早大政経・土屋ゼミ・インタビュー5

ワシントンでも一番下

藤本:ワシントン赴任は1979年8月ですから、30歳ちょっとで。

坂本:べらぼう若いですね。朝日、読売、毎日の3大紙、それから時事通信、共同通信―この5社は、ワシントン特派員の構成がほぼ同じでした。つまり、各社ほぼ4人体制でした。日経、サンケイは2~3人だったと思います。

支局長は各社、国際畑の人です。特派員をいくつも経験した人が支局長。それから、国際畑の中堅記者、政治畑の中堅記者、経済畑の中堅記者というのが、5社の基本陣容でした。NHK、中日新聞はその半分ぐらいで、国際畑と政治畑の組み合わせが多かったようです。

私は4人体制の経済担当です。読売、朝日、共同、毎日の経済担当は年齢が5~10上の、30代後半~40代のベテランでした。政治担当も国際担当も大体そうだったと思います。なぜかというと、当時「上がりのコース」と言っていたのですけれど、ワシントン特派員は、記者をやってきて、現場最後のポストというのが一般的でした。

ワシントンの仕事が終わると、本社に戻って偉くなるのです。編集局の各部次長、つまりデスクになるというのが各社の人事の流れでした。

他社の経済担当に比べると、私は若い。皆さん、経験を積んでいるわけですから、そういう中でどうやるか苦労しました。特派員は各社を代表して来ています。若いということでハンディをもらうわけにはいかない。先輩方が10の仕事をするのであれば、私は15も20もやらないと追い付かない。

ホメイニの革命

斉藤:取材面ではどんなことがあったのですか。

坂本:大きな事件や案件が3つ4つありました。赴任直後の1979年、イランで革命が起こった。それまでイランは、パーレビーという米国と仲のよい王様が支配していました。それを、イスラム教のトップ、ホメイニ師が倒して政権を握った。

そのとき、米大使館員を大使館内に閉じ込め、人質に取ってしまった。これは米国にとって大変な屈辱。結局、失敗しましたが、米軍部隊による米館員奪還作戦も実行しました。

イランは大産油国ですから、この革命で石油市場が混乱。産油国は石油で儲かったドルを世界中で運用していますから、金融市場も大変でした。産油国は、米国、日本、欧州などの企業株や国債に投資してしますが、イランのオイルマネーも数百億ドル、米国市場に投資されていました。革命後、ホメイニはそれらを売却すると宣言したのです。

イラン資産を凍結

多額の株や国債が売られれば証券市場が大混乱に陥る。イランの動きに、ホワイトハウスと財務省が急きょ協議、イランが保有する株や国債の売却を禁じる命令が出されました。売り注文が出ても、それを扱う米国の証券会社は言うことを聞くなと。これで在米資産は凍結され、国際金融への衝撃がブロックされました。

あのとき、安全保障の観点からの資産凍結がなければ、世界は不況に陥ったと思います。この危機管理を見て、さすが米政府と思ったものでした。米国は、安全保障=軍事と市場=経済をセットとして考えていたわけです。私の中でも、趣味の軍事と仕事の経済がクロスした瞬間でした。(笑)

イランの発表は、ワシントン時間の未明でした。東京からバージニア州マクリーンの自宅に「えらいことだ。すぐカバーしろ」と電話が入り、早朝からホワイトハウスと財務省をカバー。それから1週間ぐらい、凍結令の関連記事を書きまくりました。

苦労したのは、財務省が発表する文書をどう記事にするか。法令ですから、ピリオッドがない、読点ばかりです。日本の外国為替管理法の類で、読んでもよく分からない。大蔵省から来ている大使館員の説明も要領を得ず、日経の特派員と解釈を合わせて送稿したものでした。(続く)

(インタビュー主担当:藤本耕輔 副担当:齋藤周也、日時:2015年12月4日、場所:東京都新宿区、早稲田大学早稲田キャンパス)

【坂本栄NEWSつくば理事長】