9基のねぶたがパレード 24・25日 まつりつくば2024
つくば市最大の祭り「まつりつくば2024」(まつりつくば大会本部主催)は今年も会場をつくば駅周辺とし、24日(土)と25日(日)の2日間開催される。暑さ対策のため2日目の開始時間を例年の午前10時から正午に繰り下げ、両日とも正午開始とする。第41回目となる今年も例年と同規模の48万人の来場者を想定している。
メーンの「まつりパレード」は、両日とも午後4時から土浦学園線の東大通りと西大通り間で催される。大ねぶた4基、中小ねぶた5基、1985年のつくば万博で披露された万博山車のほか、市内各地区のみこしが繰り出す。25日は万灯みこし12基以上が加わる。
同ねぶた実行委員長の塙裕哉さんは「今年は1基減らして(大中小の)9基が出る、ほぼ例年通りのパレードになる。青森県から11人の専門家が来て、ねぶたが出来上がったばかり。今年も盛大なパレードをするので、楽しんでほしい」と話す。
つくば駅周辺9会場で
まつりは、つくば駅周辺の九つの会場で開催される。会場の一つ、つくばセンター広場と大清水公園の「まんぷく広場」には、市内のグルメや特産品が勢ぞろいする。市中央図書館からつくばエキスポセンター前のつくば公園通りでは「アートタウンつくば 大道芸フェスティバル」が開催され、中国雑技芸術団など大道芸パフォーマンスやアート作品の販売などが実施される。
科学のまちつくばならではの体験ができる「スーパーサイエンスパーク」はつくばセンタービル1~3階のつくば市民センター、ノバホール小ホールなどで開催。分身ロボットを操作して迷路にチャレンジしたり、毎年つくばの市街地で開催されている自立走行ロボット大会「つくばチャレンジ」で活躍するロボットの操縦を体験したり、VR(仮想現実)ゴーグルを着用して空飛ぶクルマを体験したりできる。体験はいずれも無料で、両日とも当日の正午から整理券を配布する。
今年初めて「つくばのおさけで乾杯エリア」がつくばセンター広場モニュメントプラザに設けられる。地酒の普及を図ろうと今年5月、市内の日本酒、ワイン、地ビール生産事業者8社が「つくばのおさけ推進協議会」(5月25日付)を設立したことから。つくばのワイン、地ビールなどを販売する。
ほかに、つくば駅隣りの中央公園では福祉団体などの活動を紹介する「ふれあい広場」、つくば国際会議場隣の竹園公園ではさまざまなスポーツを体験できる「スポーツパーク」、つくば駅前のクレオ前広場では屋台などが並ぶ「トナリエつくばスクウェアうきうき広場」、つくばセンター広場特設ステージではダンスや音楽を繰り広げる「ステージ」が催される。
暑さ対策のためトナリエクレオのモグ1階に、空調の効いたお休み処を用意する。
今年はポスターやちらしのメーンデザインをZOZOが担当した。現在、東光台、さくらの森、御幸が丘の市内3カ所に物流倉庫を構え「市民に恩返しをしたいという思いからポスターデザインを手掛けた」とする。
まつりつくばは1981年、合併前の旧桜村の市民有志が大清水公園で開催したのが始まり。大会事務局で市観光推進課の小川高徳課長は「今年も暑さ対策をとりながら盛大に開催したい。楽しんでもえらたらうれしい」と話す。(榎田智司)
「麦わら帽子」写真の楽しみ《写真だいすき》31
【コラム・オダギ秀】「麦わら帽子」写真の楽しみは、毎日、何でもないことを撮れることだった。ボクがふと撮った日常の写真が出てきたので、その話をしようと思う。
もう20年も昔の話だ。技術的には何もないが、ふとした瞬間を撮る楽しさがあった写真だ。その楽しみは、今も続いている。カメラなんて何でもいい。写真さえ撮れれば、その写真を撮った瞬間がよみがえり、人生がその瞬間に戻るのだと思う。
あの日、にぎやかな目抜き通りの歩道に、1台のリヤカーが止まっていた。いつもの「おばちゃん」のリヤカーで、毎日のようなことだったから、そのことはみんな知っていたが、誰もリヤカーを邪魔だなんて言わない。
今日は「おばちゃん」は、暑かったのだろうか、帽子を脱いでリヤカーを離れたようだ。
街のみんなは気を利かせて「おばちゃん」なんて呼んでいる。が、本当は、腰の曲がった、見事に上等に年をとってる「おばあちゃん」だ。おばちゃんの前では「おばちゃん」と呼ぶが、離れて呼ぶときは、みんな「おばあちゃん」と呼んでいる。
みんなで「おばちゃん」のリヤカーを囲む
