つくば中学受験事情 分析事始め《竹林亭日乗》5
【コラム・片岡英明】5月の「つくば子どもと教育相談センター」総会で県立高校問題を5分ほど話した。すると参加者から中学受験の質問があり、それを契機に話し合いが盛り上がった。そこで今回は中学受験について考える。
中学受験の背景
つくば市は人口増の中、県立高校が削減され、そこにTX沿線開発で小中学生が激増。さらに2020年から県立付属中設置で高校入学枠の削減が追い打ちをかけた。つくば市の小中学生は自分の進路の選択肢が狭くなり、そのために中学受験に目が向いているのか。
中学受験に対する首都圏からの転入増の影響はどうか。東京の全日制高校は186校の都立より245校の私立の方が多く、その割合は4対6。私学の流れが強い。さらに187校ある私立中の133校(71%)が中高一貫。東京の中学受験の文化がつくば市にも流入しているのか。
しかし、生徒や保護者が知りたい中学受験に関して冷静な情報は少なく、素朴な疑問が解消されないまま、塾ベースの宣伝や口コミに流される傾向がある。そのため保護者にも不安がある。
そこで、「つくば市の小中学生の高校進学を考える会」は6月の学習会で、つくばの県立高校不足の周辺の問題としてデータに基づいて中学受験についても考えることにした。
中学進学者の推計
まず、最初のデータでつくば市の中学進学数を捉える。つくば市ホームページのopen data(オープンデータ)で前年の小6と次年度の市立中1年の生徒数の差を調べる。これを県立中学、県内私立中、県外私立中などへの中学進学者数とする。もちろん小学卒業時の転出や中学1年の転入もあるので概数である。
<6年間の中学進学者の推移>
▽2018年:中1=1940人、前年小6=2193人。差は253人(11.5%)
▽2019年:差は285人(12.3%)
▽2020年:差は249人(10.4%)
▽2021年:土浦一高が付属中募集開始。差は304人(12.3%)
▽2022年:水海道一高・下妻一高も付属中募集開始。差は331人(12.8%)
▽2023年:中1=2155人、前年小6=2506人。差は351人(14.0%)
<上の数字から言えること>
▽つくば市では中学進学者が人数・割合ともに増加傾向
▽23年は18年より中学進学者が約100人増
▽22年の小6は17年より313人多く、中学進学増は小学生増に伴う面も
▽正確に把握するには転出などを含む資料や中学別の分析が必要
中学受験 学びの視点
中学受験は、つくばの生徒増・県立高不足・県立中設置・東京などの影響以外にも、生徒・保護者の希望、通学条件や費用負担、私立中や塾の指導など多くの要素が絡んでおり、単純な評価・批判はなじまない。
今は中学受験の論評よりも現状把握が先決である。子どもの気持ちを大事にしながら、まず情報を集め、丁寧に語り合うことから始めてほしい。
小中学生の学びの要点は何か? それはどこで学びのスイッチが入るかにある。生徒に学びのスイッチが入れば、高校や過去の成績に関係なく大きく伸びていく姿を見てきた。ゆえに中学受験を生徒にとっての学びの視点で考えてほしい。(元高校教師、つくば市の小中学生の高校進学を考える会代表)
突然始まった【不登校、親たちの葛藤】上
突然、我が子が学校に行かなくなった。どうしよう―。子の不登校に、悩む親は少なくない。親子、夫婦の考えの違いが、時に、家族にきしみを生む。当事者である親たちの声に耳を傾けた。
親は困惑
「もう、学校には行きたくないんだ」。
3年前の9月。つくば市の中村昌人さん(44)、規乃さん(48)夫妻は、目の前で泣きじゃくる中1の長男(15)の訴えを戸惑いながら聞いていた。2週間前から学校で毎日のように体調不良で早退していた。少し様子がおかしいと思っていた。
行きたくない理由に、友人とのトラブルを挙げた。
「まさか、うちの子が不登校?」。信じられない思いだった。悪ふざけもするけど、明るい性格で誰とでも仲良くできるタイプだったはず。これまでも時々、行きたがらない日もあったが、休ませると、数日後には、自然に学校へと足が向いていた。
学校側にトラブルの内容は伝えたが、友人への指導は求めなかった。再び登校したとき、トラブルを引きずってほしくなかったからだ。
