火曜日, 5月 14, 2024
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「誰でも通れる通路」現る 《映画探偵団》54

【コラム・冠木新市】3月下旬、つくばセンタービル内でA4チラシを手にし、これはすごいと思わずうなった。下半分に「2022.4 OPEN! つくば駅徒歩3分 つくばセンタービル内オフィス入居者募集  問合せ・つくばまちなかデザイン株式会社」とあった。 上半分には、ビル内の図面が載っていて、AからFまでの入居スペースが全体の3分の1強。残りが「会議室亅「コワーキング兼イベントスペース」「カフェシェアキッチン」「子連れワーキングスペース」「つくばまちなかデザイン(株)オフィス」。 感心したのは、それらをつなぐ通路を「誰でも通れる通路」「誰でも通れる出入口」と書いてあったからだ。「アイアイモール」と呼ばれた通路は元々誰でも通れる通路で、出入口だった。それをあえて「誰でも通れる…」と記述したのがすごい。こう表現すると、普通の通路が特別なものに見えてくる。 これこそ、現代アートの世界と言ってよい。ネー厶プレイトを付ければ、アートの名所として話題になるに違いない。 4月1日、早速出かけて見たが、まだ半分しか完成していなかった。通路の左右に灰色のカーブしたベンチみたいなものがあり、対面に人が座れば車イス1台分通れる幅。改修前より随分と狭くなっていた。 それよりも、広場にあったアイアイモールのサインと飾りが取りはずされていたのが、シン・旧住民にはショックだった。今度は「co/en」と呼ばれることが決まっている。公園でBBQやテントをやる世代には受けそうだ。しかし、20代の若者たちに「昭和レトロブー厶」が起きている現在、通路の愛称を市民募集したほうがよかったのではないだろうか。 S・キューブリック監督『シャイニング』 それはともかく、旧アイアイモールはスタンリー・キューブリック監督の『シャイニング』(1980)を思い出させてくれる。 コロラド山中の「展望ホテル」。雪に閉ざされた休業期間中に、管理人となったジャック(ジャック・ニコルスン)が妻子を連れやって来る。時が流れ、ジャックは誰もいない廊下を歩き、ゴールドルー厶という大広間に入る。するとパーティーが開かれていて、客でにぎわっている。 バーカウンターに座ったジャックはバーテンと会話を交わす。幻想にしてはあまりにリアルな表現のため、観客はきっと戸惑うことだろう。 この作品は、その後常軌を逸したジャックが斧で妻子を襲うというホラー映画なのだが、怖いわけではない。それよりも、先住民の墓の上に建ったホテルには、米国の歴史が詰まっているようなのだ。ジャックが妻を襲うシーンなど、騎兵隊がインディアンを襲う感じである。 ラストシーンは、ホテルの壁に飾られた写真へズームアップ。大勢の客のど真ん中にタキシードを着たジャックと瓜二つの男が映り、1921年独立記念日の文字で終わる。ジャックはこの男の生まれ変わりなのだ。『シャイニング』は、5人の研究家が分析したドキュメンタリー映画『ROOM237』(2012)が作られたくらい、謎に満ちた作品である。 まだオープンになっていないため、よく分からないのだが、どうやら広場につながる出入口は「施設利用者のみ通れる出入口亅になっていて、誰でも通れなくなるみたいだ。われわれが通れる出入口は、カフェを通らなければならないのだ。 そしてふと思い至った。本当はもともと「施設利用者のみ通れる通路」だったのを「誰でも通れる通路」に変更したのではないのかと。サイコドン ハ トコヤンサノセ。(脚本家)

多世代に注目してほしい街の原点【つくば建築散歩】7

つくばセンタービル この連載でも避けては通れないであろう、つくばセンタービル。 つくば市によるリニューアル問題の是非にはさほど興味を示さなかったが、そもそもこの街の多世代に親しまれているのかどうか、磯崎新アトリエのこの作品がなぜ「センター」「シンボル」なのか、若い世代の人々がどのように感じているのかに関心を寄せる。 画期的な事件 建築から都市へ、市民が眼差し開く 【鵜沢隆 筑波大名誉教授コメント】「つくばセンタービルの改修計画が、最終的に室内の改修のみに限定された(2021年12月17日付)ことは、建築の社会的、文化的、都市的文脈が認められたことで、建築に市民権が与えられた。つくばセンタービルは、筑波研究学園都市の中心的、象徴的施設であったが故に、その建築の保持が求められたということを改めて確認しておきたい。都市とは切り離せない建築の存在が、この建築の保持の意識を市民に促した。市民に共有されたそうした意識の発生は、日本においては画期的な事件であったと言えよう。 つくばセンタービルの保持運動が、筑波研究学園都市との文脈から推進されたことで、将来的には筑波研究学園都市が日本の文化遺産の空間として再認識されることであろう。ひとつの建築から都市への眼差しが開かれることで、日本における空間認識のレンジ(範囲、広がり)が都市まで確実に押し拡げられたことは疑いない。 その意味でも、つくばセンタービル・リニューアル計画の撤回は、画期的な意義を獲得している」 地域の特別なよりどころ 【建築散歩】実はこの連載で取り上げた建築のうち、筑波大学大学会館を設計した槇文彦さん、南3駐車場の伊東豊雄さん、ひたち野リフレの妹島和世さんは、磯崎新さんと同様、プリツカ―賞の受賞者だ。もちろん、ここで取り上げてきた作品だけで賞を獲得しているわけではない。つくばセンタービルリニューアル問題の折、必要以上に「建築界のノーベル賞」という表現が目立っていたことが、いささか鼻についた。ある種の評価の物差しではあるが、逆にそこを意識しても仕方がないような気がした。 逆の捉え方をすれば、つくばとその近傍には、これほどにプリツカ―賞受賞者が手がけた建築があるということ。その視点で考えれば、自慢できる地域の財産なのだ。それぞれの建築がいよいよ老朽化した時、人々はセンタービルと同様にその成り行きに関心を寄せていくのだろうか。 おそらくそうはならないだろう。だからこそつくばセンタービルには、地域の人々の特別な拠り所となる魅力もあるのだと思われる。(鴨志田隆之) 第1部 終わり ➡つくば建築散歩1 槇文彦、筑波大学大学会館はこちら➡つくば建築散歩2 鵜沢隆、筑波大学総合研究棟Dはこちら ➡つくば建築散歩3 坂倉建築研究所、つくば国際会議場はこちら➡つくば建築散歩4 谷口吉生、つくばカピオはこちら➡つくば建築散歩5 伊東豊雄、南3駐車場はこちら➡つくば建築散歩6 妹島和世、ひたち野リフレはこちら (敬称略)

新しい街の駅前ランドマーク【つくば建築散歩】6

ひたち野リフレ 常磐線ひたち野うしく駅前という立地から、「つくば建築散歩」とは言えないけれど、この建物をピックアップした意味については次回(最終回)にまとめる。設計は妹島和世建築設計事務所によるもの。妹島氏は伊東豊雄建築設計事務所から独立した建築家で、日立市の出身。 空と雲のパッチワーク映す 【鵜沢隆 筑波大名誉教授コメント】「この作品は、JRの新駅前に実現した中規模オフィスビルである。オフィスビルという空間的な凡庸さはそのままに、妹島和世は、駅側ファサード(正面)のデザインに設計のフォーカスを絞った。そのファサードはダブルスキン(2枚のガラス面構造)で、外側を横長のガラス・ルーバー(ガラス板を平行に複数並べたもの)が覆っている。 このガラス・ルーバーは日照をコントロールする意図よりも、それぞれのルーバーの取り付け角度が垂直方向に微妙に調整されることで、建築の表面に周囲の風景のリフレクション(反射)がパッチワークのように再構成される仕掛けである。 ただし竣工当初は、この建築の周囲にはほとんど建築は見当たらず、妹島の作品は、建築の表層に空のコラージュを映し出すだけであった。 竣工から10年以上が経過したが、この建築の周囲の環境はほとんど変わらず、空間密度は低いままである。したがって妹島のこの作品の表層に映るのは、未だに空のパッチワークである。 空を流れ行く雲が建築の表面に視覚化されることで、建築の存在感は、確かに希薄化されている。しかし、建築がダブルスキンという「仮面」をまとうことで、建築の都市的コンテクストの曖昧化がもたらされていることも指摘しておきたい」 女性建築家を起用 【建築散歩】1998年に完成したひたち野リフレは、新駅をコアに開発されたひたち野うしくの街びらきに合わせ、ランドマークとして計画された。都市開発者である住都公団(UR都市再生機構)では、「この建築については女性の建築家を起用したい」という初期方針を立て、当時まだ新進の域であった妹島氏に白羽の矢が当たった。 新しい街づくりの顔には、新しいコンセプトで建築にアプローチする設計者を求めたことが理由の一つだが、今だから書ける逸話として「女性建築家採用って格好いいだろう?」と、着工のときに公団幹部に耳打ちされた。軽快さや透明性を求め、建物の内側と外側の既成概念を無くしていくことが、妹島氏の建築に対するひとつのアプローチ。ひたち野リフレでは、壁面への街の映り込みにそのコンセプトが見出される。(鴨志田隆之) 続く ➡つくば建築散歩1 槇文彦、筑波大学大学会館はこちら ➡つくば建築散歩2 鵜沢隆、筑波大学総合研究棟Dはこちら ➡つくば建築散歩3 坂倉建築研究所、つくば国際会議場はこちら ➡つくば建築散歩4 谷口吉生、つくばカピオはこちら ➡つくば建築散歩5 伊東豊雄、南3駐車場はこちら ➡つくば建築散歩7 磯崎新、つくばセンタービルはこちら (敬称略)

