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1/27-2/7 柴田大輔写真展『ほにゃら』

柴田大輔写真展『ほにゃら』 日時:2022年1月27日(木)〜2月7日(月) 11:00- 20:00  場所:千年一日珈琲焙煎所Cafe (茨城県つくば市天久保3-21-3星谷ビル1F) つくば市で昨年設立20周年を迎えた、障害のある方の地域生活をサポートする当事者団体「つくば自立生活センターほにゃら」の皆さんと、皆さんが街で生活する中で出会った地域の方々を撮影しました。 さまざまな方が写る写真が並びます。一人ひとりは一見、脈絡なく見えるかもしれません。それぞれの方に共通するのは、「ほにゃら」との繋がりがあるということです。 出会いの形はさまざまです。生活をサポートする介助者としての関わりであったり、友人としてであったり、ともにする活動を通じてであったたり、時折訪ねるお店の店員とお客さんの関係であったり。密に繋がる人もいれば、なんとなく知る顔見知り程度の人もいる。関係の濃淡はそれぞれです。 街で生活していれば、当たり前に生まれるこうした人の繋がりですが、ここでとても大切だと感じたのは、障害のある方が街に出て生活することで繋がった人の縁であることでした。ほにゃらが繋ぐこの人の縁が意味するのは何なのでしょうか? 以前の私は、障害者との接点を日常の中で意識することなく暮らしていました。学校でも、職場でも。なんとなく、視界の端に見えていたのは知っていました。でも、あえて直視することなく、「健常者」とされる私は、自分とは異質だと思い込んでいた「障害者」である誰かとの間に設けた壁のこちら側で生活していました。ほにゃらは、街で生活することで自分を可視化させ、互いを分かつ壁を壊してきたのだと思います。 ほにゃらがつくばにできて、今年で20年が経つといいます。それ以前からの活動も含めると、さらに長い年月があり、そこには成り行きだけではない、障害当事者による「闘い」があったと聞きます。この歳月の積み重ねの先にできたのが、障害のある方も、ない方も、同じ地域の中で行き交い、暮らしているこの街の風景なのだと、取材を通じて実感しました。 闘いの先にできたこの世界のさりげなさに、私は感動を覚えます。写真で伝えられるのは、この街のある一面だけかもしれません。しかし、「ほにゃら」があることで築かれた、この世界の空気だけでも感じていただくことがでたら、とても嬉しく思います。 柴田大輔

地域で芽生えたつながりを表現 つくばで写真展「ほにゃら」

障害者団体「つくば自立生活センターほにゃら」(つくば市天久保、川島映利奈代表)の設立20周年を記念し、牛久市在住の写真家、柴田大輔さん(41)が19日から、つくば市民ギャラリー(同市吾妻)で写真展を開く。テーマは「ほにゃら―地域の中にある、それぞれの暮らし」。「障害者が地域で生活することで、様々な人のつながりができることを感じてもらえれば」と語る柴田さんに話を聞いた。 障害者のいることが当たり前 柴田さんが、ほにゃらの活動に出会ったのは3年前。最初は、障害のある人もない人も楽しめるイベントの写真撮影を頼まれた。何回かイベントに参加するうちに、「雰囲気がおもしろく、つながり続けたい」と思った。「土浦で育ったが、同じ地域で生活する障害者の存在は全く知らなかった。地元のことをもっと知りたい」という思いもあり、今年1月から同団体で定期的に障害者の介助もしている。 障害者と関わりをもったきっかけは、以前住んでいた都内のシェアハウス。重度知的障害を持つ同居人が介助者から支援を受けながら生活していて、写真家活動の合間に、知的障害者の外出支援をするようになった。またシェアハウスの1階では、「バリアフリー社会人サークルcolors(カラーズ)」(石川明代代表)が、毎月10回ほど、障害の有無に関係なく、様々な人が集うイベントを開催していて、柴田さんも顔を出すようになった。 そこでは、障害者を特別扱いはしないが、必要な配慮は自然にされていたという。「シェアハウスに住むまでは、障害者は別の世界の人だと思っていたが、自分よりも知的障害者の方が片付けまでするなど、きちんと生活している面があって、価値観が変わった」と柴田さん。 シェアハウスで3年過ごし、茨城へ移住するときにほにゃらを紹介された。「特に障害者と関わりたいとは意識していなかったが、東京にいたころから障害者と周囲の人との関係性を身近に見てきた。障害者が自分の生活のことを主体的に決めながら、地域の中で当たり前に暮らす自立生活に興味があった」 今回のテーマはほにゃらだが、障害者の写真展ではない。ほにゃらで活動する障害者が普段立ち寄る店など、自立生活をする障害者と何らかの形で関わる人たちを撮影した。「ほにゃら周辺には、障害者がいることが当たり前の地域ができている。障害者の地域生活を支援するほにゃらがあることで、障害の有無に関係なく人と人とのつながりができていることを表現したかった」。そのために展示する写真には、障害のある人もない人も同じ大きさで映っている。 柴田さんは「何気なく生活している地域には障害者を含めた多様な人が暮らしている。写真の中の誰にどのような障害があるかは説明しないが、一人一人の背景を想像してもらい、関心を持つきっかけになれば」と写真展に思いを込めている。 写真展に先立ち、「colors」に集う人々を追ったドキュメンタリー映画「ラプソディ オブ colors」(佐藤隆之監督)も上映される。柴田さんは「映画には障害者も多く登場するが、障害がテーマではなく、イベントで多様な人たちが交差する人間模様を描いている。障害の有無に関係なく、様々な人のつながりを表現している点は写真展とも重なってくるだろう」と話している。(川端舞) ●写真展「ほにゃら―地域の中にある、それぞれの暮らし」 19日(火)から25日(月)、つくば市民ギャラリー(つくば市吾妻)。開館時間午前9時から午後5時(最終日は3時閉館)。入場無料。●映画上映会は16日、17日の午後2時30分から。会場はHappy Plus親子工房(つくば市竹園)。上映後に佐藤監督のトークライブも開催。参加費1000円。定員25人。申し込みは15日までに柴田さんにメール(daisuke.pp@gmail.com)で。

自立生活通し街が変わる 柴田大輔記者、障害者たちの挑戦つづる つくば

つくば市の障害者自立生活センター「ほにゃら」(同市天久保、川島映利奈代表)の歩みをつづった「まちで生きる まちが変わるーつくば自立生活センターほにゃらの挑戦」(夕書房発行、B5判、271ページ)が9日出版された。著者は、土浦市出身の写真家でNEWSつくばライターでもある柴田大輔記者(43)。 障害を持つ人々が施設や家庭を離れ、自分たちの住む地域で、自分の意志に基づいて介助サービスを活用しながら生活を営む「自立生活」がテーマで、四半世紀にわたり、共に支え合うインクルーシブ(包摂的)な地域社会づくりに挑戦してきた歴史が記されている。 柴田記者は現在、写真家およびジャーナリストとして活動しながら、介助者として、ほにゃらでも活動している。 障害者の自立生活運動は1960年代のアメリカで始まったとされる社会運動だ。重度な障害を持つ当事者たちが自分たちの手でセンターを運営し、障害を持つ人たちの「自立」をサポートすることが中核的な理念だ。当時日本で盛んだった日本脳性まひ者協会「青い芝の会」の運動の流れを部分的に引き継ぎ、80年代から日本でも広がりを見せた。脳性まひやALS(筋萎縮性側索硬化症)など重度身体障害を持つ人々を中心に、各地で自立生活センターが設立されていき、現在は全国に100程度の自立生活センターがある。つくば市のほにゃらは2001年に設立された。現在代表を務める川島映利奈さんや、ほにゃら創設者の一人で、現在も事務局長として活動をけん引する斎藤新吾さんも24時間の介助を必要とする。 著者の柴田記者は「つくばの人たちに読んでほしい。『筑波研究学園都市』という計画された都市の歴史に、障害のある人たちがまちをつくってきたという歴史があることを知ってもらいたい」と話す。 コロナ禍、仕事が激減し介助者に 柴田記者は20代のころに「写真と旅に夢中に」なり、写真ジャーナリストとして中南米の人びとの暮らしを撮影してきた。「半年間バイトの掛け持ちをして資金を貯めては、中南米、特にコロンビアに渡航するという暮らしをずっと続けてきた」という。そんな柴田記者が障害者の自立生活運動に出会ったのは2016年のこと。2年間ほどコロンビアで過ごし帰国した柴田記者は、都内の月3万円のシェアハウスに入居し、すさんだ生活をしていた。そこで東京都大田区で知的障害者の生活を支援するNPO風雷社中の代表、中村和利さんに出会い、障害者の外出や日常生活を支援するガイドヘルプの活動を行うようになった。18年、柴田記者は結婚を機に茨城に戻り、ほにゃらと出会った。同年10月に筑波大学で催されたほにゃらの「運動会」に写真撮影のボランティアに行くことになった。そこで見たのが障害のあるなしに関わらず、皆が楽しむことができる運動会の姿だった。しかしこの時は「障害者の自立生活運動について深く理解していたわけではなかった」と振り返る。20年、新型コロナ禍の影響で写真やライターの仕事が激減した柴田記者は、ほにゃらの介助者として活動を始める。「自立生活や介助、その運動の奥深さにそこで初めて出会った」という。21年秋、柴田記者は、ほにゃらの障害者と関わる地域の人々を撮影した写真展を、つくば市民ギャラリーで開いた。写真展をきっかけに、つくば市松代の出版社「夕書房」の高松夕佳さんと出会い出版が決まった。 茨城の障害者運動の歴史が凝縮 刊行に向けて3年前の2021年から取材、執筆を始めた。当初は「専門的なところまで、深く分かっていたわけではなかった」。コロナ禍で取材がうまく進まない時期もあったというが「ほにゃらの皆さんにいろいろな人をつなげていただき、話を聞いていく中で、ほにゃらができていくストーリーが少しずつ分かっていった」。 特に1980年代以降の茨城における障害者運動の歴史が凝縮されている。63年に千代田村(現・かすみがうら市)上志筑につくられた障害者の共同生活コロニー「マハラバ村」は、重度の障害者たちが神奈川県で交通バリアフリーを求めバスの前で座り込みをした「川崎バスジャック闘争」(1977年)などで知られる脳性まひ者集団「青い芝」の会の、糾弾・告発型の運動の源流となった。柴田記者は「マハラバ村から下りることになった重度障害者の一部は、つくば市周辺で盛んに活動を続けた。そのときに湧き上がった熱量みたいなものが残り火のように引き継がれ、今につながっている」と説明する。著書には重度の障害者の想いや残り火がどのように引き継がれ、ほにゃらにつながるのかが記されている。さらに柴田記者は、今後も茨城、特に地元である土浦やつくばを拠点に介助や障害者の自立生活について考えていきたいと語り「介助という磁場があり、障害者が地域で暮らしていくことは『消えない運動』であり、『やめられない運動』でもある。自立生活を知りたければ、介助に入らなければならないと言われた。本当にその通りだと思う。人が肌と肌で触れ合う、この体温を知ってしまった以上は、今後も地元茨城の自立生活運動を一つの軸にしながら活動していきたい」と話す。(山口和紀) ◆本の出版記念写真展『ほにゃらvol.3 まちで生きる、まちが変わる』が21日から3月10日まで、東京都練馬区のカフェ&ギャラリーで開かれる。入場無料。詳しくはこちら。

