開かれていた。バスの車窓から見た活気あふれる風景を今もよく覚えている。

大穂へ来た祖父がくじ引きで割り当てられていたのは、滑走路跡の「砂利だらけ」の土地だった。鍬を振るえば砂利が現れ、作物はなかなか育たない。落花生、スイカ、サツマイモ、麦などを栽培したが、肥料や農薬は乏しく、2、3年ごとに訪れる春の大霜と夏の干ばつが苦しい暮らしに追い討ちをかけた。入植者たちは当初、旧飛行場の兵舎で生活していた。数年後、自力で家を建てたが、周囲に木々は少なく、「燃料はカヤの根を掘り起こして乾かしたものしかなかった」と黒澤さんが話す。

芝栽培が始まり暮らしが安定した

転機は1957年頃。東京から複数の園芸業者がコウライシバ(高麗芝)の種芝を持ち込み、農家に栽培を勧めたのだ。当時、戦災で芝の栽培地を失っていた都内の業者が、首都近郊に新たな栽培地を求めていた。第1次ゴルフブームが到来し、芝の需要が高まっていた時期であり、新たな栽培地として筑波山麓の平地に目をつけた。同時期に、隣接する南作谷の西筑波開拓でも芝栽培が始まった。

大日向組合開拓地に隣接する、南作谷地区の開拓地に立つ記念碑

黒澤家は当時、大穂町内に支社を構えていた東京・浅草に本社がある「芝万」から種芝を仕入れ、栽培を始めた。周辺には以前から在来の「野芝」が自生しており、入植者らは農閑期の収入源として刈り取り、河川の土手や土木工事用として販売していた経験があった。芝には馴染みがあったのだ。

その後、年を追うごとに芝栽培は少しずつ拡大した。植え付けから管理までを農家が担い、切り取りは業者が行った。1957年頃の第1次ゴルフブーム、1969年頃の第2次ゴルフブームで需要は急増し、関東、東北への出荷ルートが整備され、入植者の暮らしは次第に安定していった。

子ども時代の記憶

入植者の子どもたちは吉沼小学校に通った。文化や習慣の違いから「よそ者」と見られ、集団登校や遊びの輪に入れないこともあったという。当時のことを聞くと、黒澤さんは「涙が出ちゃって、話せないですよ」とうつむいた。電気がきたのは黒澤さんが高校生になってから。それまでは、石油ランプを使っていた。ランプの掃除は、子供の仕事だったし、明かりもなくて「受験勉強どころじゃなかった」と振り返る。

1960年代半ば(昭和40)になると、地元との交流が増えた。地域の人々が協力し、映画上映や踊りの会、遠足などの行事が開拓地でも行われるようになった。

黒澤さんは高校卒業後、試験を経て大穂町役場に就職し、地域づくりに尽力してきた。妻の美津子さんと結婚したのは1970年だった。「仕事一筋、真面目な人」だったと美津子さんが当時の印象を話す。役場は家庭的な雰囲気だった。独身だった黒澤さんを心配した同僚が「黒さんにお嫁をもらう会」をつくっていた。

1987年、4町村合併でつくば市が誕生すると、黒澤さんはできたばかりの市で財政担当として奔走。「ないところに街をつくるという意味では、開拓と似てました。いろんな人の意見に気を遣いながら、無我夢中だった」と当時を振り返る。

過疎化に直面

2人の息子に恵まれて、黒澤さんは役所を定年まで勤め上げた。芝栽培は妻が支えてきた。変化の大きなつくば市で、かつて大日向組合に17軒あった芝農家は今では3軒にまで減少した。後継者不足や、野焼き禁止などの規制が産業を圧迫している。

