水曜日, 4月 8, 2026

全国大会出場へ 牛久リトルリーグマイナー

牛久市やつくば市を拠点に活動する少年硬式野球チーム「牛久リトルリーグマイナー」(小学3~5年、会長・根本洋治牛久市長)が、5月に行われた野球大会「AIGプレゼンツ MLB CUP 2023リトルリーグ東関東連盟大会」で優勝し、7月28日から宮城県石巻市で行われるファイナルラウンド(全国大会)への出場を決めた。 東関東大会は茨城県と千葉県で構成するリトルリーグ東関東連盟所属の11チーム(うち2チームが合同)が出場し3日間にわたり実施された。牛久は決勝戦までの4試合のうち3試合でコールド勝ちし、総得点49点に対して失点はわずかに1点と圧倒的な強さを見せた。 決勝は船橋リーグに初回、エースの眞壁陽大君が連打を浴びて2点のリードを許した。2回にも1点を献上し苦しい展開となったが、迎えた5回裏、四球と内野安打を皮切りに怒濤(どとう)の反撃で5点を奪い逆転に成功した。しかし最終回の6回表、勝ちを急いだ配球が相手打線につかまり同点に追いつかれた。延長7回は無死二塁からのタイブレークとなったが、2番手としてマウンドに上がった速球派・萩原唯月君の力投で無失点で切り抜けた。波に乗った牛久はその裏、送りバントで一死一、三塁から、3番・飯田弥大君のセンターへの犠牲フライでサヨナラ勝利を手にした。牛久の全国大会出場は2016年の第1回大会以来7年ぶり2度目。 今井卓監督は「決勝は3点ビハインドを追う苦しい展開だったが、選手たちは絶対に何とかしようとボールに対して必死に食らいついていたので、必ず逆転できると信じていた。日頃の練習の成果が発揮できた試合だったと思う」と話し、内田夏生主将は「全国大会に行くためにこの試合は何が何でも勝ちたかったので本当に良かった。東関東連盟の代表として全国大会も一戦必勝で優勝したい」と意気込みを話した。 各会場では、60秒間のうち45メートルのラインを何本越えられるかを競うホームランダービーが行われた。チーム一の長身選手である中島直太郎君が9本で優勝し、閉会式で、プレゼンターの牧田和久投手(元サンディエゴ・パドレスほか)からサイン入りの記念バットが授与された。決勝の午後にはリトルリーグ東関東連盟所属全てのマイナーリーガーが一堂に会し、牧田投手による野球教室も開催された。 牛久は昨年9月に行われた東関東連盟大会において2年連続で優勝し、11月の秋季関東大会ではチーム史上初の準優勝を果たした。同決勝での敗退以降、ここまで練習試合を含めてAチームの試合は無敗のままといい、全国大会での優勝を十分狙える位置にある。「秋の関東決勝で敗れた東練馬リーグを全国で倒すことを目標に頑張ってきた」と内田主将は力強く語る。 牛久ナインは7月25日に根本牛久市長を表敬訪問し、28日の開会式に合わせて宮城県石巻市入りする。28日はホームランダービーが行われた後に開会式。29日に1回戦と準々決勝、30日に準決勝が行われ、両日ともに敗退リーグを対象にMLBゲストの野球教室が行われる。昨年は松坂大輔氏や岩隈久志氏らがゲストとして招かれた。 牛久リトルリーグは1977年4年に創設された。過去に神戸拓光選手(元ロッテ)や菊田拡和選手(巨人)を輩出している名門リーグ。 リトルリーグは学童野球と異なりアメリカ基準で学年構成されるため、新チームの結成は毎年8月からとなる。連勝続きのこのチームも7月の全国大会をもって解散し、5年生は活動場所をつくば市谷田部に変えメジャーチームの6年生と合流、4年生は3年生とのマイナー新チームでそれぞれ始動する。 事務局長を務める西川政和さんは「この子たちは仲が良くてまとまりがありティーボール(3年生以下)の頃から負け知らず。これまでの公式戦を総なめにしている。現在は低学年の人数が不足しているので広報活動に力を入れている。特に5年生以降の練習場所はつくば市のTXみどりの駅の近く。興味のあるご家庭は是非見学に来て欲しい。学童野球からの移籍も大歓迎です」と持続可能なチームを目指しPRも抜かりない。 牛久リトルリーグマイナーのベンチ入り選手(敬称略)(5年生)内田 夏生(主将)萩原 唯月(副主将)眞壁 陽大中島 直太郎鈴木 心明吉松 岳阿部 心陽梶本 大馳(4年生)飯田 弥大西川 遥摩朝  隆晟神田 歩武松本 逢生鴻巣 うらら ◆試合はSportsnaviにて全試合生配信され、その後も見逃し配信される。牛久リーグのウェブサイトはこちら。問い合わせは電話090-1048-6265(西川事務局長)