「そっとしておけば、学校へ足が向くだろう」。登校しないことに罪悪感を感じているかもしれない。夫婦とも、登校や勉強を強制せず、長男の前で不登校の話題は口にしなかった。
すんなり受け入れたわけではない。秋が深まり、暮れになっても、長男が登校する気配はない。昌人さんは出勤途中に制服姿の同級生を見かける時に胸が痛んだ。イライラも募った。「なぜ、我が子は学校に行かないのか」。苦しそうな昌人さんの姿を規乃さんはよく覚えている。
夕食を終えると、すぐに自室へ引き揚げる長男。夫婦でその背中を見送りながら、葛藤を胸にしまい込む日々だった。
中1の冬休み明け、中2の4月。新学期になれば、気持ちが変わるかもしれないと期待した。でも、長男は動かなかった。
学校以外で、居場所を見つけてほしい―。規乃さんはそう思い、中1の1月からフリースクールに通わせ始めた。だが、体調不良を訴え、1、2カ月で足が遠のき、毎日は通えず週2回ぐらいがやっと。費用もばかにならない。規乃さんはいらだちが募ってきた。3人で話し合い、結局、4カ月足らずでやめさせた。「子どもの気持ちを考えず、居場所を見つけなければと焦りすぎていた」。規乃さんは振り返る。家にずっといると、長男が気になる。なるべく用事を見つけて出かけ、自分の時間を持つように心がけていた。(鹿野幹男)
続く
ワンピースのおんな《続・平熱日記》135
【コラム・斉藤裕之】トイレの中に随分前の「暮らしの手帳」という雑誌が置いてある。その中に「ワンピースのおんな」というタイトルのページがある。ワンピースを着た、多分それなりのキャリアを積んだとおぼしき女性の写真が載っていて、文章はちゃんと読んだことがないのだけれどもちょっと気になっていた。
そのワンピースのおんなは突然現れた。それも大柄の模様の「マリメッコ」のワンピースを着て。妻は大学を出てすぐに有名な布団屋さんに就職した。そのときの担当が有名ブランドのライセンス商品のデザインだった。だからうちには試作品などのタオルや生地サンプルなんかがあって、おおよそ暮らしぶりとはそぐわない一流ブランドのタオルなんかを普段用に使っていたのだけれども、その中にマリメッコという聞き慣れない独特のプリント柄が特徴のブランドがあった。しかし、私にはなじみがないだけであって、フィンランドを代表する有名ブランドであることを知った。
ワンピースのおんなは関ひろ子さんという。職業はアーティストのエージェント? ややこしい業界の話は置いておくとして、1990年代、美術畑とは無縁だった彼女はある若手作家をプロデュースし始め、やがてその作家は世に知られるまでの存在となる。千曲でお世話になったart cocoonみらいの上沢かおりさんもほぼ同時期に同様の活動を始めた方で、お2人はそれまでの閉ざされた?アート界に風穴を開けた、大げさではなく、美術史に残る先駆者的な存在なのだ。
今回の千曲での私の個展を含めたギャラリーのオープンに際しては、ひろ子さんはかおりさん宅に泊まって、プレス関係から食事の支度まで実に楽しそうに手伝いをしていた。
…着ることは自由と尊厳につながる
ひろ子さんが一足先に東京へ戻られる日の午前中、時間があるというので、ワンピースを着た彼女と長野歴史館を訪れることにした。歴史に興味がある人にとってはたまらない展示なのであろうが、一般人の私はごく平均的な速度で見終わって出口にたどり着いた。ところがワンピースの女はいつまでたっても出てこない。やっと現れた彼女はどうやら係の女性に解説をしてもらっていたようで、お礼のあいさつをしながら出口にやって来た。後でその様子を話すと、「あの人は好奇心のカタマリなのよ」とかおりさん。
ワンピースのおんな…。パリでピナ・バウシュのコンテンポラリーダンスの公演を見たのを思い出した。ダンサーはワンピースを着て踊っていた。なぜワンピースだったのか…。バウシュ自身もワンピースのおんなだったような…。それから…そうだ! 以前よく描いていた少女。それは震災の後、被災地でトランペットを吹く少女の画像を見て描き始めた力強い少女像。私は無意識のうちにその少女にワンピースを纏(まと)わせていた。
