ウクライナ侵攻1年 現地取材の武馬怜子さん つくばで報告会
ロシアによるウクライナ侵攻が始まって1年、現地を取材したフォトジャーナリストの武馬怜子さん(42)の取材報告会が4月1日、つくば市竹園のつくばカピオで開かれる。武馬さんは今年1月から2月の約1カ月間、ウクライナに入り、被災する街や日本で出会った難民の家族、戦時下で市民を勇気づけるアーティストなどを取材した。
武馬さんは1月29日に隣国ポーランドから陸路でウクライナに入国。西から東へ国内を横断し、首都キーウをはじめ、ザポリージャ、ドニプロ、バフムト、オデッサなど9カ所を訪ねた。現地で過ごした約1カ月について「戦時下では、常にみんなおびえ泣いているという先入観があった」と振り返る。
毎日2、3回、多いと5、6回空襲警報が鳴り響く日々だった。真夜中に響くミサイルの着弾音で目を覚ましたこともあった。被弾し崩れる家屋も目にした。それでも街の人たちは日々仕事に出かけるなど日常を営み、警報が鳴っても冷静さを失わず、必要な行動をしていた。「みんな慣れている。周りの落ち着きを見て、自分も落ち着けた」と話す。一方で「人はどんな環境にも適応する。でも、適応していいのだろうか」と複雑な気持ちになったという。
難民は身近な存在 関心を
武馬さんは愛知県出身、都内を拠点にフォトジャーナリストとして活動してきた。これまで、東日本大震災後に埼玉県に集団避難した福島県の人々や、同県相双地区の伝統行事「野馬追」を長期取材し、第2次世界大戦でのBC戦犯やインパール作戦のその後も追ってきた。
今回の報告会は、武馬さんと交流のある龍ケ崎市在住のライター、野口和恵さん(43)が企画した。その理由を野口さんは「雑誌の廃刊が続き、ジャーナリストが活動を続けにくくなっている中でも、武馬さんは、ずっとあきらめず、自分の取材を続けてきた。その姿勢を尊敬している。そんな武馬さんの活動を、多くの人にも知ってもらいたかった」と説明する。また「テレビや新聞でもウクライナの報道が減ってしまった今、現地の人々の様子を知ることができる貴重な機会。ぜひたくさんの方に来てほしい」と参加を呼び掛ける。
法務省によると、3月8日時点で日本国内のウクライナ難民は、全国46都道府県に2211人、そのうち茨城県には55人が暮らしている。日本に来たウクライナ難民とも交流する武馬さんは「ウクライナ難民は身近な存在。現地のことへの関心につなげたい」と思いを語る。(柴田大輔)
◆フォトジャーナリスト武馬怜子 最新ウクライナ現地報告会 4月1日(土)午後2時から、つくば市竹園、つくばカピオ3階中会議場で開催。入場無料、定員28人、事前予約制。予約、問い合わせはメールmingaglabal2017@gmail.comへ。
桜と遠藤周作が教える 日本人の心 《遊民通信》61
【コラム・田口哲郎】前略
東京で桜の開花が宣言され、21日にははや満開。茨城県南の桜も咲き始めましたね。これからがとても楽しみです。毎年、この時期になると街のいたるところで桜が咲きます。満開もすばらしいですが、散りぎわも美しいです。
世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし(この世に桜がなかったならば、春の気分はおだやかだろうに)
これは有名な在原業平の歌です。古代から日本人は桜を愛してきました。桜の花の咲き方は日本人の心を表している、なんて言われます。桜を見ながら、何もむずかしく考えなくても湧いてくる素直な感動、これが日本人の心というものなのかな、と思ったりします。
それにしても、日本人の心とはなんでしょうか? それについて深く考えたのは、前回も取り上げました作家の遠藤周作です。
いろいろなものを仕立てなおしてきた日本人
遠藤周作は多くの作品を通して、日本人がいかにキリスト教と向き合ってきたのかを追究しました。遠藤は、キリスト教という西洋の宗教は日本人である自分の体にはそのままではなじまないものだと考えました。だから、キリスト教を日本人の自分になじむように仕立てなおすと言いました。