特定外来魚駆除へ 釣り大会開き活用法模索【桜川と共に】6

7月上旬、つくば市と土浦市の桜川で「特定外来魚釣り大会」が開かれた。県内外から親子連れなど約70人が参加し、午前中だけでアメリカナマズ126匹、ブラックバス2匹、ブルーギル9匹の計約131キロを釣り上げた。 同大会は、釣り好きの一般参加者の協力を得て特定外来魚を駆除しようと、桜川漁業協同組合(つくば市松塚、鈴木清次組合長)が毎年主催している。釣果の9割を占めたアメリカナマズは1980年代に霞ケ浦に定着し、2000年ごろに爆発的に増え始めたとされる。雑食性で、組合員が捕まえたアメリカナマズの腹を割くと、ワカサギなどの在来魚のほかモグラまで出てきたことがあった。漁協では刺し網やはえなわ漁を組合員に推進しているが、捕っても収益になる見込みがないことが課題となっている。 釣れたアメリカナマズはこれまで穴を掘って埋めていたが、「ただ殺すのは忍びない」(組合員ら)と今回新たに、つくば市内の中華料理店や、近隣農家で働いている外国人技能実習生らが引き取り、食べてもらうこととなった。漁協は多方面に声を掛け、新たな活用法を模索している。 県内外から参加 釣り大会は、釣り上げた総重量で順位を付け、兵庫県から参加した斎藤直之さん(39)が16.7キロで優勝した。斎藤さんは筑波大の卒業生。「在学中から桜川でバケモノ(アメリカナマズ)が釣れると知り、釣りに来ていた」と話す。大会には都内や栃木県在住の釣り仲間と一緒に参加した。 つくば市内在住の小学5年青山秀延(しゅうすけ)さんは「魚が好きで初めて参加した。釣りはおもしろい」と、釣り上げたアメリカナマズを優しく手で持ち上げてみせた。市内在住の小学6年菊池風汰さんと小学4年泰佑さんの兄弟は、釣り好きでよく川に出掛けるという。続けざまにヒットし、手慣れた様子でリールを巻きあげ、笑顔を見せていた。 アメリカナマズは背びれと胸びれに太く鋭いとげを持っており、漁業者や釣り人がけがをすることもある。漁協組合員の鈴木孝之さんは、釣れたナマズを手に持って「ナマズは小さい頃の方がとげが固い。それは小さいうちは敵に襲われやすいから。大きくなるととげが柔らかくなる」と子どもたちに説明。鈴木さんが小さいナマズのとげでどれだけ大きなナマズを持ち上げることができるかやって見せると、親子から歓声が上がっていた。 ハクレン大量遡上、カワウ減少傾向 アメリカナマズ、ブラックバス、ブルーギルといった特定外来魚以外にも、桜川ではハクレンの大量遡上など、魚種の変化が組合員の間で問題になっている。ハクレンは特定外来魚ではないが、外来種で、一昨年から4月、5月に大群となって桜川を遡上するようになった。体長60センチから90センチと大型の魚で、今年4月30日には、漁協の活動拠点であるつくば市松塚で「ハクレンジャンプ」と言われる集団跳躍行動が見られ、漁業者らを驚かせた。大型外来魚の増加に伴ってコイやアユなどはいなくなり、これらを餌とするカワウも減少傾向にあるという。(田中めぐみ) 連載【桜川と共に】の過去記事はこちら ハクレンの過去記事はこちら https://youtube.com/shorts/_XM4Bgdt7dk