ワンピースのおんなという連載記事は、その後1冊の本になっているらしい。あとがきに「お気に入りのワンピースを着ることは自由と尊厳につながる…」と、ある。(画家)
➡斉藤さんの過去のコラムはこちら
音楽劇「ヒロシマ」 7月、土浦公演 市民団体が主催
紙芝居やチンドン屋の練り歩きなどを行っている土浦の市民団体「つちうら駄菓子屋楽校」(石原之壽=のことぶき=代表)が主催し、音楽劇「ヒロシマ」の公演が7月22日、土浦市大和町の県県南生涯学習センターで催される。2021年から毎年、土浦で開催し3回目となる。
「ヒロシマ」は、78年前に広島で被爆した路面電車を擬人化し、当時の記憶を語っていく物語。作中には被爆者たちの様々な証言を、できるだけ表現を変えずに用いているという。俳優で演出家の嶋崎靖さん(67)が平和への思いを込めて制作・演出した。今回の公演では、数々の劇団で活動する原洋子さんと、俳優の保可南さん、地脇慎也さんが出演し、武蔵野音楽大学大学院の青山絵海さんがマリンバを演奏する。音楽は嶋崎雄斗さんが制作を手がけた。
チンドン屋の先輩と後輩
主催する「つちうら駄菓子屋楽校」は石原さん(64)が3年前に立ち上げた。飛行船「ツェッペリン伯号物語」や「土浦花火物語」など、土浦を中心に地域の歴史や物語を題材にした紙芝居を制作し上演している。
石原さんは群馬県伊勢崎市の出身で、中学生の頃から都内の劇場に通い、演劇や落語、ジャズライブなど演芸に親しんで育った。大手会社のサラリーマンとして働き定年を迎えた後、できることは何かと考えた時、子どもの頃から親しんだ演芸に自分の原点を見つけたと話す。2018年には全日本チンドンコンクールに出場し、素人部門で準優勝した。
「ヒロシマ」を制作した嶋崎さんは08年に開催された関東ちんどん選手権の優勝者で、石原さんにとってチンドン屋の先輩だ。4年前、嶋崎さんから誘いがあり、東京都新宿区の経王寺で「ヒロシマ」を初めて見た。
「音楽のすばらしさ、プロの役者の演技など、表現者の一人として衝撃を受けた」と石原さん。感銘を受けた石原さんはすぐに土浦公演を企画した。公演の費用は協賛金などを集めてまかなった。昨年はコロナ禍だったことから全員入場無料にした。若い人に見てほしいという思いから、今年も学生は無料とする。
初回の一昨年は約150人、昨年は約200人が来場した。「スポンサーを募集しているが資金調達が難しく開催が大変。もう止めようと思ったが、昨年、一昨年の来場者アンケートを見ると『こんな舞台は初めて』『やめずに継続してほしい』という声が多くあり、今年も開催を決めた。何とかか続けたい」と話す。
「何でもオンラインになり、生で見るという体験が失われている。東京でなければ見られないようなプロの劇を土浦でも見てほしいと思った。本物に触れる体験をしてほしい」と石原さんは来場を呼び掛ける。
石原さんは紙芝居でも平和の大切さを伝えてきた。3年前、山口県に住む山田英子さんが被爆体験を描いた紙芝居「英ちゃんと原爆」のことを新聞記事で知り、新聞社を通して山田さんに連絡した。被爆体験を多くの人に伝えるため茨城でも上演したいと申し出たところ快諾を得、2年前から毎年土浦で上演している。今年は8月16日、17日に土浦駅前のアルカス土浦1階ラウンジで上演する予定だ。「自分には戦争の体験はないが、体験者の魂を伝えることはできる」と話す。(田中めぐみ)
◆音楽劇「ヒロシマ」は7月22日(土)、土浦駅前の県県南生涯学習センター多目的ホール(市役所5階)で開催。開演時間は昼の部が午後2時開演(開場は午後1時30分)、夕の部が午後5時開演(開場は午後4時30分)。公演時間70分。全席自由。定員は昼夕とも大人100人、学生300人。入場料は大人 1500円、大学生以下は無料。予約方法はパスマーケットへ。
アストロプラネッツ、巨人との交流戦に敗れる
ラミレスさんの障害児野球教室も
プロ野球独立リーグ・ルートインBCリーグの茨城アストロプラネッツは7日、土浦市川口のJ:COMスタジアム土浦で、NPB(日本野球機構)との交流戦として読売ジャイアンツ3軍と対戦し、1-5で敗れた。試合に先立って、横浜DeNAベイスターズ前監督のアレックス・ラミレスさんによる障害児向けの野球教室も開かれ、約20人の子どもたちが直接指導を受けた。