筑波山を望む平地に芝畑が広がる

黒澤さんは「市の中心部が注目される一方で、外側にある多くの地域が過疎化に直面している。よくよくです。耕作放棄地も増えている。置いてかれちゃっている感じがしている」と、戦後70年以上を生きてきた開拓地で黒澤さんは話す。それでも「今でも芝を1町歩作っています」と美津子さんが胸を張る。「私も仕事一筋。百姓やって、子育てして。まだ農業やってます。芝もまだまだ。昔の、死に物狂いでやってきたのを守るっていうのかね。それも、だんだん終わっていっちゃうのかな、と思うこともあります。でも、一生懸命やってきた芝を守りたい気持ちでいます」と美津子さんが前を向く。(柴田大輔)

疎開先で空襲に遭い母に手を引かれ逃げた【語り継ぐ 戦後80年】2

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山城啓子さん

つくば市 山城啓子さん(86)

つくば市に住む山城啓子さん(86)は6歳の時、疎開先の福井市で空襲に遭い、母親に手を引かれて逃げた。翌日自宅に戻ると、福井の街は焼け野原になっていた。市街地の84.8%が損壊した福井大空襲だ。1945年7月19日深夜、米爆撃機B-29が127機飛来し、81分間に865トンの焼夷弾を福井の市街地に落とした。2万戸以上が焼失し、9万人以上が罹災し、1900人を超える死者が出た。

啓子さんは東京都文京区湯島で生まれた。父親は沈没船などの引き揚げを行うサルベージ会社に勤務していた。兵庫県西宮市に転勤となり、両親と三つ下の妹の4人で、東京から西宮の社宅に転居した。やがて父親に赤紙(召集令状)がきて、海軍の警備府が置かれていた青森県大湊に水兵として配属された。

1944年、母親と妹の3人で兵庫から青森まで父親の面会に行った。面会室で待っていると向こうから、まるで行進しているかのように両手を大きく振って歩いてくる一人の水兵が見えた。父親だった。何を話したかは覚えていないが、普通の歩き方ではなかった父親の姿だけは今も覚えている。

父親が召集された後、3女となる妹が生まれたが、赤ん坊の時、高熱を出し肺炎で亡くなった。西宮の社宅は母親と娘2人の女ばかりだったので、母親は自身の実家のある福井県に疎開することを決めた。実家近くの福井市内に家を借り、母親と妹の3人で1年ほど暮らした。1945年4月、啓子さんは福井市で小学校に入学した。先生からは、学校の行き帰りに空襲警報のサイレンが鳴ったら、近くの家に駆け込むよう言われた。

こんなに広かったのか

福井大空襲があった7月19日夜は、夕食を食べ終え、買ったばかりのラジオを自宅で聞いていた。突然サイレンが鳴り響き。次第に外が騒がしくなった。当時29歳だった母親は落ち着いて身支度を始め、亡くなった3女の位牌を懐に入れ、まだご飯が残っていたお釜を風呂敷に包んで、3歳の妹をおぶった。啓子さんはモンペ姿で肩に水筒を掛け、防空頭巾をかぶった。ラジオを抱えて持っていこうとしたが、母親から「そんなものいいから」と止められた。母親はお釜を持ったもう片方の手で啓子さんの手を引っ張って逃げた。

外は米軍が落とした照明弾で昼間より明るかった。人々は皆、郊外へ郊外へと一方向に向かって走っていた。母親に手を引かれた啓子さんも郊外へと逃げた。途中、焼夷弾が落ちて燃えている炎を、消そうとしている男性の姿があった。

どこまで逃げたか分からないが、郊外まで来て、啓子さんはそのまま眠ってしまった。翌日、明るくなって目を覚ますと、畑のようなところに大勢の人がいた。しばらくするとB-29が上空を飛行し、また爆弾を落としに来たのではないかと怖くなったが、周りの大人に「爆弾を落としに来たのではなく、偵察に来ただけだよ」と言われた。

お釜に残っていたご飯を食べ、自宅に戻った。途中、焼け跡のあちこちから煙が出ていて、焼けた家の前で立ち尽くす人の姿があった。悲しいとか、そういう感情は無く、焼け野原になった福井の街を「こんなに広かったのかと思った」と啓子さんは当時を振り返る。視線を遮る建物は無く、立っているのは人の姿しかなかった。背負われて母親の背中から焼け野原を見ていた妹は当時のことを「焼け焦げた人を大勢見た」と話すが、啓子さんにその記憶は残っていない。