「おばちゃん」は小1時間あまりもかけて、毎日のように、自宅からリヤカーを引いて来ると、ボクの仕事場の先の、目抜き通りの歩道に置く。そして、運んできた小袋入りの、自分で作った野菜を、近所の店などに売り歩く。ネギとかトマトとか、ジャガイモ、ナス、トウモロコシなど。おばちゃんの家は農家のようではあるが、誰も知らない。
ただ、運んでくる野菜は、自分で作っていると、自慢げに話すから、誰もそう信じている。それと、かなり遠い道を、リヤカーを引いて来るらしい、と。
もう長年の習慣で、誰も歩道に止めたリヤカーを邪魔だなんて言わない。「おばちゃん」が戻れば、みんながリヤカーを囲む。野菜買いをするのだ。それは楽しみだ。おばちゃんは、自分がもってきた野菜が、いかにいいものか、どんなに苦労して育てたか、ひとしきり自慢する。みんなは、ふんふんと、ただうなずく。
おばちゃんが、リヤカーで引いてくるのは、野菜やおばちゃん自身の健康だけでなく、街の人たちを励ます気持ちと楽しみなのだった。
ボクがリヤカーの上の麦わら帽子を撮っていると、あ、おばちゃんが戻って来たようだ。ボクはカメラを戻した。あの麦わら帽子、どうしたでせうね。(写真家、日本写真家協会会員、土浦写真家協会会長)
パリ五輪陸上男子 東田旺洋選手 関彰商事で帰国報告会
パリ五輪陸上男子100メートルに日本代表として出場した東田旺洋あきひろ選手(28)が帰国し、自身が籍を置く関彰商事(本社筑西市・つくば市、関正樹社長)のつくばオフィス(つくば市二の宮)で19日、帰国報告会が開かれた。
東田選手は、3日に行われた男子100メートル予選で10秒19(追い風0.6メートル)の1組5着という結果で準決勝には進めなかったが、スタート反応速度は0.129で、出場選手72人中、1番の反応だった。結果は自己記録に近く、ベストコンディションだったという。
東田選手は「残念ながら準決勝進出はならなかったが、自己記録に近いタイムが出せたので良い試合が出来たと思う。これからは自己ベストを目指し、世界陸上などに挑んでいくので応援してほしい」とあいさつした。
報告会には関社長のほか社員約100人が集まった。関社長は「勇気、喜びを与えてくれて感謝している。これからも会社として全面バックアップするので、やりたいことがあったら言ってほしい」と語った。
パリ五輪の印象について東田選手は「最初、大観衆の歓声に驚いた。1組目、1番最初のスタートだったがイギリスの選手がフライングをした。その時が一番良い感触だったので、そのまま走れればという気持ちはあった。2回目のスタートの時、2歩目が浮いてしまったことが少し悔やまれる。それでもベストコンディションで臨めたので満足はしている」と話した。「選手村は報道されているように、ゴミがたまるのに掃除具がなかったりで環境はあまり良くなかった。閉会式には出たが6時間と長かった。内容的には、映像として作られたものは見られないので、テレビで見ていたほうが良かったかも知れない」とも述べ、社員らを笑わせた。
東田選手は同社ヒューマンケア部に所属し社員の情報処理などを担当、仕事をしながらトレーニングに励んでいる。100メートルの自己最高記録は10秒10。(榎田智司)
生徒が入試の出題者に 「よい問」巡り教員と熱論 茗渓学園
新コースのアカデミアクラスが設立されて4年目を迎える茗渓学園中学校高等学校(つくば市稲荷前、宮崎淳校長)のアカデミアクラスの生徒が、グループに分かれて入試を想定した問題を作り、内容の良し悪しを教員と議論し合う公開シンポジウムが17日と18日、つくば市竹園、つくば国際会議場で開かれた。
同クラスはアカデミックな研究活動と受験指導を両立させて、次世代を生き抜く力を育成し、国内外の難関大学進学を実現させることを目的に2021年に設立された選抜コース。
公開シンポジウムは今年で4回目。昨年までは教員が作る問題に、生徒が意見を投げ掛けるものだったが、今年は初めて生徒と教員がそれぞれ作題者として同じ立場で意見を交わし合う場を作った。同校の教育構想推進部の谷田部篤雄部長(36)は「生徒が出題者の目線に近づくことで、難しい問題でも作題者の意図を考え、解く力を付けさせることが一番の目的。能動的で自発的な学習を目指すアカデミアクラスの目的にもつながる」と話す。
3カ月前から始まった生徒による「よい問とい」作りでは、中学1年から高校3年まで、約300人いるアカデミアクラスの生徒が「感動するくらい、『よい問』」をテーマに各クラスでグループごとに入試を想定した問題を作った。さらに内容を吟味しながら最終的に中1から高3の生徒が混合する8つのグループをつくり、数学、理科、英語、国語の4科目で10個の問題を提案した。