茨城アストロプラネッツ-巨人3軍(6月7日、J:COMスタジアム土浦)巨人 003100001 5茨城 000010000 1
茨城は要所で守備にほころびが出て、要らぬ失点を重ねた。3回表、ショート寺嶋祐太の捕球ミスなどで2死一・三塁とされ、中堅への適時打で1点を先制される。次打者の右前打では、土田佳武が処理に手間取るうちに2者が生還、0-3と引き離される。4回にも2死からエラーがらみで走者を出し、さらに1点を追加された。
先発の二宮衣沙貴は「エラーでランナーを出しても、自分が踏ん張って抑えていれば結果は変わっていた。そこが今日の反省点。自分の能力を高め、三振で切り抜けられる力をつけたい」と悔やむ。
5回裏、茨城が1点を返す。2死から一番・土田がショートゴロで出塁、二番・瀧上晶太の右翼への当たりは、野手が目測を誤り適時打となる。こちらもエラーがらみの得点だった。
しかし9回、投手は5人目の浅野森羅のとき、2死一・二塁からショートゴロを送球ミス。この間に1点を追加され、ダメ押しとなった。
「投手は頑張ってくれたが、守備の乱れや走塁で相手と差があった。今季は見た目ほどの実力差はないが点差がついた残念なゲーム。今季はこうしたミスが多く、それが成績に直結している」と、伊藤悠一監督も渋い表情。
土浦市内の約20人が参加
試合前に催された野球教室は、ラミレスさんが「スペシャルニーズ」のある子どもたちを支援する一般社団法人VAMOS TOGETHER(バモス・トゥゲザー)を主宰していることがきっかけ。茨城アストロプラネッツの運営会社「アドバンフォースグループ」が障害福祉サービスを提供していることから、その趣旨に賛同し開催に至った。
スペシャルニーズとはラミレスさんの造語。ほんの少しの手助けがあれば、障害があっても自立して個性や才能を発揮しながら生きることができるという考えだ。「彼らに夢と笑顔と、生きる力をつける機会を与えていきたい。そして、彼らを支える家族もサポートできたら」と、思いを語る。
今回は、放課後デイサービス「アストロ土浦真鍋」の利用者など、土浦市内の障害児施設に声を掛け、約20人の参加者が集まった。
「素晴らしいコラボをさせていただいた。多くの子が楽しんで参加し、ベストを尽くそうとする姿を見せてくれた。中には将来野球選手になりたい子もいるのでは」とラミレスさん。
茨城アストロプラネッツとしても今後もラミレスさんと協力し、このようなイベントを引き続き開催して地域貢献の機会としていきたい考えだ。この日伊藤監督が、直近3試合で集めたVAMOS TOGETHERへの支援金7万460円をラミレスさんに手渡した。(池田充雄)
オカルト、エリファス・レヴィ《遊民通信》66
【コラム・田口哲郎】
前略
ずいぶん前からオカルトに興味があります。オカルトといえば、学研の月刊誌「ムー」です。UFOやツチノコ、心霊現象など、科学で解明できない現象について扱っています。オカルトはちょっとゾクゾクしますし、謎が解けそうで解けないところが魅力だと思います。
オカルトについて調べてみると、オカルトの元となった思想があることがわかりました。それはオカルティズムと呼ばれるもので、19世紀フランス最大の魔術師といわれるエリファス・レヴィ(1810-1875)が大成したとされています。オカルトはヨーロッパのキリスト教文化圏で生まれ、発展したものであるのは確実なようです。
少しその背景を説明すると、18世紀末のフランス革命でカトリック教会の一強支配が崩れて、聖職者ではない俗世の作家たちが、キリスト教会が担っていた精神的役割を肩代わりするようになりました。そのとき、いわゆる「宗教」には収まらない「宗教的なもの」が次々に生み出されてゆきました。その「宗教」の枠をはみ出した「宗教的なもの」の中の一つが、オカルティズムです。
オカルティズムの大成者レヴィはなにを隠そう、元カトリック修道士であり、詩人でもありました。そのレヴィがキリスト教会と絶交して、しかし人類を救いたいという一心で、つくりあげたのがオカルティズムなのです。
