水曜日, 10月 21, 2026
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軽井沢の万平ホテルを訪ねて《ふるほんや見聞記》20

【コラム・岡田富朗】万平ホテルは、1894(明治27)年、避暑地・軽井沢の地に創業しました。創業者・佐藤万平と宣教師たちとの出会いから始まり、「異国の地にあっても、故郷で過ごすようにくつろいでいただきたい」。そんな思いから生まれた最高級のホスピタリティを受け継いできた、日本有数のクラシックホテルです。明治から現在に至るまで、政財界人や、三島由紀夫、池波正太郎をはじめとする文士、多くの著名人に愛されてきました。ジョン・レノンが夏の定宿としていたことでも広く知られています。

アルプス館90周年

2024年、1894(明治27)年の創業から130年を迎えるにあたり、万平ホテルは前年から一時休館し、大規模な改修・改築工事を実施しました。建て替えるのではなく、より多くの労力をかけて、既存の美しい建物を生かしながら修復することを選択。ステンドグラスをはじめ、残すことのできるものはできる限り保存しながら、改修が行われました。

1996年 万平ホテル発行 「万平ホテル物語 軽井沢とともに100年」

ホテルの象徴である本館「アルプス館」は1936(昭和11)年に建造され、2026年で90周年を迎えます。「日光金谷ホテル」や「富士ビューホテル」なども手がけた久米権九郎による設計で、2018年には国の登録有形文化財に指定されました。木造建築が美しいロビーをはじめ、メインダイニングルームやカフェ、バーなど、館内には歴史を感じさせる空間が広がります。テラス側は今回の改修で窓を大きくし、明るく開放的な空間へと生まれ変わりました。

バーやカフェは宿泊客だけでなく、軽井沢の別荘に暮らす人々にとっても長く親しまれてきた社交の場であり、これまで数多くの逸話が残されてきました。

受け継がれるおもてなし

現在も、軽井沢を訪れるなら一度は泊まってみたいホテルとして、多くの人に愛されている万平ホテル。その魅力は、格式の高さや建物の美しさだけではありません。

「時代を越えて、何世代にもわたり訪れてくださるお客様が万平ホテルを愛し、その魅力をスタッフに伝え、それがまた受け継がれていく。初めて訪れた方にも『どこか懐かしさを感じる』とおっしゃっていただけます」と、広報担当の西澤さんは話します。お客様とともに歩んできた万平ホテルだからこそ、心のこもったおもてなしがあり、まるで自分の別荘を訪れたかのような心地よさを感じられる場所です。

映画監督の羽仁進は「高原文庫 第二十五号」で「万平は聖地であった」と寄稿していますが、長い歴史のなかで多くの人々を迎えてきた万平ホテルは、これからも軽井沢の「聖地」でありつづけるでしょう。2027年6月末まで、万平ホテルの歴史に思いをはせた「アルプス館90周年」を記念するメニューやプランが用意されています。(ブックセンター・キャンパス店主)

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