シンポジウム初日の17日は生徒が作った問題をグループごとに紹介し、18日午前は、グループごとに作った問題に対して、同校の教員や、大学教員らによるゲスト審査員からの指摘に、生徒が回答しながら「よい問」とは何かについて考えを深めた。
18日午後からは、教員が作った問題に対して生徒が疑問点を指摘した。英語や国語の長文の問題に対しては「長文の問題なのに、全体を読んで答える問題が少ないと感じた。全体を把握しなければ答えられない問いにするべきでは?」「注釈の付け方が作題者ごとに異なる」「注釈の付け方をもう少し工夫はできないのか」など生徒から率直な疑問が出て、熱を込めて思いを伝える教員の姿に、会場からも熱い視線が注がれた。
総評に立った国文学研究資料館研究部の栗原悠准教授は「(長文問題では)読んだ経験が残ることが重要。出題者の意図をつかむことと共に、学ぶことの楽しさを知ってほしい」と語った。
発表資料を作成するなど運営にあたった組織委員のメンバーで、ファシリテーター(司会)を務めた同高校1年の矢島千歳さん(16)は「努力家が多く、皆が頑張り刺激し合う中で、生徒同士だけでなく、教員と生徒の間でも本当に色々なことを伝え合えるイベントだと思っている。ファシリテーターとしてそれぞれの考えをよく見て、その人が本当に考えていることをひろえるよう意識した」と話した。
茗渓学園の谷田部部長は「生徒の良い発表もあった。教員と生徒の間で問題の弱点も指摘し合い議論できたのは良かった」とし、「作った問題の検討を教員同士ではよくやる。色々な指摘もあり緊張感がある。今回の取り組みでは生徒も教員と同じ目線に立てるということがわかった。今後、我々も、教員に出すような気持ちでより緊張感を持って作っていきたい」と話すと、「教育現場では教員が万全の準備をした上で、失敗がないように物事を始めることが多いが、子どもたち自身が大きな可能性に気づかせてくれた。彼らの成長に私たち教員も引っ張られて成長することができる」とし、「今後はより多くの参加を期待し、来年以降につなげたい」と語った。(柴田大輔)
土浦中都地区物語 開拓の記憶【戦争移住者の営み今に】4
満州から引き揚げてきた尾曽章男さん(89)や、故・下田博さんが1948年に入植したのは、当時「中貫開拓」と呼ばれた現在の中都3丁目だ。現在の長野県飯田市出身者が主だった。土浦市の中川ヒューム管工業の創業者・中川延四郎が私有地3町分を県指定の開拓地として開放、3軒の家屋を建設し、入植する6家族に提供した。尾曽さんや下田さんの共同生活による入植がここから始まった。
寒さ身にしみる痩せた土地
下田さんたちは「茨城に未開の土地がある」という話を聞き、水戸市内原にあった「満蒙開拓青少年義勇軍」の訓練に使われていた施設に身を寄せて、県内に入植地を探した。長野出身の他の親戚や友人らは、鉾田の旧陸軍飛行場跡地や現在の牛久市、かすみがうら市へと入植していく中で、「中川ヒューム管の社長が小屋を建てて引き揚げ者の支援をしている」という話を耳にした。
「湖北開拓」と呼ばれた現在の中都1丁目に入植した皆川庸さん(93)と梅田香さん(75)も共に長野県飯田市出身だ。ここには茨城など他県出身者も入植していた。皆川さんは中都に暮らす同郷の親戚を訪ねたのが縁になり、兄弟で開拓していた旧御前山村(現城里町)出身で元予科練生の皆川和(やまと)さんと出会い、中都に嫁いできた。
皆川さんが「野っ原っていう感じ」だったという開拓地は見上げる筑波山から吹き荒ぶ「筑波おろし」の寒さが身に染みる、土地の痩せた場所だった。「風が吹くと埃(ほこり)がうちの中に入ってきてご飯食べるのも大変。徐々に風除けに木を植えて、だいぶ大きくなって楽になりました」。
梅田さんは1946年、満州から引き揚げた両親の3男として長野県で生まれた。父親が先に中都へ入植し、生まれて間も無い梅田さんは母親と中都へ移住した。「一番最初は男の人ばっかのふんどし1枚の生活。よしずを三角にして寝泊まりしてたって聞きました。共同で作った五右衛門風呂に交代で入って。お金なんかないし食料もない。食い物作んなきゃなんないから松林をひっくり返して最初にできたのがサツマイモ。暗くなると寝て、明るくなると起きる暮らしだった」。
驚くほどよく売れた
開拓者たちは一から始めた暮らしを少しでもよくするために工夫を凝らした。