レヴィは今のオカルトで扱う未確認飛行物体・生物などについて研究したわけではありません。ユダヤ神秘思想にもとづいたカバラを極めました。これは現代のタロットに通じるものです。それもたとえば恋愛運や金運を占うという意図ではなく、宇宙を支配する聖なる知恵を知り、その知恵によって世界を知り、よりよく生きることを目指しました。その知恵を人びとに伝えることで、人びとが幸せになることが大切なのです。
人間の根本的な存在を問いつづける
夜空を眺めていると、宇宙が見えるような気になり、目をつぶると、自分が宇宙の中の小さな存在であることが実感できます。そもそも宇宙や人間の存在自体が不思議です。
その意味は、日常にかまけていると気にもなりませんが、ふと瞑想(めいそう)すると、この宇宙の意味を誰も教えてくれないことに気づきます。そもそも教わるものではないのですが、では探求したとしても、答えなどない。でも、宇宙はたしかに存在して、地球は自転・公転し、宇宙の中を時速11万キロで駆け抜けています。科学で事実はわかっても、宇宙の存在の意味はわかりません。
こうした人間が持たざるをえない根本的な疑問は、人を不安にもさせますが、深い静寂にも導きます。
レヴィはこうした人間の根本的な存在の意味を研究して、人びとに伝えたかったのです。こうしてオカルティズムは150年以上前に生まれ、そして現代にまで脈々と続いています。こんな人間の思いを大切にしたいですね。ごきげんよう。
草々
(散歩好きの文明批評家)
阿見大空襲、むなしさこみ上げた【元予科練生からのバトン】下
石岡市 萩原藤之助さん(94)
石岡市在住の萩原藤之助さん(94)は、土浦海軍航空隊甲種第13期飛行予科練習生だった。第14期生だった戸張礼記さん(94)=6日付=に回想録執筆を勧められ、去年2月、予科練の生活をまとめた「雛鷲の残像―そのままの予科練回想録」を自費出版した。「等身大の予科練―戦時下の青春と、戦後」(常陽新聞社)などの参考文献を元に、当時の記憶と照らし合わせてつづり、戸張さんが監修を務めた。萩原さんは長年、戦争の資料を集めており、3カ月ほどで書き上げた。多くの人に読んでほしいと700部制作し、200部を阿見町の予科練平和記念館に寄贈した。
萩原さんは中学3年の時、校内に貼りだされた「予科練習生募集」のポスターを見て応募を決めた。1943(昭和18)年のことだった。「戦局が悪化の一途をたどる中、13期は、もっと搭乗員教育を進めて飛行機搭乗員を大量に養成せよということで、入隊者数を大幅に増やした年だった」と、回想録に付した資料を示して説明する。
予科練では精神教育が行われた。「陸海軍軍人に賜はりたる敕諭(軍人勅諭)」に由来する五ケ条を暗唱。集会に遅れたり、訓練にやる気がなかったりすると罰を受けた。「アゴ」はこぶしで練習生のあごを殴る罰で、殴られた時には自分の至らなさを恥じたという。厳しい訓練に耐えていたが、卒業直前に体調不良に陥り、しばらくの間療養した。卒業前日になり、班長から卒業できることを告げられ、土浦海軍航空隊の分隊に所属して訓練を継続することとなった。所属した分隊で、44年9月には滑空訓練を行うようになった。
45年6月10日、土浦海軍航空隊が米爆撃機B29による空襲を受け、374人が犠牲になった阿見大空襲ー。この時の記憶も『雛鷲の残像』に詳細に記している。朝7時過ぎ、いつもの訓練通り射撃場の後ろにあった防空壕に退避していた。すると空襲警報が発令され、戦闘機が機銃掃射を浴びせて飛び去っていった。続いて大きな爆発音が10回ほど響き渡った。青宿の横穴式防空壕に急行せよという命令が出て、萩原さんはトラックに乗って向かった。
防空壕の入り口付近には多くの爆弾の落ちた跡があり、入り口が崩れて、奥からうめき叫ぶような声が聞こえた。助けなければと崖に上り、スコップで掘り下げたが土は崩れるばかり。そのうちまた戦闘機がやってきて機銃掃射を浴びせた。萩原さんらは木陰に逃げたが、その間に土がまた崩れてしまった。崖の上から航空隊を見下ろすと、兵舎や講堂に火の手が上がっていた。
そのうち、所属部隊に戻るようにという命令が下り、掘るのを断念して徒歩で兵舎に戻った。誰がいない、彼がいないと確かめ、いない者の探索に取り掛かった。兵営の門から霞ケ浦湖岸までまっすぐ続く道路の両側には、むしろをかぶせた死体が延々と続いていた。その道を歩き、むしろを少し上げて顔を見ながら同僚を捜し続けた。青ざめた同僚の顔を発見し、むなしさが込み上げたという。