住んでいたところに到着すると、家は全焼だった。買ったばかりのラジオも焼けてしまった。

その日のうちに母親が実家方面に向かうトラックを見つけてきて、大勢の人とトラックの荷台に乗り、母親の実家に行った。1時間ほどで実家に到着し、そのまま終戦の日を迎えた。

8月15日を過ぎて間もなく、復員した父親が軍服姿で家族を迎えに来た。2、3日福井で過ごした後、父親の実家がある東京に家族4人で向かった。湯島にあった実家は東京大空襲で焼けてしまったから、父親の両親は世田谷区に移っていた。戦後は、戦争中よりも食べ物に苦労した思い出がある。

成人し国家公務員の夫と結婚。40歳の時つくば市に転居した。戦後80年経ち「戦争は人間にとっていいことは一つもない。戦争はどんなにつらいことか。人間は人間を大事にしないといけない。とにかく戦争を起こしてはならない」と、次の世代に伝えたいと話す。(鈴木宏子)

公園から消えてしまったバリケン《鳥撮り三昧》4

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バリケンとカワセミ(筆者撮影)

【コラム・海老原信一】小さな池のあるつくば市内の公園。そこには一時30羽ぐらいのバリケンが生活していました。環境的にはそぐわないほどの数です。どうしてこれほどの数になったのか? 豊富な食べ物は繁殖を促しますから、人の手による給餌が影響して繁殖が可能になったのでしょう。

「給餌をしないで」との立て看板が設置されたためか、餌は以前よりは少なくなった様子。まかれた餌はバリケンだけでなく、その他の野鳥たちの食料にもなります。当然、バリケンたちの取り分は少なくなり、繁殖への影響も出て来ます。少しずつ減っていくだろうと思っていましたが、急激な減少を見せたのです。カワセミと一緒の写真を撮影したとき、バリケンが2羽になっていました。

バリケンが木の上で休むことはあまり見たことがなく、珍しく思いました。地面より不安定な樹上で休むにはそれなりの理由があるはず…。バリケンにとっては地面が安全でなくなり、樹上へと向かわせたのでしょうが、一体何があったのか私には分かりません。

バリケン親子(同)

愛くるしいヒナたち

「思い出していたら悲しくなって涙が…」。写真展で上の写真をご覧になったご婦人の一言です。「いま公園にはバリケンが一羽もいなくなりました。季節には子供が生まれ、その可愛らしさに癒されていました。私ばかりでなく、みなさんヒナたち愛くるしい様に笑顔になっていました。思い出していたら悲しくなって…」。

いなくなった理由は分かりません。バリケンは家禽(かきん)として移入されたもので、それが野生化しました。割と多産で、黄色いヒナたちはにぎやかでかわいいし、見る者をハッピーにする魅力を持っています。ご婦人の寂しさはよく理解できました。

私自身、バリケンのヒナたちの様子を楽しみながら撮影していました。この公園にはもうバリケンが戻って来ないのでしょうか。(写真家)

戦死した兄思い玉音放送聞いた【語り継ぐ 戦後80年】

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宮田米子さん

つくば市 宮田米子さん(93)

つくば市北条に住む宮田米子さん(93)は、満州事変が起こった1931(昭和6)年、小田村(現在、同市小田)の農家に生まれた。3人の兄がおり、旧姓は宮川。戦時中は地元にあった国民学校高等科(現在の中学校)に通った。終戦は14歳の時、当時の事はよく覚えているという。

「農家だったから食べるものにはさほど困らなかった。でもコメに麦を8割混ぜた8分の麦ご飯で、おかずは野菜くらいしかなく、ぜいたくはできなかった」と振り返る。当時、農家でない人は、クリやジャガイモを入れ、かさを増して食べていたという。