日本の花火大会のルーツは?《見上げてごらん!》16

【コラム・小泉裕司】前回の15「花火を観るなら有料観覧席でⅡ」(6月18日掲載)で紹介した「隅田川花火大会」は、日本最古の花火大会とされている。大会公式HPでは、「両国の川開き」という名称で、享保17年(1732)、大飢饉(ききん)と疫病の流行による犠牲者の慰霊と悪疫退散を祈って江戸幕府8代将軍吉宗が催した水神祭に続き、翌年に両国橋周辺の料理屋が許可を得て花火を上げたことが始まりと解説している。 国内の花火企業約300社が加入する公益社団法人日本煙火協会の平成30年度版「花火入門」でも「通説」と前置きしながら、夏の花火大会のルーツとして紹介している。同様の記事は、様々なメディアで散見するので、このように承知されている読者も多いのではないだろうか。 ところが、「花火入門」の令和元年度版からこの記述は消失し、最新の令和5年度版(6ページ)でも、隅田川での花火鑑賞の記録としては、さらに100年以上前の寛永5年(1628)、浅草寺に来た天台宗の僧・天海を花火でもてなしたという記録にさかのぼり、その後の両国橋架橋により花火の名所となったとある。 記述変更の経緯について、テレビの花火解説でおなじみの日本煙火協会河野晴行専務にたずねたところ、墨田区すみだ郷土文化資料館開館20周年を記念して開催された特別展「隅田川花火の390年」の図録(2018年)に掲載されている同館福澤徹三学芸員の「論考-享保18年隅田川川開開始説の形成過程」を根拠にしたとのこと。 この論考では、過去の膨大な記録を読み解く中で、隅田川での花火の記録は寛永5年が初見であり、享保18年開始説の記録は存在しない。同時に、「享保説」は明治24年から昭和9年までの44年間にわたって3段階の付け加えが行われ、日時的にも根拠のない「創作」であると論じている。今後も有力な新資料が発見されない限り、現在流布している「享保説」を採用することはないとしている。 一方で河野氏は、「享保説を声高に否定するようなことはしない」とも言う。「粋」を信条とする花火師の世界。「眉間にしわを寄せて議論するような野暮(やぼ)は言いなさんな」ということなのだろう。 なお、「疫病」をコレラと表記している解説も一部見られるが、コレラが江戸で流行となったのは、「安政コロリ流行記-幕末江戸の感染症と流言」(白澤社、2021年)によれば、安政5年(1858)であり、これはもう「論外」。 花火見物は「特別な時間」 それにしても、4年ぶりの「隅田川花火」を2週間後にして、「何、無粋なこと言ってんだか」とお思いの読者には、「粋」なお話をひとつ。 両国橋周辺が花火の名所となった江戸時代後期の旧暦5月末から8月末まで、毎日20発ほどの花火が上がっていたそうで、遊び好きな江戸っ子にとって花火見物は堂々と夜遊びができる特別な時間。 1発打ち上げるのに30分以上かかっていたようで、次の花火を待つ闇夜に乗じ、素敵な人に声をかけるなんてこともあったとか。当時の浮世絵に見る川端に憩う女性のファッションで、気合いの入り方が読み取ることができるとも。本日は、この辺で「打ち止めー」。「ドン ドーン!」。(花火鑑賞士、元土浦市副市長)