フェミニズム・LGBTQ・障害者を扱うブックカフェ つくばに開店

安心してつながる場所を目指して ブックカフェ「本と喫茶 サッフォー」が今年6月、つくば市天久保にオープンした。性差別からの解放を目指す「フェミニズム」、LGBTQなどの性的マイノリティを含む「ジェンダー」、障害者などをめぐる社会課題を提起する「福祉」など、大型書店では見つけにくいジャンルを中心に、絵本から学術書まで幅広く扱う。店主の山田亜紀子さん(49)は多様な人が安心して繋がれる居場所を目指している。 居場所が奪われている 山田さんは6年前まで、都内の書店で女性向けの書籍を扱うフロアの店員をしていたが、フェミニズムの本はなかなか売れなかった。「良い本はたくさんあるのに残念」と感じ、2017年に出版社「現代書館」(東京都千代田区)に編集者として転職。多くの人が親しめるよう、フェミニズム入門雑誌『シモーヌ』をつくってきた。 転職した頃から、性被害の経験をSNS等に投稿する「#MeToo」運動が世界中に広がった影響で、フェミニズムも注目されるようになった。一方で、運動に反発する動きも強くなり、それまでマイノリティと呼ばれる人たちにとって安心してつながれる場だったSNS上の空間が危険にさらされるのを目の当たりにした。「本を作ることも大事だけど、安心できる居場所をつくりたい」と思い、50歳になる今年、出版社を辞め、生まれ育ったつくばで、ブックカフェを出すことを決意した。 街中に小さい本屋がたくさんある東京とは違い、車社会のつくばは、ショッピングセンター内の大型書店に足を運ぶ人が多いが、そこにもジェンダーやフェミニズムの本は少ない。ジェンダーに関心のある人を含め、多様な人が気軽に来られる場所にしたいと、筑波大学や小中学校、障害者の地域生活を支援する当事者団体「つくば自立生活センターほにゃら」(川島映利奈代表)、障害者の就労を支援する多機能型事業所「千年一日珈琲焙煎所」(大坪茂人代表)などがある天久保地区に出店を決めた。 様々な人が安心してつながれる居場所にしたいとカフェも併設。1人で来店した人が、LGBTQ当事者であることを打ち明けてくれることもある。「おそらく安心して誰かとつながれる場所が少ないのだろうと思う。そのような居場所を守っていきたい」と山田さん。 マイノリティ同士が知り合う場に 昨年、現代書館で編集した『シモーヌVOL.7』では、「不良な子孫の出生の防止」を理由に、多くの障害者が強制的に不妊手術を受けさせられた旧優生保護法をめぐる、女性運動と障害者運動の葛藤を特集した。出産の強制に反対する女性運動と、胎児の障害を理由とした中絶に反対する障害者運動は、時に対立したが、女性だけに育児や介護を押しつける一方、障害者はあってはならないものとする社会を変えるべく、共闘してきた。 「強制的に不妊手術を受けた障害者らが全国各地で国を提訴しているが、そこでは女性団体と障害者団体が連帯して動いている。また、2006年に国連で障害者権利条約ができたときに、世界中から障害者が集まって打ち出したスローガン『我々ぬきに我々のことを決めるな』も、女性やLGBTQの運動に応用できるはず。それぞれに関心のある人たちが交流し、互いの運動を知ってもらえる場所にしたい」 トランスジェンダーたちを知って 現在、店内ではパネル展「トランスジェンダーのリアル」を開催中。トランスジェンダーの実際の姿を知ってもらうために、21年に当事者たちにより制作された無料冊子「トランスジェンダーのリアル」に載る当事者5人の写真とライフストーリーを展示したパネル展だ。同制作委員会によると、冊子は全国の自治体や学校で4万部配布された。パネル展も、自治体や大学など全国各地で開催されている。 「カフェに展示することで、普段関心のない人にも当事者の姿を見てもらえたら」という思いから、サッフォーでは、年内はパネル展示を続ける予定だ。(川端舞) ◆サッフォーはつくば市天久保1-15-11 アイアイビル104。問い合わせは電話029-811-9644。ホームページはこちら

ルワンダで障害と向き合う 義足を作り続ける夫婦がつくばで講演

東アフリカのルワンダで義肢装具を製作し、紛争や病気で手足を失った人たちに無償提供するルダシングワ真美さん(60)と夫のガテラ・ルダシングワ・エマニュエルさん(68)による講演会が22日、つくば市吾妻、つくば市民ギャラリーで開かれる。障害者の自立生活支援に取り組む当事者団体「つくば自立生活センターほにゃら」(同市天久保、川島映利奈代表)が企画した。 2人がルワンダの首都キガリ市で活動を始めたのは1995年で、約100日間に80万人以上が命を奪われた「ルワンダ大虐殺」の翌年だった。96年にNGO「ムリンディ・ジャパン・ワンラブ・プロジェクト」を立ち上げ、97年から義肢装具の製作を開始し、これまでに延べ1万2000人以上に無償提供してきた。 危機からの再出発 「窮地からは脱して再オープンしました。今は日常に戻り、義足作りをしています」と、真美さんが現在の状況を語る。 2020年2月、夫妻の活動拠点であるキガリ市にある「ワンラブ・ランド」が突如、ショベルカーで壊された。そこには義肢装具の工房とともに、活動資金を捻出するために建てたゲストハウスやレストランがあり、地元の人たちも数多く働いていた。近年、度々洪水の被害に遭っていたことから、政府は一帯の住民に対して「また大雨が降る、今すぐこの場所を出るように」と、立ち退きを迫っていた。「すぐに移動はできない」と断るも、翌日には重機が押し寄せ家屋は取り壊された。 多くの時間と労力をかけて築いた施設が、目の前で壊されていく。あまりの衝撃に、「自分たちの活動に意味があるのか、本当に必要とされているのだろうか」と葛藤した。しかし「ルワンダで私たちにできることは他にない。これをやるしかない」と思い至った。 同年10月、施設再建の資金を募るためクラウドファンディングを立ち上げると、3カ月で1200万円を超える支援が集まった。この資金を元手に、翌年新たな場所に施設を新設した。 2人の出会い 2人の出会いは1989年。ルワンダの近隣国でのことだった。神奈川県出身の真美さんは当時、勤めていた日本の会社を辞めて語学留学でケニアを訪れた。そこで出会ったのが民族対立が続くルワンダから避難してきたガテラさんだった。ガテラさんは幼少期に受けた医療ミスで右足にまひがあり装具を付けていた。真美さんにとって障害以上に印象に残ったのは、大きな体とドレットヘアー、そして誠実で明るい人柄だった。 「私にとって、彼と知り合う以前に障害のある人との出会いはほとんどありませんでした。彼を通じて障害への純粋な好奇心を持ったんだと思います」 1991年にガテラさんが来日し、滞在中に壊れた装具を治すために訪ねたのが、神奈川県の「平井義肢製作所」だった。そこで目の当たりにした高い技術にガテラさんは「これをルワンダの人のために役立てたい」と思いを強くし、真美さんはその夢を実現するため平井さんの元に弟子入りを志願し、5年の修行の後に国家資格を取得した。ルワンダに渡ったのは大虐殺翌年の95年。その間ガテラさんはケニアへ逃れ無事だった。暴力の傷が色濃く残るルワンダで再会し、2人は新しい暮らしをスタートさせた。 ルワンダで気づいた「自由」 95年当時、町なかには手足を失った人があふれていた。初めての患者は地雷で足を失った男性だった。満足に材料が手に入らないなど予期せぬトラブルがあったが、無事完成すると、男性は、歩行訓練の中で徐々に、再び働くことへの希望を取り戻していったという。 以来、様々な障害のある人たちと関わってきたルワンダで、真美さんが居心地の良さを感じたのが「楽天的」なところだという。「うちにはレストランがあるので、障害のある人にお酒を振る舞うことがあるんです」と言いつつ、こんな例を挙げる。 「酔っ払って音楽があれば、みんな杖(つえ)つきながら踊るんですよ。それでお開きになると、2、3本、杖が置きっぱなしになってることがある。本来、杖ついて来たはずなのに、どういうこと?どうやって帰ったの?って、思いますよね。酔っ払って誰かに抱えられていったのかもしれないし、片足で歩いて帰っちゃったのかもしれない」 「酔っ払って転んじゃってる人もいる。ただの酔っ払いのおじさんと変わらないそんな姿を見て、いいなと思ったんですよね。誰だって酔って転ぶことあるじゃないですか。転ぶのはその人の勝手。障害があろうがなかろうが、私がタッチすることじゃない。杖を忘れて転ぶくらい放って置かれていい。それくらい自由がいいと思ったんです」 「日本では、転ぶ前に手を差し伸べたり、必要以上の心配をしてくれちゃうことがある。『これできないから、よろしく』って言われた時に、『はいよ』って手を差し伸ばせる関係がいいんじゃないかって。それが、お互いに気持ちがいい状態でいられる関係なんじゃないかって気がしたんです」 激動の30年と「アフリカの奇跡」 ルワンダは近年、「アフリカの奇跡」と呼ばれる高い経済成長率を記録し、国民が悲劇の記憶を乗り越えようとしている。また女性の国会議員の割合が世界1位となるなど、女性の社会進出でも注目を集めている。真美さんはこれまで日本の「師匠」の元に約10人の若者を派遣し、技術を学ぶ機会を作ってきた。そのうち4人が独立して工房を構え、2人はワンラブ・ランドの工房で共に汗を流している。「大きな夢はないんです。このまま義足を作っていければいいなと思っています」と今後について話すと、「普通に場所を構えて、人が来るのを待って、地方に出向いて必要な人に届ける。後継者というか、任せられる人がいればいつでも死ねるかな、なんて思ってます」と語る。 30年の間にルワンダは大きく変化した。この激動の歴史の中に身を置いてきた記憶を語る講演会は、これまで全国で多数開催されてきたが、茨城では今回が初めてになる。(柴田大輔) ◆講演会「義足と歩むルワンダ」は、7月22日(土)午後2時から、つくば市吾妻2-7-5 つくば市民ギャラリーで開催。参加費は無料。申し込み・詳細はイベントの特設サイトへ。