ひと味違う立体駐車場【つくば建築散歩】5

南3駐車場 筑波研究学園都市中心部にいくつかある立体駐車場が「名建築」の域に収まるのかどうか、議論を呼びそうな気もするが、ともすれば無味乾燥なだけの立体駐車場が巨大な構造体を都心部に横たえるとどうなるのかという、都市景観の面から浮かぶ懸念を払しょくしようとした試みがある。もちろんその取り組みが成功したか否かは、見る人の主観で変わってしまうが、今回紹介する1994年完成の南3駐車場(つくば市竹園)は、ひと味違うと感じられる。 建築が都市と対峙 【鵜沢隆 筑波大名誉教授コメント】「伊東豊雄建築設計事務所が設計したこの駐車場は、すぐ近くに存在する坂倉建築研究所の南1立体駐車場(つくば市吾妻、クレオ隣)の空間構成と無縁ではない。否、それとは好対照の空間構成を意図して設計されたと言っても過言ではない。つまりこの駐車場は、南1立体駐車場とは対照的に、立体駐車場に不可欠な車の上下移動のランプ(斜路)を積極的に外に露出させることで、この建築の機能的な存在を都市の中にストレートに表出させた。 坂倉建築研究所の駐車場が、立体駐車場に不可欠な斜路の空間を建築の内側に包み込むことで、都市の建築の空間構成との連続性を求めたのに対して、伊東豊雄建築設計事務所の駐車場は、立体駐車場という建築の機能的特殊性を建築のファサード(正面)に据え、都市の建築との不連続性を際立たせることで、作品の存在を訴えかけた。車のための斜路を空中高く持ち上げて峻立する鉄骨の柱列が、この建築のさっそうとした印象を際立たせ、建築が都市と対峙する。 裏側のペデストリアンに面したファサードが、バーコードを思わせるようなルーバー配列になっていることも、もうひとつの外観を作り出している。坂倉建築研究所と伊東豊雄建築設計事務所の立体駐車場の建築を改めて対比的に見直せば、それぞれの建築作品の空間特性が際立って明らかになるはずである」 都市とのかかわりまでも織り込む 【建築散歩】紹介したいことはすべて鵜沢隆筑波大名誉教授に書き込まれてしまった。要は、機能一点張りでもかまわない都市インフラと言い切ってしまえる立体駐車場に、機能は当然のことデザインや都市とのかかわりまでも織り込むという、非常にぜいたくな計画をベースにつくられた建築物なのである。そのことは、日常の利用では気にも留めない、留める必要もないものかもしれないが、「立駐ひとつとっても、つくばのそれはよそとは違うんだよ」と自慢できるのだ。 伊東豊雄さんは今、水戸市において完成しつつある新市民会館の設計を手がけている。伊東さんの代表作には仙台市の複合公共施設・せんだいメディアテークがあるが、水戸市民会館同様、都市と建築のつながりを表現しており、鵜沢名誉教授の都市と建築の不連続性という見方とは裏腹に、南3立体駐車場もまた都市とのかかわりを浮かび上がらせる側面もあると思える。(鴨志田隆之) 続く ➡つくば建築散歩1 槇文彦、筑波大学大学会館はこちら ➡つくば建築散歩2 鵜沢隆、筑波大学総合研究棟Dはこちら ➡つくば建築散歩3 坂倉建築研究所、つくば国際会議場はこちら ➡つくば建築散歩4 谷口吉生、つくばカピオはこちら ➡つくば建築散歩6 妹島和世、ひたち野リフレはこちら ➡つくば建築散歩7 磯崎新、つくばセンタービルはこちら (敬称略)

作り手から使い手へのメッセージ【つくば建築散歩】4

つくばカピオ つくばカピオは、国際会議場よりも一足早い1996年に完成し、竹園公園エリアにおける公共建築物の意匠や高さなどの規範になった施設だが、小ぶりながらアリーナと演劇場を併せ持ち、「寄席も呼べる」と関係者間で話題になった。稼働率の高さやロケ地などでの露出も多い建物のひとつだ。設計は谷口建築設計研究所による。 緻密な空間の職人芸 【鵜沢隆 筑波大名誉教授コメント】「この巨大なボリュームの建築の魅力は、その規模ではなく、空間配置の合理性と明快さにある。そして、この大きな建築の隅々に至るまで、設計者のデザイン的感性が張り巡らされている。寡黙でありながらも、張り詰めた緊張感がこの建築にはみなぎっている。 谷口吉生のこの作品は、屋内スポーツのためのアリーナと劇場としてのホールという2つの機能を併置させたコンプレックス(複合)建築である。全く異なる機能をひとつの空間にまとめあげているのが、公園に面した北側正面の大きなキャノピー(大庇=おおひさし=)である。 8本の細長い鉄骨柱で支えられたキャノピーの東側6スパン(柱間)がアリーナ部分、西側3スパンがホール部分に対応する。南北の奥行きは全く同じであるため、建築はひとつの巨大なキューブとしてまとまられている。 アリーナとホールの境界には、ふたつの機能を管理するための廊下が南北に貫通する。このバックヤードの廊下は来館者たちの動線とは切り離されているため、ほとんど気づかれないが、その廊下の延長線上に、2階レベルで掛け渡されたブリッジがキャノピーの下から北側に伸び出して、ひとつの建築ボリュームに内在するふたつの機能の分割軸の存在を明確に視覚化している。 全く異なるふたつの機能空間をひとつの建築的ボリュームにまとめ上げることは容易ではない。そうした困難を微塵も見せず、むしろ空間の各所を破綻なくまとめあげている技こそが、谷口吉生の作品の真骨頂である。外壁パネルの割り付けから、様々な目地に至るまで、見事に一体的にコントロールされている。谷口のデザイン技法はそれらを声高に主張するのではなく、あくまでも寡黙なままにまとめ上げる、まさに緻密な空間の職人芸である」 「将来、スキルにつながっていったらいい」 【建築散歩】この施設は、当時の住都公団(現UR都市再生機構)が計画し工事発注を行った。 当時、公団筑波開発局内には「建築課」が一定期間設置されていた。メーンの仕事がカピオだったが、そもそも筑波開発局は学園都市やテクノパークといった都市開発、区画整理部隊で、建築課を置くのは少し異例の出来事だった。 ここに在籍していた若手の建築課長の仕事ぶりが印象的だった。建設工事が開始された後も、執務デスクにかじりついて何かをまとめる作業に没頭していた。何を書いているのかたずねると「建物が出来上がった後の運用マニュアル」という答えが返ってきた。 「こういった公共施設をハードだけ作って監理者や地元に投げてしまうのは不親切だと思うのです。こう使えば建物のどこが役立つ、イベントの規模から施設のどれだけの部屋や設備を効率よく使うか判断できる、そういったソフトウエアも提供していかなければ」 建築課長は「それが将来、つくば市のスキルにつながっていったらいいな」と話してくれた。(鴨志田隆之) 続く ➡つくば建築散歩1 槇文彦、筑波大学大学会館はこちら ➡つくば建築散歩2 鵜沢隆、筑波大学総合研究棟Dはこちら ➡つくば建築散歩3 坂倉建築研究所、つくば国際会議場はこちら ➡つくば建築散歩5 伊東豊雄、南3駐車場はこちら ➡つくば建築散歩6 妹島和世、ひたち野リフレはこちら ➡つくば建築散歩7 磯崎新、つくばセンタービルはこちら (敬称略)