誰にも言わなかった
「戦争が終わっても、予科練にいたことを誰にも言わなかった。予科練あがりは『与太練』なんて呼ばれていたんだから」。
予科練での訓練は我慢、忍耐の連続だったが、それだけではなく、ぬくもりや親切を感じることもあったと振り返る。復員後は茨城師範学校に入り、教員となった。練習生としての生活を礼賛できるわけではないが、集団生活での修養はその後の人生の糧にもなった。しかし、戦争は二度としたくないと語る。(田中めぐみ)
終わり
戦争は人災、起こさないでほしい【元予科練生からのバトン】上
78年前の1945年6月10日、阿見町にあった土浦海軍航空隊が米爆撃機B29による空襲に見舞われ、10代の予科練生と教官、民間人ら計374人が犠牲になった。6月10日を前に元予科練生2人に話を聞いた。
阿見町 戸張礼記さん(94)
阿見町在住の戸張礼記さん(94)は1928(昭和3)年生まれ。旧制土浦中学校に進学した41年の12月、ラジオの放送を聞いて「ぞくっとし、震えた」と当時を振り返る。「大本営陸海軍部発表12月8日6時。帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋において米・英軍と戦闘状態に入れり」。ハワイ真珠湾攻撃を伝える放送だった。44年6月、「海軍飛行兵徴募」のポスターを見て応え、土浦海軍航空隊に甲種第14期飛行予科練習生として入隊した。
予科練では学科のほか射撃、水泳、短艇(カッター)、グライダーなど厳しい訓練を受けた。軍人精神を注入するため「バッター」と呼ばれる棒で叩く制裁があった。モールス信号を聞き取る無線通信の授業では、1分で80字を聞き取らなければならず、1文字間違うと1本バッター、3文字間違うと3本バッターと罰があった。
練習生は大きな風呂に皆で入った。隠していても皆、尻が紫色になっているのが分かった。「こんな調子だからすっかりぶるってしまった」。戸張さんは土浦中学の滑空部でグライダーの心得があったため、グライダー訓練は得意で楽しかったが、カッター訓練は長くて重いオールを合わせて漕がねばならず、尻の皮がむけるほどで辛かったと話す。
やがて特攻が発令されるようになる。一つ上の13期予科練生は神風特別攻撃隊や回天特別攻撃隊として、戸張さんより2カ月早く入隊した14期の1次隊は木製モーターボートで敵艦に体当たりする震洋特別攻撃隊として、体当たりの攻撃を任務とする部隊に配属される。
戦局は悪化していた。本来は1年で卒業するが、途中で予科練教育が凍結された。戸張さんは10カ月で予科を終え、翌45年3月、本土決戦要員として青森の部隊に転属される。航空機に乗ることはなく、7月には青森の大湊特別攻撃陸戦隊に転属となり、本土上陸を想定した特攻、対戦車攻撃の訓練をした。
45年7月、戸張さんら14期2次隊も、青森県の海岸にある大湊兵団の土龍特別陸戦隊の特攻隊員となった。掘った穴に爆雷を抱えて隠れ、敵の戦車もろとも自爆するのが任務で、爆雷に見立てた六角柱を持って穴に入り日々訓練した。「敵が上陸してきたことを想定し、海岸で直径80センチのタコつぼと呼ばれる穴を掘って爆雷を突っ込む練習をした。まさに墓穴を掘った気持ちだった。とにかく体ごとぶつかって死ねばいいのだろうと思っていた。国のために、家族を守るために戦いたいという気持ちと、死にたくない気持ちと、両方あった」。
8月、広島、長崎に原爆が落ちた。とてつもなく暑い日だった15日、朝から汗みどろになって対戦車攻撃の訓練をする中、緊急の総員集合の命令が出て幕舎前に集まり、玉音放送を聞いた。聞き慣れない抑揚の高い声が聞こえ、雑音がひどかったが「戦いを終わらせたい」という意味は理解できた。「これで家に帰れる、よかった、という安堵感も感じたが、卑怯(ひきょう)でひそやかなものだった」と戸張さん。
同期に死んだ者はなく、全員生き残った。武装解除の作業があり、気が抜けたようになりながら大湊から汽車に乗った。途中仙台で一泊し、8月30日、自宅に帰った。家の前に立ち、しばらく呆然(あぜん)としていたら、母がやって来て号泣したという。