7/14 インクルーシブ教育講演会 障害児が普通学校で過ごすことの大切さ

インクルーシブ教育講演会 障害児が普通学校で過ごすことの大切さ 日時 2023/7/14(金) 11:00~13:00 会場 イーアスつくば 2階 イーアスホール 対象 保護者、支援者の方、その他どなたでもご参加いただけます。 定員 50名 (申し込み先着順) <内容>障害がある子とない子がともに育つ教育は、ともに暮らしやすい社会につながります。今回は、つくば市内の普通小学校に通い、中学・高校は特別支援学校に通った知的障害のお子さんを持つ親御さんに、普通学校に通った経験や、それが今にどう生きているのかをお聞きすることで、障害児が普通学校に通う意味を考えます。また、障害児が普通学校に通うことは、法律的にどう位置づくのかを、東洋大学の一木玲子先生にお聞きします。重度障害児として普通学校で育った自立生活センターほにゃらのスタッフも、経験を話します。 <講師プロフィール> 佐賀有美(さが なおみ) つくば特別支援 親の会所属。つくば市在住。重度の知的障害を持つ自閉症の息子を持つ。息子は現在21歳。「社会の中で生きていくために、まずは小さな社会である地域の学校へ」との思いから普通幼稚園、小学校に通わせた。息子の学校への付き添いの悩みから、同じ発達に悩みを抱える保護者の方の為の「つくば特別支援 親の会」を立ち上げ、活動している。 一木玲子(いちき れいこ) 東洋大学人間科学総合研究所客員研究員。専門は障害のある子どもと障害のない子どものインクルーシブ教育制度。日本とイタリアを主なフィールドにして、学校調査を基盤に制度研究を行っている。2022年夏の国連障害者権利条約第一回日本審査に際してはNGO団体としてパラレルレポートを提出してロビー活動等に従事した。東京在住。近年の著作は「なぜ、国連は特別支援教育中止を勧告したか」(『季刊福祉労働173号』、現代書館、2022年)、「国連障害者権利条約一般的意見4号におけるインクルーシブ教育の定義」『教育学論集第64集』中央大学教育学研究会(2022)・「障害者権利条約第24条一般的意見4号「わかりやすい版(Plain Vergion)を翻訳!」『福祉労働171号』現代書館(2021) 川端舞(かわばた まい)つくば自立生活センターほにゃら。群馬県出身、つくば市在住。脳性麻痺による運動障害と言語障害があるが、小中学校は介助員をつけて、高校は友人に手伝ってもらいながら、群馬の普通学校・普通学級に通う。小中学校は辛いこともあったが、高校の同級生とは今でも付き合いがあり、自分はちゃんと群馬に帰る場所があるんだと思え、自信になっている。

「親亡き後」の前に親も自分らしく生きるには つくばの障害者団体が学習会

障害者が抱える課題として、親が亡くなった後、誰が本人の生活を支えるのかという「親亡き後」問題が叫ばれて久しい。そんな中、障害者団体、つくば自立生活センター「ほにゃら」(つくば市天久保)が4月2日、学習会「親も子も“自分らしい”生活をするために―障害児を育てた先輩の体験談を聞こう」を開催する。障害児を持つ親や家族を対象に、親が元気なうちに、障害のある本人もその親も、自分らしく生活するにはどうしたらいいかを考える。 親の自己実現のためにも 「親亡き後」問題の背景には、障害のある子が成人しても、親が元気な時は親自身がその子の生活を支援すべきという考えがある。しかし、ほにゃらの介助スタッフである松岡功二さん(54)は「親も子も自分らしい生活を送るために、親が元気なうちから、障害児が親以外の人から介助を受けるのは大切」と強調する。 同団体は、障害のある子どもがヘルパーを利用することで、様々な経験をする大切さを伝える「ほにゃらキッズ」という活動をしている。「子どもの頃からヘルパーを利用することは、子ども本人のためだけでなく、親の自己実現にもつながる。ヘルパーなどの福祉制度を利用することで、障害児の親も休んだり、好きなことをやっていい。親と子、互いが自分らしい生活をすることで、親子関係も変わってくるのでは」と松岡さん。 同団体の代表で、自身も重度身体障害のある川島映利奈さん(40)は「親が子どもにやってあげたいことはたくさんあるだろう。しかし、親だけで頑張りすぎてしまうと、子どもがプレッシャーを感じてしまう」と話す。 「障害児が自分らしい人生をつくっていくためには、選択を繰り返しながら、自分の好き嫌いに気づいていくことが大切。しかし、日常生活の全ての選択を、親だけで支援するのは大変だ。介助者と一緒にいろんな経験をする子どもを見て、子どもの新たな一面を見られるかもしれない」 子離れ・親離れの準備 今では、小学生の頃からほにゃらキッズに関わり、高校卒業後、ヘルパーを利用しながら地域で一人暮らしを始める障害者も出てきている。今回の学習会では、実際にヘルパーを利用しながら、障害児を育てた鶴岡かおりさん(57)、木村清美さん(57)と一緒に、障害児の親は何を考えながら、ヘルパー利用や、子離れ・親離れに向けた準備をすればいいのかを考える。 松岡さんは「障害児が介助者と一緒に自分のやりたいことを実現していく姿を、親の立場からどう見ていたのかを、鶴岡さんたちから聞くことで、今、障害児を育てている親御さんの参考になれば」と期待する。(川端舞) ◆学習会は4月2日(日)午後1~3時、つくば自立生活センターほにゃら事務所(つくば市天久保2-12-7 アウスレーゼ1階)で開催。主な対象は障害のある子の親および家族。参加費無料。定員5家族。申し込み締め切りは24日(金)。申し込みはこちらから。問い合わせは電話029-859-0590かメール:cil-tsukuba@cronos.ocn.ne.jp(ほにゃら)へ。