6反歩の松林を切り倒すことから始まった尾曽さんらの「中貫開拓」には、近隣に暮らす地元のタバコ農家が協力した。「農家はタバコ葉を乾燥させるのに木の根を燃料にしてたから、欲しいって言う農家にあげたら手伝ってくれた」と話す。食べるために作ったサツマイモは、焼き芋用に東京に出荷する業者が買い付けに来た。要求されればいつでも出荷できるようにと掘った竪穴に保管していると、驚くほどよく売れた。
農作物ができない冬場は、開拓仲間が朝4時に起きて神立駅まで7キロを歩いて6時の汽車に乗り、4時間かけて福島県小名浜港に向かった。一斗缶いっぱい買ったサンマがよく売れて、リュックに詰めて2日間売り歩くと800円ほどになったという。
未分別のごみが大量に
痩せた土地をどうにかしようと入植直後に始めたのが生ごみを堆肥にすることだった。市に話を持ちかけると、市内のごみをトラックに積んで開拓地まで運んでくれた。1日2台。未分別のごみが大量に集まった。手作業で分別し、金属は金に変え、生ごみは時間をかけて腐らし畑に混ぜ込んだ。堆肥と共に運ばれてきたビー玉やおはじき、貝殻なども畑に混ぜ込まれた。当時の子ども達にとってビー玉やおはじきを畑から掘り出すのは、宝探しのような楽しみだった。
下田博さんの妹で、中都で育った飯島節子さん(82)は「みんな昼間は働いた。小学生でも草とって。働け働けって言われてね。でも楽しかったよね。夜は月明かりで隠れん坊したり、缶蹴り、縄跳びとかしてね」と明るく思い出す。
弁当の見た目ごまかした
食べ物も工夫した。飯島さんは「お店に買いに行くのは滅多になかった。自分たちで作ったサツマイモと陸稲は、普通のより美味しくないけど工夫し食べた。飼ってたニワトリやウサギは骨まで全部潰して食べた。お乳はヤギ。ほとんど毎日同じものを食べてたけど、お砂糖に醤油、お塩を使って味を変えてたね。ごま油も作ってね。菜種もいっぱい植えて菜種油を作った」
近くの都和小学校に転入した尾曽さんが思い出すのが学校で食べた弁当だ。「学校に弁当持っていくのが嫌だったの。なんでかっていうとご飯にイモが入ってたから。弁当を食べるときにイモをどかして下にして、上は薄いけど白い米だけにした。見たところ普通の弁当に見えるように。ずっとそうやってごまかした」
尾曽さんよりひと回り以上若い梅田さんも弁当の時間を思い出す。「周りの子どもはみんな白い米の弁当を持ってくる。地元の農家は田んぼを持ってたから白米があった。銀シャリだ、なんて言ってね。我々のは真ん中に筋の入った麦飯だから黒く見える。恥ずかしいから新聞紙で囲って食べました」
長野の文化で育った
開拓地の子ども達は、親や祖父母の故郷、長野の文化で育った。「小学校行くまで長野の人の中で育った。全く地域を出たことがなかった」と梅田さん。話す言葉も長野の言葉ばかり。「小学校に行ったら、言葉が全くわかんなくってね」と慣れない茨城弁に苦労したと振り返る。
長野の文化は食べ物にも現れた。お祝いどきに食べたのは、中部地方の山間部発祥とされる五平餅。開拓者たちの故郷の味だ。他にもよく食べたのがタンパク源として長野の山間地で食された蜂の子にイナゴの佃煮だ。下田さんの娘の相崎伸子さん(70)は「昼間に見つけた蜂に綿をつけて追いかけた。見つけた巣に夜行って、いぶして素早く掘りとる。蜂の子はみりんや砂糖で料理して、いい食料、栄養源だったよね」と懐かしむ。
「開拓」は新しいことやる
石油ランプだった暮らしに初めて電気が通ったのが1954年ごろ。「ちっちゃな手じゃないと入んないからって、子どもの時分にはランプの掃除をやらされた。手がすすで真っ黒になってね。そこに裸電球1個がきた。いやぁ、明るいねって感激しました」と梅田さん。
地域では、努力の甲斐があり、土が肥え、換金作物の幅が増えた。麦から始まり、落花生、白菜、スイカ、梨へと広がり、開拓者たちの共同出荷が始まった。酪農を始める家も増えた。「一生懸命働きました。だからテレビも早くに買えた。金曜日の夜は力道山の試合があるから6畳1間の家にみんな来る。帰らないと寝れなかった」と尾曽さんが言う。それ以前は街頭テレビを見るため亀城公園まで歩いて行っていたと振り返る尾曽さんがこう続ける。
「昔は『開拓』ってみんなに馬鹿にされてたの。どんな暮らししてるか見物に来たって人もいたよ。生ごみ使ったのなんて俺らだけだよ。他ではそんなことしねぇよ。ハエがたかって、みんなの背中にくっついていってね。でも、人のやらねぇことやっから『開拓』はそのうちに認められたんだ。『開拓』は新しいことやるってな」