大獅子今夏も戦わず つくば「小田祇園祭」

コロナ禍による丸3年の行動制限は、各地の町内会・自治会で行われていた夏祭りにも大きなダメージを残した。7月中下旬、つくば・土浦地域でも盛んに行われる八坂神社の祭礼「祇園祭」。みこしや山車、獅子舞が繰り出して、おはやしの音が各地に本格的な夏の到来を告げるが、15日開催の小田の祇園祭では、メーンイベントの大獅子の練り歩きを今年も見送らざるを得なかった。この大獅子には何かと故事来歴がある。 7月の第3土曜に開催される「小田祇園祭」。江戸時代の貞享四年(1687)に始まったという祭りで、戦後の一時休止期間を経て、50年ほど前に復活した。本町3つ、今宿2つの5組が持ち回りで当番組(トウメ)となり祭りを仕切る。日中から太鼓を鳴らしながら門付けをして回る行事から始まり、夕刻には子供たちのみこしや山車、獅子舞が通りを練り歩く。 例年ならこの後、田向延寿院から大獅子が繰り出して、竹ざおで獅子頭を高く掲げて練り歩くご神行(じんこう)となる。長さ約8メートルの獅子幕を引く巨大獅子頭。小田大獅子保存会が組織され、独特の太鼓や三三七拍子のリズムを聞かせる。当番組は毎年川で藻を採集し、乾かして大獅子のたて髪を結う一方、門付けに持参して家々の魔除(よ)けとして配っている。 メーンイベントは、通りで待ち構えるみこしと獅子が対峙(じ)して、それぞれが高さを競うように角突き合わせる「顔合わせ」という場面を迎える。祭神のスサノオノミコトとヤマタノオロチの戦いを模して、押しては引いての衝突を5度繰り返す。近在の祇園祭には見られないスタイルで、筑波大学の研究者や学生が現地調査に訪れたこともある。 コロナ禍の3年間、「顔合わせ」は中止され、大獅子は奉納場所である延寿院を出ることがなかった。今年の当番は「顔合わせ」の復活を模索したが、担い手の減少と高齢化は予想以上。交代要員を含めれば50人以上を揃えなければならない。「一度休んでしまうと元に戻すのは容易ではない」という。今回は子供会のみこしと獅子との「顔合わせ」で代替した。 奉納したのは長島尉信 「来年こそは完全復活」との意気込みもあるが、人材不足解消に見通しがあるわけではない。街歩きのガイドを務める常陸小田城親衛隊(川村兵庫代表)は、歴史的な初心に戻ることを提案する。 大獅子を奉納した幕末の農政学者、長島尉信(やすのぶ、1781~1867)にスポットを当てる。尉信は20歳の時、旧小田村の名主だった長島家の養子となり、45歳で隠居し、天文、暦学、測量などを学んだ。測量術を生かして土浦の修復などにも取り組んだ。土浦では、色川三中、佐久良東雄らとの交友があった。慶応元年(1865)に土浦藩を退き、小田村へ戻っている。この時これまでの志願成就を謝して、田向延寿院に「獅子頭」を奉納した。 尉信は慶応三年(1867)7月16日没し、延寿院境内の墓地に眠る。「ひとらしき我にあらねどひとまねにまことひとつを置き土産かな」と詠んでいる。 今回の祭りで「顔合わせ」できない「獅子頭」を延寿院から引っ張り出し、メーン会場である筑波山麓小田駐車場に飾ってもらった。実は同駐車場こそ、代々名主を務めた長島家の土地だった。2012年、「長島家跡地」として約4000平方メートルがつくば市に寄贈され、91台収容の無料駐車場として、小田の街歩きや宝篋山の登山客に利用されている。 親衛隊によれば「小田では八田知家(鎌倉幕府有力御家人、小田氏の始祖)や小田氏治(小田氏15代にして最後の当主)のように名の知られる人物もいるが、長島尉信は地元でもほとんど知られておらず残念。なんとかアピールの機会を作って訴えていきたい」と蒸し暑さ募る祭り会場を歩き回っていた。(相澤冬樹)