「障害」から考える10年後の街づくり つくばで提言に向け始動

10年後、私たちはどんな街で暮らしていたいだろう-と「障害」を切り口に語り合うイベントが18日、吾妻交流センター(つくば市吾妻)で開かれる。「2033年にタイムトラベル! 10年後に住んでいたい街 教えてください」で、出されたアイデアは、2033年までに3度予定されるつくば市議会議員選挙に向けた「提言」としてまとめていく。 登壇するのは、東京2020パラリンピックで銅メダルを獲得したゴールボール日本代表の高橋利恵子さん(関彰商事)、つくば市聾(ろう)協会事務局長の有田幸子さんら、つくば市で活動していたり、暮らしていたりする障害当事者と、障害者をサポートする計6人。聴覚や視覚、身体など、異なる障害に向き合う当事者として、また当事者を支える中で、それぞれが思い描く「10年後に住んでいたい街」の姿を発表する。企画は2カ月に一度のペースで形を変えて継続し、提言につなげる。 イベントを主催する「障害×提案=住みよいつくばの会」の呼びかけ人で、当事者として障害者の地域生活をサポートする、つくば自立生活センターほにゃら事務局長、斉藤新吾さん(47)は「障害など課題に直面している人は、『こうすれば解決できる』というアイデアをそれぞれが持っている。その考えを持ち寄って、政策提言につなげたい」と思いを語る。 自分たちの声で社会を変えられる 目的について、斉藤さんは「障害のある人が政治に参加するのって難しいんです」と語る。「物理的な難しさだけではなく、(障害者が)蚊帳の外に置かれちゃったり、(障害者自身が蚊帳の外に)いちゃったりする」ことで、当事者が問題解決の場に居合わせることができないのだと説明する。だからこそ「自分たちの声で社会を変えられることもあるということを、わかり合いたい」という。 主催団体の同会は、2018年に斉藤さんが地域の障害者や家族、支援者らに呼びかけ誕生し、これまでにも「障害」を切り口に、さまざまな形で市政に働きかけてきた。その動きは、具体的な街の変化につながっている。 その一つに、移動やトイレなど日常的に介助を必要とする重度障害者に対する、就労時の介助サービスがある。以前は、通勤や就労中に公的な介助制度を利用できず、自費で介助者を手配するほかなかった。サポートがあれば働ける人が、その機会を諦めてきた。それがつくば市では、同会の働きかけにより2022年度、「重度障害者就労支援特別事業」がスタートし、通勤・就労中の介助サービスの提供が認められた。県内初の出来事だ。 その他にも、タクシー利用への市の助成制度を、バスや電車でも利用可能なICカードとの選択制にすることで障害者の社会参加の機会を増やしたこと、スマートフォンやタブレット端末を利用し遠隔地で手話通訳を受けることができる「つくば市遠隔手話サービス」などがある。 立場の違いを乗り越える 今回の企画には、聴覚、視覚、身体など、異なる障害の当事者と、知的障害、高次機能障害のある人たちを支える支援者や家族が登壇者となる。その意図を斉藤さんは、「障害が違うと困りごとも違うし、必要とする制度も違う。支援者や家族の立場も含めて、様々な立場の意見を汲み取り政治の場に提案したい」と話す。 斉藤さんはつくばで20年以上、障害当事者として地域の課題に向き合ってきた。その中で、いまだに難しいのが住宅探しだと話す。マンションの入口に数段の階段があるだけでも車椅子で生活することは難しく、屋内の段差もある。 「1年に2部屋、バリアフリーの部屋ができたら、10年後には20部屋になる。それだけでも20人の障害者が街で暮らせるようになる。全然違うと思うんです」 議会の任期4年で社会を変えることは難しいが、10年ならできることがある。提案に賛同してくれる議員や市役所の担当者も含めて話し合っていきたいと話す。主催者は参加者に、「要望」ではなく「提案」を-と呼びかけている。(柴田大輔) ◆イベントは1月18日(水)午前10時〜正午、吾妻交流センター(つくば市吾妻)。参加は無料。定員20人。詳細はfacebookイベントページ、問い合わせは電話029-859-0590まで。

災害弱者となって気付いたこと【防災介助士ってどんな仕事?】下

つくば市在住の防災介助士、金栗聡さんのホームページ「やさしい防災」の冒頭でつづられていることだが、金栗さんは脊髄に障がいのある車椅子生活者の一人だ。地質調査の仕事をしていた金栗さんは勤務中の事故で重傷を負い、日常が一変した。 「2014年にけがをしまして、下半身の自由がなくなりました。そのような自分に何が出来るだろうかと考え、もともと持っている地質学の知識と、防災を結び付けることを思い付いたのです」 それは過去の地震記録や地域の地下に存在する、あるいは存在するかもしれない活断層の情報といった、防災上の必須項目だ。地震に限らず気象災害として生じる河川氾濫なども、地形や地質から読み解くことが出来る。 ただ、金栗さんの場合、災害時の対応を前提としながらも、むしろそのような知識を学びながら、家庭内に閉じこもらずレクリエーションや観光の機会を作ってほしいと、災害弱者とその介助・介護の人々にメッセージを発信している。 防災を楽しく身近に知ってもらうために 「インターネットを調べると、筑波山登山でケーブルカーに乗られた車椅子の人のブログを見つけました。おそらく介助の人々は大変な苦労をされたと思います。でも車椅子でも山に登れたという実感は、とても楽しい記憶になったはずです。それならば、事前に、どこまでなら行ける、どういった現地状況か、何を備えておけばいいかを、情報として提供できるだろうと考えました」 森の里に住む金栗さんは、公共交通機関を使って筑波山に何度も赴き、乗り継ぎの経路上にどんな斜面や道筋があるかを調べている。市内の公共空間も併せて、雨天でなければ毎日のように出かけていくという。つくば市の生涯教育指導者(社会・自然・科学)にも登録され、生涯学習推進課を介して依頼があれば、指導講座を開催する。 「健常者でない以上、行けるところの限界はあります。それでも行ける範囲を示すことが出来れば、行ってみようかというポジティブな気持ちにもつながるのではないか」 筑波山地域のジオスポットを紹介 金栗さんは障がい者や高齢者の暮らしにも楽しみや潤いがあるべきと考え、あえて筑波山登山という目標へと誘導する。 「筑波山には『筑波山地域ジオパーク』という自然科学の学びの場がジオスポットとして存在します。時にはそれらの場所から土砂災害などのメカニズムを知ることもできます。そこへ積極的に遊びや観光で出かけていただきたい。そのためには安全か危険かの認識に、健常者とは異なる視点も必要です。これは私個人の活動ですが、『防災』というと取っつきにくいイメージもありますから、防災の視点も持ちながら、筑波の地質や自然に接していただくきっかけを情報提供したいのです」 金栗さんのにこやかな表情を見ると、孤軍奮闘という言葉は似つかわしくないと感じるが、他の防災介助士との連携や交流があるかをうかがうと、金栗さん自身も「特に横のつながりはありません」と苦笑する。現在のコミュニティは障がい者団体「つくば自立生活センターほにゃら」(つくば市天久保)や有志で活動する「筑波山地域ジオパークユニバーサルデザイン検討会(仮称)」への協力にとどまる。 「防災介助士は国家資格ではありませんが、いつかやってくる災害への対応や、進行する高齢社会という情勢下で、これから横のつながりも大事になるでしょう。この資格を有することでの、地域社会とのかかわりも重要さが増していくと思います」 金栗さんの活動は、災害に対する「備え」だ。備えることはまさしく防災であり、備え方次第で災害弱者の生活に新しい気概を生み出すことが期待される。(鴨志田隆之) ◆「やさしい防災」のホームページはこちら 終わり

学校生活の悩み話そう 障害児の保護者に向け教育座談会 つくばの当事者団体

25日、自立生活センターで 障害児を持つ保護者を対象に、学校生活の悩みを共有するための座談会「障害があると違う学校に行かなきゃダメなの?先輩の経験談から考えるインクルーシブ教育座談会」が25日、つくば市内で開かれる、障害者の地域生活を支援する当事者団体「つくば自立生活センターほにゃら」(川島映利奈代表)が主催する。同団体は障害児の将来の自立をサポートする「ほにゃらキッズ」という活動に取り組んでおり、今回の企画はその一環となる。 座談会では、小中学校時代に市内の普通学校に車いすで通い、現在は寮で生活しながら県外の大学に通う子を持つ女性と、小学校から高校まで普通学級で学んだ障害当事者で、ほにゃらメンバーの川端舞さんが登壇し、介助を必要とする子供が学校で直面した課題と向き合い方、その後の歩みについて具体的な事例をもとに話す。後半には参加者からの質疑と座談会が予定される。 共有できる機会少ない ほにゃら代表の川島さんは(40)は開催のきっかけを「学校で適切なサポートを受けられず悩む、普通学校に通う障害児の保護者たちから相談があった」と話す。市内外の保護者から、支援不足から親が学校生活に付き添わなくてはならない、子供が周囲と馴染めず疎外感を覚える、授業についていけない、学校生活に必要な情報不足などが寄せられているという。 「友達と同じ学校に行きたいという子供の思いを受け、通学できるよう頑張るお母さんがいる。でも、いざ学校に通うと、親も子も様々な悩みを抱えてしまう。通いたいはずの学校で傷つく子供の姿に、自分を責めてしまう母親もいる」とし「障害児の母親は学校で少数派。悩みを共有できる機会は少ない」と川島さんは話す。 支援員 足りてない 学校には、食事、排せつ、教室の移動や授業など、個別の支援が必要な児童・生徒を支援する特別教育支援員がいる。つくば市では「教育補助員」として2000年度より小中学校に配置を始めた。市によると5日現在、小学校は29校すべて、中学校は12校中6校、義務教育学校は4校すべてに、計144人が配置されている。 国全体では2006年の学校教育法等改正により、特別支援学校や小・中学校の特別支援学級だけでなく、普通学級においても障害などにより支援を必要とする子どもに対し適切な教育を行うことが明確化された。しかし「茨城に障害のある人の権利条例をつくる会」(事務局・水戸市)の20年調査によると、全44市町村の教育委員会に「支援員が足りているか」と質問したところ、6割超の27市町村が「足りていない」と回答し、保護者が学校に付き添っている自治体は8市町村あった。 一方、16年に施行された障害者差別解消法により、障害児も他の子供たちと対等に学校生活を送れるよう合理的な配慮をすることが公立学校での法的義務となった。教育現場での「合理的配慮」は、日本が14年に批准した障害者権利条約で「障害者が健常者と同様にあらゆる教育を受けられる」権利として定められている。 川島さんは「当事者同士、互いの生の声を聞ける機会を大事にしていきたい」とし、「情報が少ないことで一人で悩む保護者もいる。体験談を聞くことで、一人じゃないと思ってもらいたいし、必要な支援を受け地域で暮らしていくために、何が必要か共に考えていきたい」と話し、「現在困っている方に参加してもらいたい」と呼び掛ける。(柴田大輔) ◆同教育座談会は25日(日)午後1~3時、つくば市天久保2-12-7 アウスレーゼ1階 つくば自立生活センターほにゃら事務所で。対象は普通学校に通っている、または通うことに関心のある障害児童生徒の保護者。参加費無料。定員10人(先着順)。申込締切は18日(日)。申込方法はインターネットから申し込む。問い合わせは電話029-859-0590またはメールcil-tsukuba@cronos.ocn.ne.jp (ほにゃら)で。