写真の人数がどんどん増えて
7月、梅田さんがビニールハウスでキュウリの収穫に勤しんでいた。多い時で900坪のハウスで栽培していたキュウリは梅田さんが32歳で始めたもの。以前は会社勤めをしながらの兼業だったが、意を決して専業になり40年が過ぎた。その間、3人の子どもを育て、それぞれが独立して4人の孫に恵まれた。
「開拓から出た子達ってのは、なかなか諦めない。何クソって、とことんやる粘り強さは開拓精神としてあると思う。自分が育ってきた地域が良くなるように育ててくれたらいい。現実には跡目がいなくってね。後継者がね」
梅田さんの近所に暮らす皆川庸さんの家には、お盆や正月になると各地に暮らす子どもが孫やひ孫を連れて一堂に会す。夫の故・和(やまと)さんが「家族が増えても集まれるように」と作った家の広い和室も、いつの間にか手狭になってきた。孫の歩さん(44)が言う。「毎年家族が集まると撮る記念写真に写る人数がどんどん増えて、今では20人以上。和室に収まりきらないくらいになった。普段、自分が開拓者の家の子どもだという意識はあまりないけど、家族の写真を見ると、私たちの物語がおじいちゃん1人の開拓から始まった物語なんだなと感じる。これからも家族の歴史を繋いでいきたい」。(柴田大輔)
終わり
今度は退職金もらうの? つくば市長 《吾妻カガミ》189
【コラム・坂本栄】3カ月前、1期目の退職金を辞退した五十嵐つくば市長に、2期目の退職金はどうするのか聞いてみた。答えは、前回と同様に辞退するか、今度は受領するか、まだ決めていないということだった。3期目に挑む市長選挙(10月20日告示、27日投開票)の1~2カ月前にはどうするか決断し、市民の前に明らかにする必要があるだろう。
退職金辞退というポピュリズム
市長退職金問題。4年前の記事「廃止を公約の退職金22円に…」(2020年6月5日掲載)、コラム91「…退職金辞退に違和感」(同10月5日掲載)を引っ張り出して整理すると、以下のような「事件」だ。
最初の市長選公約に「市長特権の退職金の廃止」を掲げた五十嵐市長は、市長1期目が終わる4カ月前、規定では2040万円の退職金を辞退すると発表した。記事の見出しでは「…退職金22円…」となっているが、これは法的な障害をクリアするための最少額で、事実上ゼロと考えてよい。
五十嵐市長は、公約を反古(ほご)にするのは次の選挙にマイナスと考えただけでなく、おカネにこだわらない(好ましい?)市長像を市民の間に広げたかったようだ。政治の世界では、この種の受け狙いの政治手法をポピュリズム(大衆迎合主義)と呼ぶ。
「私は、退職金廃止という公約そのものに違和感を持っている。退職金はハードな仕事をこなす市長の報酬の一部だから、大きな失政をしないことが前提になるが、堂々と受け取るべきと考える。市長選で退職金廃止を公約したのは、市長の仕事をうまくこなす自信がなかったからか?」(コラム91)
今度も辞退? 対抗馬は有力県議
「市長特権の退職金の廃止」は2期目も続くのか? 3カ月前に五十嵐市長に聞いたのは、4年前のポピュリズム選挙を繰り返すのか知りたかったからだ。最初のパラグラフで書いたように、答えは思案中ということだったが、気になる発言があった。
退職金辞退を発表したあと、市長の後援者から受け取るべきだと注意されたと言うのだ。わざわざ後援者の助言を持ち出し、2期目は受け取るとの意向をにおわせた。それなのに辞退するか受領するか明言しなかったのは、判断材料が出そろっていなかったからだろう。
判断材料とは何か? 市長選に対立候補が現れるのかどうか、現れるとすれば強そうな候補か弱そうな候補か、3カ月前には見えていなかった。退職金辞退=強そうな候補が出馬した場合/退職金受領=弱そうな候補が出馬した場合―ではないかと聞いたところ、答えはムニャムニャだった。
記事「星田弘司県議が立候補へ…」(8月8日掲載)にあるように、選挙経験豊富な星田県議が立候補を決断し、秋の市長選の構図が見えてきた。星田県議=強そうな候補だから、上の分け方では退職金辞退のケースだ。でも、後援者の助言を受け入れ、ポピュリズム批判を振り払うために、退職金を受領する?(経済ジャーナリスト)
つくば市議選、新人20人出席 立候補予定者説明会
市長選は1人、市議選は計38人
任期満了に伴って10月20日告示、27日投開票で行われるつくば市長選・市議選の立候補者説明会が18日、同市役所で行われた。
