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土浦の花火100年の紡ぎ⑺《見上げてごらん!》54

【コラム・小泉裕司】土浦の花火が誇る圧倒的な質の高さ、それを支えているのは全国から集結する花火師たちの存在である。1926(大正15)年の第2回大会には、すでに日本各地の名工たちが土浦に集っていた。今や国内屈指の花火師たちが最新の技と魂を込めて競い合う「品評会」へと進化した。

花火の格調を支える審査員

このように発展してきた背景には、花火師たちのたゆまぬ努力はもちろんであるが、厳正に作品を評価し、日本一の花火師を選ぶ「審査員」の存在抜きに語ることはできない。昨年の第94回土浦全国花火競技大会の審査委員会は、学識経験者、火薬専門家、行政担当者、芸術家など10人で構成され、横浜国立大学上席特別教授の三宅淳巳氏が委員長を務めた。

実は、この審査委員長には、長年にわたり東京大学の火薬・安全工学系の専門家が務めてきた歴史がある。1968年の疋田強氏(元東大教授)を皮切りに、吉田忠雄氏、田村昌三氏、そして前委員長の越光男氏へと続く系譜は、半世紀以上に及ぶ。昨年の三宅氏も越氏の弟子にあたり、その伝統が引き継がれている。

同様の傾向は、秋田の「大曲の全国花火競技大会」(委員長=元東大教授の新井充氏)にも見られる。

なぜ東大の先生なのか? 市役所には明確な記録は残っていないが、かつて国の役人などの「あて職」中心だった審査員構成に、専門性と権威性を取り入れるための人選だったと推測される。ちなみに、第2回の審査長・高瀬清二郎氏が元軍人であったように、大会創設の経緯(航空殉職者の慰霊)や時代背景を踏まえると、戦前は軍関係者がその役割を担っていたようである。

審査員を40年続けた村井一氏

競技開始前の審査打合会で説明する村井一氏(筆者撮影)

こうした審査体制のなかで、第36回(1967年)から第75回(2006年)まで、40年にわたり審査員を務めたのが村井一氏(1919~2009)である。

村井氏は、花火に欠かせない火薬の原料販売を行う第一薬品興業(現在の日本カーリット)の創業者であった。煙火業界の生き字引的存在から、新しい原料の情報を全国の花火業者に伝え、火薬の配合などをアドバイス。元日本煙火協会の顧問として、わが国煙火産業の安全と技術水準の向上に寄与した功績により黄綬褒章を受章している。

土浦市においても、厳正な審査で大会の格調を高め続け、さらに安全と技術面から運営全般に携わるなど、審査員の枠を超えて大会の発展に大きな足跡を残した。これらの尽力に対し、1995年には市政功労賞が授与されている。村井氏は、大曲大会においても同時期に25年間審査員を務めていた。

筆者は土浦市役所に在職中、審査員係として事前打ち合わせや現場での審査に立ち会った。その際、村井氏の一見穏やかでありながらも、一本芯の通った「花火哲学」に深く魅了された。今の「花火な自分」があるのは、村井氏のおかげであると言っても過言ではない。

現在の土浦の花火は、村井氏のように技術と安全の両面から支えられ、大曲と双璧をなす競技大会として全国に知られるまでになったのである。本日はこれにて打ち留めー!(花火鑑賞士、元土浦市副市長)

<参考文献>
「日本煙火協会参拾年史」(日本煙火協会、1993年)
「新訂現代日本人名録2002」(紀伊國屋書店、2002年)
「大曲の花火 100年の魅力」秋田魁新報社、2010年)
「花火と土浦」(土浦市、2018年)
「土浦の花火パンフレット」(土浦全国花火競技大会実行委員会、1959年以降)

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