自治体営繕課による意欲作【つくば建築散歩】3

つくば国際会議場 筑波研究学園都市中心部にあるつくば国際会議場(エポカルつくば)は、1999年に開館した。学園地区の公共建築整備のガイドラインの一つであり、周辺の公園や市街地に圧迫感を与えず、街並みと融合するような軒高を与えられている。この施設の建設に当たって民間から、現在つくばセンタービルの改修を手がける坂倉建築研究所が参加したが、設計主体は茨城県土木部営繕課だ。 現実超えた過剰性 【鵜沢隆 筑波大名誉教授コメント】つくば市で坂倉建築研究所が実現した最大の建築空間。国際会議場という特異な施設機能がつくばで成立しうるか否かについては、計画当初から熾烈(しれつ)な議論があった。そうした議論をねじ伏せるかの如く、茨城県が推進したこのプロジェクトを坂倉建築研究所は具体的な空間としてデザインした。この施設の膨大な空間的ボリュームを、都市と調和的に馴染ませる空間配置の設計手法は、成功したかに見える。 しかしながら、既に計画当初から指摘されていたこの施設の特殊性が、竣工直後からすでに問題を顕然化させることとなった。つまり、つくばの地に主要な国際会議が招致できないというジレンマに直面することとなった。茨城県の潤沢な予算を受けて坂倉建築研究所が設計した国際会議場という施設は、街の風景に紛れてはいるが、有効活用されぬままに、つくばの過剰な施設となった。 国際会議場の充実した設備は、繰り返される小規模の集会程度では、完全に消化不良をきたしている。ここでしばしば開催されている、和服の着付け教室やら美容講座など、目を覆いたいほどの現状である。現実を超えたこの施設の過剰性がこの建築の全てであり、茨城バブルの建築的象徴である。 つくば市に坂倉建築研究所が実現した多数の建築群の中でも、その初期の南1駐車場の設計思想と比較すると、この国際会議場には明確な設計理念は認められない。ぜいたくな仕上げ材やほとんど人気のないうつろで巨大なホワイエなどが目立つだけである。つくば市の国際会議場という非日常的な機能を、新たな建築的空間として提示し得なかっただけでなく、単に都市の風景の中に埋没させただけである。 東京都に続き設計競技方式を駆使 【建築散歩】地方自治体による公共建築設計は、80年代に東京都財務局が設置した建築設計候補者選定委員会が、若手建築家の発掘や国際レベルの設計競技を実施し活躍した。この動向に続いたのが茨城県。土木部営繕課が様々な設計協議方式を駆使して、県内の大型建築でそれにふさわしい設計者を選出した。県土木部には内製で設計を手がけるという事例もあり、地方公共団体としては優秀な技能士職員が育っていた。 国際会議場もそのひとつ。この当時、営繕課担当者からうかがったエピソードは「会議場の1階空間を通して、建物内外の壁や窓の感覚的な隔たりを無くしたい」というものだった。その発想が、1階フロアの広々とした間取りと、そこから眺めることのできる竹園公園やつくば公園通りとの連続性をもたらしているが、樹木が成長した現在は、2階フロアからの眺望が、学園都市の緑被率の高さを再認識できる。(鴨志田隆之) 続く ➡つくば建築散歩1 槇文彦、筑波大学大学会館はこちら ➡つくば建築散歩2 鵜沢隆、筑波大学総合研究棟Dはこちら ➡つくば建築散歩4 谷口吉生、つくばカピオはこちら ➡つくば建築散歩5 伊東豊雄、南3駐車場はこちら ➡つくば建築散歩6 妹島和世、ひたち野リフレはこちら ➡つくば建築散歩7 磯崎新、つくばセンタービルはこちら (敬称略)

キャンパスの風景変える開放系のファサード【つくば建築散歩】2

筑波大学 総合研究棟D 2000年代初頭、筑波大では部分的なキャンパスリニューアルを進め、次世代研究や授業の拠点となる施設を新築した。中でも、従前の大学施設に見られる茶褐色系の落ちついた意匠から離れ、メタル系の外装とガラスカーテンウオールを駆使した斬新な建物として2004年に完成したのが総合研究棟Dだ。本連載のコメンテーターである筑波大学名誉教授の鵜沢隆さんの設計作品でもある。 視点の移動で表情が変化 【鵜沢名誉教授コメント】「学内を環状に循環するループ幹線道路の南端の敷地に、新たな大学院教育・研究施設を設計するにあたり、道路に沿って湾曲した建築のボリューム計画が、その必然的なスタートラインであった。それに対して大学施設部からは、他の大学施設との連続性から、キュービックなボリュームの建築が強く求められたが、最終的にはデザインに対する全面的な理解と支持を獲得して実現した。 主要な設計意図は、緩くカーブする開放的で、柔らかな外観の表現と、連続的に変化する道路からの視点に応じて表情が変化する、建築の外観の実現にあった。 そこで採用されたファサード(正面の外観)の素材が、開放的なガラスとFRP(繊維強化プラスチック)のグレーチング(格子状の構造材)であった。FRPのグレーチングは、視点の移動による表情の変化が意図されただけでなく、直射日光や西日のコントロールのためにも採用された素材であった。その結果、教育・研究施設としての開放的な空間を実現したばかりか、筑波大学の新しい建築のシンボルとして学内外から受け入れられることにもなった。 建築の外観のみならず、各階のインテリアには様々なデザイン的仕掛けが施されているが、教員や学生たちには、それらのデザインはすでに日常的な風景となっているようだ」 次世代のイメージを実現 【建築散歩】この建築プロジェクトで、名誉教授で建築家の鵜沢隆さんと出会った。 当時、芸術学系教授であった鵜沢さんは、学生が通って快適さを感じる開放的な建物を提案した。建物はキャンパス内をループする周回道路沿いの建設敷地で、周回道路に沿った外観を特徴とするような配置計画を描き、実際の研究棟も道路側ではけやき通りからかえで通りに連なる道の、アールに寄り添うような曲面で建設されている。 このファザードが、今ではスタンダードとなった金属製ルーバー(細長い板を平行に複数並べたもの)による意匠表現を与えられ、研究棟本体がコンクリートの塊である様子を感じさせない。ルーバーの内側はサッシュ(窓枠)を含めたガラスのカーテンウオールが見え隠れしており、質実剛健な印象を与えた他の総合研究棟に対して、並木道と融合した次世代のキャンパスイメージを実現させた。 設計は、東京ビッグサイトの設計で有名な佐藤総合計画が協力している。佐藤総合計画は、土浦市役所旧庁舎(2020年5月17日付)や改修以前の土浦市民会館(20年5月16日付)を手がけた佐藤武夫建築設計事務所が前身だ。(鴨志田隆之) 続く ➡つくば建築散歩1 槇文彦、筑波大学大学会館はこちら  ➡つくば建築散歩3 坂倉建築研究所、つくば国際会議場はこちら ➡つくば建築散歩4 谷口吉生、つくばカピオはこちら ➡つくば建築散歩5 伊東豊雄、南3駐車場はこちら ➡つくば建築散歩6 妹島和世、ひたち野リフレはこちら ➡つくば建築散歩7 磯崎新、つくばセンタービルはこちら (敬称略)

学園都市黎明期の原風景【つくば建築散歩】1

筑波大学 大学会館 2022年は、筑波研究学園都市の開発建設に関する閣議了解、正確には国の省庁・機関を茨城県南部へ移転させる閣議了解(1967年)から55年、国家公務員宿舎の入居開始(1972年)から50年にあたる。半世紀にわたる都市の成長、成熟の中で、建設省(現国土交通省)、住宅・都市整備公団(現UR都市再生機構)などの公的機関が多くの建築物を手がけ、様々な建築家や設計事務所を採用したことで、筑波研究学園都市自体が都市開発と建築物の博物誌を醸成する結果となった。 現存するつくばの名建築を紹介する第1弾として7カ所を紹介する。しかしこれは「つくばでうまいラーメン屋はどこでしょうか」と問われるのとあまり変わりなく、あちらを立てたらこちらもか、建築ごとに好き嫌いの意見も分かれそうだ。 今回、つくば市在住の建築家であり、筑波大学名誉教授の鵜沢隆さんに建築物の紹介をお願いした。写真は、同じくつくば市在住の写真家として活躍する斎藤さだむさんが、書籍「つくば建築フォトファイル」に収録した竣工当時の撮影写真を提供していただいた。同書を出版するNPOつくば建築研究会からも、収録写真の使用について快諾をいただけた。 どこから始めたものかで迷った中、初回は槇総合計画事務所、槇文彦さんの設計による筑波大学大学会館とした。連載のスタイルとして、まず鵜沢名誉教授の建築紹介から始める。 その後の大学の外観意匠決定付ける 【鵜沢名誉教授コメント】「筑波大学開学初期の中心的施設で、その外壁の暗い赤茶色の仕上げとキュービックなボリュームが、その後の各大学施設の外観意匠を決定付けた。大学諸施設に落ち着いた統一感は生まれたものの、全体的に沈鬱(ちんうつ)なキャンパスの印象をつくり出した点も否定できない。 キャンパスの中心的施設でありながら、学内のペデストリアンに対してのみ開かれた建築であるため、大学外部からのアクセスは不明瞭で、孤立した大学施設の印象は否めない。 そうしたネガティブな機能を補完するため、大学会館に接続し、大学の新たな玄関口となる空間の設計を大学本部から私が依頼された。こうして2006年に竣工したのが、開学30周年記念「総合交流会館」(あす2日付で紹介)である。 学内外の交流と大学の情報発信の象徴的な拠点として、大学会館の閉鎖的な空間とは対照的に、開放的な「ガラスボックス」を大学会館に貫入させる意匠となった。この施設の実現によって、学外からの車による直截的なアクセスが視覚化された」 キャンパスの顔 【建築散歩】旧東京教育大学を改称し、1973年に設置された筑波大学は、研究学園都市の研究学園地区内に4つのコアをゾーニングして整備された。そのうち中央コアと呼ばれる、文字通りキャンパスのセンターゾーンに、同じ槇文彦さんが設計し1974年に完成した大学会館が所在する。 中央コアは複数の建物が中庭を囲むように配置されており、学内行事に活用される会館のほか、外来者にも対応したレストランや商業店舗、宿泊機能が網羅されている。80年代に都市整備を所管していた住都公団(UR都市再生機構)の案内でキャンパスを訪ねた折、公団担当者は「東京大学との比較は無意味かもしれませんが、筑波大は、広く世界と交流し、物事を提案する人材育成を目指しています」と語っていた。 大学会館は、学生達がコミュニケーションを図り、内外への情報発信を行う空間であり、研究学園地区を貫くペデストリアンデッキからもキャンパスの「顔」としてたたずむ。用途は開放形だが、会館を含む中央コアの建物群は、さながら要塞のようにも見える。 大学会館と共に槇さんは体芸棟を設計した。壁面がガラスのブロックパネルで構成された体芸棟は、筑波山に向かって大学会館を目指す門の役割を果たす。 槇さんは、ヒルサイドテラス(東京都渋谷区、旧山手通り)、幕張メッセ、同新展示場・北ホール(千葉市)や朱鷺メッセ(新潟市)、横浜アイランドタワー(横浜市)、東京体育館等で知られるが、85年のつくば科学博Aブロック外国展示館、民間企業研究所といった、つくばでの建築も手がけている。(鴨志田隆之) 続く ➡つくば建築散歩2 鵜沢隆、筑波大学総合研究棟Dはこちら ➡つくば建築散歩3 坂倉建築研究所、つくば国際会議場はこちら ➡つくば建築散歩4 谷口吉生、つくばカピオはこちら ➡つくば建築散歩5 伊東豊雄、南3駐車場はこちら ➡つくば建築散歩6 妹島和世、ひたち野リフレはこちら ➡つくば建築散歩7 磯崎新、つくばセンタービルはこちら (敬称略)