宮田さんは尋常小学校を出て国民学校高等科に入った。全生徒は30人ぐらいで、近隣の田宮、北太田、山口からも通っていた。小田に住む人の中にも越境して北条の学校に行く子もいた。当時の北条は、石岡、土浦と並ぶ大きな物資の集積地だったということもあった。

国民学校は日中戦争後の1941年に発足した制度で、教育全般にわたって教育勅語に示された皇国の道を修練させることを目指した。それまでの尋常小学校が国民学校初等科、高等小学校が国民学校高等科になり、戦時色がより一層強まった。

「最初は普通に勉強していたが、戦争が進むと、授業も少なくなっていった」という。終戦を迎える年の1945年4月からはまったく授業は行われず「食料増産のための、農作業が主となっていった」と振り返る。

寝転がってはだめ

志願して入隊した次兄は飛行機乗りで、無線通信担当だった。「飛行機から人の姿はよく見える。隠れるときは寝転がってはだめ、しゃがんでうずくまっていろ」と、帰省した際、次兄に忠告された。

小田地区には大きな戦禍はなかったが、それでも登校時などに空襲警報が鳴ると、怖くて(筑波鉄道筑波線の)常陸小田駅の駅舎(現在は小田城跡歴史ひろば)に隠れた。近くの山口地区に爆弾が落ちたとか、機銃掃射があったという話を聞いていたそうだ。それでも筑波山周辺地域で空襲で亡くなった人はいなかった。

筑波地区に初めて空襲警報が鳴ったのは、1942(昭和17)年3月5日だったのを覚えている。北条近くの作岡村(つくば市作谷)には、落下傘部隊やグライダー部隊の訓練が行われた陸軍の西筑波飛行場があり、戦局が進むと頻繁に空襲警報が鳴るようになった。特にアメリカ機動部隊の艦載機1200機が関東各地を空襲した1945(昭和20)年2月16日のものは大きく、朝から夕方まで外出が禁止された。

フィリピンで戦死

長兄の宮川善一は1944(昭和19)年末に赤紙(召集令状)により徴兵され、9カ月後、フィリピンで戦死した。終戦間際、23年の生涯だった。

天皇が終戦を告げた8月15日の玉音放送は、兄の生死がはっきりせず、何か分かるかもしれないと、家族全員で自宅のラジオの前に集まり聞き入った。当時農家でラジオを持っている家は少なかったが、どうしても放送が聞きたくて購入した。近所では兄弟全員が戦死したという家もあったが、兄の死は、まさか家族に戦死者が出るとは思わず、長男ということもあり、生涯忘れられない出来事となった。80年たった今でも、当時を思うと言葉が出なくなり、涙が流れる。

戦後は、国民学校高等科を出て、その後、家の手伝いをして過ごした。ヤミ米が流出していたため、多くの農家と同じように調査が入ったりしたそうだ。

1952(昭和27)年、北条地区の宮田家に嫁入りし、一男一女をもうける。「戦争を体験した人はみな、90歳以上になってしまった。戦争は本当に怖かった。戦後はだんだんおいしい物も食べられるようになった。やはり平和が一番だ。そういう時代がずっと続いて欲しい」と昔を振り返りながら語る。(榎田智司)

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2110年の世界はどうなっている?《ハチドリ暮らし》52

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写真は筆者

【コラム・山口京子】わが家の階段を一歳過ぎの孫が両手両足を使い上っていきます。少し前まではハイハイだったのに…。厚生労働省の「2024年簡易生命表」によると、24年に生まれた男の子の平均寿命は81.09歳、女の子は87.13歳ということです。ということは、平均的な男の子は2105年、女の子は2111年まで生きることになります。

そのころは一体どんな社会になっているのか。そんなことを思うと不安と希望が入り混じります。今大人の私たちには何ができるのでしょうか。例えば、戦争で犠牲となった人々を支援する。なぜ戦争が起きたのか歴史構造や国際関係を知る。原子力発電の仕組みに無知だったことを反省して東京電力福島原発事故のことをきちんと考える…。