この言葉を思い出すたびに、日本人の心とはなんだろう、と思います。日本人は古来仏教をはじめ、いろいろな宗教を取り込んで、それらを共存させてきました。神仏習合はその典型でしょう。そういった柔軟性を持ち合わせている日本人ならではの発想が遠藤の「仕立てなおし」なのでしょうか。
普段、当たり前だと思っている日本人的な心について、桜も遠藤周作も気づかせてくれますね。おだやかに桜を楽しみたいと思います。ごきげんよう。
草々(散歩好きの文明批評家)
若手社会学者 清水亮さんが紐解く 阿見・土浦「軍都」とその時代
『「軍都」を生きる 霞ケ浦の生活史1919-1968』(岩波書店)は、社会学者の清水亮さん(31)が地道な資料調査やインタビューを積み重ね、戦前から戦後を描き出した新刊。予科練(海軍飛行予科練習生)につながる海軍航空隊があった阿見、航空隊からの来客で栄えた土浦の人々が、基地や軍人たちとどう関わりながら生活したか、さらに戦後なぜ自衛隊駐屯地を誘致したのかを紐解く。
等身大の人々の目線で歴史研究
土浦市の開業医で作家の佐賀純一さん、阿見町の郷土史家である赤堀好夫さんらが取材し聞き書きした記録や地元紙、常陽新聞の記事などの資料も多数引用され、当時の人々の声を拾い集めた生活史となっている。豊富な写真を交え、日常の中で起きたさまざまな出来事を取り上げながら、「軍都」が抱えていた問題や葛藤についても分析している。
清水さんは「俯瞰(ふかん)する歴史学とは一風違って等身大の人々の目線で、下から見上げる歴史を書きたかった。自分の解釈は出さず、事実を重ねて書いた。戦争は重たくて悲惨なテーマと思っている人、歴史に関心がない人にこそ読んでもらいたい。日常生活の中の等身大の歴史に触れてほしい」と話す。
清水さんは東京生まれ。東京大学大学院博士課程を修了し、現在は早稲田大学で日本学術振興会特別研究員(学振PD=ポスドク)を務めながら武蔵大学の非常勤講師として教鞭をとっている。2020年から22年には学振PDとして筑波大学にも所属していた。東京大学の学部生だった13年から阿見町や土浦の地域史に興味を持ち、社会学的な観点から研究を始めた。
基地は「どぎついものではなく、ソフトに入り込んできた。現代でも似たようなことが起きている」と言う清水さん。1910年代から20年代は軍縮の世論が高まった大正デモクラシーの時代だったが、当時飛行機は最先端技術で、22年に開設された霞ヶ浦海軍航空隊は科学文明への期待感を持って住民に受け止められていた。同書には航空隊が観光名所となっていたことや、29年にツェッペリン伯号が飛行場へ寄港し、見物客で大賑わいする様子も描かれる。
「基地を誘致した所がだめという話ではない。基地があって豊かな文化が生まれたことも否定できず、現実は複雑で白黒つけられるものではない。それぞれの主張を持った人が同じテーブルについて議論できる場があるということが大切」と話す。
基地は国際的な「空の港」だったが、やがて戦時期に入り、軍国の「空都」と呼ばれるようになる。「平和な時代に基地が作られ、牧歌的、平和的に受け入れられていた時代から、戦争に突入し、悲惨な状況に暗転していく様子が印象的だった」と資料を読み取る。同書から見えてくる歴史をどのように解釈するかは読者にゆだねたいという。(田中めぐみ)
◆「軍都」を生きる 霞ケ浦の生活史1919-1968 四六判254ページ、2860円(税込)、岩波書店
(仮)のまま30回目の同人誌即売会 26日に土浦市亀城プラザ
同人誌即売会の第30回「亀城祭(仮)」が26日、土浦市中央の亀城プラザで開かれる。漫画やアニメの愛好者たちが集う交流イベントだが、仮称を思わすネーミングのまま、イベントは30回目を迎え、春に萌え(もえ)る。