延期半年 3月11日から開催へ つくばの街と山をつなぐ芸術祭

コロナ禍のため延期されていた「つくばの街と山をつなぐ芸術祭(つくばアートサイクルプロジェクト)」の開催が、3月11日から4月10日までと決定した。参加作家は国内外から35人以上、展示拠点は筑波山神社を含む全11カ所となり、仕切り直し前から共に増えた。プロジェクト実行委員会の野堀真哉委員長は「約半年の延期でつくばセンタービルが使えなくなるなどしたが、先行させる筑波山エリアでは1カ月のロングランとなり、色々楽しんでもらえるようになった」と企画の追い込みをかける。 テーマに「アントロポセン-分岐点を超えた景色」を掲げる。アントロポセン(人新世)は、新しい地質年代をさす造語。地質学的な意味づけは「人類の活動が地球規模で環境を激変させ、長期的な痕跡を残す時代」。この時代にアーティストは何を感じ表現するのかを問いかけた。 会場を筑波山周辺の山エリア、つくば駅周辺の街エリアの双方に複数箇所設定するのが特色。つくばでは、アートに関わる様々なイベントが散発的に開催されているが、“街でやっていること”“山でやっていること”と互いの距離感があるよう感じられたのがプロジェクトの立ち上げとなった。展示品のみが主役のイベントではなく、つくばの地域性を知りながら、その場所性を生かした現代アートを通し、芸術に触れ、地域に触れ、歴史に触れる機会を作るのがねらい。当初、昨年9月の13日間の開催が予定されたが、コロナ禍から延期となっていた。(21年9月8日付) 仕切り直し後は、山エリアが3月11日からと開催を先行させる。展示会場は、BASE877、筑波山神社、江戸屋、旧小林邸ひととき、神郡石蔵shiten:、北条川田邸を予定。野堀委員長は「登山道を使ったインスタレーションの計画もあり、会期中には筑波山神社の御座替わり(4月1日)も行われる。りんりんロードでは沿道の桜が見ごろを迎えるはず」と芸術鑑賞に留まらない楽しみ方をアピールしている。 センター地区の街エリアは4月2日から10日の開催。つくば美術館、桜民家園が中心になる。研究学園地区イーアス内のサイバーダインスタジオは3月11日~4月10日の会期。 鑑賞には共通パスポートが必要。各会場で取り扱い。昨年実施のクラウドファンディングで、リターンにパスポートを求めた応募者には郵送の予定という。(相澤冬樹) ◆つくばアートサイクルプロジェクト2021-22 ▽日程:山エリア・サイバーダインスタジオ 3月11日(金)~4月10日(日) センターエリア4月2日(土)~10日(日)▽会場時間:10:00–17:00 *最終日15:00まで▽休場日:毎週月曜日(桜民家園10:00–16:00 毎週水曜日休み)▽入場:共通パスポート(会期中何度でも入場可能)一般1500円 学生1100円 (税込み)会場や出展作家など詳しくはプロジェクトのホームページで

「深く反省し寄り添う市政徹底させる」 不登校学習支援事業者選定めぐり つくば市長

つくば市議会3月定例会が14日開会し、五十嵐市長は新年度の施政方針を述べた。不登校学習支援委託事業者の選定をめぐって、保護者会が事業者の継続を要望している問題(1月20日付)について触れ、「結果として、現在の利用者や保護者に多大な不安を与えてしまっている」と話し「今後決して同様の事態を招かないために私自身が深く反省し、寄り添う市政という心を全庁に徹底的に浸透させていく」などと述べた。 昨年12月に市が公募した委託事業者のプロポーザルでは4社が応募し、現在、不登校児童生徒の学習支援をする「むすびつくば」を運営するNPO法人リヴォルヴ学校教育研究所が次点になり、別の民間事業者が1位に選定された。 選定について五十嵐市長は施政方針の中で「さまざまな事情を背景に学校に通えなくなっていた子供たちが、ようやく自分の居場所を見つけることができたにも関わらず、事前の周知もなく突然、実施主体が変更されることを知らされ、不安な状況をつくってしまった原因は、寄り添う市政の徹底を実現できていない私のまぎれもない力不足であり、子供たち、保護者の皆さまに本当に申し訳なく思っています」と謝罪した。 一方、具体的にどうするかについては「現在、保護者、関係者から意見をいただきながら子供たちの不安を何とか解消できるように努力をしているところ」と述べるにとどまった。 2050ゼロカーボンシティを宣言 新年度の市政運営の所信については、新型コロナ対応を最重要課題として自宅療養者への物資支援、市独自のPCR検査などをする、科学技術都市つくばの強みを生かしスーパーサイエンスシティ構想の実現を引き続き目指す、中心市街地ではつくばセンタービルのリニューアルの一環で新たな市民活動拠点の整備を進め、周辺市街地では空き店舗を活用したチャレンジショップの開設や地域振興を担う人材発掘に取り組む、誰一人取り残さない社会を実現するため生活困窮者自立支援、障害者の日常生活と社会生活の支援、子どもの貧困対策、高齢者の買い物支援などに取り組む、教育ではスクールカウンセラー、スクールソーシャルワーカー、学校サポーター配置を充実させるなどと話した。 さらに2050年までに二酸化炭素排出量を実施ゼロにする「ゼロカーボンシティ」を目指すと宣言した。国は2020年10月に、2050 年までに二酸化炭素の実質排出量をゼロにするカーボンニュートラル、脱炭素社会の実現を目指すことを宣言している。 低炭素社会の実現に向けた新年度の具体的施策としては、宅配便の再配達回数を減らし二酸化炭素排出量を削減するため集合住宅の所有者に宅配ボックス設置費用の一部を補助する、家庭から排出される生ごみの減量と自家処理を目指し電気式生ごみ処理機やコンポスト購入費の一部を補助する、リサイクルのさらなる促進のためプラスチックごみの収集回数を現在の月2回から月4回に増やすーなどを挙げた。(鈴木宏子)