つくばの当事者団体、国連へ 障害者権利条約の日本審査に参加

国連の障害者権利条約を日本が批准して8年。障害者を取り巻く社会環境はどう改善されたのか、締約国が条約内容を国内でどう実現しているかを判断するための、日本を対象とした第1回目の審査が、8月22日、23日の2日間、スイスの国連本部ジュネーブ事務局で開催される。 つくば市から、障害者の地域生活をサポートする障害当事者団体「つくば自立生活センターほにゃら」理事長の斉藤新吾さん(47)、メンバーの生井祐介さん(44)、川端舞さん(30)の3人が現地に向かう。8月16日に出国し、現地に滞在する8日間の間に、審査の傍聴のほか、委員に直接意見を伝えるロビー活動などを展開する。 今回の審査には、日本国内の当事者団体で構成される「日本障害フォーラム(JDF)」の構成団体などから100人以上がオブザーバーとして参加する。ほにゃらの3人も一員だ。同フォーラムはこれまで、国連の審査の判断材料となる意見書(パラレルレポート)を作成し、2019年、21年の2回、国連の担当機関に提出してきた。さらに日本の条約批准以降、審査の傍聴、ロビー活動、国内意見の取りまとめなど、条約内容を国内で実現させるために積極的に活動している。 日本の審査は20年の予定だったがコロナ禍で延期されていた。審査を踏まえて後日、条約の取り組みをさらに進めるための提案や勧告が、国連障害者権利委員会から日本政府に出されることになる。締約国は4年ごとに審査を受けることが決められている。 同条約は、障害のある人が、ない人と同様に尊厳をもち社会で生活するための権利を定めたもので、日本は14年に批准した。「障害」は人の側にあるのではなく、社会がつくり出しているという考え方(障害の社会モデル)が反映されている。バリアフリーなど、社会が障害の特性や状態などに配慮(合理的配慮)することで、障害となる障壁は解消されるという考え方を定めている。 同じ教室で学べる環境を実現したい 「合理的配慮」が教育現場で実践されていないと話すのは、「ほにゃら」のメンバーとして渡航する川端さんだ。脳性まひによる重度障害がある川端さんは、介助者から生活に必要なサポートを受け、つくば市内で一人暮らしをしている。現在は、NEWSつくばのライターとして障害者を取り巻く環境について発信するとともに、「ほにゃら」のメンバーとして、環境を整えることで、障害のある子どもとない子どもが同じ教室で学ぶことを可能にする「インクルーシブ教育」を実現させようと活動を続けている。 条約では、障害者が健常者と同様にあらゆる教育を受けられるとし、そのために必要な「合理的配慮」の教育現場での提供が定められている。また、国内では、2016年に施行された障害者差別解消法により、公立学校での合理的配慮が法的義務となった。 一方で日本の現状は、障害のある本人や家族が希望しても普通学校に就学できないケースがあると川端さんは指摘する。要因として、障害児が就学するために必要な適切な支援体制の不足と、特別支援学校や特別支援学級など、障害児と健常児の教育環境を分けることが当たり前という社会の認識があるとし、また、普通学校に通えても必要な支援を受けられないことが多いと語る。 川端さん自身は、周囲のサポートを受けながら小学校から普通学校で学んできたが、言語障害のある自身の話を聞こうとしない教師がいた。当時は「問題の原因は障害のある自分」だと自身を責めた。しかしその後、他の障害者と出会い、権利条約を学ぶことで、問題は障害のある自分の側にではなく、障害に対する配慮がなかった学校の環境にあったと気付いた。 障害者差別解消法によって、車いすで電車など公共交通機関に乗れないことが「差別」とされ、それぞれの場面でスロープが設置されるなどの対策がなされるようになった。改善された場面は少なくない。川端さんは、これが教育現場でも当たり前になる必要があるとし「普通学校に通うことは、障害者権利条約で定められた障害児の権利であり、世界的に認められたことという認識を社会に広げたい。ジュネーブでは日本の現状を国連の審査委員に伝えたい」と力を込める。 介助者の渡航費用支援を 「ほにゃら」では、ジュネーブに向かう障害のあるメンバーに同行する介助者の渡航費用を賄うためのクラウドファンディングを、今月14日から始めた。募集期間は32日間。川端さんは介助者等の派遣費用を募っている。 募集開始から8日目(21日時点)には目標金額86万円に対し、約77万円が集まった。情報がSNSで拡散されるなど予想を超える広がりを見せ、「当初は、どんな障害があっても普通学校・普通学級に通う権利があると言うと、批判されるかもしれないと思っていた」と、川端さんは支援の多さに驚きつつ、「障害児が普通学校に通うのは『権利』だと認識してくれる人がこんなにいる日本なら、徐々に、どんな障害があっても共に過ごせる普通学校に変わっていけるだろうと、期待が持てた」と思いを語る。 「ほにゃら」事務局長の斉藤さんは「障害当事者として、審査を見届けるのは重要」とした上で、「障害者を取り巻く問題はまだまだ多い。クラウドファンディングを、多くの人に問題を知ってもらうきっかけにしたい」と話す。(柴田大輔) ◆クラウドファンディングはこちら。目標金額を超えた場合は、渡航に必要な、その他の経費に充てる。

同じ境遇だから分かり合える 障害のある中高生向けLINE相談スタート つくば

障害者同士が対等な立場で支援し合う当事者団体「つくば自立生活センターほにゃら」(つくば市天久保)が4月から、「障害がある中高生のためのLINE de(ラインで)相談」事業を始めた。身体障害があり、公的な介助制度を使いながら市内で生活しているスタッフ4人が相談に対応する。 ほにゃら事務局長で、自身も重度身体障害がある斉藤新吾さん(47)は「障害のある中高生が自分と同じような障害のある大人に会う機会は少ないだろう。障害者として生きてきた私たちの経験が、今悩んでいる中高生の役に立てば」と話す。東洋大学客員研究員で、障害児教育が専門の一木玲子さんは「現在でも、障害のある中高生が障害のある大人に相談をする機会自体がほとんどない。中高生に身近なLINEを使ってその機会をつくるのは画期的な取り組みだろう」としている。 障害のある大人に相談したかった 自立生活センターでは、障害者同士が対等な立場で話を聞き合うことを通して、社会の中で自信を持って生きていくことを目指すピア・カウンセリングを日常的に行っている。障害のある仲間だからこそ分かり合えることがあるという考えがベースにある。 相談を受ける障害者スタッフも、中高生時代、様々な悩みがあった。斉藤さんは「当時、障害のある大人に相談できていれば、障害とともに生きていく具体的なイメージを持て、悩み方も違っていたかもしれない」と振り返る。 障害者スタッフの1人である川島映利奈さん(39)は「高校時代、地域で介助者の支援を受けながら生活している障害者と関わることで、親に介助を頼まなくても、自分の好きなことができると気づいた。学校で出会う友達や先生だけでなく、様々な背景を持つ障害者と話すことで将来の選択肢が広がるのでは」と語る。 LINE相談のホームページには、相談内容の例として「障害があるのは自分が悪いのか」「就職や1人暮らしはできるのか」などの障害に関する悩みや「先生や支援員・友達とどう関わればいいか」「家族と一緒でないと、どこにも行けない」などの人間関係の悩みが挙げられている。これらは、障害者スタッフが実際に中高生時代に悩んでいたことだ。 川島さんは「モヤモヤした気持ちを聞いてほしいだけでもいい。私たちと話すことで、一人じゃないと思え、少しでも楽になれば」と呼びかける。(川端舞) ●「障害がある中高生のためのLINE de 相談」のホームページから友達追加することで相談できる。開設時間は毎日午後5時から10時。1回の相談時間は40分。相談は無料で、匿名でも可能。希望する場合は、同性のスタッフが対応する。