市長選は、新人の星田弘司陣営のみが出席した。
市議選(定数28)は、現職18陣営、新人20陣営の計38陣営が出席した。男女別は男性が28、女性が10。
説明会に出席しなかった立候補予定者もいるとみられる。
事前審査は10月2日と3日に行われる。
土浦中都地区物語 引き揚げの記憶【戦争移住者の営み今に】3
土浦市北部の中都地区は戦後、旧満州からの引き揚げ者や復員軍人らが1947年から48年にかけて入植し、平地に広がる松林を開拓した地域だ。筑波おろしが吹く、農業に適さないとされた土地に茂る松林を切り開き、野菜や果樹を栽培し、酪農を起こし地域に根付いていった。入植者の主な出身地は、全国で最も多くの開拓民を旧満州に送り出した長野県だった。
満州から茨城へ
8月、中都3丁目の自宅前にある下田梨園で梨の収穫が始まった。戦後、中都地区に入植し農園を開いた故・下田博さんが植えた「新高(にいたか)」という品種が今もたわわに果実を実らせる。中都地区では1950年代前半ごろから入植者の間に梨栽培が広がった。
当時、小学生だった下田さんは1940年前後に家族と満州に渡った。数年後、学業を修めるために家族より先に戻った郷里の長野県で終戦を迎えた。満州に残った両親、姉妹、弟の5人のうち、弟が病で、父親が終戦時の混乱の中で事件に巻き込まれ、帰国を前に命を落とした。母親と姉妹が無事帰国した。戦後「茨城には未開の土地がある」という話を耳にして、家族や同郷人と共に土浦に入植した。
中都地区にある、開拓者が建てた農村集落センターの石碑には、入植した57人の開拓者の名が刻まれている。長野県出身の38人を筆頭に、茨城、新潟、宮城、山形、岩手と出身地別に名前が続く。
開拓者は同郷者ごとに集まり土地を分け合い、「不二」「平和」「都和第二」「湖北」「中貫」「笠師」という名を開拓地につけた。のちに「都和開拓農業組合」として一つにまとまり、隣接する旧新治村の開拓地が加わり「都和地区開拓農業協同組合」が発足した。現在の「中都」という地名は、開拓地が「都和」と「中貫」の間にあることから名付けられた。
タバコ畑に父の遺体を埋めた
下田博さんの妹・飯島節子さん(82)は、1942年に満州・吉林省で生まれた。現在の長野県飯田市出身で、両親が38年に息子2人、娘1人と、水曲柳開拓団として渡満した。兄の博さんは生前に記した「自分史」で、初めて足を踏み入れた満州の様子を「雪一面の冬景色(中略)、零下20〜30℃、なにものも凍らせてしまう寒さ」と記し、防寒具が不足し苦労した様子を述べている。一方で「オンドル」という朝鮮半島や中国東北部でみられる、かまどから出る燃焼ガスを利用した床暖房システムの暖かさ、銃を手にした父と出掛けた狩りのこと、満州人(中国人)が売るトウフなどの地元食について子どもらしい新鮮な驚きを書いている。
終戦の時、節子さんは3歳だった。敗戦後、あるトラブルから、暮らしていた村内で日本人が満州人を殺害する事件が起きた。村の中では満州人が「誰か日本人が責任を取れ、出てこなかったら皆殺しだ」と日本人に詰め寄った。正義感の強かった節子さんの父親は無関係にも関わらず、「俺が行く」と前に出たところを銃を向けられ射殺されたという。「タバコ畑に穴を掘って遺体を埋めに行ったんです。3歳だったけど、埋めに行ったというのは覚えてる」と節子さん。その後、身を隠しながら移動を繰り返し、旅順から引き揚げ船に乗り帰国したのは1年後のことだった。郷里の長野では、街ぐるみで父親の葬儀が行われた。
泣くと捕まるから殺せと
「俺らが入ったのは、中貫開拓」と話すのは、中都3丁目に暮らす尾曽章男さん(89)。6歳で満州に渡り、10歳前後で終戦を迎えた。その後、紆余曲折を経て家族で土浦に入植した。日本で最多の3万3000人余りの満州移民を輩出した長野県の中でも、尾曽さんの出身地、長野県飯田・下伊那地域からは突出して多い約8400人が満州へ渡った。尾曽さんは吉林省白山子に同郷者14~15軒と暮らし、現地に展開する日本軍に向けた米作りを担った。軍との繋がりもあり、安定した生活を送ることができていた。
敗戦後、状況が一変する。満州人の略奪から逃れて、焼けた工場跡地に身を隠し、移動中に投石を受けることもあった。武装した中国共産党の「八路軍」が近づき危険を感じると、生き残るために八路軍に参加していた日本人兵士に助けられたこともあった。まだ幼かった妹のゆきえさんは、周囲から「泣くとソ連兵に捕まるから殺してくれ」と言われたと当時を振り返る。