「オズの国」とつくば 《映画探偵団》52

【コラム・冠木新市】米国映画史を代表する『オズの魔法使』と『風と共に去りぬ』は、1939年8月と12月に公開され、どちらも監督はビクター・フレミングだった。だがそうした事実よりも、両作品から強烈な影響を受けたのが、13歳のノーマ・ジーン、後のマリリン・モンローである。 父親不明のモンローは、映画編集者だった母親から、この人が父親とクラーク・ゲーブルの写真を示され、信じた。後年、『荒馬と女』(1961)で共演し、「少女のころから憧れてきて、今、そのレッド・バトラーに会ってたのよ!」との言葉が残されている。 『オズの魔法使』のJ・ガーランド また、母親の親友のおばさんに育てられていたモンローは、『オズの魔法使』の主人公ドロシー役を演じた、ジュディ・ガーランド(16歳)を見てファンとなった。モンローはドロシーの姿に自分を重ねた。 確かに、ドロシー役はモンローの少女時代を彷彿(ほうふつ)とさせる。モンローが『オズの魔法使』に言及した資料は見当たらないのだが、葬儀で流されたパイプオルガンの曲が『オズの魔法使』のテーマ『虹の彼方に』だったことで、そう推定してよいと思う。 ドロシーは孤児で、エムおばさんに育てられる。そのカンサス州は何もない場所で、映画ではセピア色で表現され、モノクロの印象に近い。ある日、大竜巻に犬のトトと部屋ごと飛ばされ、オズの国に着く。すると、このシーンからカラーになる。 ドロシーは、脳みそのない案山子(かかし)、ハートのないブリキ人形、臆病なライオンと一緒になり、エメラルドの都を目指す。そこには城があり、願いをかなえる大魔王が住んでいる。ドロシーは大魔王に、故郷に戻してくださいとお願いをする。 大魔王は緑色の巨大な鬼みたいな顔で炎に包まれている。いかにも不気味で恐ろしい。だがラスト近くで、それはペテン師オズが作った映像だと、正体が明らかになる。そして、冒険をへて故郷に戻ったドロシーは「家ほどいいところないわ」と語る。 退屈な現実世界が、夢の国オズから戻ると、一番よい場所だったとなる寓話だが、少女時代のモンローにとっては、逆にエメラルドの都が魅力だったに違いない。映画の都ハリウッドを連想させるからだ。 「つくばを歌った曲がこんなにあるとは」 1月30日。「つくばセンタービル謎解きツアー」(主催・つくばセンター研究会)は最終の8回目。103名が参加して終えることができた。 2月6日。ホテルグランド東雲で「新春つくこい祭ツアー」(主催・国際美学院/つくば舞踊研究会、64名が参加)をプロデュースした。 センター地区からバスに乗り、筑波山に向かい、疫病退散の踊りを披露するという設定で、3部形式の第1景「筑波組曲」では筑波の歌8曲を踊ったが、予想以上に好評だった。長年つくば市に住む婦人が「こんなにも地元を歌った曲があるとは思わなかった」と驚いていた。 翌日、疲れが残る中、久しぶりに『オズの魔法使』を見直した。ドロシーたちを苦しめる西の魔女を見ているうちにウトウト寝てしまい、「オズの国」と「ツクバ・シティ」がゴッチャになってしまった。 今年はマリリン・モンロー没後60年。ツクバに暮らす13歳の少女は何を夢見ているのだろうか。つくばほどいいところはない。サイコドン ハ トコヤンサノセ。(脚本家)

「オズの国」とつくば 《映画探偵団》52

【コラム・冠木新市】米国映画史を代表する『オズの魔法使』と『風と共に去りぬ』は、1939年8月と12月に公開され、どちらも監督はビクター・フレミングだった。だがそうした事実よりも、両作品から強烈な影響を受けたのが、13歳のノーマ・ジーン、後のマリリン・モンローである。 父親不明のモンローは、映画編集者だった母親から、この人が父親とクラーク・ゲーブルの写真を示され、信じた。後年、『荒馬と女』(1961)で共演し、「少女のころから憧れてきて、今、そのレッド・バトラーに会ってたのよ!」との言葉が残されている。 『オズの魔法使』のJ・ガーランド また、母親の親友のおばさんに育てられていたモンローは、『オズの魔法使』の主人公ドロシー役を演じた、ジュディ・ガーランド(16歳)を見てファンとなった。モンローはドロシーの姿に自分を重ねた。 確かに、ドロシー役はモンローの少女時代を彷彿(ほうふつ)とさせる。モンローが『オズの魔法使』に言及した資料は見当たらないのだが、葬儀で流されたパイプオルガンの曲が『オズの魔法使』のテーマ『虹の彼方に』だったことで、そう推定してよいと思う。 ドロシーは孤児で、エムおばさんに育てられる。そのカンサス州は何もない場所で、映画ではセピア色で表現され、モノクロの印象に近い。ある日、大竜巻に犬のトトと部屋ごと飛ばされ、オズの国に着く。すると、このシーンからカラーになる。 ドロシーは、脳みそのない案山子(かかし)、ハートのないブリキ人形、臆病なライオンと一緒になり、エメラルドの都を目指す。そこには城があり、願いをかなえる大魔王が住んでいる。ドロシーは大魔王に、故郷に戻してくださいとお願いをする。 大魔王は緑色の巨大な鬼みたいな顔で炎に包まれている。いかにも不気味で恐ろしい。だがラスト近くで、それはペテン師オズが作った映像だと、正体が明らかになる。そして、冒険をへて故郷に戻ったドロシーは「家ほどいいところないわ」と語る。 退屈な現実世界が、夢の国オズから戻ると、一番よい場所だったとなる寓話だが、少女時代のモンローにとっては、逆にエメラルドの都が魅力だったに違いない。映画の都ハリウッドを連想させるからだ。 「つくばを歌った曲がこんなにあるとは」 1月30日。「つくばセンタービル謎解きツアー」(主催・つくばセンター研究会)は最終の8回目。103名が参加して終えることができた。 2月6日。ホテルグランド東雲で「新春つくこい祭ツアー」(主催・国際美学院/つくば舞踊研究会、64名が参加)をプロデュースした。 センター地区からバスに乗り、筑波山に向かい、疫病退散の踊りを披露するという設定で、3部形式の第1景「筑波組曲」では筑波の歌8曲を踊ったが、予想以上に好評だった。長年つくば市に住む婦人が「こんなにも地元を歌った曲があるとは思わなかった」と驚いていた。 翌日、疲れが残る中、久しぶりに『オズの魔法使』を見直した。ドロシーたちを苦しめる西の魔女を見ているうちにウトウト寝てしまい、「オズの国」と「ツクバ・シティ」がゴッチャになってしまった。 今年はマリリン・モンロー没後60年。ツクバに暮らす13歳の少女は何を夢見ているのだろうか。つくばほどいいところはない。サイコドン ハ トコヤンサノセ。(脚本家)

一般会計1千億円突破 4年連続で過去最大更新 つくば市22年度当初予算案

つくば市の五十嵐立青市長は3日、2022年度当初予算案を発表した。一般会計は前年度当初比13.2%増の1015億3200万円となり、初めて1000億円を突破し、4年連続で過去最大を更新する。特別会計などを加えた総額も同比8.5%増の1622億6700万円となり、こちらも4年連続過去最大となる。 BMXコース、スケボーパークなど整備 児童生徒数の急増により、研究学園小中学校(44億9200万円)、香取台地区小学校(22億7300万円)、みどりの南小中学校(22億5000万円)の3校の建設を進めるのが主な要因。さらにみどりの地区に屋内温水プールを建設し24年4月のオープンを目指す(11億1900万円)。給食センターも2020年に谷田部地区に新設したばかりが、足りなくなる見通しであることから、新桜学校給食センターを新設するための設計を実施する(3800万円)。 主な新規事業は、廃校となった旧筑波東中学校にBMX(自転車のモトクロス競技)コースなど自転車拠点(2億2300万円)と、ジオパーク中核拠点(1億5000万円)を整備する。さくら運動公園北側の流星台に2023年4月オープンを目指しスケートボードパークを整備する(5400万円)。 さらに筑波山ふれあいの里を魅力あるアウトドア体験施設とするためキャンプ場改修の設計を実施する(1500万円)ほか、市北部の廃校を文化芸術創造拠点とするため基本計画策定や改修を実施する(1300万円)。 課題となっている最終処分場は、焼却灰などの最終処分を委託している下妻市内の民間最終処分場が満杯になり受け入れができなくなることから、4月から山形県米沢市に加え、新たに青森、秋田県内の最終処分場に処分を委託する。これにより最終処分費が前年度と比べ8600万円増え、4億1100万円になる。一方、ごみ減量のため生ごみ処理容器購入補助金を3倍に増やし500万円を計上する。 コミュニティバス「つくバス」(4億1200万円)は、実証実験を行っていた茎崎地区の路線バスをつくバス路線とするほか、上郷シャトルを増便する。筑波地区の支線型バス(4900万円)は4コースのうち3コースを廃止し1コースのみで本格的に運行する。新たな実証実験として、学園の森を経由する石下-土浦路線と松代地区の路線バスに2路線に負担金(760万円)を出す実証実験を行う。 昨年12月、計画を大幅に見直したつくばセンタービルの改修は、市民活動拠点の整備工事などに2億6700万円を計上する。エスカレーター2基の設置などが無くなったが、全体事業費は9億円で、当初より約8000万円安くなるにとどまるという。 コロナ対策としては、昨年暮れ、子育て世帯臨時特別給付金10万円の給付を受けることができなかった離婚家庭の子供などに市独自に10万円を給付する(給付金2400万円)。中小企業の販路拡大補助や雇用促進支援など経済支援を継続し1億3800万円を計上する。 ほかに、市民に正しい情報を発信するためとして、市政情報を深く知ってもらうための「かわら版」の発行回数を増やすほか、動画によるかわら版チャンネルを制作・配信などする(6400万円)。 一方、歳入のうち市税収入は、人口増加に伴う個人市民税や固定資産税の増加により前年度当初比5.5%増の約484億7500万円を見込む。前年度当初はコロナ禍により税収が減ると見込んでいたが、給与所得者が多い人口構成のため、全体として大きな影響はなかったとして新年度は増加を見込んだとしている。 借金である市債は同比71.5%増の105億2500万円を発行し、一般会計の市債残高は今年3月末の567億5900万円より43億円増え、22年度末は611億2400万円になる見込み。(鈴木宏子)