ヘルパーと一緒に経験を積む 障害児支援プログラムが再始動 つくば

障害者団体「つくば自立生活センターほにゃら」(つくば市天久保)は、障害児向けのプログラム「ほにゃらキッズ」を再始動する。障害児がヘルパーを使いながら、様々な経験をすることで、将来の自立について考えていく。「自立とは、多くのものに頼りながら、自分らしい生活をすること」と語る、ほにゃら代表の川島映利奈さん(39)と介助スタッフの松岡功二さん(53)に話を聞いた。 ヘルパーという1対1の支援 ほにゃらキッズは2003年から始まり、電動車いすの子どもや、言葉によるコミュニケーションが難しい子どもなど、様々な障害のある子どもが参加してきた。このプログラムに特定のカリキュラムはない。今、目の前の子どもにとってどんな経験が必要なのかを、障害者スタッフ、ヘルパー、子ども本人と保護者が話し合って決めていく。電車で出かける計画を障害児自身が立て、ヘルパーと2人で実際に出かけてみたこともある。「カリキュラムがない分、子どもひとりひとりに合わせて試行錯誤しながら、その子なりの成長を支援できる」と松岡さん。 障害児支援は放課後等デイサービスなど、特定の場所で事前に決まったカリキュラムを行うことが多いが、ほにゃらキッズでは、障害児のヘルパー利用を勧めている。ヘルパーは障害児と1対1で関わり、子どものペースに合わせることができる。その日にどこに行き、何をするという決まりもない。ヘルパーと一緒に出かけたが、途中で行き先を変更することも、その子どもの自由だ。 どこに行くか、どうやって遊ぶかなど、日常生活は選択の連続で、ひとつひとつの選択がその子どもらしい生活を作っていく。しかし障害児は、自信のなさや、手伝ってくれる大人への遠慮から、自分で選ぶ経験をしづらい場合が多い。例えば店で欲しい飲み物を選ぶ時も、自分の気持ちを伝えるのに時間がかかり、本人が選ぶ前に、周囲が決めてしまうこともある。すると、障害児はいつまでも自分の好き嫌いが分からない。 一方、ヘルパーと一緒に飲み物を買いに行くと、障害児が欲しいものを選べるまで、ヘルパーは急かすことなく、待っている。自分で選んだものが必ず自分の好きな味とは限らないが、その経験により、自分の好き嫌いを理解できる。「自分の選択がうまくいかなかった時にどうするかまで一緒に考えることで、将来、より良い選択ができるようになる。小さな選択を繰り返していくことで、自分らしい生活が見えてくる。これを全て家族で支援しようとすると大変だ。障害児と1対1で関わるヘルパーだからできることがあるはず」と川島さん。 大人になってからも関われる 障害者が障害児支援に関わるのも、ほにゃらキッズの特徴だ。障害ゆえの悩み事を、同じような経験をしてきた障害のある大人に相談できる。ヘルパーを利用しながら一人暮らしをしている障害者スタッフの家を障害児が見学したこともある。障害者が継続的に関わることで、障害児や保護者が将来の見通しを持て、参加した障害児の中から高校卒業後、ヘルパーを利用し、一人暮らしを始める人も出てきている。 ほにゃらでは障害者も支援しているため、子どもの頃から関わってきたヘルパーが、一人暮らし始めたあとも関わり続けることができる。松岡さんは「子どもの頃から関われたほうが、ヘルパーもその子のことを深く知ることができ、大人になったあともその人の生活を支えていく心の準備ができる」という。 以前ほにゃらキッズに参加していた障害児は全員高校を卒業し、ここ数年、プログラムは事実上休止していた。しかし、「ほにゃらキッズの活動により、実際に何人かの障害者が一人暮らしを始められ、この活動は障害児の自立につながると確信できた」という松岡さんらは、プログラムの再開に踏み切った。現在、ほにゃらキッズに参加する障害児を募集している。主な対象は、つくば市周辺に住む6歳から18歳までの障害児とその保護者となる。 「障害児者の介助は常に家族がすべきだと思われがちだが、障害のない人でも多くのものに頼って生活している。歩けるけどエレベーターを使ったり、料理はできるけど総菜を買ってきたり。障害児者やその家族も福祉サービスや福祉機器に頼っていいのだ」(川島さん) 再始動を記念し、21日に講演会 ほにゃらキッズの再始動を記念し、21日にはオンライン講演会を開催する。沖縄県在住の重度知的障害のある高校生、仲村伊織君のお母さんと結んで、子どもの頃からヘルパーを利用する良さを考える。伊織君は、通学時や休日は家族から離れ、ヘルパーと一緒に過ごしている。川島さんは「つくば市周辺で障害児を育てる親御さんに、ヘルパーなど周囲から支援を受けながら子育てする方法を提案できれば」と話している。(川端舞) ●オンライン講演会「障害児の“ママ”に聞く!周囲に任せることで子どもは育つ」 21日(月)午前10時から正午。定員50人。申し込みは14日までにこちらから。 ●ほにゃらキッズの問い合わせはホームページから。

介助者という社会資源の少なさ【かなわなかった自立生活】㊦ 

自立生活がかなわず今年1月に亡くなった蛯原千佳子さん(60)は、つくば自立生活センターほにゃらで2017年8月から宿泊体験を14回繰り返した。19年11月には、ほにゃらの介助者も蛯原さんの介助に自信が出てきて、人数さえ増えれば、一人暮らしを始められる状況になった。しかし、一人暮らしを支える介助体制をつくれないまま、蛯原さんは亡くなった。 ほにゃら事務局長の斉藤新吾さん(46)は、「地域で生活したい障害者の希望をかなえるためには、障害者が入所施設ではなく、地域で暮らすことは人間としての当たり前の権利であることを、ほにゃらの職員だけでなく、社会全体が認識していく必要がある」と話す。 街中で求人チラシ配る 蛯原さんに関わる介助者を増やすためには、当初から蛯原さんに関わっていた介助者が蛯原さんの介助に十分に慣れ、新しい介助者に障害の特性や体調に合わせた介助方法を伝えられるまでになる必要がある。宿泊体験を始めてから1年8カ月後の19年春、蛯原さんの介助に慣れてきたころ、ほにゃらでは蛯原さんの一人暮らしを支える介助者を募集した。 求人チラシを作成し、駅前で配ったり、全国の福祉系大学に求人票を郵送した。介助という仕事が持つ負のイメージを変えるために、仕事内容の紹介動画を作り、ホームページに載せたりもした。蛯原さん自身も宿泊体験中に介助者と一緒に街中に出かけ、直接チラシを配った。 ほにゃらの介助者だけでは足りず、他の訪問介護事業所と連携することも考え、20年1月には相談支援専門員を探し始めた。相談支援専門員とは、訪問介護や訪問入浴など複数の事業所が1人の障害者の生活に関わる際、事業所間の連絡調整をおこなったり、必要なサービスを受けるための行政的な手続きをおこなう機関である。 本来なら蛯原さん自身が自分に合った相談支援専門員を探すはずだったが、新型コロナが蔓延し、ほにゃらの介助者が施設で面会することもできなくなったため、ほにゃら側で蛯原さんの地域生活を支える相談支援専門員を探した。 20年7月に一度だけ短時間の面会が許可され、蛯原さんと相談支援専門員が初めて顔を合わせることができた。が、それ以降はまた面会が制限された。 一人暮らしに向けて、他の介護事業所とも連携したかったが、具体的にいつから介助派遣を依頼するか定まらないと、相談支援専門員から他の介護事業所に協力を求めるのも難しい。蛯原さんとほにゃら介助者、相談支援専門員が面会し、一人暮らしを始める具体的な日程を決められないまま、蛯原さんは体調を崩し、今年1月亡くなった。 「重度障害者の地域生活を支える社会資源の少なさと、新しい社会資源をつくり出せなかったことが、蛯原さんの一人暮らしが実現できなかった一番の原因なのでは」と、斉藤さんは話す。 権利知ってもらうことから 2014年に日本も批准した国連の障害者権利条約第19条では、障害者に、他の者と平等に、どこで誰と住むかを自分で選択し、特定の生活様式で生活することを義務づけられることなく、地域社会で生活する権利を保障し、そのために必要なサービスを提供するなど、適切な措置をとることを国に求めている。 しかし、障害者が入所施設ではなく地域で生活することは権利だという認識が、行政機関を含めて社会全体に浸透してないことが、障害者が地域で生活したくてもなかなかできない理由の1つだろうと、斉藤さんは話す。 「日本の学校では、人に優しくするというような道徳教育が重視され、自分がどのような権利を持っているかを学ぶ機会は、障害のない人でも少ない。自分の権利についても意識が低いのだから、障害者の権利と言われてもピンとこない人も多いだろう」と、ほにゃら代表の川島映利奈さん(39)は付け加える。 さらに川島さんは「相談支援専門員や行政機関の人の中でも、重度障害者が介助者を使いながら地域で生活できることを知らない人も多い。重度障害者でも地域で生活できることを社会に発信することもほにゃらの役割だと思う。まずは、障害者が堂々と社会に出ていき、障害者の存在を身近に感じてもらうことから始める必要がある」と話す。(川端舞) 終わり