亀城祭(仮)は漫画やアニメの愛好者たちが、読んだり見たりするのに飽き足らず、創作活動を始め、出来上がった作品を同じ趣味を持つ同士で売り買いする同人誌の即売・交流会。東京ビッグサイトなどを会場に大規模なイベントが開かれているが、地方でも同様に小規模な同人誌即売会が行われており、土浦では亀城祭(仮)がそれにあたる。
主催はコスモグループ。土浦市在住の女性会社員、三条深海さん(ペンネーム)が代表を務める。元々趣味で漫画を描くなどの活動をしていたが、県内で互いの作品を見せ合うなどして交流をする場を作っていきたいと同じ趣味の仲間に声を掛け、同市内で即売会「コミックネット」を開いたのが始まりという。
亀城プラザの大会議室や石岡市民会館を借りて、40小間程度の小規模な同人誌即売会を開催したが、会場が手狭になったため、2007年以降、亀城プラザ1階フロアを借り切る現在のスタイルになり、春と秋の年2回のペースで開催してきた。コロナ禍で20年の春、秋、21年の秋は中止となったが、参加意欲は衰えず、22年の2回の開催をこなし、今春第30回の節目を迎える。
この間ずっとタイトルから(仮)の字を外さずにきた。三条さんは、「イベントとしての発展への期待を込めて、今は(仮)である、という意味でつけている。また亀城祭という地域のお祭りがあるので、それとの区別のため名称を工夫した」そうだ。
イベントの参加者は毎回、延べ200人ぐらい。今回は出展者として50を超すサークルが参加する。1階フロアに約60台の机を並べて売り場とし、出展者の販売物が展示される。創作物は一次制作(自分で創作したオリジナル作品)、二次創作(元々あった作品に自分なりに手を加えたもの)がある。漫画やアニメだけでなく、手作りのアクセサリーや写真集などを扱う売り場もある。
別室にはアニメ世界から抜け出したような衣装を着こなし、化粧を施したコスプレイヤーたちが集まり、写真撮影などに興ずるコーナーも出現する。
参加者の9割は女性が占め、年代は中学生から40代までと幅広い。コロナ禍以降、コミック系のイベントは全国的には縮小傾向だが、亀城祭(仮)はアトホームな感じの集まりで、常連が多いという。他県からの参加者も少なくない。
三条さんは「参加者同士のコミュニケーションを大切にする同人誌即売会として、その都度の企画を織り交ぜながら、継続して開催していきたいと考えている。現在の中心となっている運営スタッフが入れ替わった場合でもイベントを継続開催できるようスタッフを募っているが、自主的継続的に運営に関われる人材がなかなか育たず、課題となっている」と語る。(榎田智司)
◆第30回「亀城祭(仮)」 3月26日(日)午前11時30分~午後3時、土浦市亀城プラザ。詳細はこちらから。
磯崎新さんの思考をめぐる 「作品」つくばセンタービルで追悼シンポジウム
建築家、磯崎新さんの業績を振り返るシンポジウムが19日、つくばセンタービル(つくば市吾妻)のノバホールで開かれた。つくば市民が中心となる「追悼 磯崎新つくば実行委員会」(委員長・鵜沢隆筑波大名誉教授)が主催した。同ビルをはじめ、水戸芸術館などを手掛け、昨年12月に91歳で亡くなった磯崎さんをしのんで、県内外から約350人が訪れた。会場では、磯崎さんの「思考」をめぐってパネリストの白熱した議論が繰り広げられた。
登壇したのは、磯崎さんのアトリエ勤務を経て、建築分野で多数の受賞経験を持つ法政大学名誉教授の渡辺真理さん、横浜国立大名誉教授の北山恒さん、神奈川大学教授の曽我部昌史さん、2010年ベネチア・ビエンナーレ建築展で金獅子賞を受賞した若手建築家、石上純也さんの4人。登壇者それぞれが磯崎さんとの想い出を振り返ることから始まった。
「広島の廃墟」にルーツ
「ノバホールの入り口の壁と天井のパターンを手がけた」という渡辺さんは、1980年から95年にかけて磯崎新アトリエに勤務し、センタービル建築にも携わった。入社当時、磯崎さんは「街の全てをデザインする意気込みで取り組んでいた」と振り返る。
