火曜日, 10月 6, 2026
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磯崎新さんの思考をめぐる 「作品」つくばセンタービルで追悼シンポジウム

建築家、磯崎新さんの業績を振り返るシンポジウムが19日、つくばセンタービル(つくば市吾妻)のノバホールで開かれた。つくば市民が中心となる「追悼 磯崎新つくば実行委員会」(委員長・鵜沢隆筑波大名誉教授)が主催した。同ビルをはじめ、水戸芸術館などを手掛け、昨年12月に91歳で亡くなった磯崎さんをしのんで、県内外から約350人が訪れた。会場では、磯崎さんの「思考」をめぐってパネリストの白熱した議論が繰り広げられた。

来場者を迎える磯崎新さんの写真=ノバホールロビーに

登壇したのは、磯崎さんのアトリエ勤務を経て、建築分野で多数の受賞経験を持つ法政大学名誉教授の渡辺真理さん、横浜国立大名誉教授の北山恒さん、神奈川大学教授の曽我部昌史さん、2010年ベネチア・ビエンナーレ建築展で金獅子賞を受賞した若手建築家、石上純也さんの4人。登壇者それぞれが磯崎さんとの想い出を振り返ることから始まった。

「広島の廃墟」にルーツ

「ノバホールの入り口の壁と天井のパターンを手がけた」という渡辺さんは、1980年から95年にかけて磯崎新アトリエに勤務し、センタービル建築にも携わった。入社当時、磯崎さんは「街の全てをデザインする意気込みで取り組んでいた」と振り返る。

北山さんは「建築を通じて思想を学ぶきっかけを作ってくれたのが磯崎さん」だと語る。その影響の一例として、磯崎さんの「母を犯し、父を刺せ」という言葉を引用し、「磯崎さんは、マイホームという日常生活を批判しろと訴えた。それは、男と女がつくる家族形態や、資本主義の中でつくられる都市構造という、私たちにとって当たり前とされるものを疑えということ」だと話す。

北山さんは、磯崎さんのルーツを「広島の廃墟」という。大学院を出た磯崎さんは敗戦後、廃墟となった広島に平和記念資料館を建てた建築家、丹下健三の元で建築を学んだ。その磯崎さんが1968年に作成したのがシルクスクリーンプリントによる「ふたたび廃墟になったヒロシマ」だ。この作品で磯崎さんは、「破壊(死)と再生(生)を繰り返す都市の姿を具体的にそしていくらかの悪意をもって提示しようと企て」たと述べている。北川さんは、磯崎さんの創作に対する姿勢を「ものを作ることと無くなることの二重性を巨視的な時間の中で考える建築のあり方があった」と説明する。

休日のイベントで賑わうつくばセンター広場

渡辺さんは、磯崎さんが「未来への楽観的な考えにかなり疑問をもっていた」と振り返る。磯崎さんは「『未来はばら色』『テクノロジーがすべてを解決する』という2つの考えを信じていないと、言っていたという。『未来は廃墟になりうる』と遠くを見据えた眼差しを強く持っていたのが磯崎さんだ」とその思考を説明する。

建築物とは別の形で

さらに石上さんは「建物をつくるだけが建築ではない」と指摘した。「建築が実現したとたんに、思想・哲学がそこから剥ぎ取られてしまうと、磯崎さんは考えていたのではないか。何らかの形で、自らの思想・哲学を残すためには、版画など建築物とは別の形で、つくる過程で考えていたことを、建築と同じ重さで残さなければいけない。磯崎さんは著作物も多い。文章も含めて意識的にやっている。具体的なところから抽象的なところまでを見て、初めて磯崎さんの建築を理解できる」

「俺の建築は100年後には一つも残らないだろう。だが、紙は残る」と生前繰り返し述べていたと渡辺さんが振り返ると、曽我部さんは「建築は壊れることがあっても、版画は500年残る」との磯崎さんの話で応じた。「磯崎さんは、数千年の時間の流れの中に自分を位置付けていた」と話す。

全国から訪れた参加者の声

午前中には、六角美瑠神奈川大学教授らがつくばセンタービルを案内する建築ツアーが開かれ、80人余りが参加した。またノバホールロビーでは、シルクスクリーンの版画や写真、鉛のレリーフなど、磯崎さんのオリジナル作品十数点が展示された。

建築ツアーで説明に立つ六角美瑠神奈川大学教授(右)

つくば市の高松夕佳さん(45)は「私はつくばで生まれ育った。子どもの頃からセンタービルを見て、『どんな意味があるのか』と不思議さと引っかかりを感じてきた。その疑問が少しだけ解けた気がした。つくばにこれだけの建物があるということは誇らしいと思う」と語った。

磯崎さんの出身地、大分市からかけつけた大分美術館の学芸員、山之上理加さん(39)は、かつて企画で磯崎さんを担当したことがある。「今日は、磯崎さんに関する新しい情報を聞くことができたし、実際に磯崎アトリエで働いた方のお話も聞けた。今まで知らなかったことも多い。勉強になった。大分市にも磯崎さんが建築した建物がある。つくばセンタービルの保存と改修の内容が非常に参考になった」

群馬県の大学で建築を専攻する小川裕矢さん(20)は「さまざまな逸話を聞くことができて、作品の背景にある作者の思いや人間のドラマを知ることできた。自分もスケールの大きな作品を作りたい」と意欲を込めた。

建築を専攻する大学生の小畑美生さん(19)はツアーにも参加した。「ツアーでつくばセンタービルの説明を聞き、建築物としての良さを感じた。一方で、オリジナルから変わってしまった部分を見て、もったいないと感じたところも多い。今後の建築設計に参考にしたい」と語った。(柴田大輔/ユン・ジュウン=ドットジェイピーインターン生、筑波大学人文・文化学群比較文化学類2年=)

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