土浦工、6回で力尽く【高校野球茨城’23】

第105回全国高校野球選手権茨城大会は15日、J:COMスタジアム土浦で土浦工が初戦を迎えた。2回戦で水戸葵陵と対戦したが力及ばず、1-11のコールド負けを喫した。 土浦工は、エース清水達也と救援の横張功樹主将が代わる代わるマウンドに上がる独自のスタイルで水戸葵陵を迎えた。清水は110キロ台の球速だが伸びのあるストレートと落ちるカーブが持ち味。長身の左腕から投げ下ろすクセ球が何よりの武器だ。「前半途中から安定してきて自分の調子が出せた。終盤リズムを崩し、悪い流れを生んだことが悔しい」と試合後のコメント。 横張は清水とは幼な馴染みで、小中高と一緒に野球を続けてきた。2年の春から清水が体調不良で入院し、野球をあきらめかけたときも、横張の声掛けによりチームに復帰することができたという。 土浦工は2回と3回に1点ずつを失うが、4回表2死一塁から青木雄璃の左翼線への二塁打で1点を返し、追い上げムードを高めた。青木は「走者の渡辺匠は俊足なので、バッテリーは盗塁を警戒してストレートで来ると予想していた。打った瞬間はサードライナーかなと思ったけれど、抜けてくれてよかった」という。 普段はショートとして守備を支える横張が、この日最初に救援に向かったのは4回裏、1死一・二塁の場面。「横張は気持ちが強いので、球にピンチの場面もがんがん行ける」と久保田昌倫監督。「決め球のスライダーがあるので、ワンポイントだったら行ける」と横張。犠牲フライで1点を失ったが、相手の上位打線を抑えた。 横張が2度目のマウンドに立ったのは6回裏。だがこのときは疲れで足がつるなど、すでに余力は残っていなかった。3つの四球と2つの暴投、さらに3安打を浴びて6点を献上し、佐々木に敗戦処理を託した。「つらいときも苦しいときも助けられながら、最初から一緒にやってきた仲間たちに1勝させてあげられなかったことが悔しい」と横張。 4月に赴任した久保田監督は、わずか3カ月間で守備の基本を叩き込むなど、チームのテコ入れを図ってきた。「後悔のないよう詰め込んだが、鍛えきれない部分も多かった。例えば外野手には、芝生の球場での試合経験を積ませてあげたかった」それでも選手たちは短期間で見違えるように変わり、その集大成をこの試合で見せてくれたと讃えた。(池田充雄)

女性職員らの活躍推進へチーム設置 筑波銀行 

女性職員など多様な人材の活躍を推進しようと、筑波銀行(本店・土浦市)は14日、行内に、生田雅彦頭取をプロジェクトリーダーとする「ダイバーシティ(多様性)推進プロジェクトチーム(PT)」を発足させた。 女性職員のキャリア支援や仕事と家庭の両立支援のほか、シニアや障害者の活躍推進、外国人の登用などについてメンバーが意見を出し合い、業務に反映させたり、内外に発信などする。 同行は第5次中期経営計画(2022年4月-25年3月)で、25年3月末までに女性管理職比率20%以上、男性の育児休暇取得率100%ーなどを掲げており、PTでの協議を通して数値目標の達成や企業風土の醸成に取り組む。 今年3月末時点の数値目標の達成率は女性管理職が18%、男性の育休取得率は93%。すでにフレックスタイム制度や短時間勤務制度、在宅勤務制度など多様な働き方を導入したり、女性対象のキャリアアップやマネジメント研修などを実施しているという。 PTは生田頭取と、勤続11年から37年目の係長から支店長までの女性職員11人で構成する。3カ月に1回会合を開いて意見を出し合い、取締役会にも毎年、報告する。 同行は2014年8月にすでに「女性の活躍推進PT」を設立し、当時のメンバ―から出された意見を元に、育児休暇取得中の女性職員同士が情報交換したり、職場復帰に向けて準備や相談をする場を設けるなど、育児休業を取得しやすくする環境を整えてきた。 今回、PTが協議する対象を、女性職員だけでなく、シニア、外国人などにも拡大し、名称を「ダイバーシティ」に変更した。さらに生田頭取がプロジェクトリーダーに就任し、新たにスタートさせた。 14日開かれた第1回会合で生田頭取は「女性活躍や働き方改革はこれまでもやってきたが、今回、シニアや外国人なども含め幅広く取り組みたい。全行挙げて、どうしたら女性が活躍でき、多様な人材の活躍機会の拡大を図ることができるか、皆さんと議論し、経営に反映させていきたい」と話した。 同PTのプロジェクトマネージャーで人事総務部の田久保玲子主任調査役(54)は「頭取のリーダーシップの下、ダイバーシティに関する企業風土の醸成を高めていくと共に、メンバ―からの意見を参考に、様々な職員の能力や経験、価値観を尊重する環境を構築し、多様な人材が活躍できる機会を拡大させていきたい」としている。