引き揚げたのは終戦から1年後。その間に病にかかった長男と長女が帰国を待たずに亡くなった。母親は引き揚げ船で感染した伝染病がもとで、入港した佐世保の病院で命を落とし郷里に帰ることができなかった。
1932年から45年の間に約27万人が満蒙開拓団として満州へ渡ったとされる。背景にあったのが昭和の大恐慌による農村の疲弊と、農村の土地不足や過剰人口を解決するためのほかに、資源確保など軍事上の必要性があり、渡満した約8万人が亡くなったとされる。長野県出身者が突出して多かったのは、世界恐慌後に生糸価格が暴落し主産業だった養蚕への打撃から農村が困窮したことと、地元の指導者が満蒙開拓に積極的だったことなどがあるとされる。戦後、戦争が生んだ移民の歴史が土浦へと繋がっていく。(柴田大輔)
続く
夏花火本番 天衣が必携《見上げてごらん!》30
【コラム・小泉裕司】JR身延線の車中にいきなり鳴り響くチャイム音。大雨警報のエリアメールだ。
今年3回目となる「花火の日」8月7日(土)に開催された「神明の花火」(山梨県市川三郷町)は、雨予報の中、風や雲の影響もなく無事、打ち上げを終了。華麗な演目を締めくくったグランドフィナーレ花火の余韻を楽しむ間もなく、予約した特急「ふじかわ」に乗り遅れないよう市川大門駅に急いだ。
途中、大粒の雨が降り始め、駅到着時には雷鳴がとどろき、ゲリラ雷雨の雨嵐状態。折りたたみ傘は役立たず、天衣(てんい)を着用し、列車を待つ行列に並んだ。間もなくして特急券を事前購入した筆者は、駅に優先入場し、プラットホームで雨風を凌いだ。
その後入線した列車に乗車し出発したのだが、冒頭の気象状況で、次の停車駅「東花輪駅」で2時間40分の運転休止。甲府駅前のホテル到着は深夜1時を過ぎ、楽しみのビールものどを通らないほど疲弊し、床に就いた。
特急券は神対応で払い戻し
帰路土浦駅に到着間際、「ふじかわ」の指定席を譲ってくれた花火鑑賞士仲間から、遅延による特急券の払い戻し情報が届いた。だが、特急券は、昨夜、降車時に甲府駅員に渡してしまい手元にはない。ダメ元で、土浦駅改札口の駅員に払い戻しの手続きをたずねた。
「市川大門駅→土浦駅」の乗車券を提示しながら事情を駅員に説明。早速、駅員はJR東日本お問い合わせセンターの電話番号を記した案内メモに〇を付けた。その瞬間、「どうする?花火旅」(2023年9月17日掲載)の「JR窓口のたらい回し」が脳裏をよぎった。「またか!」の瞬間、彼はメモを取り下げ、「回収した特急券を甲府駅で探してもらう」と説明し、確認次第、連絡するとのことで帰宅した。
3時間後、「甲府駅で特急券を確認」との連絡が入り、翌日、払い戻しの手続きを完了した。JR駅員の「神対応」に心から感謝している。「終わりよければ…」ということで、1年前の一件をいったんリセットしてみよう。
「足立の花火」中止の英断
7月20日夜、東京足立区の荒川河川敷で開かれる予定だった「足立の花火」が、雨や雷の影響で開催直前に中止になった。ケーブルテレビのライブ中継画面には、稲光を背に中止の理由を説明する近藤やよい足立区長が映っていた。ゲリラ雷雨に見舞われながら帰路に着く観客の映像が流れるたび、切迫した中で観客の命を守るリーダーの英断に感服した。
しかし、多様な判断材料があることも十分承知しており、開催を強行する大会があることも理解できる。
今年の花火は、これからが佳境。本稿入稿の15日(木)は「諏訪湖祭湖上花火大会」(長野県諏訪市)、17日(土)は「赤川花火大会」(山形県鶴岡市)、31日(土)は「大曲の花火」と続くが、酷暑や台風の影響は予断を許さない状況が続くが、夏の花火大会では自分を守るための雨具は必携。
雨傘は周囲の邪魔となるため、大きな花火大会はすべて使用を禁止し、カッパやポンチョなどの天衣を推奨している。本日は、この辺で「打ち止めー」。「ドーン ゴロゴロ ザーザー」。(花火鑑賞士、元土浦市副市長)
土浦公園ビル物語 高山俊夫商会【戦争移住者の営み今に】2
土浦市中央、亀城公園の隣にある「公園ビル」で、建設初期から中心的な立場で活躍した1人が、同ビルで印刷業を営む「高山俊夫商会」創業者の故・高山俊夫さんだ。1993年に74歳で亡くなるまで、土浦全国花火競技大会の賞状を手書きするなど地域に欠かせない存在として地元を支えてきた。同店は現在、長女の高山節子さん(74)が跡を継いでいる。