写真は筆者

私はいくつかの団体の会員となり、その活動の報告書を読ませてもらっています。一つは、中村哲医師のパキスタンでの医療活動支援を目的に結成されたペシャワール会です。中村医師が設立したPMS(平和医療団・日本)のアフガニスタンでの灌漑水利事業なども支援しています。彼は「私たちはアフガニスタンを救援するなどと大きなことは言いません。その日その日を感謝して生きられる、平和な自給自足の農村の回復が望みです」と述べていました。

二つめは、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の難民救援活動です。収奪的で膨張主義的な大国の思惑により、難民が生みだされています。1991年から2000年まで高等弁務官として活動した緒方貞子さんは「必要に迫られて日本に来る難民の受け入れには寛大でなければなりません。そういう人たちにもう少し真摯に対応する必要があります」と言います。

三つめは、政府や産業界から独立したNPO法人原子力資料情報室です。原子力利用の問題点に関する資料を集め、そこで得られた情報を発信し、市民による脱原発活動を支援しています。設立者の高木仁三郎氏は「問われているのは、科学技術総体とそれにかかわる科学技術者の質である」と言います。平和で持続的な地に足のついた暮らしの在り方とは? (消費生活アドバイザー)

ペットの熱中症にも注意を 土浦の動物病院が呼び掛け

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ペット用ネッククーラーをつけて日が落ちてから散歩に出る犬=土浦市内

冷房、犬猫は24度程度が最適

あす13日から厳しい暑さが戻るといわれている。熱中症は人間だけでなく、犬や猫もかかり、命に関わる恐れもある。土浦市中高津の徳永動物病院院長の徳永大和獣医師によると、最近は日中の散歩は避けるなどペットの熱中症に注意をしている飼い主が多く、急患のペットはほとんど出ていない一方、「ここ2、3年は、冷房の温度設定がペットにとって高いことによるペットの熱中症が増えていると実感している」と語り、注意を呼び掛けている。

徳永動物病院の徳永大和院長(本人提供)

軽い熱中症から悪化

徳永さんは「犬や猫は体が被毛に覆われているだけでなく、人のように汗をかいて体温を下げることができないため、人よりも暑さに弱く熱中症になりやすい」と話す。冷房の温度は人間にとって26~27度程度が快適だが、ペットにとっては暑過ぎて軽症の熱中症を招く。「ペットには24度程度が適切だ」という。

高温のため6歳、7歳を超えた高齢の犬や猫が、軽い熱中症から1週間ほどたって悪化する症例が多くなっているという。症状としては「食欲がない」「吐く」「下痢をする」といった、体温が上がったことによる胃腸炎などがある。

やけどと同じ

徳永さんによると、症状が出たら動物病院に行くことはもちろん、治療後は冷房でしっかり冷やすことが大切だという。「熱中症はやけどと同じ。動物病院での1回の注射や冷却で治るものではない」とし、「1、2日涼しい場所で過ごして元気になったように見えても実は治りきっていない」と話す。油断して冷房の設定温度を人間が快適な27℃に上げたことで再び悪化し命にかかわるケースもあるため、「ペットには、冷房は人間が快適だと思う温度よりも低い24℃に設定するとよい」と話す。

ひんやりとする洗面台で涼む山口佐智子さんの飼い猫=本人提供

8日の夕方、犬の散歩をしていた土浦市の女性は「暑い日が続いているので犬の熱中症予防のため、冷房を24時間入れたままにしている。朝夜の散歩も首を冷やすネッククーラーをつけている」と語った。猫を飼っているつくば市の山口佐智子さんは「猫はいつも勝手に涼しいところに行っている。しかし今年は格別暑いので猫の体調には気をつけている」と話す。

茨城県では環境省が作成したペットの熱中症予防ポスターを印刷、県内市町村に配布している。さらにX(旧ツイッター)の茨城県生活衛生課動物愛護担当のアカウントで、ペットの熱中症に関する注意喚起を促している。土浦市は、県から配布されたポスターを同市役所環境衛生課の窓口に掲示して注意を呼び掛けている。つくば市もポスターを庁内に掲示するとともに、同市のホームページに「犬の熱中症に注意」というページを作って周知している。(伊藤悦子)