市民派つくば市長 市民運動に敗北《吾妻カガミ》124

【コラム・坂本栄】つくばセンター広場改修は五十嵐市政の注目施策でしたが、市民グループの反対キャンペーンによって撤回に追い込まれました。市民運動の延長で市長になった五十嵐さんが市民運動に敗北したこの流れ、市政の原点を忘れてしまったことが敗因だったようです。 3改修案の1つを取り下げ センター広場改修計画のポイントは、エスカレーターを2基設置する(うち1基は途中で取り下げ)、広場を囲む外壁の一部を造り変える、ノバホールとセンタービル間の外階段をスロープ化する―など、ここをデザインした著名設計者・磯崎新氏の意匠をあちこちいじるほか、利用者の安全を軽視するものでした。 これに対し、学園都市のシンボル的な構造物に傷を付けるなと、市民グループ「つくばセンター研究会」が猛反対。市は結局、広場に手を入れるのを諦めました。詳しくは「…改修計画を大幅見直し」(2021年12月7日掲載)をご覧ください。 つくば駅側のセンター地区を改修する計画は、ゾーンA:センター広場改修(上記2パラ目参照)、ゾーンB:ノバホールやイノベーションプラザ改修(市民活動施設の整備)、ゾーンC:センタービル1階改修(まちづくり会社による貸室などの整備)―の3本柱で構成されています。 改修プランの3分の1に当たる「ゾーンA:センター広場改修」案は、策定作業上のミスだったことになります。 センター地区改修は市民の意見を聴く必要がある「大型事業」ではないという理屈を掲げて、市が執行部主導で策定した改修事業の問題点については、本コラムでも何度か取り上げました。例えばコラム112「…つくば市政 揺らぐその原点」(2021年8月2日掲載)では、以下のように指摘しました。 「広く意見を聴いて施策を進めるという五十嵐市政の基本がお留守になり、事業の策定作業がオープンになっていないと、市民グループから批判されています。五十嵐さんは執行部主導で施策を進めた前市長を批判する運動を繰り広げ、その勢いに乗って市長になった人です。その原点ともいうべきところを突かれるという、おかしな展開になってきました」 企画立案の早い段階で原点に戻っていれば、A+B+C中のAを止めるといった恥ずかしいことにならなかったでしょう。市政運営の原点を忘れたことが失政につながりました。 3セクの「まちづくりごっこ」 ゾーンCのセンタービル1階改修も危うさを抱えています。記事「まちづくり会社 3億円調達にメド…」(2021年12月17日掲載)を読んで、改修後に貸室業などを行うこの会社の資金調達手法を知り、その複雑な手順に驚きました。 政府系金融機関と地元銀行にファンド(投資資金)を設けてもらい、そのファンドにまちづくり会社が発行する返済順位が劣る社債を引き受けてもらう(おカネを貸してもらう)という、込み入った手法です。 まちづくり会社(市が筆頭株主の第3セクター)は増資とか銀行借入といったシンプルな手法をどうして使わなかったのでしょうか? 他の株主や銀行から収支に問題があると思われ、ごく普通のやり方で資金が調達できなかったため、経営リスク承知のファンドに劣後債を引き受けてもらったのでしょうか? センタービルが建つ吾妻1丁目は市の超一等地です。私はコラム87「つくばセンタービル再生の問題点」(2020年8月3日掲載)で、市は区分所有権を大手開発企業に売り払い、駅周辺を活性化するビジネスゾーンに整備してもらったらどうかと書いたことがあります。 まちづくり会社によるセンタービル1階改修(小貸室、小会議室、共同区画、喫茶室などを細々と配置)は、「まちづくりごっこ」ではないでしょうか。地価が高い区画の利用法としてはもったいない気がします。(経済ジャーナリスト)

市民派つくば市長 市民運動に敗北《吾妻カガミ》124

【コラム・坂本栄】つくばセンター広場改修は五十嵐市政の注目施策でしたが、市民グループの反対キャンペーンによって撤回に追い込まれました。市民運動の延長で市長になった五十嵐さんが市民運動に敗北したこの流れ、市政の原点を忘れてしまったことが敗因だったようです。 3改修案の1つを取り下げ センター広場改修計画のポイントは、エスカレーターを2基設置する(うち1基は途中で取り下げ)、広場を囲む外壁の一部を造り変える、ノバホールとセンタービル間の外階段をスロープ化する―など、ここをデザインした著名設計者・磯崎新氏の意匠をあちこちいじるほか、利用者の安全を軽視するものでした。 これに対し、学園都市のシンボル的な構造物に傷を付けるなと、市民グループ「つくばセンター研究会」が猛反対。市は結局、広場に手を入れるのを諦めました。詳しくは「…改修計画を大幅見直し」(2021年12月7日掲載)をご覧ください。 つくば駅側のセンター地区を改修する計画は、ゾーンA:センター広場改修(上記2パラ目参照)、ゾーンB:ノバホールやイノベーションプラザ改修(市民活動施設の整備)、ゾーンC:センタービル1階改修(まちづくり会社による貸室などの整備)―の3本柱で構成されています。 改修プランの3分の1に当たる「ゾーンA:センター広場改修」案は、策定作業上のミスだったことになります。 センター地区改修は市民の意見を聴く必要がある「大型事業」ではないという理屈を掲げて、市が執行部主導で策定した改修事業の問題点については、本コラムでも何度か取り上げました。例えばコラム112「…つくば市政 揺らぐその原点」(2021年8月2日掲載)では、以下のように指摘しました。 「広く意見を聴いて施策を進めるという五十嵐市政の基本がお留守になり、事業の策定作業がオープンになっていないと、市民グループから批判されています。五十嵐さんは執行部主導で施策を進めた前市長を批判する運動を繰り広げ、その勢いに乗って市長になった人です。その原点ともいうべきところを突かれるという、おかしな展開になってきました」 企画立案の早い段階で原点に戻っていれば、A+B+C中のAを止めるといった恥ずかしいことにならなかったでしょう。市政運営の原点を忘れたことが失政につながりました。 3セクの「まちづくりごっこ」 ゾーンCのセンタービル1階改修も危うさを抱えています。記事「まちづくり会社 3億円調達にメド…」(2021年12月17日掲載)を読んで、改修後に貸室業などを行うこの会社の資金調達手法を知り、その複雑な手順に驚きました。 政府系金融機関と地元銀行にファンド(投資資金)を設けてもらい、そのファンドにまちづくり会社が発行する返済順位が劣る社債を引き受けてもらう(おカネを貸してもらう)という、込み入った手法です。 まちづくり会社(市が筆頭株主の第3セクター)は増資とか銀行借入といったシンプルな手法をどうして使わなかったのでしょうか? 他の株主や銀行から収支に問題があると思われ、ごく普通のやり方で資金が調達できなかったため、経営リスク承知のファンドに劣後債を引き受けてもらったのでしょうか? センタービルが建つ吾妻1丁目は市の超一等地です。私はコラム87「つくばセンタービル再生の問題点」(2020年8月3日掲載)で、市は区分所有権を大手開発企業に売り払い、駅周辺を活性化するビジネスゾーンに整備してもらったらどうかと書いたことがあります。 まちづくり会社によるセンタービル1階改修(小貸室、小会議室、共同区画、喫茶室などを細々と配置)は、「まちづくりごっこ」ではないでしょうか。地価が高い区画の利用法としてはもったいない気がします。(経済ジャーナリスト)