北山さんは「建築を通じて思想を学ぶきっかけを作ってくれたのが磯崎さん」だと語る。その影響の一例として、磯崎さんの「母を犯し、父を刺せ」という言葉を引用し、「磯崎さんは、マイホームという日常生活を批判しろと訴えた。それは、男と女がつくる家族形態や、資本主義の中でつくられる都市構造という、私たちにとって当たり前とされるものを疑えということ」だと話す。
北山さんは、磯崎さんのルーツを「広島の廃墟」という。大学院を出た磯崎さんは敗戦後、廃墟となった広島に平和記念資料館を建てた建築家、丹下健三の元で建築を学んだ。その磯崎さんが1968年に作成したのがシルクスクリーンプリントによる「ふたたび廃墟になったヒロシマ」だ。この作品で磯崎さんは、「破壊(死)と再生(生)を繰り返す都市の姿を具体的にそしていくらかの悪意をもって提示しようと企て」たと述べている。北川さんは、磯崎さんの創作に対する姿勢を「ものを作ることと無くなることの二重性を巨視的な時間の中で考える建築のあり方があった」と説明する。
渡辺さんは、磯崎さんが「未来への楽観的な考えにかなり疑問をもっていた」と振り返る。磯崎さんは「『未来はばら色』『テクノロジーがすべてを解決する』という2つの考えを信じていないと、言っていたという。『未来は廃墟になりうる』と遠くを見据えた眼差しを強く持っていたのが磯崎さんだ」とその思考を説明する。
建築物とは別の形で
さらに石上さんは「建物をつくるだけが建築ではない」と指摘した。「建築が実現したとたんに、思想・哲学がそこから剥ぎ取られてしまうと、磯崎さんは考えていたのではないか。何らかの形で、自らの思想・哲学を残すためには、版画など建築物とは別の形で、つくる過程で考えていたことを、建築と同じ重さで残さなければいけない。磯崎さんは著作物も多い。文章も含めて意識的にやっている。具体的なところから抽象的なところまでを見て、初めて磯崎さんの建築を理解できる」
「俺の建築は100年後には一つも残らないだろう。だが、紙は残る」と生前繰り返し述べていたと渡辺さんが振り返ると、曽我部さんは「建築は壊れることがあっても、版画は500年残る」との磯崎さんの話で応じた。「磯崎さんは、数千年の時間の流れの中に自分を位置付けていた」と話す。
全国から訪れた参加者の声
午前中には、六角美瑠神奈川大学教授らがつくばセンタービルを案内する建築ツアーが開かれ、80人余りが参加した。またノバホールロビーでは、シルクスクリーンの版画や写真、鉛のレリーフなど、磯崎さんのオリジナル作品十数点が展示された。
つくば市の高松夕佳さん(45)は「私はつくばで生まれ育った。子どもの頃からセンタービルを見て、『どんな意味があるのか』と不思議さと引っかかりを感じてきた。その疑問が少しだけ解けた気がした。つくばにこれだけの建物があるということは誇らしいと思う」と語った。
磯崎さんの出身地、大分市からかけつけた大分美術館の学芸員、山之上理加さん(39)は、かつて企画で磯崎さんを担当したことがある。「今日は、磯崎さんに関する新しい情報を聞くことができたし、実際に磯崎アトリエで働いた方のお話も聞けた。今まで知らなかったことも多い。勉強になった。大分市にも磯崎さんが建築した建物がある。つくばセンタービルの保存と改修の内容が非常に参考になった」
群馬県の大学で建築を専攻する小川裕矢さん(20)は「さまざまな逸話を聞くことができて、作品の背景にある作者の思いや人間のドラマを知ることできた。自分もスケールの大きな作品を作りたい」と意欲を込めた。
建築を専攻する大学生の小畑美生さん(19)はツアーにも参加した。「ツアーでつくばセンタービルの説明を聞き、建築物としての良さを感じた。一方で、オリジナルから変わってしまった部分を見て、もったいないと感じたところも多い。今後の建築設計に参考にしたい」と語った。(柴田大輔/ユン・ジュウン=ドットジェイピーインターン生、筑波大学人文・文化学群比較文化学類2年=)
洞峰公園の市営化、住民投票が必要?《吾妻カガミ》153
