火曜日, 10月 6, 2026
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阿見大空襲、むなしさこみ上げた【元予科練生からのバトン】下 

石岡市 萩原藤之助さん(94)

石岡市在住の萩原藤之助さん(94)は、土浦海軍航空隊甲種第13期飛行予科練習生だった。第14期生だった戸張礼記さん(94)=6日付=に回想録執筆を勧められ、去年2月、予科練の生活をまとめた「雛鷲の残像―そのままの予科練回想録」を自費出版した。「等身大の予科練―戦時下の青春と、戦後」(常陽新聞社)などの参考文献を元に、当時の記憶と照らし合わせてつづり、戸張さんが監修を務めた。萩原さんは長年、戦争の資料を集めており、3カ月ほどで書き上げた。多くの人に読んでほしいと700部制作し、200部を阿見町の予科練平和記念館に寄贈した。

『雛鷲の残像』表紙

萩原さんは中学3年の時、校内に貼りだされた「予科練習生募集」のポスターを見て応募を決めた。1943(昭和18)年のことだった。「戦局が悪化の一途をたどる中、13期は、もっと搭乗員教育を進めて飛行機搭乗員を大量に養成せよということで、入隊者数を大幅に増やした年だった」と、回想録に付した資料を示して説明する。

予科練では精神教育が行われた。「陸海軍軍人に賜はりたる敕諭(軍人勅諭)」に由来する五ケ条を暗唱。集会に遅れたり、訓練にやる気がなかったりすると罰を受けた。「アゴ」はこぶしで練習生のあごを殴る罰で、殴られた時には自分の至らなさを恥じたという。厳しい訓練に耐えていたが、卒業直前に体調不良に陥り、しばらくの間療養した。卒業前日になり、班長から卒業できることを告げられ、土浦海軍航空隊の分隊に所属して訓練を継続することとなった。所属した分隊で、44年9月には滑空訓練を行うようになった。

45年6月10日、土浦海軍航空隊が米爆撃機B29による空襲を受け、374人が犠牲になった阿見大空襲ー。この時の記憶も『雛鷲の残像』に詳細に記している。朝7時過ぎ、いつもの訓練通り射撃場の後ろにあった防空壕に退避していた。すると空襲警報が発令され、戦闘機が機銃掃射を浴びせて飛び去っていった。続いて大きな爆発音が10回ほど響き渡った。青宿の横穴式防空壕に急行せよという命令が出て、萩原さんはトラックに乗って向かった。

防空壕の入り口付近には多くの爆弾の落ちた跡があり、入り口が崩れて、奥からうめき叫ぶような声が聞こえた。助けなければと崖に上り、スコップで掘り下げたが土は崩れるばかり。そのうちまた戦闘機がやってきて機銃掃射を浴びせた。萩原さんらは木陰に逃げたが、その間に土がまた崩れてしまった。崖の上から航空隊を見下ろすと、兵舎や講堂に火の手が上がっていた。

そのうち、所属部隊に戻るようにという命令が下り、掘るのを断念して徒歩で兵舎に戻った。誰がいない、彼がいないと確かめ、いない者の探索に取り掛かった。兵営の門から霞ケ浦湖岸までまっすぐ続く道路の両側には、むしろをかぶせた死体が延々と続いていた。その道を歩き、むしろを少し上げて顔を見ながら同僚を捜し続けた。青ざめた同僚の顔を発見し、むなしさが込み上げたという。

萩原さんが所属していた31分隊5班。萩原さんは最上段の右から3番目。1944年撮影=「雛鷲の残像―そのままの予科練回想録―」に掲載

誰にも言わなかった

「戦争が終わっても、予科練にいたことを誰にも言わなかった。予科練あがりは『与太練』なんて呼ばれていたんだから」。

予科練での訓練は我慢、忍耐の連続だったが、それだけではなく、ぬくもりや親切を感じることもあったと振り返る。復員後は茨城師範学校に入り、教員となった。練習生としての生活を礼賛できるわけではないが、集団生活での修養はその後の人生の糧にもなった。しかし、戦争は二度としたくないと語る。(田中めぐみ)

終わり

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