店に入ると目に入る大きな印刷機を指しながら節子さんが、「機械のガッタンガッタンって音が聞こえると、ここ(公園ビル)の子どもたちが安心したんです。逆にその音がないと寝られないって話があったくらい」と、俊夫さんの思い出を語る。
「いつも仕事をしてました。面倒見が良くて、几帳面だった」という俊夫さんは、印刷業とともに名刺や賞状の文面を手書きする仕事も請け負っていた。土浦の花火大会をはじめ、各地の小中高校の卒業証書などを数多く手掛けてきた。繁忙期には徹夜で筆を握り続ける姿を家族は見てきた。「土浦で起きてるのは警察署と消防署とうちくらいって言われてましたよ」と節子さんが話す。
シベリア抑留から帰国
俊夫さんは字がうまかったから、軍隊でも苦労はしなかったという。「あまりの字の上手さから、戦争に行っても事務方で戦場に行かなくていいと言われたくらい」だったという逸話が公園ビルに残る。
1919年、市内で生まれた俊夫さんは、陸軍兵士として渡った満州で終戦を迎えた。直後、侵攻してきたソ連軍の捕虜となりシベリア抑留を経験。帰国したのは4年後だった。
郷里の土浦に戻ると、市内で印章店を営む実家の支援を受け、完成間もない公園マーケットに店を構えた。当初は本家と同じ印章店を「本家から少しのハンコと幾らかの商売道具を分けてもらい、米びつにお米を一斗入れてもらって始めた」と節子さんが言う。
窓を開けてお堀に釣り糸をたらした
「お堀から流れる川が、今もこの下を流れてる」という現在の公園ビルの地下を暗渠(あんきょ)となった川が霞ケ浦へと流れている。「ビルは3階建だけど、下に暗渠があるから4階建なんですよね」と話す節子さんは、バラック時代をここで過ごした当時を知る貴重な存在だ。
「昔はお菓子屋さんやアイスキャンディー屋さんがあった。魚屋さん、お花屋さん、電気屋さんに靴屋さん、八百屋さんに牛乳屋さんもあった。なんでもそろったんですよ」と懐かしむ。マーケットの子ども同士で遊んだのは、隣接する裁判所だった。敷地の中に湧き出る井戸水でスイカ冷やしたり、うっそうと茂るビワの木陰で鬼ごっこをしたりした。「遊んでると、裁判所の小使いさん(用務員)に怒られたりしてね」。
「ここはお堀の上にバラックを建てた掘っ立て小屋みたいなものだった。狭くなれば2階を付け足した。家の後ろの窓を開けてお堀の川に糸を垂らして魚やザリガニを釣った。棒でばちゃばちゃやって魚を追い込んだりもした。昔は水がきれいだった」と子どもの頃を思い出す。
1951年に始まった「土浦七夕まつり」は特に印象に残っている。「にぎやかでしたね。桜町の芸者さんが踊って華やかだった。アーケードを飾り付けて、金魚すくいや水風船なんかもやりました」
父が残した字のお陰
公園ビルのモデルになったのは、戦後の先進的な建築物である「防火建築帯」として建てられた宇都宮の商業施設「バンバビル」。1951年、できて間もない同所を公園マーケットの住民が総出で見学に出掛けている。
「今あるこの建物は、いろんなところに視察に行って、あちこちにお願いして銀行からお金を借りて建てたと聞いた。お金もないのに建てたから、鉄筋じゃなくて借金コンクリートだって聞いたことがありますよ」と節子さん。
1993年、74歳で亡くなった俊夫さんが生前に語っていたのは「店は俺一代でいい」ということ。「でも急に亡くなってしまって、見よう見まねでどうにか仕事を継いできた。なんとかその後も30年続けられたのは、父の残してくれた字のお陰」と言って、節子さんは俊夫さんの手書きの賞状や名刺に目をやる。父が残した版を元に今も印刷物を作成している。節子さんは「いまだに父の字を使って仕事をしている。天国に行っても稼がせてもらっている。父には感謝しています」と話す。
イベント開催し新風
組合の代表理事を務める亀屋食堂の時崎郁哉さんによると、現在の組合員は17軒。その中で営業を続けているのは6店舗。その一軒に、以前に菓子店が入居していた場所をリノベーションして2018年にオープンしたギャラリー「がばんクリエイティブルーム」がある。音楽ライブや落語会、写真や絵画の展示会など様々なイベントを開催し、公園ビルに新しい風を吹き込んでいる。
時崎さんは「建物は60年以上経ち古くなっている。単純な居住目的じゃなく、商売を兼ねているのがここの特徴。『がばんさん』のように使うこともできたらと思うんです。食べ物に関わらず、最近はどこにいっても街が似たようなものになってきてるのは寂しい。少しでもおじいさんたちが残してくれた『宝』を生かしていきたい」と語る。(柴田大輔)