かわいそうだと思われるのが嫌なんだ
戦後復員すると「お前らがしっかりしないから日本は負けた」と言われた。「まるで国賊扱いだった。予科練にいたことを誰も黙ってたよ。特攻くずれ、予科練くずれなどとも言われた。アメリカの宣撫(せんぶ)工作で慣らされた影響があったと思う」と言う。「アメリカ兵に群がってチョコレートをもらい大喜びする子どもたちを見て情けないと思ったが、でもへこんでいられない。明日食べるものがなく、いかに生きのびるかを考えていた」。
戦後、価値観は180度変わった。「予科練にいたことを家族にも誰にも話さなかった人もいるが、予科練でひどいことをやられたととらえてほしくない。かわいそうだと思われるのが嫌なんだ。その時は皆、成し遂げることに誇りと喜びを持っていた。教員がバッターで殴るのは恩情からだったし、殴られる方も自分が守れなかったからという気持ちで耐えていた。過酷さやひどさを強調してほしくない」と言う。
「小学1年の国語の教科書に『ススメ ススメ ヘイタイススメ』が載っていた。中学3年の時には武装してわら人形を突き刺す練習が正課の中にあった。教育ではなく洗脳だった」と戸張さんは話し、そういった教育の中で優等生であろうとし、憧れを持って予科練に入ったという。
戦後、教員となり39年間、小中学校に勤めた。現在、阿見町の予科練平和記念館の歴史調査委員でもある戸張さんは「学ぶのは平和に生きる力を身に付けるため。平和を守る思考力、平和に生きるための判断力、平和を実現するための表現力を磨いてほしい。人災は止められる。戦争は人災。道徳、仁徳を持ち、戦争を起こさないでほしい」。令和の子どもたちに平和のバトンを渡し、伝えたいと語る。(田中めぐみ)
続く
フィンランドのNATO加盟 安保の新動向《雑記録》48
【コラム・瀧田薰】2023年4月4日、フィンランドが北大西洋条約機構(NATO)の31番目の加盟国となった。この日はNATO発効(1974年)から74回目の記念日でもあった。
もともとスウェーデンの一部であったフィンランドは、1809年にロシアに割譲されてロシアの一部となったが、1917年(ロシア・十月革命)に「フィンランド共和国」として独立した。その後、大国ソ連と長い国境線で隣り合うことになった同国は、二度の対ソ戦、そして対独戦にも耐え、秀でた外交力とそれを支える高度な国際政治研究力を備え、近年は非同盟と軍事的中立によって独立を貫くことに成功してきた。
そのフィンランドが、なぜ、わざわざNATOに加盟したのか。ロシアによるウクライナ侵攻であると誰しもが考えそうだが、軍事専門家は、NATOと北欧諸国(スウェーデンを含む)との間で、「北極圏における戦略的環境の変化」「新たな領域における抑止と防衛の強化の必要性」で認識が一致した、そことが大きいと指摘する。
例えば、IINA(International Information Network Analysis)の長島純氏による「戦略的環境の変化から読み取るNATO拡大と5条適用の問題」(2023年5月16日)など。
すなわち、地球温暖化の影響によって北極海航行の自由度と資源の開発可能性が上昇し、北極海を取り巻く国家間の資源や安全をめぐる競争が激化していることが一つ。もう一つ(フィンランドを動かした真の理由)は、最近の情報通信技術(ICT)、特に宇宙空間における衛星通信の利活用の可能性が飛躍的に向上し、経済・軍事両面における安全保障に死活的影響を与えるようになったことだという。
ハイブリッド戦争 一国対応に限界
具体例をあげれば、衛星システムを使った民間衛星通信サービス「スターリンク」や、商用衛星画像、スマートフォンが撮影した画像データをビッグデータ化するシステムなどで、いわゆる「ハイブリッド戦争」に登場する種々の装置・技術である。フィンランドは、もともとICT先端技術を軍事面で積極的に利用しようとしてきたし、その技術力はNATOの歓迎するところであるが、技術開発競争を一国で担うことに実は限界を感じてもいたようだ。