【かなわなかった自立生活】㊤ 準備進めた5年間

蛯原千佳子さんの死 約20年間、県内の障害者施設に入所していた蛯原千佳子さん(60)が、今年1月に亡くなった。蛯原さんは生まれつき重度の運動障害と言語障害があり、首から下は自分で動かせなかった。しかし、いつか施設を出て、地域で暮らしたいと強く願い、5年前から障害者団体「つくば自立生活センターほにゃら」(つくば市天久保、川島映利奈代表)の支援を受けながら、一人暮らしに向けて準備を続けていた。 しかし、蛯原さんの体力面や介助者不足などで、ほにゃらの介助者と一緒に一人暮らしの練習をするのは月1回が限度で、介助者が蛯原さんの介助やコミュニケーションに慣れるのに時間がかかった。介助者さえ増やせれば一人暮らしを始められる状況までいったものの、その間に、新型コロナの蔓延により、施設でほにゃら職員との面会も制限されてしまった。会えない期間が続く中、蛯原さんは体調を崩し、亡くなった。 「もう一度、地域で生活したい」 生前、蛯原さんはほにゃらの機関誌の中で、それまでの人生を振り返り、なぜ地域で一人暮らしをしたいのか、文章につづっている。 蛯原さんは小学校から高校まで養護学校に通うため施設に入所していた。高校時代は学校で生徒会活動をしていたが、施設の中で生活していたため、親から「社会性が弱い」と言われた。その頃から、「障害者はもっと外に出ないと、健常者に理解してもらえない」と感じていたという。 高校在学中に施設を退所し、家族と暮らし始めた。地元の大学生が運営する、障害児と健常児の交流会に関わりはじめ、会長になった。「学生と話すことで、障害に対する考え方を変えたかった」と、機関誌の中で蛯原さんは振り返る。 当時は地域で暮らしたい障害者は東京に引っ越すことが多く、蛯原さんも友人から「東京に来ないか」と誘われたこともある。しかし「茨城で生まれたから、茨城から社会を変えなくてはならない」という使命感から、茨城で生きていくことを決めた。仲間と一緒に障害者団体をつくり、「親が高齢になるなど、家族が介助できなくなったあとも、障害者が地域で暮らせる場所をつくってほしい」と、行政に働き掛けたこともあった。 40歳の頃、母親が体調を崩し、蛯原さんの介助ができなくなったため、施設に入所した。施設の中では限られた人にしか会えず、外出の機会も制限される生活だった。 それまで活動的だった蛯原さんは、おとなしくしていることができず、「もう一度、地域で生活したい」と思った。障害の進行により、以前より体は動かなくなっていたが、なんとか頬の筋肉でパソコンを操作できるようになり、2015年12月、「施設から出て、一人暮らしをしたい」というメールをつくば自立生活センターほにゃらに送った。 「一人暮らしを始めたら、今までの経験を生かして、障害のある仲間を支援したり、地域の人たちに障害について伝える活動がしたい」と蛯原さんは機関誌に綴っている。 車いすで散歩する練習から 重度障害者が介助者の介助を受けながら、一人暮らしをする場合、障害者自身が「今、何をするか」「夕食は何を食べるか」を考え、介助者に何をしてほしいか伝える必要がある。毎日、決められた生活リズムや食事の献立がある入所施設とは異なる。多くの障害者の一人暮らしを支援してきた自立生活センターには、障害者が一人暮らしを始めるための支援方法が蓄積されている。 一人暮らしを始める準備として、まず、介助者とのコミュニケーション方法や、介助者に指示を出して料理をする方法など、一人暮らしを始めるために必要な知識や技術を、すでに一人暮らしをしている先輩障害者から学んでいくのが一般的だ。蛯原さんから相談を受けた、ほにゃら事務局長で自身にも重度運動障害がある斉藤新吾さん(46)は、施設に通い、半年かけて一人暮らしに必要な知識などを伝えた。 一通りの知識を伝え終わると、ほにゃらが借りているアパートで、介助者のサポートを受けながら数日過ごす「宿泊体験」を始めるのが一般的だ。しかし、蛯原さんの場合、施設ではほとんどベッドの上にいて、自分の車いすも持っていなかった。そのため、まずは車いすを借り、介助者と一緒に施設周辺を散歩したり、近所に買い物に行くことから始め、車いすに何時間乗っていられるかを試した。施設からほにゃら事務所まで車で移動しても、蛯原さんが体力的に耐えられると判断できたことから、2017年8月から宿泊体験を始めた。 平均3~5年 宿泊体験を何泊から始めるか、最初から何人の介助者が関わるかも、本人の障害の状態や必要な介助内容によって異なる。ほにゃら代表の川島さん(39)は、「蛯原さんの場合、自分では体をほとんど動かせず、介助者が蛯原さんの体を動かす場合も、注意しないと関節に痛みが生じるなど、介助で注意すべき点も多かった。蛯原さん自身の体力がどのくらいあるのかも分からなかったため、1泊2日の宿泊体験から始め、少しずつ宿泊体験の日数や関わる介助者を増やしていった」と振り返る。 蛯原さんは24時間、介助を必要としていた。宿泊体験中、介助者が慣れるまでは、事故防止のためもあり、日中は介助者2人で対応した。夜間は介助者1人で対応したが、介助者は他の利用者の介助にも行く必要がある。また、それまで外出の機会が制限されていた蛯原さんは、施設からほにゃらまで片道1時間かけて車で移動するだけでも体力を使った。ほにゃらの介助者の勤務調整の面でも、蛯原さんの体力の面でも、宿泊体験は多くても月1回が限度だった。 インフルエンザが流行する冬は、感染予防のため施設から外出することが難しく、また蛯原さん自身が体調不良で入院し、宿泊体験を中止せざるを得ないこともあった。それでも2年2か月かけて、14回の宿泊体験をおこなった。その間に、どうしたら介助者1人でも安全に介助できるか、様々な方法を試し、その都度、蛯原さんの感想を確認しながら考え、蛯原さんに合った介助方法を確立していった。 川島さんによると、施設に入所している障害者が地域で一人暮らしを始めるまで平均3~5年かかる。蛯原さんが入所していた施設はほにゃらから離れていて、宿泊体験以外では月に1回ほどしか施設に面会に行けず、一人暮らしに向けての具体的な話をなかなか進められなかったことも、一人暮らしを始めるのに時間がかかった理由だと、川島さんは話す。(川端舞) 続く

障害者の権利のために闘ったリーダー 《電動車いすから見た景色》22

【コラム・川端舞】今月、障害者団体「つくば自立生活センターほにゃら」がつくば市の中学校等に寄贈した「わたしが人間であるために—障害者の公民権運動を闘った『私たち』の物語」(現代書館)。アメリカの障害者リーダーであるジュディス・ヒューマンの自伝本だ。 アメリカは、障害児が最大限に可能な範囲で、障害のない子どもとともに教育を受けることを原則としている。しかし、ともに学ぶことを法律で規定するまでには、障害者たちの長い闘いがあった。 幼少期から車椅子で生活していたジュディスは、障害児だけが通う学校で学び、自分はアメリカの一般の教育制度から排除された存在であることを自覚していく。同じ学校に通う障害のある仲間たちと、なぜ自分たちは障害のない子どもたちと異なる扱いを受けているのか話し合うこともあった。 大学入学後は、階段がある校舎に入れないなど、障害のために不利益を被ることがあっても、同じ経験をする障害学生同士で話し合ことで、障害という問題の原因は自分たちにあるのではなく、自分たちを受け入れない社会にあるのだと考えるようになった。 障害者が他の人と同じように学校や社会に参加できないのは、社会の在り方に問題があるという考え方を「障害の社会モデル」という。私は障害者運動に関わる中でこの考え方を学んだが、その後も無意識に障害のある自分が悪いと思ってしまう癖が残っている。社会モデルの考え方を自分の経験から導き出したジュディスたちの聡明さを見習いたい。 悩みながら戦い続ける ジュディスは上院議員のアシスタントとして、障害児が障害のない子どもとともに教育を受けることを保障する法案の起草にも関わった。幼少期に障害のない友達と同じ学校に行けない悔しさを味わったジュディスは、「傷だらけの経験を、子どもたちの人生を変える法律の立案に役立てられることにワクワクした」と書いている。 私も通常学校で学んだ障害者として、障害児教育をよりよくしたいと思っているが、障害児教育に関わることは、自分の辛かった経験とも向き合い続けることになり、痛みを伴う。 しかし、障害者が他の人と平等に生きる権利を獲得するために政府などと闘い続けたジュディスも、差別を受けた時は動揺したり、政府と闘う前日まで自分は正しいのか悩んでいた。私も悩みながら、インクルーシブ(障がいのあるものとない者が共に学ぶ)教育を実現するために自分のできることをやり続けたい。(つくば自立生活センターほにゃらメンバー)