気温が体温と同じぐらいに《くずかごの唄》130

【コラム・奥井登美子】気温が、体温と同じくらいになるなどということは、今までの日本で考えられなかった現象である。コンクリート道路の上などは40度C近くになってしまう。 こうなると自分で自分の体温が維持できない人たちが増えてくる。 今までにない身体現象だから、あいまいに、おおまかに、春は「花粉症」、夏は「熱中症」と呼んでいるが、呼吸、皮膚炎、頭痛、咽喉炎、生理痛などが体温の変化と複雑に絡み合ってしまっている。 こういう時代が来ることは、医療関係者も予想していなかったにちがいない。 平凡に解熱鎮痛剤を処方する医者。抗アレルギー薬を入れて処方する医者。熱があるからといって抗生物質を処方する医者。先生たちも気温と体温の、からみあいのめちゃめちゃに頭を悩ましているに違いがいない。 えっ、ドクダミって薬草なの? 暑すぎるので雑草たちも元気がない。その中で、なぜか根茎で増えるヤブガラシとドクダミだけは元気過ぎるほど元気で、我が家の庭も草抜きが大変だ。 子供たちにドクダミの花を見せてあげる。 「ほら、ドクダミの花、可愛いでしょ」「おかしな匂いがするね」「嗅いでごらんなさい。薬草の匂い」「えっ、薬草なの? ドクダミは毒草だと思っていた」「冗談じあない。十薬といって10の効果のある薬草の中の王様なのよ。昔は家で採ったドクダミを、きれいに洗って軒下にぶら下げて、干してある家もあったわよ」 昔の子供たちはごく自然に、ドクダミは身近にある家庭用薬草ということを知っていたのに、今の子供たちは全然知らない。 「毒ではないのに、何で毒ダミなんていう名前なの?」 さあ困った。何でドクダミなどという名をつけたのだろう。「牧野富太郎先生、教えて下さい」(随筆家、薬剤師)