素描《続・平熱日記》183

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絵は筆者

【コラム・斉藤裕之】オス2匹メス1匹の茨城県産カブトムシを持って、高円寺の長女宅を訪ねた。東京駅で中央線に乗り換えると、停車するホームで何度か見かけた「素描」と大きく書かれたポスターが気になる。「素描」とは一般に「デッサン」や「クロッキー」という言葉に相当するものだと思うが、実にいい言葉だと思う。

まあ簡単に言うと、鉛筆などの単色で描かれた絵。構想やアイデアを描いたものが多い。私自身はデッサンがあまり得意ではなかった上に、少し修行のようなニュアンスも感じられて少々苦手意識のある漢字二文字。しかし、他人の描いた素描を見るのは好き。なぜなら素描にはその人のものの見方、試行錯誤の様子、息遣いやリズムのようなものまで感じられるからだ。

描かれたものが「素(そ)」であると同時に、描き手の「素(す)」が見えてくる。例えば、ダ・ビンチのモナリザを見るよりも素描を見る方がダ・ビンチのことがよくわかる。

さかのぼること数週間。ある日、引き出しの中から「銀筆」を見つけた。鉛筆ではなく銀筆。「シルバーポイント」と呼ばれるこの銀筆は、鉛筆の芯の部分が直径2ミリほどの銀の棒でできていて、西洋で古くから使われていた素描用具。その柔らかい表情と、時間の経過とともにやや褐色に変化する色合いが銀筆の魅力。

ところがこの銀筆は白い紙には何も描けない。銀よりも固いものの上にしか描けないので、銀筆で絵を描くには準備が少々面倒なのだ。

そう思いながら、ネットで「シルバーポイント…」と検索したところ、紙の上に白いパステルを塗って銀筆で描く方法が紹介されていた。ならばと再び引き出しの中を探すと、何十年も寝かしてあるパステルを発見。いつか値引きされていたのを買って、これまた長い間使っていなかった小さなスケッチブックも発掘。これで材料は一応そろった。

スケッチブックを開きパステルを塗る。優しく線を引くと、銀筆の淡い筆跡が心地よい。しかし、繊細で不自由な素材である分それなりの画力も求められる。文字通り素になって描く。ということで、この夏、いつもは絵を描く道具は一切持っていかない山口への帰省に、銀筆一本とパステル、小さなスケッチブックを携えることにした。

スウェーデン国立美術館展

ちなみに「素描」と大きく書かれたポスターは、国立西洋美術館で開催中のスウェーデン国立美術館コレクション展のものだった。かの美術館は30年ほど前の夏に友人を訪ねた折に見て回ったことがある。これも何かの縁か。久しぶりに上野に行ってみるか。

虫好きの上の孫は、心待ちにしていたカブトムシを手にたいそう喜んでくれた。方や、もうすぐ2歳になる下の孫の方は恐竜が好きなんだと。ならば、次のミッションは角が一本増えて木彫「トリケラトプス」か。(画家)

復刻「陣中占ひ」で記憶の糸たぐる 土浦 石田和美さん【戦後80年】

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「陣中占ひ」の説明をする石田和美さん=土浦市内

戦前の記憶の糸をたぐる手札玩具がある。「陣中占ひ」という30枚組のカードだ。戦後80年の夏、その復刻版制作と普及活動に取り組む土浦市在住の女性が「現物以外なんの記録もないのでご存じの方がいたら情報を寄せてほしい」と呼び掛けている。

関係資料探しあぐねて

女性は、茨城県を中心に戦没者の慰霊顕彰活動を行う任意団体「ENISHIWORK(エニシワーク)」の代表を務める石田和美さん(47)。インターネットで資料収集中、偶然に目に留めた「陣中占ひ」を入手した。縦長の紙製小箱には筮竹(ぜいちく)を構えた易者(えきしゃ)のイラストが描かれ、日の丸のような図案をはさんで左から右へ「ひ占中陣」の文字がある。