【コラム・坂本栄】県営洞峰公園(つくば市二の宮)の無償市営化について、市議や市民の賛否が割れているようです。知り合いの市議から市議の皆さんの考え方を聞き、本サイトの記事に寄せられた読者のコメントを読むと、そんな感じがします。151「…洞峰公園問題バトル…」(2月20日掲載)では「今度は『市街戦』が勃発か?」と書きましたが、予想通りの展開になっているようです。
公園の維持管理費と運営構想で対立
151では、無償譲り受けに対する市民の反応を3グループに分けました。市営化によって公園維持管理予算が増えることに反対する派。県のアウトドア施設計画を受け入れて管理は県に任せておいた方がよいとする派。公園の現状が維持されるのだから市の負担増は仕方ないとする派。つまり、公園管理経費の出所、公園運営のコンセプトをめぐる「市街戦」です。
市が県の計画を蹴っていれば県営が維持されましたが、県は「無償で譲るから市の考え方で管理したらどうか」と提案。市が「市営にすればアウトドア施設を止められる」と受け入れたことで、問題が複雑になりました。
無償譲り受けには、市営公園リストに洞峰を加える条例の可決、市営化に伴う必要予算の可決が必要になります。市議さんは両議案に賛成するか反対するか悩んでいるようです。市議さんの場合、先のような議論のほかに、市長提案には基本賛成する(基本反対する)といった会派的な思惑、自分の地盤・支援者は賛成する?(反対する?)といった選挙上の対応もありますから、賛否判断はより複雑になります。
そこで提案です。市民の考えの大勢を知り、市議さんの判断を助けるためにも、住民投票を実施したらどうでしょうか? 以前、総合運動公園の是非判断で使った意見聴取手法です。もちろん、無作為抽出アンケート調査という簡易版もあります。無償譲り受けが正しい選択であることを確認するためにも、市はいずれかの調査が必要でしょう。
県営赤塚公園の方も市営化したら?
先週、国道354号沿いの県営赤塚公園(つくば市稲荷前)に行ってきました。洞峰は市営化されるのに赤塚は県営のままでいいのかと思い、園内を見ておきたかったからです。面積は、洞峰が20ヘクタール、赤塚が8ヘクタール。開園は、洞峰が1980年、赤塚が1981年。両公園の距離は1400メートル。県がセットで造った兄弟公園です。
洞峰は市営化されるのに、赤塚が県営のままだと、維持管理に差ができないでしょうか? 洞峰が県の手を離れることで、赤塚の管理が粗末にならないでしょうか? 洞峰周辺市民と赤塚周辺市民の住環境に、優劣が生じないでしょうか? 赤塚も譲り受け、市が一括管理した方が、市民の間の公平性は保たれるのではないでしょうか?
私は毎朝、霞ケ浦総合公園(土浦市大岩田、32ヘクタール、1990年開園)を散歩しています。ここは県営区画と市営区画が混在しており、県と市の共管になっています。文化体育館は県、多目的広場も県、水郷プールは市、風車がある湖畔も市―といった具合に。公園造りを決めた知事と市長は息が合っていたようです。(経済ジャーナリスト)
<参考>市長は無償譲渡に伴う議会手続きについて議会をミスリードしています。小森谷議員の「議会に議案として出るのか」との質問に「無償譲渡を受けるのに議会の議決は必要ない」と答弁しているからです。質疑応答の詳細は「…無償譲渡受ける方針を議会に説明…」(2月14日掲載)をご覧ください。
土浦の「春花火」2連発 ドッドーン 《見上げてごらん!》12
【コラム・小泉裕司】「ただいま霞ケ浦湖畔で打ち上げているのは、花火師研修のための花火です」。3月11日(土)午後6時30分を少し回ったころ、花火画像とともに、このメッセージが土浦市の公式SNSに流れた。
コロナ禍、花火大会の中止が相次ぐ中、花火業界は直接的な打撃を受け、未来を担う人材育成にも赤信号がともり始めるなど、世界最高峰と言われる日本の花火技術の継承が危惧される状況にあった。そこで土浦全国花火競技大会実行委員会では、国の支援制度を活用、昨年、「花火技術後継者育成事業」を起ち上げた。