終盤猛追も及ばす つくば国際大は惜敗【高校野球茨城’23】

第105回全国高校野球選手権茨城大会は14日、2回戦10試合を行った。日立市民球場に乗り込んだつくば国際大は終盤、日立工を追い上げたが及ばす8ー9で破れた。 つくば国際大は中盤突き放され、6回までに9−3と大量リードを許す苦しい展開。7回1死で山口が左翼に二塁打を放つと一番打者の阿井が、狙っていた変化球をレフトスタンドへ運ぶ2ランで、反撃ののろしをあげた。ここまで3打席凡退で繋げようという気持ちで打席に入ったという。 8回には先頭の古田が右前打で出塁し、2死後に山本の三塁打で1点を返し、3点差で9回を迎えた。ヒットと四球で無死一・二塁のチャンスを作り、高野のタイムリー二塁打と石橋のライト犠飛で1点差に迫ると、応援に駆けつけたサッカー部12人と控え部員の大きな歓声が響いたが、追撃もここまで。後続が凡退し及ばなかった。 両チーム共に11安打を放った乱打戦。つくば国際大は主戦投手、山本頼みの試合が多かったが、これまでにない打線の奮起が試合を盛り上げた。 試合後、伊藤徹監督は「完敗。先発山本と2番手阿井が9点取られるとなかなか追いつけない。そんなに点数が取れる打線ではなく、最小失点に抑えて1点差で勝つ野球をやってきたので、今日みたいな展開で追い上げられたのは打線としてはよく頑張った」と選手の健闘をたたえた。 先発した山本は「いつもより調子が悪かったが打線もよく繋いでくれて自分達の野球で最後まで諦めず過去一番いい試合が出来た。自分は1年生から背番号をもらって、2年でも投げていて最後に力を出し切りやり切った」と満足した表情を見せた。 吉田主将は「自分が主将になって秋、春と3点以上取ったことがなく、ここまで追い上げたのは満足だけど最後勝ちきれなかった。ここまで成長でき夏の集大成でみんなの思いが一つになって良かった」と話した。(高橋浩一)

土浦湖北、狙いの後半勝負で初戦突破【高校野球茨城’23】

第105回全国高校野球選手権茨城大会は14日、J:COMスタジアム土浦で土浦湖北が守谷と対戦した。前半のきっ抗した展開から、後半に湖北が逆転に成功、最終的には14安打で7-2と突き放し、3回戦に勝ち進んだ。 湖北の先発、久保田蓮大は、予定回数の5回までを3安打1失点の好投。直球を軸に、カットボールでタイミングを外すピッチングで、「自信あるボールで攻めていけ、テンポよくリズムを作れていた」との本人評。一方、打線は軟投の相手投手に対し、毎回のように走者を得点圏に進めるが、肝心の場面での一打が出ない。ようやく5回に清水俊輔の適時打で追い付き、迎えた6回の攻防がカギとなった。 この回湖北は、久保田から浅野真那斗へと投手交代。その替わりばなを攻められた。四球と2連打で無死満塁とされ、右前への適時打で1点は許すものの、2人目の突入には捕手、野口彗太が本塁を死守。野口は次打者のファウルチップにも反応よく飛びつき、この回を最少失点で切り抜けた。浅野は登板直後は球離れに乱れがあったようだが、その後は調子を取り戻し、7回と8回はともに併殺で打ち取り、9回は3連続三振で締めている。 6回裏、湖北は富施賢太の左前打から2死二塁とし、木村恭太郎の左翼線を破る二塁打で同点。投手交代でピンチを乗り切ろうとする守谷に対し、浅野の中前打と長谷川凌汰の左越え三塁打で2点を勝ち越した。長谷川は「打ったのは真ん中に入ってきたスライダー。ストレートにヤマを張りながらスライダーも狙っていた」と振り返る。 湖北は7回にも1死満塁の好機をつくり、平田夢叶のスクイズと木村の左前打で計3点を追加した。土佐一成監督は「投手が替わった後も浮いたボールを狙い、後半は粘り強く打ってくれた。もう少し早く点が取りたかったが、初戦なのでやむを得ない部分もある。レギュラー陣は去年からのメンバーは少なく、緊張もあったと思う」。 「自分たちは後半勝負。俺たちならやれると、あせりなく試合に臨めていた。チャンスにはベンチも盛り上がり、相手のミスにも付け込んで、一つずつつなぐ自分たちらしい野球ができた」と野口主将。「今年のチームはバッティングが魅力的。投手の枚数もあり、去年より完成度は高いと思う。甲子園に向かって一戦一戦、今日と同じ気持ちで戦っていきたい」と次戦を見据えた。