これさえ有れば陣中の大易者ーと遊び方の説明がある「陣中占ひ」の外箱

小箱の中には、色刷りの絵札5枚とモノクロの文字札25枚が入っていた。絵札には穴あきの小窓が複数箇所にあり、文字札には全体として意味をなさない縦組みの文字列が印刷されていた。文字組といい絵柄といい、ほぼ戦前のものに違いないが、転売を経て入手した出品者は元の出どころがわからないという。

「陣中占ひ」でネット検索してもヒットはせず、各地の戦争資料館やおもちゃミュージアムなどに問い合わせても関係資料は残っていない。立命館大学国際平和ミュージアム(京都市)が現物を所蔵していたが、聞き取りをした戦争体験者から受け取った学芸員によれば「慰問袋に入っていた」という話だった。

戦前、1937(昭和12)年ごろ、日本玩具統制協会がおもちゃに合格証を与える登録制度を設けており、「断易」ということばから、1940(同15)年ごろに作られたという見方が出来たものの、制作者や発行元までは突き止められなかった。

戦争の要素一切なく

その遊び方ー。25枚の文字札から1枚を選んで上に5枚の絵札を順番に乗せていく。すると絵札の穴あき部分から下の文字列が現われる仕掛けになっていて、運勢、願望、待人、縁談、身の上の展望を読み取れる。

「金銭入り易き日なりむだせぬ様心掛けべし」(運勢)、「女には吉なれども男には凶となるべき縁」(縁談)等々。「陣中」とあっても、「占い」に戦争の要素は一切ない。箱には「兵隊さんのマスコット」とあった。

入手した石田さんは「すごい。面白い。至極の極みだと感動を通り越し、すっかりほれ込んでしまった」そう。普及に向けて復刻版を制作しようと、一昨年から権利関係の調査を始めたが素性は分からず仕舞い。商標権、著作権の扱いについて弁護士と相談するなどして、作業を進めた。

世代つなぐコミュニケーションツール

石田さんは重巡洋艦「羽黒」の副長を務めていた大叔父が1945(昭和20)年5月16日のペナン沖海戦で撃沈され、艦と運命を共にしたと聞かされ育った。戦後30年たち生まれた「戦後30年世代がつなぐ慰霊顕彰活動」を掲げ、同世代の仲間らと軍関係者や遺族に話を聞くなどの体験を共有し、軍跡ガイドや慰霊祭ボランティアを務めてきた。

その活動の中、復刻版「陣中占ひ」を制作した。昨年2月、ENISHIWORK名義で商標登録を行い、販売を開始した。絵札は絵柄をそのままに彩色のトーンを変え、文字札はフォントを見やすくしたが、旧仮名遣い、文語調は原典のままにした。

左から右への文字組みを含め、今の若い人に見せても「苦情あるべし」とか「来ることかなはず」とかの言い回しが伝わらないことにもどかしさを感じている。石田さんは普及活動を通じ、「伝えていくことの意味を感じるコミュニケーションツールにしていきたい」というのだ。

「戦後80年、占いを作った人も、慰問袋に詰めた家族も、遊んだ兵隊さんも多くが亡くなって、記録ばかりか記憶まで消えかかっている。私たち世代が伝えることで、昔の漢字を読めない若い人たちにも忘れられないようにしたい」と石田さん。「陣中占ひ」について「ご存じのことがあれば、ぜひ連絡をしてほしい」と呼び掛けている。(相澤冬樹)

◆制作した復刻版「陣中占ひ」はオンライン販売のほか、予科練平和記念館(阿見町)、筑波海軍航空隊記念館(笠間市)、鹿島海軍航空隊跡地(美浦村)の各ミュージアムショップで取り扱い中。価格は4400円(税込み)。今年になってお守りとして携帯できるクリアカード製のバージョンも制作した。同2200円。販売サイトはこちら。問い合わせは電話080-1018-1124(ENISHIWORK事務局)へ。