ともあれ、フィンランドのニーニスト大統領は、NATOに加盟したことで「国防マインドセット」を変更しなければならなくなったと述べた(加盟式典演説、4月4日)。フィンランドは「自分の国は自分で守る」ことを国是としてきた。つまり、他国には頼らないが、他国を支援もしないし、他国の戦争に巻き込まれることもないという前提が存在した。
しかし、この考え方を捨て、あえてNATO加盟を決断したのである。確かに、自国有事の際の安全保障の強化にはなるだろう。その一方で、ソ連や中国とNATO加盟国との間であれ一朝ことあれば、即座に防衛出動する責任を負うことにもなった。フィンランド軍関係者の思いは複雑ではなかろうか。(茨城キリスト教大学名誉教授)
博物館の歴史論争拒否、土浦市法務が助言 《吾妻カガミ》159
【コラム・坂本栄】今回は158「土浦市立博物館が郷土史論争を拒絶!」(5月29日掲載)の続きになります。市立博物館と本堂清氏の郷土史論争。博物館の論争拒否に対し、本堂氏は「(博物館がそう出るなら同施設を管轄する)市教育長に検討申請書を提出する」と反発しており、エスカレートしそうな雲行きです。
また取材の過程で、本堂氏を門前払いするようアドバイスしたのが市の法務部署であったと聞き、土浦市の博物館マネジメントにも唖然(あぜん)としました。論争を挑む本堂氏をクレーマー(苦情を言う人)並みに扱うよう指導したわけですから。
郷土史をめぐる主な論争は3点
私は中世史に疎いこともあり、市立博物館(糸賀茂男館長)の学芸員にこの論争の要点を整理してもらいました。
いつから山の荘と呼ばれたか
▼本堂氏:『新編常陸国史』(国学者中山信名=1787~1836=が著した常陸国の総合史誌)の記述からも明らかなように、「山の荘」(土浦市北部の筑波山系地域)の名称は古代からあったのに、博物館は同歴史書の記述を無視して同名称を古代史から抹消した。
▼博物館:『新編常陸国史』では「山の荘」が古代にさかのぼる名称とは述べられていない。「山の荘」の名称が史料に初出するのは『常陸国富有人注文』(室町時代の文書)であり、古い時代からの名称であることを裏付ける史料はない。
山の荘は方穂荘の一部なのか
▼本堂氏:博物館は「山の荘」の地が「方穂荘(かたほのしょう)」(つくば市の北部を流れる桜川の南側を中心とした地域)に含まれていたと解釈しており、「山の荘」の名称を歴史上から抹消した。
▼博物館:「方穂荘」が桜川の北側地域(旧新治村など)を包むと解釈するのは妥当であり、『承鎮法親王附属状』(鎌倉時代の文書)の記載でも、「山の荘」にある東城寺の周辺は「方穂荘」と呼ばれていた。
東城寺があった場所はどこか
▼本堂氏:博物館は「東盛寺」が桜川の南側を中心部とする方穂荘にあったと解釈しているが、方穂荘の中心部にあった「東盛寺」は山の荘の「東城寺」とは別の寺である。
▼博物館:近年発見された史料から、中世の文書に見られる「東盛寺」が「東城寺」を指すのは間違いない。「東城寺」は歴史上1カ所だったと考えている。
学術を市民につなぐ使命を放棄?
論争で注目されるのは、本堂氏が口伝(くでん=言い伝え)や『新編常陸国史』を使って自説を展開しているのに対し、博物館はより古い文書を多用していることです。また博物館は、故網野善彦氏(中世史の権威、元名古屋大教授)の史観や学説に多くを依拠しています。
こういった論争を踏まえ、博物館は1月30日付の回答書で「…『口伝』をもってしては、第三者がこれを再検証することは困難です。口碑伝説、口頭伝承は、歴史研究にとって大切な資料のひとつですが、資料としての取り扱いは難しく、それを根拠にすることについては、博物館は慎重に考えています」と述べています。
中世史学者の糸賀館長(プロ)と郷土史研究者の本堂氏(セミプロ)ではレベルが違うということでしょうか。口伝も含め多様な説を集め、それらを公開しながら議論し、市民に郷土史への関心を持ってもらう―これが市立博物館のミッション(使命)のはずです。それなのに学術研究の城郭のように運営するのはいかがなものでしょうか。
学術を市民につなぐのが仕事の博物館が市民の参加を拒むことは、その使命の放棄ではないでしょうか。郷土史に関する見方が2つあっても何も困らないし、むしろその方が楽しいのではないでしょうか。(経済ジャーナリスト)