「勘十郎の馬鹿っ堀」 《写真だいすき》22

【コラム・オダギ秀】何十年の時が流れても、いつまでも心に残る撮影は、少なくなかったが、いま、その地を訪ねたら、新しい住宅が並び、わずかな水溜(た)まりがあり、ここがあの撮影地だったかよと思った。 霞ケ浦の北岸近くに、紅葉(もみじ)と言う美しい名の集落があり、そこに紅葉運河という古い大きな堀跡がある。堀は、紅葉から大洗に近い涸沼の海老沢という入り江まで、途切れ途切れにつながっていた。その堀は三百年ほども前、運河として掘られたものだが、数十年前の撮影に訪ねた頃は、田んぼや溜め池となっているところがあって、水をたたえてはいても流れてはいず、もちろん運河とは言えず、ただの水溜まりの連なりであった。 堀を見下ろす土手の木立の中に、素朴な小さな石の慈母観音菩薩さまがあった。慈母観音は、子安観音とか子育て観音などと呼ぶこともあり、しっかりと幼子を抱き、その成長を願うものだが、その観音さまは、菩薩と言うより、妙に人間的な息づかいを感じさせる野の仏さまで、心に残った。 江戸時代初期、奥州諸藩から江戸に送られる米は、多く海から船で運ばれ涸沼に入り、対岸の海老沢に荷揚げされると紅葉村まで陸送され、ふたたび船積みされて、北浦、利根川、江戸川を経て江戸に運ばれた。 紅葉運河は、この涸沼の海老沢から紅葉村までの陸送区間を船で結ぼうという、当時としては壮大な目論見の運河なのだった。 宝永四年(1707)、深刻な財政難に苦しんでいた水戸藩は、船運経路の発展と通航船からの交通税の取り立てをねらい、松波勘十郎という浪人事業家を起用して、この紅葉運河を起工した。それは、幅40~50メートル、深さは20メートル余り、延長10キロにもおよぶ運河を通すという大工事で、しかもそれをわずか半年で完成させようとしたのだった。 この工事のため、延べ百数十万人にのぼる農民が強制的に労役に駆り出され、賃金も支払われず酷使された。過酷な工事は、2年足らずの後、領内全域にわたる農民一揆を引き起こし、失敗に終わった。 「酷かったもんだよ」。堀端の家の古老に堀の由来を尋ねると、三百年も昔のことなのに、ほんの少し前に聞いたかのように、その様を語ってくれた。忘れ去られずに語り継がれるほど、過酷な歴史だったと言うことだろうか。 堀を見下ろす慈母観音菩薩さま じつはボクは、堀のことではなく、堀端の慈母観音さまのことを尋ねたのだ。すると古老は、ひとしきり過酷だった運河工事の話をし、それから「それでな」と、慈母観音さまの話に入った。 「工事には、犠牲者も少なくなかったのよ。紅葉におった、かよさんという女房の旦那も駆り出され、事故に遭って簡単に死んでしもうた。かよさんには可愛がっている幼子がおってな。だが、労役で野良仕事が出来んかったから、金もなく食わせるものもなく、幼子も死んでしもうた。夫を亡くし子をなくし、つらかったろうなあ。それで世をはかなんだかよさんも、堀に身を投げて死んでしもうた」 堀を見下ろす慈母観音菩薩さまは、そのかよさんを供養する像だと言う。「観音さまは、あれはかよさんじゃ。かよさんと、かよさんの子じゃ」。だからいつも食べ物を供えて慰めていると、笑いのない眼で古老は語った。 慈母観音は、本来、母と子を護ってくれる菩薩と言われる。だが、木立の陰に立つこの観音さまには、子を守ることができなかった母の悲しみが満ちていた。 堀工事はずさんで、涸沼と紅葉との高低差を確かめることさえなく進められたから、結局、低池から高地へ水が流れる運河とはならず、通船を見ることはなかった。後の人々は、ただの溜まり水をたたえたこの堀を、工事を進めた松波勘十郎の名をとり、「勘十郎の馬鹿(ばか)っ堀」と呼んでいたが、今の人々は、勘十郎堀という名さえ、定かには知らないようだ。(写真家、日本写真家協会会員、土浦写真家協会会長)

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