内容は、後継者育成プログラムに、「花火道」を志す全国32業者95人の花火師が参加、実績豊富な花火師による花火製造と打ち上げ技術のオンライン講習を8月から計5回開催。その成果として、参加者それぞれが製作した4号(直径約12センチ)菊型花火7発、同牡丹花火7発を順次打ち上げ、できばえを確かめたもの。
本日、「振り返り」研修をもって事業は完了。昨年にも増して花火大会の再開が予定される今年、経営危機は脱しつつあるようだが、今回の研修成果が、未来に向けて、持続可能な花火産業構築のきっかけになることを願う。
防波堤2カ所からの対打ち(同時打ち上げ)による間断無き連打1300発は、とても斬新な光景、まさに、初春を彩る「菊」と「牡丹」の品評会のごとし。作品の出来具合はピンキリだったが、これもまた一興。見上げ続けること45分、万年肩こりが、また悪化した。
三浦春馬さんをしのぶHEART花火2023
正真正銘の美青年。品のあるストイックさと才能あふれる輝きで、多くの人を魅了した三浦春馬さんの突然の訃報から今年で3年。今でも、春馬さんに思いを寄せる多くのファンが、生誕の地・土浦を訪れるという。
「HEART花火」プロジェクトは、こうした思いを共有する皆さんが、春馬さんをしのび、4月5日の誕生日を祝って、故郷土浦で花火を打ち上げるイベント。昨年に続き、第2回目の今年は、4月1日に土浦新港で開催する。
土浦市の花火マッチング事業がサポート役となり、山﨑煙火製造所(つくば市)が打ち上げを担当。かかる経費はクラウドファンディングで募集。300人を超える賛同者から寄せられた144万円の支援でまかなうという。春馬さんが土浦の花火に魅了され、故郷の誇りとして大切にされたことは「見上げてごらん!」4(2022年7月17日掲載)のとおり。
彼へのリスペクトを込めて、筆者も些少(さしょう)ながら、今回の募集に参加。当日午後6時、打ち上げに先立って行われるセレモニーで、土浦の花火や春馬さんへの思いを参加者に伝えしてほしいとのオファーが届いた。何時間あっても語り尽くせぬテーマを5分にまとめるなんて、至難の業。千思万考は、当日まで続く。
春真っ盛りの花火を見ながら、主催者の思いを共有しよう。「春馬さんへの思いを込めた花火が少しでも皆様の心を癒やし、さらには、大切な人に思いを巡らせ、平和を祈る…そんな機会にもなってほしい」。本日は、この辺で「打ち止めー」。「ドン ドーン!」。(花火鑑賞士、元土浦市副市長)
船は軽いから水に浮く《続・気軽にSOS》129
【コラム・浅井和幸】船は軽いから水に浮きます。と言っても鉄の塊が軽いと言えるのでしょうか。地球上にあるものはすべからく万有引力の法則をもって地球に引っ張られている。いわゆる物は下に落ちる。あれっ? ヘリウムが入った風船は浮いているなと思う。そうだ、ヘリウムが入った風船は軽いから浮いているんだと考える。
この流れはおおよそ間違っていないと思います。でも、風船より軽いと思われる、ティッシュ1枚や糸くずは下に落ちますね。軽いから浮いて空まで届いていたヘリウム入りの風船と、ゆっくりでも落ちていく糸くずは何が違うのでしょうか。何か引っかかりますね。
この「軽い」という抽象的な言葉が、「引っかかり」の原因となります。軽いとは、何キロ以下が軽いのでしょうか?と考えるのは間違いです。この場合、軽いというのは風船や糸くずの重さが問題ではありません。それぞれの体積に対する重さが、同じ体積の空気より軽いか重いかで、空気に浮くか落ちるかの違いとなります。
冒頭の鉄の塊である船も同じです。船は中が空洞で空気がたくさんあるので、同じ体積の水よりも軽いから浮くわけです。
分かろうとする努力や姿勢が大事
このように基準が違うと、同じ言葉でも全く別のことを指し示し、全く別のふるまいをしてしまいます。明日はいつもよりも早めに家を出るから、早めに用意をするんだよと伝えます。いつもは、8時に家を出ているとします。さて、「いつもより早い」は何時を指すでしょうか。6時30分でしょうか。それとも7時59分59秒でしょうか。