映画人・根岸寛一を追って 《映画探偵団》51

【コラム・冠木新市】世界映画史上ベスト10に常々ランクインされる、米映画『市民ケーン』(1941)を久し振りに見た。オーソン・ウェルズが25歳のとき、映画初出演の劇団員と作り上げた監督第1作で、実在する新聞王ハーストをモデルにした伝記映画だ。 オーソン・ウェルズ監督『市民ケーン』 奇っ怪なザナドゥ城で、ひげの老人が「バラのつぼみ」という言葉を残し亡くなる。すると急にニュース画面となり、新聞王ケーンの訃報が流れ、彼の業績が紹介されたあと、突然画面は暗くなり、そこは映写室であることが分かる。新聞経営者が、ケーンが残した「バラのつぼみ」の意味を探れと、記者のトンプソンに指示を出す。 トンプソンは、ケーンの2度目の元妻、後見人サッチャーの回顧録が収められた図書館、仕事上の旧友2人、ザナドゥ城の執事を訪ねる。記者は狂言回しの探偵役なのだが、その描写は後ろ姿だったりして、ほとんど目立たない。目立つのは5人が語るケーン像である。また「君は市民を愛していると思わせて、自分を愛して欲しいだけだ」など、5人が語るケーンの人物評が鋭い。 「バラのつぼみ」の意味は、結局分からぬままに終わるのかと思わせて、ラストシーンで観客だけがその答えを知る。そしてこれまでの物語を振り返ると、強気一辺倒だったケーン像がまた異なって見えてくるから面白い。 筑波郡小田村出身満洲映画で活動 実は私も「バラのつぼみ」を探している。それは旧筑波郡小田村出身の映画人・根岸寛一の生涯を追いかけているからだ。根岸(1894―1963)は、戦前の芸能史、日本映画史、アジア史で重要な役割を果した人物だが、今ではほとんど忘れ去られている。つくば市でも知っている人はほぼ皆無だろう。 ▽大正9年(1920):根岸興業部にいた根岸は、社長の小泉丑治と土浦生まれの作家高田保との3人で根岸歌劇団を結成し、浅草にオペラを根付かせた。現在の日本オペラのルーツと言っても過言ではない。 ▽昭和10年(1935):経営悪化した日活多摩川撮影所長となり、『人生劇場 青春篇』『真実一路』『裸の町』『大菩薩峠』『土』など次々と名作・力作を連発。内田吐夢、田坂具隆などの名監督を育て、3年間で空前絶後の歴史を作った。 ▽昭和13年(1938):海を渡って満洲国に入る。満洲映画協会の理事として活動。大陸3部作『白蘭の歌』『支那の夜』『熱砂の誓い』で、李香蘭(山口淑子)をアジアの大スタアに育てあげた。 ▽昭和20年(1945):日映の社長となる。広島に落ちた原爆記録映画を即座に作る。8月末、フィルムは米軍に没収される。昭和42年(1967)、映画は日本に返還され、翌年、10数分カットされテレビ放映されたが、以後、文部省の倉庫に密閉される。根岸は日本初の原爆映画を作った男なのである。 ▽昭和21年(1946):日映退社後、東横映画(後の東映)に参画。満洲から帰国する仲間たちの受け皿を作り、日本映画界を代表する会社の礎を築き上げる。 自分のことをほとんど語らなかった 根岸は、ほとんど自分のことを語らなかったから、資料もない。唯一、仕事仲間だった岩崎昶の評伝『根岸寛一』があるだけだ。それによると、根岸は若いころから、大小説家を目指していたという。亡くなる直前まで日記を付け、読書を続けた。小説の構想もあったに違いない。 どんな物語を考えていたのだろうか。そのタイトルが「バラのつぼみ」に相応するのではないかと私は思っている。根岸寛一を探る旅はまだまだ続きそうだ。サイコドン ハ トコヤンサノセ。(脚本家) <新春つくばセンタービル謎解きツアー>・内容:ビルに隠された建築の謎を解きながらビルを回ります・日時:1月30日(日)午後1時から約1時間・定員:10人前後(小中高生大歓迎)、参加費無料・予約:090-5579-5726(冠木)

映画人・根岸寛一を追って 《映画探偵団》51

【コラム・冠木新市】世界映画史上ベスト10に常々ランクインされる、米映画『市民ケーン』(1941)を久し振りに見た。オーソン・ウェルズが25歳のとき、映画初出演の劇団員と作り上げた監督第1作で、実在する新聞王ハーストをモデルにした伝記映画だ。 オーソン・ウェルズ監督『市民ケーン』 奇っ怪なザナドゥ城で、ひげの老人が「バラのつぼみ」という言葉を残し亡くなる。すると急にニュース画面となり、新聞王ケーンの訃報が流れ、彼の業績が紹介されたあと、突然画面は暗くなり、そこは映写室であることが分かる。新聞経営者が、ケーンが残した「バラのつぼみ」の意味を探れと、記者のトンプソンに指示を出す。 トンプソンは、ケーンの2度目の元妻、後見人サッチャーの回顧録が収められた図書館、仕事上の旧友2人、ザナドゥ城の執事を訪ねる。記者は狂言回しの探偵役なのだが、その描写は後ろ姿だったりして、ほとんど目立たない。目立つのは5人が語るケーン像である。また「君は市民を愛していると思わせて、自分を愛して欲しいだけだ」など、5人が語るケーンの人物評が鋭い。 「バラのつぼみ」の意味は、結局分からぬままに終わるのかと思わせて、ラストシーンで観客だけがその答えを知る。そしてこれまでの物語を振り返ると、強気一辺倒だったケーン像がまた異なって見えてくるから面白い。 筑波郡小田村出身 満洲映画で活動 実は私も「バラのつぼみ」を探している。それは旧筑波郡小田村出身の映画人・根岸寛一の生涯を追いかけているからだ。根岸(1894―1963)は、戦前の芸能史、日本映画史、アジア史で重要な役割を果した人物だが、今ではほとんど忘れ去られている。つくば市でも知っている人はほぼ皆無だろう。 ▽大正9年(1920):根岸興業部にいた根岸は、社長の小泉丑治と土浦生まれの作家高田保との3人で根岸歌劇団を結成し、浅草にオペラを根付かせた。現在の日本オペラのルーツと言っても過言ではない。 ▽昭和10年(1935):経営悪化した日活多摩川撮影所長となり、『人生劇場 青春篇』『真実一路』『裸の町』『大菩薩峠』『土』など次々と名作・力作を連発。内田吐夢、田坂具隆などの名監督を育て、3年間で空前絶後の歴史を作った。 ▽昭和13年(1938):海を渡って満洲国に入る。満洲映画協会の理事として活動。大陸3部作『白蘭の歌』『支那の夜』『熱砂の誓い』で、李香蘭(山口淑子)をアジアの大スタアに育てあげた。 ▽昭和20年(1945):日映の社長となる。広島に落ちた原爆記録映画を即座に作る。8月末、フィルムは米軍に没収される。昭和42年(1967)、映画は日本に返還され、翌年、10数分カットされテレビ放映されたが、以後、文部省の倉庫に密閉される。根岸は日本初の原爆映画を作った男なのである。 ▽昭和21年(1946):日映退社後、東横映画(後の東映)に参画。満洲から帰国する仲間たちの受け皿を作り、日本映画界を代表する会社の礎を築き上げる。 自分のことをほとんど語らなかった 根岸は、ほとんど自分のことを語らなかったから、資料もない。唯一、仕事仲間だった岩崎昶の評伝『根岸寛一』があるだけだ。それによると、根岸は若いころから、大小説家を目指していたという。亡くなる直前まで日記を付け、読書を続けた。小説の構想もあったに違いない。 どんな物語を考えていたのだろうか。そのタイトルが「バラのつぼみ」に相応するのではないかと私は思っている。根岸寛一を探る旅はまだまだ続きそうだ。サイコドン ハ トコヤンサノセ。(脚本家) <新春つくばセンタービル謎解きツアー> ・内容:ビルに隠された建築の謎を解きながらビルを回ります ・日時:1月30日(日)午後1時から約1時間 ・定員:10人前後(小中高生大歓迎)、参加費無料 ・予約:090-5579-5726(冠木)

「3密族」のシンボル利用 《映画探偵団》50

【コラム・冠木新市】つくばセンタービルができる3年前、日露戦争を描いた3時間の大作、東映『二百三高地』(1980)が公開された。当時は戦争を美化する作品との批判もあったが、今では反戦映画の名作との評価が定まっている。 『二百三高地』の丹波哲郎 幾つもの名場面がある作品だが、料亭の一室で伊藤博文(森繁久彌)と児玉源太郎(丹波哲郎)が、勝ち目のないロシアとの開戦を決めるシーンが印象深い。というのも、私はこの場面の撮影を間近で見ていたからだ。撮影終了後、緊張感から解放された丹波さんが、「飯だ、飯だ」とセットから勢いよく出て行った姿を記憶している。つくばセンタービル改造問題に関わって1年半。なぜか、時折このシーンを思い出す。 現在「つくばセンタービル謎解きツアー」を開催中だ。参加者は、11月3日10人、同13日8人、同23日23人、12月4日5人―だった。12日は8人の予約がある。子どもも何人か参加し、どこが面白いのか、また来たいと言っている。建築専門家でない私は、いろいろな資料を再確認しながら、ツアーの準備をしている。 センタービル関係の資料は少ない。主なものは、「建築のパフォーマンス」(1985)、「磯崎新のディテール」(1986)、「現代思想 磯崎新」(2020)などだ。目を通した中では、「磯崎新の『都庁』」(2008)がとても参考になった。 センタービル完成後の1985年、都庁コンペの過程を記録したもので、建築界の大御所・丹下健三に、弱小組織・磯崎新チームが挑戦する話だ。当時の磯崎とスタッフの様子が手に取るように分かる。磯崎はアイデアをスタッフに投げ、その理由を説明せず、読み解かせる。謎解きを要求するわけだ。センタービルのことも想像でき、面白かった。 賞賛、賞賛、賞賛、内密、秘密、隠密 ツアーでは、これまで見過してきた発見がいろいろあった。午後になると、2階階段付近に飾られた月桂樹の彫刻が、反対側1階の壁にシルエットになって幻想的に映る。壁がスクリーン機能となっていたのだ。 また、ボランティアの方の清掃活動で、水路の稲田石の黒い模様がよみがえり、階段からエスカレータで壊される予定だった壁にまでつながっていたことも分かった。黒い模様の石の配置がパズルのように組み合わせられている。 広場に屋根やエスカレータを取り付けたり、階段を削って車を進入しやすくしたり、外壁を壊して窓ガラスにしたり、テントを張るためにタープをつける穴を開けようとしたり―。この1年半、こういったことを計画した人の心理が理解できなかった。けれども、その謎もだんだん解けてきた。 つくばには、何もない広場を3密(密集、密接、密閉)化しようと考えている「3密族」がいるのだ。にぎわいを作り出そうとしているのなら分かる。だがそうではない。3密族には、センター地区の意匠もプリツカー賞も眼中にない。ただただ、人が集まり、その人たちから賞賛を浴びたいだけなのだ。 賞賛、賞賛、賞賛…。しかも改修の進め方は、内密、秘密、隠密…。つくばのシンボルであるセンタービルはそのために利用されている。3密族の闇は深い。サイコドン ハ トコヤンサノセ。(脚本家) <新春つくばセンタービル謎解きツアー> ▽内容:隠された建築の謎を解きながらビルを回る ▽日時:第6回=1 月16日(日) 、第7回=同30日(日)、13時から約1時間 ▽定員:10人(小中高生大歓迎)、参加費無料 ▽予約:090-5579-5726 (冠木)