障害者の権利のために闘ったリーダー 《電動車いすから見た景色》22

【コラム・川端舞】今月、障害者団体「つくば自立生活センターほにゃら」がつくば市の中学校等に寄贈した「わたしが人間であるために—障害者の公民権運動を闘った『私たち』の物語」(現代書館)。アメリカの障害者リーダーであるジュディス・ヒューマンの自伝本だ。 アメリカは、障害児が最大限に可能な範囲で、障害のない子どもとともに教育を受けることを原則としている。しかし、ともに学ぶことを法律で規定するまでには、障害者たちの長い闘いがあった。 幼少期から車椅子で生活していたジュディスは、障害児だけが通う学校で学び、自分はアメリカの一般の教育制度から排除された存在であることを自覚していく。同じ学校に通う障害のある仲間たちと、なぜ自分たちは障害のない子どもたちと異なる扱いを受けているのか話し合うこともあった。 大学入学後は、階段がある校舎に入れないなど、障害のために不利益を被ることがあっても、同じ経験をする障害学生同士で話し合ことで、障害という問題の原因は自分たちにあるのではなく、自分たちを受け入れない社会にあるのだと考えるようになった。 障害者が他の人と同じように学校や社会に参加できないのは、社会の在り方に問題があるという考え方を「障害の社会モデル」という。私は障害者運動に関わる中でこの考え方を学んだが、その後も無意識に障害のある自分が悪いと思ってしまう癖が残っている。社会モデルの考え方を自分の経験から導き出したジュディスたちの聡明さを見習いたい。 悩みながら戦い続ける ジュディスは上院議員のアシスタントとして、障害児が障害のない子どもとともに教育を受けることを保障する法案の起草にも関わった。幼少期に障害のない友達と同じ学校に行けない悔しさを味わったジュディスは、「傷だらけの経験を、子どもたちの人生を変える法律の立案に役立てられることにワクワクした」と書いている。 私も通常学校で学んだ障害者として、障害児教育をよりよくしたいと思っているが、障害児教育に関わることは、自分の辛かった経験とも向き合い続けることになり、痛みを伴う。 しかし、障害者が他の人と平等に生きる権利を獲得するために政府などと闘い続けたジュディスも、差別を受けた時は動揺したり、政府と闘う前日まで自分は正しいのか悩んでいた。私も悩みながら、インクルーシブ(障がいのあるものとない者が共に学ぶ)教育を実現するために自分のできることをやり続けたい。(つくば自立生活センターほにゃらメンバー)

米国発「私たち」の物語を中学校に つくばの障害者団体が寄贈

障害者団体「つくば自立生活センターほにゃら」(つくば市天久保)が2日、同市内の中学校・義務教育学校16校に『わたしが人間であるために―障害者の公民権運動を闘った「私たち」の物語』(現代書館)を寄贈した。アメリカの運動家で、世界的な障害者リーダーであるジュディス・ヒューマンさんの自伝本。重度の障害があっても自分らしく生活できる地域づくりを目指している同センター代表の川島映利奈さん(39)は、つくば市役所での寄贈式で「障害のある子とない子が小さい頃からともに過ごす大切さを感じてもらえたら」と話した。 「分離こそ差別」 ジュディスさんは障害のために学校から排除され、「なぜ友達と同じ学校に行けないのか」と疑問に思った経験から、障害を理由に学ぶことや働くこと、地域で暮らすことから排除される社会と闘ってきた。障害が医学的な問題ではなく、人権の問題として扱われるために、1970年代からアメリカの法制度の整備に尽力した。 障害女性としての葛藤を抱きながらも、障害者が「人間であるために」当たり前の権利を獲得すべく、仲間とともに闘ってきた彼女の半生が記されている。 日本語版は2021年7月に刊行された。 四六判336ページ、2750円(税込)。翻訳に当たった曽田夏記さんは、都内の自立生活センターの職員であり、自身も障害を持ち、地域での障害者支援や全国での権利擁護運動に従事する。訳者あとがきの中で、曽田さんは「差別を受け、人間として扱われず、障害者の公民権運動を始めざるを得なかった障害者自身が語るストーリーを日本にも伝えたかった」と記している。 川島さんは寄贈式で、「障害のある子とない子が小さい頃からともに過ごすことで、お互いを知り、認め合うことができる。本書で『分離こそ差別』と書かれているが、分離することでお互いを知る機会が減ることが一番の課題。これから社会を作っていく生徒の皆さんが、少しでも障害者の歴史や課題を知り、考えていくきっかけになれば」と話した。 生徒にも先生にも読んでほしい 贈呈式に参加した森田充教育長は、「私たちは一人ひとりの違いを尊重し、互いに支え合って生きていける社会を作ることができる子どもたちを育てたいと思っている。本書には主人公が決して後ろ向きにならずに生きていく姿が描かれていて、生徒だけでなく先生にも読んでほしい」と感謝を伝えた。 寄贈された本は近日中に各学校に1冊ずつ配布される予定。同センターは2年前に、同じ志を持って東京で活動している重度障害者、海老原宏美さんの著書『わたしが障害者じゃなくなる日―難病で動けなくてもふつうに生きられる世の中のつくりかた』(旬報社)を、つくば市内の小学校・義務教育学校に寄贈している。(川端舞)

障害者の私だからできること 《電動車いすから見た景色》21

【コラム・川端舞】私は時間管理が下手である。自分の体力を過信し、いろんな予定を入れてしまう。よくよく考えれば、私は話すのにもパソコンを打つのにも他の人より倍の時間がかかるのだから、他の人と同じ感覚で予定を入れたら、パンクするのは当たり前なのだが…。でも、やりたいことはどんどん出てきてしまう。 最近、そんな時は自分がやろうとしていることが「障害者でもできること」なのか「障害者だからできること」なのかを考えるようにしている。「障害者でもできること」のほとんどは、他の人でもできること。障害のない人に任せた方が、短時間で効率的にできることがほとんどだ。もちろん、あえて障害者が時間をかけてやることで、独特の味わいが出てくることも多々あるが。 しかし、障害があってもなくても、1日は24時間。時間は平等に過ぎていく。せっかく時間をかけて何かをするなら、「障害者だからできること」を追求したい。 例えば、このコラムを通して、障害者の私が考えていることを多くの人に発信すること。もちろん、私は障害者の代表ではないし、大した考えを持っているわけでもないが、私の日常を描き続けることで、「障害者も悩みながら生きている、普通の人間なのだ」と多くの人に思ってもらえれば、それは「障害者だからできること」になるのではないか。 何より、電動車いすに乗っている私が街中に出かけ、多くの人の目に入ることで、障害者が街中にいることが当たり前になる。それは障害者を含め、誰もが生きやすい社会につながる。 そんな堅苦しいことをいつも考えているわけではないが、「障害者だからできること」は思ったよりたくさんある。「障害者でもできること」を追及するあまり、「障害者だからできること」をおざなりにするのはもったいない気がする。 社会とまっすぐ向き合う強さ しかし、社会一般では、障害者は劣っている存在だとみなされ、「障害者でもできること」を探すのに本人も周囲も必死になりがちだ。大学時代までの私がまさにそうだった。 そのような社会で、「障害者だからできること」を主張すると、煙たがられることもあるかもしれない。それをすることは、ある意味、自分の弱さを社会にさらすことにもなり、時には痛みを伴う。しかし、それで少しでも多様な人を受け入れられる社会になるなら、逃げずに向き合う人間になりたいと思う。もし私が本当に間違いを犯したときは、きっと信頼する仲間が叱ってくれるだろう。(つくば自立生活センターほにゃらメンバー)

障害者の私だからできること 《電動車いすから見た景色》21

【コラム・川端舞】私は時間管理が下手である。自分の体力を過信し、いろんな予定を入れてしまう。よくよく考えれば、私は話すのにもパソコンを打つのにも他の人より倍の時間がかかるのだから、他の人と同じ感覚で予定を入れたら、パンクするのは当たり前なのだが…。でも、やりたいことはどんどん出てきてしまう。 最近、そんな時は自分がやろうとしていることが「障害者でもできること」なのか「障害者だからできること」なのかを考えるようにしている。「障害者でもできること」のほとんどは、他の人でもできること。障害のない人に任せた方が、短時間で効率的にできることがほとんどだ。もちろん、あえて障害者が時間をかけてやることで、独特の味わいが出てくることも多々あるが。 しかし、障害があってもなくても、1日は24時間。時間は平等に過ぎていく。せっかく時間をかけて何かをするなら、「障害者だからできること」を追求したい。 例えば、このコラムを通して、障害者の私が考えていることを多くの人に発信すること。もちろん、私は障害者の代表ではないし、大した考えを持っているわけでもないが、私の日常を描き続けることで、「障害者も悩みながら生きている、普通の人間なのだ」と多くの人に思ってもらえれば、それは「障害者だからできること」になるのではないか。 何より、電動車いすに乗っている私が街中に出かけ、多くの人の目に入ることで、障害者が街中にいることが当たり前になる。それは障害者を含め、誰もが生きやすい社会につながる。 そんな堅苦しいことをいつも考えているわけではないが、「障害者だからできること」は思ったよりたくさんある。「障害者でもできること」を追及するあまり、「障害者だからできること」をおざなりにするのはもったいない気がする。 社会とまっすぐ向き合う強さ しかし、社会一般では、障害者は劣っている存在だとみなされ、「障害者でもできること」を探すのに本人も周囲も必死になりがちだ。大学時代までの私がまさにそうだった。 そのような社会で、「障害者だからできること」を主張すると、煙たがられることもあるかもしれない。それをすることは、ある意味、自分の弱さを社会にさらすことにもなり、時には痛みを伴う。しかし、それで少しでも多様な人を受け入れられる社会になるなら、逃げずに向き合う人間になりたいと思う。もし私が本当に間違いを犯したときは、きっと信頼する仲間が叱ってくれるだろう。(つくば自立生活センターほにゃらメンバー)

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