一つの場所でほうきを動かしているだけの子どもがいました。教室全てを掃いてほしいと思った先生は、もっと一生懸命掃除をしなさいと注意しました。その子は、一生懸命一つの場所を倍のスピードで掃き始めました。
一生懸命に頑張っているけれど悪循環を起こしている人に対して、もっと頑張れと言うこと。我慢することも、頑張ることと似た性質があります。頑張ること、我慢することにも、ある程度の心身の余裕が必要です。場合によっては、頑張ることや我慢することのためには、休憩することや手を抜くことも必要になってくることもあります。
うまくいっていない時には、より慎重に、より正確に状況を把握して、より慎重に言葉を選んで使うことが大切です。「より正確に」が大切で、私たちは真に物事を正確に捉えること自体が出来ないのですから、「より正確に」なのです。
分かった気にならず、分かろうとする努力や姿勢を取り続けることは、分かり合えることに近づくとても重要な要素となるでしょう。(精神保健福祉士)
平均年齢80歳 漁協組合員ら不法投棄撤去し見回り【桜川と共に】1
県西の桜川市を水源とし、つくば市や土浦市などの平野部を通って霞ケ浦に流入する桜川。流入する56河川の中で最大規模の一級河川だ。上流の磯部稲村神社(桜川市)付近は古くから桜の名所として名をはせ、桜川は歌枕や文学作品の舞台ともなってきた。
桜川に漁業協同組合がある。土浦市との境界にあるつくば市松塚に拠点を置き、組合員は107人、平均年齢は約80歳。漁協は桜川の生産力の増進を図ることが役割で、事業内容はフナの稚魚やワカサギの卵の放流、河川の清掃、河床耕耘(こううん)といった漁場の整備、特定外来魚の駆除など多岐にわたる。
幼い頃から桜川で遊び、桜川を見つめてきた漁協組合長、鈴木清次さん(80)は、この60年ほどで桜川の環境が大きく変わってしまったと話す。桜川漁協の活動を追いながら、桜川の置かれている現状を取材する。
1時間で2トントラック1台分に
3月上旬、漁協の組合員6人とつくば市水質浄化対策推進協議会(会長・鈴木清次組合長)の会員12人の計18人と市職員2人が桜川沿いの清掃活動を実施した。朝8時50分、参加者が同市栗原の桜川沿いに集合すると鈴木さんがあいさつ、掃除の工程についても説明し、市職員が用意した軍手やごみ袋を参加者に配布した。参加者たちはそれぞれ軽トラックやワゴン車など数台に分かれて乗り込み、約1時間、桜川沿いを走りながら、ごみが不法投棄された地点を巡って拾い、トラックに積み込んだ。
桜川沿いの数カ所には、空き缶やびん、ペットボトル、ビニール袋、衣類、おむつなどの生活ごみ、テレビなどの粗大ごみや金属ごみが投棄されていた。バッテリーや機械部品のようなものもある。比較的最近捨てられたと思われるもの、何層にも積み重なって埋もれているものも掘り起こして回収する。「こんなものも捨ててあるよ」、「まだ埋まっている」。時間内に全部は回収しきれず、諦めたごみもあったが、それでも集められたごみは2トントラック1台分ほどになった。
清掃活動に毎年参加している女性は「前はごみがもっと多くひどかったが、清掃活動を続けて、これでもだんだんきれいになってきた」と話す。清掃活動は、霞ケ浦問題協議会(会長・安藤真理子土浦市長)が実施する「霞ケ浦・北浦地域清掃大作戦」の実施日に合わせて毎年、年1回行われている。
「多くの人に来てもらいたい」
清掃活動以外に桜川では、漁協に所属する3人の河川巡視員が月2回見回り、不法投棄がされていないか、川が適切に利用されているかなどを監視している。ほかにも組合員が自発的に見回りを行っている。夫が巡視員をしている女性は「ごみだけでなく、川辺に子猫が5匹捨てられていることもあり驚いた」と話す。
桜川の管轄である県土浦土木事務所によると、巡視員から連絡があった不法投棄は、昨年度15件、今年度は7件。例年15件ほどだが、毎年不法投棄がされる箇所には今年度から看板を設置する対策を行い、効果が表れているという。