「3密族」のシンボル利用 《映画探偵団》50

【コラム・冠木新市】つくばセンタービルができる3年前、日露戦争を描いた3時間の大作、東映『二百三高地』(1980)が公開された。当時は戦争を美化する作品との批判もあったが、今では反戦映画の名作との評価が定まっている。 『二百三高地』の丹波哲郎 幾つもの名場面がある作品だが、料亭の一室で伊藤博文(森繁久彌)と児玉源太郎(丹波哲郎)が、勝ち目のないロシアとの開戦を決めるシーンが印象深い。というのも、私はこの場面の撮影を間近で見ていたからだ。撮影終了後、緊張感から解放された丹波さんが、「飯だ、飯だ」とセットから勢いよく出て行った姿を記憶している。つくばセンタービル改造問題に関わって1年半。なぜか、時折このシーンを思い出す。 現在「つくばセンタービル謎解きツアー」を開催中だ。参加者は、11月3日10人、同13日8人、同23日23人、12月4日5人―だった。12日は8人の予約がある。子どもも何人か参加し、どこが面白いのか、また来たいと言っている。建築専門家でない私は、いろいろな資料を再確認しながら、ツアーの準備をしている。 センタービル関係の資料は少ない。主なものは、「建築のパフォーマンス」(1985)、「磯崎新のディテール」(1986)、「現代思想 磯崎新」(2020)などだ。目を通した中では、「磯崎新の『都庁』」(2008)がとても参考になった。 センタービル完成後の1985年、都庁コンペの過程を記録したもので、建築界の大御所・丹下健三に、弱小組織・磯崎新チームが挑戦する話だ。当時の磯崎とスタッフの様子が手に取るように分かる。磯崎はアイデアをスタッフに投げ、その理由を説明せず、読み解かせる。謎解きを要求するわけだ。センタービルのことも想像でき、面白かった。 賞賛、賞賛、賞賛、内密、秘密、隠密 ツアーでは、これまで見過してきた発見がいろいろあった。午後になると、2階階段付近に飾られた月桂樹の彫刻が、反対側1階の壁にシルエットになって幻想的に映る。壁がスクリーン機能となっていたのだ。 また、ボランティアの方の清掃活動で、水路の稲田石の黒い模様がよみがえり、階段からエスカレータで壊される予定だった壁にまでつながっていたことも分かった。黒い模様の石の配置がパズルのように組み合わせられている。 広場に屋根やエスカレータを取り付けたり、階段を削って車を進入しやすくしたり、外壁を壊して窓ガラスにしたり、テントを張るためにタープをつける穴を開けようとしたり―。この1年半、こういったことを計画した人の心理が理解できなかった。けれども、その謎もだんだん解けてきた。 つくばには、何もない広場を3密(密集、密接、密閉)化しようと考えている「3密族」がいるのだ。にぎわいを作り出そうとしているのなら分かる。だがそうではない。3密族には、センター地区の意匠もプリツカー賞も眼中にない。ただただ、人が集まり、その人たちから賞賛を浴びたいだけなのだ。 賞賛、賞賛、賞賛…。しかも改修の進め方は、内密、秘密、隠密…。つくばのシンボルであるセンタービルはそのために利用されている。3密族の闇は深い。サイコドン ハ トコヤンサノセ。(脚本家) <新春つくばセンタービル謎解きツアー>▽内容:隠された建築の謎を解きながらビルを回る▽日時:第6回=1 月16日(日) 、第7回=同30日(日)、13時から約1時間▽定員:10人(小中高生大歓迎)、参加費無料▽予約:090-5579-5726 (冠木)

センタービルと『大菩薩峠』《映画探偵団》49

【コラム・冠木新市】11月3日(文化の日)、第1回 「つくばセンタービル謎解きツアー」を開催した。参加者は20~80代の10名。案内役は私が務め、ノバホール入口から2階センターの周囲をめぐって1階に降り、「中心」「異界」「水の精」「反転」「廃墟」「にわ」「鋸(のこぎり)状の柱」「モンロー」をキーワードに8つの光景を語り歩いた。 野外劇場の「廃墟」では、30年間、TVのSFヒーローが戦ってきたことを説明。すると、そばで戦隊ヒーロー物の撮影が行われていて、こちらが用意したゲストのようだった。8地点の「不連続の連続」ともいえる光景を語るうちに、ああこれは『大菩薩峠』の世界に似ているなと思った。 片岡千恵蔵主演『大菩薩峠』 小学1年の時、東映の片岡千恵蔵主演『大菩薩峠』(1957)を見て、主人公たちの善悪を超えた妖しい雰囲気が記憶に残った。中学1年の時、国語の女性教師が「私は中里介山著の『大菩薩峠』だけは最後まで読み切れなかったのよね」と言った。 その日、早速古本屋に行き、角川文庫版の原作を買い読み始めた。全巻読破と意気込んだが、11巻で挫折した。大学のころ、春陽堂文庫版が出た時も挑戦してみたが、駄目だった。代わりに解説評論本を何冊も読み、話の展開はあらかた予想がついた。映画で描かれていたのは前半部分のみである。 物語は、机竜之助が大菩薩峠で老巡礼を切り捨てる理由なき殺人から始まる。そして御岳神社の奉納試合で相手を打ち殺し、その妻お浜を連れ江戸へ出奔する。試合相手の弟は兄の仇の竜之助を追う。つまり、最初は仇討ち物語なのだが、徐々に竜之助の場面は減少し、脇役と思われた登場人物たちが活躍する群像劇になってくる。 さらに物語が進むと、旗本の駒井甚三郎が蒸気船を建造し南海の孤島に乗り出し、植民地をつくる話。顔に大やけどを負ったお大尽の娘お銀様が胆吹(いぶき)山麓に王国を建設する話。与八という無垢な男が寺子屋をつくり子どもたちを教育する話。幇間の金助が外国人向けに日本の芸能文化を見せる「帝国芸娼院」をつくる話など、海・山・里・町のユートピアづくりの物語へと変容していく。 そのうえ、後半では夢と現実が入り乱れ摩訶不思議な世界となる。幻想の小動物ピグミーが突然現れたり、歴史上の人物が時空を超え出現したり、一度死んだ男が幽霊とも現実ともつかぬ姿で出てきたりする。また、作者の介山が百姓弥之助として顔を出し、『大菩薩峠』の解説をする。夢と現実の比重は一体となって、いつの時代の話だか曖昧模糊(あいまいもこ)となり、幻想小説と化してしまうのだ。 今年、3年半かかり新聞小説を読むように、ちくま文庫版全20巻を読了した。そして、これまで読了できなかった原因が理解できた。それは主人公や物語の中心を探る読み方をしていたからだ。当初の主人公竜之助は最後には亡霊の存在となる。つまり、この物語は誰もが主人公で、中心が不在の伽藍堂(がらんどう)のような小説なのである。 「長編小説にも似た複雑な構成」 「この建物の場合は、直接的で、ほとんど具象的な引用で終始しているのは、長編小説にも似た複雑な構成をもつために、細部すなわち断片が、勝手に強い喚起力を発してもらう必要があったからである」(磯崎新編著『建築のパフォーマンス』) 謎解きツアーで一番受けたのは、ホテル最上階の「目のデザイン」がノバホール入口の三角窓に映り込み、キリスト教三位一体の父と子と聖霊を表す「プロビデンスの目」になることを紹介したときだった。この神の目はセンター広場の何もない空間を見つめている。仕掛けに満ちたセンタービルは、私にとって読みごたえのある長編小説なのである。サイコドン ハ トコヤンサノ。(脚本家) <つくばセンタービル謎解きツアー参加者募集>▽内容:センタービルに隠された建築の謎を解きながらビルを回る▽日時:第3回 11月23日(火)ゲストと取材あり、第4回12月4日(土)、第5回12月12日(日)、各回午後1時から約1時間、参加費無料▽定員:10名、小中高生大歓迎▽要予約:090-5579-5726(冠木)

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