組合長の鈴木さんは、大作戦以外の日も20年以上、清掃活動を地道に続けてきた。「川に捨ててもいいと思っている人がいて、トラックで持って来て捨てている。現場を見たら警察に通報する。意識を変えてもらわなければならない。もっときれいにして、多くの人に桜川に来てもらいたいと思っている」と鈴木さんはいう。(田中めぐみ)
随時掲載
久慈の山々に囲まれた 西金小学校のこと 《写真だいすき》18
【コラム・オダギ秀】今から二昔も前の1年間、ボクは茨城北部の西金(さいがね)小学校を撮らせてもらった。写真を撮る楽しさを、この時ほど感じたことはない。写真を撮っていたから、こんな小学校に行けた。
西金小学校は、水戸市からは北へ車で1時間30分ほど。久慈郡大子町の入り口付近にある、久慈の山々に囲まれた小学校だった。すべて木造の校舎は、その町の林業で栄えた時代を表していて、雰囲気のあるものだった。長い歴史は持っていたが、児童数の減少によって、2005年3月、閉校された。
閉校前の2004年春からの1年間、ボクは、歴史を終えるその西金小学校の生活を撮らせていただいた。きっかけは偶然で、以前から木造校舎を撮影しておきたいと思っていたボクは、茨城の現役の木造小学校校舎はすでにその西金小学校しかなく、この機会を逃したら、まず木造小学校の学校生活を撮影することは不可能と知ったからだった。ただ撮りたい、という願望だった。
自分自身をスローダウンさせる魅力
その校舎は奥久慈の山間にあり、全校生20人が学んでいた。1年生はひとり。翌年の新入生の予定はなかったから、6年在校生8人が卒業すればあとは12人になり、閉校がやむを得ない状況にあった。人数の少ない学年は、他の学年と一緒に1クラスになっていて、低学年の子は、授業中でも当然のように歩き回って、上級生に教えてもらっていた。
しかし、その小学校の生活は、ボクを、単に、何十年も昔の自分の小学時代に引き戻しただけでなく、生活のテンポや価値観や、空気感、季節感、歴史観、家族観、はたまた地域との関わりなど、様々な事柄を見直し、自分自身をスローダウンさせる魅力に充ちていた。ボクは、西金小学校にはまった。
給食は、全校生と先生全員がひとつの部屋で一緒に食べた。旧いラジカセで、モーニング娘なんかかけながらだった。校舎の周りの木立には、生徒たちで作って掛けた鳥の巣がたくさんあって、野鳥が来ていた。学校で催し事があると、集落の人が、久慈川で取った鮎などをどっさり持ち込んでくれた。流しそうめんの時は、近所の大人たちが仕掛けを作ってくれ、一緒に食べた。
「オダギさんが、ドーナツをくれた」
2005年春の閉校までにボクは、月に3、4日、時には連日、水戸の仕事場から西金に通った。まだ誰もいない真冬の早朝もあれば、暑い夏の夜もあった。時には西金の集落に出て、生徒たちと走り回ることもあった。教室・廊下・校庭で、授業中、休み時間、放課後など、生徒たちと過ごしている時間、ボクは子ども時代に戻った。
撮影しながら、西金小学校の生徒になっていた。だから20年近く過ぎた今も、ボクにとって、西金小学校はボクの母校そのもののように思えて熱くなる。
全校生は20人だし、先生入れてもたいした数ではなかったので、ある日、水戸のミスタードーナツのドーナツをお土産に買って行った。後で先生に聞いたのだが、半分だけ食べて残り半分はティッシュに包み、おばあちゃんにと持ち帰った子もいたという。街にあるような店なんてなかった山間の町の小学校だった。
放課後の教室の壁に生徒の作文があった。「オダギさんが、ドーナツをおみやげにくれた。この次はなにをくれるかなあ」。そう書いてある後に、校長先生が赤ペンを入れていた。「オダギさんはカメラマンです。おしごとで来ているのですから、おみやげはきたいしないようにしましょう」。あの子たちは、もう30歳近くになっているはずだ。(写真家、日本写真家協会会員、土浦写真家協会会長)
